『星と月の夜をたずねて』追記


あの小さな呼び鈴について。
玄少子さんが、一夜のうちになんと、あのこの姉妹、ともいうべき品を見つけ出して
くださいました。
eBay という、世界展開しているアメリカのオークションサイトなんですが、そこに
あの呼び鈴とまったく同じ作りのものが載っていました。
絵の場所が違うだけで、細かい装飾などもほんとに同じ。
残念ながら、もう売れてしまったもののようで、その商品自体には辿りつけません。
いくらで落札されたのか、などという現実的な興味とかね。(笑)

でも、おかげさまで、関連商品などから、どうやらあれは、やはり1878年のパリ第三回万国博覧会と
無縁でなく、ホテル・ナポレオン(ホテル・ナポレオン三世?)の卓上ベルだったのかもしれない、
ということがわかったのです!
それでは、あのこの姉妹(兄弟かな)にお会いください♪

https://www.google.co.jp/search?q=SONNETTE+DE+TABLE+NAPOLEON+III+EXPO+UNIVERSELLE+1878&rlz=1C1RNAN_enJP434&es_sm=122&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_ftSVPqXLYWymAWp0IDYDA&ved=0CCEQsAQ&biw=1130&bih=683

玄少子さん。ありがとう~~~♪


                        *
≪再追記≫

もうひとつ、あのこの仲間が載っているサイトを見つけました。

そもそもそのページは、アメリカのベル好きの人々が集まっているNPOの
サイトのようで、世界中に1,500人の会員がいるという極めつけのベルフリークたちの集まり。
でも、みんなで一つのベルの歴史などを徹底的に調べたり、語り合ったりする、
(出所やその価値などについての質問も受け付けてくれるのだそう)、言わばベル愛好家兼
蒐集家兼研究者の集団みたいな人々の集まりらしいです。^^
アンティークな卓上ベルについても、なんと27ページもにわたり、260
(関連品含めるとそれ以上)ものすてきなベルを紹介しています。
これらのベルは、やはり、御邸などの主人や女主人が、使用人たちを呼ぶのに使ったり、
その他にも、ホテルのフロントなどにも置かれて、席を空けている係を呼んだり
するのにも使ったのかもしれません…
実にさまざまな卓上ベルの数々…中にはうっとりするほど芸術的なものや
意匠が面白いものもたくさんあります…

それで。問題の、あの呼び鈴の仲間のこというのは、この25ページめの少し下の方。
通しナンバーでいうと238のd。

http://www.americanbell.org/forum/viewtopic.php?f=6&t=4193&start=312

おお!やはり、基本的な構造は同じです。
で、こちらは、あのトリスケルというか、渦巻き模様の面がなく、3枚の絵の面で
出来ています。絵は、やはりトロカデロ宮(別の絵)と、それからなんと、一枚は私が
ご紹介したあの子のと同じです。どこの絵かはっきりわからなかったけれど、ルーヴル宮殿
を違う角度から(セーヌ河畔から)描いたもの、とこれで判明しました!
あとの一枚は、カルーゼル広場の凱旋門の絵。
あとは、装飾もちょっと違っていて、これは、星と月の飾りの部分が、金属打ち出し細工に
エナメルで緑と赤に着色してあるようです(誰かが買ったあとで塗ったのか?)。
下のレース部分の金属も、こちらは籠目模様。
私は、下の台座の白い部分の素材は何かなぁ、と思っていたのですが、『アラバスター(雪花石膏)』
とわかりました。『アラバスター』という語は私にとって思い出のある語ですが、まあここでは
長くなるのでよしておきましょう。

この品物は、1878年のパリ万博の際、チュニジア館で土産物として売られていたもののよう。
とすると、私のところのあの子もやはり、同じ時に同じ目的でつくられたものでしょう。

あ~…出所がわかって、本当にすっきりしました。



                    *

≪再々追記≫

これらの呼び鈴たちが、1878年第3回パリ万博のときの、チュニジアのパビリオンで
土産物として売られていた、というところまで、上記でつきとめました。
でも、『なぜ、チュニジア?』という疑問が、その時書きながらかすかに頭をかすめました。
が、そのまま…

でも、書き終わってしばらくして、やはり、『なぜチュニジアパビリオン?』という疑問が頭の中で
大きくなっていきます。それで調べてみたのです…


19世紀の地中海沿岸は、オスマン帝国が弱体化しつつある中、フランスが勢力を伸ばす
状況にありました。
1871年にはフランスはチュニジアの隣国のアルジェリアを支配下に収めています。
問題の1878年第三回パリ万博の前年1877年には、チュニジアの保守派がクーデターを起こし
太守ハイル・アッディーンが失脚。
これをうけて、列強は万博の年のその1878年にベルリン会議を開き、フランス、イタリアに
チュニジアの自由権の承認しているのです。
つまり、1878年という年は、パリにおける第3回万博と、フランスのチュニジア属国化の画策とが
同時に進行していた、という年なのでした!
その後イタリアが譲歩し、第三共和政のフランスは3年後の1881年、オスマン帝国領のチュニジアに侵攻します。
隣国のアルジェリアを支配下に収めたことの延長線上にチュニジア侵攻はあったのです。
1883年、「マルサ協定」締結。チュニジアはフランスの保護国になり、以降、1956年まで
73年間も植民地体制が続くのです!
したがって、1878年のパリ万博のときにはすでに、フランスはチュニジアの宗主国に
なりつつあった。そのフランスの、チュニジアにおける統治権とフランスの勢威を
世界にアピールするために、『チュニジアパビリオン』は設置されたのではなかったのでしょうか?……


チュニジアの国旗。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97

なんと!呼び鈴の飾りそのままじゃないですか。
中央の三日月と星は古くからのイスラム教の象徴であり、幸運のシンボルでもあった。
赤い色はオスマン帝国時代の反抗勢力の名残だそうです。
パリ万博でなぜこのような模様が?というのがぴんとこなかったけれど、ここで繋がってきました!


チュニジアと言えば思い出すのが、2010年から2011年にかけて起こった民主化運動、
『ジャスミン革命』という美しいことばで呼ばれたあの大規模反政府運動です。
チュニジアで始まったこの民主化運動はあっという間にエジプトなど周辺アラブ世界に
広がっていって、これまた『アラブの春』という美しい名で呼ばれていたことは記憶に新しいです。
しかし、現実には、チュニジアの騒ぎはアラブ世界に飛び火して、リビアではカッザーフィの独裁政権が
フランスなどNATO軍などの介入も得て倒され、カッザーフィーは殺害され、その後のリビアはシリア同様
内戦状態になってどうしようもない状態です。カッザーフィーのいなくなったリビアから流出した武器や傭兵や
戦闘のノウハウが、あの日本人人質殺害事件が起きたアルジェリアなど周辺アラブ世界の
過激派武闘集団に流れ込んでいると言われていますし、そもそもあの人質事件は、
フランス軍のマリ介入が遠因の一つともいわれています。
同じくエジプトでも民主化運動でムバーラク独裁政権が倒されはしたものの、
その後の混とんもみなさんご存知の通り。
アフリカの諸国の歴史から、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー…などの
先進欧州諸国の政治経済文化あらゆる面での介入と欲望と搾取の影は拭い去ることはできないです…

                        *


小さなこの、呼び鈴。
骨董品です。もう、これが作られた時からおそらく百四十年近くの時が流れている…
骨董品は、ただ『モノ』としてそこにあります。
でも、この子が生まれてすぐに見た人間の歴史の1ページは、その後も連綿として続き、
幾多の動乱と悲劇を繰り返し、それは今も続いているんですね。
人間の歴史は『アンティーク』にはならないのです。過去は今に、今は未来に続いている…

この呼び鈴は、属国化される国の人々の想いや、
逆に、『世界にフランスあり』とパリ万博を機に華々しく宣伝して、チュニジアなど
海外における諸権利を確たるものにしていこうとする大国の思惑や…
そのような重い歴史を、その小さな体に背負っていたのですねえ…
生まれた時やところはおよそわかったけれど、しかし、この子自身が辿ってきた、
長い長い旅路は、それはわかりません…。この子しか知りません。

どこをどうめぐって私のところへ辿りついたのか…
人と人との縁だけでなく、ものとの縁というのも、ほんとうになんだか不思議なものです…





スポンサーサイト

『星と月の夜をたずねて』

福島県知事選は終わったけれども、与野党相乗りで選挙の争点はぼかされてしまいました。
言いたいことはたくさんある。だが、言えば、また、長くなりそうです。
少し考えがまとまったら、あらためて記事を書くことにして、今回は、まあ…
このところ硬い記事ばかり書いているので、たまには昔のように、私の個人的な話など
書いてみましょうか。
『ジョルジュ・ペレック』と『パトリック・モディアノ』のことを調べていて、かつてこの世界に生きていた
人々の(今年度ノーベル賞作家モディアノは無論お元気でおいでだが)足跡をたどるのが、
なんというか、この殺伐として先行きの見えない世にあって、何やらしみじみと懐かしい
作業であったから、もうひとつ、そんなお話を。


                       *


昨日27日は三日月でした。うっかりして見損なってしまいました。
今月は皆既月食があり、オリオン座流星群の月でもあったのですが、どちらの日も
私の住む地域は天候の状態が思わしくなく、見ることが出来ませんでした。
流星群といえば、毎年楽しみにしている8月のペルセウス座流星群も、まるでその最大日の
前後を狙い撃ちしたように、曇りまたは雨の日が続いて見ることが出来ませんでした。

そんな中、ちょっとしたものをお見せしましょうかねぃ…


2014_1028_082447-CIMG3279.jpg


これ。何が入っているとお思いになりますか。
金貨銀貨や真珠、ダイアモンド、サファイアなどのお宝がざっくざく? まさかね…^^
箱は、マトリョーシカみたいに3つ同じデザインの大中小の箱が入れ子になっている。




2014_1028_082549-CIMG3282.jpg





蓋を開けてみると…



2014_1028_082736-CIMG3285.jpg



これ。なんだとお思いになりますか?


これ。実は呼び鈴なんです。
大きさは、底面の台座の直径およそ9センチくらいかな。
上に出ているつまみのようなものを下に押し下げてから手を離すと、右の方のつるの
先に付いた小さな丸い球が、中に組み込まれている真鍮?の半球形の鐘を、チン!と
叩いて鳴らします。
澄んだ綺麗な音ですが、思いのほかに大きな音。

呼び鈴の用途に使うのであろうとは思うけれど、いつ、どこで作られたのか詳細はわからない。
かなり古ぼけて、金属部も少し波打ったりしています。
ただ、星と三日月がデザインされたその不思議な外見と、呼び鈴としての用途もある(つまりただの
飾りだけのものでない)というところが気にいって、買ってしまいました。

この呼び鈴らしきものの由来が知りたい。でも、元の箱など無論なく、買ったところでも
由来などわかりません。



ヒントは、まず、三日月と星、というこの組み合わせです。
『三日月と星』がデザインされているということですぐ思いつくのは、トルコの新月旗(月星章旗)です。
三日月と星の組み合わせはイスラムのシンボル。他のイスラム圏の国で、この三日月と星の
組み合わせの国旗を使っているところも結構あるけれど、トルコのもいずれの国のも、
この、呼び鈴の星と月の感じとは少し違うかなあ…



2014_1028_082840-CIMG3287.jpg


次にヒントになるのは、この面です。

渦巻きを三つ組み合わせたものが入ってる円環がデザイン化されている。
この部分の細工などは結構手が込んでいます。
渦巻き三つ、というのが伝統的にどこかの国または地域で使われていないかしら…、
そう考えて調べてみたら…ありましたよ~~~!


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%84%9A%E5%B7%B4


『三脚巴』という伝統的なデザインらしい。
その名の通り、もとは、直角に膝を曲げた三本の足が120°の角度で追いかけっこ
しているように組み合わされたもの。
このデザインは、フランス、ブルターニュのシンボルであり、また、マン島やシチリアの
シンボルでもあるといいます。
この呼び鈴の模様のように、三本の脚を簡略化して、単なる3つの渦巻きにしたデザインは、
西ヨーロッパの新石器時代シンボルだそうです。しかしケルト文化などだけでなく、
このしるしはそれこそ世界各地で使われていて、渦巻きをさらに簡略化すると、
日本の家紋…例の『三つ巴』にもなるというのです。
ちなみに、私の母の実家は九州の落人部落と言われる山奥にあったのですが、
紋章は、六角形の中に三つ巴であった、と言っていたような……

しかし、渦巻き模様の意味はわかったものの、それだけでは、やはり、
この呼び鈴が作られた地域や時代は特定できません……



2014_1028_082900-CIMG3288.jpg




三番目のヒントは、2面に配された小さな絵です。
一枚はこれ。
私は、西洋建築(と思われる)の様式に弱いので、これがいつ頃の時代の建物なのか
わかりません。裾を引きずる人々の服装から察すると、1920年代以前、ということでしょうか。
第一次世界大戦を経験し、女性服にも合理性が求められ、1925年ごろには
スカート丈が膝頭まで上がった、といいますから。



2014_1028_082940-CIMG3289.jpg



さて。一番ヒントになりそうなのが、この面です。
二つの高塔と、少しそれよりは低いいくつかの塔に旗がなびくお城らしき建造物と、
そこから延びる広い道と噴水らしき一角、緑の植栽がなんとなく見てとれます。
そして。小さな文字が入っています!
『TROCADER』と。パリのトロカデロ広場か?それならば、『TROCADERO』の綴りのはずですが…
綴りミスか、それとも英語式の綴りでしょうか?……
トロカデロ広場なら、パリの街の西部、セーヌ川右岸の丘の上に建つシャイヨー宮の正面(東側)にある
半円状の広場です。広場中央には人工池があります。シャイヨー宮のテラスからはセーヌ川の対岸にある
エッフェル塔やシャンドマルス公園などが眺められます。

早速、シャイヨー宮で画像検索して、小さな絵の中の建造物と比べてみます…。
(行ったことないからわからないの)
…人工池もあって広場はそれらしいけれども、建物のかたちは全く違うなぁ……

しかし。『シャイヨー宮は、1937年のパリ万国博覧会の時に造り替えられて出来た』、とあります。
それならば、もとの姿は?・・・・・・・・・・・・
ありましたよ~~~!シャイヨー宮のある場所には、元、トロカデロ宮殿が建っていた。
このトロカデロ宮殿というのは、あの1878年第3回パリ万博のときに建てられたものです。
お城というよりは、博物館などとして建てられたらしい。
1878年の第3回パリ万博と言えば、日本にも縁浅からぬ万国博覧会です。

おお! 下の絵の右側には、トロカデロ宮がくっきりと見えます。

1280px-Panorama_des_Palais 1878年パリ万博


1878年パリ万国博覧会。
『普仏戦争からのフランスの復興を祝って開催された。
庭園を囲むようにトロカデロ宮が建設され、その対岸のシャン・ド・マルス公園には
巨大なパビリオンが建てられた。アレキサンダー・グラハム・ベルの電話機や、
トーマス・エジソンの蓄音機や自動車、シンガー社のミシンが出品されるなど、当時の各国の
発明品が所狭しと並べられた。
パリの美術界でジャポニスムが沸き起こっていた時期に重なり、日本からの出品は
前回(1867年第二回パリ万博に日本は初めて参加)に引き続き印象派絵画に影響を与えた。

(絵と文 Wikipedia記述に加筆)

このトロカデロ宮は、アンリ・ルソーが後に『エッフェル塔とトロカデロ宮殿の眺望』に描き、
H・G・ウエルズの『解放された世界』の中にも登場します。
(ちなみに、エッフェル塔が出来たのは、後年、1898年の第4回パリ万博のときです。
上の絵の左の方、1878年の万博では巨大なパビリオンが建てられた、と書かれている
シャン・ド・マルス公園にエッフェル塔は建てられた。)




ここで、一人の日本人の名前をあげておきましょう。
林忠正。
嘉永6年11月7日(1853年12月7日) - 明治39年(1906年)4月10日)。
明治時代に活躍した日本の美術商。越中国高岡(現在の富山県高岡市)出身。
1878年(明治11年)に渡仏。
当時のパリでは日本美術への人気が高く、博覧会でも日本の工芸品は飛ぶように売れた。
トロカデロ宮殿内の「歴史館」では各国の参考品が展示され、特に日本に興味を持つ
印象派の画家や評論家などは連日、日本の展示物を見物に来ていた。
忠正はそこに立って、流暢なフランス語で詳しく説明した。
また、浮世絵からヒントを得て新しい絵画を創りつつあった印象派の画家たちと親交を結び、
日本に初めて印象派の作品を紹介した。1883年(明治16年)に死没したエドゥアール・マネと
親しんだのも、日本人として彼一人である。1905年(明治38年)の帰国に際し、500点もの
印象派のコレクションを持ち帰り、自分の手で西洋近代美術館を建てようと計画したが、
その翌年に果たせぬまま東京で死没した。52歳没。
(Wikipediaより)


林忠正
う~ん…そんな時代に。…そんな日本人がいたのだなあ。
興味がおありの方は、ぜひ、上記Wikipediaにもっと詳しく書かれていますから、お読みください。
私がここで短く引用した以上の興味尽きない人物です。だが、彼の業績は必ずしも後世の人々に
正しく評価されてはいないようです。明治という時代の日本の中で、彼の開明性は、一歩も二歩も
進み過ぎていたのでしょう……
それでも。百数十年前、明治初めの頃のパリの街を歩いている一人の日本人の姿が
生き生きと立ち上がってくるようです……

さらには。あのニューヨークの自由の女神像は、アメリカ合衆国の独立100周年を祝い、
フランスから贈られたものだということは周知の通りですが、この資金集めのため
フランスでは記念像建造キャンペーンとして、宝くじや、1878年のこのパリ万博において、
完成頭部を展示して約40万ドル相当の寄付金を集めたのだそうです。
(自由の女神像は、そうして1884年にフランスパリで仮組み完成され、214個に分解して
フランス海軍軍用輸送船イゼール号でアメリカに運ばれました。)


自由の女神 1878 パリ万博





さて。小さな呼び鈴にもう一度戻りましょう。


トロカデロ宮spot100-10


おお~!
この呼び鈴の小さな絵そのままに近い絵(着色写真?)もあるではないですか!
(絵は下記のサイトからお借りしました。
http://www.geocities.jp/kcc_newair/paris_spot/spot100.htm

…ということは、この呼び鈴は、1878年の第3回パリ万博と、1937年の第7回パリ万博の
間に作られたものだということではないでしょうか?
なぜなら、1878年第3回パリ万博でトロカデロ宮殿が建設される以前に、この絵が
描かれるはずはなく、また、1937年第7回万博の際にトロカデロ宮殿が取り壊された跡地に
現在のシャイヨー宮が建てられた後では、旧トロカデロ宮殿をわざわざこのような
観光みやげ?もののような呼び鈴の題材にするはずはないだろうと思うからです。
新しいシャイヨー宮が出来たなら、取り壊されたトロカデロ宮殿ではなく、新観光スポットとしての
シャイヨー宮を描くのではないでしょうか?

…とすると…。これが1878~1937年というその頃のパリの風景を描いているのなら、
建築様式のわからないもう一枚の絵の場所は…なんとなくサンラザール駅の建物に似ている気もしますが…

と。調べては来たものの、パリとは全く関係なく、
もしかすると、案外、手先の器用な日本人が輸出用に作ったものかもしれません!(笑)

結局、この小さな呼び鈴が、いつどこで何のために(おそらく観光みやげか…)作られたかは、
はっきりしたことはわかりませんでしたが、使われている渦巻き模様の意味や、2枚の古い絵の
題材となっている時代はおよそつかめたのではないかと思います。
別にそれでどうだというわけではないけれど、ただの呼び鈴、と思っているよりは、
ものにだって愛情が湧いて、なんだか可愛くなるじゃないですか?^^



                         *





2014_1028_103300-CIMG3320.jpg



なお。小さなこの呼び鈴をくるんでいる袱紗のようなものは、私が古い縮緬地を
二枚合わせにして、この子のために縫ってやったもの。
和洋折衷? いいのっ!(笑)
青紫の布はずっと以前、京都の骨董市で買ってきたもの。江戸か明治期のものと思います。
黄蜀葵(とろろあおい)と、桔梗の花が描いてある。黄蜀葵は中国原産だけれども、
日本へは古い時代に渡来。 根をすりつぶした粘液が、手漉和紙の糊として利用されてきたという。
根は鎮咳薬などに用いられるというから、同じくいろんな薬効をもつ桔梗と共に、
昔の人に愛されてきた植物であったでしょう。黄色い美しい花はオクラの花に似ていますが、
直径15センチとはるかに大きく、葉も枝つきも違います。
裏地にした黄土色の一枚も、いつかどこかで買ったものですが忘れたな…
菊、竹、梅などの花丸模様がところどころに控えめに散っています。
これももう、あちこち穴があいたりして、柔らか~くなった縮緬だから、たぶん相当古いものと思います。
寂びた感じの金色の布でバイアステープを作って、パイピングの縁取りにしてみました。

そうして。仕上げに。
最初に目を魅かれた、星と月の飾りに合わせて、小さな錆びた金色のお月さまのような
真鍮の輪を、飾りにつけてみました……


ということで、小さな、古ぼけた呼び鈴の来し方を探検してみる小さな歴史の旅は終わり。^^




『ピケ帽子 そして 緑のワンピース』

夏の服で思いだすものが、もう一つあります。

それは私が小学5年生の夏に、母が縫ってくれたワンピース。
もうその頃は、洋裁店に注文して仕立てて貰う、などということは我が家では
出来なくなっていました。
母は和裁が専門。洋裁は習ったこともなく、おそらく基本のきも知らなかったと
思うけれど、私が小さい頃から、ごくシンプルな夏のワンピースなどは
縫ってくれていました。ミシンはなかったので、手縫いの返し縫いで。

その夏、私はNHK地方局の合唱団のオーディションを受けることになっていました。
私がその春転校したばかりのその小学校は、生徒数の非常に多い、
市内でも有数の、いろいろな活動の盛んに行われている小学校でした。
音楽の先生も意欲的で、7組まであった各クラスから、2、3人ずつくらい
歌の得意な子をピックアップして、そのNHKのオーディションを
受けさせようとしていました。あれは個人的になさっていたのかなあ。

夏休みに入ってからも、20人弱くらいの生徒たちが、練習に通っていたように
思います。試験は自由曲のほかに、ソルフェージュのようなものがありました。
和音の聴きとりや、簡単なメロディーの書かれた楽譜を渡されて、
初見でそれを歌ったりするテストが。

私の家にはピアノは勿論オルガンもありませんでした。
でもなぜか私は、ごく小さい時から絶対音感は身についていて、ソルフェージュに
苦労はしませんでした。いつも私はこれを不思議に思います。
前にも書いたけれど、ごく小さい頃、ピアノとヴァイオリンを習ったことがあるのは、
合計しても3ヶ月くらいです。それだけで絶対音感が身についたとは思えない。
やはりあれは学校の音楽教育のおかげです。普通の授業で身についた。
あとは、兄や姉が、歌を正確な音程で歌う人たちだったからかな。
 
閑話休題。そのオーディションのために母が縫ってくれたのが件のワンピースでした。
それは、落ちついた、でも冴え冴えとしたいい深緑色の地に、
5ミリくらいの白いストライプが、4センチおきくらいに入っている、
パリッとした木綿地の布でした。縦縞です。
その縞の布で、袖なし、首元はスクエアカット、そしてスカート部分は、
車ひだ(ワンウェイプリーツ)の、シンプルなワンピースを縫ってくれました。
何の飾りもないワンピースでしたが、緑の発色がとてもよく、
白の縞もくどすぎず寂しすぎず、涼しげで、私の肌の色によく合っていたと
思います。

私がオーディションの自由曲に選んだのは、『母の歌』という曲でした。
検索で探してようやく見つけました。
他の方のブログで紹介されていました。御許可を得られたら、次の記事ででも
トラックバックしてご紹介したいと思います。

コンクリートの照り返しもきつい、夏のある日、私はそのワンピースを着て、
オーディションに臨みました。市内だけでなく、近隣の街からも
大勢の少女たちが集まってきていました。
初めて入る放送局のスタジオ。大人の男の人たちがたくさんいました。
調整室のガラスの向こうで指示を出すひと。機械に向かう人。
広い広いスタジオで、少女たちの緊張をほぐし世話をしてくれる先生らしき人。
向こうのピアノの前でにこやかにほほ笑む伴奏の先生…。
私は、母の縫った緑の服を着て、母のことを想いながらこころ込めて歌いました。
結果は合格でした。10倍くらいの競争率でした。ちょっと自慢します。

その中で、私がこのこは目茶苦茶うまいな、と思う子が一人いました。
私と同じ小学校で、一級下の学年。
学校でのレッスンの時から私はそのうまさに舌を巻いていました。
私は音程などは極めて正確でしたが、自分の声に個性や魅力があるとは、子供ながらに
思っていませんでした。いわゆる突出しない、合唱向きの声です。
ところがその子は、極めて張りのある、素晴らしく独特の声をしていました。
合唱団の中では目立ちすぎるかな、というほどの。
ピンと張りつめて、しかも明るい、天に飛翔するような声。
不思議なことに、合唱団というのは、私のようにいくら正確でも
凡庸な声が集まっていてもだめなのです。
中に数人、極めて美しい声の子がいなくてはならない。他の子はそれにつられて
美しい声を出すようになるのです。そんな気がします。
その子はそんな声の持ち主でした。

その子の歌った自由曲は、『ピケ帽子』という歌でした。
これはさすがにどこを探しても見つかりません。こんな歌詞です。
本当のタイトルはわかりません。作曲者作詞者もたどれません。

     『ピケ帽子』

  夏が来ました ピケ帽子
  僕も私も  ピケ帽子
  富士のお山も ピケ帽子
  白い帽子を かぶってる


ああ。この『ピケ帽子』という言葉。
その子の声にぴったりでした。
夏休み。子供たちは自由になって、てんでに緑の中へ
遊びに飛び出していきます。
その子は小柄でしたが、敏捷そうな、ばねのある体つきをしていて、
歌声も、今にも夏に向かって飛び出していきそうな声でした。
その頭にあるのがピケ帽子。畝織のあるしっかりした木綿地でできた帽子です。
色は勿論白でしょう。つばも広く、少女の顔を強い日差しから守ってくれるのです。


あのこは今、どんなひとになってるでしょうか。
歌のお仕事についたでしょうか。
今でも、あのこの声は、鮮やかに思いだすことができます……。





テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『夏のドレスのこと』



本格的な夏がもうすぐ来ようとするこの季節になると、
いつも思いだす夏服がある。

あれは私が幼稚園の頃だったかなあ。
当時は今と違って、年少さんから幼稚園、などということはなく、
小学校入学前の一年間だけ、幼稚園に行っていたと思う。
後に一家が離散して、貧しくなってしまう我が家だけれど、
その頃はまだ、田畑を売ったお金も残っていて、姉や私の着るものなどは、
母が案外贅沢に誂えてくれたりしていた。

その夏も、母が私に新しい服を作ってくれるという。
実は私にはその時とても欲しい服があって、母にせがんでいたのである。
その服というのは、当時大流行していた、少女のドレスだった。
もう、それこそ、ちょっと豊かでおしゃれな少女のお出かけ着の定番、
というくらいに。

あれはなんという布だったのだろう…。
シフォンかな、オーガンジーかな。
うすく透ける生地で、やわらかいのだけれど、シフォンほどくたっとしていなくて、
もう少し張りがあり、でもオーガンジーほどパリパリでもなかった。色は白かブルー。
蝉の羽のように薄い、半透明に透ける生地に、全体に2ミリほどの大きさの
ドットが、とんでいる。その小さな水玉柄は、織り出した模様や描いた模様ではなく、
ビロードのようなもこもこした質感のあるものが、どういう加工をするのか、
吹き付けで貼ってあるという感じ。

とにかく見ただけで、女の子なら「ああ、すてき!」と憧れるような生地だった。
それをスカート部分などではギャザーをたっぷり寄せて、何層かに重ねてある。
スカートがバレリーナのチュチュのようにぱっと広がるように、
スカートの下には、パ二エという、ごわごわした素材でできたアンダースカートをはく。
上身頃は、割と体にぴったりと仕立てて、ただし、袖が可愛らしいパフスリーブになっていた。
パフスリーブってわかりますか。提灯袖とも言います。
要するに、半袖の部分が、ちょうちんのようにふわっと膨らませてあるのだ。
ウエストは、共布をたっぷり使って大きくリボン結びを後ろでするようになっている!
本当に少女らしくて夢のように可愛らしいドレス。

幼稚園生だった私は、このドレスに憧れて憧れて。
でも、母は、『あの素材はあれは暑くて仕方がないよ。」と言って
それまではずっと取り合ってくれなかった。
ところが、ある日、私を繁華街の方に連れ出して、これからドレスを誂えてくれるという。

その頃私は、九州のある温泉街に住んでいた。
家は中心部からほんの少し離れた町にあって、その頃の地方都市のお定まりの
・・銀座、とか、・・銀天街、などという繁華街に行くには歩いて20分ほど。
ちょうど今頃の季節。梅雨の晴れ間のある日、母は私を連れ出したのである。

まあ、私の嬉しかったこと!スキップしながら母の先を行く。
念願の、お姫様のような、バレリーナのような、蝉の羽のように優雅なあのドレスが
自分のものになる!しかも既製品ではなく、繁華街の洋裁店で、私の体に合わせて
縫ってもらうのだ!

その店は、こじんまりとしてはいるけれど、いろいろな色の布や、ボディにかけた
仕上がったドレスの数々や、ファッション誌や、観葉植物や、
いろいろなものがセンス良く並べられていて、とっても小綺麗なお店だった。
そこでこれから私は採寸してもらい、新しい夏のドレスを注文するのだ!

その当時、あんなに流行ったのだから、きっと、それにはモデルがあって、
『少女ブック』や『なかよし』のなかで、松島トモ子や鰐淵晴子が着ていたのではなかろうか。
ずうっと後年になって、その頃の古い少女雑誌やファッション雑誌を何冊か入手して
探して見たことがあった。
しかし、誰も着ていない。似たものさえない。
あれは、あの地方都市の、その2,3年間だけの流行であったのだろうか…?

さて、それから2週間ほどして、盛夏の頃。
待っていたドレスが出来上がる日。
私は母と、またその店に行った…。

ドレスは出来ていた。が。
私の憧れていた、あの淡いブルーのシフォンのふわっとしたドレスではなかったのである。
それは、淡い美しいブルーであるにはあったが、普通の平織りの、透けないしっかりした
布地で作られていた。麻でも木綿でもないな。薄手のサマーウールででもあっただろうか。
袖は確かに私の希望を入れてパフスリーブになってはいた。控えめな。
スカートも精一杯ギャザーを寄せてはあった。
でも、私が憧れていたパ二エは、透けない生地にはいらない、と母は言って買ってくれなかった。
だから、スカートはあの夢のスカートのように、ぱあっと膨らんではくれなかった。

ああ。私が、大人の現実主義というものを思い知らされた日よ!

母は、山奥の村に生まれたけれど、いや、それだからこそかな、自覚が高く、
着るものなどにもセンス良く、子供の教育などにも理想が高かった。
それなのに、どうして、よりによってこの誂えの服に、子供の夢を
思いきり盛り込んではくれなかったのだろう! 
夏の、絽の浴衣や、冬の外出着は、東京の子でも着ていないような洒落た服を
買ってくれていたのに!
費用はそう変わらなかったはずである。むしろしっかりした上質のサマーウールの方が
高かったかもしれない。今、大人の目で見れば、あの流行のシフォンは
安っぽいペラペラの布だったようにも思えるから。

…私の幻の夏のドレスの話。

え。その誂えの服はどうしたかって?
大いに悲しみはしたけれど、そこは子供。新しく自分の体に合わせて縫ってもらった、
一応パフスリーブの、淡い水色のドレス。私はそれを着たくて仕方がなかった。
ところが母はなぜかここでも、厳しかった。あまり袖を通させてくれなかったのである。
その夏は、一回着たきりくらいではなかったろうか。
そんなに改まったお出かけの機会というものはないものだから。
2年目もそうだったかな。
そうして3年目。母が、『いつでも好きな時に着ていいよ』と言ってくれたときには、
ああ…!
その水色のドレスは、細くて背ばかり伸びた私には、もうつんつるてんに短く
なって、着るに着れないしろものになっていたのである!
母は賢かったのでしょうか?(笑)

しかし、今、大人のセンスで考えると、憧れのあのドット柄のシフォンは確かに、ぺたりと
汗ばんだ肌にくっついて暑かったに違いない。そして、西洋の、金髪でミルクのような
肌をした少女には似合ったかもしれないが、おかっぱの刈り上げ頭の日本の少女に
果たして似合うものだったかどうか…。
(私は刈り上げのおかっぱ頭ではなく、くるくるにパーマをかけていましたが。)

目を閉じると、平織りの水色のドレスでも嬉しくて、でも、パ二エを下に着ていないので
スカートがあまり膨らまない。しかたがないので、自分がくるりくるりと回って、
スカートをぱあっと膨らませていた、痩せて目ばかり大きな、か細い少女の姿が
まぶたの裏に浮かぶ気がする…。


くるり。ぱあっ!・・・・またくるり!・・・




今宵の音楽。
そんな少女は、こんな歌が好きな大人に。

http://www.youtube.com/watch?v=KJUe0FIItVI


テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『散財』…?

最近少し、映画と音楽づいている。


DVDを六本も買っちゃいました。
寂しさを紛らすための衝動買い?(笑)
違いますよ。古いいい映画が見たいだけです。

2010_0530_152832-CIMG2125_convert_20100531221904.jpg

上から順に、

『シシリーの黒い霧』(1962年・伊)フランチェスコ・ロージ監督
『シシリアン』(1969年、仏)アンリ・ヴェルヌイユ監督
『女ともだち』(1956年、伊)ミケランジェロ・アントニオーニ監督
『女猫』(1958年、仏)アンリ・ドコアン監督
『パンと恋と夢』(1953年、伊)ルイジ・コメンチー二監督
『さらば恋の日』(1969年。伊)マウロ ・ボロニー二監督

どうですか。みな古い映画でしょう。
特に期待しているのが、『シシリーの黒い霧』
第二次世界大戦直後のシシリー島。独立義勇軍の闘士の青年が殺される。
殺したのはマフィア?警察?歴史の暗部に潜む事実をドキュメンタリータッチで
描き出すネオ・リアリズムの問題作。

でも、どれもよさそうです。私の好きな俳優たちや作曲家、脚本などで、
ベルリン、ヴェネツィア映画祭などで賞をとった作品も。

しかし一本だけ、あれっ?と思ったのが、『シシリアン』。
ようやく手に入れた!と思って、どれほど嬉しかったかしれないのに。
ジャン・ギャバン、アラン・ドロン・リノ・ヴァンチュラの、仏三大スターが
競演するフィルム・ノワールの大作。
脚本がジョゼ・ジョバンニ。撮影が、『大人は判ってくれない』『死刑台のエレベーター』
などのアンリ・ドカエ。音楽エンニオ・モリコーネ。
最近いろいろ映画を覚えはじめた私が知る最高に嬉しい布陣…。
なのに、ちょっとかけてみたら、なんと音声が英語か日本語!
どうしてフランス語じゃなかったのかなあ。
でも、エンニオ・モリコーネのこの主題曲が私は昔から大の大の大好きで。
この人のには『ニュー・シネマ・パラダイス』などもあるな。

それでは今日は、『シシリアン』のテーマを。
聴くだけで私は胸がきゅ~っとします。ニーノ・ロータの『太陽がいっぱい』、
ヴァレリオ・ズルリー二の『激しい季節』などと共に、私の琴線をいつもストレートに揺らす曲。
みなさんの今晩の気分にはいかがでしょうか。

ああ!
こういう音楽を音響のいい実際の映画館で聴けていたら…。

上映時間が来て、それまで映画館を照らしていたライトがふうっと消えて劇場が暗くなって、
そうして、その中でこんな音楽が流れ始めたら……
きっと、嬉しくて感動してぶるっと震えて、腕に鳥肌がたっちゃうだろうな。
「寒いの?」と隣にいるひとにきかれたりして(笑)。

http://www.youtube.com/watch?v=GwmdscZNTQU




テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『ハタノサンのバイオリン』 バイオリンその②

前回の記事で紹介したように、娘が使ったバイオリンは、一番最初の1/10 サイズのものと
大人用のものとは、今も大事にとってある。
それでは私が5歳くらいの時に使ったバイオリンはどうなったのであろうか。
  
『やぎさん』のいた屋敷のバイオリンの先生は、その後東京から戻ってこなかった。
母も新しい先生を苦労して探すほどには私にバイオリンの素質がないと、はや見てとったか、
それとも当時のことだから、先生を見つけられなかったのか、
私はそれきりでバイオリンをやめることになってしまった。

私が小学校二年生の頃までは、確かにバイオリンは家にそのままにあったが、
何時からか、家の中に見かけられなくなってしまった。
しかし、ちょうどその頃、父母が別居することになって、
バイオリンの行方どころではなくなって、そのままに、
いつしか私もバイオリンのことなど忘れてしまった。
もし見つかっても、もう私の体には小さくなりすぎていただろう。

2010_0402_042136-CIMG1710_convert_20100403220847.jpg
                                                                           (これは娘の1/10 のバイオリン)

 


私が、自分のあの小さなバイオリンの行方を知ったのは、それから3年後。
私が、小五の夏休みに父のもとへ帰った時のことである。
『故郷の廃家』ブログの最後の記事になった、あの夏のことである。

その頃父は、自分の故郷の高原の村に一人帰って、妹の家の離れを借りて、
竹細工をしながら一人暮らしていた。
父がその離れを借りる前に、そこに住んでいた人がいる。
母屋の人々、つまり私の叔母と従兄二人、そしてその奥さんたちは皆、
その男の人を『ハタノサン』と呼んでいた。
『ハタノサン』は『波多野さん』であったろうか、それとも『旗野さん』
あるいは『秦野さん』であったろうか。
皆は、『は』の音にアクセントを置くのではなく、「たのさん」を高い音程で
言っていたから、『旗野さん』だったのかな。
とすると、「や」にアクセントを置く『やぎさん』は?(笑)

ハタノサンは、父に離れを明け渡してからは、母屋で叔母たちと一緒に暮らすようになっていた。
小学校5年生の私には、その間の事情はよくわからなかったが、
ハタノサンはどうやら、長年寡婦のままでいた叔母の、内縁の夫、という存在で
あったらしい。

『ハタノサン』と、叔母自身にも従兄たちにも呼ばれていたことが示すように、
ハタノサンは、叔母と入籍して正式に母屋の主となったわけではなく、
どこかいつまでも、借家人のように遠慮がちに暮らしていたようだ。
叔母たちが農作業に出て忙しい時も、彼はよれよれの浴衣をときには着たままで、
暇そうにしていた。どこか体でも悪くして療養中ででもあったのだろうか。

父とは同い年くらいか少し下か、同じ敷地内に住んでいるのだから、
もっと行き来してもよさそうなものだが、そうお互いに行き来することもない。
と言って仲が悪いわけではなく、静かな隠遁者同士、共にいてもいなくても
気心は通じている、という風でもあった。
うっとおしすぎるくらい多い、硬い半白の髪は、従兄のお嫁さんが美容師のこととて
綺麗に刈り上げてもらっていたが、色黒の、歯が少し出た、
頬骨の高いくたびれた顔つきの人で、痩せていた。
でも、私などにも優しく、母屋の台所などでばったり出会えば、
にっこり笑って、一言二言はにかみながらものを言いかけてくるような人だった。

このハタノサンが、私のバイオリンをいつか弾いていた、と父が言うのである。
私の母と住む温泉街の家から、いつか消えてしまった私の小さなバイオリン。
それでは、ここに来ていたのか!
でもそれにしても、誰がここに持ってきたのだろうか。
父の口ぶりからすると、父が別居するときに持ち帰ったというわけではないらしい。
とすると、考えられるのは、私の次の姉。高原のこの村と、温泉街の母の家との間を
落ちつきなく行ったり来たりしていた次姉が持ってきて、それが巡り巡って
ハタノサンの手に渡ったのだったかもしれない。

ハタノサンがどうやって、あの小さな子供用のバイオリンを弾いていたのであろうか。
そもそもバイオリンの弾き方を知っていたかさえわからない。
たぶん、無聊をかこつ人が、戯れに、ギーギーと弾いてみていたのであろう。
私は、帰るまでに一度、父を通じて返してもらうよう頼んでみようと思った。

しかし父の家での私の短い滞在期間は瞬く間に過ぎて、特に最後の数日は
熱を出して寝ていたので、父との別れの日が来た時も、
ついに私はバイオリンのことを言い出さぬまま、母のもとへ帰って行ったのである。

いつしかそれから半世紀という長い長い時が過ぎてしまった。
私のあの小さなバイオリンは、それからどうなったのであろうか。


ごく最近、わずか半月ほど前のこと、郷里に今も住む長姉と電話で話していたとき、
ふとハタノサンのことが話題に上った。
なんと、ハタノサンは、土地測量士だったというのである!
土地測量士と言えば、あの時代、あの山奥の村においては、
インテリの仕事の部類に入るのではなかろうか。

私は姉の話を聞いてびっくりすると共に、よれよれ浴衣の『ハタノサン』が、
弦が一本くらいは切れてしまって、音も狂ってしまった小さなバイオリンを、
人知れずギコギコと弾いている姿を想像し、
何やら物悲しいような、何かすまないことをしたような、
だけど笑ってしまいたいようでもある気持ちになったのであった。



『やぎさん』と『ハタノサン』と私の小さなバイオリンのおはなし。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『バイオリンとやぎさん』 バイオリンその①

娘は小さい頃バイオリンを習っていた。
なぜ急に、バイオリンが出てきたかというと、ある方のブログでバイオリンの
お話をしたからで。

もう30年ほど前になる。娘のバイオリンが具合が悪くなったので、
先生に紹介され、あるバイオリンの制作工房を訪ねたことがある。
東京は渋谷の雑踏もそう遠くはないある住宅街の中。
といっても、高級な住宅街という感じではなく、なんとなく、
昔の町筋の残った、うらぶれた感じの住宅街。
かつてはどぶ川であったろう細い川はもう暗渠となっている。
その暗渠に沿った少し小暗い細道の奥に、その家はあった。
普通の住宅の一室をバイオリン製作と修理の工房にしている人の家だった。
壁にはできあがった真新しいバイオリンが幾挺もかけられ、
テーブルには作りかけのものが拡げられてあった。

そこでどんな話をしたか、どんな人だったか不思議に記憶がない。
ただ、駅からその家に向かう途中の、夏の日の午後の日差しの感じと
暗渠のある町の家々の翳の感じをふと時々思い出す。

娘がバイオリンを習い始めたのは3歳の冬。
後になってピアノもやり始めたが、なぜバイオリンが先だったか、というと、
単に知り合いに子供用のバイオリンを貰ったからで(笑)。
それがこれ。CDの大きさと比べてほしい。

2010_0402_041751-CIMG1709_convert_20100403033629.jpg


大人用のバイオリンを完全縮小したもので、バイオリンは子供の体の大きさによって
買い替えをしていかねばならない。
一番小さいもので、1/16。順に1/8,1/4,1/2,3/4,4/4 と大きくなっていく。
今、ちょっと娘のものの中をのぞいてみると、1/10 と書いてある。
こういうサイズもあったのかな。

娘は、中二までかろうじてお稽古を続けた。かろうじて、というのは、
もうその頃には本人も親も、バイオリンには才能がないなということが
わかってきたからということもあるし、本人の興味が絵の方に移っていたから。
それでもまあ、長いことやっていたので、発表会のときなどには、
コンチェルトを小編成のオーケストラと共に弾くくらいまでにはいった。
その頃弾いていた大人用のバイオリン。最初のものと並べてみよう。
年季が入った感じがするのは、買い替えるごとに、前の小さいものを
下取りに出して、また誰かの使っていたものを買い取るからで。

2010_0402_041439-CIMG1708_convert_20100403081230.jpg


娘にバイオリンをやらせたかったのは私である。
それは私が 果たせぬ夢だったから。

実は私も、幼いころピアノとバイオリンを習っていたことがあるのである。
バレエもやっていた(笑)。
その頃はまだ我が家も生活が割合豊か。母は私に期待をかけ、いろいろやらせていたのだと思う。
しかし私はその頃、大変虚弱な少女であった。
ピアノとバレエは数カ月も習わないうちに、2度の入院で辞めざるを得なくなった。
バレエは私の体を丈夫にしたい、という母の願いもあったのだろうが、
才能もなかっただろうし体力がつく前に病気になってしまったのである。
そのあと母が習わせ始めたのがバイオリンである。
娘のと同じくらいの大きさか、もう一回り大きい1/8 というサイズだっただろうか。


バイオリンの先生の家は、大きな、古色蒼然としたお屋敷だった。
暗い感じの大きな玄関と長い廊下を通って、広い洋間に通される。
洋間と言っても和洋折衷。畳に絨毯を敷き詰めた部屋は、障子からさす薄明りで、
これも明るい部屋ではなかった。
ゴブラン織り風のカバーをかけたアップライトがたのピアノが壁に据えてあり、
革張りの大きな応接セット、大きなガラス張りの書棚、フロアスタンド。
それらの間の空間を埋めるように、譜面台、雑然と本を積み上げた小テーブルがいくつか。
観葉植物やそのほかの鉢植えなどがあって、なんとなくごちゃごちゃしているところが
逆にわずかに居心地の良さを作りだして、子供の緊張をほぐしてくれていた。

先生は若い男の先生だったが、しかしこのバイオリンも長くは続かなかった。
これは私の方の事情ではなく、先生が急に東京に行くことが決まって、
2か月ほどでお稽古が打ち切りになったからである。
私が習ったのは、バイオリンの構え方と『日ノ丸』だけ(笑)。
『白地に赤く 日ノ丸染めて ああ美しや 日本の旗は』というあれ。
ご存じない方の方が多いだろう。昭和20年代の時代の雰囲気がわかろうというもの。
随分昔の話。だから先生の顔もお稽古の感じももう忘れてしまった。

先生の顔も忘れたのに、ここで淡く記憶に残っていることが一つある。
それは『やぎさん』。

錦鯉の泳ぐ池や築山のある広い日本庭園の奥に、この『やぎさん』は住んでいた。
と言っても、あの、白い体におひげを生やした動物の山羊さんではなく、
『やぎさん』というのは、このお屋敷の離れを借りて住んでいた人のこと。
お稽古を終えて、私がご不浄を借りようと長い廊下に出ると、
このやぎさんが、庭伝いに母屋にやってきて、縁側の大きなガラス戸を
外からがらりと開けて上がりこんでくるのに、出くわすことがあった。

『やぎさん』が母屋の人とどういう関係であったのかは知らない。
ただ彼が来ると、皆が『やぎさん』『やぎさん』と親しく呼んでいた。
それも、一種の尊敬の念を込めて接しているのが子供心にも分かった。
細身でどことなく飄々とした感じの初老の男性で、顎の下に半白の山羊ひげを蓄えていた。
『やぎさん』は『八木さん』であったのだろう。
しかし、皆が『ぎ』のところではなく、『や』にアクセントを置いて
呼んでいたので、いつも皆が『ああ、やぎさん』、などと言うと、
幼い私は笑いをかみ殺すのに必死だった 。
そんな私の頭を、いつも『やぎさん』は黙ってにこにこしながら、
ぐりぐりと撫でてくれた。

バイオリンで私が覚えているのは、この古い大きな家の暗い洋間と、庭に面した
長い縁側の明るいガラス戸。そこをやってくる『やぎさん』、が漂わせていた
時代の香り。それだけである。

それから、バイオリンの先生の家を出ての帰り道に、赤く咲いていた夾竹桃の花。
その夾竹桃の大きな影が、くっきりと強い日差しに道路の上に落ちていた、
そんな昔の住宅街の、夏の午後の光と翳の印象。
……それだけである。

私が、街の写真館でバイオリンを構えて撮ってもらった写真があった。
当時としてはとても洒落たワンピースを着せられていた。
赤に黒の細いテープでスカラップがスカートの裾と袖口に施してあるワンピース。
頭には、赤と黒に染めた羽飾りのついた小さな黒い帽子をちょこんと乗せて。
横向きの顔でバイオリンを構えている。



その写真も、引っ越し続きの家のどさくさにいつしか紛れて、
遠い時代の彼方に消え去ってしまった……。




[付記]この話は、バイオリン②に続きます。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『雛祭り』 愛しき(かなしき)もの 其の十四

明日は3月3日。桃の節句である。

子供が小さい頃は、正月に始まって、七草粥、節分、桃の節句など、
年中行事は一応大切にやっていた。しかし、子供が独立して家を出てからは、
狭い家に場所をとる七段飾りを飾る気力もなくなり、もうずっと、
お雛様たちは押し入れの中に入ったままであった。

しかし、先日娘がお雛様を絵の中に描きこみたいというので、
押し入れをごそごそして、お内裏様とお雛様だけを取り出した。
で、今年はその流れで、簡単にお雛様、飾ってみました。
我が家のお雛さま。屏風もなしでごめんなさい。

2010_0301_205705-CIMG1453_convert_20100302202201.jpg


おや、お雛様の裾のあたりにあるこの箱は何?

2010_0301_205316-CIMG1449_convert_20100302202736.jpg

開けてみましょう。

2010_0301_173916-CIMG1441_convert_20100302203435.jpg

おや。箱の中で、ハンカチーフのお布団で眠っている子は誰?
20年ぶりくらいに起こしてみましょう。
「これ。起きなさい。ちょっと目を覚まして出てらっしゃい。」

2010_0301_174036-CIMG1443_convert_20100302203953.jpg

こんな子が出てきました。まだ眠くてぼうっとしています。

2010_0301_205140-CIMG1448_convert_20100302204306.jpg

そっちじゃないのよ。こっち。
ちゃんと皆様にご挨拶してね。

2010_0301_205026-CIMG1447_convert_20100302204649.jpg

こんばんは。
ここどこ?

めちゃん家(ち)よ。めちゃんはおるすよ。

ふ~ん…。…


はい。この子が誰かと言うと、実はこの子はろうそく(笑)。
今から、そう…。今から33年前くらいの雛祭りの、
デコレーションケーキの上に飾ってあった、ろうそくのお人形。
不二家か何かの出来合いのデコレーションケーキだった。
身長は5センチ。

娘が3歳の雛祭りの日。ケーキを食べ終わって、片づけをするとき、
一応この人形はクリームなどをふき取って、取り除けておいた。
「これいる?」と訊くと、娘は「いる。」と言う。

それからこの子はしばらくの間、娘のおもちゃ箱の中に、
他のガラクタおもちゃと共に放り込まれたまま、大切にもされないで
そこにいた。
が、一年くらい後のあるとき、増えてきたおもちゃを整理していて、私はこの人形を見つけ、
そばにあった屑籠の中に何気なくふと捨てた。
だって、顔はおもちゃ箱の中で擦れて汚れ、髪の毛も剥がれかけて
あまり綺麗じゃなかったから。

ちょうどその時、部屋に入ってきた娘が、私の動作を見た。

「あっ!」
娘は叫んで屑籠に突進した。
「これ。めちゃんの!これめちゃんの大事なのなの!
捨てちゃだめなの!」

屑籠から人形をすくい上げる動作の速かったこと!(笑)

「だって、もうだいぶ汚れてきたなくなってるし、第一、おもちゃ箱に入れたまま、
ずうっと遊んだりしてなかったじゃないの」
私がそう言っても、娘は小さな人形を抱きしめて、絶対に捨てちゃだめなんだ、と言う。

それ以来、この箱が、小さなろうそく人形のベッド兼住まいになった。
娘は進学のため家を出た時もこの人形を持って行った。
数度の引っ越しにもこの人形はいつも一緒。
と言って、幼いころから、ままごとや人形遊びは好まない娘。
別に可愛がるというわけでもない。
ただ、捨ててはだめ、なのだそうである。

世田谷区は下北沢というところに、昭和の頃のしっかりしたアンティーク家具を扱う店が
あった。娘が、猫の『にゃー』をかまっていた頃のことである。
そこで娘は、飾り棚付きの茶箪笥を買った。
それからずっと、この子は、箱に入ったまま、その茶箪笥の、襖つきの小部屋のような
ところに入っている。

今回記事にするために娘のところから借りてきた。
「これ、ちょっと借りてっていい?」
私が尋ねると、娘はきっ!と言う感じで振りかえって、「なぜ?」と訊く。
その顔が、32年前のあの日とまったく同じ(笑)。

私が増え続ける荷物を少しでも減らそうと、要らない衣服や鏡台の中の
古いアクセサリを捨てようとしていたとき、娘が飛んで来て私の手から
ひったくるようにしてすくい上げた紅い玉のネックレス。
あの時も同じ顔をしていたな。
だってそのネックレス。私が1970年代くらいに買ったただのプラスチックの、
やたらに大玉の流行遅れの真っ赤なネックレス。もういらないと私は思ったのだ。
でも、娘にとっては、母の鏡台を開けると一番に目に飛び込んでき続けた、
いわば、私という母親そのものを象徴するようなものであったらしいのだ。

さあ。またお布団に入りましょうね。
お雛様が終わるまでここにいなさい。
終わったらまた箱の中で眠るのよ。

2010_0301_222950-CIMG1456_convert_20100302214801.jpg

この子の名ですか。
名前は『あずさ』

4歳の娘がつけた名前。
なんでだか知りません(笑)。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『母の残したもの』

我が家のささやかな庭にある、赤い藪柑子の実。
それが母の形見だと、いくつか前の記事で書いた。

縫物に関連して、こんなものをご紹介。
これも母の形見、と言えるかもしれない。

2010_0226_003820-CIMG1426_convert_20100226235809.jpg

赤い縮緬(ちりめん)の布。

今私は、ある必要があって、赤い布ばかりを集めて縫い合わせるドレスというか、
女性の下着、長いスリップのようなものを何枚も作っている。
着るためではなく、飾るためのもの。

そのために赤い布地を何種類も、10メートルづつくらい買って、それに、家にある
昔の着物の裏地の紅絹や、赤い地模様の着物など、これまでに貯めこんでおいた
布地も総動員して、かなりの数の赤い服を作る予定である。

その中の一枚の布がこれ。
今回集めた生地の中では一番上等の布かもしれない。
しっとりと重みがある、ということは、同じ絹でも上等の糸で
織ってあるということ。
振り袖などを買う時に、ふわあっと軽く、冬の風に裾が翻るようでは、それは
あまりいい絹織物を使った振り袖であるとは言えないようだ。

実はこの、真紅に白い鶴を絞り染めで描き出した縮緬地。
私の一番上の姉の、子供の頃の振り袖だった。
私のブログによく出てくる、フーテンの寅のような次姉ではなく、
故郷の高原の街に住む、長姉。
私とは18歳年の離れた姉が子供の頃、というのだから、今からそう、
75年以上前の布ということになろうか。

最初この絞りの着物地は、小さな姉の晴れ着として買われた。
山奥の村のこと。いったいどうやってこういう布を父母は手に入れたのだろうか。
年に一度大きな荷物をしょってやってくる顔なじみの行商の呉服屋からでも買ったか。
それとも、東京の陸軍士官学校に入っていた若い叔父が、帰省の折にでも
頼まれて買ってきてやったのであったろうか。

さあ、この赤い振り袖を小さな姉は何年間くらい晴れの場に着たであろうか。
いよいよ小さくて着られなくなると、それはおそらく、幼くして亡くなってしまったが、
その下の妹たちが着たであろう。

いよいよ小さくて誰にも着られなくなったとき、母はその振り袖をほどいて、
長姉の長襦袢にした。長襦袢というのは着物の下着のようなもの。
でも、まったくの下着と言うと語弊があって、上の着物の袖口や裾から時折
ちらりとのぞく長襦袢の色を、日本人は長いこと大事に考えてきたのである。
確かにこの緋色。女の白い腕が動くたびに、地味な着物の袖口などから
はらりとのぞいていれば、さぞ鮮やかに美しいことであろう。

襦袢の次に、この縮緬の布は、母の手によって再びほどかれて、
客用の掛け布団に仕立て直された。

そうして、昭和27年ごろ。小さい彼岸花ちゃんの、夏の浴衣になった(笑)。
ただこの縮緬という布。水に濡れるときゅ~っと縮んでしまう。
夏の暑い盛り。汗で縮まなかったのかな、と思うが、何回も仕立て直され、
着られているうちに、布自体もだいぶ薄くなり、縮緬独特の『しぼ』も
だいぶとれて全体が柔らかくくたっとなっているから、少しは水に耐えるように
なったか。
というよりは、母が汗に縮むことを恐れて、あまり着せてくれなかったような気もする(笑)。

さてそれから、この着物がどうなったかと言うと、最後は娘時代の私の『おこし』になった。
『おこし』というのは『腰巻』のこと。
着物の下着。今で言うと、ペチコートのようなものだろうか。

貧しくて、年頃の娘に美しい高価な着物など買いたくても買ってやれない母が、
せめてもと、絣の渋い着物と、美しい洋服地で『道行き』という軽い着物用の
コートのようなものを縫って、東京に出た私に送ってくれた、
その時、この腰巻も一緒に入っていたのである。

淡い黄色の木綿地を足して、その腰巻は、母の手早いが綺麗な針の運びで
縫われていた。
でも私はこのおこしを使っていない。下着にするには勿体なさすぎるからである。
ずうっと着ないまま何十年も、私はそれを引越のたびに持ち歩いてきたが、
去年、思い切ってほどいて、この元の布の形に戻した。

娘の百徳を作ってやるためである。
『百徳』というのは、着物の様々な残り布を、その配色などを
工夫しながら丁寧に縫い合わせて作る美しいつぎはぎの羽織のようなもの。
これも、着るため、というよりは、展示のため。

娘のためとは言いながら、母が私のことを想いながら、
一針一針縫った腰巻の、縫い糸をぷつりぷつりとハサミで切っていくときには
胸がそのたびにちくちくと痛んだ。
母の小さな器用な手の跡を無残に消していっているような気がしたから。

そうして、何より胸がきゅ~っとしたのは、
母が使った糸が、継ぎ足し継ぎ足ししてあったことである。
私などは、縫物をするとき、糸を惜しげもなく使う。
ちょっと短くなって縫いにくくなると、パッと捨てて新しい糸に付け替える。
ましてほどいた糸など、二度と使おうとは思わない。
ところが母は、何か別なものをほどいたときに、その縫い糸をとっておいたらしい。
私の腰巻を縫う時に、その糸を再利用と言うと今風だが、
要するに貧しいので新しい糸を買うのも極力少なくするため、そうやって、
ほどいた糸を使っていたのである。

これをみみっちいというか、つましいというか。なんというか・・・。
その母の手の跡の残る縫い目を惜しげもなくハサミでプツプツ切っていきながら、
私は母のあわれさに涙が出そうになってしまった。

そこでふと思ったのは、これは家族の私のためだからいい。
しかし、ひとさまの着物を縫って生計を立てていた母。
まさか、頼まれものの晴れ着など縫う時にこういうことをしてはいまいな。
ちゃんと糸は新しく買っていただろうな。
思い返してみると、糸を買いに行かされた記憶はある。
だから、基本、新しい糸を使って縫ってはいただろう。
でも、いよいよ糸代にさえこと欠いた時。そう気張らなくていい仕立て直しのものの時、
おそらく母は、こうやって糸を継ぎ足し継ぎ足しして縫っていたかもしれない。
いや、母だけではない。昔の女はそうしていたものなのかもしれない。
つましいことは美徳なのであった。

赤、緑、青、黄、紫、茶、灰色、金色・・・、
同じ赤でも微妙に色の違うものなど、たくさんの色とりどりの美しい糸が
私の糸ケースの中には貯めこまれている。

一枚着物を縫うたびごとに、乏しい前の縫い賃から、次の糸代を工面して
出さねばならなかった母・・・。
あの母が見たら…。この赤い布が何十メートルも広がっている部屋。
さまざまな着物の端切れが絵のように広がっている、この私の部屋を
あの母がまだ生きていてこれを見たら、いったい何と言うだろうか。

「まあまあ、あんた、これはまあ・・・」そう言ったきり絶句するかな。
自分が娘のこの私にしてやれなかった潤沢を、今、私が自分の娘で
果たしていることを、半ばあきれつつも喜んでの「まあまあ!」。
自分もこういうふうに、娘の私にしてやりたかった、そう少し悲しく思うかもしれない。

そうして、想い余ってその先は何も言えず、
その小さな掌で、私の二の腕あたりをただ撫でさするのだろうな。


[追記]

母が縫ってくれた腰巻の、赤い縮緬以外の部分、淡い黄色の木綿の布は、
母の手の跡を残して、今も大事にしまいこまれています。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『旧友』

私の旧友というか、相棒のミシン。


2010_0222_233144-CIMG1406_convert_20100224004204.jpg

娘が生まれてすぐに買ったので、もう36年以上使っていることになる。
今でも、このミシンが来た日のことははっきり覚えている。
ミシン会社のひとが届けに来てくれて、使い方の指導をしてくれたのだが、
私は機械に不器用で、すぐに上糸と下糸を絡ませてしまい、何度もやり直しをして、
それでなくても、夏になりかけの頃。大汗をかいてしまったから。
ミシン会社のひともあきれていただろうと思う。

でも、そのうちに使いこなせるようになり、以来、これまでにいったい何枚くらい
これで洋服その他を縫ってきただろうか。

はじめて縫ったのは、6カ月になる娘のよだれかけ。
それから、ブラウス、スカート、パンツ、ジャケット、オーバー、帽子、・・・
かれこれ千着くらいは縫っているんじゃないだろうかな。

モーターのベルトが伸び切って2回ほど取り換え、手元を照らす電球を一回
取り替えただけで、本当に休みなくよく働いてくれている。

今縫っているのは、娘のブラウス。
彼女は闘争的気分の時、赤い服を着たがるので、今はそうなのかな(笑)。
不思議なことに、彼女は絵の方も、気分が高揚しているときには赤い絵が多い。
気分が沈潜しているときには、青や緑の沈んだ色調の絵を描くので、すぐそれとわかる。

ハサミ。
置き方にふと自分で気づく。
みなさん、お気づきになりましたか?
そうです。私、左利きなんです。
ただし、ハサミを使うときと、タオルなどを絞る時だけ(笑)。
お箸や鉛筆は小さい頃矯正させられたか、右手で持つ。

洋裁は習ったことはない。
本を見て独習。
だから、ひとさまのものは縫えないし原則として縫わない。
ちゃんと基礎から習っていたらよかったろうが、
ご覧のとおり、印つけも、板書用のチョークで代用(笑)。
白い線が見えるでしょう。
きわめて大胆といえば聞こえはいいが、大雑把である。

いろんなことを何でもやるが、どれも素人。
それが私のいつも悲しいところである(笑い)。


テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『一人遊び』 私の「もの」がたり⑪

2010_0209_220746-CIMG0132_convert_20100210222345.jpg

おや、なんだか美味しそうなものが。
私が焼いたクッキー。な~んてのは冗談で、
実はこれは、クッキーの古い空き缶の蓋の写真(笑)。
中に何が入っているかというと。


2010_0209_213124-CIMG1342_convert_20100210234403.jpg

紙の着せ替え人形である。

昔。今からもう30年以上前になるかな。
子供がまだ小さい頃。
一橋大学の近くの小さな洋書店か、銀座イエナ洋書店かのどちらかで買ってきたもの。
両方で買い集めたのだったかもしれない。
最初からこういう風に切ってあるわけではなく、絵本のようになっているのを、
一人ひとり、丁寧にハサミで切り抜いていくのである。
ここにあるだけで、4,5冊分の量かな。
本はこんな感じ。
これはもともとフランスで出版されたものがさらに、アメリカ、カナダ、イギリスで
発行された、とある。


2010_0209_220124-CIMG1362_convert_20100210224353.jpg



季節はちょうど今頃、1月か2月頃だったろうか。
寒い冬の夜である。
ストーブの暖かく効いた団地の部屋で、
若い母親の私が、一所懸命かたい紙を切り抜いている。
4歳くらいの娘は、私のすぐそばにぴたりと座って、
私が人形を一体一体、ドレスを一着一着切り抜いていくのを待っている。
娘の息が、かすかに私の手元に感じられるほどに近く座って。
早く早く次のを切り抜いて!という願いが、その息遣いに感じられる。

でも、母親の私は急がない。
細かにハサミを動かして、一人一人丁寧に切り抜いていく。
勿論、一晩で一冊に数十個もある衣服や、帽子、傘、靴など
一度に切り抜けるわけもないから、ある程度して疲れたら、
「また明日ね。」と言って、缶の蓋を閉めるわけである。

翌晩は、もしかすると丁度今日のような雨の日だったかもしれない。
ひょっとしたら夜半から雪に変わるかもしれない、という、
今日のような夜。
また、娘が缶をいそいそと自分の小さな机から取り出してくる。
夕食の片付けも終わった、夜8時9時。
私の切り抜き作業がまた始まる。
私の手元を覗き込む娘の小さな鼻息!
だいじょぶ。娘の目を誤ってハサミでつついたりするような、
そんな不用心なことは、若い母親だったけれど私は絶対にしない。


2010_0209_213451-CIMG1346_convert_20100210230746.jpg

「この人は?」
「これはねえ。ダフネさんよ。足元にそう書いてある。
ダフネって沈丁花のことよ。もうすぐ沈丁花の花が咲くよ。
いい香りなの。咲いたら教えてあげるからね。」



♪ 『冬の夜の一人遊び』 
2010_0210_004926-CIMG0137_convert_20100211001458.jpg


は~い。私、ダフネ。日本語では沈丁花よ。
沈丁花さんって人がいらっしゃるの?私、その方に似てるかしら。
「似てない」って誰かが言ってるわね。
ところで、沈丁花さんってどなた?(笑)

このドレス。わたくしに似合って?


2010_0209_213847-CIMG1352_convert_20100210232417.jpg

「は~い!あたくしたち、ダフネさんの友人。
左がカロリヌで右にいるのがベアトリスよ。
まあ!すてきな殿方も見てらっしゃるのに、普段着姿で恥ずかしいわ!
早くドレス着せていただかなくっちゃ!」



2010_0209_214451-CIMG1354_convert_20100210233207.jpg

「ああ。これでほっとしたわね。
ところで、ねえ、ダフネ、今度の舞踏会で何を着ていらっしゃる?
ドレスはたくさんあるのだから、もっともっとお着替えしてみたいわね。」
「そうね。みんなで鏡の前で比べっこしましょう。」


2010_0209_215426-CIMG1358_convert_20100210233842.jpg

「そうよ。もっともっと。」
「だって、あたくしたち、30年ぶりにクッキーの缶の外に出たんですもの。」

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『本の美しさ』 私の「もの」がたり 其の八

先日の記事で、『小口の美しい本が買いたい』と書いた。

小口というのは、本の背の反対部分のこと。
私は、表紙裏表紙、見返し、扉…などといった、本の装丁の主要部分にも
もちろん魅力を感じるが、さして凝った本でなくても、この小口が綺麗に揃った
本やノートというものにもすごく心を惹かれる。

たとえばこの本などどうだろう。

2010_0114_132728-CIMG1236_convert_20100115125648.jpg

ねっ。小口が綺麗でしょう?
男の方のダークな色のジャケットの袖から一筋きりっと覗く
白いワイシャツの線みたいに綺麗でしょう?

本の表紙、ケースなどの体裁はこう。

2010_0114_132825-CIMG1237_convert_20100115130605.jpg

レースのカーテン越しの午後の光の中で撮ってみた。
本の中身も、ケースの白黒だけの渋い装丁も、実は白い部分が純白ではなく、
ごく淡いクリーム色を帯びていて美しい。
すてきな本でしょう?

と、書くと、うちにはこういう装丁の極めてセンスのいい本ばかりを
集めてあって、書棚はこういう本ばかり、と思われるかもしれないが、
実は、私の本棚には文庫本が多い。(笑)。
書店に行けば、今でも、装丁に意匠を凝らした魅力的な本はたくさん売られている。
が、何かひとつ強く惹きつけられない。
反発をかうかもしれないが、やはり一昔前の本のほうが装丁などに深い味があったと
私などには感じられてならない。

残念なのは、今言ったように、我が家にはそういった装丁のすてきな本がほとんどないことで、
2代3代と続いた家の出で、古い書棚には父母の、そして祖父母の読んだ本などが今もうず高く積んである、
などという人の話を聞くと、本当にうらやましくなる。

それで思い出すのは、以前、娘が住んでいた東京世田谷は下北沢の近く。
池ノ上という駅の近くにあった、『十二月文庫』というすてきな古本屋のことである。
せいぜい間口一間半ほどの小さな古書店。
ささやかにカフェもやっていて、入口脇のコーナーに小さなテーブルと椅子が置いてあり、
陽だまりの中で物色した本などを見ながら、コーヒーを飲めるようになっている。

私と娘が、散歩の途中で初めてこの古本屋兼カフェを見つけた時には、扉を開けて中に入った途端に、
たぶんオイストラフ演奏による、タルティー二『悪魔のトリル』が耳を撃ってきた。
それはもう、耳を撃った、というほどの鮮やかな印象。

見れば、小さな店の古本の棚の奥に、レジ台を兼ねるカウンター席があって、
そこに、30代?位の女店主が一人番をしていて、
その女性が、レコードをかけていたのである。

本は、と見て行くと、まず、童話、絵本、古今の小説、ちょっとした学術書、写真集など、
印象としては、どこに焦点のある古本屋かわからない、素人っぽい品揃えであった。
素人っぽい。・・・・そう、その言葉がぴったりする。
おそらく、であるが、おそらく、今、クラッシックのレコードを書けながら店番をしている
この若い女性店主の、家にあった本をそのまま売っているのではないか、という感じであった。
たぶん、彼女が、幼いころ読んでいた童話。
たぶん彼女のお父さんが集めた学術書。
たぶん彼女のお祖父さんが若いころ読んだ文学書・・・。
ささやかなおもちゃなども控えめにディスプレーしてあった。

C.V.ゲオルギューの『二十五時』、新保満著『石をもて追わるるごとく』など、
私よりさらに一世代か二世代前の人々の思想、教養書、といったような本が多かった。
いまどきの大型化した古書店などと違い、本の天地や小口に丁寧にやすりをかけ、
ビニールカバーやパウチをかけて新しくきれいに見せる、といった手入れもしてない。
本当に、ある古い家の古い書棚の本をそのまま持ってきて並べたという感じ。

でも、何か、温かいのである。
書店全体が午後の陽ざしを窓から取り込んでいるというだけでなく、温かいのである。
女性店主は無口な感じで、決して愛想がいいわけではないが、なぜか居心地は良かった。
さて、このちょっと不思議な古書店兼カフェで、その時何を買ったか、私は記憶がない。
娘は『悪魔のトリル』といい、非常に鮮やかな印象を受けたらしいので、買った物を
覚えているかもしれないが。
「いつかまた来て、その時はコーヒーでも飲もうか」と言いながら店を後にしたが、
その後娘は池ノ上を去ったので、私はそれきり、この店を訪ねていない。
(娘はその後2回ほど行ったようである)

今回この記事を書くにあたり、まだあの小さな店があるかどうか検索してみた。
そうしたらあった!
やはり心惹かれる方が多いようで、『十二月文庫』で検索すると、
何件か出てくる。店はその後、隣の店舗を買い取ってぶち抜きにし、
前よりずっと広くなったようである。
おそらくあの時の本の品揃えのまま店を続けられるわけがないから、
『悪魔のトリル』をかける女店主の嗜好と感覚で選んだすてきな本が
今はぎっしり詰まっているのではないだろうか。
カフェも少しだけ拡張したようである。

もう一度訪ねて、私好みの、凝った作りのすてきな古本を探してみようかな、という気もするが、
いやいや、あれは幻の本屋、あの時のままの素朴な思い出のままに、
と思う気持ちも、また一方で、ある。


さて。と言っても、私が好きな、私が愛せる!と思う本は、
ハードカバー、箱入りの立派な作りの昔の本だけなわけでもないので。

2010_0106_123229-CIMG1186_convert_20100115145143.jpg

ご存知、ハヤカワポケットミステリーブック。
と言っても、この本自体は、私もある人に紹介されて、Amazonを通じて買ったばかり。
この装丁を見、この少し縦長の本を手にした途端に、「愛せる!」と思ってしまった。
写真が下手で、この本の小口と天地の美しい黄色がはたしてよく出ているだろうか。
なにイエローと表現すればいいだろうか。
山吹色?カナリアイエロー?日本水仙のラッパの部分の色?

ピシッと裁断された、天地、小口の美しさ。
そこに塗られた本当に綺麗な黄色の美しさ。
いまどきのショッキングイエローなどではない、何か深みのある黄色である。
表紙は各本ごとに、違う油絵風の絵が使われている。

今でもこのシリーズ、大きな書店に行けばあるのだろうか。
そう思って、実は今日、私の街でも大きめの書店に行って確かめてみた。
あった。数は少ないがまだ出ていて、置いてあった。
でも少し心細くなる品揃え。買う人も少ないのだろうか。

ある時代の空気、ある時代の香りをとどめて、美しい本、愛せる本だと私は思うのだが。






テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『私の好きなノート』 私の「もの」がたり 其の七

年頭ということで日記の記事を書いたが、何人かの方からやはり日記に関する
思い入れについてのコメントをいただいた。
皆さんのそれぞれの想いが伝わって嬉しく楽しく。

日記、また日記代わりのノートについて補足記事をひとつ。

私が日記にしている、『マイブック』は、カバーを外すとこんな感じ。

2010_0106_122024-CIMG1178_convert_20100109115445.jpg

最初からカバーを外してご紹介すればよかった。
下にある新潮社の文庫本とまったく同じ仕様。
ね。ちょっといいでしょう。
タイトルの下に、島崎藤村著などという代わりに『・・・著』と書けるようになっています。
この本を、自作の詩や短編、随筆などの作品を書くために使う人はここにご自分の名前を。
まあ、私は、そういう趣味も能力もないので、カバーをかけたままですが(笑) 。

『千曲川のスケッチ』は私の好きな本。
先の記事で挙げたギッシングの「ヘンリ・ライクロフトの私記」もそうだが、
写生文というか、淡々と過ぎていく人生の間(あわい)を一瞬鮮やかに切り取ったような
文章が大好きである。

マイブックは、でも、何しろ版型が小さいので少し書きにくく、
すてきなペンとインクで『書く』という動作の醍醐味を味わいたい方には不向きかも。
それにはやはり、ある程度の紙面の大きさというか、ノートの開き具合の良さが
不可欠であるように思う。

そういう意味で、私はリング綴じのノートがちょっと苦手。
書いてきて、リングのごつごつに、掌がぶつかる感触がどうも・・・・。
必要があってコピーなどをとるときにも、リングが写りこむのが気になるし。
また、いらなくなったノートをごみとして処分しなければならない時、
紙をリングから引き剥がして、金属部と分別しなければならないが、
それが女手には、なかなか力が要って大変なのも、リングノートを敬遠する理由。

ルーズリーフをバインダーで綴じるのは、扱う資料が多い人などには、差し替えが自由に効くので
いいのかもしれないが、私のように暇な人間にはもう不要(笑)。

というわけで、私がノートを使うならやはり昔ながらの大学ノート、と呼ばれるもの。
そもそも大学ノートって、なぜ大学ノートなの?
というわけで検索してみたら、ちゃんと説明してくださっている方が。
http://www.union-net.or.jp/cu-cap/daigakunote.htm

それによると、大学ノートは、『1884(明治17)年に東京帝国大学(現:東京大学・本郷)
の近くにあった文房具・洋書店の松屋で売り出されたことに由来する。』とある。
『ヨーロッパから留学帰りの同大学の教授が勧めたもので、イギリスからフールス紙という
クリーム色の洋紙を輸入、製本されたこのノートは学生の間で人気となる。
これを学生が大学ノートと呼んだとも、松屋が大学ノートという名前で売り出したとも言われる。
少し後に神田の丸善が大学ノートとして大量生産。その名は広く知られることになる。』

検索していると、『小学生の頃、大学ノートって大学生にならないと使っちゃいけないのかと
思っていた』などという投稿もあって愉快だった。
子供の心とは純朴だなあ、と微笑ましい。

今では可愛いイラストなどの入った、そうして表紙の素材もバラエティに富んだB5判のノートが
たくさん出ていて、それらも大学ノートと総称して呼ばれているきらいがあるが、
私にとっての大学ノートはやはりこれ。

2010_0109_163317-CIMG1204_convert_20100110160658.jpg

左にあるのが一般的に大学ノートと呼ばれているものだろう。伝統的にフールス紙を使用。
私は好みの強い母親で、子供にも早くから、こういった大学ノートを使わせていた。
子供は可愛いイラストなどの入ったものが欲しかったかどうか、訊いてみたことさえない。
でも結果的に
「大人の好みというものは、こういうものだよ。』というのを、小さいうちから叩き込んだのは
よかったのではないかと思っている。

ノートといえば、だれにとっても懐かしいのはこれだろう。

2010_0109_163427-CIMG1206_convert_20100110161806.jpg

おなじみジャポニカ学習帳。
ノートについてストイック好みの私も、これには愛着が。
表紙の美しい写真。そして目的に応じて子供に使いやすいように、『こくご』『さんすう』
『しゃかい』『自由帳』『漢字練習帳』など種類も中身も工夫されて文句のつけようがない。
ジャポニカ学習帳フリークは大勢いらっしゃるんじゃないかな。

小学生のノートといえば。
さて、このノートは?

2010_0109_173131-CIMG1218_convert_20100110164940.jpg


『さんすう 下級用 文部省基準品』と書いてある。
バックは児童画で有名だった初山滋風。前にいる男の子と女の子の二人の顔や服装は、
どこかアメリカナイズされた絵柄。

実はこれ。私の小学2年生の時のノート(笑)。
実に実に、今から55年前のノートである。
中身は?
一部お見せしようかな。

2010_0109_164540-CIMG1208_convert_20100110165446.jpg

どうやら、引き算を習っているところで、自分で文章題を考えて作る、という課題のようだ。
算数のノートだが、国語の教科書体の活字のお手本どおりに正確なひらがなを書こうとしている
小学2年生の、几帳面な私が見てとれて、何やら自分で自分がいじらしい(笑)。

裏表紙には『二ねん一くみ。名前・・・・』が書いてあって、
そのほかに、2年生の彼岸花ちゃんは、超まじめな性格だったにもかかわらず、
その時どうやら授業中退屈していたかして、自分の名前の漢字のサインの練習が
たくさんしてある(笑)。
芸能人のサイン風に一所懸命くずし字にして頑張って幾パターンも書いてある。
そうして、『わたしのサイン』と、見出しまで振ってある(笑)。
その時の子供の心が見えるようだ。
あ。私のことなんですけどね(笑)。
本名が分かってしまうので、お見せできないのが残念。
あの、小さな彼岸花ちゃんは、どこに行ってしまったのだろうか。


こんなのもある。その算数のノートの間に挟まって、ずうっと人生25回もの引越にも
かかわらず、私と一緒にくっついてきたもの。

2010_0109_164843-CIMG1212_convert_20100110172114.jpg

小学校一年生の時の私の国語のプリント。
真ん中のは傷みがひどいが、母が引越の際に茶碗をこれでくるんでいたのを、
私があわてて回収した記憶がある。まるで、江戸末期の浮世絵の運命のような話(笑)。
その記憶さえ、もう50年くらい前のこと。

浴衣や犬に模様を描きこんでいるところが私らしいな、と思う。

ああ、ノートの話からだいぶ脱線してしまった(笑)。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『日記帳』 私の「もの」がたり 其の六

新年が明けてもう5日経つのに、今頃今年の日記帳を買った。
新潮社から出ている、『マイブック』という文庫本型の日記帳。

2010_0105_034238-CIMG1164_convert_20100106025615.jpg


もう、10年以上、この版で日記を毎年つけ続けている。
最初のきっかけは、画家として一人でおそらく生きていくであろう一人娘に、
何か書き残しておいてやろう、と思ったことからだった。
彼女が一人ぼっちで行き暮れた時、私の声が聞けるように。
日記をつけていることは、彼女には今は内緒(笑)。

彼女がいつか読むかもしれない、ということを念頭に置いているので、
あまり私の感情はあからさまに書いていない。
その日あったこと、何かについての感想などをわりと淡々と書き綴っている。

日記をつけ始めると、習慣になって、しばらく休んでいたりすると気持ちが悪い。
私は迷信など信じることは嫌いな人間なのだが、数年前、日記をしばらく
つける気がしなくて休んでいたことがあった。
すると、娘の乗った車が事故を起こし、娘は額に傷を負ってしまった。
それも私の誕生日に!
大事に大事に育てて、体に傷一つ負わせずに来た娘。
それが、顔に傷を。
幸い今ではほとんど目につかぬほどの傷ですんだが、その時の私のぞっとしたことったら!

それ以来何か験担ぎでもするように、日記は曲がりなりにもきちんとつけてきた。

しかし、去年。私はブログを始めた。
ブログも最初は娘に書き残しておくつもりで書いていた。
すると、日記とやることが重複してしまう。
自然、日記の方は休みがちになり、昨年の日記はほぼ白紙である。
だから、今年はもう日記はやめようかなあ、そう思って『マイブック』も買わずにいた。
ぶっきらぼうな娘にも恋人ができ、結婚の形を取るかどうかはわからないが、
おそらくずっと二人は一緒には生きていくであろう。
私が日記をつける意味もそうするとだいぶ薄れてきてもいる。
もう日記やめてもいいんじゃないかな。
私の母としての役目もほぼ終了かな・・・・。そう思って。

でもやはりなんだか落ち着かない。
日記帳を買うことが、10年来の習慣になっているからか。
ブログの方も、娘に書き残すもの、というよりは、やはり自分自身の
生活感情がメインになってきているしなあ。
日記はやはり一応つけ続けようかな・・・・。
そう思い直して、今日、買ってきたのである(笑)。
さあ、この一年、ちゃんとつけ続けますかどうですか(笑)。

今までは、ボールペンだったりそこらにある鉛筆だったり、
いい加減な筆記具で書いていたが、ちゃんとした筆記具を買おうかな。
ブログの文とはまた違う、備忘録に徹するかな。
それではつまらないかな。
でも、いくら母親だって、心の内面のことでは書けないことだってあるしな。
そういうことはむしろブログの方が書きやすいな。 
買ってきたのに迷っている。
でも、書かれない日記帳というものは、何かかわいそうなのである。
去年の日記帳はきっと、私にあまり顧みられずに泣いていただろうな、などと思うと。
ちゃんとブログと棲み分けをして、きちんと日記つけてやろう・・・・・。

一緒に写っているのは、岩波文庫の『ヘンリ・ライクロフトの私記』
作者はジョージ・ギッシング。
ある年代の人には懐かしい書名ではあるまいか。
絶えず貧乏に追われ続けてきた売れない文筆家が、
晩年になって思いがけず友人からの遺産を受け継ぎ、悠々自適の生活が出来るようになる。
彼はロンドンの安下宿を引き払って、エクセターの美しい自然の中で、
著作と思索と散歩、という静かな満ち足りた暮らしをするようになる。
作者ギッシングも同じように貧しく、これはいわば作者の憧れの生活を描いたもの。

何の物語性もドラマもない退屈な話。
しかしその美しいイギリスの自然の描写や、時代への静かな考察の魅力によって、
1903年の発行の年から、長く世界で愛され読み継がれてきた本である。

岩波文庫のこの装丁が好きなので、写真を撮るときだけカバーを外してみた。

なんで、この本を日記と並べたかって?
『マイブック』という日記帳がほんとに文庫本仕様なんですよ、ということを
示すため。というのが理由の一つ。
もう一つの理由は。
『ヘンり・ライクロフトの私記』…。
なぜか何度読みなおしても、最後まで読みとおせない(笑)。
『ヘンリ・ライクロフトの私記』というタイトル。ギッシングという作者の名前。
美しいイギリスの片田舎で営まれる静かな思索生活。
隠遁文学の見本と言えるようなストイックな本。
それらのすべてを、愛しているのに、大好きで大事に思うのに、
何故か最後まで読み続けられない。
なんだか、毎年、12月になるとばったり書き込みの少なくなる私の日記と
酷似しているの(笑)。





テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『小倉百人一首』 私の「もの」がたり 其の五

小倉百人一首。
我が家のももうだいぶ古びてきてしまった。
子供が巣立ってから、もう何年もかるた会などやっていない。
でも、この季節になると、なんとなく押し入れの奥から取り出してみる。

2009_1228_031409-CIMG1107_convert_20091229023221.jpg


私が初めて百人一首に触れたのは、多分5,6歳の頃だったと思う。
温泉街の家に住んでいた頃である。まだ、父と一緒に暮らしていた頃。
買ってきたのはおそらく、兄か次姉だったのではないだろうか。
姉の買って来そうなものではあるのだが、不思議と、姉に一緒に遊んでもらった記憶がない。
一緒にカルタ取りをしてくれたのは、兄だった。
私が5,6歳ということは、兄は当時16,7歳か。
私には11歳年の離れた兄が随分大人に見えたものだが、こうやってあらためて
考えてみると、まだいたずら盛りの高校生であったのだなあと驚く。

若かったからか、あるいは小さい妹を笑わせようとしてか、百人一首を
正月、皆でやっていても、兄はふざけてばかりいた。
「百敷きや 古き軒端の しのぶにも 猶あまりある 昔なりけり」という順徳院の歌と、
他の歌をもじって、
「股引や、古きパッチの破れより 洩れいずるなんとかかんとかの・・・・」と言って
私の顔を見てわははと笑う。今でも下ネタ話など大嫌いな兄にしては珍しく。
今の人にはわからないかもしれないが、股引も「ぱっち」も、男性の下着である。
「そうれ、彼岸花! 次は僧正遍昭じゃ。『をとめ』はお前が取らな!」と言って、
「天津風 雲の通路 ふきとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」の札を
私に取らせようとする。
そんな風に遊んでもらううちに、私もいつか百首ある歌を自然に覚えてしまった。

だが、今ここで書きたい私の百人一首に関する思い出は、その2年ほど後。
私が小学校2年生の冬のことである。
その頃私達母子はもう父とは別居していて、家も温泉街の家のあった県から、
違う県に引っ越していた。
母は生活のために、僅かにまだ残っていた田畑を売ったお金で、商売を始めようとしていた。
母が開こうとしていたのは、定食屋のようなものである。
大きな公園の近くにあって、人通りの多い道路に面し、場所としては悪くなかった。

その人が、どういういきさつで、母の店の開店の手伝いをしてくれるようになったのか、
まだ小学2年生であった私には覚えがない。
ただ、店で使う食器を選びに、大きな陶器店に、母と私とその人と行った記憶がある。
季節はちょうど今頃。どんよりとした雲が日差しをさえぎる寒い日だった。
外の薄暗い空の色と店の明るい照明の対比とを覚えているから、
もう夕暮近かったのでもあろうか。

その人は細面で、縁の色の濃い眼鏡をかけていた。
当時、トニー谷というコメディアンがいたが、少し似た感じであった。
店は借りていたので、その不動産関係の人だったのか、あるいは飲食店関係の人で、
新たに店を開くと言うことで母の手伝いをしてくれていたのか、
今となってはもうわからない。
あの男の人はいったい誰だったのだろう。

その人は私に優しかった。
暮れが近づいて、日の落ちるのも早い。
そんな薄暗い部屋に灯りをともし始めるころ。
その人は百人一首を前に私と二人でいた。
「『むすめ ふさ干せ』と言ってね。百人一首の読み札の中で、同じ音で始まる歌が
他にないのは、その7首だけなんだよ。」とその人は言った。
「『む』は、村雨の露もまだひぬまきの葉に、でしょう。『す』は、
住の江の岸による波、でしょう。『むすめふさ干せ』これを覚えておけば、
読み手が、『む』といった時にはもう取り札を人より早く探し始められるね。」

そんな優しい調子の話しぶりで、その人はまた、それぞれの歌の意味や歌人のことなども
私に教えてくれるのだった。
「春過ぎて~、の持統天皇は、秋の田の~の、天智天皇の娘でね」などと。また、
「札を速く取るのに燃える人が、特に気にかけて自分で取りたいと思うのは、在原業平の
『千早振る神代もきかず龍田川 から紅に水くくるとは』だよ。」などと。

その人は小学2年生の私に、百人一首以外のことも教えてくれた。
特に私が今でも覚えているのが、一ヶ月が31日ない『小の月』の覚え方である。
「『西向くサムライ』と覚えておくんだよ。武士の士という字は、十一に似ているよね。
だから、2,4,6,9,11月。『西向くサムライ』。」

ああ、あの人はいったい誰だったのだろう。
家に来ていた、と言っても、私が会ったのも、せいぜい4,5回くらいか。
期間にして1,2か月という短い間だったから、その頃手広く紳士服店を
やっていた叔父(母の弟)の紹介ででもあったのだろうか。
叔父がその頃私たち一家のことをなにかと支えてくれていたから。

普通にちょっと想像すれば、亭主と別れて子供たちを抱えて一人で生きる女。
その女のところを、一人の男が訪れて親切にしていれば、
そこに何らかの恋愛感情があったのではないか、と誰しも思うであろう。

しかし、私は、そんなことではなかったのではないかと思っている。
母に限ってそんなこと、などと単純に思いこんでいるわけではなく、
その当時の家の雰囲気から判断して、そんなことではなかったと思うのだ。
私はまだ幼いから何も気づかなかったとしても、兄も姉もその頃は
何事につけ潔癖な思春期にあった。
とりわけ、理想家肌の兄が、もしそんなだったら、彼の出入りを許していたはずがない。
いくら幼くても私の身にも感じられるような家内の空気の変化が起こっていただろう。
その気配はいっさい感じられなかった。ということは、
その人は、ただ商売上の関係で、我が家を訪れていた、とみるべきかもしれない。
第一、私の口紅に関する思い出の記事にも書いたように、
母は口紅一つささず、子供達のために、身を粉にして働いている女だった。
いや、「女だった」、という表現が似つかわしくないほど、母は女らしさを一切排して生きていた。
母の周りには、生涯、何か峻厳な空気がいつも漂っていた。
 
あの人はいったいどういう人で、束の間、私達の生活を掠めて過ぎていったのだろう。
もしかりに、そこにかすかでも相手に対する好意、の感情があったのだったとしたら、
私は、母のために喜んでやりたい気もするのだが。
私がこんなことを書くと、母は草葉の陰で、
「馬鹿な!」と、昔のように厳しく一言、言い捨てるであろうか。

いずれにしても、もう、遠い遠い昔の話である。


      ・・・・・・・・・・・

私が百人一首のなかで好きな歌。
叙景歌の
「ほととぎす なきつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」
「心あてにをらばやをらむ はつしもの 置きまどはせる白菊のはな」
(この歌は、私が、残菊の記事を書いたとき心に置いていた歌)
なども好きであるし、他にもたくさんあるが、
ひとのこころを描いてうまいなあ、と、いつも賛嘆の想いを抱く歌がこれ。

  逢見ての 後の心にくらぶれば 昔は物を思わざりけり                                                                      

                                         (権中納言敦忠)


テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『悲しいクリスマス』 私の「もの」がたり 其の四

12月25日、クリスマスの朝のことだった。
今から50年も前。私は小学6年生だった。

クリスマスの朝と言っても、靴下の中にプレゼントが入っているわけでもなく、
普通の日の朝と何も変わりはない。
でも、私にはそれでも何か普段とは違う気がする朝だった。

窓の外は、灰色の冬空。寒い朝である。
朝ごはんの支度ができ、母は小さな丸いちゃぶ台に母子二人の茶碗などを並べていた。
私はもう一週間ほど前から準備していた手製のクリスマスツリーをうっとり眺めていた。

今は100円ショップに行ったって、プラスチック製ではあるが
そこそこの大きさのクリスマスツリーや、可愛らしいオーナメントを
たやすく手に入れることができる。
しかし、私が小学校のころは、家でクリスマスツリーを飾る人などというのは、
経済的に豊かで、敬虔なクリスチャンでもあるという家庭か、商売をしている家に
限られていたように思う。

しかし、クリスマスに対する憧れは、かえって今の子達よりも逆に強かったかもしれない。
私は戦後の生まれ。戦争に負けた日本に、豊かなアメリカの文化が大きな波のように
なだれ込んできた時代に子供時代を過ごした。
読んだ本は「小公女」や「クリスマス・キャロル」「赤毛のアン」などというもの。
自分の実生活とは遠い存在だったが、西洋の絵本、小説、映画などで見る
クリスマスの光景は、全くため息が出るようにうらやましく、輝かしく思えた。

私もクリスマスツリーが欲しい!!
そう熱烈に願ったが、飾りものは自分で作れるとしても、肝心のツリーがない。

ところが、その一週間ほど前のある朝のことである。
私は母に言われて物置に炭を取りに行った。
冬中炭で暖を取るので、炭は俵で買ってある。
その俵をのぞき込んで、ふと、一番上に、杉の枝を丸めたものがあるのに気付いた。
当時は、炭が割れてしまわないようにするための緩衝材として、杉の枝を丸めたものを
一番上に乗せてあったのである。

これ!樅の木みたい!

私は枝を手に取ると、母のところへ駆けもどった。
「これ、ちょうだい!」
理由を聞くと、母は笑って「いいよ。好きにしなさい。」と言ってくれた。

さあ、それから!
私は丸まってしまった杉の枝を一所懸命反対方向に巻き戻した。
杉の枝はもうほとんど乾燥してしまっている。
乾燥した枝は折れやすい。
私は枝をしばらく水につけておき(もちろん青々とした色に戻ったりはしない)、
少し柔らかくなったところを、慎重に慎重に巻き戻して真っすぐにしようとした。
学校に行く前にお箸を数本添え木として結わえつけておき、矯正してみた。

努力の甲斐あって、杉の枝は、先の方がまだ少し曲がってはいたが、
なんとかクリスマスツリーの代用品にならなくもないほどにはピンとなってくれた。
高さは60センチくらいはあっただろうか。

木の準備をするのと同時に、飾りものを作る。
折り紙を買って、中に一枚ずつ入っている金紙銀紙で、
子供にしては出来の良い立体的な星を作った。
たまに帰ってくる兄には煙草の銀紙を捨てずにとっておいてもらう。
母に頼んで、お小遣いを少し貰って、おもちゃ屋さんで、モールを買う。
これで、赤白のねじねじ模様のキャンデーを作る。赤と緑のモールで、
ステッキも作る。
厚紙を切って、お菓子の家らしきものも工夫して作る。

私は手先は小さい頃から器用だった。
だから、クリスマス飾りは結構満足のいくものに出来あがりつつあった。

ああ、しかし!
私が一番欲しい飾りものがない!
それは、正式にはなんというのか未だにその名を知らないが、あの、丸いガラスの玉である。
クリスマスツリーになくてはならない、あの、赤や緑や青、金銀などの輝くガラス玉。
しかし、どうやって手に入れていいのか私はわからなかった。
デパートに探しに行くなどということも、子供の私に思いつくはずも無く。
またたとえ思いついたとしても、母にそんなもの買ってなんて頼めはしない。

そんなときである。
姉がたまたま帰ってきた。
姉は前にも書いたとおり、当時華やかだったキャバレーで住み込みで働いていた。
「なんだ。そんなものがあんた、欲しいの。」
なんと姉は次に帰って来た時に、赤と緑と金のガラス玉を一個ずつ手渡してくれたのである!
恐らくそれは、姉が店の大きなツリーから、くすねてきたものなのではなかったろうか。
今なら話してももう時効かな。
子供の私には姉がどんな手段で手に入れてくれたかなんて気が回らない。

まあ、嬉しかったこと!
憧れのガラス玉が手に入ったのである!
私が大喜びで、ツリーの仕上げに、3つの美しく光る球を飾ったのは言うまでもない。

さてその朝。
「さあ、ご飯にしよう。」と母。
「待って、待って。」
うっとりとツリーを眺めていた私は最後の仕上げに、ろうそくを一本、
ツリーの傍に立てた。ろうそくと言っても、赤や黄色の小さなろうそくなど
あるわけがないから、普通の、停電の時のための大きなろうそくである。
ろうそくに火が点ると、私のツリーはますますすてきに見えた。

満ち足りた気持ちで、美味しく朝ごはんをいただいていたそのとき!
チンチンチン!と、私の背後でとてもきれいな音がした。
何だろう、この澄んだ音は!

振りかえってみた。
私のツリーが燃えていた。
乾燥した杉の枝に、あまりに近くに置き過ぎた大きなろうそくの火が燃え移ったのである。
「ああっ!」私が悲鳴をあげ、立ち尽くしていると、母がすっ飛んできて、
燃え上がる杉の木を傍にあった座布団で倒し、上から何回か押さえて火を消してくれた。

私の大事なツリーは一部が燃えて黒焦げになってしまった。
私のあの綺麗なガラス玉も全部。
ガラス玉?いったいあれは何の素材だったのだろう。
あんな綺麗な鈴を振るような音をたてて燃えるとは。
あんなに美しかったそれは、一部が溶けかかったように無残に焦げてしまっていた。


正月、皆が揃ったとき、兄や姉に笑われたが、
ああ、私にとってあんな悲しいことはなかった。
今でも、丸いガラスの飾り玉を見るたびに、あのチンチンチン!という
涼しげなようなきれいな音と、その時の悲しみを私は思い出す。
子供の抱える悲しみ。
それは言葉にするすべを知らないだけに、大人が思うよりずっとずっと深く
記憶に残るものである。

さて。私の今年のクリスマス。
一応ツリーを飾りました。
憧れの丸いガラス球も勿論飾っています。
クリスマスソングはエルトン・ジョン。
静かなイブを過ごそうとしています。
2009_1223_181804-CIMG1088_convert_20091224232115.jpg

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『寒い冬の夜は』 私の「もの」がたり 其の三

東京は昼間はぽかぽか陽気だったが、夜になってぐっと冷え込んできた。
しかし冬の寒い夜は嫌いではない。

昔、母が毎日、遅くまで縫い物をしている傍で、
私は窓辺に寄せた座机の前で勉強したり本を読んだり、
たまには、着物の袖片方くらいは母に手伝って縫ったりしていた。
6畳間の暖房というと、炭火を赤く起こした火鉢だけ。

外は木枯らしが吹いて、木枠の窓ガラスを時折、ガタガタと鳴らす。
でも、火鉢の上では、やかんがしゅんしゅんかすかな音をたて、
部屋は十分に暖かだった。
母の静かな昔語りを聞いたり、私が学校のことを話したり。
ラジオに耳を傾ける夜も。
母娘二人の夜は、静かで安らぎに満ちていた。

そういえば、最近東京で木枯らしの音を聞かない。
関東のからっ風は、この東京にも吹いてくるはずだが、暖冬のせいなのだろうか、
それとも住宅の気密性が高くなったからなのだろうか、
木枯らしが窓を鳴らす音などというものを、この10年ほど聞いていない気がする。
でも、気密性の問題だけではきっとないな。

外に出ても、あまり冷たい北風にコートの裾を捲られ、髪をもて遊ばれるなどという
ことは少なくなったのではないだろうか。
昭和30年代40年代の頃の映画などを見ると、北風で道路の埃が巻き上げられ、
女たちが乱れる髪を手で押さえたり、家路を急ぐ勤め人がコートの襟を寒そうに
すぼめたりするシーンがよくあったものだが。
道路の舗装が完全に近く行われて、風邪で埃が飛ぶ、などということもなくなったのだろうが、
北風そのものがあまり東京では吹かなくなったように感じるのは私だけだろうか。

北風が立てつけの悪いガラス戸や、板戸をガタガタと揺らす音は、
あれはあれで風情があったがな。

そんな寒い夜。
久しぶりに作ってみました。
ぜんざいです。
ご覧になってらっしゃるあなたのためよ(笑)。どうぞ召し上がれ。
お餅は昨日姉が送ってきてくれた、丸餅です。

2009_1220_233404-CIMG1066_convert_20091221232909.jpg

夕食後に、ことこと煮こんでみました。小豆も柔らかくふっくら煮えました。
お餅がちょっと大きすぎるのがご愛嬌。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『匂いボタン』 私の「もの」がたり 其の二

「匂いボタンって知らない?」と訊ねても、誰も知らない。
今ではあれは私の勘違いかなあと思うようにさえなっている。

今から五十年近くも前。私が中学生の時のことだ。
朝、学校に行って、始業前のざわついた教室でのことだった。
女友達の一人が、「ねえねえ、これ見て。」と言って、直径2センチほどの
ボタンを皆の前に差し出した。
ごくごく淡いピンク色を帯びたそのボタンは、貝ボタンのようにわずかな
光沢を帯びて、半透明で、美しいと言えば美しいかもしれないが、
何の飾りもなく、まあ、当たり前の目立たないボタン、という感じであった。
「これがどうしたの?」という感じで皆が見返す。
「まあ、ちょっと見てて。」
彼女はそういうと、ボタンを机の上に無造作に置き、そこで、ボタンに指の腹を当てて、
机にこすりつけ始めたのである。

その当時の学校の机は、みな木製で、長い間歴代の生徒に使い込まれて、
木目が浮き出たようになっていたり、いたずら者が自分の名前や稚拙な絵などの
落書きを刀で刻みこんでいたりして、どれもかなり表面がでこぼこになっていた。
その凹凸のある机に、彼女はボタンを2.30回も往復してこすりつけただろうか。
「ちょっと、これ嗅いでみて」
近くにいた者が、ボタンの匂いを不審そうに嗅ぐ。
「あっ!いい匂い!」

「どれどれ」
まわりにいた者は順番にボタンを取りっこして、匂いを嗅ぐ。
匂いが薄れたと見てとると、持ち主がまた机にこすりつける。
私もボタンを手に取ったが、摩擦熱で少し温かみを帯びたそれは、
今でいう匂いのする消しゴムのような、ガムの香料のような、
かすかな甘い匂いをさせていた。
「ほんとだ!いい匂いがする!」
女生徒達は、交代でくんくん匂いを嗅いだ。
男子も何人かやってきて、「ほんとだ」と言ったり、「全然匂わない」と言ったり。
それは本当に、あるかなしかくらいの淡い淡い匂いだった。

「私のもやってみよう」
そう言って、各自が自分の制服のシャツのボタンを机の上で擦り始めた。
と言っても、着たままだから、シャツの裾を無理やり引き出したり、袖のボタンを
腕ごと机でゴシゴシしたり。
その頃のうちの中学校は、一応夏冬合服の形は決まっていたが、学校で一括して注文ということではなく、
それぞれの親が、標準に近いものを勝手に誂えて着せているという具合だったので、
生地も素材もばらばらだった。
勿論ボタンも、合服の白シャツということで、ほとんどが小さな貝ボタンが付いていたが、
人によって微妙に違っていたのである。
私も、袖のボタンを必死になって擦りつけてみたが、何の香りもしなかった。
殆どの人のボタンが匂わなかったように思う。
匂う、という者のそれも、首をかしげるような淡さ。

今から20年ほど前。NHKで唐十郎脚本、仙道敦子、大鶴義丹主演で
『匂いガラス』という秀作ドラマがあった。
話の詳しい内容は私自身は忘れていたが、「匂いガラス」というものに
心魅かれる人は多かったらしく、ネットで検索すると、多くの人がこの
ドラマのことを鮮やかに記憶しているようだ。
You Tube動画もアップされている。

その話の匂いガラス、というのは、半透明なガラスのかけらで、
それはどうも、ドラマの中では、墜落した零戦の風防ガラスのかけららしいというのである。
ガラス、と言ってもそれはガラスではなく、今でいうアクリルガラスのこと。
どうやら、このアクリルガラスが、硬いものに擦りつけると甘い匂いがするのは
本当であるようで、当時はまだ、アクリル樹脂に不純物が多く混じっていたので、
いろいろな甘い香りがしたというのである。
日本軍の零戦ではなく、アメリカ軍のB29戦闘爆撃機が撃墜された、その風防ガラスであった、
という説もあるらしい。
樹脂ガラス。特に、ポリメタクリル酸メチル樹脂は、こすると確かに甘い香りを発するので
匂いガラスと呼ばれることもあるという。

匂いガラスの正体がわかってみれば、なあんだ!という感じだが、
それにしても、『匂いガラス』のドラマを記憶している人はいても、
匂いボタン、について反応する人はいない。
貝ボタンの代わりに、樹脂ガラスで作られたボタンであれはあったのだろうか。

ドラマを見てから、中学の頃の、その匂いボタンのことを思い出し、
家中のそれらしいボタンをクンクンしてみた。
長い間に、私の裁縫箱にはたくさん半端なボタンが集まっている。
他にまだ使っていないボタンの箱も数個ある。
これは匂いボタンかな、と思えるものたち。
何の変哲もないものばかり。どれも勿論匂わない。
中学校のあの、でこぼこ机でないとだめなのかな(笑)。 
2009_1215_133810-CIMG1057_convert_20091216130833.jpg

我が家の別のボタン箱。
これらのボタンは、10年ほど前の、娘からのクリスマスプレゼント。
下北沢のボタンやさんが店じまいするということで、彼女が気に入ったものを大人買い。
これはコートやジャケット用の大きいボタンの箱で、他にまだ、小さめボタンの箱がある。
なに、「プレゼント」というのは口実で、私に自分の服をたくさん縫わせたいからで(笑)。
これでも、もう三分の一は使いました。
2009_1215_134516-CIMG1059_convert_20091216143233.jpg

ビニール袋が光って何が何だかわからないわね。
ちょっと並べて遊んでみようかな。

2009_1201_130243-CIMG1000_convert_20091216143956.jpg

もう洋服に使って、余ったものであるのもあれば、これから使うというものもある。

先日、ある女性歌人が、小さい頃、父君の白い碁石を口によく含んでみた、
という話をラジオでしていた。
ああ、わかるわかる。いい感覚だなあ、と思って聞いていたが、
ボタン、というものにも、そういう、魔力がありはしないだろうか。
そっと撫でてみて、掌で遊んでみて。
かさっと掻き集めてみて、おはじきのように指で弾いてみる。
頬にあててみて、唇に触れてみて、
そうして最後に、ぱふっと口に含んでみたくなるような。
(小さいお子さんの前では絶対に出来ないですが。笑)
そうしてそれが、私の記憶の中の匂いボタンのように、
かすかに甘く香るなら、なお最高なのだが。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
リンク、トラックバックご自由に。

『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
最新記事
最新コメント
リンク
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
02 | 2017/03 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QRコード