『ピコ太郎論』


barsoさんのところで、ピコ太郎について書いていらしたのを拝見し、嬉しくなって
私も、ちょいとピコ太郎論なるものを書いてみたくなった…
彼岸花の全くの独断と偏見からなる記事ですので、ご容赦を!(笑)

barsoさんの記事で一番笑えてうれしくなってしまったのが、ピコ太郎とトニー谷の
類似性のご指摘である。
トニー谷と言っても、ある年代以上の方でないとご存じないだろうなあ…
『トニー谷』。戦後の20年ほどに活躍した日本のボードビリアンである。
https://youtu.be/vWxPh7W9dtA

面長な顔。ちょび髭。伊達?メガネ。簡単な英語を使って踊りながら歌うというその『えぐい』芸風…。
ピコ太郎を初めて見たとき、私はすぐにトニー谷のことを思い出したのである。


実はトニー谷については、以前、記事を書いたことがある。
と言っても、トニー谷自身についてではなく、トニー谷に似ていたある人について書いたものだ。

トニー谷自身は、実はあまり好きな人でもなかった。私は子供だったし。
雑誌の記事などをたまたま見て、その顔を知っているくらいで、後年彼がテレビに出るように
なっても、我が家にはテレビがなかったので、その芸を直接見たことはなかった。
10歳くらいの子供の認識としては、『変わった感じのひと』と言うだけであった。


トニー谷に似ていたある人、というのは、私が小学校ニ年の冬、母が小さな飲食店を
開いたのだが、その時うちに短期間出入りしていた男の人のことである。
子供心に、『あ!この人、あのトニー谷に似ている!』と思った。
その人は、食器の買い入れなどに力を貸してくれ、小さい私に百人一首の歌のことなど
優しい口調で教えてくれた人だった。
百人一首の読み札の中で、他に同じ音で始まる歌がないのは『娘 房 干せ』と覚えなさい、とか。
季節はちょうど今頃、暮れから正月にかけてのことだったと思う。
詳しくはこちらを。 http://clusteramaryllis45.blog61.fc2.com/blog-entry-50.html


ピコ太郎氏を見たとき、一瞬にしてトニー谷のことと、誰だったか知らないあの男の人の
ことを思い出したのである。
だが。この記事は思い出について語りたいわけではない。ピコ太郎氏の芸について
ちょっと語ってみたい。

ピコ太郎氏については、評価は真っ二つではなかろうか。
ピコ太郎なんて全然面白くない。キワモノだ。泡沫芸だ。…嫌いな人は嫌いだし、わからない
というひとの気持もわかる。
私のつれあいなどは、言下に否定する。
大体音楽の趣味が私と似ている娘も、態度保留。^^
お婿さんも、『う~ん・・・そうですねえ・・・』というきりなので、あまり評価はしていないのだろう。(笑)
というか、彼らはテレビを見ないので多分、あまり知らない。

あの硬派の彼岸花が、ピコ太郎を好きなんて意外でしょう~?(爆)
その通り。実は私は、本来は、瞬間芸というか、繰り返し芸が嫌いである。
いまどきのお笑い芸人の、『いないいないバ~!』的な芸が、ほんとは大っ嫌いで。
赤ちゃんが、『いないいないバ―』を何度してもらっても大喜びする。最後にはひきつって
しまいに泣きだすくらいまで興奮して笑う。そのように、どの芸人とはあえて言わないが、
同じ動作、同じ言葉の繰り返しで笑いをとる芸。それを見て若い観客がまた、手をたたき、
足を踏み鳴らし、大きな口をあけて笑い転げる…それが大っきらいなのである。
赤ん坊じゃあるまいし、馬鹿馬鹿しい同じ動作の繰り返しでなんでそんなに笑えるんだ?と。
そもそも私は、『いないいないバ―』自体も嫌いで、恐らく自分の子供にもほとんど
やったことがない。(爆)

ところがそのあたしが、ピコ太郎にはなぜかはまった!(爆)
…なんていうんだろうか…。彼は芸人としての下積みが長く、その悲哀とか強かさとかが、
あのわずかな長さの歌と踊りに出ているように思うのである。
『爆笑問題』の太田だったかどちらかが、ピコ太郎を長く見てきて、『大勢芸人はいるが、
あいつほど楽屋で面白いやつはいない』と評していたそうだ。『だが本番になるとその
面白さがこれまでなかなか出せなかった』と。

私も実は、彼の『PPAP』はかなり芸としてのレベルが高いんじゃないかと思っている。
まずはあの歌がとてもキャッチ―でリズム感がすごくいい。
barsoさんがいみじくも指摘していらしたが、ペンとアポーが(笑)合体するときに、『ア~ン!』と
一瞬の間を入れる。あれが全体の歌にきわめて効果的な変化をつけているのだ。
もしあれがなかったら、歌はずいぶん詰まったせせこましい印象のものになっていた
だろう。
なんで、あれほどこの歌がこれほどあっという間に世界に広まったか。
むろん、よく指摘されるように、世界中の殆どの人におそらくわかるごく簡単な英語を使った
歌詞の功績は大きい。だが、私は、この歌のリズム感をまず第一に評価したい。
まずはその短さ。その短さの中に、タタタタタタタタ!という『規則的なリズムの心地よさ』と
『あ~ン!』という部分で生まれる『破調の面白さ』などが、ぎゅっとつまっている。

世界の人が、この歌を面白がってやってみている映像を下に載せておくが、この短い曲が
『ある種の普遍性』や『可塑性の高さ』を持っていることを示しているものと思う。
要するに、誰でも出来て、誰の持つ体のリズム感にも合いやすいのだ。
ということは、応用性が非常に効くということでもある。
今、PPAPを元歌にしたコマーシャルが便乗でいくつか流れているが、どこの商品名にも
不思議に合うのがその『可塑性の高さ』を示しているように思う。
PPAP人気に便乗してマネする奴はだめでしょとは思うが。(笑)

もうひとつ。踊りも実は、かなり計算と抑制が効いていて優れているんじゃないかと私は思う。
手の上げ方、足の曲げ方。首の角度…表情…。あれらはかなり観る人にどう見えるかを
計算しつくして出来上がった踊りだと思う。
『ペンパイナポーアポーペン!』と一回言ってから、ピコ太郎氏が後ろ向きに回転して
行くところがあるが、あれが一周しきってしまうのではなく、途中でやめて逆回転して
正面に戻るところなど、私は『うまいよなあ!』と思って舌を巻いてしまう。(笑)
要するに、たぶん一回転するんだな、という予測を裏切るのである。
ぐるっと一回りしたのでは音楽に間に合わないということがあったのかもしれないが。

また衣装も面白い。あの『えぐさ』! ^^
『えぐみ』というのも『洗練』『抑制』という全く逆なものと共に、日本文化の一つの特徴だ。
今流行りの若冲の絵だってえぐみの極みだ。北斎も洗練とえぐみが一人の人の芸術の中に
同居している…。

ピコ太郎氏のPPAPについて私が分析して面白いなあと思ったことの中で、一番の結論。
それは氏のこの歌と踊りの『間の良さ』、である。
私はそれを、日本独自の空間感覚、などと結び付けて考えてしまうのである。
たとえば生け花のあの空間の大胆な活かし方。西洋のフラワーアレンジメントにはないものだ。
たとえば、能や歌舞伎の緩急の動き。
たとえば、北斎などの浮世絵のあの画面の間の活かし方。これも19世紀、西洋の
画家たちを驚かせたものだ。
陶器の絵付けも然り。全面に同じ模様をびっしり施すのでなく、空間がある!
たとえばそれは、私はあの羽生結弦のスケーティングの振り付けにも生かされていると
思う。振り付け師はカナダの人であったりするのかもしれないが、日本文化の『間』
ということをよく理解した振り付けにいつもなっているように思う。
それは羽生だけでなく、日本のフィギュアスケート選手の多くに言えることだ。
浅田真央などの踊りも、技と技との間の振り付けの緩急をよく生かしている…
羽生結弦の『陰陽師 SEIMEI』などの振り付けはそういう意味で最高だったなあ…。
『パリの散歩道』も個人的にとても好きだけれど。
それに比し、概してアメリカのスケーテイング振り付けは、かつて緩急に乏しく
腕をぶんぶん振りまわしすぎだったように思う。最近ずいぶんよくなってきているが。
要するにただスピード感があればいいのではない。芸術性を高めるには、緩急の
メリハリが大事なのである…
日本のスケーターも、長く観察していると、緩急のメリハリのあるときが点数は高く、
頑張って腕をぶんぶん振りまわすような振り付けになったときは、残念ながら…下降期だ。






文化というものは面白い。
自然に人々の体のリズムや美感として身についていく…
日本文化の持つ独特の『間』。 PPAPには、そういう面白さを感じた。
だが、一歩でもやりすぎると、とたんにこうしたものは面白くなくなる。
ピコ太郎プロデューサー氏が、そこの微妙なところを理解し、さらに面白いものを
生み出してくれるといいなあ…

(ピコ太郎氏の新曲『I LOVE OJ』を見てみたが。う~ん…  
ピコ太郎氏よ。PPAPにしがみつくな。スパッと潔く捨てて次の全く新しいものに挑め。
忘れないでほしいのは、爆発的なえぐみと知的な抑制のバランスだよ・・・)

最後に。 PPAP海外オマージュ映像を載せておこう。
これは本当に笑える!
その国その国の言語の特徴がよく出ているからである。
そしてこれを見ると、ピコ太郎氏のこのPPAPという短い曲と踊りの良さ…
その普遍性や可塑性の高さがよく理解できる…
そして、私などはこれを見ていると、可笑しいのと同時に、なぜかしんみりともしてきて
しまうのである。
この音楽一つ、映像一つが、世界を結びつける力の強さ・・・。
むろん、戦火の中にあって、こんなネット配信を見てなどいられない人々がたくさんいることは
承知したうえで、なお、私は、音楽や踊りというもの…芸術や芸能の、言葉を超えたところでの
力…国境をもいともやすやすと越える力というものを想ってしまうのである。



それに比して…政治はいったい何をもたもたしているのだろう……










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『口笛』


さてなあ…。
日本では、粛々と、TPPの批准の手順が踏まれていっているが、その先行きが
見えなくなって、私もおかげでほんのちょっと一息ついている。

こんなものを昔書いた。もうやめてしまったブログの記事である…。
再掲にあたって、少し手直ししてある。



              ***



             『口笛』



男の人の口笛をあまり聞かなくなって、もうどれくらいたつだろう。
私が小さい頃、そして娘時代にも、男というものは、心楽しい時、寂しい時、
とにかくよく口笛を吹いたものだった。

兄も口笛を吹いた。
昔々。ある温泉街の家に住んでいた頃。
兄は17,8歳の青年、私は幼稚園か小学一年生だった。
その頃父母はまだ一緒に商売をしていて、兄は高校に行きながら時々はその商売の
手伝いをしていた。
父は人に頭を下げてものを売る、などということの苦手な人だったので、
兄が自転車を飛ばして、あちこちの得意先などを回る。

でも、学校が休みの時の夕暮れ時などには、普段は商品が載っている自転車の荷台に、
小さい私を載せて、近くの海などへ連れて行ってくれた。

その行き帰り、兄はよく、楽しそうに口笛を吹いた。
私はその兄の背中にしがみついて、兄の体を通して口笛を聴く。
浜辺に着いて、何をするでもなく、二人で暮れゆく空と海を眺めている時も、
兄は時には楽しげな、そして時には淋しくて自然と涙が出てきそうな曲を、
ひゅうひゅうと口笛で吹いた。
音程はいつも正確で、微妙なビブラートがきいて、兄の口笛はとてもうまい方だったと思う。
勿論子供の私に当時そんなことがわかっていたわけではない。
しかし、後年、私が歌うのが好きになり、誰に習ったことがあるわけでもないのに、
また、うちにはピアノもオルガンも勿論無く、レコードプレーヤーも無いのに、
絶対音感が自然と身について、初見の難しい楽譜でも歌え、旋律聴音や和声聴音など
ソルフェージュなどが得意になったのは、ひとえに日本の小学校教育のおかげと、
そしてこの兄の口笛が正確だったからなのではないか、と、今にして思うのである。

だから私は男の人は口笛を吹くものと思っていた。
そして上手に口笛を吹く男が好きである。

ところが、いつからか、男の人は口笛を吹かなくなった。
いつ頃からだろう……。
そう…、団塊世代が若い頃、フォークソングなどが流行っていた頃は、まだ確実に
男は口笛を吹いた。ハモニカも吹いた。
しかし、世の中の景気が上向いて、バブルなどという言葉が出てきた頃あたりから、
歌はマイナーコードの曲が減ってメジャーコードの歌が増えていき、それと共に、
人は口笛を吹くことを忘れていったのではなかろうか。

残念ながら、私の亭主は口笛を吹かないし、歌も歌わない。
声の質はいいのだが、リズム感がめっぽう悪いので、音痴に聞こえてしまうのである。
私と知り合うとっくの以前に、それをからかわれるかなにかしたのか、歌うことを嫌った。
若かった私が洗濯物を干したりしながら、イタリア民謡などを気持ちよく歌っていると、
窓をがらりと開けて、「君、うるさいよ。」などとのたまう。
娘は私に似て歌うのが好きに育った。よく二人で唱歌やポップスの名曲などを
ハモったものだ。するとまた、彼がふすまをがらりと開けて、『君たち少しうるさいね』
と言う。私たちが低い音で音楽を聴いていても、またふすまががらりだ。ひどいでしょう?(笑)
カラオケブームになっても、彼は宴会などで歌えずしょんぼりしているらしかった。
だから飲み会がある日は、娘と私で、たった一つの彼の持ち歌の、リズム特訓を
充分にしてやってから送り出したものだ。

娘も大きくなって家を出て行き、そんなこんなで、私自身もいつからか、
周りに歌が聞こえないのに慣れていき、かつては台所で水仕事をするときなどには
自然に好きな歌を口ずさんでいたのに、いつしか自分も歌うことを忘れて行った…。
絶対音感の能力もいつからか失ってしまって、
口笛が聞こえなくなったことも、寂しくは思っても、そういうものなのだろうかなあ、
と思うようになっていた。

そんなある夜。
それは私がまだ塾の教師をしていた頃…10年かそれ以上も前のことだ。
授業を終えて、色々な報告書類や翌日のテストの準備などをして、塾を出、
帰りの電車に乗る頃は、大抵夜の11時をとっくに回っている。

その日もなにかで帰りが遅くなり、駅に着いたのはもう11時半を過ぎていたと思う。
私の勤めていた塾は市街地を外れた住宅地にあって、駅の乗降客も
その時間帯になると、ほとんどいない。



夜の駅
写真はこちらからお借りしました。記事の中の駅ではありません。 https://youtu.be/1cOy0B47t4A



私はその夜も一人、暗いホームのベンチに掛けて、電車の来るのを待っていた。
季節は早春。オーバーは脱ぎ捨てても、まだ薄いコートは欲しいくらいの頃。
向かい側の上り方面のホームにも、人影はなかった。

と、一人の男性が、向かいのホームの階段を昇ってきた。
カーキ色っぽい色の、長い丈のコートの前をはだけてだらしなく着て、
足元がどことなくおぼつかない。どうやら飲んでいるらしい。

年の頃はたぶん私と同じくらいか少し若いか。
(その頃私は50歳を過ぎていくつかというくらい。)
サラリーマン風で、酒のせいもあろうが、どこかくたびれて崩れた感じのする男だった。
コートの着方も、今時の大企業の紳士のようにきちんと着ていないところが、
昔の男…、まだやくざ映画などの流行っていた時代、
酒と女に爛れた暮らしをしているような男がたくさんいた時代の男のような
どこか崩れてかすかにやさぐれた感じをその男に与えていた。
まるで、昔、夢破れてすさんでいた頃の兄の姿を想わせて。

男は最初、向かいのホームに一人座っている私には気付かず、
かすかに左右に揺れるような歩き方をして、ちょうど私の正面にある
ベンチのところまで来ると、そこにどかりと座った。

そうして辺りを見回していたが、ふと、向かいの暗いホームにいる私の姿に気づいた。
何となくばつの悪そうな感じ。完全に酔っているのではないらしい。
照れ隠しのように、上り下り方向を電車が来ないか確かめるように見たり、
前屈みになって、開いたコートの両足の間に両腕をだらりと下げて、何となくもじもじし、
ふ~ぅ、と、わざとらしく息を吐いたりする風。
そのままうつむいたまま、しばらく動かない。
何となく、いたずらを見とがめられた少年のような風情があって、私は面白く見ていた。

と、男が口笛をふきだしたのである。
私のよく知っている、そして、私が少女のころから好きだった曲。
少女である妹が好むにしては、あまりに暗い曲であることを悲しんだか、
あの兄でさえ、「お前、そんな歌、歌うのやめろ!」と禁じた曲。

男は口笛がとてもうまかった。
私から顔を背けるようにして、
上り方面のあらぬ方を眺めながらひゅうひゅうと口笛を、
微妙な音の表情も、ビブラートをきかせて豊かに繊細に、
二人しかいない夜のホームで吹き続けた……。




曲は、「暗い港のブルース」。 









       

『帰ってきました』

昨夜、慌ただしい旅から帰ってきた。
すぐにテレビをつける。
予測通りというのが悲しいが、既に出口調査による自公圧勝の予報。
時をおかずして、次々に自民党議員の『当確』が出始めた。

結果は、自公が、衆院の3分の2に当たる317議席を超える326議席を獲得。
安倍晋三首相を戴く自公政権の安定政権維持がこれで決定した。
投票率は戦後最低の52.66%。

この選挙結果は既に予測していたことであり、日本の政治状況に関してはもうこの2年間
ずっと嘆き続けて来ているので、私自身はいまさら驚きも悲しみもしないが、
今後のために、次の記事に、今思うところを一応書いておこうかと思う。

ただ、その前に旅のこと、少し書いておこう。

今回の旅は、家をあまり長く空けられないので、一泊きりの慌ただしい旅。
でも、旅はいつも、その途上にあるときからすでに懐かしい。

今回、旅の目的を果たすのと同時に、 ひとりのひとに会うということもした…。
顔も年齢も名前さえも知らなかった人だけれど、その精神は、お書きになるもので
よく知っていた。
そのひとは、女性にして、『剛毅な精神』を持つ。
この、プロの政治家やジャーナリストやもの書きでさえ、はっきりとした政権批判などのしづらくなって
行きつつある今の日本で、批判精神を変わらずに持ち続けていくことは難しい。
彼女の精神は、その意味で剛毅、なのだ。
しかし、会ってみたそのひとは、姿も物言いもやわらかい、優しげな人であった。

思えば不思議な出会いだ。
固い初対面の挨拶さえいらない。つい昨日も会って話をしていたひとのように、
前置きさえいらずに、もう並んで歩きながら、今日のことを話している。

わずか2時間ほどのふれあいであった。
けれど、わかれるときに既にしみじみと懐かしいひとになっている……

友よ。会場は寒かったでしょう…
風邪などひきませんでしたか。

駆け足の旅だったので、老いた身には少々ハードだったか、明くる今日は一日
うとうと布団の中で眠っていた。
午後、各地の豪雪のニュースが嘘のような、暖かい冬の陽が射しこむ部屋で、
いただいた和三盆の干菓子をつまむ。


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和三盆。
和三盆とは、香川、徳島などのごく一部地域で生産されている最高級の砂糖の一種である。
「竹蔗(ちくしゃ)」という種類の特別なサトウキビから作られる。
このサトウキビは香川県東部にある「和泉砂岩」という砂地の土地と、さぬきの温暖な気候と風土で育てられ、
サトウキビは花が咲かずに栄養をすべて茎に蓄えるため、独特の香りや旨味を作り出すという。
和三盆は、口の中に入れると、す~っとたちまち淡く溶けていく。
そのため、甘い砂糖でありながら、他の砂糖と違って、口の中に一種の清涼感を感じさせ
甘みもごくごく上品である。

私は、昔から、この和三盆を使った干菓子などが好きだった。
でも、売っているお店は少なく、高級なので、そういつでも食べられるものじゃないのである。
まるでそのことを知ってでもいてくれたかのように、友がみやげにくれたこの美しい和三盆の菓子。




日本を旅していつも思うこと。
それは、日本列島の長さだ。
今回、帰りの出発地では、晴れた空の色を映す青い瀬戸内の海を見ていた。
大阪あたりも晴れ。
だが、途中トンネルをいくつか抜けて、ふと顔をあげると、窓の外はいきなりの雪景色だった。
岐阜羽島~米原…いつも雪でニュースになるところだ。この日も新幹線は徐行運転。
けれどもわずかな遅れで名古屋に着いたときには、雪の名残りさえなく道路は乾いていた…

窓の外の美しい夕焼け空をじっと見つめながら、別れてきた友のこと、雪の中を投票に行っているかも
しれない見知らぬ人々のこと…これからの日本のこと…
さまざまなことを考えていた…


旅の写真は、またあらためてアップしようかと思います。





『U先生のこと』 ③

そうして……

U先生と私との関係というものは、関係などと呼べるものでもないままに、
時が過ぎて行ってしまった。
あの、鬼気迫る迫力の、しかも余裕と気品ある授業ぶりでいらしたU先生の課題に、
つまらないことを書いた、若き日の愚かな私。
遠くから見ていただけではあったと言え、折角、『これが学問というものか!』という
大きな薫陶を頂戴したにもかかわらず、学校をでたのちは、学問というものには
縁なき人間となってしまった…

それでも、先生が、その身に纏っていらっしゃった、いい意味での『象牙の塔』の住人の、
高級な煙草とブランデーと、古い書物の香りの混ざりあったような雰囲気は、
私の心の片隅に消えがたく残って、その後の私の趣味というか、
ある意味、生き方に、実際は大きな影響を与えたのではなかったかと思う。

たった一度の授業の記憶だけで、そんなにひとが人から影響を受けるか、
と問われるだろうか。
『はい!』と答えるしかない。
U先生の漂わせていた学問の香りと、その姿。
それから、『池面に石を投げて波紋が広がっていく』
…ただそんなふうな内容だったというくらいしか覚えていない短いテキストから、
古今の古典や、心理学や、象徴学や、…といった
めくるめくような学問の世界への扉を開いて見せてくれたあの授業!

…若い心にどれほどそれが眩しかったことか!

自分はなしえなかったけれど、学問の世界への淡い憧れ、というものは、
その後も私の中に消えずに残って、それは私が子供を育てるときにも
なにがしかの影響をきっと及ぼしている。

一言で言えば、『世界は多様で、驚きに満ちているものだよ』ということだろうか。

先生が、その身で私に教えてくれたことは、そういうことだった。
私が、自分の子供にも、そしてささやかながら塾で教えた子供たちにも
どうしても伝えたかったのは、そのことであったような気がする。

一つのものごと…ただの池の面の波紋…そこからだって、めくるめくような
学問の世界、人間の歴史、自然界の不思議、…そんなありとあらゆる
知らない世界が垣間見えるのである。
学者にならずとも、書物からだって、会う人、見ているものからだって
すべての物事から、そういう世界を探り当てていくことは出来る…
その喜びを知っていれば、多少の悲しみには耐えていけるのではなかろうか…。




ときは過ぎ……
冒頭に書いたように、つい、一カ月ほど前。
かつての私の生徒で、今、1児の母でありながら、もう一度学び直したいとして
大学の通信教育を受けているそのR子がメールに書き送ってきた言葉。
『スクーリングの時に会った先生が、全身から漂わせている気配が
よかった』
…その言葉を聞いたとき、ふと若き日の自分とU先生のことを
ぱあっと思いだしたのである。

大学ではU先生の傍に行ったことさえない。
話したのは、あの電話口で、だけである。
無論先生は、私のことなどまったくご存じでいらっしゃらない。
突然夜、基礎的な馬鹿な質問をしてきて、レポートにも失礼なことを
書いてきた、愚かな一女子大生。すぐに忘れておしまいになったであろう。

私の側からしても、実は先生のことはほとんど知らないと言ってよかった。
それほど憧れていながら、そのご専門とその後の私の生き方は関係がなかったので、
著作もまったく読んでいない。
ただ、東大の英文科の先生で、雑誌『ユリイカ』などに盛んに書いていらっしゃる、
というくらいしか知らなかった。

U先生って、本当はいったいどんな方だったんだろう……

その日。夜の無聊に、私はふと、U先生の名をパソコンで検索してみたのである!
先生の経歴をWikipediaでまず、検索してみた。
画像もあった!私が習った42歳の時の先生より、だいぶ若い先生が、こちらを
優しく見ていらした。
おお、先生!お久しぶりございます。そうそう。このお顔でいらっした。
私の記憶の中にある通りのお顔だった。
ああ、やはり東大の教授でいらしたんだな。
ああ!先生はもう、お亡くなりになっていらした! 1990年8月9日。
なんと61歳の若さで。1990年というと、私が43歳、娘が17歳の時か…

やっぱり!先生は『夢の浮橋』の舞台でもあった京都のお生まれか!
道理で、なんとなしの物腰の柔らかさがあった…
先生の父君は、哲学者。母方の祖父は東京高等師範学校教授で、U先生の父君の師で
あったという。そうか。やっぱり教育者の家庭にお育ちになられたんだ!
父君はU先生が生まれたとき、ドイツに留学中でいらしたという。

人間には、一代ででは出来ない顔、というような顔というものがあるものだ。
何代も続く清らかな系譜の水に洗われたような顔。(それはなにも旧家名家、という
ことを意味しない。何代も続く職人さんの家庭にそういう顔を見ることが多い。)
先生はそういうお顔をしていらした。

東京に転居されて東京高等師範学校付属小学校から、…そうか、学習院大学から
慶応大学の大学院にいらしたんだ!そして、…東大教養学部英語科の助教授に招聘されたんだ。
そうか、その時から東大の先生になられたんだな…。
教養学部英語科主任をなさっていらした…。

検索した文は続く。
…しかし。
『任務の重さによるストレスや東大英文出身でないことによる孤立感に悩み、
やがて酒乱(アルコール依存症)に陥り、晩年(1985年)には四方田に対し
暴力沙汰を起こすなど奇行が目立った。
東大退官後は、東洋英和女学院大学教授となったが、約一年半後に死去。』(Wikipedia )

ああ!ああ!……

先生がそんな晩年を送られるとは!
なんということだろう!!!

先生の東大での愛弟子の一人に四方田犬彦氏(名前だけは私も知っていた)がいて、
『先生とわたし』という本を出しているらしい。
…私は早速その本を手に入れた。


四方田氏は先生の直弟子である。それももっとも可愛がられていた弟子のひとりであった。
そこには、腰掛的アルバイトで教えに来られていた女子大の、
しかもろくに授業にでもしなかった一女子学生であった私の知らない、
私などには知り得ない先生の素顔が描き出されていた。
先生は、ご自分が東大英文科出身ではないことを気にかけていらした。
先生はたくさんの本をお書きになった。
その豊かな、類稀れな学識で多くの書物をものされた…。
『フランス文学の渋澤龍彦、ドイツ文学の種村季弘、そして、英文学のU』
と3人並び称される所以である。
しかし、英文学の学界においては、どちらかと言えば、不遇でいらした。
そうして、東大教養部英語科主任という重責と。
それが徐々に先生をアルコール依存に、追いつめていったろうか… 

衝撃的な本である。
とりわけ、この本を書いた四方田氏との疎遠のいきさつのくだりなどは。
そして、直弟子、愛弟子の一人から、このような赤裸々な思い出の本を書かれようとは。
私は本を読み終わって、しばらく茫然としていた。

……だが不思議に、そこに書かれた人生は、とても先生に合っているという気もした。
あの美しいひとが、好々爺になって円満な晩年を過ごす、というのも逆に
想像できないような気もするのである。
書斎に足の踏み場もないほど積みあげられた書物と、煙草の紫煙と香りの中で、
徐々に狂っていっていて欲しい、そんな気のする美しいひとであったのである。

四方田氏はこの本を書いたことで、先生を思慕する他の門下生から
責められたりもしたようだ。
う~む。
私も、この本については、いいとか悪いとかのコメントを避けよう。
それは、あまりにも痛ましい、師と弟子の訣別の物語である。
それはまた、あまりにも美しい、師への思慕の書でもある。

そこには私が知りたかった、若き日のU先生の、東大での生き生きした授業風景も
描いてあった。先生は、教養学部の教養科目としての英語を教えていらしたのだが、
生徒たちに、めくるめくような学問の世界を、そこでは惜しげなく開いて見せて
いらしたようである。
まだ学会で誰も言及していない、誰も見つけてさえいないような、最先端の
文学哲学…ありとあらゆるる系譜の学問の最先端を、生徒に見せて、
生徒にレポートを書かせ、懇切丁寧に批評してやる…

こんなことを私が書くより、四方田犬彦著『先生とわたし』から引用した方が
先生の本当の姿が見えるであろう。一部引用させていただく。
お名前は、本では実名で書いてあるのだが、ここでは今はU先生と書かせていただく。

『わたしの手元にある講義ノートで確認してみると、4月20日にゼミの説明会が
図書館4階にある402番教室で行われている。だがこの時は志願者があまりに多く、
狭い教室から廊下へと人が溢れかえってしまうことになった。少し遅れてゼミの
主催者であるU助教授が現れた。長い髪をオールバックにし、広い額と優しげな
眼差しをした人物で、パイプを銜え、ベージュ色の背広を着ていた。その一挙一動の
優雅さに、先ほどまで雑談をしていた学生たちはたちまち静かになった。(略)
U.Kは押しかけた受講志願者の群れにも眉一つ動かすことなく、今回のゼミは
アーキタイプ、つまり文学における原型的想像力について行うからと、もの静かに宣言した。
(略)
 一週間後、図書館の大ホールを用いて選抜試験が行なわれた。会場に行ったわたしは、
雰囲気の異様さに驚いた。定員の十倍近い、百人ほどの学生がすでに席に就いていた。
そして、ホールの壁を震わすかのように、ワグナーの『ワルキューレ』が鳴り響いて
いたのである。(略)
問題用紙には赤塚不二夫の漫画がコピーされていて、この漫画のどこがどう面白いかを
分析せよとだけ、簡潔に書かれていた。

 Uゼミの真骨頂は、90分の公式的なゼミが終わり、U.Kが個人研究室に
引き上げてから、本格的に開始された。アルバイトやデートの約束がなくて、もっと
ぼくと話したい人は、紅茶を出すからいらっしゃいと、彼は私たちを招いた。
そこでわたしたちは、通称イケチンと呼ばれた、旧制第一高等学校以来の木造二階建ての
研究棟へと移動して行った。U.Kは学生たちのために紅茶を入れ、自分の分には
たっぷりとオールドパアを入れると、尋ねてくるのだった。
ところで最近の収穫は何かね?何か新しい発見があったかね?
 研究室に招かれた全員がその1週間のうちに読んだ書物や観たフィルム、足を向けた
展覧会について報告めいたことを言うと、U.Kはたちどころにそれに注釈を与え、
そこから始まって即興的な、第二の講義が開始されるのだった。ブレイクから
エリアス・カネッティへ、ネオプラトニズムからクセナキスへ、またドゥシャン・
マカヴィエフから吉田喜重へと、話題は自在に飛躍した。きみ、それについては
あれを読みたまえ。(略)……』  
 


おお!ここに、私の知りたくて知りえなかった
U先生が生きて動いて語っていらっしゃるではないか!
先生の指導ぶりが眼前に見えるようだ!
ああ!私が知りえなかったU先生!
その声が、その微笑が!その指導が!講評が!

先生の本業ではない女子大学の、名もなき一女子学生に過ぎなかった私…
たった一度、夜の公衆電話から、お話させていただいただけの私…

でも、こんな記述があった。

U先生が亡くなられたことを知って四方田氏が吉祥寺の先生の家を
訪れた時の記述。

『吉祥寺は、夏の盛りにあった。油蝉の鳴き声がいたるところで聞こえている。
(略)U家は森閑としていた。ヴェネツィア風の洒落た柱を立てたベランダが見えてきた
時、(略)
応接間は80年代初頭に訪問したときと、ほとんど印象が変わっていなかった。
世界中で作られた、夥しい数の木菟の人形や縫い包みがソファや床の間に陳列され、
(略)
家の外に出ると、わたしは振り返って、生い茂る樹木に囲まれた二階のベランダを
眺めてみた。何本もの柱が高雅に並んでいる。懐かしさと喪失感が入り混じった、
複雑な気持ちがした。(略)……』



ここに描かれているのは先生の晩年の住まいの様子である。
私が習っていた1971年には先生は、この家ではなく、同じ沿線の別の街に
お住まいでいらしたらしい。その家の様子は無論分らない。
だが、ああ! 24歳の私。大学院生の夫と、夫の弟(福島から林檎や桃を送ってくれる
あの義弟である)である大学生と、3人で住んでいた練馬区のアパート。
下は中華料理屋で、大家が口うるさかった!
そのアパートのちょうど道路向かいに、小さな煙草屋があって、そこに公衆電話が
置いてあった。
夜8時ごろ。十円玉をたくさん用意して、先生のところに電話をかけたんだっけ……

この、吉祥寺の家とは無論外観も違っていただろうけれど、きっと先生は、
その頃もすでにたくさんあったに違いない木菟の応接間で、もしかしたら、
私の電話をお取りになったかもしれないな……。
なにか私には、その夜の、公衆電話から緊張して先生のご自宅に電話かけた
自分の姿が見え、また、おそらく書斎から電話の音を聞きつけて歩いていらっしゃる
先生の足音までが蘇ってくるような気がしたのであった。



U先生…。由良君美先生。(ゆらきみよし、と読む。)

由良なら、Yの字を使うべきですかね。でも、U先生と呼びたかった。
由良先生。あなたは私などご存じない。
でも、四方田犬彦氏など、直弟子の人々に鮮烈な面影を残していかれたように、
たった一度きりの授業でも、あなたは、私の心に忘れ難い大切な何かを
伝え残してくださいました。
折角先生がレポートのテーマとして選んでくださった倉橋由美子。
『糞面白くもない』だったかな、『胸糞悪い』だったかな、そんな汚い言葉を
使って感想書いて申しわけありません!(笑)
倉橋由美子さんと言えば、日本の文学史に女流作家として確固とした地位を
お築きになりました。
でも、折角のお引き合わせだったのに、私はその後も、彼女の作品を敬遠して
読んでみようとは思いませんでした。
倉橋由美子さんも、もう、2005年にたくさんの名作を残して、お亡くなりになりました。

その倉橋由美子さんの作品の一つが文庫化された時、先生、なんと私の娘が、
先生が顔さえご存じでおいででなかった一生徒である私の娘が、そのカバー絵を
担当したんですよ!

先生が私の心に播いた、学問への憧れ、という一粒の種。
『世界は多様で、驚きに満ちているものだよ』という、そんな心で
私はこの子を育て、生徒たちにも接してきたつもりです。
その生徒の一言で、先生のことをふと思い出し、先生のことを調べてみて、
『先生とわたし』という本にもめぐり会いました。
そして、なんと迂闊なことに、娘がカバー絵を描いた倉橋由美子さんの作品。
その倉橋さんこそが、先生があの時課題として出された、そして私が若気の至りで
糞味噌に書いた、当の作家であったということを、私、今更ながらに気づいたのです!

なんと迂闊な!
しかし、なんと面白い人生の偶然でしょうか!

世界は本当に驚きと喜びと、そして哀感に満ちている…

64歳になった私はしみじみとそう思います……


29歳の由良君美先生

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『U先生のこと』 ②

さて。
当時の記憶を探ってみるのだが、なぜ私がU先生の授業を一回しか
受けた記憶がないのか、どうしてもわからない。
おそらく、初めの方は、私がさぼっていたのであろう。
そして、もしかすると、あとの方は先生ご自身の都合により、休講、というようなことも
あったかもしれない。
私が、もう少し真面目な生徒であって、先生たちに自分の方から教えを請いに行く、
といったタイプの人間であったなら、先生にもう少し近づいていたかもしれない。
だが私は、今でもそうだが、そういうことがどうも苦手である。
授業の前後などに、あるいは研究室に先生に質問に行くなどということは
U先生に対してだけでなく、他の先生にも考えてみもしなかった。

だから、私は、本来東大の先生である(あった、かな)という噂のU先生の、
いわばその他大勢の中の一人の女子学生に過ぎず、無論向こうは私の顔など
ご存じでらっしゃらない。一度も直接面と向かって話したこともない…。

それでは、『思い出』にもならないだろうと思われるかもしれないが、
もう少し、実はあった……。



それは、その、学期末のU先生の
「倉橋由美子『夢の浮橋』におけるセルフ・アイデンティティについて述べよ」
という課題に関してである。
私はもともと、こういう課題に一所懸命になるたちである。
英文科の勉強でも、ただテキストを読んで訳して、学年末、それの訳の復習の
テストをする、というような授業は熱心でなかったので、一向に英語力は
つかなかった劣等生であったが、何かについて調べて自分の考えを述べるとか
そういう課題には燃える方であった。そういう科目では割合高評価をいただいた方である。
まして、一回の授業で、その学問的な雰囲気にすっかり魅了されてしまった
U先生のレポートである。いいものが書きたかった。
あの、白皙の額、あの豊かな髪のあの先生に、うんうんとうなずいて欲しいと
いう願いをひそかに持ったのである。

ところが、私が授業に出ていなかったせいなのか、
それとも先生は、そんな言葉はあらためて教えずとも学生ならみんな当然、
知っているはずだと思いになったか、『セルフ・アイデンティティ』という
肝心の言葉の意味が、私にはわからなかったのである。
辞書を引くと『同一であること。身元、正体』などとある。
今でこそ、IDカード(Identity Card)などという言葉が
日常に使われ、セルフ・アイデンティティという概念も、
だいぶ一般的に知られるようになって来ていると思うが、40年以上前、
それはまだ、日本にそうは馴染みのなかった概念だったのではないだろうか。
エリク・エリクソンが、何年にこの概念を初めて世に問うて、それが
いつ一番最初に日本に紹介されたのか、私は知らない。でも、U先生は、かなり早い時期に
この概念を知り、私たちの課題として、とりあげて紹介してご覧になったのではなかったろうか。

今ならば、Wikipediaなどを使って、門外漢でもいろんな分野の語句や事項の、
簡単な輪郭は検索してあっという間に手に入れることが出来る。
しかし、40数年前の当時はそんな便利なものはなく、図書館で調べるしかなかった。
けれども図書館にある本は概して古く、ましてそういった新しい概念についての記述が
そうやすやすと見つかるものでもなかった。
今、Wikiで検索してみたら(笑)、セルフ・アイデンティティに関する本で、
モラトリアムという言葉を紹介して有名になった小此木啓吾さん等の訳した
『自我同一性 - アイデンティティとライフ・サイクル』(小此木啓吾・
小川捷之・岩田寿美子 邦訳 、誠信書房。)というのが,1973年に出ている。
U先生が私たちの大学での課題としてお出しになった1971年の時点では、
まだそれほど広く知られている概念ではなかったはずだ。
私はそのとき、図書館に行って調べたけれど、その言葉の意味はついにわからなかった。

おそらく、先生は授業中にひととおりは説明なさって、それでその課題を出されたはずだ。
しかし私は、授業に出ていない。誰かに教えてもらおうにも、私はその授業を
仲のいいグループから離れて一人で履修していたので知っている人は誰もいない。

そもそも、倉橋由美子の『夢の浮橋』という小説自体が、今調べてみると、
1971年出版。ああ!やっぱり!出たばかりである。
無論、その評価なども確定しておらず、書評なども手に入らない。
自分で考えるしかなかった。

…レポート提出期限は近づいてくる。良いレポートは書きたい!
困った私は、或る晩、先生に直接電話でお伺いしてみようと思った。
なぜ、電話などでなく研究室を訊ねなかったか、今となってはわからない。
そもそもが、いわば腰掛け的に私の大学で教えられていたのだろうから、
研究室があったかどうかさえ分からない。
でも、ある夜、私は、その当時住んでいたアパートの道路向かいにあった
煙草屋の公衆電話から、先生のお宅に電話をかけたのである。
時代の感じがわかります。煙草屋の公衆電話…!
電話番号をどうやって知ったか、それも今となっては思い出せない……
あまり個人情報がどうのこうのとうるさくはなかった、のんびりとした時代。
便覧にでも載っていたかな。

夜の8時頃であったか…寒い季節だった…
十円玉をたくさん用意して入れておく…。
ダイアルを回すと、しばらく向こうのベルがなる間合いがあった後、
先生が直接電話口に出られた。
私は少ししどろもどろしながら、自分が先生の授業をとっている…という者であること。
レポートを書こうとしているが、肝心の『セルフ・アイデンティティ』という
語句の概念がわからないので書けずにいると、正直に話した。

U先生は、電話の向こうで、一瞬絶句なさった。授業で聞いていないのか?
とお思いになったのか?
けれども、すぐに苦笑なさっているように、笑いをふくんだやわらかい声音で、
セルフ・アイデンティティについて、簡潔に説明してくださった。
私は突然自宅にまで電話した失礼を詫び、何度もお礼を言って受話器を置いた。
先生は、あきれながらもお怒りになどならず、ただ面白がっておいでのような
感じだった。
『間抜けな生徒がいるもんだ。どんな子だろうか』とでもお思いになったのかもしれない。

さて。私は何度も『夢の浮橋』を読みこみ、一所懸命関連しそうな文献を調べて
レポートを書いた。
倉橋由美子『夢の浮橋』とはどんな小説だったか。
もううろ覚えであるが、舞台は主に京都。主人公の女子大生は良家の令嬢である。
彼女には恋人がいるのであるが、二人の間はまだ口づけ程度である。
二人は実は兄と妹なのである!それは、彼女の母と彼の父が昔恋人同士であって、
主人公は実はその二人の間に生まれた娘。そして恋人は、彼女の
異母兄妹ということになるのである。彼女は無論そのことは知らない。
しかも、彼女らの両親たち二組は京都嵯峨野の奥深い宿で、夫婦交換をしていた…
…筋立ては最後まで書かないが、まあ、言ってしまえばハイソな人々の恋愛模様というか…
夫婦交換という禁忌。さらには、兄妹である二人が、一度は別れてそれぞれ別な
人と結ばれるが…おっと!これ以上書かないんだった!
まあ、美しい京都の風景の中で、犯してはいけない禁忌にどうしても魅かれゆく人々…
美と死のイメージとが交錯する、恋愛小説…とでもいいましょうか。
とにかく主人公の若い二人と、その両親たちの住む上流階級の世界。
それと、当時、真っ盛りであった学生運動の世界が、醜悪な世界として
対照的に時代背景を表すものとして使われている。

さてそんな中身のこの小説と『セルフ・アイデンティティ』というものを
24歳であった私がどういうふうに料理してレポートにまとめたか、今はもう覚えていない。
ただ、一所懸命考えて書いたなかなかの力作ではあったと思っている。
無論タイトルからして、源氏物語には当然触れ、フランスの貴族社会のサロンというもの
に言及したりして、我ながら、よくできた!という実感を持っていた。

ところが。である。レポートの仕上がりには自分で満足したが、
この小説自体はとても気にくわなかった。
私は、自分では活動に加わっていなかったけれど、大学の解体や安保改定反対、
ベトナム戦争反対、成田空港建設反対などを叫んで若い命の火花を
散らしていた同世代の学生たちに、心の奥底で熱い共感を抱いていた。
そんな私だったから、この小説の登場人物たちの住むような、この世と隔絶したような
上流階級の恋愛模様などに感情移入出来るわけがない。
学生運動している若者たちを、ものすごく汚く粗野な者たちとして書いてあったのである。
そこのところに凄く引っかかってしまった……。

レポートはレポートとして、一所懸命書いたが、読後感としては後味が悪いものがあり、
若かった私は、レポートの最後に、なんと!

『…それにしても、個人的感想を言わせてもらえば、なんとも胸糞の悪い小説である。』

という一行をつけ加えたのである…!
なんかもっと女子学生らしからぬ悪態を書いたような気もするが…(笑)
でも一方、礼儀正しくレポートの裏に、先日夜、電話した者である、ということも書き、
お礼とお詫びも書いた気がする。


U先生がさて。私のレポートをご覧になって、どういう反応をなさったか。
それはわからない。この小説を課題として選ばれたのだから、あの気品ある
佇まいの先生は、おそらく上流階級に属されるかたであって、この小説を
『好し』と思われていらしただろう。
それにそんな下品なコメントを入れる女子大生がいるとは!と不快に思われたかな。
いやいや。きっと先生は、最後の一行をお読みになって、爆笑なさったのではあるまいか。
レポート自体は大真面目にいろいろせいいっぱいの分析を書いていたから
その落差に一瞬びっくりなさり、そのあと爆笑されたのでは。

先生は、私のそんなレポートにどんな成績をつけてくださったか?
私の大学ではAからFまでの評価。E、Fは単位がもらえない。
Aには、さらにその上にAプラスというのがあったんじゃなかったっけ…
どんな成績をつけてくださったと、みなさん、お思いになられますか?




実は、卒業式の日、成績表を事務所に取りに行かねばならなかったのに、
女子大学というものに未練のなかった私は、4年次の成績表を受け取りに行かなかったのである!

他の科目の成績は別にいいが、U先生が、あれにどういう成績をつけてくださったかなあ…

…それだけは知りたかったかな、と、今も思う私である。


『U先生のこと』 ③に続く

 




『U先生のこと』①

たまには原発以外のことも書きましょう。
本来、私のブログはこういうブログだったのです……



   『U先生のこと』


私が数年前まで塾の教師をしていたということは何回か書いたことがある。
私なりにその時その時は、生徒の一人一人を大事に思っていたけれど、
いつも書くように、私はデラシネ的気質がとても強い。
つまり、故郷喪失者で、根無し草なのである。一匹狼とも自分で名乗る(笑)。
人とのつながりを最初からあきらめているようなところがある。

その時その時は、決して人懐っこくないわけではないけれど、ある終焉点を
迎えたと思ったら、自分から何かを追いかけることはほとんどしない。
だから、20年任されていた塾をやめたいと思った時、生徒とも、かつての同僚とも
言わば、そこで縁を切った。
縁を切った、という強い言い方は正確でないかな。敢えて縁をつなごうとしない、といった方がいい。
今もおつきあいが続いている先生は一人だけである。
辛抱強く向こうから声をかけて心配してくださる優しいかただ。
生徒から年賀状がくるが(ありがとう)こちらから連絡はしない。すると、数年もすると年賀状は来なくなる。
寂しい生き方だと言われればそうかもしれないが、…もう慣れてしまった。

そんな中で、まだ連絡を取り合っている子が一人いる。
R子と言って、私が教えた中で、一番出来る子であった。
成績はオール5に一つだけ足りないというだけ。
とにかく一を聞いて二十くらい知る、という感じで、めちゃくちゃ頭がよかった。
それほどがむしゃらに勉強しなくても、まあ~~!!!とにかく優秀なのである。
ところがそのR子。事情があって高校中退し、家を飛び出てしまった。
中学で卒業したあとは塾にも当然連絡なし。
しかし、数年後、ふと私の家に連絡があり、これから大学検定受けて、大学に行きたいという。
そして、難なく検定をとり、そしてある大学の通信教育を受けることになった。

今は地方都市に住むその彼女が、時々私にメールしてくる。
英語の課題で、彼女の聡さをもってしてもわからないところを訊ねてくるのである。
通信教育と言えど、大学の英語の課題である。これが難しいのだ…!
…文法的な構造がわからないわけではない。内容が難しいのである。
精神医学のテーマとか、歴史上の人物のエピソードとか、知識がないと理解できないような
文ばかり。毎回、質問がくるたびに、辞書とWikiのお世話になって、必死で
私なりの解釈をして、彼女にまたメールを送り返す。
時には丸一晩かかることもあって、もともとたいして英語力のない私は、
とても疲れるけれど、実は大変楽しい!^^

…前置きが長くなった。
その彼女とのやり取りの中で、ふっと或る先生のことを思い出したのである。
彼女がスクーリングの時に会った先生が、全身から漂わせている気配が
よかった、というようなことを書いてきたとき…。
ふっと、何十年も昔の、ある先生のことを。

それは、U先生と言って、私の大学の時の先生である。
と言っても、私の行っていた女子大の専任ではなく、東大の英文科の先生でいらした。
非常勤の講師として、私の大学にお手伝いで来ていらしたのではあるまいか。
私は、彼の英米文学講義?の講座をとっていた。

ところが、今、『?』と書いたことが示すように、彼の授業に出た記憶が
ほとんどないのである。或る一回の内容しか覚えていない。
それは、こんな内容だった。

小説や詩などを読む。その小説などを解釈する時に、いくつか方法がある。
一つは、その作家について知ることである。その文を書いた人がどういう時代に生まれて
どういう生い立ちをして、どういう生き方をしたか…
それを知った上で、作品の解釈を深めていくやり方。
もう一つは、作品自体を純粋に味わうというやり方。作品は一度作家の手を
離れてしまえば、独立した者として、それはそこにある。
作者が不幸な生い立ちをしたとか、女にだらしなかったとか、そんなことは関係ない。
純粋にテキストとして読みこんでいく方法。

…その頃、大学4年。24歳であった私は、なあるほどなあ!といたく感心した。
自分自身は作家の生い立ちなどを知って、それに入れこんでしまう方であった。
そうでない、まったく作品を作家や時代から切り離して、作品自体として
鑑賞する、という方法があり、それが、私が先生の授業に参加していたその頃の
その時代における主流である、なんてこと、知りも考えもしなかった!!

そのとき何をテキストに使っていたか、題名などは思い出せない。
なんでも、『静かな池の面に石を投げる。すると波紋が広がっていく…』
…そんなふうな内容を含む短い一文だったように思う。
先生はそのテキストを使って、今言ったような、作品を独立した作品自体として
鑑賞する眼、というものを、鮮やかに分析しながら講義していった……

私が覚えているU先生の講義はこれ一回きりである!
だがその鮮やかな分析ぶりは非常に強い印象を私に残し、私は、『ああ!学問の世界というものは
こういうものか!』と深く深く感じ入ったのである。

しかし、私が感動したのは、その講義の内容だけでは実はなかった。
U先生が、また素晴らしくすてきな先生だったのである。
中肉中背(だったかな?)。年の頃は当時、40代前半かそのくらいだっただろうか。
(今あらためて調べ直してみたら、1971年のその時、42歳でいらしたようだ)

『白皙』ということばがあるが、こういう人のことを言うのだろうなあ、という感じの
風貌をしていらした。
色白の、大理石を思わせる肌。そして豊かな黒髪をほんのほんの少し長めに伸ばしていらしたが、
その黒い前髪が講義中、うつむくと、その肌理の細かい広い白い額にはらりとかかり…。
整った気品のある顔立ち。豊かな深い声。板書などする動作も優雅でいらした。
なにか全身から、学問の香り、というものを漂わせていらした。

…人は恐ろしいものである。
その優れたひととなり、というものは、黙ってそこに立っていても、どことはなく
洩れ伝わってくるものである。
例えば、作家の大江健三郎さん。
私はおそばに行ったことはないのだけれど、一度講演会に行ったことがある。
その時、広い講演会場に、舞台の袖からではなく、観客席の非常口のあたりから
大江さんが出ていらして、拍手に迎えられながら演壇へ一段一段上がっていかれた。
…その時の、大江さんの全身から発する、含羞と悲しみの気配というものを
私は今でも忘れることが出来ないでいる。

U先生からは、若き気鋭の英文学者としての、学問の香りというものが、
まるで、そこはかとなく漂う深い花の香りのように、教室の後ろの方にまで
伝わってくるかのようだった。

そう。その頃も今も私はなにも知らなくて、U先生がどんな経歴のひとなのか
知らないでいたが、実は彼は、
『仏蘭西文学の渋澤龍彦、独逸文学の種村季弘、英文学のU』と、当時
並び称されるような、少壮気鋭の英文学者でいらしたのである。
…ここまでお読みになった方の中には、ああ!あのひとか!とおわかりになった
かたもおいでかもしれない。

ところが私は、当時そんなことを知らなかった。それでも、この先生はただ者では
いらっしゃらないな、と言うことは直感で感じとっていた。

…しかし、そんな先生の授業を受ける機会があったにもかかわらず、
そうして、一度受けたその水の波紋がどうやらこうやら、という授業が、
感動的に素晴らしく思えたのにもかかわらず、先生の授業の記憶が、それっきりしかないのである。
たぶん、その頃既に私は、女子大というものに嫌気がさしていた。
私は高校を出てから、働いていたので、2年遅れで大学に入った。
同級生たちは2歳年下。そして先生たちは、付属の高校からまっすぐに来たという人も
多く、女の先生ばかりで、なにか、お嬢さん大学という感じで、生ぬるかったのである。
しかも私はすでに学生結婚したので、授業が終わるとまっすぐ家に帰って
主婦としての仕事をする…。
…その私生活と学校生活とのギャップが、私を苦しめ、私は大学3年の後半くらいから
英文科の授業をつまらなく感じ始めていた。
関係ない心理学とか、教育心理とか、宗教学とか、史学とか、そんな授業に出てばかりいた。
英文科の授業は出席のうるさそうなものだけ仕方なく顔を出しているという、ふまじめ学生だった。
だから、U先生の授業を、私は最初から、これもあまりつまらないのだろうと決めつけて、
ろくに出ずにいてしまっていたのではなかったろうか。
一回受けてあれほどの感銘を受けたものを、3回4回受けて覚えていないはずがないからである。
それとも、先生の側に事情があって、あまりうちの大学にお見えにならなかったか…。

とにかく、私のU先生の記憶は、したがって、その一回きりの授業から、
いきなり、大学4年の学年末試験に飛ぶ。
先生はおそらく、出席をうるさく取る方ではなかった。そして試験の内容も、
その年にした授業についての筆記試験などではなく、レポートを出すだけでよかった。
レポートのテーマは、


「倉橋由美子の『夢の浮橋』におけるセルフ・アイデンテティについて述べよ」

というものだった。




この記事②に続く


  

  

『布教』

玄関のチャイムが鳴った。
どなた?と問えども応えず。
普段なら開けない。
だが、開けた。

やはり、ものみの塔のひとだった。
年の頃は24,5のうらわかき女性である。
背が高く、白い顔には化粧気なく、
顔つきは、Oという指揮者の子である男優を女にしたような。
一目見て、知的なひととわかる。

だが、ああ、私には縁がない。
「ごめんなさい、ちょっと興味がないものですから…」
そう答えると、彼女は寂しげに微笑んだ。
そして。

「ドアを開けてくださっただけで嬉しいです。ありがとうございました」
と静かな口調で言って、そしてまた微笑んで、それから一礼して去って行った……

なんと!なんとそのたたずまいの静かで美しかったことだろう!
そして、その言葉のなんと悲しい含みを持っていたことだろう!

「ドアを開けてくださっただけで嬉しい」……
なんとせつない言葉じゃないか! こんな若い娘が言うにしては!

おそらく彼女は、一日に百軒、二百軒と訪ねて回るのかもしれない。
そうして、ことごとく、玄関払いを食うのであろう…
ドアを開けてさえもらえず。
時には、その宗旨について、汚い非難の言葉を浴びせられて…

彼女のこころには 悲しみが溜まっていることであろう。

何ゆえに あの うら若き身で  
世の中から特殊な眼で見られがちなあの宗派なんどに帰依しているか!
その母が、その父が信者だっただろうか…

だが、しかし、彼女はキレイダッタゾ。
「日本の原発は安全です」という布教に似たキャンペーンをし続けて、
この国に、取り返しのつかない毒を撒き散らして、
なお、その罪に気づかぬふりを通すあの会社の偉い男達より
ずっとずっと美しかったぞ。
『謙虚の美』『悲しみを知るひとの美』がそこには見えたぞ!

11月3日。午後6時。
あれから4時間…。秋の日はとっぷり暮れた。

彼女は今まだ、どこかを回っているだろうか……




『夏畦』

『夏畦』……

夏の畦。
夏の強い日差しに照らされて水がぬるくなった田に、
青々と健康に育った美しい稲が、高原の風にそよいでいる風景が浮かぶ。
細い畦道には人の足に踏み潰されて丈が短くなったスズメノテッポウや
エノコログサ、オオバコなどが、びっしり生えている。
人の足の届かぬあたりには、少し丈の高いギシギシや、
ミゾソバ、イヌタデ、ゲンノショウコ、ママコノシリヌグイなどが…。
風が少し強く吹くと、田んぼの泥のかすかな匂いと、若い稲の
すがすがしい香りがたちあがる…

おっといけないいけない、また脱線するところだった。
夏の田んぼの植物のことを書きたかったわけではないのである。

夏畦。
実はこれは私の叔父の名前である。父の弟。
夏のあぜ、と書いて『なつね』と読む。

今からおそらく90年以上も前。九州の山村に生まれた男の子につける名前としては
とても洒落た名前ではなかろうか。
今でこそ、子の名前に親が凝るようになって、聖羅だの海斗だの、大翔と書いて「ひろと」
だの、凝った名前、いやちょっと凝りすぎで読めないわというほどの名前が多いが、
明治末年か大正初めごろの男の子の名前なんて
~太郎だの~次郎だの、三太だの、生まれた順番がすぐにわかる名前や、
子だくさんで苦しい親の願いを込めて末吉だの、ひどい場合には捨吉だのと
いった、手っ取り早いつけかたの名前が多かった時代である。

農家の子だから夏畦…。それも即物的な名前じゃない?と思われるかな。
それでは、司峰はどうだろう。
峰を司る、と書いて『つかね』と読む。
夏の九州の、なだらかだけれども幾重にも重なり合う壮大な山々の峰。
それを司る、というのだ。なんとスケールの大きい名前ではないか。
実はこれは、もう一人の父の弟の名前。
90年以上くらい前の男の子の名前。

私の祖父母は、そんな時代にそのような辺鄙な村で
いったいどういう考えを持った人々だったのだろう…
私の父の名前は?ここでは言えないが、なぜか彼だけ平凡な名前である(笑)。

祖父母は、自分たち自身は尋常小学校しか出ていない明治の人たちであったが、
理想は夏の峰のように遙かに高く、子供たちにできるだけの教育を
施したいと願っていたようである。
その証拠に、この辺鄙な山里から、司峰叔父と夏畦叔父を東京に
勉強に出している。
司峰叔父は法律を少しかじって官吏に。そして、夏畦叔父は……

陸軍士官学校または大学受験を目指して、東京の中学で勉強していた。
中学と言っても旧制中学。今でいう中学と高校一、二年くらいに当たるかな。
殆どの人は尋常小学校卒。よくてその上の高等小学校卒。
中学校、しかも東京の中学校に行く人なんて、その当時の村では
異例のことだったのではなかろうか。
大正15年のデータで、尋常小学校から旧制中学に入る子の比率は、3.6%だったという。

夏畦叔父は、勉強の傍らある官立病院でアルバイトをしていたが、
そこで結核に感染してしまう。
そうして志半ばにして九州の故郷の村に帰ってきた。

前の記事で姉の描いた、私たちの実家『上の屋敷』をご紹介したが、
画面右隅に、蔵が建っている。
志やぶれた若い叔父は、この蔵の二階で、一人暮らすことになった。
母屋には、私の父母、そうして幼い女の子たちが3人いたので、
それに結核を感染させないためであった。
当時、そのような僻村でどの程度の医療が受けられたものか。
夏畦叔父は、間もなく結核で亡くなった。そうして、母屋に住んで、
病人とは接触のなかったはずの、私の姉(次女)も間もなく結核で亡くなった。

姉の描いた絵で、母が一人、前の畑で麦わら帽をかぶって農作業をしてる。
姉は事実を意図せぬままに案外正確に描いたのだろうと思う。
この家で、働き手はほとんど母一人であったのである。

祖父は若いころ働き者のやり手であったが30歳くらいの時にもみ殻が眼に入って、
田舎のこととてその手当が悪かったか、失明。後にもう片方の目も悪くなって、
その頃はまったく見えなくなっていた。だから農作業はできない。
本来一家の大黒柱であるはずの父は、いわゆる長男の甚六。
祖父母に大切にされて育って、釣りをしたり、尺八を吹いたり、
将棋を指したり、弟たちと一緒に英語をかじったり、と言った風流人ではあったが、
農作業に熱心ではなかった。
母が目の不自由な舅と結核の義弟。三人の幼い娘たちを抱えて、ほとんど一人で
きりきり舞いしながら家を支えていたのである。

夏畦叔父が帰ってきたその当時も、母はこの前庭、裏の庭で自家のための野菜を作り、
そうして遠く離れたところにあった広い田数か所で稲を作っていた。
父も働かないわけではなく、夫婦二人が朝早くから田に出る。
母は乳飲み子を背中におぶって連れていく。長女は小学校。
その間眼の見えない夫と結核の三男と、二番目の小さい孫娘の面倒をみるのは祖母の役目。
ところがこのひと、無類のおしゃれで外出好き。
いい着物を着て、少し賑やかな町に嫁いだ自分の娘のところに遊びに行く。
父の妹のことである。そこから二人でバスに乗って遠くの街まで芝居を見に行ったりする。

母が夕方農作業から帰ってくると、次女がいない。
あわてて蔵に駆けつけると、眠っている夏畦叔父のそばで、小さな娘が遊んでいる、
ということが一回や二回でなくあったらしいのである。

夢破れた夏畦叔父が亡くなって間もなく、この次女も結核でこの世を去った。
もう一人いたその下の妹は、数年後、やはり母が農作業に出ている間に、
父の妹の息子、つまり従兄たちと庭で遊んでいて、地面に落ちた腐った枇杷を
拾って食べ、赤痢にかかって、やはり幼くして亡くなった。
小学生の男の子たちは残酷。自分たちは木に登って新鮮な枇杷を
食べていたが、小さな従妹には採ってやらず、仕方なしに落ちた枇杷を拾って食べたのである。

先にアップした、一枚の素朴な絵。そこに描かれている風景には、
そんな一つの家と家族の記憶のあれこれが籠められているのである。

でも、絵を描いた長姉によれば、夏畦叔父は立派な顔をした、とてもハンサムな青年
だったようで、病を得て故郷に帰って来たとき、長姉はちょうど小学校入学。
その幼い姪のために、若い叔父さんは東京で、ベージュの革のとてもおしゃれな靴を
お祝いに買ってきてくれたそうなのである。

昭和の初年頃。都から遙かにはるかに遠く離れた草深い高原の村。
姉はどれほど誇らしい想いで、その可愛いデザインのベージュの革靴を、
入学式に履いて行ったことであろうか。

いまだに、姉からくる綺麗な文字の手紙には、3通置きくらいに
その靴のことが書いてあるくらいだから(笑)。
残念ながら、私がこの家に生まれるのは遙かに後のことなので、私は
このハンサムで頭のよかった叔父を知らない。

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もう一人の叔父、司峰は?
彼には幼いころ会ってはいただろうが私の記憶には無く、
父がこの高原の村で一人亡くなったその葬儀のとき、殆ど初めて会って挨拶をした。
亡くなった父と瓜二つな顔をしていたのには驚いた。
血液型も、父や私と同じ、O型のRhマイナスだそうで。
一族のうち、この3人だけがこの血液型なのだそうで。


祖父母が下の息子二人に託した、高等教育の夢。
長男であるがゆえに農家を継がざるを得ず、満たされなかった自分自身の
『上の学校に行きたい!』という夢を、兄や私など、自分の子供たちに
託し、農業を捨てて街に出た父と母…。

その夢は孫子の代では叶わなかったが、曾孫の時代にようやくどうにか叶ったかもしれない。
今日、娘は彼氏と共に、九州の私の姉の家に行っている。
そこには、又従兄弟など、若い者たちが、娘が来るということを聞きつけて
京都の大学や広島の企業から駆け付けてくれて、今頃ちょうど酒盛りをしているはずである。
故郷は捨てた、などと意地を張って生きてきた私のせいで、
娘は母方の親戚というものをこれまでほとんど知らず、皆とは初対面である。
でも、会いに駆けつけてくれる…その気持ちが嬉しいではないか。

その光景を見たら、祖父母や父母、そして夏畦叔父などは
どれほど喜んでくれていたであろうか…。


夏畦叔父と司峰叔父…。
その名から何か清々しい想いを抱かされる、私のよく知らぬ二人の叔父たち…。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『静子叔母と正之叔父 ②』 忘れがたきひと 其の五

兄は当時、26歳くらいであったろうか。
しっかりした若者なら、もう一人前に一家をなしてもいいくらいの年齢である。
が、彼はまだ、職も居所も定まっていなかった。
彼ももがいてはいたと思う。
理想やプライドの高さと、現実のおのれの姿とのギャップに悩み、
自分の生きる道をまだ模索していた。
好きな女性もいて、一緒になりたいとは思っても、仕事も安定せぬ身。
母親や、妹の生活のことも考えてやらねばならない。
そんな鬱屈を酒と喧嘩に紛らす…。

そんな兄だったが、この叔父叔母には不思議に素直になれるようだった。
私たちにはもう一人、紳士服店をしている叔父がいたが、
その叔父は、兄のそんなありさまを見ると、情けながってつい、説教をする。
が、静子叔母と正之叔父は、「お前、今、何をしているのか」とも
兄に尋ねなかった。ただ、美味しいものを作って食べさせてくれるだけ。
私などは、5歳くらいの時に会ったきりの、10年ぶりくらいの再会であったが、
二人の家庭は、なんの気兼ねも構えもいらないと思わせる温かさ。
ただひたすらやさしい二人だった。

一日目は、日当たりのいい平屋の家の縁側で、兄は叔父と将棋を指したりして
寛いでいた。
私は叔母の持っている雑誌などをいろいろ引っ張り出して見る。
叔母も手がすくと、傍らに座って、ファッション談義などをしてくれた。
気の若い叔母だった。
私は、雑誌を見ながらも、手は、寮から持ち込んできた、レース編みを続けていた。
鮮やかな黄色のレース糸で、パイナップル編み、と言われていた編み方で、
ドイリー(花瓶敷きのようなもの)を編んでいた。
レース編み。今はすっかり廃れてしまって、やっている人も少なくなった。
私は長じてからはこういうこまごました手芸が嫌いになってしまったのでまったくやらない。
が、当時は女の人の趣味の一つで、大流行だったのである。
これができたら、叔母にあげたいと思って、私はせっせと手を動かしていた。

二日目。叔父は釣竿を三人分用意して、近くの池に釣りに行こうという。
叔父と兄と私の分。叔母は夕方の花見の準備で家に残る。
叔父の家の周りは住宅地といえどまだまだ開発されておらず、
少し歩くと、椿や楠などの繁る林や、日当たりのいい農道などがあって、
春の散歩にはうってつけのところだった。

植え付けのために掘り返された新鮮な土の香りがする畑の間の道をたどって、
やがて林の入り口にたどり着き、奥に踏み込んでいく。
まだ、落葉樹は浅い緑の芽を吹き出しはじめたくらいの時期だったが、
この地方に多い照葉樹は林の間につやつやした葉を輝かせ、
ボケ、ユキヤナギなどの灌木が花開いて、林はもうすっかり春めいていた。
雑木の間に、深い緑色をした水面が見えた。
湧水ではなく溜池だったろうか。

父に似て釣りの大好きな兄は、大喜びで早速釣り糸を垂れる。
叔父は万事のんびりしていて、私の釣り針に餌などをセットしてくれると、
穏やかな顔して、釣竿を構える。
池面は凪いだように滑らかで、果たしてどんな魚がいるものやら。
でも、叔父も兄も、別に何かを釣り上げようというのではなく、
のんびりした叔父甥の気楽な時間を楽しんでいるふうだった。

春の日差しがポカポカと温かく、林の奥で時折ウグイスが鳴いた。
私たちの背後には大きな椿の木が枝をさしかけていて、
小さめの真っ赤なその花が、私たちの足元にも散り落ちていた。
ああ、眠くなるような春の日……!

その日の釣果は一匹だけだった。
それも私が釣った!叔父でも、釣り好きの兄でもなく。
釣ったのは、赤い金魚!(笑)
誰かが池に放したものらしい。10センチにも満たない小さな赤い金魚。
しかもそれは、釣ったというよりは引っかけたと言った方が正確。
私の釣り針に其の金魚のえらがかろうじて引っかかっていただけなのである。
勿論すぐに池に放す。
三人は笑いさざめきながら夕方まだ早い時間だったが、叔母の待つ家に帰って行った。

そのあと少しして、だいぶ長くなった春の日が林の陰に隠れる頃、
私たちは叔母も一緒に、さっきの林に夜桜見物をしに行った。
釣りをしたところもそうだったが、この林には山桜がたくさんあった。
それを夜、見物に行こうというのである。
叔母はこの時のために朝から忙しく立ち働いて、豪華な弁当を作ってくれていた。
重箱三段に、野菜の煮物や卵焼き、私の好きなかまぼこ、焼き魚、
酢のものなどなど。

あまり奥に行くと帰りが大変なので、林の入り口に割合近いところの、
大きな一本の山桜の木の下で、用意してきたござを広げる。
着いたときは山桜の上にまだごくわずかの赤みを残す夕暮れの空が広がっていたが、
重箱などを広げて、叔父叔母と兄が酒を酌み交わし始めるころには、
あたりはすっかり日が落ちて暗くなっていた。
強力な懐中電灯と、カンテラ2個の明かりで、酒盛りである。
頭上には夜目にも白い山桜の花。

叔母の花見弁当はとてもおいしかった。
煮物などは母と同じ味付け。
ここで私は初めて、玉子焼きに海苔を巻き込んだものを食べた。
香り高い海苔を渦巻状に巻き込んだ玉子焼きは、見た目もよかったが、
何より、海苔の磯の香が香ばしく美味しかった。
そうして、私がさらに初めて知った美味がもう一つ。
それは、タラの芽の酢味噌和えとてんぷらである。

さっき、釣りの帰りに、叔父と兄が採っていたものはこれだったのか!
初めて食べたその春の山の味は、少しほろ苦く、酢味噌和え、てんぷら、どちらも
本当に美味しかった。

頭上に広がる、白い山桜の花と暗い夜空を見ながら、
私はしみじみ叔父や叔母、そして兄と過ごすこの一夜の幸せを想った。
誰に気兼ねすることもなく、誰に文句もない、それは極めて和やかな、
親密さに満ちた、春の一夜であった。


私はそれきり、この正之叔父と静子叔母には会っていない。
その2年後、高校を卒業した私は、東京に出てしまったからである。

話に聞けば、二人はその後、正之叔父の親せき筋にあたる私と同じくらいの年の
少女を養女に取ったそうである。やはり二人きりの生活は寂しいと思ったのであろうか。
本当は二人は、私を養女にしたかったらしい。
姉である私の母には4人の子がいたから。
でも、母がそんな話に乗るはずはなく、二人はその子を家に迎えた。
しかし大きくなって迎えた子。何かとその後問題があったらしく、
養子縁組は解消。
二人はまたもとの二人の生活に戻った。

たがいに音信をしないまま月日は流れて、30余年。あるとき、私はふとこの叔父叔母が
たまらなく懐かしくなって、二人に長い手紙を書いたことがある。
これも長く無沙汰を重ねていた長姉から、故郷の町に遊びに帰っておいで、という
やさしい手紙があるとき着いた。
その中に二人のこともちらっと書いてあったからである。
長姉だけは、二人と年始の挨拶などかわしてその消息を知っていたいたらしい。

その春の思い出がとても懐かしく幸せだったことの礼や、
高校をでてから以降の自分の消息などを書いた長い長い手紙を。
書いたは書いたが、想いが十分に伝わっていない気がした。
長年の無沙汰で、なんとなく心の敷居が高くなり、手紙を出してどうなるものかな、
というためらいもあった。
しかもその時現在の住所がわからない。
長姉にいつか尋ねて、またもっといい手紙を書きなおして、と思っているうちに、
静子叔母が亡くなったことを長姉から聞いた。
音信のない私のところにその知らせは来るはずもなく。
兄一家も知らなかったのではないだろうか。
ああ。ひょうきんで気さくな、やさしい叔母だったが。

出そうと思っていた手紙は、バインダーの中に挟んだまま、今もおそらく
本棚のどこかにそのままある。

ああ、なぜすぐに長姉に二人の住所をきかなかったかなあ。
叔父は警察を定年で辞め、二人はそれまでずっと一緒に勉強してきた書道の技を
生かすべく、二人で書道教室を開いて、子供たちを教えていたそうである。
子供たちに囲まれて和やかに過ごす二人の仲のいい姿が見えるようである。

手紙、届いていれば、どんなに喜んでくれたかなあ。
それとも、姪の一人である、長年音信不通の私のことなど忘れたかな。
いや、そんなことはないな。大喜びした二人から、きっと達筆の手紙が
すぐに帰ってきただろうな。
娘のことなど、孫のように喜んでくれただろうな。

ああ。自ら選んだ生き方とは言いながら、人と人との縁を大事にせず、
根無し草の心性を持って生きてきた自分の罪深さよ。
父を捨て、母に孝行せず、兄姉との交際も自分からは進んでしてこなかった私。

長姉からの便りでは、正之叔父も、2年ほど前に亡くなったそうである。
ほんとにいい叔父だったが…。
血のつながった叔母は亡くなっても、せめて優しかったあの叔父に、
悔やみの言葉と慰めを兼ねて、詫び状を出せばよかったな。


帰る日までに編みあげて叔母にプレゼントした美しい黄色のドイリー。
あれはどうなったかな。ずっと持ち続けていてくれただろうかな…。

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「静子叔母と正之叔父 ① 』  忘れがたきひと 其の五

毎年、今頃の季節になると思いだす懐かしい人がいる。

それは、母の妹、私にとっては叔母に当たる静子と、
そのつれあいである正之叔父のことである。

母は私が育った高原の村からまた更に山奥に入った村の出身である。
母は5人姉弟の次女。その母親が体が弱かったため、弟妹のお守りから
掃除洗濯炊事に至るまで、母と長女がまだ小学生の頃から二人で
手分けをしてやっていた。
だから小学校に行くのも交代。
明治末年に生まれた人。時代が時代だったとは言いながら、母は自分が半分しか
尋常小学校に通えていないことをよく残念がっていた。

その母がほとんど自分の子のように可愛がって育てたのが、末っ子の静子である。
静子叔母は美人ではなかった。美人ではなかったが、ひょうきんで明るい性格が
その口元あたりに表れていた。
正之叔父は警察官。私が知っていたころは警部補だったが、どのくらいの階級まで
行ったか知らない。渋みのある、立派な顔をした人だった。
その頃二人はいくつくらいだったろう。40代半ばくらいだったのかな。

叔父と叔母は、生涯愛し合いながら仲良く暮らした。
それは二人が又従兄妹の関係にあり、山奥の村で小さいころから殆ど兄妹のように
仲良く育ち、お互いの気心が、早くから知れていた、ということがあったかもしれない。
小さい頃から、二人は将来結婚するものと、おひなさまのように並べて周囲の者が
扱っていたのかもしれない。

二人の間には子供ができなかった。
仲のいい二人にとっては、それは大きな悲しみであったろう。
しかし、子供がいなかったからこそ、二人がお互いを頼み、生涯仲良く
過ごしたのだろう、ともいえるのである。

それは私が高校一年生から二年になる春、ちょうど今頃のことだった。
その一年前、高校入学とともに前のアパートを去って、私は母と、
前のブログで書いたことのある『沈丁花の家』を借りて、ある海辺の町に住み始めていた。
しかし、二人の生活を支えてくれるはずだった、兄からの送金は途絶えがち。
学費はただだったとは言うものの、母と私はまったく生活の糧に困ってしまった。

そこで二人はどうしたか。
アパートの少ない家財道具は一切売り払い、私は高校の寮に入れてもらうことにした。
学費だけでなく寮費も私は無料だったからである。
母は、風来坊の次女がその頃出産して助けが必要だったため、次女のいる
東京に働きに出た。兄は、瀬戸内海周辺の各地を転々として、肉体労働をして、
時々、思いついたように私にお金を送ってくる。
つまり、それでなくても、バラバラだった家族の、母と私の絆さえその頃は切れて
しまっていたのである。

『ハリーポッター』シリーズをお読みの方はご存知であろうが、
学校の寮は、春夏冬の休みになると、ほとんどの者が帰省して、
がらんと寂しくなってしまう。
ところが私にはもう帰る家さえない。
同室の者も帰省して、私は一人、寮で春休みを過ごすことを覚悟した。

そんなときである。
寮母さんが、電話がかかっている、と呼びにきた。
それは、離れて暮らす兄からの電話だった。
春休みの間、一緒に静子叔母たちの家に泊まりに行こう、というのである。
二人は私の寮のある海辺の街から、汽車で一時間半ほどの街に住んでいた。
私は寮から。兄は山口あたりから。叔母の家のある街の駅で落ち合う。

子供のいない叔父叔母は、私たちを大歓迎してくれた。
二人の住む家は、あれは警察官舎だったのかな。
真新しい平屋建ての家で、綺麗でこじんまりとした、居心地のとてもいい家だった。
間取りは3間ほど。静子叔母は美人ではなかったが、頭のいい、センスのいい人で、
自分の家を当時考えられる最もおしゃれな部類のインテリアで飾っていた。
ふかふかした皮張りの応接セット。洒落たシェードのついたフロアスタンド。
大胆な模様のカーテン。ガラス戸のついた本棚の中には、全集本や雑誌。
飾り棚の中にはコーヒーの洒落たカップやグラス類。棚の上には
当時のそうした応接間の定番ともいえる、ケース入りのフランス人形が。

帰る家さえない私には、その家は、まるで天国のようにも思えた。
叔母は気さくな人柄。叔父は物静かでやさしい人。
二人は精いっぱい私たち兄妹をもてなしてくれる。

最初の夜が明けて、朝、目を覚ました時は、瞬間どこにいるのかわからなかった。
が、ダイニングキッチンから、みそ汁のだしをとる香りが漂ってき、
同じ部屋で寝ている兄の背中が見えた時、ああ、叔母夫婦の家に来ていたんだ!と、
不思議な喜びが徐々に心に広がっていった。

私が起きたと見ると、叔母は笑ながら台所から出てきて、みそ汁の具にする
ニラを、庭で摘んできなさいという。
叔母の庭下駄を引っかけて、ささやかな、でも明るい庭に出ると、
縁側に沿った土間のヘリに、二ラが一列に生えている。
まあ、その朝の、豆腐とニラのみそ汁のなんと美味しかったことだろう!
あれが、生涯で一番おいしかったみそ汁だったのではないか、とさえ思える。
上手にとれただしに、香り高い白みそ。絹ごし豆腐を小さめの賽の目に切って、
今摘んできたばかりのニラを細かく刻んで、ぱっと散らして…。


[②に続く]


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彼岸花さん

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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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