『最高裁裁判官国民審査について』

いつか書こう書こうと思いつつ、これまで記事にしてこなかった④『司法権の独立』
についてだけ、ちょっと書いておこう。今度の衆院選と同時に、最高裁裁判官の国民審査が
あるからだ。
日本の最高裁裁判官は、長官を含めて15人いる。
そのうち12人が、安倍内閣総理大臣が任命した人である。残りの3人は、鳩山、菅、野田の
民主党政権時代の総理3人が、それぞれに任命した人々だ。
今回国民審査にかけられる
•小池裕 •戸倉三郎 •山口厚 •菅野博之 •大谷直人 •木澤克之
•林景一

の7氏は、全員、安倍内閣で任命された人々である。

仮に、明日の衆院選で、自公が大勝しあるいはそれに近い議席を今回も得て、安倍氏の
三選が決まって、2021年まで延びることになれば、最高裁裁判官15人全員が、安倍政権によって
任命された人物と言うことにいずれなる・・・。

このことがどういうことを意味するか、ちょっと考えてみて欲しい。

日本では三権分立が、日本国憲法の要の一つとなっている。
司法府は、行政府からも、立法府からも独立していなければならないのだ。
もし、司法府がいつも時の政権に都合のいい判決をするようなことになったら、こんな
恐ろしいことはない!それは誰にだってわかるだろう?

無論、安倍政権に任命されたからといって、その最高裁裁判官が、政権の言いなりになる、なった、
ということではない。それは一応言っておく。中には毅然とした立派な裁判官ももちろんいる。
最高裁元判事、という人で、その論説を見聞きすると、『ああ、この人は立派な人だった
んなあ・・・』と思わせられる人はたくさんいる。

だが。それでも、同じ政権に15人全員が任命されるという事態は、どう考えてもまずい。
それは、何も安倍政権でなくとも、どの政権でも同じだ。
人は弱いものである・・・自分に便宜を図ってくれるものにははっきりものを言えなくなる・・・
ということは、どこの世界にもある。
だから。
司法権の独立、というような大事なことは、どのような政権下、どのような人達であろうが
きちんと担保されていなければならない。
今、安倍政権には、二つ前の記事で示したように、ほとんどの権力が集中しかかって
しまっている。
ちなみに、安倍政権の任期だって、今年3月5日、自民党が第84回党大会を開き、
総裁任期を「連続2期6年 」から「連続3期9年」に延長する方針を正式決定したから、
安倍晋三自民党総裁は、このたびの衆院選挙後の総裁選で3選されれば、2021年9月
までの在任が可能となったのである!.


こういうことまで、実は皆さん、安倍首相の力は拡張されてきているのですよ!
2021年には、その安倍政権に、最高裁判事15人全員が任命されることになるのです!

今私は、いくつかの記事を、投票日前になんとか仕上げて同時にアップしておきたいと思って
ここ数日頑張っていた・・・。
その中に、安倍内閣に限らず、時の一政権が暴走するのを防ぐための防波堤の一つとして
追加すべきこと
を書こうとしていた。それは、
『官僚の矜持』というようなものである。その『前例踏襲』の体質である。
時の政権の横暴に、ときに内部から抵抗する、そういう官僚の存在だ。
そう聞いて、ひとりのひとの顔が、皆さん、思い浮かぶのではなかろうか。
そう。元文科相事務次官 前川喜平氏、のことだ。

官僚は、政治家の意を受けて、実際に国を動かしていく仕事をする。時に、官僚は
『政治家の意を受ける』というよりは、『政治家を実質的に動かして』、組織の防御に努める
存在でもある。『官僚』というと、私たちにはあまりいいイメージはないのではなかろうか。

しかし。官僚達が、その組織の論理で動いて、頑固にその『先例』『慣習』を変えない、
ということが、逆に、時の一政権の暴走からこの国を守っている、という場面もあるのでは
ないか
と私は思う。
官僚の中には、前川氏のような気骨のある人物もいなくはないのである・・・

ところが。
安倍政権は、2014年5月内閣官房内に、『内閣人事局』なるものを新設設置した。
それまで、各省の事務次官を頂点とする一般職国家公務員(いわゆる事務方)の人事については、
事務方の自律性と無党派性(非政治性)にも配慮して、政治家が介入
することは控えられてきた。

ところが安倍政権は、『内閣人事局』を内閣内に設置することによって、各省の幹部人事を
内閣総理大臣を中心とする内閣が一括して行い、政治主導の行政運営を徹底することに
したのである。人事局は各省庁の審議官級以上の約600人の幹部人事を一元的に管理する。

こう聞いても、なんのこっちゃ、何が問題なのかな?と思われるかもしれない。
だが。これにより、政権の意向に逆らうような、あるいはそこまで行かずとも政権の意向に添って
粛々と動かぬような事務方などは、排されるということになっていく恐れは十分に考えられる・・・

東大の牧原出教授(行政学)は「政権が人事権で官僚を威圧すれば、行政をゆがめる。
官邸や政権がしっかり自制すべきだ」
と指摘している。
また、元内閣総理大臣福田康夫氏も、内閣人事局の運用について『各省庁の中堅以上の
幹部は皆、官邸の顔色を見て仕事をしている。』『政治家が人事をやってはいけない』
と批判している。


みなさん!このように、安倍政権は、各省庁の人事権までもを、『内閣人事局』新設で
その手に一手に掌握することに成功しつつあるのです!
安倍首相の、この目立たぬが、自分に権力を集めていく手法は、実はいろんなところで
行われている。皆さんご存じの、日銀、黒田総裁人事。日銀総裁に就いた財務省OBは、
それまで全員が旧大蔵事務次官経験者。黒田氏のような財務官経験者の起用は前例が
なかったのである。だが、安倍氏はそれを行った。
今、黒田日銀総裁がいわゆる『黒田バズーカ』なるもので、どれほど安倍内閣に貢献
しているかを考えれば、う~ん・・・そこに情実というようなものはないと言いきれるか。
日本の金融・経済のことを考える。それが仕事だと言えば、そりゃそうなのだが・・・。

そして同じく、皆さんの記憶からまだ去ってはいないだろう、内閣法制局長官人事である。
安倍政権は、2013年。内閣法制局法制局長官に、元フランス大使で外務省畑出身の
小松一郎氏を任命した。従来、内閣法制局はキャリア官僚を独自採用せず、各省庁から
参事官以上を出向で受け入れ、局長級以上の幹部になるのは原則、法務省、財務省、
総務省、経済産業省の4省の出身者だけというのが不文律とされ、さらに長官までには、
第一部長→法制次長→長官という履歴が1952年以来崩されていないとされていたところ
である。内閣法制局長官は、内閣法制次長を昇格させるのが慣例だったのに、法制局での
勤務経験がない、しかも外務省出身の小松氏をその座にすえるのは、ほんとに異例の
人事であった。
内閣法制局は、行政府内における法令案の審査や法制に関する調査などを所掌する
機関で、そのチェックの厳しさは、『内閣内の法の番人』と称されることも多いところ
であった。小松氏は安倍総理と親しい間柄で、しかも、その2013年当時は、政府は
集団的自衛権行使の容認に向けた解釈見直しをにらんでいるときだった。
『慣例』と『申し送り』人事の伏魔殿のような機関であった内閣法制局を、変えた!といえば
聞こえはいいが、集団的自衛権行使容認のために、官邸主導で、首相の意向に沿った
体制を整える狙いだったと疑われても仕方ないような人事ではあった・・・。
小松氏は、故人には鞭打つつもりはないので、残念ながら、就任まもなく亡くなられた。
そのあとには、法制局の従来の慣習通り、次長であった横畠祐介氏が長官職に昇進したが、
皆さんご記憶の通り、自衛隊の集団的自衛権行使容認の閣議決定に至るまで、またその後の
安保国会とも言える議場での横畠氏の法制局長官としての答弁は、ぬるりくらりと逃げるだけの
はなはだ不誠実なものであった!
私は、内閣法制局は、『慣例』や『申し送り』だらけの伏魔殿、ではあったかもしれないが、
その『法に対する厳密さ』『頑迷さ』が、日本の法をある意味で守ってきたという側面は
大きかったのではなかったかと思っている。実際、元内閣法制局長官であった、という
人々の言論は、主義一貫して気持ちがいい。
小松氏、横畠氏以降、「内閣の法の番人であった『内閣法制局』は死んだ!」と
私は思っている。

・・・このように、安倍氏は、いろんなところで、この官僚機構などの『慣例』を崩している・・・

ようやく話が最高裁裁判官国民審査に戻るが、安倍政権は、どうやら、この最高裁判事の
選出の慣例をも崩しているようなのだ。

最高裁判所裁判官の任命権は、内閣にある。それは憲法にも書いてある。
だが。これまで最高裁裁判官には不文律の出身別枠組みが存在し、概ね
裁判官出身が6人、弁護士出身4人、検察出身2人、行政出身2人、学者出身が1人と
なっていた。
ところが、今年3月、弁護士出身の大橋氏が定年を迎え、通例なら、大橋氏が弁護士出身
であるから、日本弁護士連合会が弁護士の中から後任者の推薦名簿を最高裁判所
裁判官推薦諮問委員会に提出した。その中から官邸が選ぶというのが、これまでの慣例
であった。だが後任に選ばれたのは、著名な刑法学者で元東大法学部長の山口厚裁判官。
山口氏は昨年8月に東京第一弁護士会に登録したばかりであり、日弁連の推薦名簿に
名前は入っていなかった。つまり学者の枠が増え、弁護士の枠が減らされた、ということに
なったのである。
そんなこと、どうでもいいじゃないか、と思われるかもしれないが、これとは別に、
第2次安倍政権発足後、しばらくした頃。首相官邸で、杉田和博・内閣官房副長官が、
最高裁の人事担当者に、退官する裁判官の後任人事案が候補者一人だけだった
ということについて、候補者を二人にせよとの注文をつけたというのである。
このとき、退官が決まっていたのは、地裁や高裁の裁判官を務めた職業裁判官。
慣例通りに行くならば、同じ「職業裁判官枠」から選ばれるはずだったのだが、官邸側の
杉田氏が注文をつけたと言うことだ。2002年に公表した「最高裁裁判官の任命について」
というペーパーでは、最高裁に最適任候補の意見を聞くことを慣例としていたのに
である。そのとき誰が選ばれたのかは知らないが。

今回国民審査の対象となる裁判官は七人。皆、安倍政権が任命した人々である。
そのうち、弁護士出身の木澤克之裁判官は、獣医学部新設に向けてのプロセスの
透明性と公平性が問題となっている加計学園理事長の加計孝太郎氏と立教大学の
同窓で、同学園監事を務めていたことがある。木澤氏は日弁連の推薦名簿に名前が
入っており、「異例の人事」というわけではないが、この加計問題が紛糾している中で
気になることではある・・・。

なお。上に名前の出てきた杉田 和博氏は、内閣官房副長官であり、この8月、これまた
上に書いた、『内閣人事局長』を兼任するよう、命を受けて今、その職を兼務している。
彼は日本の警察官僚出身である。警察ではほぼ一貫して警備・公安畑を歩み、
警備局長を経て内閣官房で危機管理を担ったひとという・・・。
この人の名は、前川喜平氏の騒ぎのところでも出てきたな・・・
温厚で立派な人らしいが、公安・警備端の人が、内閣人事局長・・・というのは気にはなる。

話を再び裁判官国民審査に戻すが。
というように、安倍政権は、いわば『慣例』『申し送り』の続いてきた官僚機構や組織に手を入れる。
『岩盤規制を壊す』一つなのかもしれないが、そうした長年続いた組織の『不文律』には
容易に権力に屈しない、という、組織としての矜持や見識、という側面も存在する。


時の一政権に何もかもの権力が集中してしまったら、それはもうファシズムの世界だ。
独裁政治の世界だ。
それでなくとも権力というものは、長く続くと腐敗しがちなものだ。
とりわけ、司法権が行政権の下になり、行政府の長などの意向を『忖度』する判決など
出すようになったら・・・こんな怖いことありますか?

すでに日本では、いつからとは言えないけれども・・・地裁などで名判決がでた!と喜んで
いても、高裁~最高裁へ、と上級審にかかるようになればなるほど、地裁などの名判決を
覆す、という例が多くなっていくような気がする。
古い話になるが、1959年の砂川事件で、被告全員無罪とした地裁判決を、最高裁が
差し戻し命令を下し、結局、地裁で全員有罪が確定したあの判決などは、歴史に残る
一大汚点だと私は思っている。

司法権は、何者にも侵されてはならない!
時の一政府に、権力を集めすぎてはいけない!



参考までに書いておくが、アメリカの最高裁判所判事は、一人の首席判事と8人の陪席判事
で構成されている。彼らはいずれも終身制で、本人が死去または自ら引退するまで、その地位を
保証され、弾劾裁判以外の理由では解任されることはない。
終身制!?
と驚いてしまうが、これは、アメリカでもにほんと同じように大統領(日本では首相)が任命する。
大統領は原則任期4年である。その大統領が代わるごとに、最高裁判事の判決が政治に左右
されることなどないよう、最高裁判事達が、司法の独立を守れるよう、アメリカではこういう決まりに
しているのである。
一つの知恵ではないだろうか?
ちなみに、今、アメリカの最高裁判事は、民主党政権時代に選ばれた人が4人。共和党政権で
選ばれた人が5人で、およそバランスがとれている・・・。


まあ。明日、最高裁判所裁判官の国民審査があるので、こういう記事も書いてみた。
明日、私自身は、今回審査にかかる7人のうち、二人を除いて、×をつけようかと考えている。
私はこれまで、この国民審査には関心がなく、×印をつけたことはなかった。
だが、無印にすれば、白紙委任したのと同じになる。裁判官諸氏にますます襟を正して
いただきたいという意味で、今回は、×をつけようかなと思っている。

裁判官達の過去の判決がどのようなものであったかは、こちらが参考になるかも。
これまた、長い記事ですが。><

https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20171017-00076994/

しかし、私たちの自由を守るために、こういう機会に裁判所のことにも
興味を持つのはいいことかもしれない。
『司法』が侵されてはならないのである。



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『キャンドル・ナイト 78』






78回目のキャンドル・ナイト。


キャンドル・ナイト 78


前回のガラスビーズに引き続き、飴玉みたいな色合いのポットにろうそくを入れてみた。
どちらも百均の商品だけれど、赤、濃桃、青の三色の組み合わせには、子供の頃の
記憶を呼び覚ますような懐かしさをいつも感じる。
この三色に、緑、黄色、を加えたら、懐かしさ究極の原色の組み合わせだ。
着るものの色の組み合わせとしては考えられない悪趣味の色だろうけれど、
富山の薬売りの叔父さんのくれる紙風船の色合い、夏の子供浴衣の色柄、ブリキの金魚、
駄菓子のジェリービーンズ、そして七夕飾りの中にあったあの蛇腹のようにくるんと開く飾り・・・
あれはなんという名前のものだろう・・・
そんなものたちで意識せず親しんできた色の組み合わせだ・・・

長い年月、親しく目にしていながら、その正式名称を知らずに来たものたちがあるものだ・・・
私にとっては、包装の緩衝材として入れるあのセロファンを細かく刻んだものの正式名称が
なんというのかは、子供時代から知りたいと思い続けた長年の疑問であった。
それが『セロパッキン』と業界で呼ばれていることは、ようやくつい最近知ったことだ。
それから、その、バナナみたいな味と香りの駄菓子・・・・『ジェリービーンズ』・・
それもなかなかその名前が思い出せないままに来たものの一つだった。
今ちょっと調べてみたら、ジェリービーンズは、『ソラマメ』の形を模したものだという。
バナナじゃなかったのかぁ…そりゃそうだ、『beans』だものなあ。

さて。あの七夕飾りにもあった蛇腹のように開いたり閉じたり出来るおもちゃは
なんというものなのか?
・・・今、思いたって調べてみたら、『ハニカムペーパー』というものだそうだ・・・開くと蜂の巣の
構造になっているからか。なるほど。でも、私が子供の頃から、いやもっともっと昔から
あったものだ。その頃からハニカムペーパーなどと呼ばれていたとは思えない。
和名でなんというのだろう・・・・・・
『でんぐり』というのだそうだ。なるほど。くるんと前転などすることをでんぐり返りする、
などというものなあ。


それほど高価なものではないのだけれど、子供にはなかなか手に入れるのがなぜか
困難なものがある・・・私にとっては、この『でんぐり』がそうであったし、お盆の綺麗な
『落雁菓子』が未だにそうである。
無論高価で手の届かぬものもある・・・富山など北陸の『細工かまぼこ』がそうである・・・
そうそう。『つまみ細工のかんざし』も、子供の頃の私にとっては、手に入れられぬ憧れの
ものだったなあ・・・
これらのものは、ほとんど皆、なにがしかの祭礼などと関係があって、いわば日常で
手に入れてはいけないある種の『禁忌』を含んだものたちだったから。
お盆の落雁菓子は仏様に供えるものだし、祝いかまぼこは、そういう風習のある土地
の結婚式にでも出なければ、食べられるものではない。『でんぐり』も『つまみ細工の
かんざし』も、七夕や秋の祭礼、七五三、正月などというように、ある季節に限られたもの
であって、その時期を過ぎれば、またその該当する年齢を過ぎてしまえば、もう手にしてはならぬ・・・
そういった暗黙の約束事を含んだものたちである・・・。

というわけで、ジェリービーンズ以外は、私にはすでに縁遠い、生涯縁のなかった品物で
あるわけだけれども、(ジェリービーンズも弱った歯にはもう食べられず、落雁菓子も
私が亡くなったら、娘に頼んでおいて仏前にお供えしてもらおう・・・とほほ・・・)こうした
あこがれの品物があると言うことはあったと言うことは、まあ『寂幸せ』とでもいうような
ものかなと思っている・・・。



ふ~ぅ・・・・
と。キャンドル・ナイトの本来の趣旨とは関係ないことを長々と書いてきたけれど。
こう・・・怒りの向け場がなくなってしまっている感じなのである。


願わぬ方向へばかり世界が転がり進んでいく・・・・・・






南亭さんバナー②




心ひとつに キャンドルナイト








葉っぱさん、れんげちゃん。NANTEIさん。
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『民進党よ!!! ③』


民進党は、枝野氏がついに代表戦に名乗りを上げた。
少し遅きに過ぎた・・・という感はあるが。

東日本大震災の時、刻々と変わっていく津波被災地と福島第一原発の状況を、
政府のスポークスマン=官房長官として不眠不休で国民に説明していた枝野氏。
その必死の姿は、『枝野。眠れ』というハッシュタグまで生んで、日本のみならず世界の
ひとに共有された。
私は、東日本大震災後、民主党の将来の代表としてふさわしいのはこの人物しか
いない、とずっと思ってきた・・・肝の据わった男だな、と思ったからである・・・

だが、非常に残念なことに、
それは、ある意味で国民にとっても大変不幸だったことに、
民進党政権の時に東日本大震災が起こってしまったこと・・・
彼が福島第一原発事故時の民主党のスポークスマンとも言うべき官房長官であったこと。
そして彼が、政府を代弁して、『ただちに人体、健康に害が無い』という文言を繰り返したこと。
そのことは、残念なことに、彼の政治家としての姿に大きな汚点を残してしまった・・・。
原発事故で逃げ惑う人々を福島に無理矢理閉じ込めるような発言だ、子供たちに
汚染されたものを強いるような、逃げることさえ禁じるような、非人道的な発言だ、として
多くの批判批難を一手に引き受けてしまったのである・・・

だが、私は、誤解を恐れずに言えば、事故直後という当時の民主党政権にとって、
枝野氏の『ただちに人体、健康に害が無い』という政府広報官としての発言は、あれで
せいいっぱい、仕方のないことだったと実は思っている。
『ただちにはない』ということは、長期的に見れば、影響はある、ということの言い換えでもある。
だが、あの東北の人々が極限状態の中に置かれているとき、『原発事故の体への影響はある』
と公式の発言の場で政府の人間がいうことが、果たして適当であったかどうか・・・

私は、原発の危険性を事故前から訴える者であった。
その私が、当然のことながら、福島の人々に『逃げずに福島にとどまれ』などと
言うはずがない。思うはずがない。
事故のあの11日の夜すでに、『スピーディの発表などに拠らず、風向きなど考慮して、
自分の危機感と判断力で、一刻も早く安全なところへ批難してくれ!』 と、
祈るように、ほとんど地団駄踏みながら思っていた私である・・・・・・。

しかし、政府としては、あの時は、ああ言う以外の何が言えただろうかとも思う。
仮に自民党政権の時であったなら、もっとうまい対応が出来ていたのであろうか?

事故直後の、原発・・・第一第二で計10基もある福島第一原発の正確な現状について、
国民や政府自身は無論、本当は政府に正確な情報を上げるべき原子力委員会も
安全保安院も、そして当の東電の人間さえもが、第一原発の危険度がどれほど
ひどいかということを、その正確な状況を、ひとりとして把握している者はいなかったのである・・・

菅政権は、大津波被災地と福島第一原発が同時に時々刻々深刻さを増していく中で、
必要な情報も無しに、いわば、孤立無援でいた・・・・・・

原発事故の実情について、正確な知識を提供する者さえ当時いなかったのである!
あの、会見場に出ていた原子力安全保安院や東電の責任者たちの無能ぶりを、
記憶している方は多いだろう!!!
原子力安全・保安院の人間が、『私は文系の人間なので・・・』などと、あの緊急の場で
言い訳をする・・・そんな『専門家』しか周りにはいなかったのである!

そんな中で、もし、原発が一基メルトダウンを起こせば、誰も原子炉に近づけなくなる・・・
そして、福島第一第二原発の10基の原子炉が次々にメルトダウンを起こしたら・・・
福島の人々を避難させなければならないのは当然だが、福島、群馬、栃木、茨城、千葉、
そして東京、神奈川・・・・・・首都圏の何千万という人々がパニックを起こしていっせいに
逃げ惑ったら!
その恐れは、現実にあのときあったのである。
何千万の人々が我がちに我先に逃げ惑う・・・その混乱の恐ろしさ・・・

『まずは落ち着いてください』
政府としては、そう言うしか当時なかった、と私は考えている。
無論、原発をずうっと危険視し憎んできた私だ。福島の人々に『逃げるな』などと言うはずがない。
それでも。あのとき、誰に、何が出来たか、とも思う。
福島の人々が一斉に我先に逃げ惑う・・・道路はおそらく確実に車でいっぱいになる・・・
原発が放射性物質を放出し続ける中、逃げ惑って外にいる危険!
原発がさらに爆発など起こして放射性物質を大放出すかも知れない状況の中、家に
じっと待機していた方がいいのか、被爆の危険性は承知しつつとにかく逃げられるところまで
逃げた方がいいのか・・・  正解を知っていた者があのとき果たしていただろうか?

東日本大震災が起きたとき、民主党政権であったこと、そして将来民主党を背負って立つ
力量を持っている枝野氏がたまたま、官房長官であったこと・・・
そのことは、正直言って、日本にとって大きな偶然の、大きな損失であった、と私は
考えている。

私はずうっと共産党・旧社会党の支持者である・・・
しかしながら、自民党の長期にわたる一党独裁を許さない、という一点において、
自民党に比肩しうる野党は、日本に必要だ、と思い続けてきた者でもある。
その意味で、民主党には、政権をしっかり担当しうる政党に育って欲しかった。

だから、民主党を叱咤激励する記事を、これまでもいくつか書いてきた。
その中で、私は、民主党に国民が厳しすぎたのではないか、と言う疑問も呈してきた。
確かに、民主党は、東日本大震災時、とりわけ福島第一原発の対応に関し、不備不足な
点はたくさんあった・・・もっと適切にやれたのではないか、という想いは私にだってある。
公約に関しても、国民の期待を裏切って、思うような約束したようなめざましい成果は
上げられなかった・・・その上、内紛ごたごた続き。
右から左までが一緒くたになった党は、脱原発や改憲の是非などという根本的な
大事な問題で、そのスタンスがいつもぐらぐらしているように見え、支持母体である
『連合』にいつも気を遣って、大事なところでいつも腰砕けになってしまう・・・。

ひどい安倍一強政治をここまで許してしまったもの・・・それは、なによりも民主党自身の
だらしなさ、である!
しかしながら、民主党を自民党に変わりうる政党として辛抱強く育ててこなかった
私たち国民にも責任はあったのではないか??
私たちは、必要以上に、民主党に厳しすぎたのではなかったか??
私は、これまでにも何度も、そのことを指摘してきた・・・

考えてもみよう。安倍政権のこのひどさ。安倍氏自身の総理としての公私混同、
強引なその政治手法は無論のことだが、第一次政権以来、安倍政権の閣僚たち、
また周辺の人々は、本当にひどい人たちがいっぱいいたではないか?
だが。なぜか私たち国民は、こちらには甘い。
閣僚の不祥事はともかく、自衛隊の集団的自衛権行使を認める安保法制、
秘密保護法、そして共謀罪法、TPPでの嘘。
民主党とそして何より国民と交わした『税と社会保障の一体改革』は、安倍政権になって
いつの間にか『社会保障』の部分だけが抜け落ちて、税の改悪だけがどんどん進められている・・・
北朝鮮や中国の脅威を煽り、そのどさくさに平和憲法無視の軍備増強を着々と
進める・・・
アメリカの言いなりになるのはますますひどくなって、もはや日本はアメリカの属国化。
沖縄の人々の苦しみに向き合おうとせず、辺野古の建設を無理矢理にでも進める・・・
国民にとってある意味もっとも大事な『自由権』『知る権利』を細らせるべく、
教育やジャーナリズムに過干渉して、その萎縮を図る・・・
あれほどの過酷原発事故を起こしておきながら、福島の人々を置き去りに、
首相自らが、海外に原発を売り込むセールスマンとなり、国内の原発の存続を図る・・・
一番の売りだった『アベノミクス』は失敗。あれほど民主党を批判しておきながら、
結局自分たちも国家財政は借金頼み。
そして、ついには今度の森友・加計問題に至る!!!

そのどれか一つをとっても、何度責任をとって政権交代があってもおかしくないくらいの
ひどい政治ばかりじゃないだろうか???
民主党のひどさに比べて、どっちがひどいと言えるか???


・・・しかし。
国民はなぜか、安倍政権にこれまで怒ってこなかった・・・
民主党の失政には、あれほど厳しかった国民は・・・安倍政権をなぜか罰しないのである・・・
私は、そこのところをいつも不思議に思うのだ。
これまでも何度かそのことは書いてきた・・・

民主党が素晴らしかった、とは私も言わない。
しかしながら、なぜかな・・・国民の怒り方は、あまりにもアンフェアなんじゃないか?
なにか軽重のバランスが悪すぎじゃないか?・・・・・・そう感じてしまうのである。

上に書いたような安倍政権のもろもろのひどい政治。 改憲を経ないで九条を
なし崩しにしてしまった安保法制・・・国民の自由を縛るもろもろの悪法の強行採決・・・
それらには怒らないで安倍政権に選挙で信任を与え続けてきた国民が、
森友・加計問題のようないわば私的感情を刺激する問題では激しく怒る・・・
そのアンバランスも、私にとっては同じ不思議だ・・・
なぜ、自分たちの権利を根本から奪うような問題にもっと怒らない??!!

私は、その裏に、なんというか・・・ある種の意思が・・・存在するような気がして仕方がない
のである・・・巧妙な宣伝工作が・・・自民党でなければだめなんだ!と言う
国民への長い長い時間をかけたインプリントが。
それは、いまだに、『日本は原発がないとやっていけないんだ』という、その刷り込みと
同じ性質のものであり、また、日本はアメリカの核の傘の下にいないとやっていけないんだ、
という刷り込みとも同じであり、おそらくそれらを巧妙に時間をかけてやっている者たちは、
同じ勢力の人々である・・・・・・
そしてそれはすでに、半分国民の意思となっているのではないか。

私が、記事を書いても書いても書ききれないもどかしさ・・・そして絶望感は、実は
そこにある・・・・・・


・・・・・・・・・・・・
民進党への問いに戻ろう。
民進党に、この日本を変えてくれと望むことがそもそも無理なのかも知れない。
だが。痩せても枯れても、一度は政権を握った党だろう?
あなたたちは、今のままで、単独で、次の解散総選挙などに勝てると思っているのか?
まず、自民党の候補者がいる。それに蝙蝠政党の極致公明党が共闘する。
小池氏の人気に乗っかった新党も出来るかも知れない。おそらくそれは時間の問題だろう。
それらに対し、それでなくとも弱体化弱小化してしまった野党4党がそれぞれに
候補者など立てて、一つか二つしかない議席を民進党が取れると思っているのか??!!
ここは、自公維新との対立軸をはっきりさせて、打倒安倍政権で4野党が結束するしか
ないじゃないか!
先の参院選で、かろうじて一人区を勝ち取ったのは、4野党と市民団体が結束して
必死で戦ったからではなかったか!思い返してみてごらん。

今、内紛などしている場合か!足の引っ張り合いなどしている場合か!
国民が、民進党なり新しく生まれそうな党なりなんなりに求めているのは何か。
明確に今の自民党、とりわけ安倍政治とは異なる政治であろう?
国民の方をしっかり向いた政治。誠実に議論を尽くす政治。嘘をつかない政治・・・。

それなのに、自民党と同じ、自民党と変わらぬ方針を打ち出してどうする!
反対のための反対をしろ、といっている訳じゃない。国民の求めるものをよく見ろ!ということだ。

だが、あああ・・・
民進党は安倍政権以上に、瀕死の状態だ。それこそ内部から腐っている!
もうここまで来たら、民進党は、その主義主張の異なるものは思いきって解体して、
真に野党らしい野党の姿を取り戻す方がいいのかもしれない・・・、と正直私も思ってしまう。
残念ながら、それが出来ると私が思っていた枝野氏は、『ただちに人体、健康に害が無い』
というあの当時の発言の故に、政治家として6年以上の月日を失ってしまった、と
私は思っている。
彼自身も、そのことは痛いほど自覚しているはずだ。だからこそ、彼は、これまでひたすら
代表戦などの表に出ることは控えてきたのではなかったろうか。
それが、彼の、福島の人々への贖罪の気持ちの表し方だったのではないかと、
私はひそかに思っているのだが・・・。

私は、震災後に書かれた枝野氏の著書も読んだ。そこには、枝野氏の人間としての
選択と、政権の責任者として全体を考えねばならない当時の苦しい苦衷・・・真情が
描かれていたと思う。
当時の菅首相の苦衷、政府の中枢にいた人々の困難は、その内部にいたものにしか
わからなかったろう。それらについては、菅氏や枝野氏のすぐそばにいた福山哲郎氏、
内閣広報室内閣審議官だった下村健一氏の証言などが、その極限状態の生々しさを
よく伝えていたのだが。

第三者は、あとになっていくらでも批判は出来るものだ。(あの3月、菅批判を繰り返して
いた安倍氏のように。福島第一の全電源喪失には、実は安倍氏の責任もあるのに、だ!)
その点で、私は当時の自民党総裁谷垣氏を高く評価していた。彼は必死の菅総理に
ねぎらいの言葉をかけ、全面的協力を申し出ていた・・・。谷垣氏が今、自民党にいない
ことを、私は心から残念に思う。

とにかく。その枝野氏が、ついに表に出てきた・・・
民進党の心あるものよ。枝野氏を中心にして民進党を立て直せ。
一時は議員が減るだろう。
だが、代表の足を引っ張り、自民党と何ら変わらぬ政策思想を持って、内部をかき乱す
だけの者がまだ必要なのだろうか?
迷っている民進党議員諸氏はよく考えてご覧。自民党と同じ政策を掲げて、国民は
民進党を今更支持などするか? それを野田氏以来5年間もやってきたから、ここまで
民進党は凋落したのではなかったか!!!


民進党の愚かさと安倍政権の奢りは、表裏一体のものだ。

このまま政治地図がダイナミックに動いて、小池百合子氏のようなひとを中心の、
『第二自民党』・・・いや、もっと右翼的な政党を生み出し、国民がそれに熱狂するという構図・・・
それはおぞましい・・・!
それよりはまだ、『安倍後』と俗に目される政治家たち・・・たとえば、岸田氏、
河野氏など、自民党でも比較的誠実な、と思える政治家たちの登場を待つ方が
ましなのか。
・・・そう、漠然と感じていた国民もいたのではなかろうか。
私も、あきらめと共にそう思っていたときに、このたびの内閣改造は行われた・・・。

閣外にいれば、彼らの安倍政策への意見も多少は役に立つだろうと思ってきたが、
閣内に自ら入ってしまえば、安倍政権の方針に敢えて異論を唱えるほどの気概が彼らに
あるかどうか疑問だ。
彼らもまた、『腐った林檎』になってしまった、のかな・・・。

『安倍後には、一抹の希望があるのではないか・・・』
その寂しい希望が、不安に変わった内閣改造劇であった・・・

その点、公然と共和党一部議員までもが、トランプ氏のひどいと思える政策に
反対を表明するアメリカは、まだ、政治家の良心や本当の意味での強さが残っていると
言えるかも知れない・・・


いつか、村上春樹氏が、
『日本に〈緑の党〉のようなものがないのが、問題だ』

というような意味の発言をしたと聞いたことがある。
私は、これを卓見だと思う。
日本人は、四季の移り変わりの豊かな、美しい自然の中で暮らしてきた・・・
(それを、あの原発事故は、取り返しのつかないまでに汚染してしまったのだが)
日本人の感性の中には、自然を恐れると共に自然と共に生きる感覚が根付いていると思う。
山や海、一本の樹木、無生物である岩や石にさえ、日本人は神性を見る民族である。
(安倍氏らの国家神道とは明確に違う!)
その日本に、『緑の党』のようなものがない。
ああ・・・・・・! 今、日本に、欧州における『緑の党』のようなものがあったらなあ!
環境を守り、貧困と格差をなくすための市民運動などと連帯する党だ。


私が民進党にとりあえず望みたいこと。
①安倍政権下での改憲阻止。
②脱原発(再稼働・新増設も認めない!)とクリーンエネルギーの
  国策としての推進。
③辺野古移転の凍結。
④そして。野党4党の共闘!
⑤政治の可視化、クリーン化。



消費税、防衛など、他にも議論すべき大事な問題はたくさんあるが、『とりあえず』!
上の4つなどを方針として打ち出してくれ。

だが・・・大変に残念なことに、これらのテーマは、実現される遙か以前に、すでに
もてあそばれ使い回されて、国民に訴えるには新鮮味をなくしてしまっているのかも知れない。
(なんと、不条理な、なんと、悲しいことだろう!!!)


私は、政治とは無縁に生きてきた人間である。そしてもう、老境にあって画期的に
新しいことなどはなかなか思いつかない・・・

その私に、一つだけ、民進党に提案できることがあるとすれば、
『SDGs』を明確に打ち出す政党になれ、ということだ。

『SDGs』。「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)
2015年9月、全国連加盟国(193国)は、より良き将来を実現するために今後15年かけて
極度の貧困、不平等・不正義をなくし、私たちの地球を守るための計画「アジェンダ2030」を
採択した。
この計画が「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals: SDGs)」である。
SDGsは、ミレニアム開発目標で十分に手を打てなかった課題に加え、Rio+20で
議論された深刻化する環境課題など17の目標と169のターゲットに全世界が
取り組むことによって『誰も取り残されない』世界を実現しようという壮大なチャレンジ。



・・・ここには、希望がある・・・・・・・・・・・・



 

『民進党よ!!! ②』



もうすぐ、民進党の代表選がある。
その本質において自民党と変わりない前原氏ではだめだ。
枝野氏を中心にして、自民党と明確に違う政策方針を打ち立てていかないとだめだ。
そして、4野党共闘は、安倍政治を倒すためにも絶対必要だ。

思えば・・・民進党はなんと早くここまで落ちぶれたことだろう・・・!!!
私は、正直言って、これまでずっと、共産党と社民党のどちらかに票を投じてきた者だ。
民進党に票を入れたことは全くないか、おそらくあっても一回くらい?しかない。
だけれども、野党第一党(だった・・・)民進党にはしっかりしてもらわねば困ると思って、
これまで、何回か、民進党を叱咤激励する記事を書いてきた。

実は、昨年の参院選では、民進党候補の演説会の応援に行きもした。
私のようなノンポリの老女でも、それこそ枯れ木も山の賑わい、と思ったからである。
と言っても、私の正確な立ち位置は、民進、共産、社民、生活ネット(小池支持の愚かさ!)の
いずれにもなく、それらが共闘する、と言う条件下で、一市民としてそれらすべてを
応援してきた、と言うのに近い。

・・・そうやって、遠くからながら、全くの末端からながら、それらの政党の選挙のあり方を
垣間見たとき、民進党の議員諸氏そしてその選挙運動の感覚の市民との乖離は、
大きな問題だな、と感じた。
まず第一に小回りがきかない。というか、敢えてきかせないようにしているのか?
と思うほど。
民進党の第一の問題点は、もう嫌になるほど言われてきていることだけれど、
『連合』との癒着、依存、であろう。
それがあるためにいつまでもその組織票に頼っていて、足場として一般大衆のところまで
下りてこない。連合の組織的選挙運動法の感覚から一歩も出られないのだ。
たとえば昨年の参院選で、なんとか改憲勢力阻止のため、祈るような気持ちで
野党4党の共闘を願い、なんとかそれらを叱咤激励してまとめようとした市民連合や、
なんとなく自民党に不満を持っている一般市民の気持ちがわからないのだ。
祈るような気持ちがわからないのだ。
そして、野党第一党であるという妙なプライドと意地だけは強いから、共闘する他の
政党や、手弁当で応援に駆け付けた市民たちのやり方に合わせない。

私は、どの政党に対しても、いつも本格的選挙運動には荷担せず、単に応援演説の
聴衆の一人であるとか、九条の会の一員として側面から応援とか、腕章を借りてビラ配りとか、
その程度の手伝いしかしてきていない。
それでも、市民運動のベテランと言われるような人々から、民進党の選挙運動への
あきらめと溜息まじりの慨嘆は、何回も耳にした・・・・・・

要するに、『市民のところまで下りてこない』のである。

大っ嫌いな自民党ではあるが、そういう点では、自民党の選挙運動の方が、『草の根』の
価値をよく知って実行しているように思える。
町会レベルの夏祭りなどにもこまめに顔を出す・・・日常での市民とのふれあいを
大事にしているのである。それが一方では、地元民と政治家の癒着を生むという
悪弊も生じさせてきたのではあったけれど、とにもかくにも、自民党は、大衆の末端
まで入り込むルートと手立てを持っている!
悪いがかつての社会党、そして民進党にはそれがないのである…


   ◆


民進党は今やがたがた。
細野、長島氏など、民進党の中でも自民党に近い考えの持ち主たちが、次々と離党していく・・・
まだ民進党に残った人々の中でも、自民党に極めて近い政治姿勢の人々がいて、それらが
いるために、民進党の『立ち位置』は、いつもぐらぐらしてしまう。
そういう人々が、なんとか党をまとめて解体させまいと努力する代表の足をこれまでも
いつもいつも引っ張ってきたように思うのである。
いわば、彼らもまた、『腐った林檎』である・・・。

面白いのは、(などと言ってられない状況なんだが)、あの細野氏と、日本ファーストとやらいう
のの代表、若狭氏とが、盛んにくっつこうとしているんだか単なる噂なんだかの動きのあること
である。
『あの細野氏』、と私が言うのは、私は彼のことを、非常に蝙蝠的な政治家だと思うからである。
細野氏は、東日本大震災の直後、菅政権で内閣府特命担当大臣、野田政権で環境大臣を
やっていた頃までは、まだどこかに一抹の『清新さ』があった。 震災後、原発事故後の
苦しみに直面する人々に、真剣な真面目な顔で向き合っていた感が、一応、あった・・・(かな?)

だが、その後の細野氏の動きは、極めて蝙蝠的、はっきり言って日和見主義的。
・・・彼自身の政治家としての定見がいっこうに見えない政治家、と言うイメージだった・・・。
個人のはっきりした政治思想や定見で動くと言うよりは、あるいは動かないでいるというよりは、
そのときそのときの風を読んで動く人、のような、日和見主義的なところが私などには見えた。

可笑しいというのは、その彼が、もしかすると、『あの小池氏』の一党とくっつくかも知れないと
いうことである。小池百合子、という人も、私は、極めて『蝙蝠的』もっといえば、『鵺(ぬえ)的』
政治家だと思っている。
彼女はとっても賢い。風を読むのがうまい。人心をつかむイメージ操作にも長けている。
そして、チャーミングな女性だ。何事によらず、『センスのいい人』だと私は思っている。
ひとりのひととして、私は彼女のことが嫌いというわけではない。ある意味見事な女性だ。
だが。彼女は『鵺』なのである。
本心を見せない。失敗もしない。柔らかい。したたかである。おそらく我慢強い・・・。

だが。政治家としては、その鵺的なところはどうなのだろう?
日本新党→新進党→自由党→保守党→保守クラブ→自由民主党(細田派→無派閥)→
都民ファーストの会へと、『渡り歩いた』というと語弊があるが、変わり身の早さを見せて
ついに、東京都知事の座に昇った彼女。最終目標は、日本の総理の座であろう。それも女性初の。
しかし、小池氏の政治思想がいったいどのようなものなのかは、巧妙に押し隠して
いるのでわかりにくい。
なにかこう・・・『鵺的』なのである・・・

『鵺(ぬえ)』・・・日本の伝承的物の怪。
サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。文献によっては胴体については
何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある。また、『源平盛衰記』では背が虎で
足がタヌキ、尾はキツネになっており、さらに頭がネコで胴はニワトリと書かれた資料もある。
Wikipediaより

そのように、彼女自身は、奥底にどういう思想を持っているのか滅多に見せない政治家だが、
彼女を支えてきた仲間たちの中には、極右と言われるような思想の人々がいる。
そのはっきりした例が、野田数(かずさ)氏である。
小池東京都知事特別秘書(政策担当)から、ついには都民ファーストの会代表になった。
東京維新の会時代の2012年には、『日本国憲法無効論に基づく大日本帝国憲法復活請願
を東京都議会に共同提出。「我が国の独立が奪われた時期に制定された」と
現行憲法の無効を主張し、皇室典範についても「国民を主人とし天皇を家来とする
不敬不遜の極み」と批判、「国民主権という傲慢な思想を直ちに放棄」すべきと主張。
というような、とんでもない思想の持ち主である。

小池氏は、この野田氏とおそらく根本の思想を一にする人であろう。
皆さんの記憶にも新しいように小池氏は、東京都議会選挙で全面に立ち、『都民ファースト』
を圧勝させた。
だが。選挙に勝つとすぐ、彼女は都民ファースト代表の座を、野田数氏に譲ってしまった。
・・・そんなのあり??!!
だって、都民ファーストにあれだけの多くの都民が票を入れた、と言うことは、小池氏の
存在が大きかったからだろう?
もし仮に、都民ファーストの代表が選挙時も野田数氏であったなら、小池氏がいなかったなら、
あれほどの圧倒的勝利は、あり得なかったはずだ。つまり、都民は、小池氏個人に
票を入れたのだと言っていいのではないか。
だって、50人だかの候補者たち自身は、箝口令が敷かれているかして、候補者としての
個性や自身の政策の表明は、皆無に近いほど出さないで、ひたすら小池氏の名を
連呼していただけなのだから。

小池氏から野田氏へのいわば内々での代表の座譲渡は、投票した選挙民への裏切り
じゃないか! 
都民ファーストに投票したあなた。野田氏が代表で表に出ていたなら都民ファースト
に票を入れましたか?表の顔が小池氏だったから入れたのでしょう?
このたびの都民ファーストの圧勝は、自民党政治、とりわけ安倍政権にほとほと
嫌気がさした人々の、いわば悲鳴のような想いが、小池氏という政治家の上に
集まった結果であったはずだ。
それなのに、この勝手な代表交代劇!!!
それを都民は怒らないのだから、全くどうかしてるよ。

と言う具合に、小池氏という政治家は、ぬるりするりと体をかわしてしまうのが非常にうまい。
その、鵺的政治家小池氏の一党と、日和見主義細野氏が結びつこうとしているのか?

そうして、なぜか。マスコミなどがこれをなにか望ましい動きででもあるかのように
持ち上げているような気配があるのが、私には非常に気に掛かる。
細野氏、長島氏など、民進党の離党組と、小池氏のお仲間の若狭氏・・・このほど
『日本ファーストの会』なる怪しげな政治団体を立ち上げた若狭勝衆議院議員が
どうやらくっつきそうな動きをしているのを、マスコミなどが、『政治の受け皿ができる』
かのように表現しているのが、私などにはおぞましくて仕方ないのである。

自民党政治に不満な人々にとって、彼らが『政治の受け皿』になり得るか?????
冗談じゃないのよ!
国民は、そんな表面的な『新たな』動きなどに惑わされてはいけない。
小池氏を私は『鵺的』で正体をなかなか見せない、と言ったが、彼女のこれまでの
政治家としての言動を注意深く見ていれば、その本質はとうにわかっているはずだ。
とりわけこのたび、9月1日に行われる関東大震災時の朝鮮人犠牲者追悼式への
都知事として寄せる追悼文送付を、彼女は断った。
そのことで、小池氏という政治家の本心というものは丸わかり、ではないか!

例年、市民団体で構成する主催者の実行委員会が要請。石原、猪瀬、舛添の歴代知事は
それに応じてきた。小池氏自身も昨年は送付していたのである。それがなぜか、方針転換。
今後も要請があっても出さない、と言う。
団体側は「震災時に朝鮮人が虐殺された史実の否定にもつながりかねない判断」と、
近く抗議するという。
1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生すると、「朝鮮人が暴動を起こした」などの
デマが広がり、民衆がつくった「自警団」などの手により、多数の朝鮮人や中国人らが
虐殺された。殺害には刃物や竹やりなどが用いられた。
私たち日本人が、それも私たちと同じ『普通の』民衆が引き起こした虐殺事件であった・・・・・・

その歴史的事実を直視することから目を背ける政治家。
それが小池氏の本質だ。
その彼女の元に、どうやら政界の有象無象が寄り集まっていくという構図・・・。
出来上がるものは、おそらく、今の自民党より粗悪な、しかも極右的性格を隠し持つ
ポピュリストの政治家集団だ。
そんなものが、国民の政治の受け皿になるというのか????

だが、正直言って、都民ファースト、日本ファーストなる政治団体の本性は、
あまり知られていないのじゃないか。
だって、マスコミはそういうところを報道しないのだもの。
マスコミが、日本会議や神道国会議員連盟などのこと、それに属している政治家たち・・・
とりわけ安倍内閣との強い関係を詳しく報道しないのと同じだ。
私が、反原発運動で個人的に顔見知りになった生活者ネットワークの人々・・・
皆、真面目で真剣に社会のことを考えて長らく活動している女性たちだが、その
生活者ネットワークの人々が、先の都議選で、あろうことか小池氏の一派と政策協定を結び
選挙協力をする、などということさえ起きて、私などはびっくりしたものだ。

小池氏は、政策の肝心なところについて何も言わない。
だから、彼女の一見ソフトムードに、人は、勝手に思い込みをする・・・。
だが、彼女の目指すところは、実は、『政治』でさえない、言ってみれば、個人的出世欲の
ひとなんじゃないか、と私などは見ているのだが。

とにかく。小池氏とその周辺の野田数氏や若狭勝氏ら『都民ファースト』『日本ファースト』
の政治家たちと、民進党の言っては悪いが『腐った林檎たち』、そしていつかは
あの橋下氏や渡辺喜美氏などや、これからもいっぱい出てくるであろう政界渡り歩き組、
が有象無象で寄り集まって、国民の真に願うようなクリーンな新党などできるはずがない、
ということだけは言っておきたい。

……しかしながら。
民進党が解体寸前のこの今のありさまでは、『従来の古い自民党も嫌だ、といっても
共産党も嫌だ』、という多くの浮動票とも言える層の人々が、雪崩打って、その新党に
流れていく可能性は大だと私は思っている。
その実、その新たな党は、自民党と何ら変わらない・・・いや、より右翼色の強い実体を
ソフトでお洒落な衣の下に隠した、よりうすっぺらな新党になることは目に見えているのだが。


…なかなか、『民進党よ!』という本題に入れないな…



『 民進党よ!!! ①』


民進党よ。

あなたたちの政党としての存在価値はどこにある?
自民党と同じことを言っていては、していては、だめなのだ、
ということが、あなたたちにはまだわかっていないようだ。
今更、第三自民党みたいなもの作ってどうする!!!

あなたたちは、野党4党の共闘無しで、すでにがたがたの民進党単独で、
来たる選挙に勝てると本当に思っているのか??!!

国民が求めているのはなにか。
腐りきった自民党政治におさらばすること、きつ~いお灸をすえること。
国民が欲しているのは、自民党に変わって政権を任せられるしっかりした野党。
公正な政治、誠実な政治、透明な政治、信頼に足る政治。
そして、徹底して国民目線に立った政治、なのではないだろうか。

民進党よ。国民の前に一度こころから頭を下げよ。
そして、今一度、一から立ち上がれ。


『72年目の夏に想うこと ③』


インパール作戦に関連してあと少し。

この8月21日付け、朝日新聞朝刊の『政治断簡』 は、偶然だが、インパールに関する
私の記事に重なる部分が多かったので、全文を引用させていただく。
なお、行変えや強調などは勝手ながら彼岸花がさせていただいた。


〈政治断簡〉『あなたが黙ると、窒息するのは…』 
     編集委員・松下秀雄 2017年8月21日付け 朝日新聞朝刊 


 記録も記憶も「ないない」という政権をみて、内部告発のありがたさに気づく。
ないはずの文書が漏れ、違うぞと証言する公務員がいなければ、いろんな事実が
闇に埋もれていただろう。
 危ういな、とも思う。匿名の告発や退職後の証言が続くのは、現役は「おかしい」と
思っても声を上げにくい環境にあるからじゃないか。
 もし周りにいるのが従う人ばかりなら、権力はやりたい放題できる。それを主権者の
目から隠すのも簡単だ。だから異議を唱え、告発する人に頑張ってほしい。
あなたが黙ると、民主主義は窒息する。
 むろん、私も黙らない。メディアの沈黙も、同じ結果をもたらすはずだ。

     *

 「従う人」で思い出したのが、ナチス親衛隊中佐、アドルフ・アイヒマンだ。
 ユダヤ人を絶滅収容所に送る責任者だった彼は、自身を裁く法廷で「命令を実行しただけだ
と主張した。裁判を傍聴した哲学者、ハンナ・アーレントは「悪の陳腐さ」を指摘した。
命令に従っているだけだと思えば、良心の痛みが軽くなる。凡庸な人にも非道な行為ができる。
 戦後のドイツは、自分で判断する「個人」を育てようとした。
軍人も、人の尊厳を傷つける命令には従わなくてよい、違法な命令に従ってはならない
という「抗命権」「抗命義務」を法に記した。
 「従っただけ」は、戦後の国際法廷では通用しない。
ボスニア紛争の際の「スレブレニツァの虐殺」(95年)で、住民を虐殺する命令に抗議した
ものの、ならばお前を殺すと上官に脅されて、手を下した人が有罪になった。
 自分の頭で考え、責任も負う。そんな「個人」像は日本に根づいているか。
「個人主義」とは「わがまま」を指すと思われていないか。

 前川喜平・前文部科学次官は、私も編集に携わる月刊誌「Journalism」9月号用の
インタビューで語った。

 「日本では、自分を捨てて全体のために尽くすのを美徳とする意識が根強い。
学校の部活動にも、そんな意識や旧軍的秩序が残っています。
たとえば、独裁者のような
教員の指図や先輩後輩の無意味な上下意識をなくし、一人ひとりが改善すべき点
などを考えて、自分たちで部活動をつくる。
考える訓練をしないと、ポピュリズムや全体主義に押し流される危険があります
 「民主主義がナチスの独裁を生んだドイツでは、なぜそうなったか徹底的に考え、
戦後の民主主義を作り直した。日本は『一億総ざんげ』で済ませてしまいました


     *

 戦後の日本では、戦争の悲惨さを伝え、平和憲法を守る運動が展開された。
けれどこの先も平和が続くのか、あやしげな気配が漂う。
かつての日本は何を間違えたのか、改めて考える時ではないか。
 その一つは、異議や疑問の封殺だと思う。旧軍では上官の命令は天皇の命令とされ、
命令の理由を聞くことも認められていなかった。そして、人命を限りなく軽んじる作戦や
行為が繰り返された。

 考える「個人」を、窒息させた結果だった。





          ◆


内部告発。
抗命権、抗命義務。
自分の頭で考える訓練。
異議や疑問の封殺。
前川喜平・前文部科学次官の言葉・・・。

これらについてそれぞれに書きたいけれど、とりあえず、松下氏のこの文章のどこに
共感したか、は、私の赤字、太字、アンダーラインなどの入れ方で、おわかりいただけると思う。
また、加計学園問題など記事を書き続ける中で、その都度取り上げてみたい。

続きを読む

『72年目の夏に思うこと ②』

昨日の記事で、
『インパールは、時代を超えて、辺野古とつながっている…
そしてそれは、福島第一原発事故ともつながっている。
さらにそれは、加計・森友問題、自衛隊日報隠蔽問題ともつながってくるのである・・・・・・。

過去を凝視しないものは現実をも見ようとはしない。

過去を一つの視点からぎりぎりと徹底して見つめていけば、それは必ずいつか
『普遍』とつながっていくと信じて私は記事を書いている……。』

と書いた。
少しく補足しておこう。それはたとえばこういうことだ・・・

25日深夜(26日午前0:50~)のNHKスペシャル『戦慄の記録 インパール』を、
是非ご覧になっていただきたい。
このインパール作戦の作戦立案の時点から作戦の経過、そして最後に責任者たちの
責任の取り方までの、一連の軍上層部の信じられないような杜撰さや凝り固まった精神主義、
前線の兵士たちに過酷な無理を強いる一方で軍上層部内での妙な温情主義など、
そしてそれらが引き起こした何万という兵たちの無残な死まで。
そのすべてを、あるいは部分を、論じている文章の中で、私が、とても共感したのが、
山本七平氏の『一下級将校の見た帝国陸軍』の中のこの文である。
(分かち書きは、私がした)

『いろいろな原因があったと思う。そして事大主義も大きな要素だったに違いない。だが
最も基本的な問題は、(中略)
一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。
陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、
「言葉を奪った」ことである。
日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、
これがあらゆる諸悪の根元
であったと私は思う。

何かの失敗があって撲られる。「違います、それは私ではありません」
という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが
加えられる。黙って一回撲られた方が楽なのである』


『帝国陸軍では本当の意志決定者・決断者がどこにいるのか、外部からは絶対にわからない。
その決定が「命令」との形で下達されるときは、それを下すのは名目的指揮官だが、
その指揮官が果たして本当に自ら決断を下したのか、実力者の決断の「代読者」
にすぎないのかは、解らないからである。そして多くの軍司令官は「代読者」にすぎなかった。
ただ内部の人間は実力者を嗅ぎわけることができたし、またこの「嗅ぎわけ」は、
司令部などへ派遣される連絡将校にとっては、一つの職務でさえあった。』(
中略)


・・・ああ!
この2つの文を読んでいて、なんと!安倍政権のやり口と似ているのだろう!と思う。
そしてまた、下の方の文は、なんと!このたびの森友・加計問題、自衛隊日報隠蔽問題の
例にぴったりと当てはまるのであろう!

『言葉を奪うこと』。
このことは、安倍政権の、とりわけ数回にわたる衆参両院選挙で圧倒的多数を得て後の
安倍政権に際立って見える特徴なのではないかと私は思っている・・・
逆に言えば、『(国民から)言葉を奪うこと』の効果を、この政権は知り尽くしていることだとも言える。

自分に批判的なジャーナリズムの口を封じようと、じんわりと圧力をかける・・・
国会において、野党の批判に『ニッキョーソ、ニッキョーソ!』などという野次でもって応じる・・・
批判されると、相手の野党の失点(とりわけ民進党の)をあげつらって、論点を変えてしまう・・・
安倍氏だけではない。
『沖縄の二紙を潰さないといけない』、と言った、安倍総理の親しい友人にして前NHK
経営委員の作家。
『(マスコミに対し)私らを落とすなら、落としてみろって』『あんたらどういうつもりで書いているか
知らんが、我々はお金払って(新聞を)買ってんだよ。』と言った、二階敏博前自民党幹事長。
そして、菅義偉官房長官は、加計学園問題に絡んで証言した前川喜平前文部科学事務次官
について、『地位に恋々としがみついていた』などと、前川氏個人を非難することで
証言の信頼性に疑問を投げかけるような、そして彼の証言をそれ以上は封じるような
発言を記者の前でする・・・
記者の追及に立腹して、『出て行きなさい!』と言った今村元復興大臣・・・

こういった安倍政権の態度は、日本の報道の自由度のランキングをさらに下げ(世界180カ国中、
なんと72位。民主党政権時の2010年の11位に比べると、その下げ方の甚だしさ!)、
さらに今年6月、国連の人権理事会報告で、デービッド・ケイ氏が日本政府の報道関係者への
圧力を懸念する表明をしたことは記憶に新しい。日本の報道の自由について、世界が見る目は
こういうものだ、ということを、私たちは自覚しておいた方がいい・・・。

そして。2つめの文章。
本当の意志決定者・決断者がどこにいるのか、外部からは絶対にわからない。
その決定が「命令」との形で下達されるときは、それを下すのは名目的指揮官だが、
その指揮官が果たして本当に自ら決断を下したのか、実力者の決断の「代読者」
にすぎないのかは、解らないからである。そして多くの軍司令官は「代読者」にすぎなかった。
ただ内部の人間は実力者を嗅ぎわけることができたし、またこの「嗅ぎわけ」は、
司令部などへ派遣される連絡将校にとっては、一つの職務でさえあった』

と言う、山本七平氏の、インパール作戦における日本陸軍に対する批判は、
『実力者』を『総理』や『防衛大臣』に、『指揮官』『軍司令官』『代読者』『連絡将校』などと
いう部分を、『首相側近』『首相のとりまき』『大臣』『官僚』などという言葉に置き換えれば、
なんと!森友・加計問題や、自衛隊日報問題で登場した人々の上下関係や、
不思議な『忖度』構造と酷似しているのであろうか!!!

この、『意思決定の過程の曖昧さ』・・・『下の者が上の者の意図を汲んで動く』・・・
『明確な責任者の不在(もしくは雲隠れ)』・・・そうして『誰も最終的に責任をとらない』・・・
『組織的証拠書類等の隠蔽体質』・・・
などといった、旧日本軍の体質的病理は、なんと、今の日本政府の・・・それだけではない、
今の日本の多くの組織のそれと酷似してはいないだろうか。

福島第一原発が、あの取り返しのつかない過酷事故を起こすに至った過程と、その後の
処理などを巡る東電や原子力ムラ、政府・行政等のやり口も、酷似している・・・・・・。
あれほどの重大な事故を起こして福島の人々の、憲法第25条に保障された『すべて国民は、
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』という『生存権』を侵して
置きながら、誰一人としてあの事故の責任をとっていない、というこの構造!

そのような組織的無責任構造のもたらしたことが、常に末端にいるもの・・・戦場においては
彼我の最前線の兵士たちや無辜の民、現代においては、末端の労働者や一般市民に
犠牲を強いていくこともまた、とてもよく似ているのではないだろうか?


インパールと福島第一原発事故の関係についてもう一つ。
上層部がその多くは戦後、悲劇について、口をつぐんだり徹底した言い訳に終始したのに比して、
前線にいて、辛くも生還した兵士、下級将校らは、戦後何十年の時を経て、ぽつぽつと
その惨状について語ってきだしていた・・・・・・
あるいは黙して語らずとも、戦後の自らの生き方そのもので、行き場のない強い『批判』の想いを
示した人もいたのだろうかと想う。

その中の一人に、美倉重夫という人がいる。
彼はインパール作戦に従軍。戦後、1988年より和歌山県日置川町町長を務めた。
同町に出来した原発誘致問題において反対の姿勢をとり、中止への原動力となった。
その根本には本作戦での体験が影響しているという・・・・・・。

・・・そうなのだ。インパール作戦しかり、南京虐殺しかり。人間がしでかすことの恐ろしさ、
おぞましさをひとたび知ってしまった人が、どうして『原子力発電』などというものに、
その日本への導入のいきさつの胡散臭さに、その危険に、無頓着でいられるだろう?

和歌山には紀伊半島にはなぜ、原発がないのか。それには、この美倉重夫さんという元日本軍兵士や、
『熊取六人衆』と呼ばれていた小出裕章さんら京都大学原子炉実験所の科学者たちの応援も得て
反対運動をした住民たちの力があったのだ。
美倉さんのことを書いた1988年の毎日新聞の記事を見たくて、今日図書館に行ってみたが、
毎日新聞の縮刷版は置かれてなかった・・・


もう少し、この記事続きます。




『72年目の夏に思うこと ①』


『ああ・・・記事を書かねば・・・』と思いつつ、夏が過ぎていく・・・。

ここ数年、夏に、とりわけ8月に、記事の数が少なくなっている・・・
書くことがないのではない。ありすぎて、どこから手をつけるべきか逡巡しているうちに、
書く気力も時宜も失ってしまう・・・ということが続いてきたのである。
書かずにいた記事は、こころの中に澱のように沈殿して溜まっていって、なおさらに書くことを
難しく、気重に、していく・・・・・・

ふ~~・・・・・・・・・

森友学園問題。加計学園問題、自衛隊の日報隠蔽問題・・・・・・
共謀罪法成立・・・・・・
北朝鮮の脅威の名目を借りたとどめを知らぬ安倍内閣の軍備増強・・・
『日本ファースト』なるいかがわしい政治団体の立ち上げ・・・
自民党と変わらぬ思想を持つ前原氏に集まる民進党議員・・・(ばかじゃないの?!
自民党と鮮明に異なる旗を掲げなければ、民進党はお終いだと言うことがまだわかってない!)
やれやれ・・・全く、出るのは溜息ばかりだ。

しかし、どの問題も、徹底的な追及はなされないままに、十分な論議も尽くされないままに、
また、この夏も過ぎていこうとしている・・・
そしていつしか、マスコミも、国民も・・・安倍政権にとって都合のいいことに、それらを忘れて
行くのである・・・・・・
私もまた、発言しなければ、同じことだ。

仕方がない。溜まった澱は少しずつ掬い取らねば・・・・・・。
書きかけのままの記事がたくさんある。まずはそれらを一つずつ仕上げてアップしていこうか・・・。
その前に。是非、観ることをお勧めしたい映像をご紹介しておく。


              ***


1.『戦場ぬ止み』(いくさば ぬ とぅどぅみ)





何で、これまで私は、この映像を見なかったのだろう・・・

結局、私も、沖縄の苦しみを『他人事』としてしか見ていなかったからだ・・・。

先の戦争で、日本の罪を一身に引き受けさせられて、戦場となってしまった沖縄・・・
本土と天皇の安泰と引き換えに、基地の島となってしまった沖縄・・・
普天間基地の辺野古への移転問題で、その沖縄の民を、『国』が『国家権力』でもって
さらに分断していく・・・
辺野古の海をふるさと沖縄を守れと移転に強固に反対する者・・・生活のために反対はしないという者・・・
基地反対運動の支援に外部から来た支援者たち・・・それらを国家が分断していくのだ。

2014年の翁長知事の誕生は、その分断された沖縄が、一つになれる!と、住民たちが
狂喜した瞬間だった。そのすぐあとに行われた衆院選の結果もオール沖縄の圧倒的勝利であった。
それらの選挙結果は、沖縄は辺野古移転に反対する!という、沖縄県人の政府へのNO!という
重い回答であったはずだ。
しかし。そのわずか三ヶ月後の2015年3月、辺野古の海のボーリング調査は、政府によって
強制的に再開される・・・県警や機動隊、海上保安官らに排除される反対住民たち・・・。

この映画は、2015年制作のものである。
だから、映画はそこまででストップしている・・・
その後の動きは、皆さんもおよそご存じでいらっしゃるだろう。
安倍政権は、沖縄の声に全く耳を貸さないで、辺野古の海は、着々とアメリカのための巨大
海上基地へと形を変えられつつある。
3年前、あれほどの熱狂と感動でもって迎えられた翁長新県知事は、今、冷酷な政府の対応と
県民の期待の間に板挟みになって、孤立と憂愁を深めつつある・・・

私は、日本国民として、沖縄のために何をしてきたか!
沖縄の問題は、日本という国が抱える歪みが、もっとも先鋭的な形で表われているのだということ、
沖縄の問題は、日本政府ばかりではない、私たち日本人全員に突きつけられた重い重い課題だ
ということ。
2年前の映画ではあるが、沖縄の現状、そして安倍政権、日本の政府というものの非情が
この映画一つ見れば、心に突き刺さるほどにわかる・・・
是非、レンタルででもいい、ご覧ください。



2.NHKスペシャル『戦慄の記録 インパール』
   2017年8月15日放送
   再放送:8月26日(土)午前0時50分~2時03分(25日深夜) 


再放送が25日深夜(26日の午前0時50分から)あるので、これも是非ご覧ください。
実は、You Tubeにはすでに全編がアップされているのだけれど(You Tubeで『インパール』と
検索すれば、『戦慄の記録 インパール』は出てきます。ちなみに、NHKでは、今夏、インパールに
先だって、『731部隊』のこと、8月15日以降も樺太で行われた戦闘のことなどもやった
のだが、その映像もある。『731部隊』の記録は、私には物足りなかった。731部隊のひどい
現実は、そんな程度のものではなかったはずだ……)一応、NHKの番組サイトを載せておく。
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170815

インパール作戦。
1944年(昭和19年)3月から7月初旬まで。連合国の中国支援の軍事物資ルートを遮断する
ために、日本軍はビルマの密林をぬけインド北東部にある都市インパールの包囲攻略を
目指した。
日本軍にとって太平洋戦争史上もっとも愚劣で無謀で悲惨な結果となった作戦の一つ。
食料・弾薬などの補給線を軽視した作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫した。
3ヶ月間の総兵力およそ92,000。うち、およそ30,000人が命を落とした。
戦闘で命を落とした者よりは、飢餓とマラリアなどの病で『野垂れ死』とも言っていい
無残な死に方をした兵士の方が遙かに多かった。日本兵の死骸が累々と続く道は、
『白骨街道』と呼ばれた・・・
作戦立案し強固にこの作戦を進めた牟田口廉也中将を初めとして、これらの作戦の失敗と
兵の無残な死に責任を負うべき軍の上層部は、誰一人として戦後責任をとっていない。

いつかインパール作戦について書こう書こうと思いつつこれまで、まだ書けないでいる。
本当は、火野葦平の『土と兵隊』『麦と兵隊』などの記事を書いたその後、大本営報道班
の一員として彼がインパール作戦を視察した経験を元にして書いた小説『密林と兵隊 青春と泥濘』
のことを書こうとしていたのだが。
いつか必ず書こうと思う。

半藤一利、保阪正康氏の対談『昭和の名将と愚将』(文春新書、2008年)という
本がある。
そこから少し引用しよう。

保坂 『私は牟田口には会えませんでしたが、インパール作戦に参加した元兵士には
    ずいぶんお会いしました。彼らには共通する言動がありまして、大体は数珠を
    握りしめながら話すのです。そして牟田口軍司令官の名前を出すと、元兵士のだれもが
    必ずと言っていいほどブルブル身を震わせて怒った。「インパール作戦での日本軍兵士の
    第一の敵は軍司令官(牟田口のこと)、第二は雨期とマラリアの蚊、第三は飢餓、そして
    英印軍はやっと四番目だと戦場で話し合った」と言う生存兵士もいました。
    牟田口が前線から離れた「ビルマの軽井沢」と呼ばれた地域で栄華をきわめた生活を
    しているといううわさは矢のように前線の兵士に伝わっていたようですし、実際に牟田口は
    そこからひたすら「前進あるのみ」と命令をだしていた』
半藤 『しかも作戦の失敗を部下の三人の師団長たちに押し付けて、自分は責任を問われぬまま
    生き延びたんですから、前線にいた兵士たちの憎しみは並大抵ではないはずです』
保坂 『ええ。インドからビルマヘ、仲間たちの死体で埋め尽くされた「白骨街道」を引き上げて
    きた無念の思いは生涯消えることばなかったと思いますね』
(中略)
保坂 『「あの男は許せない。戦後も刺し違えようと思っていた」と言った人、「牟田口が
    畳の上で死んだのだけは許せない」と言った人もおりました』


火野葦平の上記『密林と兵隊』では、フィクションではあるが、火野が取材しておそらく
聞き取ったか耳にしたそうした上層部の腐敗と兵士たちの憤怒が、火野自身の
怒りの筆で、鬼気迫る迫力で描き出されている・・・
 
              ◆


実は、インパール作戦についてのNHK番組としては、1993年に同じNHKが制作した
下記の番組のほうがきめ細かい作りかもしれない。
8月25日深夜のNHKスペシャルを見られない方は、こちらをどうぞ。
ただ、今度の25日深夜の再放送の方をぜひ見てほしいその理由は、NHK取材班が
頑張って、73年前、日本軍兵士たちが行軍した同じ道を…道なき道を…たどってみた
実際のカラー映像があることである。
そうして、3万もの兵士たちが、どこで死んだか、どのように死んでいったかを地図上に
分布図で示していることである……その絶対的量!
さらには、今回新たに証言しようとした元日本軍兵士の方もおられて、自分が死ぬ前に
長い長い間の沈黙を破り、事実を証言しておこうとしたそれらの人々の話を、是非
一人でも多くの人に聞いてもらいたいからでもある…中には、飢えのあまり、仲間の
兵隊の死体を食べたという証言もある……
熱帯雨林の草木の、息が詰まるように生い茂る道なき道を、かつて自分たちの父や兄や
叔父や祖父などが…、進軍し、そして無残に死んでいったのだという実感が、圧倒的な
重みで伝わってくるはずだ…。





*私はここで、牟田口廉也中将を厳しく批判して書いているが、25日のNHKインパール作戦
についての番組で、牟田口氏の親戚のお一人が、貴重な資料を番組のために提供して
くださっているその勇気に感謝したい。牟田口廉也中将を責めることが、遺族の方々への批難と
なってはならないと思う。
またいつか別の記事で書きたいが、旧日本軍兵士たちは、とても口にできないようなことを
数々、アジアの各地で目にし、あるいは自ら犯してきた…。
多くの兵士たちは、生涯その重みを抱えて、何も語らぬまま、語れぬまますでに亡くなられている…
だが、最晩年という今になって、長い長い間口にできなかったことをぽつりぽつりと語りだした
人々がいる…
彼らを責めてもならない。
なによりその話を聞いてほしい。
事実を知ることが大事なのだ…


            ◆



私がインパール作戦など日本軍の不条理を追及することは、単に、日本人兵士の死を
悼んで、当時の陸海軍上層部および政府、そして総責任者たる昭和天皇の責任を
問おうとしているだけなのではない。
およそ『国家』というものが、時に自分の国民にどういう不条理を強いるものか、ということを
書こうとしている。
それは、ひいては、『国家』というものが、他国の民に何をしうるか、ということを示唆する
ことにも必ずつながっていく
と信ずるからである。
自国の民をさえ無慚に戦場で無駄死にさせうる『国家』『軍』というものが、他国の民に優しいと
いうことがあるはずがないのである。
自国の兵をさえも、いくらでも替えのある『ただの捨て駒』としか考えない『国家』や『軍』
というものが、他国の兵や民に対してどういう態度をとるか・・・。
その非道は…少し想像してみればわかる。

私は、かつての大日本帝国とその軍が中国や朝鮮半島はじめアジアの各地で犯した罪は、
それらが、自国の民に対して犯した罪と、表裏一体なのではないかと考えてきた…。

もちろん、『国家』や『軍』というものの中味は、その実体をなすものは、私たち日本人自身、
私たち日本国民一人一人である。
国家の罪を考える、ということは、私たち国民一人一人の罪を考える、というのでなければ
おかしい。


そういう視点に立つとき、日本の戦争を日本の側からぎりぎりと見つめていくことは、
日本が他国にしてきたことの罪を、ぎりぎりと見つめることに必ずつながっていくと考える。

そしてそれは、かつての戦争を振り返ることにとどまらない。
現在この国で起きていること…世界で起きていること…そこに必ずつながっていくと
私は信じている。インパールは、時代を超えて、辺野古とつながっている…
そしてそれは、福島第一原発事故ともつながっている。
さらにそれは、加計・森友問題、自衛隊日報隠蔽問題ともつながってくるのである・・・・・・。

過去を凝視しないものは現実をも見ようとはしない。

過去を一つの視点からぎりぎりと徹底して見つめていけば、それは必ず『普遍』と
いつかつながっていくと信じて私は記事を書いている……。



『腐った林檎』


第3次安倍第3次改造内閣が発足した。
数日前からテレビでは、新閣僚となる人々(留任も含め)がどんな顔ぶれになるのか、
といった予想で持ちきり。政治記者、コメンテーター、司会者、ゲストなどが嬉々として
ああでもないこうでもないと、下馬評を展開していた。
こういうものを見ていると、なんだか、今回の内閣改造で、森友・加計問題、稲田氏の
自衛隊日報隠蔽への関与など、安倍政権の抱えていたどろどろの問題の数々がまるで
綺麗に払拭されて、新しい清らかな風が吹き始めでもしたかのような錯覚に、私のような
反安倍政権のものでさえつい陥ってしまいそうになるから剣呑である・・・・・・。
(無論、自虐的冗談だが。)

一般の国民は、果たして今回の内閣改造の結果をどういうふうに受け止めたのだろうか・・・
多少でもこれで安倍一強政権に風穴があいた、少しはましな政権になるんじゃないか、と思ったか。
それどころか、安倍氏は、真摯に反省しているようだ、と、好感を持って受け止めたか。
それとも、『なにも変わりはしない・・・』と、冷めた目で見つめていたか。

私は無論、なにも期待しない。
むしろ、一見、安倍氏が謙虚になったような印象を与えることで、逆に、その危険さが増した、
とさえ思って警戒を強めているところである・・・
自分の個人的悲願のためならいくらでも頭を下げる、政治姿勢が変わったのかと思わせるような
ポーズでも何でもしてみせる。そのことで、このひとの改憲への本気度を確認したように思うからである。
森友・加計問題や自衛隊日報問題に見るような、この政権の隠蔽体質や、異常なほどの
巨大『忖度』構図は、ちょっと内閣改造したくらいでは変わりはしないし、問題が明らかに
解明されたわけでも無論全然ない!

安倍氏だけではない。
自民の一強という点ではなにも変わりもしないし、改憲勢力三分の二越えという危険も
何ら去ってはいない。

国民は、ますますこの政権のありようを、しっかりと見つめていかないと。
国民の厳しい目こそが、政治の腐敗を防ぐのである。そのことに国民はもっと
自覚と確信を持つべきだ。

さて。
書きたいこと言いたいことは山のように溜まっているのだけれど、とりあえず、今回の
内閣改造について感じたことを書いてみよう。
この記事のタイトルを『腐った林檎』としたのには、痛烈な皮肉といたたまれないほどの危惧
をそこに込めているからだ・・・

『腐ったリンゴを樽に戻せば樽の中は全部腐る』
これは、実は、今回外務大臣に任命された河野太郎氏が、2009年の自民党総裁選に
立候補したときの弁の一部である。そのときの彼は、この『腐った林檎』という表現で、
森喜朗氏などの自民党の重鎮支配を皮肉っていた。
実は、この腐った林檎に関する表現には出所があって、英語のことわざの
One rotten apple spoils the barrel.


を、英語で演説が出来ると言うほどの英語力を持った河野太郎氏が引用したもの。
(rottenの代わりに bad、 the barrelの代わりに a hundred などさまざまに異なる表現あり。)

私は、もしかしてこれが安倍政権の内閣改造でなかったならば、河野太郎氏の外務大臣等の
起用を、歓迎していたかも知れない。河野太郎氏は、私が自民党の中で唯一支持するに足る
政治家であり、脱原発などその言動に賛同することも多く、また、党内にあって歯に衣着せぬ
正論を堂々と吐くひとなので、好きなのである。
もし私が、自民党支持であるならば、この人なら総理大臣にしてもいいと思う数少ない
政治家のひとりである。
私が、自民党内で評価している数少ない政治家としては、もうひとり茂木敏充氏がいて、
この人も今回、経済再生相として入閣した。
茂木氏の名を覚えたのは、あの2011年3月11日。東日本大震災で、福島第一原発事故が
起きて、原発の行く末についてNHKなどで盛んに与野党の代表の討論などが行われていたとき、
この人が、自民党代表として、しゃべっているのを聞いたときからだ。
彼は、非常に穏やかな議論の仕方をする。まず反対意見の相手の言も良く聞く。しかる後に
自分の意見・党の考えを、言葉を選びつつ、わかりやすく説明する。
無論、自民党であるから、原発推進派には違いないのだけれども、その論議の進め方、
言葉の選び方、そして何より議論への誠実な向かい合い方・・・で、私はこの人を非常に
信頼に足る立派な政治家だと思ったのであった。
非常に頭のいい人だ。
惜しむらく、河野氏か茂木氏が経産相だったら、もっとよかったのだが。(脱原発に希望が・・・)

というわけで、今回の安倍内閣改造には、2、3、評価出来なくもない点はあるにはあったのだが。

だが。
いみじくも、その河野氏が2009年に言った言葉、『腐ったリンゴを樽に戻せば樽の中は
全部腐る』、というのが、まさに、今回の安倍内閣改造人事で憂われるのである。

世評では、ひょっとすると、リベラル派と俗に言われる岸田氏までもが、安倍氏に今度は閣外から
『協力する』形になったこと。安倍氏に遠いとされていた野田聖子氏が総務大臣というポスト
を得て入閣したこと。また、国民の間で人気の高い、これまた安倍氏にはこれまで少し
一線を引いていた小泉進次郎氏までもが筆頭副幹事長という党のポストに就いたことなど、
これまで安倍政権のなにかと批判の的になっていた『おともだち人事』からの脱却が行われた
といって、今回の改造が好感を持ってみられるかも知れない。
『これで、安倍一強体制にも風穴があいた』『これで、安倍氏も、党内の反対意見にも
耳を貸すようになり、独善的でなくなるかも』・・・・・・などと期待されて。

しかし、私は、これらの人々が、閣内や、閣外ではあっても、重要ポストに就くことで、
逆に安倍内閣に取り込まれてしまい、その清新さ(仮にあるとすれば、だが。!!!)を
失ってしまうのではないか、ということを懸念する者である。

安倍氏は、二次政権として総理の座に戻ってきてから、非常にしたたかになった・・・
そして巧妙になった・・・
氏の政治家としてのおそらく原点であり悲願であるいわゆる『日本国憲法を自分の手で
変えて見せた』という実績作り。
その目的のためならば、多少の不愉快も我慢する。どんな手も使う・・・・・・
安倍首相は、今回の森友学園、加計学園、自衛隊の日報問題、その他自他を含む
多くの問題や失態に対して、国民の目が一挙に厳しくなったことを、痛烈に自覚して
いると思う。
自民党内部にも、『王様は裸だ』ということに気づいてしまった者たちがぶつぶつ不満や批判を
漏らし始めたことには、それ以上の危機感を持ったことだろう。
国民や党内部の支持を失うと言うことはイコール悲願の改憲に危険信号がついてしまう
と言うことだ。
今回の内閣人事は、従って、相当に考え抜かれた、いわば背水の陣とでも言うべき
覚悟の体制を組んできたように思える。

それだけに、誰がなに大臣になったの、誰が入閣しなかっただのといって、お祭り騒ぎに
これをしてしまってはならないのである。
今回の人事は、相当に巧妙に行われている・・・
安倍氏の反対勢力、ともまあ一応目されるべき人々が、入閣や閣外の重要ポストを
得たことで、安倍政権に取り込まれてしまって、せっかく少し芽生えた『安倍一強体制』
への疑問や不信、それから、安倍氏でないと今はだめなんだという思い込みへの疑い、
いわば、『王様は裸なんじゃない?』というつぶやきが、これでまた潜ってしまう、ということが
考えられるからである。
それは、国民の意識の問題としても同じだ。
これが、安倍政権のさまざまな不祥事や体質的不正への国民の不満のガス抜きに
なってしまうのでは、安倍氏の思惑にまんまと乗せられてしまうのも同然となる・・・

私は、安倍氏を嫌いだから、言っているのではない。
明らかに、こういう政治はおかしいと思うから、こうやって批判をしている・・・・・・

考えてもみよう。
・一国の代表たる政治家たちが、自分の友人や自分の思想に近い者ばかりを優遇する・・・
それも、どんなに客観的に見ようとしても異常な関係と目に映るほどに。
・一方で、自分にとって都合の悪い情報を流したりする者は、排斥し遠ざける。
・ときには、その人の個人的生活までもを引き合いに出して、それを自分に非常に近い大新聞に
すっぱ抜きさせる・・・
・自分たちに都合の悪い文書は『怪文書』などと決めつけて、その存在を無視し、その一方で
それに反論する材料となるような『正当な?』文書などは自分たちからは示せない。
・いよいよ出てしまった都合の悪い情報に対しては、問い詰められても『記憶にない』
『覚えていない』『記録がない』の一点張りで、どうにか逃げ切ってしまう・・・
・首相や内閣、政治家のためではない、国民のために動く清廉のひとを、よってたかって
潰してしまう。(前川氏のことだけを言っているのではない。)
・いよいよ自分たちに火の粉が及びそうになると、『とかげのしっぽ切り』でもって
部下にその責任を負わせてしまう!
・『平和』『活躍』『思いやり』などなど、本来いい意味の言葉も、彼らが多用悪用する
ことによって、イメージがどんどん汚れていき、言葉ばかりか、その言葉の持つ
価値や理念までが崩れていってしまう・・・
このことの恐ろしさを、みんなもっと考えた方がいい。言葉は理念なのだ。
『理念』の腐りきって崩壊した国家など、そんなおぞましいものがあろうか。
・国民のために、『公』のために働くべき人々が、あるいは上からの圧力のために、
あるいは自分自身の保身のために、上の意向ばかりを『忖度』するようになって、
官僚機構、政治機構が、土台から腐っていく・・・


このようなことが、今、国の上の方で、堂々とまかり通っているのだ。

こうしたことが、国中に広がっていってもいいのだろうか???
子供たちに、こういう生き方が得だから真似しなさいと、教えるのか???
『正直者は馬鹿を見る』『言ったもの勝ち』『やったもの勝ち』・・・そういう無責任が
国中に横行していいのか???

腐った林檎は、周りを腐らせていくのである・・・
『朱に交われば赤くなる』などというものではない。じわじわと・・・気づかれもせぬうちに・・・
国が、人心が・・・、腐っていくのだ。



森友、加計問題などについては思うこと多し。
また別に書こう。









『キャンドル・ナイト 76』


76回目のキャンドル・ナイトだ。


キャンドル・ナイト76③




実は、義姉が亡くなって、その葬儀に行っていた。
と言っても、家には介護の必要なつれあいがいる。
一人残していくのは心配だったが、食べるもの必要そうなもの、みな身近なところに用意しておいて
早朝4時台の始発に乗って新幹線に。
そして葬儀にだけ出てまた新幹線でトンボ帰りという慌ただしさだった・・・
家に帰り着いたのは、夜10時過ぎ。
ふ~ぅ・・・

しかし、義姉は、15年間病いと闘って、雄々しく美しく逝った・・・
若い頃、元ミス○○○というような経験もあったひと。病と闘った痕跡も、年齢の刻む
残酷なしるしも感じさせないような、ふくよかで美しいとさえ言える死に顔だった・・・

兄とも15年以上会っていなかったが、義姉と同じ歳の兄は、体つきも昔のまま、大きな声も
昔のまま、あまり年齢による衰えをきたしていないのを今回知ることが出来て、少し安心した。
お互いに年を考えれば、もしかすると兄と妹としてのこれが別れになるかも知れないと
覚悟して行ったのだが・・・

否応なしに迎える老いのこと・・・
無論。6年前の大震災と原発事故のこと・・・、九州の大雨被害・・・
命について いろいろ思ってしまう旅であった・・・

心楽しむ旅では無論なく、家に残してきた体の不自由なつれあいのことを案じつつの旅。
それでも家から離れて一応『旅人』の境遇に我が身を置いてみれば、家に居ては考えない
だろうこともあれこれの思念となって胸の内を通り過ぎていく・・・

と言っても、新幹線の行き帰り、と言うだけの景色しか見ていないのだが。
新幹線の車窓からだけ見る景色は、たいして面白いものでもないのだけれど、
なにかいつも好きだ・・・。
新幹線の窓と同じ高さにあるオフィスビルの一室の窓の内に働く人の姿・・・
向こうはもちろん新幹線の窓から私に見られているなどとは知りもしないわけだが、
今の今、眼下の交差点を渡っていく白いワイシャツ姿の青年の顔や仕草がはっきり
見えたりもする・・・
まあ、なんと工場群がいっぱいあることか・・・超一流企業のも、小さな工場も・・・あそこでは
やはりそれぞれに暮らしや日々の想いを抱えた人々が、今日も働いているのだ。

ずっと昔…
高校を卒業してわずか3か月の間だけ、会社勤めをしたことがある…
母校が探してくれた東京の株式一部上場会社の技術課勤務だったのだが、
大学にやはり行きたくて、学費のあても受験しても通るあても何もないまま、
若さの勢いで、3か月で退職してしまって、不安定なアルバイト生活に入ったのだった・・・
だが、その3か月の間のOL経験は、いつも妙に懐かしい。
お昼になって社員食堂に行くときのあの感じ、お昼を食べ終わってわずかの残り時間に
同じ課の人間たちが輪になってバレーのトスを楽しんでいたことなど・・・
新幹線から見えるあれらの工場の一つ一つに、若い頃の自分自身がいるような、
そんな気がすることがある・・・。
沿線に続く田んぼの光景。その青田の中に一軒だけぽつんと、民家とも倉庫とも
つかぬ建物が立っていたりする。
あそこにひとがもし住んでいるのなら、夜はさぞかし寂しいだろう…でも、なんていいのだろう!

決して美しいなどとはお世辞にも言えないそうした沿線の景色に、いつも私は、美しい
観光地に行った以上の旅情というか、旅の興趣を感じる・・・

東京駅を出てすぐの巨大なビル街で以外は、実はいつも新幹線沿線に人間の姿というものは
案外少ない。稲が青々と育っている田や耕作放棄された畑地や、人気の見えない工場群や、
東南側にぐるりと小山が重なってあって、なにかこう・・・見ていて寂しさと圧迫感を感じてしまう
ような土地に、ひっそりと立つ新しい建売住宅の数々・・・それらにも人の姿は見かけない。

だが。当然のことだが、車窓から姿は見えずとも、それらに人々は生きている・・・
新幹線と並行して走る農道を行く軽トラックにだって、当たり前だが誰かが乗っているわけだ。
そう思うことは、なにかふっと涙ぐんでしまいたくなるような感動というか、人々への共感を、
いつも私の胸に引き起こす。

いつ見ても同じように見えて変哲もない新幹線からの光景ではあるけれど、実は気をつけて
見ていれば、そこに今の日本の現状の、さまざまな姿が、様相を変えて現れていたりもする。
一年前に乗った時よりは明らかに増えているように見える沿線の太陽光発電施設の広がりは、
一種の異様さと非現実感を持っていきなり目に飛び込んでくる・・・
ああ・・・耕作放棄地が増えているようだなあ・・・
ああ・・・ニュースにもなった静岡の河川の異常渇水。今も解消されていないようだ・・・
それに比して、木曽川、長良川は豊かな水量を見せて流れていて、ほっとさせる・・・
東京は空梅雨で、我が家の裏の川も白い河床が見えてしまっている。 だが、
どこでだったかな、関東の少雨と晴天続きが嘘のような雨の光景もいきなり現れた。
それほど距離のない山々が見えなくなるほどの激しい雨の中に新幹線が突っ込んで、
私ののぞき込む窓にも雨が横殴りに吹き付けていたかと思うと、10分後くらいには、
乾いた道の光景が来たりもする・・・

それらの脈絡もない光景を通じてなぜかそれでも感じるのは、日本の『疲弊』である・・・
日本も老いたのだな、という想いである・・・
無論、新しく勃興してくるものもなくはないのだが、また、日本経済の土台骨を長く支えてきた
有名企業の広大な、美しく整備された工場敷地なども次々に窓外には現れてきて、日本経済の
底力というものは信じられるのだが、それでもそれらの力や勢い、というよりは、やはり
過去には新しく生き生きしていたであろうものらの否応無しの老朽化のほうが、どうしても
目についてしまう・・・。
さび付いていろいろなものが剥がれ落ちたままに、外装のメンテナンスもされていないような
建物や工場群のなんと目につくことか・・・

それらの光景から感じるのは、『あきらめ』にも似たある種の静けさ、だ。
その一方で、それでも生き抜いていこうという人間のたくましい意思だ。

新幹線沿線の景色を見つめ続けていると、いつでも私は、そこに確実に生きている
姿の見えない人々への共感に、胸がいっぱいになる・・・

そうして。また、政治のあるべき姿のことを思ってしまう・・・

支持政党とか思想信条とか、派閥論理とかそんなものを超えて、政治は、生きている現実の
人間を大事にしなくてどうする!と思ってしまうのである。
それは、つい頭でっかちに理想を語りがちな自分への痛い認識でもある・・・

新幹線に乗ると、いつも、一億三千万分の一の暮らしが、ほんの一部だが、見えてくる
ような気がしてしまう…  
その中に私も無論いる・・・東京郊外の、小さな我が家の窓の灯りもその中の一つだ・・・

そして。
ああ・・・!このあたりは、2年前、娘と共に乗っていて、うたた寝から覚めたら急に雪景色に
変わっていたあそこだな、などとも思う。娘が隣で、連日の仕事に泥のように疲れて眠っているのを
『雪だよ』と言って起こしたことなども・・・。

私のように、たった一度トンボ帰りしただけで疲れてしまう人間などお笑い種。
仕事で日常のように東京ー大阪間を一日のうちに往復する勤め人なども新幹線には
当然乗っている。そういう人種らしききちんとした背広姿の一団も整然と乗り込んできたり
するのだが、そういう人々の旅慣れした振る舞いは、いつも美しいなと思ってしまう私である。

いつも東京に帰り着くのは7時過ぎだ・・・横浜あたりからの大都会の夜景は、文句なしに
華やかで美しい。高層ビル群の窓窓には煌々と明かりが点り、まだ仕事をしている
男女の姿も新幹線の窓からは見えたりする。
これまた私には縁のない世界だったが、この華やかな姿も日本の一つの現実ならば、
わずか数時間の日本一部縦断で見た光景の一つ一つもまた現実の姿。 

難しいことを言おうとしているのじゃない。
生きていくというのは、なんと愛しいものか、と、新幹線に乗るたびに思う。
そのことだ。



















南亭さんバナー②




心ひとつに キャンドルナイト








葉っぱさん、れんげちゃん。NANTEIさん。
今月もバナーお借りします。
 









『共謀罪法案に反対する ③』

2017年6月14日。今晩中にも、平成の悪法、共謀罪法案は、自公維新らによって
参院法務委員会での採決をもすっ飛ばしたかたちで、異例の本会議強行採決が
実行されそうだ。

国会の内・外において、必死でこの悪法の成立に抵抗している議員諸氏、そして一般の
市民に強い連帯の思いを伝えたい。
本当なら、私も、国会前に行って抗議の声を上げていたい・・・

この共謀罪法案は、テロ防止、オリンピック・パラリンピックを無事行うためのものなどではない。
それらは口実である。

共謀罪法を、このように国民にもその趣旨説明不徹底のまま、かくも急いで採決成立させたい
安倍政権の意図を、国民はもっとしっかり考えてもらいたい。

私が考える、共謀罪法案の真の意図は、以下の通りだ。

①警察権(とりわけ公安警察)の拡大強化。
②市民運動など政権に反対する運動の萎縮とジャーナリズムの体制批判萎縮。
③森友学園・加計学園問題からの視線反らし。
④アメリカからの要望(スノーデンなどはそれを指摘している)
⑤やがてもくろんでいる改憲のために、改憲反対言論・集会などの力をそぐこと。

簡単に書いているが、そのそれぞれに深い説明が必要だ。
また続けて書いてみる。

一つ言っておきたいことは、今回の共謀罪法案は、それだけを見ていては、その本質的危険が
本当にはよくわからないだろうことだ。
共謀罪法を理解するためには、戦前戦中の治安維持法がどんなものだったかを知る
必要があるだろうし、
安倍政権および自民党の共謀罪へのこだわりを読み解くには、敗戦前後の日本の
政治史をやはり知ることが必要だろう。

・・・かくしたのちに、すべては、安倍氏およびそれを取り巻く人々の、『現行日本国憲法を
否定し去りたい』という執念にたどり着く。というか、そこからすべては出発する。
安倍氏が3年後の2020年にもくろんでいるらしい日本国憲法の破壊。
そこへすべてが集約されていく。

彼らは何がしたいのか。
『国民主権』のシステムを破壊し、戦前の『国家主権』の社会に回帰することだ。
全く時代錯誤でおぞましい、理性的に考えてあり得ない野望なのだが、彼らは大真面目である。
彼らにとって、おそらく、天皇さえ主ではない。
『既得権益の岩盤規制を破壊する』と口では言いつつ、実際は、内閣総理大臣を
中心とした『行政権』のますますの強化、権力集中が目的であろう。
そのためには、国民、ジャーナリズムの反抗の牙を抜き取っておく必要がある。

物言えぬ、おとなしい国民を作り上げること。
通信傍受法(盗聴法)改悪、秘密保護法、マイナンバー制度、共謀罪法・・・
そしてすでにとっくに為された教育三法改定など教育への過介入(森友・加計学園問題は
これと無関係ではありません)・・・。
これらはみんな、密接に結びついている。

そんな、一内閣による、国の姿そのものの破壊を、みんなは黙って許すのですか?




『日本国憲法施行の日に』

一昨日5月3日は、日本国憲法が施行されて70年目の日だった。
昨年の5月3日。私は、江東区有明にある東京臨海広域防災公園で開かれた、
憲法を守る『5・3憲法集会』に行っていたんだった・・・
だが、今年は、そういうことも出来なくなってしまった・・・家を空けられなくなったからである。
今年も同じ場所で行われた憲法集会の様子をテレビなどの報道で見ながら、複雑さと
寂しさの入り混じった思いでいた・・・

集会やデモなどには出られなくても、私に出来る、改憲への動きに対する断固抗議の
表明は、やっぱりきちんとしておかなくては・・・。
言うべきときに物言わず、一生後悔するような愚は繰り返したくない。

今、衆参両院では、『静かな環境』のもと(国民の目に見えにくいということと同義だ)、
憲法審査会で、憲法のどこを改訂するのかなどということが話し合われている・・・
この3日には、安倍晋三首相は、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と表明。
改正項目として9条を挙げて『1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方
を示した。いよいよ。首相が、改憲に、具体的に、表だって、動き出してきた!!!
衆参両院における改憲発議のための要件である三分の二、という議席を獲得してからは、
もう、何も遠慮することはなくなっている。

私たち国民は、いつまで知らん顔を決め込んでいる???
憲法は、私たちの暮らしだけでなく、生き方そのものをがらりと変える力を持っているのですよ!


私は、昨年の11月3日。現日本国憲法が公布されて69年目の日に、こんな記事を書いている。
『日本国憲法公布の日に』
もう一度、いや、何度でも、再掲したい。
憲法が『改悪』されてからでは遅いのだから。


                     ***


         『日本国憲法公布の日に』
             (これは、2016年11月3日に書いた記事の再掲です)


こんな調査のデータがある。
ご覧になったことおありだろうか。


世界の憲法に謳われている権利ランキング


これは、今からちょうど4年半前、2012年5月3日付の朝日新聞に載っていた
記事中のデータである。
本文を、下の方に引用させていただくが、簡単に言うとこういうことだ。

                   ***  

2012年、ワシントン大学(米ミズーリ州)のデービッド・ロー教授と、バージニア大学の
ミラ・バースティーグ准教授が、成文化された世界のすべての憲法188カ国分を分析した。
第2次大戦後の1946年から2006年まで、各国憲法の改正や独立国の新憲法をチェックし、
国民の権利とその保障の仕組みを項目ごとにデータ化。国際的な変化が年代別に分かるように
した
のである。
上の表は、その結果のうち、日本とアメリカを比較したもの。

少し説明しよう。
ご存じのように、私たちの日本国憲法は、今からちょうど70年前の1946年11月3日に
公布され、翌年1947年の5月3日に施行された。
私たちの憲法は要するに今から70年前に作られたのだが、信教の自由、報道・表現の自由、
平等の保障、集会の権利、団結権、女性の権利、移動の自由の権利、労働権…などなど
以上にあげた国民の諸権利を、70年前にすでに憲法で国民に保障している、
極めて先見性に富んだものであって、それは今も、世界の憲法の最先端を行っている、
ということなのである。


アメリカの合衆国憲法と比べてみよう。
アメリカ合衆国憲法では、日本国憲法で保障されている『団結権』『女性の権利』
『移動の自由』『労働権』『教育の権利』『違憲立法審査権』『身体的権利』などが
2012年のこの時点でまだ成文化されていないのである!


横軸に、『1946年』『1976年』『2006年』とあるが、この下の数字列が何を意味するかというと、
たとえば、『女性の権利』でいえば、1946年の時点では、世界の憲法中、それを
明文化してある割合は35%しかなかった、ということである。ところが1976年には70%、
2006年には91%の国で、憲法に『女性の権利』が謳われることになった、ということである。
『身体的権利』については、いまだに79%の国でしか憲法で保障されていない。
日本ではどうか。

奴隷的拘束・苦役からの自由(18条)
適正手続を受ける権利(31条)
不法な身体拘束からの自由(33条)
理由の告知・弁護人依頼権を与えられなければ抑留・拘禁されない権利,正当な理由なく拘留されない権利(34条)
令状がなければ住居侵入・捜索・押収されない権利(35条)
拷問・残虐な刑を受けない権利(36条)
公平な裁判所の迅速な公開の刑事裁判を受ける権利,刑事被告人の証人審問権,弁護人依頼権(37条)
自己に不利益な供述を強制されない権利(38条


…こんなに多くの条項で、国民が不当に身体的拘束を受けないよう、憲法で守っているのである!
既に70年も前に。
『アメリカから押し付けられた恥ずかしい憲法である!』、と、今、一部の人々が
これを根本から変えてしまおうとしている私たちの現行憲法は。


最後の60番目に挙げられている『武装する権利』のところを見てみようか。
当然アメリカは、憲法でこれを保障している。だが日本では、ご存じのように、憲法第9条
で不戦の誓いをし、『戦力はこれを保持しない』と謳っているので、この項目は×印に
なっている。
今、自衛隊を今のあいまいな位置づけから『国防軍』と明確に位置づけ、内閣総理大臣を
その最高指揮官と位置付け、国民にも国とともに国土を守ることを義務付けした
憲法草案が、自民党によって出されている。
『軍隊を持つ普通の国』と、総理やその周辺の人々などは盛んに言うが、しかし、
この表を見ると、憲法で『武装する権利』を明文化などしている国は、世界の188カ国中、
わずかに2%しかないのである!
しかも、それは、1946年の10%から、2006年の2%へと、減ってきているのである!



               ***

この調査は、今日本を分断する『護憲か改憲か』、などという二項対立から全く離れたところで、
アメリカの大学教授たちが客観的に行った調査である。
『日本では、米国の「押しつけ」憲法を捨てて、自主憲法をつくるべきだという議論もあるが』
という問いに対して、デーヴィッド・ロー教授の言った言葉。
『奇妙なことだ。日本の憲法が変わらずにきた最大の理由は、国民の自主的な支持が強固
だったから。経済発展と平和の維持に貢献してきた成功モデル。それをあえて変更する
政争の道を選ばなかったのは、日本人の賢明さではないでしょうか』




この言葉を、改憲を目指す政府与党だけでなく、憲法のことをあまり考える機会の少ない
国民全員に、11月3日というこの日に、もう一度しっかり噛みしめてもらいたいと、私は思う。

確かに、ドイツ、カナダなど、憲法の条文を何回も変えて、時代や環境に合わせるように
改善してきた国はたくさんある。
だが。 これらの国々に見る通り、

憲法をもし変えるのであれば、前のものより優れた
ものになっていなければならないはずだ。

およそ先進国とも名乗る国で、憲法を改悪する国などどこにあろう。

世界にこうして誇れる私たちの日本国憲法が70年前に公布された
この日が、それを時代に逆行する悪法に変えようとしている勢力によって、
復古主義的な『明治の日』に変えられることなど、私は断固として反対する。



               ***


   『日本国憲法、今も最先端 米法学者ら、188カ国を分析』
                  2012年5月3日付「朝日新聞」          
世界に民主化を説く米国の憲法は、急速に時代遅れになっている。一方、日本の憲法は今でも先進モデル――。米国の法学者たちが世界の国々の憲法をデータ化して分析した結果だ。日本の憲法は3日、「65歳」になるが、世界の最新版と比べても遜色がない。
■最古の米国、時代遅れに
 分析したのは、ワシントン大学(米ミズーリ州)のデービッド・ロー教授と、バージニア大学のミラ・バースティーグ准教授。対象は成文化された世界のすべての憲法188カ国分。
 第2次大戦後の1946年から2006年まで、各国憲法の改正や独立国の新憲法をチェックし、国民の権利とその保障の仕組みを項目ごとにデータ化。国際的な変化が年代別に分かるようにした。
 それを見れば、時代とともに新しい人権の概念が生まれ、明文化された流れが読める。たとえば、女性の権利をうたった憲法は1946年は世界の35%だけだったのが06年は91%に、移動の自由も50%から88%に達した。最近では、お年寄りの権利も上昇中だ。
 国別に見ると、国際情勢の断面が浮かぶ。独立後間もない18世紀に定めた世界最古の成文憲法を抱える米国は、長らく民主憲法の代表モデルとされてきた。だが、この研究の結果、特に1980年代以降、世界の流れから取り残される「孤立」傾向が確認された。
 女性の権利や移動の自由のほか、教育や労働組合の権利など、今では世界の7割以上が盛る基本的な権利がいまだに明文化されていない。一方で、武装する権利という世界の2%しかない「絶滅」寸前の条文を大切に守り続けている。
 米連邦最高裁判所のギンズバーグ判事は、民衆革命を昨年春に遂げたエジプトを訪ねた際、地元テレビでこう語った。「今から憲法を創設する時、私なら米国の憲法は参考にしない」。憲法の番人である最高裁判事自らが時代遅れを認めた発言として注目された。
 米国に代わって最先端の規範として頻繁に引用されるのは、82年に権利章典を定めたカナダや、ドイツ、南アフリカ、インド。政治や人権の変化に伴い改廃を加えてきた国々だ。憲法の世界でも、米国の一極支配から、多極化へ移っている現実がうかがえる。
■不朽の先進性、実践次第
 一方、日本。すぐに思い浮かぶ特徴は戦力の不保持と戦争の放棄をうたった9条だが、シカゴ大学のトム・ギンズバーグ教授によると、一部でも似た条文をもった国は、ドイツのほか、コスタリカ、クウェート、アゼルバイジャン、バングラデシュ、ハンガリーなどけっこう例がある。
 世界から見ると、日本の最大の特徴は、改正されず手つかずで生き続けた長さだ。同教授によると、現存する憲法の中では「最高齢」だ。歴史的に見ても、19~20世紀前半のイタリアとウルグアイに次いで史上3番目だという。
130502kenpou  だからといって内容が古びているわけではない。むしろ逆で、世界でいま主流になった人権の上位19項目までをすべて満たす先進ぶり。人気項目を網羅的に備えた標準モデルとしては、カナダさえも上回る。バースティーグ氏は「65年も前に画期的な人権の先取りをした、とてもユニークな憲法といえる」と話す。
 ただ、憲法がその内容を現実の政治にどれほど反映しているかは別の問題だ。同氏らの分析では、皮肉なことに、独裁で知られるアフリカなどの一部の国々も、国際人権規約などと同様の文言を盛り込んでいるケースが増えている。
 「同じ条文であっても、どう実践するかは国ごとに違う。世界の憲法は時代とともに均一化の方向に動いているが、人権と民主化のばらつきは今も大きい」。確かに日本でも、女性の権利は65年前から保障されてはいても、実際の社会進出はほかの先進国と比べて鈍い。逆に9条をめぐっては、いわゆる「解釈改憲」を重ねることで、自衛隊の創設拡大や海外派遣などの政策を積み上げてきた。
 日本では、米国の「押しつけ」憲法を捨てて、自主憲法をつくるべきだという議論もある。それについてロー氏は「奇妙なことだ」と語る。「日本の憲法が変わらずにきた最大の理由は、国民の自主的な支持が強固だったから。経済発展と平和の維持に貢献してきた成功モデル。それをあえて変更する政争の道を選ばなかったのは、日本人の賢明さではないでしょうか」(ワシントン=立野純二)」



『あなたの明日を選ぶ』


『 (略)・・・ニュースピーク〈二重思考〉過去の可変性。彼は、自分自身も怪物になっている
奇怪な世界で道を失ったまま、海底の森のなかをさまよっているような気がした。一人ぼっち
だった。過去は死に、未来は想像の外今生きている人間がたとえ一人でも自分の味方に
なるという保証がどこにあるというのだ?
 そして、党の支配が決して永遠には続かないなどと
どうやったら知ることができるというのだ?
 そうした問いに答えるかのように、真理省の白い
壁面に掲げられた三つのスローガンが再び目に飛び込んできた。

 戦争は平和なり
 自由は隷属なり
 無知は力なり』
  



             ***


上の文は、今から68年前の1949年、第二次世界大戦が終わった2年後に、あるイギリスの作家が
出した小説の中の一節の引用である・・・。

なんという題名の本かなどということを明かす前に、引用文中の赤字部分の言葉の
説明をしておこう。なぜなら、これらの言葉は、このフィクションの中で創設された言葉
でありこの本が描く世界の中心概念だから、であって、これらを理解すれば、およそ
この本の概要も読まずともつかめ(読み通すにはあまりにも暗い本である!)、また
私のこの記事の主題もこの中にあるからである。

①『ニュースピーク』(new speak) : この小説の舞台となっている(架空の)国家『オセアニア』
    における公用語。この国家の掲げるイデオロギーにとって『異端』であり国家支配のために
    邪魔な思考を、ひとびとの思念そのものから排除するために改変された新語法。
    国家にとって好ましくない旧来の語彙はすべて削除されている。人々に科学的思考を
    もたらさないよう、science(科学)などという言葉自体が抹殺され、democracy(民主主義)などと
    いう語も、もはや存在しない。
    残された語彙でも、好ましくない意味は改変あるいは縮小されてしまっている。
    たとえば、『free』という言葉は、もはや『政治的に自由な』『知的に自由な』などという意味は
    抹消され、『この犬はシラミから自由である』というような使われ方しかしない。
    ニュースピークは、人々の思考を『縮小』させ愚民化して、国家による管理を
    さらにしやすくするために考案されたものである


②『二重思考』(doublethink): 矛盾した2つの概念も同時に受け入れる ことができるという
   オセアニア国民に要求される思考能力。たとえば、権力者が『2足す2は5である』、
   『これは黒だ!』と言えば、国民は、『これはどうしたって白だろう』と思う、その
   自分の本来正しいと思う現実認識さえも自己規制して、それを信じるようにならねば
   この国家で生きていくことが許されない。
   権力の求める思想に背くことは許されない。人々は、どこにいようが、その内面まで
   テレスクリーンという一種の双方向テレビや思想警察によって常時監視されている。

   反体制分子とされるものは過酷な尋問拷問にかけられる。そうして最終的に
   真に内面までも党を愛するようにならなければ、処刑抹殺される。この国では
   もはや、『思想・良心の自由』などと言うものは存在しない。『内面・思考の自由』すら
   監視・統制されている。
   その監視を行っているのが、『愛情省』である。

③『過去の可変性』:ニュースピークの元では、好ましくない旧来の語彙がめまぐるしく削除改変
   されていくので、過去の書物や記録も、常時上書きが行われている。これにより、権力にとって
   好ましくない過去は、記録からも、人々の記憶からも抹殺されて『そもそもなかった
』ことに
   されてしまう。その過去の改ざん、また現実の糊塗を、大々的組織的に担当しているのが
   『真理省』である。



              ***


どうだろうか。これは、70年近く前の近未来小説なのであるが、世界が今、向かっていこうと
している社会を創造させて、私にはそら恐ろしい。

この引用文は、イギリス、ジョージ・オーウェル作のディストピア(ユートピアの逆。暗黒境)
小説、『1984年』である。
(ハヤカワepi文庫、高橋和久訳による)
世界が大きな三つの全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描く。


CIMG7201.jpg
 (表紙についた白い埃のように見えるのものは、そういうデザインです。念のため。><)



正直に言えば、実はこのオーウェルの小説は、彼が1936年、スペイン内戦で
共和政府の義勇軍に参加したとき、共和制を守りファシズムと戦うという本義を
そっちのけに、派閥争い、主導権争いを繰り広げたスターリニズムの粛清の実態を
見て、ソ連型社会主義に対する憎悪と批判を抱くようになった、一種の『反共小説』
なのだと言われている。
だが、全体主義の恐怖は、何も共産主義社会に限らない。民主主義を標榜し、
自由主義社会と名乗る国家にだって、全体主義の思想はあっという間にはびこっていく
ものである・・・
オーウェルは、決して、単なる『反共主義』などという括りに入れられるようなそんなものを
目指して、この恐ろしい小説を書いたのではないと、私は思っている。
彼が描いたディストピア(暗黒世界)の萌芽は、至るところに現在も見られるものなのである。
オーウェルが設定した1984年はとっくに過ぎてしまったけれど、その30年後の今、
この空想小説が描く暗い世界に私たちは近づいているようで、この10行に満たない引用
の中にさえ、オーウェルがこんな世界を来させたくないと想像したディストピアと私たちの
選ぼうとしている世界のいやな近似が見られるのである。
白を黒と言い含められ、内心『白ではないのかな』と思いつつも、支配者が『これは黒だ!』
と言えば、『そうか。黒なのか・・・』と納得するしかない、『二重思考』の世界は、
ああ!トランプ政権の言い草ややりくちと、なんと酷似しているのであろう!
明らかにオバマ大統領の就任式よりは少ない会衆の数を、『史上最大の聴衆だった!』
と報道官に言わしめ、それを記者らに事実誤認ではないかと追及されると、トランプ新政権の
大統領顧問ケリーアン・コンウェイ氏はそれを『オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)』
だ』と言って、言い抜ける・・・。

『オルタナティブ・ファクト』という言葉と共に、アメリカでは、このオーウェルの『1984年』
が、元々学生たちの必読図書ではあったのだが、それを超えて、書店で大きな売り上げを
示しAmazonでは売り上げ一位になったという・・・。

アメリカなど海外の話だとばかり言って済ませてはいられない。
この小説が描くディストピア世界を、この日本が、先進国の中で一番早くしかも深刻に、
潜在的に招来しつつあるのではないかと、私は思っているのだ。

ニュー・スピーク。権力者に都合の悪い言語をとことん削っていって、言語そのものを
単純化、目的のための手段化してしまう、ということは、この日本で気がつかぬうちに
実は進められていることである。あるいは、私たち国民自身が自ら好んで進めていって
いることではないのか。
そんな馬鹿な!とお思いだろうか。
では。この政権下で文科省が強力に押し進めている、国立大学の人文・社会科学系
学部・学科の規模縮小化、という流れはどうであろうか。
小泉政権、第一次、第二次安倍政権・・・で進められている国立大学への『交付金』
という名の締め付けで、人文・社会科学系学部の哲学科や社会学科、史学科、宗教学科など、
また理系学部でも基礎数学、基礎工学などの、経済効果とすぐに結びつかない学問は、
この国では規模縮小どころか存廃の危機にさらされている・・・

『哲学科』などがなぜ大事なのか、と問う人もいるだろうか。
私自身も哲学という学問には全く弱い。古今の哲学者の著作も全く読んでいない。
だが。哲学、基礎数学など、そうした学問の重要性はとてもよく認識しているつもりである。
哲学は、あらゆる学問の女王である、とも言われているそうだ。
それはなぜか。
・・・今、『なぜか』と私は問うた。・・・まさにそこだ。
哲学は、『何故か』を問う。基礎数学もそうだ。
哲学や倫理学、宗教学、基礎数学などが大事なのは、それらが、人間の思考を鍛え上げる
学問だから、である。人間の認識そのものを問う学問だからだ。宇宙を含めた『存在』
そのものを問う学問、といってもいい。
史学や社会学も言ってみればそうだ。人間とは何か。人間はどう生きてきたのか・・・。
今どう生きているのか・・・。

日本でそのような学問の教育の場が縮小されていきつつあり、また学生自身も
そのような基礎的学問の重要性をあまり理解していないのではないかと思われ、
就職に有利な実利的学部学科を専攻する傾向があるのに対し、たとえばアメリカの
理工学部出身者は、大学院で専門科目を学んだのち、あるいはそれと同時に、
人文教養学系の学部に入り直して、哲学などを学ぶものが多いという。
それは、彼らの専門とする理工学をさらに極めていくためにも、科学系にこだわらない
幅広い視野や深い視点を身につけるのに、こうした人文教養系学問分野の重要性を
彼らが理解しているからである・・・
フランスでは、高校において哲学は必修科目であるという。(日本では『倫理』は
社会科選択科目の一つであり、文科省資料によれば、その履修率は、わずかに37%)

こんなドキュメンタリー映画がある。
フランスのセーヌ地方のZEP(教育優先地区)にあるジャック・プレヴェール幼稚園。
そこでは、3歳~5歳の子どもたちが哲学を学ぶという世界的に見ても画期的な取り組みが
行われていたのだが、これは、その様子を2年間にわたって密着取材したドキュメンタリー映画
なのである。
まずはなにも言わない。予告編だけでも十分である。是非見てほしい。





一方、ほぼ同じ年齢の子供たちの通う、日本の森友学園の幼稚園では、教育勅語を
子供たちに暗唱させる。いったん事あれば天皇のために臣民は命を投げ出せ、と言うものだ。
これを日本の安倍政権は、憲法や教育基本法に反しない範囲であれば、道徳など
教育の場で使っていいと、閣議決定までしてその復活を無理矢理認めてしまった。
そしてこの幼稚園では、子供たちに運動会の宣誓で、こんなことまで言わせている
のである。

大人の人たちは、日本がほかの国々に負けぬよう 尖閣諸島、竹島、北方領土を
守り 日本を悪者として扱っている中国 韓国が心改め 歴史教科書で嘘を教えないよう
お願いいたします

そして、子供たちはさらに、『安倍首相ガンバレ!安倍首相ガンバレ! 安保法制
国会通過よかったです!』
と、大きな声で叫ぶのである!




無論、子供たちに罪はない。大人が言えといって言わせているだけだ。
しかし・・・上のフランスの幼稚園と、なんという違いであろう!

ジャック・プレヴェール幼稚園の哲学の時間。
『みんなは頭の中で何かをする』と、先生が言う。すると、一人の小さな子が手を上げて、
『考える!』と答えるのである。先生は言う。『言葉を出して話すんだ』と。
これは、3~5歳の子が、すでに、『人間は「ことば」を使って思考する』という認識に
近づいていると言うことを示しているのだ。・・・すごいことじゃないか?

一人の子は、『貧しい人はどうやって貧しくなるの?』とつぶやく・・・

また。『愛』についてみんなで考えようとしているとき、一人の子が『結婚はよくない』と
つぶやくと、別の子が、揶揄するようにブーイングのような声を出すのだ。すると、
もう一人別な子が、『彼の話を聞けよ』と言ってたしなめるのである。
先生は別の場で言う。 『人と意見がちがうこともあるの』と。
子供たちはここで、人の考えにはいろいろあること。その多様性を認めることを
自然に学んでいく。と言うより、自分たちで考えて見つけていくのである・・・・・・

森友学園の教育方針がどうあろうが、それも多様な考えの一つであると言うことは
認めよう。だが、大人たちがまだ幼い子供たちに、教育勅語を丸暗記させ、特定の
国への排他的表現を、あろうことか幼稚園の運動会の子供たちの宣誓の代わりに
言わせる・・・
安倍総理ガンバレ!と、そんな場で言わせる・・・

あなたは、自分の子供たちを、どちらの幼稚園に入れたいと思うだろうか・・・
それも、選択は自由である。

(余談だが、『ジャック・プレヴェール』は、フランスの詩人で、あの有名なシャンソン
『枯葉』の詩を書いたひと。また、『天井桟敷』のシナリオを書いた人でもある。
フランスでは、国語教育が重視され、子供たちにヴィクトル・ユーゴーやラ・フォンテーヌの詩など、
古今の詩や小説の名作の暗唱をさせるそうだ。フランスの誇る詩人の名を冠する
幼稚園と・・・教育勅語を暗唱させ・・・あとは言うまい。)



だが。
一国の総理、およびその夫人が、このように特定の教育思想を持つ学園に共感し、
森友問題が報道で大きく取り上げられるようになるまでは、それを褒め称えるような言を
公に述べていたこと。
しかも、夫人が、この森友学園に新設される予定だった小学校の名誉校長に
なることを頼まれて、結局、問題が大きくなるまではそれを良しとしていたこと。
総理本人も、きっぱり断りはしたらしいが(それは信じたいが。)その小学校に
『安倍晋三記念小学校』と言う名前を籠池氏側がつけたのが、寄付金集めなどに
利用されたことなど、こういうことが、国民みんなの代表であって、国全体を預かる
総理大臣およびその夫人によって為されていったいいいのであろうか?!

国家公務員法』
第七節 服 務
(服務の根本基準)
第九六条 すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、
且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。

また、日本国憲法第三章
第十五条第二項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。



内閣総理大臣は、国家公務員法第二条第三項に掲げられている通り、立派に
国家公務員である。
国家公務員に『一般職』と『特別職』があるうちの『特別職』に
あたる。
つまり、内閣総理大臣も、すべての公務員同様、
『全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。』のである!

安倍総理およびその夫人が、特定の思想を持つ一学園に、過剰に見える肩入れを
していると国民に思わせるような言動は、厳に慎まねばならないのではなかろうか。
私は、森友学園問題の、問題の本質は、ここにこそあると思っている。

森友学園に対する国有地払い下げに関する一連の異常に見えるほどの優遇ぶりは、
そこから派生した問題に過ぎない。
この問題に関する安倍総理夫妻の罪はおそらく問えないであろう。
昨日、安倍氏は、東京・銀座の松坂屋銀座店跡地に完成した複合商業施設「GINZA SIX」
のオープニングセレモニーの挨拶で、そこに山口県の物産があるかどうかについて、
『おそらくあるんだろうと思います。よく私が申し上げたことを忖度していただきたい』
と、『忖度』という問題の語を逆手にとって冗談にして言った。それは大いに笑いを誘った・・・

『私が申し上げたことを忖度していただきたい』
なんという傲慢、なんという思い上がりであろう!今の今、こんな言葉、冗談になるものか。

『忖度』。
権力者の周りにいる者が、権力者の意を『忖度』して、つまりその意を汲んで、
権力者の暗に希望することを叶える・・・
今回、森友問題に関し、また、安倍昭恵氏の私的か公的かは知らぬが活動に関連し、
財務省、大阪府などの官僚、公務員を巻き込んで、おそらく数え切れないほどの
『忖度』が行われたのではないかと、疑われているこのときにこの冗談、である。

国家公務員としての安倍総理、また財務省などの官僚、大阪府の職員・・・

『すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない』
という日本国憲法、国家公務員法に、彼らは違反してはいないのだろうか?
『忖度』する罪。またその『忖度』を当たり前のことのように阿吽の呼吸で促し受ける罪・・・
これは罪になるであろうか。法律上の罪を問えるであろうか。
・・・おそらく問えまい。明確な証拠でもない限りは・・・
だが。倫理的、道義的罪は、明らかにそこに存在しうる、と私は思っている。
一国の代表などという権力者が、ある意向を持つ・・・当然周囲はそれを『忖度』するのである。
『忖度』は、明らかな命令などとは違い、法的拘束力も持たない、責任の所在もわからなく
なってしまう不明確なものである。
だが、『忖度』は、時に『命令』と同様に、一国の政治をも動かしてしまいかねない怖い力を
持つものである。
みんなが権力に『忖度』するように社会がなってしまったとしたら・・・それがまさに
オーウェルがここで描くディストピア・・・暗黒の世界である。

              ***


『倫理』『哲学』の問題と、ジョージ・オーウェル『1984年』の話に戻ろう。

日本では、国立大学の文系、社会科学系統の学部・学科が、政府の政策として
縮小化、ひどい場合には、存続の危機にまで至りそうな状況である一方で、フランスの
幼稚園では、『哲学』の問題を、3~5歳の子供たちに考えさせてみる・・・。
そしてそこでは子供たちが、『人間は、「ことば」でものを考えるのだ』という認識に
近いものを得る!
なんという違いであろうか。

『言葉』への深い興味と、厳密な『言葉の定義』への関心や畏れなくしては、これらの
学問は成り立たない。
なぜなら、人間の思考は、まさに、『言葉そのもの』によって行われているからである。
私たちは黙っていても、常に『言葉』を使ってものを考え感じている・・・

『言葉』をないがしろにする政治、言葉を扱う基礎的学問を軽視する政治は、
オーウェルの極端に描いた、ニュースピークの世界・・・支配者にとって都合のいい言語だけを
国民に使わせるようにし、国民に思考を促すような無駄な言葉は徹底的に抹殺する
ディストピアと、その醜悪さにおいてどこがいったい異なるだろう?

一方国民の側も、ニュースピークもどきの言語統制を、自ら進んで受け入れるという
素地が、ひょっとしてすでに身についてしまってはいないだろうか?
面倒くさい思考を避ける・・・自分に関係したことにしか興味がない・・・手っ取り早く
必要なだけの情報が得られればとりあえずそれでいい・・・

先日朝日新聞に、『大人は本を読め読めと言うが、何故本を読まなければならないのかわからない』
という若者の投書について、読書は必要、必ずしも必要ない、双方の意見が載せられていた。
確かに今は、スマホやその他便利な情報機器で、手っ取り早く必要な情報は簡単に得られる。
読書など必要ない、と言われれば確かにそうで、読書しなくても人間は生きていける。
読書はするが、難しいものは読みたくない、というのもわかる。

だが。私は、読書というものは、一つの、精神の格闘であると思うのだ。
ぱっと読んだだけではすぐには理解できない文を、ぐ~っと集中して読み込む・・・。
知らない語彙も多くあるだろうが、調べて意味を知る。あるいは文の前後関係から意味を
類推してみる・・・
すぐには承服しがたい意見や考え方も、拒否反応してしまうのでなく、といって、『わかるわかる!』
とすぐに同調することがいいというわけでもなく、論旨を追いながら様々な思考回路をたどって
いくことを不断に意識せず訓練することによって、その人の言語能力や思考能力は自然と
鍛えられていく。
なんと、フランスの幼稚園児が、『彼の話を聞けよ!』と諭した、あの知恵!

言語能力を鍛えると言うことは、その人の思考能力や、そして感性までもを研ぎ澄ませていく。
なぜなら、人は、言語によって思考し、言語によってものをより豊かに『感じ』もするからだ。
たとえば、美しい桜を見て、『まじ、やべえ!』と言うのが、言葉を尽くして文学的表現で
花の美しさを語るのに劣るとは決して思わない。それはそれでそのときの正直な感覚の発露だ。
だが、その花を見て美しいと思ったその経験を、自分の中に自分のこととして取り込むとき、
あまりに少ない語彙で、あまりに貧弱な語数でもって収めるしかない、というのは少々
残念ではなかろうか。そういう経験は、その場限りに浅く終わってしまうのではあるまいか。

先日、大岡信氏が亡くなられた。朝日新聞で過去に長らく『折々のうた』という
わずか200字ほどの小さなコラムを続けてこられた・・・。 自ら詩人でもある氏が、
日本の短歌、俳句、漢詩(読み下し)、川柳、近現代詩、歌謡などのなかから、
毎日1つをとりあげ、それに対する解説を行うというものであった・・・。
上で、『どうして読書など必要なのか』という若い人の疑問を取り上げたが、私は、
大岡氏のコラムに、その問いに関する一つの答えがあるのではないか、と思っている・・・
それは、『言葉による再体験の楽しさ』である。

人はどんなに頑張っても、一回きりの人生しか生きられない。
だが。読書は、その一回きりの人生を、二回も三回も・・・ある意味無限に近いほど
生きさせてくれるのである。
それは、過去に生きた人々・・・今を生きているが、遠くにいておそらく一生会うこともない
だろう人々・・・それらの人々の想いを、追体験あるいは再体験させてくれる。
『折々のうた』は、それを、これ以上ないほどに、ぐうっと鮮やかに凝縮して、味わわせて
くれるコラムであった。古今の・・・時空を超えた美しく素晴らしい言葉を、優れた詩人
でもある筆者が選び抜いて、そしてそれに短い解説をつけてくれるのである。
つまり私たち読者は、一つのコラムで、過去の素晴らしい詩などと大岡氏の思念との
両方に同時に出会うことが出来たのである・・・

無論、こうした経験は、読書のみによらずとも、映画や音楽、絵画、旅行、また人と話すこと・・・
あらゆる機会を通じてあらゆる方法で体験できるものではある。
だが、読書、ということは、人間の思考の道具である『言葉』を直接味わう、という点において、
どの手段よりもおそらく人間の感性を鍛え、また、なによりもその範囲が広く、居ながらにして
時空を超えて見知らぬ世界と会える、素晴らしい旅の手段でもあると言えよう。

閑話休題。

言語は、戦う能力でもある。
今、社会は、ニュースピークや、オルタナティブ・ファクトではないが、無法なことも無体なことも、
単純な言葉の繰り返しをとにかく重ねることによって、それが通用してしまう!という、
いわば、『言語の無力時代』に突入しているように私には思えて仕方がない・・・
『テロ対策法案』と繰り返し言えば、当初『テロ』という文言が一つも入っていなかった法案も
なんとなくいいもの必要なもののように国民に受け入れられてしまう時代である。
2020年東京オリンピック、を持ち出せば、なおさらそうかな必要かな、と思わせてしまう。
「テロ対策のために欠かせないと言いながら、『テロ』という文言は入っていないじゃ
ないですか!」と、社民党の福島瑞穂議員に指摘されて慌てて、『テロ』という文言を
文中に付け加えた『組織犯罪処罰法改正案』の本当の目的は、いったい何なのか。
私にはそれは、国民の言論や内心の自由を縛り、縛れないまでも『萎縮』させるという
効果を狙ったもの、国民を操作しやすくするための法案としか思えないのである。
『共謀罪法案』として自民党が何度も提出して、国民の反対を受けて引っ込めてきた
ものだ・・・
かつては、あのおぞましい『治安維持法』として、国民の自由を奪ってきたものと
同じ系列にある・・・

国民は、心して覚えておかなければならない。
言論を縛るような方向に持って行きたがる政権などというものはろくなものであるはずがない。
ましてや『共謀』の罪の範囲を広げてそれを明確に法制化し、国民の内心の自由や
集会結社の自由などという、現行憲法に保障された、人間にとって最も大切なものの
一つである『自由権』を縛る方向に持っていこうとする政権などは、決して選んでは
いけないのである。
同時に、自分たちの利益になるように法や憲法を変えてしまおう
とする政権の時に、彼らに法や憲法をいじらせては絶対にならない!!!


私たちは、内面の自由、考える自由は死守しなければならない。その潜在的力としての
『言語』も、わたしたちは、意識して鍛えておかなければ・・・。


いまの私たち日本人は、そのことにあまりにも無自覚である。
『言語による戦い』の力を放棄した者は、容易に権力の『巧言』によって、
権力によって意図された方向へ誘導されていってしまう危険を潜在的に擁する・・・
北朝鮮の脅威などが高まり日本人の暮らしの安全が致命的に脅かされる危険性の
予感に怯える今のようなときこそ、『テロ対策』などという『言葉』で、私たちは容易に
ある特定の方向へ誘導されていく危険がある。
外部からの危険を煽ることによって、国民の自由を奪う・・・そのような政治手法が
過去どれほど行われてきたことか・・・。
『ナチスの手法に学べ』と冗談のように言ってしまう政治家がこの国の財務大臣であり
副総理を務めているが、まさにナチスの手法がそれだった。
このたびのトルコの改憲の是非を問う国民投票もまた、すでにエルドアン氏によって
反対派が逮捕収監され反対言論も封じ込められた状態の中で行われて、
エルドアンというそれでなくともすでに大きな権力を握る人物に、ますます
大きな権力を一手に握らせることになる道を、国民が自ら選んでしまった・・・
『自分たちの利益になるように法や憲法を変えてしまおうとする政権の時に、
彼らに法や憲法をいじらせては絶対にならない!!!』
という、歴史が教える教訓に、
トルコの人々は耳を貸さなかったのか・・・残念である・・・


さて。『1984年』の描くディストピア。
『過去の可変性』。
『過去は死に、未来は想像の外』


そこでは、権力者が人民を支配していくのに都合の悪い過去は、容赦なく
書き換えられていく・・・
あらゆる文書、書物、あらゆる言動が監視チェックされ、都合の悪いものは『廃棄』
され、あるいは権力に都合のいいようなものに上書きされていく・・・。
過去が丸ごと抹殺され、あるいは書き換えられれば、国民はそもそも過去の事実の
存在さえ知ることがない。知ることがなければ、そもそも疑いも生じない。
真理省の掲げた三つのスローガンのうちの一つ。

『無知は力なり』 

というのはそのことだ。
『知らなければ』国民は迷いさえしない。疑念を抱くこともない。
その過去の情報の抹殺、書き換えを担当するのが、『真理省』
という名であるという強烈な皮肉!
国民を常時監視し、国家のイデオロギーに背くものは呵責なく粛正していく、それを
担当するのが『愛情省』であり、戦争を常時行って、国民の危機感を煽り、それにより
権力の正当化、国民の国家依存を深めていくのを担当するのが、『平和省』
であるのと同じ痛烈な皮肉だ。

ああ・・・・・・!
過去の事実が、時の政権によって恣意的に上書きなどされていいものだろうか??
現在の真実が、政権によって恣意的に国民に隠されていいのだろうか??
安倍政権のやっていることは、それに近い。
昨日の新聞に、こんな目立たぬ記事があった。
江戸時代以降の災害の教訓を将来に伝えるため、政府の中央防災会議の
専門調査会がまとめた報告書を、内閣府がホームページから削除していたと
いうのである。何故削除したのか。
一部に、関東大震災時の『朝鮮人虐殺』についての記述が含まれていて、「なぜこんな
内容が載っているんだ!」というクレームが寄せられたからだという。
そのために、安政の大地震や雲仙普賢岳噴火なども含めた報告書の記載を
すべて取りやめたのだという・・・
ああ!ここでも、何かの『忖度』だ!
(今日の報道で、件の内閣府ホームページが復活したというのが伝えられた。
批判を恐れたのであろう)

TPPの実際の内容を示す大事な文書がほぼ全面黒塗りされ、南スーダンに派遣された
自衛隊の記録もないと言い張られ、森友問題の肝要な記録が早々と官僚によって
すでに破棄されたとされるこの国の政治・・・・・・
国民が『知る権利』を有しているはずの、国政に関する大事な資料も国民に示されない。
・・・もう、『一強』だから何でもあり、だ。





主人公の内心の声。
『今生きている人間がたとえ一人でも自分の味方になるという保証がどこにあるというのだ? 
そして、党の支配が決して永遠には続かないなどとどうやったら知ることができるというのだ?』
という絶望。

共謀罪法案のようなものが可決成立して、この国で動き出せば、警察、検察などの
『国の意を汲む暴走』も起こりうるだろう。
すでに、昨年の参院選の直前に、大分県警別府署が、野党候補を応援する労働組合
「連合大分」などが入る施設の敷地内に入り込んで監視カメラを設置し、建物に
出入りする人々を隠し撮りしていたという事件があった。
共謀罪法案が通れば、こういうことも堂々と行われるようなことになりかねない。
国民自身もまた、常時何かによって監視されていると言うことが当たり前の社会に
なれば、隣人を自ら監視するようになる・・・
そんな、まるで先の戦中のような、国民総・相互監視社会というようなものに似た
心理状態に容易に追い込まれかねないのが、共謀罪法案というものである・・・。

ジョージ・オーウェルの描く暗黒世界に掲げられた三つのスローガン。その一つ。

『自由は隷属なり』

という言葉の怖さを、よく考えてみよう。
共謀罪法案の審議中、安倍総理らは、『一般の人々が対象となることはあり得ない』
と繰り返し言う。
だが、『一般の人々』とはどういう人々なのだろう?
それは、政権の批判など間違ってもしない、政権にとって都合のいい人々だけを
指すことにされてしまいはしないか?
沖縄で、辺野古移設に反対する住民たちはどうだろう?
国会前で、『安保法制反対!』『共謀罪法案反対!』と声を上げている人々はどうだろう?

自由でいるためには権力には逆らわないことだ。そうしていれば何も怖いことはない。
『権力には隷属していれば、私たちは自由だ。何も問題は起こらない』・・・
そういう意味での『一般人は対象とならない』ということなのではないだろうか??

こんな例をテレビの番組でやっていた。
『一般人は対象とならない』と政府は言うが、
『そうか。私は国会前で騒ぎなどしないから、関係ないな』と思う人がいるかもしれないが、
たとえばあなたの住む街で日照権を奪うようなマンション建設問題が起きたらどうか。
あなたは、これは自分の生活に直結した問題だから、『マンション建設反対』の
署名集めをしようと、知り合いなどに声をかける。
だが。中央の政治とは全く関係ない問題であるにもかかわらず、署名用紙を
持ってこられて、『ここにあなたの名前と住所をお願いします』といわれたとき、
『どんなテーマであろうが、自分の名前や住所を書くのは怖いな。誰が今後の
取り締まり強化などに利用するかわからない』と思って、署名をためらう人が
出てくるかもしれない・・・

要するに、国民がいろいろな場面で、『自粛』『忖度』するような、そういう気分になっていくのである。
・・・そうして、国民は、何かを畏れ、萎縮していく・・・

あなたは、そんな危険のある法案を、今、しかも、この政権下で通したいのか?

でもな、テロはやっぱり怖い。
北朝鮮のような恐ろしい国に攻撃されるのは怖い。
だから、やはり、そういうテロや核攻撃などに備える『テロ対策法』は必要なんじゃないの?
私だって、テロリズムや核攻撃は怖いしいやだ。
しかし。
『テロ対策法』なるものによって、本当にテロは防げるのか?
欧州の諸国でテロが起きているが、それらのテロは、それらの国が『テロ対策法』を
持っていなかったから起きたのか? 持っていても起きたのではなかったか。

『テロ対策法があるから、あの程度の頻度で収まっているのだ』
なるほど、そういう考え方も出来るだろう。

ちょうど来日していたアメリカのペンス副大統領は、『平和は力によってのみ初めて達成される』
いい、『(日本など)同盟国と力を通じての平和を達成するために連携したい』と
語った。

ジョージ・オーウェルの『1984年』の描くディストピア世界。そこの三つの
スローガンのまさに一番目は、このペンス氏の発言と同じ
『戦争は平和なり』

である。
安倍総理が、平和学の研究家、ヨハン・ガルトゥング博士が提唱した理念である
『戦争がなく、貧困や抑圧、環境破壊などの構造的暴力もない』世界を『積極的平和』
と名付けたそれを、『米国を始めとする関係国と連携しながら,地域及び国際社会の
平和と安定に積極的に寄与していく』、という国家安全保障の問題にすり替えた、
まさにその『積極的平和主義』こそも、『戦争は平和なり』の観点に立つものである。

自衛隊を海外に派遣して、『駆けつけ警護』までさせるというのが、世界の平和の
役に立つのか。
私はそうではないだろうと思う。
日本には、日本独自の『世界平和への貢献法』があっていい。
私はそれは、世界の問題地域の人々が自分の土地で暮らしていける、そのことを
第一義とした貢献であろうと考える。
そう。ちょうど、医師中村哲さんがアフガニスタンで続けているような活動だ。
だが、その中村さんが必死で現地の人々と共に運河をほぼ人力で切り開き、
不毛の砂漠を緑豊かな農地に変えて、その地に元元いた人々がそこで暮らして
行けるようになっている・・・難民さえも一部、中村さんらの緑の土地の周辺で、
商売など出来るようになっている・・・そのアフガニスタンの大地に、トランプの
アメリカは、核兵器を除けば最大の爆弾であり『すべての爆弾の母』とも呼ばれる
(なんというおぞましいネーミングだ!)MOABを落とし、一説には90人を超える
IS戦闘員が死んだという。
そんな兵器が『平和』をもたらすと、本当に言えるのだろうか??

『戦争は平和なり』という、相矛盾するスローガンには、『武力こそが平和状態をもたらす』
『相互に核武装した状態のように、これ以上お互いに進んでは危ない、という均衡状態をもたらす』
という上記のような意味と、もう一つ別の意味がある。
それは、『戦争状態が近い』『戦争が局地的に現実に行われている』という状態に
持って行くことによって、あるいはそう国民に信じさせることによって、国内の安定を保つ
という意味合いもあるのだ。
なぜなら、そうした状況にあると国民が思うと、あるいは思い込まされると、国民は
時の政府に頼らざるを得ない心理に否応なしになってしまうからである。
今のトルコしかり、そして、問題の北朝鮮しかり。かつての帝国日本しかり・・・。
すなわち、外国と戦争状態にある、その危険にある、と国民が思わされることによって、
国内的には政権が『安定』するのである。

『戦争は平和なり』という、考え方は、実はこの世界に充ち満ちている・・・

だが、威嚇と威嚇が互いにエスカレートしていき、そうした末についに力と力がぶつかり合う・・・
その先にあるものはなんだろう。

最後に、私が古今の名作の一つだと思う映画のラストシーンで流れる曲を載せておこう。
人類にとって、こんな悲しい淋しいうたはない・・・私はそう思う・・・

人類が、力と力の誇示を競ったあげく、偶発または個人の異常な情念などによって、
取り返しのつかぬ悲劇を招いたりすることなど決して起こらないことを祈りつつ。
あなたの・・・私たちの為した選択が、誤りでありませんように・・・







『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』
(1964年。スタンリー・キューブリック監督)より。















『春の日に』

内憂外患・・・本当にその言葉さえ軽く思われるほど、国内外でろくでもないことが
続く・・・
『内憂外患』というよりはむしろ、『内患外憂』だな・・・。



             ***




クウーママさんに頂いた『マルティナさんの毛糸』。
2月。つれあいが入院してばたばたしていた日々。ふと思いついて、『こんな時こそ
編み物じゃないか!』と、マフラー? ストール?編み始めました。
本体は、数日であっという間に編み上げたのだけれど、編み終わりをどういう風にまとめるか・・・
それがなかなか決まらぬまま、そのあと精神的にも時間的にも余裕がなくなって、仕上げられない
ままでいた・・・。

でも、4月になってようやく仕上がりました。



編み物①




どうですか。きれいに編めているでしょう? ^^


春先に使うように軽い感じに仕上げたかったので、メリヤス編みや掛け目、寄せ目などで
レース状の模様編みにしてみました。
でも、基本、表編みだけなので、編み上がりがどうしてもくるんと丸まってしまう。
だから、編み物のふんわりした持ち味は少し損なわれてしまうのだけれど、
蒸気アイロンをあてると平らにすることが出来る。なんとかうまくいったかな。





編み物②



かぎ針編みで模様編みをちょっとして飾ろうかな、と迷っていた編み始め編み上がりの
両端の処理だけど、マクラメ編みにしてみました。
かっちりきつめに結んでしまったので、マクラメの模様があまり鮮明でなくなっちゃったけど、
結び終わりをフリンジにして少し軽い遊びをつけてみました。
編み物は楽しいな。






編み物③



毛糸一玉ちょうど使い切って、長さはこのくらい。




つれあいは、一日ほぼ寝たきり。
トイレと食事と入浴の時だけ起きる。
それでは、体のほかの機能が弱ってしまうので、外にお花見に連れ出します。
玄関先に咲いているチューリップ。




チューリップ’17



さあ。近くの河原に出ました。
ソメイヨシノは、ほぼ満開。



桜’17①



春の空は、晴れていても、どこかうっすらと霞がかかったような感じがします。



桜’17



その春霞の空と同じような色のセーターに、できあがったストールを巻いてみました。


CIMG7176.jpg




手には、クウーママさんが作っておくってくださったバッグを。
心のこもった刺繍入り。
このバッグの布の地色も、春霞の空の色です。




CIMG7182.jpg



春はやっぱりいいな・・・。

友よ。ありがとう~~~!


『これでいいのか。日本!』


長いこと記事を書いてきた…

このパソコンで記事を書くのもあと1日だ。
おそらくこの記事がこのパソコンで書く最後の記事になるかもしれない。

この機を買って、インターネットなどというものを生まれて初めてやり始めて、8年3カ月…
ブログも、結局、このブログと前のブログと合計して同じく8年3カ月やってきたことになる。
だが、Windows Vista のサポートがいよいよ終了するので、この機ともお別れだ。
もう十分働いてくれたし、もう休ませてやってもいいかな、と思っている。

これを機に、パソコンなどというもの自体をやめてしまおうか、とも思ったけれど、
今では、生活のあれこれの場でやはり役立つことは役だってそれがある暮らしに
慣れてしまったので、パソコンのない暮らし、というのも、やっぱり不便で寂しいものだろう。

結局、パソコンを買い換えたので、12日以降は新しいパソコンで記事を書いていくことになる。

たかが機械にすぎないけれど、今のこの機と共に、ずいぶんいろんなことをやってきたなあ。
私はゲームなどはしないので、もっぱら、このブログとあとはYou Tubeを見るとかi-tunesで
音楽を聴くとか、あとは借りてきた映画を観るとかそんなことだ。
でも、そうした楽しみのための機能以上に、パソコンというものが与えてくれた情報によって、
ずいぶん多くのことを学ばせてもらったなあ…という感慨の方が大きい。
あと。多くの方と知り合いになれたこと。
ともすれば自分一人の世界に閉じ籠りがちな私を、人との触れ合いや知識への誘いで
外の世界に連れだしてくれたのだから、このパソコンにはほんとうに感謝だ。
長い間、お疲れさま!


しかし・・・。
私がパソコンを始めた8年前に比しても、この世界はなんと危なっかしく脆くまた嘆かわしい
ものに変わってきてしまったのだろう!
8年前が全てよかったというわけではなく今起きていることは過去に起きたことの結果であり
因果関係は当然のことながら連続している。
そんなことはわかりきっているのだが、それにしても…

私は3.11で、社会のことに遅まきながら目覚めた。ほんとに遅い目覚めではあったけれど。
あれから私は、すっかり自分の価値観が変わってしまった・・・
社会の不正や不条理というようなものに一気に気づいてしまったのである。
それまでの私は、こんなことをいい年して言うのもはばかられるが、なんと、なんとまあ、
ナイーブ(ナイーブ、には元々、無知でお人よし、という意味もある)というであった事だろう!

この世界の、この社会の悪は、不幸は、そのほとんどが、ある一点で繋がっている…
同じ根を持つということに気がついた。
今世界で・・・、この日本で・・・、起きている社会の不正や不公正は、同じ根を持つ。

3.11後の6年間は、わたしはずっとその根っこを、元へ元へとたどり続けてきたように思う。
いろんな記事を書いてきた…
原発問題、復興に関する問題、TPP、秘密保護法、戦争法、消費税、貧富の格差拡大、
政治の教育への介入、従軍慰安婦、日中戦争を描いた文学、ISなどテロリズムの問題、
憲法改悪、・・・トランプ、・・・・・・北朝鮮問題・・・などなど
そして今、森友学園問題からようく一般の目にも見えるようになってきた、この国の右傾化の
実際…

日本の問題に限って言えば、ここに掲げたような問題のほとんどが、象徴的に、ある一年に行きつく。
日本が敗戦した1945年。
『象徴的に』と書いたのは、それ以前にむろん日本は間違った道をまっしぐらに進んできていた
からである。1945年は、その結果にすぎない。
だが、私たち日本人は、3.11以降決して良くは生きてこなかったのと同じに、この年以降をも
決してよく生きてはこなかった。
苦いこと臭いことから目をそむけたのである。ずっと目をそむけ続けてきた、というその点で。

その膿が今になって噴き出しているのだ。
北朝鮮を狂気の国のように世界も日本も言うが、あのような鬼子を産み落としたのは、他でもない
朝鮮半島(や中国、アジア諸国の土地や権益)を自分のものにしたがった日本。そしてアメリカ、ソ連、中国
という大国たちだ。
ISやシリアなどの混迷などという鬼子を産み落とし育てたのが欧米先進諸国であるのと同じ構図だ。

私はずばっと本質に飛び込まず、ずうっとなにか周りばかりを書いてきた気がする。
しかし、一所懸命書いてはきた。大概のことについてはざっとはすでに書いてきてはいる・・・

新しいパソコンとブログのこれからの後半の日々のテーマは、それらを深めて行くことだな。
かゆい所に手を伸ばさなかったようなじれったさを、一つずつ解消して行くこと。


うう・・・まだ、古いパソコンのデータを十分に取り出していない…
頭にも身にもフルに、私から情報を詰め込まれすぎてきたこのパソコン…
ほんとうにごくろうさま。




















『みなさまへ』

コメントたくさんいただきながら、返事も書かないままでいて申し訳ありませんでした。
2月半ばから、少しごたごたしておりまして。

つれあいが、年が明けてから、家の中で転んだり(足の力が抜けてへたり込む)する
回数が目に見えて多くなり、切れていた介護認定をとりなおし、住宅に手すりなど付けたりしようと、
2月半ば、かかりつけ医のところへ定期検診と、あと介護認定の書類を書いてもらうために
出かけました。
ところが、そこでの待ち時間のあいだに、つれあいの顔面が蒼白になり、意識も遠くなっていくようで、
話しかけても手など握っても無反応になってしまいました。
医者も驚いて、急遽空きベッドで点滴をしてくれることになりました。
でもそこは町医者なので、そこから先のことはできない。救急車を呼んで、大学病院に移ることに
なりました。

大学病院で数日間の入院検査の結果、ひどい貧血と低血圧症状が出ていたとのこと。
消化器系等からの出血が疑われるが、しかし、大学病院はその時、消化器内科の病床が
いっぱい。他の病院へ転院するように言われて、別の総合病院に紹介状を書いてもらい
転院することになりました…

一度家に戻ってから、その総合病院に入院。
検査の結果、S字結腸部に大きなポリープが出来ているとのこと。
場所があまり良くないところで、内視鏡を使って切除できるか、それとも開腹手術が必要に
なってくるか微妙、ということでした。
しかしながら、今日、内視鏡を使って、ポリープ切除に成功し、近日中に退院できることに
なりました。腫瘍が良性か悪性かの結果は、来週まで待たねばなりませんが、とりあえず
家に戻ってくることができることになりました。

つれあいのことに集中したいのに、情けないことに、恐らく病院の長い待ち時間などの
間に風邪をひきこんだか、私も一時高熱を出してしまいました。
つれあいの入院している総合病院の内科外来で診てもらった結果、インフルエンザでは
ありませんでしたが、咳がひどく、夜など横になると喘息発作のように咳が続いてくるしくて
眠ることもできないので、別の布団や毛布を高く積み重ねてそれにもたれかかり、上半身を
起こした状態で休むと、少し咳が楽になるという状態。
3月にはいると、声が全く出なくなってしまったのにはびっくりしました。
つれあいは病院に入っているし、一日中一人で過ごしていたので、ある日いつものように
病院に見舞いに行って、ナースステーションで声をかけようとすると、声が出ない!!
ほんとのささやき声のようなものしか出なくなっていたのです。

こんなこと初めて。
耳鼻咽喉科にも今、通っていますが、声が出ない状態は、今も続いています。
医者の話では、のどの粘膜が腫れているため、声帯がピタッと閉じない。そこから
空気が漏れるので、声が出なくなっているのだ、ということでした。
そんな単純なことで、こんなふうに声が出なくなるのか!とびっくりしました。

困るのは、毎日つれあいの病院に見舞いや連絡のため行くのですが、あと自分のための
病院にも行くのですが、つれあいとはともかく、お医者さんや看護師さんたちと大事な話が
まともにできないことです。
仕方ないので、ノート一冊用意して、病状や病歴、質問したいこと、逆に訊かれるであろうこと
など予測して、あらかじめ大事なことはメモしておき、それを読んでいただくというようにしました。
そこに書いていないようなことはその都度、筆談です。
自分のまどろっこしさはともかく、それでなくとも忙しいお医者さんや看護師さんにいらぬ時間を
かけさせてしまうことが本当に申し訳なく。

その上。
のどや鼻や目というものは、つながっているのですね。
ある朝。眼が開きにくくなってて。
眼の周りにびっくりするほどの眼やにが出ていて(いやだなあ…)、目は真っ赤に充血。
少し腫れているのかわずかに瞼や周辺の鈍痛もある。
70年の人生で、目の病気になんかなった事なかったので、これにもびっくりです。
でもこれ以上病院の数を増やしたくない!!! (><)
幸い、目の方は、とりあえず眼薬で、3,4日でなんとかよくなりました。
が、今でもすこし乾燥を感じたり違和感は残っていますので、つれあいの方が少し一段落したら、
いずれ眼科にも通わなければならなくなるでしょう。
パソコンができなかったのは、そんな事情もありました・・・ (><)

ふう~……やれやれ。
つれあいの看病に専念したいのに、自分が倒れてしまうと、ほんとに大変でした。
担当医さんから話がありますと言われて、待って、つれあいの担当医から今後の見通しの
説明など受けているときには、悪寒と頭痛と熱で歯の根が合わないほど体が震えていて。
その時が一番熱がひどくて、タクシーで家に帰ってすぐ蒲団に倒れこんで熱を測ると、39度1分。
その夜は、誰もいない家で、一人、うんうん唸っていました。

私が元気でいないと、つれあいのこともできなくなってしまう…
気持ちばかりは焦るのですが、疲れもたまっているのか、なかなかすっきりしません。
介護保険申請、住宅改修のことなどもあったので、ずうっと気が張っていたし… 
何より、声が出ない、普通に話ができないというのは、ほんと、まいります。

来週、つれあいの組織検査の結果が出るまでは、気持ちが落ち着きません…
が、とりあえず、彼が家に帰ってきてくれるということが一番嬉しい。 ^^

そんなわけで、しばらくの間、ブログも思うようにできないでしょう…
ご心配かけてしまった皆様。本当に申し訳ありません。そしてありがとうございます。

さて。調子に乗って長く書かないようにしま~す。
皆さま。お休みなさい。(ぜーぜーは―は―・・・・・・・・・)



『トランプ大統領誕生に想うこと ③ 悪意の増殖』


トランプがいよいよその本領を発揮し出した…。

『あの暴言や極端な公約の数々は、選挙に勝つための、いわば打ち上げ花火だろう…』
『まさかそれらをすべて実行しはすまい。』『大統領になったら、その重責を彼も自覚して、少しは
良識を発揮していくだろう…』

…そんな淡い期待を抱くなど、抱いた方が甘いのである。
人間の本質は、案外に、良くも悪くも首尾一貫しているものだ…。

いじめをしない人はしない。人に暴言を吐くことを嫌う人は暴言を吐いたりしない。嘘をつくことを
良しとしない人は嘘をつかないものである…。
人間というものは、その価値観によって行動するものだ……

だが。それにしても、彼が次から次に打ち出してくる大統領令の中身を見ていると、怒りとか
なんとかいうより何やら心がシーンと冷たくなってしまう…

人間には、人間として守るべき『矜持』…最後の良心の砦…、とでもいうべきものがあるだろう?
それは、政治的信条などと言うものとは関係ない。
人間と人間が、最後のところで繋がりあうことができる、いわば『優しさ』とか『フェアさ』とか
『信頼性』そして『冒涜への畏れ』…などというもののことたちだ…


今、そういうものが根こそぎひっくり返されていこうとしているかのような…そんな悲しみを
覚えてしまう。



トランプの今、中東・アフリカ諸国の民にかけている入国規制。
これは大きな大きな禍根を生むだろうという気がする……
アメリカで…世界各地で…空港で足止めを食らって行き場を失った人々。彼らはその仕打ちを
忘れはすまい。それを見ていた人々もまた、アメリカの理不尽に対する怒りを、心の内に
溜めて行くであろう。それは忘れようとしても、澱のように胸の奥底に残ってしまう…
直接ターゲットとされた7カ国の民だけではない、そのほかの中東、アフリカ、中南米などの
国々の人々にも、この理不尽へのどす黒い怒りは広がっていく…

それは、アメリカの国民を、かえって危険にさらすことにつながっていくのではあるまいか。
世界のあらゆるところにいるテロ思想を抱く者たちにとって、今回のトランプの行いは、
アメリカ人への憎悪、ひいてはアメリカ人へのテロ行為を行うその理由づけにされかねないと
私は恐れる。
逆に又、トランプの姿勢に共感を抱き、その施策を支持する者たちの中に、トランプの移民排斥
思想を拡大して、弱者への嫌がらせや恫喝などをするものが増えて行くことも考えられる。

…本当に、悪意の応酬、…憎悪の増幅…ひいては恐怖の拡大につながって行きかねない。
怖いのは、こうしたものは、いつのまにか他の人々の心にも伝染し、増殖していくことである…



救いは、こういうものの増殖を、揺るがずに食い止めようとする人々が、まだアメリカにはいることだ。
日本人は…私たちはどうであろうか…


難民規制に抗議
写真はこちらからお借りしました。http://news.auone.jp/





『トランプ大統領誕生に想うこと ② 議論が混線していないか』



トランプ ②
写真はこちらからお借りしました。http://nme-jp.com/news/32483/



英国のEU離脱の時から、ずっと心に思っていたのだが、しかし上手くその想いを記事に
表しきれないという違和感があった。その違和感は、昨年のアメリカ大統領選のトランプ勝利から
このたびの大統領就任式までを通じて感じ続けているものと同じである・・・

それはなにか、というと、
1.本来別々に論じられるべきはずのものが、いっしょくたに
論じられているために起きている混乱
のことである。
言葉を換えて言えば、
2.物事を、対立する二つの概念に単純化しすぎるために起きている
のではないかと思われる今の混乱状況
のことである。


具体的な例を言おう。それは例えば、上記1.で言えば、
『グローバル化』と『グローバリズム』という二つの言葉および概念がそれだ。
いや。実は、この二つの言葉を選ぶこと自体が、また余計な混乱を生みそうだ。
俗に『グローバル化』とか『グローバリズム』と聞いたときにあなたが思い浮かべる定義や概念を
しばし忘れて、私が言いたいことをお聴きください。飽くまで、ここで私が使っている
『グローバリズム』『グローバル化』という言葉は、私が便宜上使い分けているものです。

私が、分けて考えねばならぬ、と思うのはこういうことだ。
私は、この現代に生きる地球人は、『グローバル化』ということを、すでに避けては通れなく
なっているものと考える。
私がここで言う『グローバル化』とは、交通や情報網がここまで発展し、個人や国家などと
いうものが発した情報や行為などが、一瞬にして世界を駆け巡り、否応なしに影響を与える
ようになってしまったこの世界においては、人々が『グローバル化』の波から逃れることは
すでにできなくなってしまっている、そういう状況のことを指して言っている。
それはまた、それら個人や国家などが発してしまったことの影響の後始末も、地球人全体が
否応なしに負わなければならなくなっている、そういう状況をも表す。

もっと具体的に言えば、例えば、『地球温暖化』だ。あるいは、核実験や過酷原発事故が
引き起こした『核汚染』だ。トランプという一個人のツイートが、一瞬で世界を駆け巡り、
こともあろうに世界の企業や国家までをも震撼させ、また、トランプと直接かかわりの薄い
国の株価や経済状況までが左右されてしまう、などということも、これに入るだろう。

すなわち、私たちが仮にいやだと思ったところで、すでにこの地球は一つに密接に
繋がれてしまっていて、私たちはその影響から逃れられないし、もし不都合なことや重大事が
あれば、国を問わず私たち皆が、そのことを真剣に考え対策しなければならない状況に
すでになってしまっているということである。
私は、この状況を、仮に『グローバル化』と呼んでおく。

それでは、もう一方の『グローバリズム』という言葉で、私は何を指しているか。
さて。これがなかなか正確に説明するのが難しいのだが、いわば…『人為によって変わりうるもの』
とでもまずは言ってみようか。こちらは、つまり、ひとが選び取り得る、選ばないこともできるものだ。
つまり、私は、「『グローバリズム』というひとつの思想や仕組み」を、指して言ってると考えて
もらっていいかと思う。
私たちは、『グローバリズム』という思想や仕組みを、選び取ることもできるし、逆に
選び取らないこともできる。この場合は、『反グローバリズム』とでも呼ばれる
思想や仕組みと言えよう。
例えば、『金融グローバリズム』などというものがこれである。私たちは、ある特定の
人々が、実体のある商品の輸出入などでなく、実体さえない金融商品を、居ながらにして
瞬間瞬間に売り買いし、その影響が、世界のそんな金融商品などと全く縁のない人々の
生活をまで脅かすことができる、そして富はそうしたごく一部の富裕層に集まって行くという
『金融グローバリズム』という思想や仕組みを、選び取らず変えて行くことができる。
今、トランプのアメリカで問題となっている『グローバル経済(≒自由主義経済)』と
反グローバル経済とも言うべき『内向き経済(保護主義経済)』は、国民が選び取る
ことができる。今回アメリカ国民は、グローバル経済をそのまま推進するヒラリーを拒み、
グローバル経済を一部否定し『アメリカファースト』といういわば内向き経済を唱える
トランプを選んだわけだ。
また例えば、EUに残るか、EUから離脱するか、という問題も、これと同じ構造であろう。
移民・難民を受け入れるか、あるいは拒否するか、という問題も大きく言って同じだ。
私たちはこれらのどちらかを選び取ることができるし、言ってみれば二者択一で
選び取らざるを得ない状況下に置かれているとも考えられる。

一方元に戻って、『グローバル化』の方はどうだろうか。
地球温暖化の影響と思える異常気象などを、私たちは選んだり選び取らなかったりできるだろうか。
核による大気や海の汚染物質を、「いやだ!こっちには来ないで!」と言って拒否出来るだろうか。

もちろん、私がここで使っている『グローバル化』と『グローバリズム』という言葉は、ここでの
議論の便宜上の分け方なので、重なるところ曖昧なところはある。
私たちが『グローバリズム』という思想や仕組みを選び取った結果、さまざまな現象の
『グロ-バル化』が起きている、と、言うこともできるからだ。


問題は、『グローバリズム』の是非を論じるのに、『グローバル化』という避けがたい現象をも
ごっちゃにして論じていることである。
人間が『グローバリズム』という思想や仕組みを受け入れそれをどんどん推し進めてきた結果、
それらの事象の『グローバル化』は、この地球のあらゆる分野でもう避けがたく進行してしまっている。
経済のグローバル化による悪影響もそのうちだ。
『金融グローバリズム』などを否定する人でも、そういう仕組みの『グローバル化』からは
もはや逃れられないのである。
原発を否定する人でも、事故が起きた時核汚染物質のプルームからは逃れられないのと
同じように…。

あらゆる重大な問題の『グローバル化』は、地球人全員で解決していくしかもはやないのである。
地球温暖化、異常気象、食の安全。移民問題、テロリズム…。貧富の差の拡大や
タックスヘイブン問題などの経済の重要課題。………
こうした問題は、それの是非や好むと好まざるとに関わらず、地球人全員がその影響を
受け、その影響が『グローバル』であるがゆえに、グローバルな規模で、すなわち
人類全員でその責を負い、解決法を考えて行かねばならない時代にもう来てしまって
いるのである…

さて。ここからが大事なところである。

今回、トランプの大統領就任に際し、『自由主義経済』か『保護主義経済』か、という
ニ択で、ものが論じられてきたと思う。それはまあ仕方がない、ヒラリーを選ぶか、
トランプを選ぶか、という大統領選最終候補のどちらかを選択しなければならない
状況にあっては、上の二つがAかBか、で論じられるのは仕方ないともいえるのだが、
だが、本当に真剣に考えるとき、そのどちらかが正しい、などということがいったい
言えるのであろうか?
そのどちらもに存在の理由はあり、また否定すべきところがある。
アメリカ大統領選という重大な選択が終わった今、私たち人類が共通して考えるべき
ことは、行き過ぎた自由主義経済も行き過ぎた保護主義貿易も、そのどちらもが
もたらす悪弊の『グローバル化』を少しでも食い止め、よりよい貿易システム、
より平等でより合理的でより公正な経済システムを構築していくことに注力して
いくことであろう?
なぜなら、世界がそのどちらかに傾きすぎたとき、私たち人類が受ける『グローバル化』
の影響は、上に述べてきたように、避けがたいものであるからである。

『グローバリズム』と『グローバル化』などという言葉を、ごっちゃにして論じて、
『グローバリズム』=悪、いや、『グローバリズム』=善、『反グローバリズム』=無知
『グローバリズム』=知、いや、逆だよ無知だよ、…などと定型化して論じている限り、
私たち人類は、今のように否応なしすでに『グローバル化』してしまった世界が抱える
危機的に深刻な問題の、絡んだ糸を解きほぐしていくことは出来ないであろう。

具体的には、トランプは、NAFTAやTPPに象徴されるようなグローバルな貿易の
仕組みを否定し、『アメリカファースト』といういわば、内向きな経済政策を唱え、
アメリカの選挙民は、彼の政策を選び取った、というわけである。
しかし、それを選び取ったからと言って、アメリカがグローバル化の波から逃れられる
わけではない。また、その責任をひとり回避できるものでもない。

『グローバリズム』『グローバル化』という例をこの記事ではたまたま例として挙げて
みたけれども、本来分けて論じなければならないことを、いっしょくたに論じてしまっているために、
問題の本質が見えなくなってしまうことは他にもたくさんあるだろうと私は思うのである。
英国のEU離脱から始まってトランプ現象まで…昨年起きた一連の出来事を見守ってきて、
なにか本質からいつも議論の芯がずれているような、なにかもどかしい感じは、そのせいでは
なかったのかと私は考えている。

別の例を挙げれば、EUがそもそも生まれたその意義と、今EUが上手くいっていないことを
ごっちゃにして、今が悪ければEUのもともとの理念まで悪いと、それを簡単に否定し去って
しまうことなどもそれだ。
EUはなぜ人々の多くの労苦と大変な粘り強い努力や辛抱の末に生まれたのか。
それは、二度のヨーロッパを舞台にした大戦だけでなく、例えば英仏、例えば独仏間など
歴史上欧州を舞台に数知れない戦争や紛争が続いてきて、そこで多くの命が失われ
多くの取り返しのつかない不幸が繰り返されてきたことへの反省からもともとは生まれてきた
ものであったろう?
今、EUが上手く行っていないことは事実だろう。だからと言って、EUの理念そのものを
否定し去りそれを分解させてしまっていいのか。まだまだ努力改善できることはあるだろう?
人々が本当に真剣に議論すべきは、EUの理念は大事に守りつつ、現実に起きている
難民問題や、格差拡大、組織の硬直化、などの問題を、力を合わせて解決に向けて行く努力
ではないのか?

トランプ批判もそうだ。トランプの悪いところはたくさんある。私は正直彼が好きでない。
しかし、トランプの言っていることで、『もっともだな』と思うこともまた結構あるのである。
そこは、好き嫌いの感情とはきちんと分けて論じてみるべきではなかろうか?

『自由』『民主主義』…『政治的正しさ』など、アメリカがこれまで掲げてきた看板が、
ヒラリーがトランプに負けたことによって、全否定されたように考えてしまうのも、これまた、
別のことをごっちゃにしてしまっている一つの例であろうと思う。
『トランプのようなものが勝つはずがない!』…そう思っていたものの価値観が、百八十度
ひっくり返されてしまったようなショックを受けて、一時言論界やジャーナリズムが茫然自失
してしまった感がある。それは私のような部外者も同じだった…。
しかし。選挙に負けたことと、トランプであろうがクリントンであろうがはたまたサンダースが
政権の座についていようが人間が守らなければならない本質的価値とは、まったく別のことだ。
『トランプに負けたこと』=『人間が守るべき本質的価値の否定』となってしまっては絶対に
いけないのである!

負けたことは負けたこととして反省するのはいい。しかし、敗北によって、『真実の価値』
のような本質的なことまで見失ってしまってどうするのだ!
『ポスト・トゥルースの時代』など、来させてはならないのだ。負けにいつまでもひるんでいてどうする!

トランプは、新聞、テレビなど既成のメディアを激しく攻撃する。それに対し、メディアは、私のような
他国民からすれば、行き過ぎじゃないかと思うくらい、激しいトランプ叩きを展開した…
確かに、トランプの批判にはもっともな点もあって、新聞などのメディアそのものが、いわば
既得権益層になってしまっていて、『どこからも誰からも見放された』、と感じているラストベルト
などの白人中下層の人々などのやりきれない思いを掬いとりそこね、票の動きを大きく
見誤ったばかりか、逆にそういった層の人々を、無教養な集団と見下すような傾向が
なくはなかったことは確かだろう。トランプは、そこのところをきっちりと捉えていたと言える。
トランプ勝利の後のジャーナリストたちの意気消沈ぶりは、遠い日本にいてもビンビン伝わって
来るような気がした…。
だが。ここでもまた、なにか議論がごっちゃになっている。
ジャーナリズムなどが既得権益化し、その本来の批評の力を失ってきているのはアメリカも
ましてや日本などはさらに、確かなことかもしれない。
しかし。だからと言って、ジャーナリストはもう死んだ。もうメディアの役目は終わった!と考えるのは
大間違いである。
どこの国であろうが、ジャーナリズムは、死んでしまってはいけないのである。死なせてしまっては
いけないのである。国民がそれを守っていかなければならない。

トランプのように、自分に不利な報道をするメディアを毛嫌いし、ニューヨークタイムズの
購読者数が減っただろう、などと。しかも間違ったツィートを、一国の代表者がするようなことは
明らかに間違っている。
メディアの現状と、メディアの本来の役割をごっちゃに論じて、メディアそのものの力を
衰退させていってはならない。
トランプ勝利とメディア、についてはまた、別の記事できっちりと書きたい。

でもまあ、アメリカは、タフである。国民がまだまだしっかりしているよなあとしみじみ思う。


…このように、何もかもがいっしょくたに論じられて、本質が見えなくなったり、その末に
人間が守り育てていくべき大事な大事ないわば普遍的価値そのものが否定されるようなことは
なんとしても避けねばならないのではないかと私は思うものである…



トランプ大統領誕生、またなんとなく書き残した感のあったEU問題、またTPPを含む
自由貿易協定などを論じて行くにあたって、上に書いたようなことを議論の根底に
しっかり据えて考えて行ってみたい。




『トランプ大統領誕生に想うこと① 野次馬的雑感 』


世界が固唾を呑んで待ちかまえていたトランプ氏大統領就任の日がついにやってきた。

私も、昨夜はずっと起きて就任式を見ていた…さすがにパレードの頃までは起きていられなくて
オバマ前大統領のヘリによる退場のところまで見て寝てしまったが。

う~ん……。
トランプ夫人のファッションセンスよかったなあ…

まずは、トランプ新大統領に『おめでとう』と一応言おう。
そしてアメリカの人々にも。
なぜなら、これは、民主主義的選挙によって、アメリカ国民が示した意思の結果なのだから。
とにもかくにも新しい時代の幕開けだ…
実は、トランプの政策の中には、私自身の考えと概ね一致するものもなくはない。
無論、根本的にまったく賛成できないこともある。
その両方を含め、11月のトランプ勝利以来、思うことは山ほどある。
が。まずは、下世話な個人的感想から書いてみようか。
政治的批判は次の記事からにする。
全くの私の、個人的な印象であるので、ご容赦を。

さすがのトランプ氏も緊張?
オバマ大統領夫妻やトランプ夫人などがすでに壇上に立って、いよいよあとは、トランプ氏
本人が出てくるのを待つのみ、というところまで来て、トランプ氏がドアからバルコニーに出てくるまでの
顔をずっと見ていたが、さすがに緊張していたようだったなあ…
これから彼が4年間、世界一の大国アメリカの、そしてひいては世界の舵取りをして
いかねばならないのである。

トランプ氏には、核のボタンも預けられる…。
これから彼の行くところ行くところ、常に核のボタンの入ったスーツケースを持った
係員が、彼に随行することになる…。
オバマ氏が、核廃絶の象徴ともいえる街、広島を訪れたときにも、彼は核のボタンの
はいったスーツケースを伴ってきていたわけだが、日本人にはすごく違和感のあること
であっても、アメリカ大統領にはそれが当たり前のことなのである。

トランプ氏は、廊下を一人歩いてくるとき、緊張のあまり少し足元を心許なく感じていたように
私には感じられた。階段を下りるときにはちゃんと手すりにつかまって一段一段踏みしめる
ように下りてきていたので、他人事ながらちょっと安心した。
アメリカの大統領は、絶対に弱みを見せられない。涙をあまり安易に見せたりしては
いけないし、転んだりよろけたりして肉体的弱みを見せたりもできないのである。
ずいぶん過酷な立場ではある…。
考えてみれば、彼は70歳。私より一つ年上である。就任時歴代最高齢の大統領に
なるのだとか。タフだよなあ…
でも、一人のひととして、健康や安全には気をつけてほしいとこれは心から思う。


なぜトランプ氏はあのようにゼスチャーが大きいのか。
私がトランプ氏をどうも好きになれないのは、その政治的思想云々というよりは、むしろ
彼の全身から発するイメージがどうも好きでないので、人にはあまりそれを言えない。
うちうちの話なのでどうぞよろしく。www
まずは、演説をしている時の彼の顔。実によく表情筋を動かす。
もともと英語という言語は、日本語などに比べると、子音も母音も口をよく動かす言語である。
例えば、【th】の音など、「歯で舌を噛んで」、などと学校で習ったけれども、長い文章を
しゃべるなかで、いちいち【th】のつづりの語が出てくるたびに、そんなことできるか~っ!
などと典型的駄目英語学習者の私などは思ってしまう。

面白いのは、同じ英語圏でも、英国人は、アメリカ人がよく表情筋を動かしてしゃべるのを
多少可笑しく思っているそうだ、ということだ。
確かに。英国人は、概してぼそぼそしゃべっている感じだ。

トランプ氏の唇はとても薄い。そして口自体が小さい。だが、彼はその薄くて小さい口を
実によく動かしてしゃべる人である。
だが、それはまあヒラリー・クリントンだって、バラク・オバマだって同じで、要するに、
『演説』中は、大きな声も出さねばならず、はっきりも話さねばならないので、力が入って、
口がよく動くことになるのであろうが。それにしても、トランプ氏の口はよく動く印象だ。

彼の演説を見ていて特徴的なのは、口だけでなく、実によく手を動かすことだ。
右手の親指と人差し指でLの字や丸を作り、ときに特定・非特定の方向を指さし、
両手をうち振り…実によく手を動かしながらしゃべる。
実は、トランプ氏だけでなく、ニューヨーカーたちは、大ぶりなゼスチャーをよくする人々
なのだそうだ。
そうなのかな、と思って、今回のトランプ氏の就任演説と、オバマ氏のそれ、ブッシュ・Jr氏、
クリントン氏、レーガン氏、ケネディ氏…など歴代大統領の就任演説、そして大統領に
なり損ねたけれどヒラリー・クリントン氏の演説などを見比べてみた。(暇ですなあ!)
だが、どの歴代大統領も、演説の大事な個所では自然に力が入るのか、それまで
動かさずにいた両手を開いたり、こぶしを作ったりすることはたまにはあっても、、トランプ氏
ほど過激に両手を動かして演説はしていなかった……
ご興味のおありの方は、こちらから入って、歴代大統領の就任演説ご覧ください。
https://youtu.be/VjnygQ02aW4

ふ~ん…
性格なのか、単に癖なのか。
普段あまりゼスチャーをしながらしゃべらない日本人の場合、よく手を動かす人は、
あるいは手を動かしたくなるときは、自分の言いたいことに言葉が追いついていかない場合、
『じれったくて』思わず身ぶり手ぶりがでてしまうということが多いのではなかろうか。

トランプ氏もまた、言葉の追いついてこないじれったさから、あのように極端に目立つほど
身振り手振りをするのだろうか…それともあれは、彼の攻撃的な性格の表れなのだろうか…

トランプ氏というひとを大統領候補の一人として観察するようになってから、なんとなく抱いていた
疑問なのだが、アメリカのひとの中にも同じような疑問を抱いた人はいるらしく、こんな
面白い分析の映像があった。
ボディ・ランゲージの専門家、メアリー・シビエロさんの分析である。





記事元はこちらのBBCニュース。http://www.bbc.com/japanese/video-37103323

(笑)まさかね。そんなゼスチャーくらいで大げさな。こじつけだろう!
と思われる向きもあるかもしれないが、社会心理学によれば、たとえ『そのふり』を
するだけであっても、自信に溢れる「力のポーズ」を取ることで、脳内のテストステロンや
コルチゾールのレベルが変化し、それが性格までもを前向きに変えて行くということが
あるそうだ。
この映像の専門家も言うように、(アメリカ人の中でも)ニューヨーカーはよくボディ・ランゲージを
使うという。世界の商取引、金融取引の中心地でもあるニューヨークに暮らすビジネスマン、
ビジネスウーマンたちは、日々苛烈な競争の中で生きている。
握手一つで男たちは相手を判断するという話も聞いたことがある。相手に負けないためには
握手する手にぐっと意志をこめなければ、それだけで値踏みされてしまうという世界…
握手といえば、トランプ氏は、極端な潔癖症で、ほんとうは、人と握手をするのも苦手
なのだと聞く。私はそこに、氏の報道されているのとは別のまた何かを、ちらっと
感じてしまうのだが、まあ、それについては機会があればまた書こう…

デズモンド・モリスというイギリスの動物学者で、『裸のサル』という名著を著した人がいる。
その人の本で、『マン・ウオッチング』というものすごく分厚くて重い『人間観察学』の本が
家にあるのだが、世界中のさまざまな歴史・文化をもつ社会の中で人々が示す、身振り・手振り・
眉の上げ下げなどのなにげない動作が、意図せず現わしてしまう人間心理を、動物行動学者
の目で研究・観察した面白い本である。
人間の動作、表情の観察は、今や科学の分野になっている。それを知って、厳しい対人関係の
世界で応用されかねないので、決して侮れないものである…。

トランプ氏の場合は、誰かに学んだということではなく、親も実業家というその環境や、
自身の経歴や持って生まれた性格やさまざまな要因で、自然にあの身振りが身に
ついていったのかもしれないと思う。 …とにかくよく手を振りまわす人である…
そしてそれは。
私などには、非常に攻撃的なものを感じさせてしまうのだが。
でもまあ、これは、単に私がトランプ氏を好きでないからその仕草までが疎ましく思われるのか。

だが。トランプ氏の身振りに関連し、女優メリル・ストリープが、アカデミー賞の式典で
トランプ氏の身体的弱者への偏見をそれとなく批判したことはご存知の方は多いだろう。
トランプ氏が、ある新聞記者の右手が動かないことを揶揄してその真似をした、という
ことに対する批判である。この件については、メリル・ストリープを逆に批判している人もいる。
つまり、トランプ氏のあの大げさなゼスチャーは、彼のもともとの癖なのであって、
なにも手に障害を持つ特定の記者を指してその真似をしたのではない、普段のトークでも
いつもしている動作だ、というトランプ擁護の弁だ。メリル・ストリープがヒラリーと親しいことを
示す写真もアップして、選挙のためのこじつけ批判だ、と。

詳しくはこちらに書いてあるが。http://www.bbc.com/japanese/34941115
トランプ氏が体に障害のある記者の真似をしたのかどうか。本人は否定しているが、その
いいわけは客観的に見てもかなり苦しいものがある。ともかく、普段から、イスラム教徒や
不法移民や、女性など、社会的弱者に対する暴言が多い人だから、こういう批判も出てくる。
そもそもは、トランプ氏が、2015年11月21日に米アラバマ州で開かれた選挙集会で
『ニューヨークの世界貿易センターが崩壊するのを見て、アラブ系住民の多い対岸の
ニュージャージー州で何千人もの人々が歓声を上げていた』、また、
『世界中のイスラム教徒が(9.11米同時多発テロに)間違いなく大声援を送ったと、誰もが
認めている』と、本当は不確かな根拠のないことをまるで事実であるように、集まった大勢の支援者に
語ったというのがこのことのそもそもの発端だ…。


トランプ夫人のファッションはよかったなあ…
トランプ夫人の名前はなんと言ったか。…そうだ。『メラニア』だ。
そういえば、オバマ夫人はなんという名だっけ。そうだ。『ミシェル』だった…。

メラニアさんのブルーの衣装はラルフ・ローレン製だそうだ。
さすがにいかにも一流のデザイナーの服だなと思わせるカッティングの良さとあの色!
元モデルというメラニアさんの着こなしは文句のつけようがなく、ほんとに素敵だった。

私はメラニアさんを見て、いつも、『この人はどうしていつも悲しそうな顔をしているように
見えるのだろう…』と思ってしまうのだが、私だけの感覚かなあ?……
彼女が大統領候補のトランプ氏の妻として公に出るようになってから、ずうっと私は
彼女を見てそんな感じを受け続けてきた。
…彼女はほとんどしゃべらない。そして晴れやかな笑顔もあまり見せない。
いつもトランプ氏の横に、影のように立って、つつましやかな、どこか悲しげにも見える
かすかな微笑みを浮かべているだけである。
『この人は、トランプ氏の妻で幸せなのだろうか…』と、余計な心配をしてしまう私である。

旧ユーゴスラビア生まれだというが、もともとおとなしい性格の女性なのか。
顔立ちそのものは、イタリアの大女優ソフィア・ローレンなどと同じような野性味あふれる
顔なのだが、映像で見る彼女はほんとにいつもつつましく控えめである…
まるでトランプのお人形。飾り物の愛玩物でもあるかのように…と言ったら言い過ぎだな。
でも、なにか私は、彼女の全身から発する悲しみを感じてしまうのである。
むろん私の勝手な思い込みに過ぎないが。

今、メラニア、そしてオバマ夫人ミシェルの名がすぐに思い浮かばなかったが、今日の
大統領就任式を見ていて思うことが一つあった。
自由と平等、民主主義を標榜する国の代表、ホワイトハウスの住人となる人の家庭は、
いつも、強い大統領、そしてそれを支えるつつましやかな妻、という、いわば定型がある
みたいだなあ、と。
オバマ前大統領夫人ミシェルさんは、弁護士としてはオバマ氏以上のキャリアと実力を
持っていた女性だったという。だが、彼女は大統領夫人となってからは決してそういう側面を
表に見せず、あくまで家庭を守る人としての役割を果たしていたように見えた。

弱みなど決して見せない強い大統領と、貞淑で控えめで賢い妻でよき母でもあるその夫人。
幸せそうな子供たち。そして『ファースト・ドッグ』たる可愛い犬!
アメリカ大統領一家は絵に描いたような幸せな一家でなければいけないのであろう。
(ちなみに、トランプ氏は歴代大統領の中で初めて?ホワイト・ハウスで犬を飼わない
大統領になるだろうという。)

クリントン大統領夫人ヒラリー・クリントンは、ある意味で、その型に当てはまらなかった。
彼女自身の政治的野心が強かったからである。
彼女が嫌われた理由には、そういう意外なほど旧式なアメリカ人の男女観、家庭観、というものも
ひょっとしてやはりありはしなかったか、と思うのである。
彼女の政治姿勢や性格に、嫌われる第一番の問題はあったのだろうが…。


反トランプ暴動報道について
今日はもうほとんどテレビを見ていないので、就任式に関する一般の人々の反応は
まだ私は知らない。でもネットの見出しだけ見ると、反トランプデモ隊の一部の暴動が
あって、警官隊と衝突し逮捕者も出たとか。美しい街のショーウインドウのガラスを割り、
車やゴミ箱に火をつけた写真も載っていた。
これ。とても気になる。

実は、昨夜、就任式の放送が地上波テレビなどでいよいよ映し出されるようになる前は、
私はネット放送で、アメリカ在住の映画評論家町山智浩氏の現地報告の映像をずっと
観ていたからである。
就任式の会場に入るには、それぞれ指定の入り口まで長い長い行列の中で待っていなければ
ならない。町山氏も前に進めず、待っているその場で、周りの人々にインタビューなどしているしか
なかったようなのだが、そこに黒服ずくめの一団がいて異様に目立っていた。
町山氏によれば、彼らは、トランプ支持でもアンチトランプでもない、右でも左でもない、
『アナーキスト』を名乗る一団なのだという。彼らは、この就任式がトランプのものであろうが
他の人物であったろうが関係なく、とにかくこの式典に反対するために集まっているのだという。
彼らには、ちょっと話など聞けない、そういう人々であるという。

あとで、店のショーウインドウを割ったりしている一団の映像がテレビで流れていたが、
その一団が黒ずくめの恰好だったなあ…
テレビなどの報道で一様に『反トランプデモ』と言っているが、中にはこういう集団も
いること、そのことにはもっと正確な報道をしてほしい。
『反トランプ派』イコール『暴力集団』という図式を、作り上げないでほしいからである。


よってたかってトランプいじめの様相には抵抗感
私は、トランプ氏が嫌いである。
だが、批判すべきことと、それ以外のことはきっちり分けて考えたいと思っている。

アメリカの歌手や俳優などの多くが、トランプ氏を嫌って、就任式の招待を断り、彼のために
歌うことや自分の楽曲を使われることさえ拒否したという。
日本の芸能界をふくめ、いわゆる文化人と言われる人々が、『反権力』のレッテル貼りを
されて仕事を失うのを恐れて、概して政治的発言を極力避け、それどころかむしろ
権力に擦り寄る人の方が多いのではないかと思わせられる現状に比べると(東日本大震災の
時に私はそれを痛感した)、アメリカは、まだやはり個々のひとの政治的自覚が高いのだなあと
思ってしまう。
だが。彼らが自分の考えで反トランプの意思表示をすることと、式典に参加するアーティストが
少なかったというそのことをあげつらってマスコミなどがトランプをあざ笑うことは別事である。

私はトランプが嫌いだが、そして万事強気のトランプ氏は気にしないではあろうが、
『自分が好かれていない』ということを、こうした形で突きつけられたことは、誰にとっても
こころ傷つくことであろうと、ふと思ってしまう。

『分断』は、悲しいことである。
今度の選挙戦でアメリカの背負ってしまった傷は、思う以上に大きなものになるだろう…
ただ選挙の勝ち負けだけではない、価値観の喪失(逆に又創出)につながっていくものに
なるのであろうと思う。それらについては次回以降に書く。


とりあえずの、式典の野次馬的雑感。







『記憶』


今、世界は、20日のトランプ就任式までは何を言っても無駄になるだろうとでも
思っているのか、その日を固唾をのんで待ちかまえているような感じがする。

今年は確実に、良くも悪くも大きな変化の年となるであろう。
一つ一つの事象に振り回されるのではなく、自分自身の判断基準をしっかり持って
いることだ。なかなか時にそれは難しいことなのだけれども。



                 ***

さて。新年最初の政治記事。^^
まずは、一枚の写真を見ていただこうか。

ある小学校での授業風景なのだが、何かお気づきになられたことがあるだろうか。
よく見てお考えください…


手を挙げる ③


・・・・・・どうですか?


それでは。もう一枚の写真と比べていただこうか。



手を挙げる ④


上は、ドイツの小学校の授業風景。下は、日本の小学校の授業風景である。
…そういえば、違いがお気づきになられるだろうか。


……そう。子供たちの手の上げ方が違うのである。


ドイツでは、人々は手を挙げるとき、右手の人差し指を一本立てるか、親指を立てるか、
親指と人差し指を『チョキ』がたに開くか、あるいはゆるく手を『グー』のように握って
挙げるか、要するに、とにかく日本のように右手指を伸ばしたまままっすぐに
挙げないのだそうだ。それは街かどでタクシーを呼ぶ時も、レストランなどで
給仕のひとを呼ぶ時も同じだという。
ドイツでは、右手の指をまっすぐ伸ばしてそろえて手を挙げる、いわゆるヒットラーの
ナチス式敬礼に似た手の上げ方を法律で禁じているのだというのである。

私はドイツに行ったことがないので、そのことを聞いたとき、ほんとにそんななのかな、と
少々疑問に思っていた。
だが、上の写真は、別に、ドイツの子供たちの手の挙げ方を問題にした記事ではない。
『ドイツで小学校の宿題に関する時間を規制』という内容の記事である。
別な時、別なところで見た、ドイツの小学校の授業風景も同じような感じだった…

…ああ、ほんとに、ドイツではこうなのだな。子供たちがもう、それと意識せずこのような
手の挙げ方をするよう、いわば、日常生活でそれが習慣化され当たり前になっているのだな、と
改めて思わされた。

ご存知のように、今日本と韓国の間では、釜山の日本総領事館前などの慰安婦の像
設置を巡って、悶着が再燃している。
像を撤去する努力をすると約束した韓国政府。だが、像は撤去されないばかりか
増えて行く。約束が違うではないかと怒る日本。それに対し韓国では、日本が出した
10億円などいらない、日本に返してしまえという強硬意見も出ているという。
日本側では抗議の意思を示すため駐韓大使らを一時帰国させた・・・・・・

ああ。もう、何をやってんだ、いったい!

私は、日本が、朝鮮半島併合や、韓国の女性たちを日本軍の兵士の性処理の
相手にしたことを、戦後、誠意をもって心から謝ってこなかったことが、戦後70年も経つ
今なお、両国間の棘が抜けずに、こうしていつまでもぐずぐずと問題が再燃する
一番の原因だと思う者である。それは中国や他のアジア諸国に対しても同じである。

先の12月末、安倍首相や稲田防衛大臣は真珠湾を訪ね、オバマ大統領と共に
戦没者の慰霊を行った。安倍首相はオバマ大統領と並んで談話を発表し、マスコミなども
両国間に長年横たわっていたこころの問題がこれで取り去られた、とでもいうかのように
概ね、総理らの真珠湾訪問を高く評価していたように思う。

だが。日本が戦争を仕掛けた相手はアメリカだけではあるまい。日清日露…はともかく。
朝鮮半島併合。台湾併合。そして中国大陸に『満州国』という傀儡国家建設。
さらには中国重慶、南京などへの爆撃、侵攻。またさらにフィリピンなど他のアジア諸国や
太平洋の島々への侵攻そこの占拠などなど、アジア地域広範にわたって、要するに
武力侵略していったのである。
しかし。日本人は、そのことをドイツのように、ここまで徹底して反省し謝罪してきた
であろうか。

ドイツの徹底した反省は、アウシュビッツなどホロコースト遺跡の完全保存などばかり
でなく、このような手を挙げるという日常の動作にまで及んでいるのだが、それだけで
なく、ありとあらゆる方法で、戦争時の記憶を風化させないようしないよう努力している。

この写真はなんだろうか。


ドイツ 舗道のプレート
写真はこちらの記事からお借りしました。記事も是非どうぞ。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-28/2013072816_01_0.html


これは、ドイツの街のいたるところの舗道に埋め込まれたプレートである。
このプレートには、ナチス政権下で犠牲になった人の名前、生年月日、移送された収容所名、
死亡年月日が刻まれ、彼らが生前に暮らしていた家の前に埋められているのだという。
ナチ政権が抹殺しようとした人々の存在を、忘れまいとするドイツの数多くの
運動のなかの一つである。



このように、第二次世界大戦で人類史に残るような大罪を侵したドイツは、戦後厳しい総括を
行い、自国を自ら罰し、ナチスに関わる出版物発行の禁止等も含め、このように
現在も、自分たちの負の遺産負の記憶をぎりぎりと直視することを続けているのである。

今、EU諸国など第二次世界大戦中のドイツの行いを蒸し返して批難している国があるだろうか。
逆にドイツは今、ご存知のように、EU内にあって中心的位置を占める、いわば他国からも
信頼され敬意を持って見られる国になってはいないだろうか。

翻って日本はどうか。
日本はまだ、本当の総括を行っていない。昭和天皇の戦争責任はうやむやにされたまま。
軍部や政治家たちだけではない。日本人は実は民を挙げてあのアジア侵略に猛進して行った
のであるが、国民自身も其の罪について深く考え反省することは乏しかったように思う。
政府は東京裁判でA級戦犯と断罪された日本の戦争指導者を靖国神社に祀り、自民党を
中心とした政治家たちはそれを英霊として顕彰し、いまだに参拝を繰返して、中韓など
アジアの国々の神経を逆なでしている。
安倍首相と仲のいい芸能プロデューサーのプロデュースする少女たちの集団が、
ナチスドイツの制服に似た衣装を着て歌を歌って、批判を浴びたのはつい数ヶ月前のことだ。
この衣装は、海外のメディアからも、驚きと違和感を表明されたというのだが、責任者は
あっさりと衣装を引っ込めただけで、世界の違和感は一向に自覚していなかったように見える。
そればかりか、現政権の財務大臣で副総理でさえある麻生氏は、『ナチス政権の
手口を学んだらどうか』などと、世界が聞いたら総顰蹙を買うような発言を平気で
ぬるっとしてしまう始末!

他国に多大な迷惑と困難と悲劇を与えたことに無頓着というより意識的に鈍感を
貫いてきた国は、自国民の悲劇にも知らんふりを決め込む。

沖縄は日本で唯一の戦場となった地だが、敗戦後もアメリカの基地の街として残されたまま、
日本政府は、その負担を真に取り除こうなどとはこれっぽっちもしないばかりか、
辺野古移設に反対する知事を裁判にまで追い込んで意のままにしようと今もしている。
戦争が終わってもソ連などに抑留されていた人々の困難への補償は、いまだに
政治的には無視され続けている。




私は思うのだ。
なぜ、日本人は、一度、真から先の戦争・侵略の罪を直視し、世界に向けて反省しない?
それをきちんとやってこなかったから、いまだに韓国や中国とまっすぐに向き合えないのだ。
慰安婦の像が、日本大使館前や日本総領事館の前に据えられたって、なんの不都合があろうか。
このドイツの例を見よ。
大人たちは、罪の現実を隠し立てし、綺麗ごとで子供たちをごまかそうとしているか?
ドイツの子供たちは、真実を知らされたことにより戦争を引きずって傷ついているか?
否、だろう。

私は、もし自分が政治家であったなら、国会の敷地内に、韓国慰安婦の像と
中国が日本軍によって受けた被害を示す事跡のプレートと、そして広島長崎の原爆の
事跡のプレートなどを並べて配置する。憲法前文を刻みこんだそれもあってもいい。
二度と日本はあのような罪を犯さない。また世界も同じような過ちを犯さないでほしい…
そういう決意と願いを込めて、堂々とそれらの像やプレートを、日本の政治の中枢の場である
国会議事堂の敷地内に設置したいと思う…。





上に引用した写真は、このサイトからお借りしました。
一枚目の写真:http://newsalt.jp/international/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E5%AE%BF%E9%A1%8C%E3%81%AB%E8%A6%81%E3%81%99%E3%82%8B%E6%99%82%E9%96%93%E3%82%92%E8%A6%8F%E5%88%B6
二枚目の写真:http://familyblog.shogakukan.co.jp/news/2012/01/000515.html
http://newsalt.jp/international/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E5%AE%BF%E9%A1%8C%E3%81%AB%E8%A6%81%E3%81%99%E3%82%8B%E6%99%82%E9%96%93%E3%82%92%E8%A6%8F%E5%88%B6



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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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