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『本年もお世話になりました』



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逝くもの、来るもの…
恵みと災害…
いろんなことのあった2019年も暮れようとしています。

みなさま。喪中のことで、年賀のご挨拶は欠礼させていただきますが、今年もほんとうに
ありがとうございました。
来る年が、穏やかな、いい年となりますよう祈っています。


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『中村哲さんの死を悼む』


中村哲さんが、アフガニスタンで銃撃により、命を落とされた。
もう・・・。絶句である。

中村哲さんとペシャワール会、彼と共にアフガンに緑を取り戻そうと働いていた現地の
人々の活動に、私は、この混迷する世界の問題の、一つの解決への道筋を見るような
気がして、ずっとその活動を気にかけ見守り続けてきた。

およそ4年前の2015年2月4日には、中村さんのことをこのブログの記事にしている。

世界は、この稀有の志を持った人…この、この上なく『無私』のひとを、失ってしまった・・・

中村哲さんがどういう人であったか(過去形で書かなければならなくなってしまった!)、
どうかどうか。彼の志を無にしないため、彼の、人間を信じた、人類の壮大な実験
ともいえる事業を無駄にしないため、これを後世に受け継いでいくために、少しく長い文章
ではありますが、記事を再掲しますのでどうぞお読みください…

中村哲さんの、そして彼と行動を共にしていて同じく銃撃死されたかたがたのご冥福を
こころからお祈りし、心からその死を悼みます・・・・・・・・・

『共に生きるということ』




                       ***

     『共に生きるということ』 
            (2015年2月4日の私のブログ記事の再掲)


みなさん。私のブログの右側の方の、プロフィール欄の下に、『ペシャワール会』の
URLが貼り付けてあるのにお気づきになられましたでしょうか。
実は、昨年12月から貼り付けています。
湯川さんや後藤さんのことを知る前…そう。実は、1年半前の夏、私は日本人が
戦前、戦中、戦後をどうふるまったかということに遡及して、再びきな臭い戦争の匂いの
し始めた今を考える手立てにしようと、戦争文学についての記事を書いていました。
その第1回が火野葦平の『土と兵隊』『麦と兵隊』についてだったのですが、
ここを訪れてくださる方々の中には、ご記憶の方もおいででいらっしゃると思います。

その、『麦と兵隊』についての記事の最後に、私は、火野葦平の甥にあたる医師、中村哲さんの
ことについてちょっと触れ、いつか中村さんについて書きたいと記しています。
http://clusteramaryllis45.blog61.fc2.com/blog-entry-1286.html

ずうっと、中村哲さんの活動を紹介したいと、記事を心に温めていたけれど、
いよいよ書くときが来たように思います。
それは、中村さんたちの活動が、今回のような、過激武装集団によるテロをどう食い止めるのか、
どうすれば根絶の方向に近づいて行けるのか、武力によって掃討すれば問題は解決するのか、
それともただ手をこまねいて、遠くから日和見していればいいのか、…などといった難しい問いへの
一つの『解答』とは言えないけれども一つの『示唆』であるように、私には思えるからです。

以下の紹介文は、主としてペシャワール会のホームページと、中村哲さんの著作
『天、共に在り』などからのまとめです。
お断りしておきますが、中村さんたちの活動は、特定の宗教や政治思想…国家、
人種、民族などの垣根を超越して行われているものです。
ある政治的志向を持つ(漠然としたものですが)私が勝手にここで取り上げているからと言って、
イコール中村さんたちの活動では決してありません。私のこの記事が、もし特定の方向へ
傾いて読めるとすれば、それは私の書き方が悪いのであって、ペシャワール会とは
関係ないものであることをお汲みおきください。
 

                        *

中村哲医師。1946年福岡生まれ。九州大学医学部出身 。
ペシャワール会は、その中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で、
1983年9月に結成された国際NGO(NPO)団体である。

1984年、中村医師は、パキスタンのペシャワール・ミッション病院ハンセン病棟に赴任。
きっかけは、1982年、彼が上記病院を見に行って、あるドイツ人の女医と会ったことだった。
彼女はカトリックのシスター。20年間をパキスタンのハンセン病診療に捧げている人だった。
当時のパキスタンには全土で2万人もの患者がいるのに、ハンセン病専門医は
わずかに3名という状況。ペシャワール・ミッション病院のあるパキスタン北西辺境州でも
登録患者だけで2400人、実数は5倍以上という中で、専門医はいないという状況だった。

中村医師は、シスターからの依頼を進んで受け、ミッション病院のハンセン病棟担当医に
なった。患者2400名に対し病床は16。ピンセット数本と聴診器1本という装備しかない。
そのような圧倒的に医療器具や手術設備が不十分な環境の下で、彼は10年間
診療活動を続けた。

中村医師がミッション病院に赴任した1984年頃。ペシャワールのすぐ向こうの
アフガニスタンでは、凄惨な内戦が続いていた。
1978年に誕生したソ連寄りの共産政権下では、政府に反対するイスラム主義者への
激しい弾圧が行われていた。これに対して反乱が全国に拡大。
ソ連は、政権の危機と見て、1979年12月、アフガニスタン侵攻する。
ソ連=共産政府は、農村共同体を封建制の温床と考えて、これを徹底的に破壊。
アフガン農村の約半分という5000もの村落が爆撃によって破壊され、直接間接の死者
200万人もを出した。農民たちは国境を越えて避難。1985年までにパキスタンに
270万、イランに150万以上もの難民が逃れたという。
共産主義政権とソビエト連邦軍に対し、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)と呼ばれた
抵抗運動の兵士たちが戦った。ソ連側の圧倒的近代的火器兵器に対し、抵抗運動の
兵士たちはライフルで戦っていたという。
1984年、アメリカは武器支援法を可決して軍事介入。ペシャワール郊外に軍事訓練施設を 置き、
CIA・パキスタン軍部の協力で『国際義勇軍』を組織。ここに20以上のイスラム諸国から来た
20万人の義勇兵が加わった。サウジアラビアの駐アフガニスタン公式代表となったのが、
ウサーマ・ビン=ラディンである。

中村さんたちは、1986年、パキスタン国内のアフガン難民への診療を本格的に開始。
更に、
アフガニスタン国内にも活動範囲を広げ1991年12月、その拠点として、ダラエ・ヌールに
最初の診療所を開設。以来、
アフガニスタン北東部の3診療所を中心に、山岳無医村での医療活動を始めた。

ハンセン病多発地帯は、腸チフス、マラリア、結核、アメーバ赤痢など他の感染症の
多発地帯でもある。ハンセン病の人しか診ませんというわけにはいかない。
ハンセン病の患者の出身地は、山岳地帯の無医村が多い。それで、そういう山岳地帯の無医村に
ハンセン病も、一般診療も行う病院を作ろうと考えたのである。

1989年。ソ連軍が撤退。200以上もの国連組織やNGOがペシャワール入りして
さまざまな支援活動を開始した。
(しかし、1991年、湾岸戦争がはじまると、それらは瞬く間に引き揚げ。)
1998年。中村さんたちは、恒久的基地病院として
PMS(ペシャワール会医療サービス)病院
をパキスタンのペシャワールに建設。
当時のアフガニスタンの政治情勢は、ソ連撤退後の長年の内戦で、無秩序状態にあった。
ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)のアフガニスタン・イスラム国が成立したが、内戦拡大。
タリバンがパキスタンの北西辺境州から勢力を拡大。
1996年、タリバンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。
アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反タリバンで一致、
北部同盟となる。この頃、スーダンを国外追放をされた、ビン=ラーディン率いるアル・カイダが
アフガニスタン国内に入り、タリバンと接近。
1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでタリバンが勝利、アフガン全土の9割を掌握した。
ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カイダ引き渡し要求を
タリバンが拒否したためにアメリカとの関係が緊張化する。
タりバンは、2001年9月の米国同時多発テロ事件のころまでに国土の大部分を
支配するに至っていた。

2000年前後。中央アジアは深刻な旱魃にさらされていた。
アフガニスタンでは最も被害が甚大で、人口の半分以上の1200万人が被災。
食糧生産は半分以下になり農地の砂漠化が進んで、400万人が飢餓線上、100万人が
餓死線上という事態になった。
農民たちは村を棄てて流民化。

「もう病気治療どころではない。水だ!」
栄養失調で抵抗力を失った子供たちが、川にかろうじて残った泥水を飲む。
下痢症などの腸管感染症にかかって命を落として行く…

中村さんは、病院の方は一応安定して機能しだしていたので、清潔な飲料水の獲得に注力していく。
その大干ばつに見舞われたアフガニスタンの村々で水源確保事業
を開始。
2006年までには最終的に
飲料用井戸約1600本を掘削。
それには、中村さんを助ける日本人青年たちだけでなく、現地の人々がタリバン、
反タリバンを問わず、こぞって協力した。
おかしいのは、井戸を掘るのに、掘削機で穴を開けたところへ爆薬を詰め粉砕するのだが、
中村さんらは,ロケット砲や地雷の不発弾を見つけては、火薬をそこから掻き出し、
『平和利用』した、というのである。そして作業には、内戦中に爆破が得意だった
元農民兵(ゲリラ)が大いに役立ってくれた、というのである!
これで、実に数十ケ村の人々が、離村をしないですむことになったのだという。

しかし、水だけではひとは生きていけない。食糧がなければ現金収入を求める出稼ぎ農民たちは
減らない。『傭兵』として内戦に仕方なしに関わっていく農民も減らない。
元来アフガニスタンは、農業国家であった。正確には掴めないが2400万くらいともいう
人口の8割以上は農民、遊牧民が1割、その他高山で林業に携わる者が数パーセント。
戦乱に陥る前はほぼ100%自給自足できていた民であった。
それが、長年にわたる侵略や内乱、そして旱魃などで、家々は破壊され、田畑は砂漠化。
食糧自給率が50%ほどに落ち込んでしまったのである。
食糧自給率50%と言っても、日本などのように農業以外の産業がたくさんある先進国と
殆ど農業で生きていっている他に産業のない国とではわけが違う。

中村さんたちは、砂漠化した田畑を回復することを次の目標にした。
ダラエヌール渓谷を中心に、農業用灌漑用水を得ることに着手。直径約5mの
灌漑用井戸13本
を掘削、
伝統的な地下水路カレーズを38ヶ所で修復した。


これで20数万名の人々が村を捨てずにすむことになった…

危機的な旱魃に対する国際救援は動かない一方で、国連安保理事会は1999年、
テロ行為の防止を目的とする決議を採択。タリバン政権に対しビン=ラディンと
アル・カイダ幹部の引渡しを求めた。しかしタリバンはこれに従わず、経済制裁が
行われることになった。
2001年1月。米英はアフガニスタンの国連制裁を強化する。食糧まで制裁することになった。
タリバン政権は、これに反発。過激な主張が力を持つようになった。
バーミヤンの仏像破壊が行われたのは、こうした中でであった。

2001年9月。アメリカ同時多発テロ。
米英のアフガン報復爆撃が激化する。事前に国連決議を必要としない集団的自衛権
の発動であった。
日本でも『テロ特措法』を成立させ、イージス艦をインド洋に派遣して給油活動に参加。
中村さんは、国会に招致されて、現地の事情を訊かれた。当時、日本は、『難民キャンプで
救援活動するNGOなどを守るために、自衛隊を派遣する』ことが検討されていたからである。
中村さんは、自衛隊派遣は有害無益、それより飢餓救援をと訴えるが、自衛隊派遣の
結論ありきの衆議院特別委員会には聞き入れられなかった。

政治は動かなかったが、しかし、ペシャワール会の呼びかけにこたえ、六億円にもなる
寄付が人々から寄せられた。中村さんたちは小麦と食用油を大量に買い付けて配給にかかる。
2001年10月、「アフガンいのちの基金」を設立し、空爆下、アフガニスタン国内避難民への
緊急食糧配給
を実施し、2002年2月までに15万人に配給。

10月7日。アメリカ軍が『不朽の自由作戦』の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。
中村さんによると、『ピンポイント攻撃』の実態は、『無差別攻撃』であったという。
市民たちは徒歩、タクシー、馬車で日夜市中を逃げ回った。タリバン政権の武器はライフルや
刀剣、対戦車砲以外にたいした武器を持っていなかった。
ほぼ無抵抗のものを相手に戦争が演出されるのを、中村さんは目の当たりに見ていた…
中村さんの記述を借りる。

『世界が捏造と錯覚で成り立っていることに愕然とせざるを得なかった。(中略)
いかに粉飾しようと、この戦争のツケは、暴力的報復として、やがて現れるだろう。
爆風で散乱した両親の死体を拾い集め、両親の屍に取りすがって泣いていた子供たちの
姿が心に焼きついて離れない。彼らが長じたとき…不憫な思いと共に、うそ寒いものを
感ぜざるを得なかった』


11月。カブール陥落。タリバン政権は消滅した。12月。ハーミド・カルザイを議長とする
暫定政府、アフガニスタン暫定行政機構が成立。

中村さんは、そうした首都カブールなどを中心とした政治の激動に関わりなく動いていたが、
それでもその活動も国連を中心とした復興支援ラッシュに翻弄される。
海外の援助団体が大挙押し掛けて大金を落とすと、極端な物価高騰が起こった。
基本物価は高騰し、さらでも貧しく食糧の少ない民の生活を直撃。
もともと少ない医師や技術者は乱立する他のNGOなどに高給で引き抜かれるなど、人材の
奪い合いも起こった。
2002年。中村さんが1991年から活動を続けていた奥地での3つの診療所のうち、
2つが、そうした医師や検査技師たちの引き抜きにあって、閉鎖せざるを得ないことになった。

その間も、旱魃と飢餓は続いていた…中村さんたちが掘った井戸も、水位が下がってきていた。
彼等が水確保に活動していた東部アフガニスタン、ナンガラハル州は、かつて豊かな穀倉地帯であった。
ケシュマンド山系、スピンガル山脈に挟まれた地形で、標高4千メートルを超す山々の
万年雪の雪解け水が、山麓をうるおしていたからである。
西にはカブール河、北からはクナール河が注ぎこみ、そこから取水していた。
しかし、地球温暖化によって万年雪が減少、氷河消失が進む。さらに春から夏の気温上昇で
一気に雪解けが起こってそれは大洪水となってあっという間に流れ去ってしまう。
日本における森林が果たしているような保水とコンスタントな水供給の役割を
万年雪や氷河がここでは果たしていた…その自然のシステムが狂ってきてしまったのである。
そこへもってきて少雨が重なり、困窮した農民たちは、アヘン栽培に手をつけるようになる!
ケシは乾燥に強く、小麦の100倍もの現金収入を得ることができるからである。

タリバン政権崩壊後も、治安維持のために米軍はアルカイダ掃討作戦という名目で
駐留を続けていた。モスクや学校などへの誤爆も後を絶たない。
農地を棄てた流民の群れは大都市に流入、さらには国境を越えて難民化していっていた。
中村さんは、アフガンの民を救うには、農業用水を確保して、砂漠化してしまった農地を
蘇らせるしかないと考える。
空爆下の食糧配給のために寄せられた『いのちの基金』約6億円で、農業復興に
全力を注ぐことを決意する。

(1)試験農場・・・乾燥に強い作付の研究
(2)飲料水源事業・・・現在の事業を継続。総数2000か所を目指す。
(3)灌漑用水事業・・・①枯れ川になった地域の井堰・溜池の建設
              ②大河川からの取水、第一弾としてクナール川ジャリババから
               ナンガラハル州シェイワ郡高地まで13キロメートルの用水路建設
               最終的に取水口からガンベリ砂漠まで約25キロメートルまでに延長。
               現地の人々に『死の谷』と恐れられているカンべり砂漠の一部を緑化する。

という壮大な計画を立てるのである。

25キロ、と一口に言うが、いったいどのくらいの距離であろう。
東京駅を起点にして、中央本線の距離でざっと考えてみると、
東京ー神田ーお茶の水ー水道橋ー飯田橋―市ヶ谷―四ツ谷―信濃町―千駄ケ谷
ー代々木ー新宿ー大久保ー東中野―中野―高円寺―阿佐ケ谷―荻窪ー西荻窪
―吉祥寺ー三鷹―武蔵境
この武蔵境で、25,7キロである…。

日本人が日本でするような河川工事を想っては、この計画の大変さは理解できないだろう。
日本には『圧倒的な物量と機械力、精密な測量と理論的研究を誇る、世界屈指の公共土木技術』
がある。
しかし、中村さんたちにはそのいずれも無かった。
まず、土木工学の専門家など周辺にいない。中村さんは医師である。その医師である中村さんは、
一から土木工学の基礎を学び始めた。基礎的なコンクリートの打設作業、セメントや鉄筋組みの
イロハ、流量計算や流路設計の書物を読み解くのに必要な数学…

けれども、仮に、日本の優秀な土木技師たちがいても…、圧倒的な物量、土木機械や資材が
手に入れられても、このアフガンの地で役に立つとは必ずしも言えない。
先進国のこうしたインフラ援助によくありがちな光景だが、一気に水利施設や学校や…、
といった構造物を作るのは容易なのである。
問題は、それら先進国と言われる人々の支援の去った後の、『維持管理』の方である。
例えば、せっかく水利施設を造営しても、日本だったら簡単に手に入れられるような
部品一つが壊れてしまったら、現地の人はそれを手に入れられないのだから、それでお終い、
ということになる。修理、維持の出来なくなった『先進国からの贈り物』は、ただの廃物廃墟でしか
なくなってしまう…
修理、維持、管理を現地の人々自らが長く続けていけることの方が難しくて大事なのである。

中村さんは、そうした『国際援助』というものの支援のありかたの、時にちぐはぐで
あることをよく知りつくしている…
中村さんたちがアフガニスタン東部奥地でやっていた3か所の病院のうち、2か所を
閉鎖せざるを得なくなったのも、国際援助ブームによる物資の高騰や人材の奪い合いという
こともあったけれど、中村さんたちの病院も政府の意向で『国際医療援助(AMI)』という
組織の傘下に入ることを余儀なくされ、そこでは米国国際開発局のルールが大半はコピー
されて行われることになったということもあった。
ルールに曰く、『分娩室を設置すること』。しかし、現地の実態は、農村では診療所が参院の役割を
する習慣はなく、家庭分娩が普通なのである!誰も来ない分娩室の無駄・・・

いつか自分がいなくなっても…現地の人々が、現地にある資材で半永遠に維持して
いける灌漑施設を…。

中村さんは、現地のは無論、日本の昔からの水利施設を徹底して研究し見てまわった。
故郷福岡県の筑後川、矢部川、熊本県の菊池川、緑川、球磨川沿い…
…そうして、コンクリートの代わりに、『蛇籠(じゃかご。ふとん籠)』というものに辿りつく。
蛇籠というのは、昔の日本人が、竹で籠を編み、そこに石を詰めたもの。それで造岸して
いくのである。蛇籠を積み上げた背面には、柳を植える。すると無数の毛根が、蛇籠の
石の間に伸びて、蛇籠の強靭性を増してくれるのである。
日本に無数にあった竹はないけれども、針金さえ手に入れれば蛇籠は容易につくれる。
このやり方なら、アフガニスタンに無尽にある石や岩を資材として何よりコストがかからないし、
現地の人々が自分たちで容易に修復できる。しかも、石で家を作り、井戸を築き、
水路を築いてきたアフガンの農民たちは、皆が生まれついての石工である!
柳の根っこでしっかり結びあわされた蛇籠は、小さな魚などの住みかともなり、生物多様性まで
生むのである!

クナール側の夏の大洪水にも備えなければならない。用水路の取水口が壊れたり、
大量の土砂が水路に堆積したりすることを防止するにはどうしたらいいか…
中村さんは、坂東太郎(利根川)、四国三郎(吉野川)と並んで、日本三大暴れ川と
言われるもののひとつ、福岡県筑後川(筑紫次郎)の山田堰を研究する。
取水口に一気に水が押し寄せないようにする用水路、そこへ導く地点の水量を
和らげるための『斜め堰』の考え方…、『舟通し』や『土砂吐き』の仕組み…
綺麗な水をとるため、流水量を調節するための『堰板方式』の採用…
『溜池による貯水』……。学ぶこと、やらなければならないことは山ほどあった。

中村さんの計画の要諦は、農民たちが、用水路の修理、維持管理を続けていけることである。
でも、自分たちが…中村さんがいなくなったら…
そうなっても、地元の人びとが自分たちで用水路を維持し、田畑を守ってそこで
生活を続けていける仕組みを構築しておかねばならない…

中村さんは、用水路の終点、ガンベリ砂漠を緑化して、そこに村を作り、その村に
自分たちが技術指導し、自分たちと一緒に働いてきた農民たちを定住させることにした。
彼等が水路の終点にある自分たちの農地を守るためには、25キロの水路を
守らなければならない…一連の技術を習得した彼等に後を託すことによって、
彼等が後継のものたちに技術伝授をし…半永久的に水路を守っていける…。

そう考えての知恵である。
毎日、5~600名もの現地の人々が中村さんと働いた。

その間、米軍による誤射事件、地方軍閥の妨害、反米暴動、技師たちの脱走、
裏切り、盗難、内部対立、対岸の住民との角逐、用地接収を巡る地主との対立…
大洪水…大変なことも山ほどあった。信頼する日本人スタッフの青年、伊藤和也さんが、
誘拐殺害されるという悲劇もあった……
アフガンの治安の悪化も鑑み、計約50名の日本人スタッフを帰国させ、途中からは中村医師だけが
残って現地の人々と作業を進めてきた…
彼が30年で築き上げた人びととの信頼の絆と人脈が、さまざまな交渉事や、危険から身を守ることや
作業の組織化や…あらゆることで中村さんを支えた。

しかし、そうした数々の、言うに言い尽くせぬ困難を乗り越え、2007年、ついに第一期工事終了。
クナール川から13キロメートルの水路が完成し、途中の地を潤して、1200町歩の広大な田畑が復活した。
20年以上無人だった荒野に農民たちが帰ってきて、家々が建ち並び始め、村々と緑の田畑が
忽然と姿を現した、のである。
第二期工事は、その水路をさらに10キロメートル延長して、さらに2000町歩の緑地を
回復し、最終的には、ガンベリ砂漠に横断水路を作り、砂漠に広大な開墾地を作るというものだった。
2010年2月、クナール川から取水して、マルワリ―ド用水路を経て、ガンベリ砂漠を潤してから
再びクナール川に戻すという、延々25キロメートルの灌漑水路、プラス分水路16,7キロを作る
という壮大な計画は、2003年から実に7年の年月をかけて完遂された。

一日送水量40万トン、灌漑面積3120ヘクタール(町歩)、大小の貯水池12、水道橋5、
サイフォン12、地下トンネル水道1、橋梁26、取水門1、分水門33。

総工費約14億円は、ペシャワール会に寄せられた会費と寄付金で賄われた。
仲村さんはさらに、子供たちが安心して遊べるところ、人びとが集まれるところを…と、
学校も、モスクも建設している!

2014年。用水路流域には15万人が帰農
流水路沿いの砂防林は20万本の樹々。農地には2万本の果樹。さまざまな穀物、野菜、薪や建材、
家畜を飼う草地…、という緑の大地が出来たのである。

それはもう、この写真の上下の変化を比べて見ていただけば、私などがくどくど説明するより
一目瞭然、であろう。


スキャン0001




ぜひ、この下の映像を見て欲しい。
自分たちの村にもう一度住みたい…そこで家族とつつましくても暮らしていける
水利のある農地が欲しい…
山を越えて出稼ぎに行ったり、国境を越えて流民になったりしなくていい、
傭兵になったりしなくてもいい、当たり前の静かな暮らしが欲しい…
人びとの切羽詰まった真剣な想いが伝わってくるはずだ。
何よりも人々の気持ちの現れているのが、作業をしている時の彼等の顔の明るさだ!
その生き生きとした働きぶりだ。
作業には、日当も支払われた。日当を貰って、振り返り振り返り帰って行く
人びとの顔の嬉しそうなこと!
アフガニスタンは多民族国家である。パシュトゥーン人、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、
トルクメン人・・・
人々はほぼムスリムで、中村さんはクリスチャンである。
国や、民族や、宗教の違いがなんだというのだろう……


http://youtu.be/0Ed0cYN7iYw
http://youtu.be/gKGsnIXUzMk
http://youtu.be/H5jwEgsb6Yg
http://youtu.be/ztP_QP0k0sI

『緑の村と学校を作る(1)』
『緑の村と学校を作る(2)』


                    ***


中村さんの活動は、現地の人々の手で、主に現地にある材料で、しかも壊れても
自分たちで半永久的に修復して使い続けていけるというシステムの、実りある先例をこうやって作った。
だが、中村さんらの手だけでは、アフガニスタン全土の復興にはとても足りるものではない。
大旱魃や洪水を前に瑣末な政治論議は無用。そう考える中村さんは、ODAの支援も借りて、
これから、ペシャワール会が独自で実現したマルワリ―ド堰、シェイワ堰、カマ第1堰に加え、
カマ第二堰、ベス―ド堰、カシコート堰と、周辺地域の取水設備の整備を共同事業。
ジャジャラバード北部3郡、計16500町歩の耕地復活と、65万人の農民の生活安定を
目指して、今も活動中
である…

中村さんの言葉。

『PMS(ペシャワール会)の事業は、一農民から大臣に至るまで、政府・反政府という
政治的枠を超え、幅広い人脈に支えられてきたと言ってよい。国境も人種も身分も超えた
協力が、事業に結集していたと言っても過言ではない』
『私は、ここに人間共通の、尊い何ものかをみる
『平等や権利を主張することは悪いことではない。しかし、それ以前に存在する
「人としての倫理」の普遍性を信ずる
そこには善悪を超える神聖な何かがある』



    

                 【ペシャワール会】
                  http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/

                誰もが押し寄せる所なら誰かが行く。
                誰も行かない所でこそ、我々は必要とされる。





お知らせ『会期末まであと少し』



『線の迷宮〈ラビリンス〉Ⅲ 齋藤芽生とフローラの神殿』展

 目黒区美術館

12月1日(日)まで


美術館目黒区


会期末まであと少し。12月1日までです。

画像は下記ホームページからお借りしました)

『目黒区美術館ホームページ』


『産経新聞記事』
『朝日新聞記事』
『毎日新聞記事』
『日本経済新聞記事』





『展覧会のご紹介』



『線の迷宮〈ラビリンス〉Ⅲ 齋藤芽生とフローラの神殿』展

2019年10月12日(土)~2019年12月1日(日)


美術館目黒区

画像は下記ホームページからお借りしました)

『目黒区美術館ホームページ』

『目黒区美術館インスタグラム』



『あのこに』


今日はお彼岸の中日です。

可愛かったあのこに、庭のお花をお供えしましょう。



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クウーちゃん。覚えているかな。
一日だけ、クウーちゃんの足が踏んだ、小さなお庭のこと。

今年は可愛い色の百日草が咲いたので、お飾りしてみるね。
去年の紫蘇のこぼれ種から今年咲いた紫蘇の花も飾ってみます。
ホトトギスの小さなお花も咲いたよ。
一緒に歩いた川べりの、ススキの穂とアカツメクサも添えてみましょう。


クウーちゃんを、ワシワシとその大きな手で撫でたパパさんは、お空に行っちゃった。
お空で会えたかな。
賢かったクウーちゃんは、きっと覚えていてくれるね。

『お彼岸』と言っても、パパさんはまだ川のこちら側にいるんだろうけれど、パパさんの
祭壇には、好きだったおはぎをお供えしました。




『晩夏に逝く』


夫が逝った・・・・・・

夏の終わりのことである。
誤嚥性肺炎から来た敗血症と多臓器不全によって。享年83歳。

悲しみの実感がまだ湧かない。
不思議なもので、その肉体が消えてしまったこと、あのひとがもうこの世に存在しないのだ、
ということが、まだ信じられないのである。
その、冷たくなってしまった顔に触れ、白髪交じりの髪を何度も撫で、その体がいよいよ
焼き場に送られて、そして。
その体の、あの大きく立派だった肉体の残滓が白い灰になってしまったのを、目の前に
見ていたはずだ。
かつて黒々として豊かであったその髪は、今書いたように晩年はだいぶその量が減って
半白髪になっていたけれど、遺髪として葬儀社の人に頼んで小さな綺麗な箱に入れて
もらって、その小さな包みもちゃんと祭壇の遺骨の箱の横に今、ある。

それなのに、その肉体の不在がいまだに実感としてぴんとこないのである。

ただ・・・。
そのひとの『存在』の不在を、・・・胸を突かれるように痛切に感じるときがある。
それは、夫と過ごしていた日常の、当たり前の動作を一人でしているときである…

例えば、夕方、洗濯物を取り込んでバスタオルなどを畳んでいるとき。
例えば、入院中のある日、「うちに帰ったら、何が一番食べたい?」と私が訊ねた時、
「トースト」という思いがけない返事が返ってきた。そのトーストを、朝、自分一人のために
準備しているとき。
例えば、この夏中、彼の入院先の病院へ私は洗いあがった洗濯物などをもって
バスで通っていたのだが、そのバスが横を通り過ぎていくのを見たとき。
例えば、テレビのリモコンを操作しているとき・・・。

ああ…もう二度とパジャマやバスタオルなど夫の洗濯物をして、干しあがったそれを持って
バスに乗って病院に行くこともないのだな…と思う。
以前、ブログで、『夫と二人の朝食にはこんなものを食べています』、と、トーストや
夫が好きだったヨーグルト(蜂蜜あるいはベリー類など手作りの果物のジャムのせ)、
コーヒー、あとは日替わりの副菜」などの朝食を,きちんとお盆にセットして、花を飾った
テーブルで二人食べている、という記事を載せたけれど、夫は朝は毎日トーストを食べたがった。
昔はそれほどパンなど好きではなかったはずなのに、要介護の状態になってあたりからか、
『夜もトーストでもいいよ』などとまで言うようになったのは、夫は夫なりに、きちんとお盆に
セットされた朝食を、小鳥の来るのが見える窓辺で食べる日常を大切なものに感じて
いてくれたのかなあ、と思うのである。
そのトーストの朝食を、もう二度と私は夫のためには作れないのだなあ、とふと思うと、
胸がずきん!と突かれる思いがするのである。

夏の暑い盛りに、バスを下りてから続く緩い上り坂の病院までの道が、呼吸器が弱くなって
しまったこの身にはつらいなあ…と思っていたのに、今、その同じバスが病院のあった町の方へ
向かうのを見ると、またそれに乗って病院に行きたくてたまらなくなるのである。
もうたとえそこへ行っても、あの人はいないとわかっているのに。

大部屋で落ち着かない見舞いの環境。だが、そこでそれでも二人して大相撲名古屋場所を
見ていたっけ。もうあまりはっきり口がきけなくなって会話がほとんど成り立たなくなって
いたのだけれど、それでも夫もやはり炎鵬や翔猿などの小兵力士の勝敗を気にしていて
いた・・・
「横綱の取り組みが終わるまでここで一緒に観ていきなさいよ」と夫が目顔で伝えるのを
振り切って5時半ごろには病院を後にしていた私。
なんでもっとずっと一緒にいてやらなかっただろう!
・・・・・・今、テレビでは大相撲秋場所をやっている。炎鵬は今場所も頑張っている。
同じく私の好きな力士の一人、隠岐の海も今場所は全勝で先頭を走っているようだ。
だが、私は今、ほとんど大相撲を含めてテレビを見ていない。

病院のベッドに備え付けのテレビの、あの、多くの患者の苦しみや悲しみを知る、
だいぶ古びて薄汚れたリモコンのことを思うと、また胸がきゅうっとする。
思えばもう最期に近い日々、夫はリモコンを操作することは無論、テレビを見る力も、
音を聴いている力さえすでになかった。
・・・家で。病院で。とりとめもない会話をしながらとか、ただぼうっと夫と二人、
テレビを見ていたあの時間は、なんと実は大切なものだったんだろう!


今。台風15号がもたらした千葉県などを中心とした停電や断水、家屋の損壊などの
大きな被害。そこで不安や不便に耐えている人々を想うと、たまらなくなる。
どうか一刻も早く電気や水などの大事なインフラが回復しますように。

『いつもと変わらぬ日常がそこにあるということ』
そのことのありがたさ、そのことの幸せは、失ってみないとなかなかわからないものである・・・
だが。ひとは、概してそのことに想いを致すことは少なく、明日も同じような日常がくると
なんとなく信じている・・・・・・
わたしがそうだった。

病院で、同室の患者さんや忙しく出入りする看護師さんたちの眼などあってもいいじゃないか。
まだあの人の意識のあるうちにその体をぎゅうっ!と抱きしめてあげればよかった!
どんなにか喜んで、せいいっぱいの力を出してきっと抱き返してくれただろう・・・

だが。あのひとはもういない。
臨終の瞬間。その目に涙がうっすらとにじんでいるのを見た。
人間の不随意の体の反応だ、よくあることだ、と科学は言うかもしれない。
でも、あれはきっと。あの人の私たちへの最後の別れの涙だったと信じたい。






『思うこと』


今年の夏も、暑い暑い、とは言いながらも、風の通り抜け方や日蔭の色に、
どことなく秋の気配を感じさせるこの頃である。
広島、長崎の原爆忌、そして15日の『終戦の日』が過ぎれば、いよいよ夏も終わりだ。

昨日11日は、今までの倣いで言えば、キャンドル・ナイトの日だったはずだ。
だが、先月の百回を一応の区切りに、月ごとのキャンドル・ナイトは終了した・・・
自分のブログを振り返ってみれば、昨年の4月ごろから、ブログをアップするのは
キャンドル・ナイトの日だけ、というのがずっと続いていた。
それは、昨年のこのころ自分が肺癌の疑いという診断を得て、実際6月に右肺
三分の一を切除して、体力が著しく低下した、という理由があるにはあったのだが、
正直言って、政治的な記事を一所懸命書くことが虚しくなってしまったことが大きい。

…それ以来も、たくさんの、本当にたくさんのろくでもないことばかりが政治がらみで
起きていたのだけれど、私は貝のように口を閉じて、そうしたことへの論及を避けて
きた。また、私生活においても、ああ、これは記事にしておきたいなあ、と思うような
楽しい記事でさえ、まったくと言っていいほど書かずに過ぎてきてしまった。

今、自分のブログを覗いてみても、その間の一年余の日々が全く存在しもしなかった
かのように、記事が少ない。さらには、ブログとは別にずっとつけてきた日記も
この間は、ほとんど書いていないので、自分のおそらく晩年の、大切な一日一日の
記憶が空白になったも同然なのである。

何というもったいないことをしてしまったのだろう……


キャンドル・ナイトはほぼ終了、だが、これからは、短くてもいい、日々の記録や
想念を、その都度、書き残していこうと思う。書こうとして書かずにしまった記事も
出来たら書いていきたい。



CIMG9000.jpg



5月、我が家の庭で咲いていたバロン・ジロー・ド・ランという名の薔薇と、矮性のライラック。
濃い赤の薔薇は花びらに白い縁取りがあり、薫り高い。



『キャンドル・ナイト 100』



ついに。
キャンドル・ナイトが100回目を迎えた。

あの2011年3月11日。
それまでのぼんやりした人生観がひっくり返るような悲劇を目の当たりにして、
犠牲になられたかたがたを悼むため、その日を忘れないために翌月の11日から
灯をともし始めて、今日で実に100回、ささやかにここでキャンドルをともし続けてきた
ことになる・・・

東日本大震災から8年4か月が過ぎた、ということであって、100回、などというのは、
全く私個人にとっての節目の回数にすぎない。
それでも、深い感慨と、年月を経てもなお消えやらぬどころかますます沈潜していく
複雑な思いは依然としてある・・・




これまでにキャンドルを灯すために使用してきた器たちの一部を紹介しよう…


CIMG9353.jpg



ここに写っているのは30いくつに過ぎない。
このほかに、小さな花々を添えるために使った小ぶりの陶器の花瓶たちや香合など
がいくつもあったし、旅先で拾ってきた貝、美しい秋の落ち葉なども使った。
本来、キャンドルを灯すための器になどなるはずがない、帯留めや鉛筆削り、
カーテンリング・・・、100均で買ってきた紙製コースターを4枚合わせて組み立てて、
その中にキャンドルを灯して思いがけない美しい陰影を生みだしたこともあるし、
じつに様々なものを利用してきたのだが、それらはここに写っていない。
大雪の日の後、庭に積もった雪で作った小さなかまくらに灯したことも、梅の
散った花びらの中に埋もれさせたこともある。
ガラスや陶器の器類は、原則いつまでもあり続けていつでも取り出せるけれど、登場した
多くの花々や落ち葉、雪などは、そのとき限りのものであって、同じものを二度とここに
再現することは出来ない・・・。

それは、あたかも、人々がこの世に築き上げた建築物と、儚いひとの命そのものを
想わせるようでもあるなあ・・・




CIMG9341.jpg




今夜は、これらの器に、燃えさしの小さなろうそくたちをできるだけ多く灯して
みよう・・・




CIMG9355 (2)




多くの尊い命を奪った東日本大震災と大津波・・・そしてあの福島第一原発事故・・・
私たち日本人は、そこから一体何を考え何を学んできたろうか?
震災や大雨大洪水・・・、日本は自然災害の多い国である。
常に私たちは、それらの大災害を予測し、それらに真剣に向き合うことでしか
自分や家族そして財産の類をも守ることの出来ないそんな地形の国に住んでいるのだ。
だが、私たちは、そのための備えを真剣に今日も考えているだろうか・・・

被災地の復興は遅く、その遅さのゆえに多くの人が故郷へ戻ること、元の暮らしを続ける
希望をあきらめざるを得ないようになってしまっているとも聞く。

「あの科学先進国、日本でこんなことが・・・!」と世界を驚かせた福島第一原発事故。
しかし、政府は、とりわけ安倍政権は、懲りずに原発の維持・新設を画策している。
あろうことか、あれほどの事故を起こしておきながら、原発を他国に売るセールスを
首相自らやって歩いたほどだ。
世界で原子力発電の危険さ、結果的には経済的にも非合理なことが認識され、
風力、太陽光、地熱など自然エネルギーの利用に頭もシステムもが切り替えられる中で、
当事国の日本においてなぜか、上記自然エネルギー由来の電気の発展を逆に阻害
するような政策が今なおあからさまに採られ続けているのはいったい何なのだ!!??

あの日から私は、原発のことをさらに勉強していくようになった…
原発のことを深く知っていくにつれ、それが単に原発の問題だけではない、多くの
ほかの問題とつながっているということをも知るようになった・・・・・・

例えば沖縄の基地問題や、多くの公害問題、今韓国との間で軋轢を生んでいる
徴用工問題や、海外からの研修生に関する問題とも類似点を持つこと、
もっと歴史をさかのぼれば満蒙開拓団の問題や、さらには深く本質的に日本の敗戦に
至る戦争そのものの経緯、そして今に続く日本の対米従属などなどとも関わりを
持っていることがわかるようになった。
また、過去も今も日本人の心性に潜むある共通点…それは現実を直視しないで
問題を先送りする、先送りに先送りを続けて、いよいよそれが崩壊に達する、という
ところまで来なければ現実に目覚めないというような、ある種の無責任さ、横着さ、
が私たちの心性の中に色濃くある、というようなところにも気づいてしまった・・・
それは無論、自分自身を含めての苦い反省なのであるが。

それら日本人の病理ともいえる理由なき楽観主義、無責任体質は、今盛んに論じ
られている老後2000万円必要問題や年金制度の持続問題、逼迫する少子高齢化問題
の先送り先送り、国債の乱発などにも見られるものである・・・・・・

3.11以来、いつしか私のブログは、そうした政治社会問題を扱うブログに変質して
来てしまった・・・
重い歳月ではあったけれど、しかし、「知った」ということに関して後悔はしていない。


さて。キャンドル・ナイトをどうするか。
100回になったところで、毎月の方は一応やめにし、年に一度3月11日に灯す、
ということにしようかと今思っている。

私の中で、あの日の記憶は全く薄れるということはない。
胸に抱く悲しみと怒りは、あの日以来少しも減じていない。





南亭さんバナー②




心ひとつに キャンドルナイト








葉っぱさん、れんげちゃん。NANTEIさん。
8年4か月の間、バナーをお借りしてきました。 

これでキャンドル・ナイトは終わるわけではなく、次は2020年3月11日に
またお借りすることになると思います。
しかし、100回の節目に、ここに改めて感謝を述べさせていただくことにいたします。


また、これまでずっと毎月ここを訪れてくださって応援くださっている皆様にも、
ここで一度、心からの感謝を申し上げたいと思います。
ほんとうにありがとうございます。











『お勧めしたい本』


ブログにリンクさせていただいていて、このブログにもコメントを下さるブロ友
スキップさんが、本を出されました。
スキップさんのブログ。
『人を笑わず人と笑う」・・・田舎匝瑳の書斎から』

スキップさんは、長年、高校の社会科の先生をしてこられ、退職後は、『匝瑳九条の会』を
立ち上げられて、日本の民主主義の根幹…、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を
高らかに謳いあげる日本国憲法を守るべく地道で息の長い活動をしておいでになりました。

実のところ、スキップさんは私にとって『ブロ友』というよりは、お会いしたことこそないけれど
秘密保護法や安保関連法などへの国会前抗議における〈心の同志〉であり、また、
安倍政権のあまりの無法に対して猛烈に怒りつつもともすれば無力感に打ちひしがれて
しまいがちな私などを、その変わらぬ意志で常に勇気づけてくださる心強い先達でもあります。

その意志の強いスキップさんにして、昨今の安倍政権のあまりのやり口のひどさ、しかし
その安倍政権をなおも「ほかに代わりうる政党がない」などの理由で国民が支持し続け、
この史上最悪と言っていい政権が、まもなく日本の政治史上最長期を誇る政権となって
しまうのを許している今の状況に打つ手がないことに対し、今、焦慮していらっしゃる。
もうすぐ参院選です。今のところ政府・与党は衆院とのダブル選挙を否定している。
しかし、またしても例の『内閣総理大臣の専権事項』とやらいう法的根拠の曖昧な
権利を振りかざして安倍政権が衆院を解散し、衆参のダブル選挙が行われるような
ことになれば、今の日本国民は、また「ほかに票を入れるところがないから」などという
消極的な理由で、政府与党を勝利させ、安倍政権にさらなる延命を許してしまうのでは
ないでしょうか。「国民の信を得た」とまたしても厚顔に言わしめるのではないでしょうか。
そうなれば、今度こそ、安倍氏は本気でなりふり構わず彼の個人的悲願である『改憲』、
を成し遂げようとしてくるでしょう。

「改憲の何が悪いの?」

そうお思いの方もいらっしゃるでしょう。
確かに。『改憲』そのものが悪いというわけではないと私も思います。
しかし、それがより良くするための改憲ではなく、今、私たち日本国民に保障されている
自由など諸権利を制限するような、あるいは奪うような改憲になろうとしているならどうですか。

安倍政権が、そして自民党が目指している『改憲』とは、実はそういうものです。
このことについては、私も何度もこのブログで警鐘を鳴らしてきたつもりです。

ところが実は、安倍政権は、この『改憲』という大技なしにでも、既にこの私たちの日本の姿を
大きく勝手に変えてきてしまった政権なのです。
自衛隊の海外での武力行使、集団的自衛権行使を容認する安保関連法がそれです。
改憲なしに九条をなし崩しにしてしまった・・・
この問題はあまり実感がないですか?
それでは、この6年半の安倍政権によって強力に進められた『官邸への権力集中』
はどうですか?
今、官邸に盾突く者はほとんどいません。官僚も、国会も、マスメディアも、教育も、
司法でさえもが…、安倍政権の意向を忖度するような雰囲気になってしまっています。
あれほど誰もが正直言って安倍政権による政治の私物化ではと思っていた森友・加計
問題は、ついにうやむやにされてしまい、政権を守るためには公文書の改ざんや破棄
までが行われた。そのために一人の誠実な関係者が追い詰められて自死してしまった。
今度の金融庁の審議会の出した報告書を、選挙に都合が悪いからと言って『なかったもの』
にしてしまった安倍政権の鉄面皮としか言いようのないやり口はどうですか?
この問題については別に書こうと思っているけれど、もうこの国ではまともな追及や議論さえ
成り立たないような状況に徐々になっていきつつあります・・・。
「どうせ変わらない。それならば何を言っても無駄だ・・・」というようにね。
何というのか、『もの言えば唇寒し』というような強烈な忖度・自粛や一種のあきらめムード
や虚無感が人心に生まれつつあるように思います。
それをさらに通り過ぎて、「今さえよければそれでいいじゃないか」「難しいことは考えたくない」
というような刹那主義も。

こんな雰囲気の中で、『改憲』への道が本格的に開かれたらどうなるのでしょう。
どんな改悪でも、今なら国会における絶対的多数と官邸によるマスコミの掌握で
成し遂げられてしまうでしょう。

スキップさんは、ここ数年のその焦燥感から、自分に今何ができるのか、を真剣に
考えられて、ご自分の経験や(御父君の従軍体験も含めて)長い間の思索の結果を
本にまとめてみようと思い立たれたのです。
 

スキップさん本 

ご本は、amazonや出版元のあけび書房などで購入することができます。

6月上旬の発売日から、私も、スキップさんのこの本を大急ぎで、しかし真剣に、精読させて
いただきました。
本は大きく二部に分かれています。前半縦書きにされたところは、スキップさんの父君の
日中戦争従軍体験、戦後の生き方なども含め、スキップさんがいかにしてご自身の
精神形成をなしてこられたか、といういわば自伝的部分。
後半横書きにされた部分は、高校教師を長年務められてきたスキップさんが、
教職員組合の職場ニュースである「分会ニュース」に寄稿された文章や、週刊金曜日、
東京新聞などに投稿された文章などを中心にしたエッセイから成り立っています。
組合ニュースというけれども、テーマは教職員組合関係のことにとどまらず、今の
若者たちの労働環境のことやLGBT(性的少数者)のこと、沖縄のこと、介護のこと、
人間のこころのありようについてなど、ほんとうに多岐にわたっています。
私にはこの後半のエッセイ部分に、スキップさんの深いお考えをより身近に、切実に
読み取ることができました。ブログ記事や時たまやり取りするコメントで知る以上の、
スキップさんの、根っこの深い思想を知ることができて、大変に感動しました。
いや、単に感動、という言葉で言い表せるものより別の・・・、う~ん、もっと深い共感というか、
そう、安心感のようなもの…。それは、虚飾などのない、誠実な、真実のことばがここにある、
ということを知ったからの安心感、とでもいうようなものでしょうか、それを感じました。

このところ、『引きこもりは犯罪者予備軍か』というような、その底にある社会のひずみ
への考察を横に置いてしまったような極端な議論や、金融庁の審議会の出した
『老後に公的年金以外に2000万円必要』という報告への賛否両論などが盛んに
語られています。
しかし、本当はそれらをそういうふうに表面的にバッシングしたり、安倍政権のように
近づく選挙に不利に働きそうだからとて報告を受け取らないことによって報告の示す
重い問いそのものを、『なかったもの』にしてしまうなど、問題を糊塗したり先送りしたり
してしまうべきではない。

それらは共通の懸案として国民皆で早急に真剣に考えるべきで大きな社会問題です。
そこにはある共通したテーマ、『人はどう生きて、どう生を全うすればいいのか』『社会は
どう個人の生に関われるのか』『(逆に)個人は社会に何ができるのか』などということ
が含まれています。

スキップさんのこの本は、スキップさんというひとりのひとの、そういった切実な問題
に対する、誠実な思索と実践の記録であるように思えます。
同時にそれは、『個人』というものの尊厳をないがしろにする方向へ方向へと
突き進んでいる現政権への、社会風潮への、厳しい告発の書にも当然なっています…


よろしければ、ぜひお読みいただければ、と思います。









『キャンドル・ナイト 99』



さあ・・・。いよいよあと一回で、キャンドル・ナイトも100夜だなあ・・・。

我ながらよく続けてきたものだ・・・。



『キャンドル・ナイト 99-1』



99回目のキャンドル・ナイトは、数年前、小豆島への旅の時拾ってきた、乳白色の、
さもないビンのかけらにいつもの小さなロウソクをたててみた。
だんだんだんだん、凝ったしつらえよりろうそくの明かりそのものを見せるような設定が
自分で好ましくなってきている・・・





『キャンドル・ナイト 99-2』




けれども、6月はこのブログのシンボル、どくだみの白い花の咲く季節である。
やっぱり、小さなろうそくちゃんをどくだみと共に写しておこうかなあ。

今、わが家の庭は、この白いどくだみと、紫陽花と、ムラサキツユクサとでにぎやかだ。
つい最近までは、やはり紫色のクレマチス、『キリ・テ・カナワ』がこぼれるほどに咲いていた。

もう・・・ほんとに・・・政治のひどさとその政治が遠因となっているとしか思えないような
暗い事件ばかりで心がささくれ立つような毎日であるけれども、季節が来れば律義に
咲き出る花たちや、可愛らしい小鳥たちの子育てのようすなど見ていると、ふうっと
そのささくれ立った心が静まるのを感じる。

一週間ほど前の夜には、ホトトギスの声も夢うつつに聞いた・・・・・・・・・
ああ・・・今年も来てくれた・・・・・・・・・


それにしても、どうしたのだ、この国の政治は。
こんなひどい政治がまかり通っていていいのか!
それを許しているのは、国民自身だ。

8年前の3月11日。
あの悲劇の日以来、私たちはこの国を少しでもいい国にしてきただろうか。
思い出してみてごらん。
あの時、私たちは、亡くなられたかたがたのことを想い、おそらく誰もが、心のうちでひそかに、
『遺された我々は。よりよく生きねば・・・』と思いはしなかっただろうか??

あのときの、人間の真心から出たひそかな誓いの想いは、いったいどこに消えて
しまったのだろうか。









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今月もバナーお借りします。
 




プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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