『こころ』 「愛しき(かなしき)もの」その九 

日の暮れるのが早くなって、夕方少し出遅れると、
買い物をして帰るころはすっかり暗くなってしまう。

今日も、ほとんど暮れてしまったいつもの道を自転車で通っていると、
美容院の通用口にこんなものが置いてあった。

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この店の主人は園芸が趣味なのか、いつも、店先に綺麗な花を季節季節ごとに
とりかえては置いている。いわゆる『髪結いの亭主』で暇なものだから、
園芸に情熱を傾けているのかな、と思ってしまうのは失礼かな(笑)。
でも園芸の腕は玄人はだしである。
店は北向きに門口が開いているので、植物にとっては必ずしもいい環境では
ないにも関わらず、通用口の隅に置いた大きなプランターには、毎年
見事な大輪のバラが咲く。それも、灰色がかったピンクのバラとか、
変わったオレンジ色のとか、思わず見とれてしまうような変わり種のバラを咲かせる。
小さなプランターには今、パンジーの寄せ植えが見事である。

が、なんといっても、ここの主人が毎年最も力を入れているらしいのが、
菊の厚物咲きの栽培である。
写真に写っているようなのが、厚物咲き。
下の方の花びらが、少し垂れているのは、厚走り咲きという。

勿論、店先で栽培しているわけではなく、どこか別のところで春先から
丹精込めて育て、見事に咲いた菊の鉢を11月になると店先に何鉢も
運んできて、道行く人に見せるように並べるのである。

この厚物を栽培するのを趣味とする人は、昔から数多くいる。
毎年あちこちで菊花展が行われる、それに出品して、総理大臣賞だの
県知事賞だのといった賞を獲得することを楽しみと生きがいにしている人が
たくさんいるのだ。賞取りを目指すほどの腕はなくとも、自宅のささやかな庭先に
厚物や管物を育てて楽しむ人もまた多い。

その熱中が昂じて、賞を取れるか取れないかに躍起となり過ぎ、
同じ菊作り仲間が見事な菊を育て賞を取ったのをやっかんで、
相手を憎むということにまで発展することさえある、それほど奥深い趣味なのである。
作家中山義秀は、この厚物咲に入れ込む老人たちの葛藤や嫉妬を描いた
『厚物咲』で、第7回芥川賞を受賞している。
私は昔この作品を読んで、菊の厚物咲のことなどを知った。
緒方拳主演で映像化もされていたような。

それほど熱中する人の多い中でも、この美容院の主人の腕はなかなかのものなのでは
ないだろうか。
今年もいつのまにか店先を10数鉢の、厚物咲き、厚走り咲きが飾っていた。
私は買い物のたびにその前を通るのだが、主人の鼻高々な顔を想像し、
いつも微笑ましく思いながら花を鑑賞して過ぎる。
そうして、「そうだ!今度カメラを持ってきて、撮っておこう」と思う。
が、そのうちそのうちと思っているうちに、11月はあっという間に過ぎ、
美容院の店先の菊の鉢はいつか引っ込められてしまうのだった。

ところが、ここの主人。
本当に花を愛する人と見えて、一年間丹精込めて育てた菊花がしおれかけて来た時、
それを無残に捨てることが出来ないと見え、毎年、このように、
花先を短く切り取って、こうやってバケツに入れ、道行く人にさらに見せ続けるのだ。

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昨年の花を反省し、春先の苗作りから、一年かけて丹精込めて育て上げた花。
それが、枯れてきたからと言って、処分することなどとてもできず、
こうやって短く切って花に負担をかけないようにして、
もう少し長く、少しでも人に見てもらって花の命を全うさせてやりたいと願うこころ。
ここの人々はきっと、本当に心根の優しい、心根の可愛らしい人々に違いない。

短くなった大輪の花は、頭でっかちでとても可愛らしい。

去年も写真に撮ろうとして撮り損ねた。
明日の朝、と思っていると、また撮り損ねるかもしれない。
私は買い物をいったん家に持ち帰ると、デジカメを持って、また、
もう暗くなった道を、美容院までとってかえした。

一寸一言断ってからとも思ったが、店では女主人がまだ客の応対。
私は自転車を歩道に停め、菊の写真を数枚撮った。
ところが、フラッシュが、押してもいないのに、たかれたせいか、
中で私に気付いた風。
女主人が店から出てきた。

「すみません。あんまリ可愛いので、写真撮らせてください。」
私は頭を下げた。
女主人は、ぱっと笑顔になって、こういった。
「どうぞどうぞ。でも、写真に撮るだけでいいんですか?
よろしかったら、どうぞ、これ、お持ちください。」

えっと驚いたが、私は喜んで女主人の好意に甘えることにした。
いつも、店先の四季折々の花を通りすがりに楽しませてもらっていること。
今年も菊が見事だったこと。
そうして、花が終わりかけてもこうやって短く切って最後まで花をめでるこころに
いたく感動したこと。
そんなことを、花を作ったご主人にもよろしく伝えてくれるように頼んで。

頭でっかちの花を自転車の籠から落とさないよう気をつけながら、
いそいそと、すっかり暗くなった川べりの道を帰る。

家の前まで着くと、自転車を止めながら、いつもそうするように、ふと夜空を見上げた。
今日は雲が厚く空を覆っている。
ところがほんの一か所だけその雲の切れ間が出来ていて、そこから
半月より少し丸い月がちょうど覗いていた。
菊の花と同じ黄色い色をした月が。

「ああ、今日もいい日!」となんとなく思った。
昼間は素晴らしいライブの映像をDVDで観たし。

夕食の支度に入る前に、菊の花を花瓶に挿してやる。
私の手と比べても、その大きさがわかるでしょう。
実際は写真よりもっともっと大きい感じがします。

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私はこの子に名前をつけた。
その名は、「こころ」。
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『一粒の麦』 「忘れがたき人 其の五 」

「あのう。すみません。この電車は、N駅に停まりますかね。」
 
今からそう、10数年前にもなろうか。
その日私は、東京近郊のある駅のホームに一人でいた。
電車がホームに入ってくる。
降りる人がすむのを待っている。
と、私の横に立っていた初老の男性がそう、たずねかけてきた。

「あ、はい。停まります。」

男性は笑顔で会釈すると、私に続いて電車に乗り込んできた。
9月初旬のまだ残暑の残る頃であった。
電車は中くらいの込み具合。座席も探せば空いているという感じだったが、
私は基本的によほど長い距離でない限り座らないのを常としていたので、
その日も乗り込んだところを少し入った辺りに立っていた。
男性も、後ろから乗り込む人に押されたか、私の隣辺りに立っていた。
年の頃は70代初めというところか。
背は私とそう変わらないくらいだが、がっちりした体躯で、背筋がぴんとしているので
もっと若い印象が最初はした。

「どうもすみませんでしたね。」
男性が話しかけてくる。
「いいええ。」私は笑って会釈する。
「これからね。Nの町で入院している娘のね。見舞いに行くんですよ。」
男性はそんなことを静かに言った。
「ああ。それはそれは。どうぞお大事になさってください。」

それきり二人とも黙る。
郊外を走る電車。スピードが上がっていく。
窓の外は切りとおしの土手になっていて、車線区の職員が植えでもするのか、
マリーゴールドやサルビアなどの花壇がささやかに作られているのが
時折見え、それらがあっという間に通り過ぎていく。
私は吊革につかまって、電車の揺れに身を任せ、ぼんやり窓の外を眺めていた。
 
と、電車の窓を時々、真っ赤な色がかすめて過ぎていく。
何だろう。土手に植えられた何かの花なのだが。
そう思いながら、少し身をかがめて窓の外を注目する。

「カンナの花が咲いてますね。」
男性が言った。
ああ、そうか。カンナの赤い色か。道理で鮮やかなはず。
見ず知らずの男性だが、その一言で、少し気持ちが通った気がする。

それをきっかけに、男性は、見ず知らずの私にぽつりぽつりと身の上を話しだした。
男性は、かつて、日本陸軍の新兵の訓練をする教官だったそうな。
全国から集められてくる、ほとんど少年と言っていいような青年達の訓練を
やっていたのだそうだ。
「厳しい教官でしたよ。私はね。」と男性は自分で言う。
「内地にいる間に厳しくしつけておかなきゃね。すぐ、死ぬんだ。
戦場ではね。甘いことは通用しない。だから随分、生徒を殴ったりもしました。
恨みも随分かったでしょうなあ。
あの、カンナの赤い花を見るとね。訓練した奴らのことを思い出すんですよ。
昔は、あれがあちこちに植えられてましてね。
教錬場周辺にもあの、血のように赤い花が咲いていましてね。
そこでの基礎訓練を終えると鹿児島に送られていくんですわ。」
「そして、そこにあった基地でまた訓練をほんのちょっとばかし受けてから、
もう、少年のようなのが、特攻に行くんですからなあ。」

「鹿屋ですか。知覧ですか。」
それまでなかば当惑しながらも、黙って男性の話を聞いていた私は尋ねた。
「ほう。鹿屋、ご存じですか。」
男性は少し目を大きく見開いた。
「そうです。鹿屋基地。あそこから、私の生徒も何人もが飛び出していった。
そして戻ってきませんでした。私は内地にいて威張っていたばかりでね。
罪作りなことをしたもんですよ。」
「あの赤い花を見るとね。毎年、生徒の顔が目に浮かぶんですわ。」

私は黙って頷いた。
「私は大正8年なんだが、奥さんは大正何年生まれくらいかな。」男性が訊く。
「いいぇ。私は戦後の生まれです。」
私は苦笑しながら言った。いくらなんでもね。30近くも上には見えないでしょう。
「ほほう。」男性はあらためて私の顔を見直した。
「こりゃあ、失礼。知覧や鹿屋の名が奥さんの口から出たので、てっきり私は
戦中を生きた方かと。」


降りる駅が来たので、私は男性に頭を下げ、別れを告げた。
ホームを歩きながら、ちらっと電車の中の男性の姿を振り返った。
男性はホーム側には背を向け、まっすぐな姿勢のまま、ぽつねんと電車の中にいた。

今頃、少し自己嫌悪してるんじゃないかな、私はふと思った。
何を感じて、彼は見ず知らずの私に、ああも多くを語ったのだろうか。
恐らく、入院している娘に会いに行く、その不安や心配や当惑から
一種の興奮状態にいたのかも知れない。あるいは人恋しかったのかもしれない。

その病気の娘さんももう50代くらいにはなっている人だろう。
おそらく、父と娘はそうたびたび会う仲ではないかもしれない。
おそらくあの男性は、私に話したようなことを、娘に語ったことはあまりなかったかもしれない、
ふとそうも思った。

戦争の悲惨をみてきた者たちは、あまり多くを語りたがらない。
回りの者もあまり聞きたがらない。
そうやって話さずにいるうちに、戦争の記憶はどんどん風化していく。

男性と私は僅か10分ほどの間の出会いと別れであった。
勿論名前も知らない、もう顔も覚えてない。
でも、その時の男性の、し~んと冷たい心の内を、なんとなく私は忘れられずにいる。
本当に行きずりの人間でしかない私に、戦中の思い出を語ったその心を想う。
私が電車を降りた後の、苦い心を想う。
自分が送りだした若い兵士たちが、次々に戦地に赴き、ある者は
二度と帰ることがなかった。今は愚かな戦争と言われる、あの戦争に、
自分が加担していたという苦い想い。
もう老境に入りつつある男性は、それをずっと引きずりつつ生きてきた。
口ぶりからすると、かなり具合の悪そうな娘の病院に今から行く。
その屈折した思いが、ふと、赤いカンナの花をみた時に噴出したのだったか。

なんで、私が、知覧や鹿屋基地の名を知っていたかって?
そこから太平洋戦争末期、多くの若者が、帰りの燃料も積まない飛行機に
搭乗して、巨大なアメリカの戦艦に突っ込んでいった、いわゆる特攻基地であった
鹿児島県、知覧、鹿屋基地を、どうして戦後生まれの私が知っていたか。

ちょうどその頃、私はひそかに特攻隊のことを調べていたのである。
そのおおもとは、あのW先生がくれた『きけわだつみのこえ』にあった。

高校生の私が、愚かにも、「よくわかりませんでした」という情けない感想しか
述べることのできなかった『きけわだつみのこえ』。
戦没学生の悲痛な魂の記録。

それを私は、何十年もたってようやく正当に理解できるようになり、
その周辺のことを盛んに読んだり調べたりしていたところだったのである。

その勉強が何に結実した、ということではなかった。
書こうとしていた話は、途中で頓挫してしまったし、結果、何につながったということ
でもなかったのだが、あの時、W先生が、私の心に巻いた一粒の麦は、
私のうちで、数十年の後にようやく細い芽を出し、ひょろひょろながら強い反戦の意思と
なっていった、それだけは言えるかもしれない。

二度と若者を戦場に送りだしてはならない。
その想いは今も私の内に深く根を下ろしている。


  

『H先生のこと』 「忘れがたき人 其の四 」

私が高二の時の数学の担当が、前回書いたW先生。
彼に代わって、高三の数学を担当してくれたのが、H先生である。
「・・先生」といちいちつけるのもわずらわしいので、前回同様H、と書かせてもらおう。
Wは授業中、冗談一つ言わず、淡々と静かに教えていくタイプだったが、
Hはうってかわって、賑やかな明るい性格だった。
WもHも、歳の頃は同じ26,7歳くらいだったのではなかろうか。

Hは、いつも姿勢と威勢がよかった。
背筋がピンと伸びて、歩き方もWと違ってとても颯爽としていた。
髪は黒くまっすぐなのを、耳元、首筋の辺ではさっぱりと短く刈りあげていたが、
色が白いので、その刈りあげたところや顔の髭の剃りあとなどが、青く見えた。
その肌の白みも、何やら青みを帯びた白さで、
目が細く、その目の白目の部分までが、ときに青く光るように見え、
私はいつも、彼を見ると、「青大将」という言葉が心に浮かぶのだった。

彼はいつも、学内用のサンダルを履いていて、
(Wは、自分専用の学内履きを用意する気がないのか、いつも来賓用の
スリッパを流用していた)
そのサンダル履きの足ですたすた早足に廊下をやってくる。
小脇に教科書出席簿などを抱え、通り過ぎるそばから、近くにいた他のクラスの男子に
冗談でも言っているのか、笑いの渦を後ろに巻き起こしながらきびきびと来る。

Wが私達の高校に赴任してきたばかりで遠慮がちだったのに比べ、
Hの方は、もうベテランの雰囲気を漂わせていて、教えぶりも柔軟だった。
大事なところを簡潔に教えて、細かいところは手抜きをし、
あいた時間をエロ話に費やして生徒を笑わせる、と言った風。
毎回、ある程度授業内容が伝わったかな、と思うと、
あるいは、体育の授業の後で、生徒の集中力が欠けているな、などと見てとると、
エロ話タイムになる、といった具合。
生徒も待ってましたとばかりに、教室が俄然生き生きしてくる。
(断っておくが、Hという頭文字は、本当に彼の名前がそうだったからで。)

そのエロ話が半端なエロ話じゃなかった。
その当時はいまほど性に開放的な時代ではなく、性に関する用語などは
普通の人はあまりおおっぴらに口にしなかったものである。
ところが、Hはそんなことはお構いなし。
男子たちは、机をたたき、床を踏みならして大笑いである。
しかし、クラスにたった一人の女子である私は、もう居場所がないほどに恥ずかしかった。
その頃はクラスの男子ともだいぶうちとけて話せるようになってはいたものの、
あまり私と話したことのない男子などが、こっそり振り返って私の反応を見たりするのが
苦痛で嫌であった。
けれども、毎回のことなのでそのうちに私も慣れてくる。
いちいち顔を真っ赤にするということはだんだん無くなり、
時にはなんだかおかしくて、ぷっと吹き出したくなることもあったが、
笑っちゃおしまいなので、澄ました顔でうつむいて、嵐が吹き過ぎるのを待っていた。

今ならば、女子生徒が親に訴えれば、セクハラ教師として糾弾されるかもしれないところ。

しかし、Hの話はどこやらカラッとしていて、淫猥な感じはしなかった。
健康な大人の男性同士が、健康に性の話を楽しんでいるという感じがあった。
勿論Hは、クラスに一人の女子である私の反応を楽しんでいたに違いない。
悪い教師である。

三学期。卒業も間近になって、そんなHの最後の数学の授業の時がやってきた。
Hは生徒達に絶大な人気があったから、最後に彼が何を話して笑わせてくれるか、
みな、期待していたと思う。
意外なことに、授業時間の半分以上、Hは教科書の内容に費やした。
ああ、最後の授業なのに、このまま終わるのかな、と思ったのは
皆同じ気持ちだったのではなかろうか。
しかしやがてHはこれで終わり、ということを告げるように教科書を閉じた。
チョークをしまい、黒板を綺麗に拭いた。
いつも綺麗好きで、黒板などきちんと始末する人であったが、その日は特に
念入りであった。丁寧過ぎるのではないか、というほどに。
やがてHは生徒の方に向き直った。

さあ、最後のHによるエロ話タイムである。

ところが、Hはその日、いつもの猥談をとうとうしなかった。
Hが語って聞かせたのは、『女性の社会的地位』について、であった。

一人の女性がいる。
その女性が社会に出ていく。結婚をする。
そうすると、その女性個人の資質というもので社会はその女性を測らない。
結婚をした相手の社会的地位によって、妻の社会における地位も決定されてしまうものだ。
悲しいかな、まだそれが現在の社会の現実である。
だから女性は身を高め、自分を磨き、素晴らしい男性に出会うまで
安易にその身を捧げてはならない。

まあ、要約すればこんな内容の話であった。 
49人の男子たちは半ばぽかんとして聞いていたであろう。
それは男子生徒に送るはなむけの言葉ではなかった。
明らかに、クラスにたった一人の女子である私への、
Hからの最初で最後の真剣なメッセージであった。そう思っていいだろう。
いつもふざけてばかりいて、廊下で私とすれ違う時も、
職員室で何かの用事で顔を合わせても、何かくすぐったそうに眼だけは笑っているが
直接何か言いかける、ということも滅多にしなかったHの、
私だけにあてたメッセージでそれはあった。

今の時代ならば、これこそ女権論者からは総好かんを食らう発言であろう。
女性の個々の才能や資質で判断せずして、何で一人の人間を測るのか。
結婚した相手の社会的地位?とんでもない!それでは女は夫の全くの付属物。
こんな失礼な、女性を馬鹿にした物言いはない!と。

しかしながら、今、本当に、このHの忠告を、馬鹿馬鹿しい、と笑える時代になっているだろうか。
まだまだ。と、私は思っている。

私自身がどういう結婚をしたか、ということはここでは置いておいて(笑)、
私など、団塊の世代の女性たちは、あれだけ新しい文化の波に洗われながら、
案外古風な価値観、結婚観でその後の人生を生きた者が多いのではないだろうか。
夫の社会的地位によって女がランク付けされ、また母親としては、
子供の出来の良さで、父母会での肩身の広さ狭さが決定するという人生を。
それは、Hが言った通りなのではなかったろうか。

いや、古い人間だけではなく、今でもそういうことは厳然として消えずにあるのでは
ないだろうか。社会の中に。むしろ女性自身の意識の中に、それは根強く
残っているのではないだろうか。
一時、女性の総合職などの話題が社会を賑わせ、女性の独立心が高まったように見えた
時代があった。しかし、今、若い人の間に意外にも、他人から見て条件のいい結婚を
早くして落ち着いてしまいたい、という願望が広まっているようにも見えるのだがどうだろう。

私自身は、男女が真に対等であることを願うものである。
男女の体の機能の相違による不平等は一部いたし方ないところもある。
しかし、根本の精神の在り方において、男女は平等でなければならないと思う。
お互いが尊敬し合い、その「性」の機能の特質を生かしながら、
真に信頼し合ってこの世界で生きていくべきであると思う。
だがしかし、ジェンダー論は、この記事の主ではないので、ここでやめておく。

Hの最後の授業は、そんな風に終わった。
私は、しばらくうつむいたままでいた。
Hに何か一言、気持ちを伝えたかった。
メッセージ、しっかり受け止めました、と言いたかった。
とりわけ、「自分を磨け」というメッセージを。

ちょうどその日刷り上がった卒業文集に、Hが柄になく真面目に、
自分のデジャヴ体験の不思議さについて書いている文章を読んだばかりでもあった。
「人に話しても、自分と同じような経験をしたことがあるという人にあまり出会わない。
これは自分だけの経験なのだろうか」
そんなことが書いてあった。
私もそのずっと以前から同じような思いを抱いていたので、それについても一言
「私もです」と話がしてみたかった。

しかし、私はHに、とうとう自分の気持ちを伝えることはしないで終わってしまった。
Hは常の授業なら、生徒と少し雑談などして笑わせてから、教室を出ていくのであったが、
その日に限って、最後にHと話をしようとわっと群がった男子生徒達をかき分けるようにして、
さっさと教室を去って行ってしまったのである。
あとを追いかけて話しかけるほどの勇気は私には無く、
職員室にHを訪ねることもしなかった。

考えてみれば、Hとは一度も個人的に話をしたことはなかった気がする。
数学の答案を返してもらう時に、一言だけ、感想があったくらいだろうか。
Hとはそんな、ただ淡い、一教師と一生徒の間柄だった。
ただ、その猥談のすさまじかったことや、とりわけ最後の日のメッセージのことが、
学校の長い廊下をいくそのきびきびとした姿や、
「青大将」というひそかに私が付けたニックネームと共に、
今も私の記憶の帳の向こうから、時たま現れ出でることがあるだけ。

一言お礼を言いに行きさえすればよかったものを。
勇気がなく、さばけない女子高生であった私は、
こんな風に、HにもWにも不義理をしてしまった。

W先生とH先生。
性格も雰囲気も全く正反対の二人。
だが、二人はとても仲が良かった。








     

『W先生のこと』 「忘れがたき人 其の三」

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ぼろぼろになってしまった一冊の文庫本。
中原中也詩集である。

これを私にくれたのは、私が高校2年の時の数学教師である。
今からもう45年も前のこと。

私は地方の、ある工業高校に通っていた。
その学校は、生徒数4千人というマンモス校。
私の学年は25組まであって、クラス編成は成績順に行われていた。
その関係もあって、なんと私は高校の3年間クラスに女子一人。
男子生徒ばかりの中に女子一人ならば、さぞかしもてるだろう、と思われるかも知れないが、
実際はその逆だった。私が堅い殻をかぶっていたということもあるかもしれないが、
何より、私に誰も話しかけて来ようとしないのである。
1クラス50人として、その49人の男子の誰も私に声をかけようとしない。
入学したてのころは、それでもぽつりぽつりと話しかけてくる子はいた。
私が返事をする。男子の声域の中に突如、私の細いソプラノの声。
すると、クラスのざわめきが一瞬止まって、後の48人が一斉にこちらを見る。
話しかけてきた子は、バツが悪そうに自分の席に戻ってしまう。
そんな事が続いているうちに、だあれも私に話しかけてくれなくなってしまった。
何か男子皆で申し合わせでもしたかのように。
私がこちらから皆の中に飛び込んでいけばよかったのだろうが、
私はそれでなくとも引っ込み思案。
一日中、誰とも話さず、一人で休み時間を過ごし、一人で弁当を食べる、という
寂しい高校生活が一年半続いた。

その頃のことである。
ある放課後、職員室の前を通りかかると、ちょうど中から出てきた数学の若い教師と
ぶつかりそうになった。
W先生という。
Wは、私のいた工業高校では異質な感じのする教師だった。
私立の工業高校。私のクラスはそうでもなかったが、結構柄が悪い生徒も正直言って
多い学校だった。だから教師は、それを抑えられるような人間でなければならない。
つまりまあ、教師もこわもてのタイプが結構多かったと言えよう。

そんな中、Wは全く学校の雰囲気と違うものを持っていた。
国立Q大を卒業していたWは、うちの学校とは何か違う雰囲気をその身に
漂わせていた。ひょろりと痩せていて、顔色が青白く、というよりはいつも血の気のない顔をして、
それなのに唇だけが妙に赤いのが印象的だった。
髪は漆黒。癖っ毛なのかいつもウェーブがかかって、それが濡れたように額や首筋に
垂れている。顔は綺麗な顔だった。
男なのだが、俳優の故田宮二郎の夫人の藤由紀子にどこか似ていた。
すうっと筆で一筆書きにしたような三日月形の眉に、半月形の、大きな涼しそうな目。
そうして唇だけが赤い。

普通ならば、ハンサムで通ったかもしれないのだが、歩きかたや何かがその
いいところを帳消しにしてしまっているようなところがあった。
胃でも悪いのか、彼はいつも、胸のあたりを手でさすりながら、
廊下をひょろひょろと歩いてくる。
真っすぐ歩けないくらい、その足取りは弱々しかった。
「ああ~!」と声に出して不調を訴えながら、教室に入ってくることもある。

授業は、静かな授業であった。
そんな弱々しそうな教師ならば、悪い盛りの高校生たちがからかったりしそうな
ものだが、あまりにもいつも具合が悪そうなのでかえって労られたか、
それとも、Wには、なんとなく、こんなところにいる先生ではない、というような
雰囲気があったか、授業は盛り上がりはしなかったが、淡々と進められていった。
数学の説明の仕方も簡潔で無駄がなかった。
授業が終わって、また廊下を去っていくときは、本当にもうすぐ倒れて
死んでしまうのではないかと思うくらい、ふらふらしながら頼りなげに歩いていく。

そんなWが、その日、職員室の出口でぶつかったのが私と気づくと、
「あの~、ガリ版刷るの手伝ってくれませんかねえ。」と言った。
何も用事があったわけではなかったので、私はWの後について職員室に入り、
Wが数学のプリントの原紙をガリ版で切ったのを、何種類か印刷するのを、
かれこれ1時間ほど手伝った。
  
作業を終わって、私が挨拶をして退出しようとすると、
Wは、自分の教卓の上の本棚から一冊の本を抜き出して、
「よかったらこれ、読んでみますか。」と私に差し出した。
それは『きけわだつみのこえ』であった。

『きけわだつみのこえ』というのは、太平洋戦争中に戦死、もしくは従軍中に
病死した、戦没学生たちの手記である。
志をたてて学問をしていた青年たちが、戦況の悪化につれて、
兵役猶予の特権も剥奪され、学業半ばにして、戦地に赴き、
ある者は特攻隊員として、南方の海に散り、ある者は
奥知れぬ中国戦線に送りこまれて、厳しい行軍行軍の途中で病を得て
異国の地で病死する。
そういった戦没学生たちが書いた、家族友人への手紙、日記、遺書などを
集めた、痛ましい青春の記録である。

Wはそんな重い内容の本を、どうして私に貸そうとしたりしたのだろうか。
工業高校の、理系の男子ばかりの中にあって、クラスにたった一人、
いつもぽつんと黙っている私の中に、文系人間の魂を見てとりでもしたのであろうか。
一人ぼっちでかわいそうに、という同情であったろうか。

いずれにせよ、Wが私に何らかの読後の反応を期待していたことは確かだったろう。
ところが私は、その本を、長い間、読まずにうっちゃっておいたのである。
中味の凄さを感じないわけではなかった。が、あまりにも重く、
また、その頃社会のことにあまり関心も知識もなかった無知な私には
戦争で空しく散っていった学生たちのいのちの叫びが耳に届かなかったのである。
最初の20ページほどは読んだのだったろうか。
ところどころ拾い読みしたかも知れない。
が、完全には読まないまま、3か月ほども私はそれを借りっぱなしにした末に、
ある日、職員室のWにそれを返しに行った。

Wはいつも通りの、けだるげな様子で本を受け取ると、
「どうでしたか」と一言、静かな声で訊いた。
本をよく読んでいなかった私は、困ってしまって、
しばらく絶句した挙句に、
「はあ・・・・。あんまりよくわかりませんでした」
と答えた。

「わからなかった?」
Wは、瞬間、ぱっと笑って言った。
「ふうん・・・」
と私の顔を見つめる。
私はその、「ふうん」の中に込められている落胆を感じとって思わず顔を赤らめた。

「それじゃね」
Wは回転椅子をくるりと回して、机の方を向くと、今度は引き出しから
一冊の文庫本をとりだして私に渡した。
「これはどうかな」


その時Wが渡してくれたのが、ここに写っている中原中也詩集である。

この詩集の方は、私は一応ほぼ読んだ。
字面をぱっと見て、これは好きでない、と思ったものを飛ばしながら、という
読み方ではあったが、ちょっといいなと思うものは何回か繰り返し読んだ。
「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というリフレインが印象的な『サーカス』や、
「人には自恃があればよい!」の、『少年時』の中の一編とか、
『寒い夜の自画像』とか。

中也の詩について、私はWにちゃんと感想を言ったか。
言わずに終わってしまった。

高二の秋も深まった頃から、私は生徒会活動をするようになった。
クラスでは、Kという転校生が私の組に入ってきて、
Kは、クラスの男子の間に成立していた、私には話しかけない、という暗黙の了解を
知らなかったものだから、あるいは気付いていてもまったくそれを無視して、
転校の日から私にすぐに話しかけてきた。最初のうちKを揶揄していたりした他の男子も、
そのうちそれに倣うようになり、Kの影でお蔭で、私はぽつぽつと、
他の男子とも話ができるようになっていった。
クラスが終われば、生徒会室に直行。そこにはやはり生徒会役員になっていたKもいたし、
他のクラスの女子で、その後無二の親友となったFとも知り合ったりして、
私はようやく高校生らしい、活発な生活に入って行っていたのである。

一度、本のことをWに言ったが、Wは「ああ、急がなくていいですよ」 と言っただけ。
そのうち学年が変わって、Wは私達の数学の担当ではなくなり、
私は中原中也詩集を借りたまま、最終学年の冬を迎えてしまった。
私はその頃までには就職が決まっていて、3学期の最終試験が終わればあとはもう
卒業式の日まで学校に来なくなる。
今のうちに本をWに返さなければ。

ある日私は、職員室にWを訪ねた。
「これ、長いことお借りしていて」と、中也詩集を差し出す。
Wはにこっと笑って、
「いいですよ」と言った。
「それ、差し上げますよ。持っててください」

Wは私に詩集の感想をもう訊かなかった。
私も、何も言えず、頭を下げて、Wの前から引き下がっただけだった。
「ありがとうございます。じゃ、いただきます」と言えただけ。

そうして私は卒業式の日を迎えた。



それから、およそ20年経って。
娘が中一の夏休みの宿題に読書感想文が出ているが、何を読もうか、と相談してきた。
私は、『きけわだつみのこえ』を書棚から取り出して彼女に渡した。
私が何かの折りにふとWのことを思い出し、書店で買って、そのあと何回も読んだ本である。
20年の間に私も少し成長して、その本が、戦時のいたましい青春の、
稀有の魂の記録である、ということがわかるようになってきていた。
中一の子にはきついだろうな、とは思ったが、私が補足説明をしてやれば、
娘にもなにがしかは理解できるであろうと思った。
理解してほしいと思った。

娘がそれで何を得たか得なかったかはわからない。ただ読んだ、それでいいと思っている。
一粒の種でも心に蒔けていれば。

中原中也詩集は、彼女のものになった。
私も、何回か読んだ。娘と私で好きな詩が違うのが面白い。
だいぶ読みこんだようで、裏表紙は取れて無くなり、
セロテープの補修の跡も今は朽ちかけている。
中には娘の字で何やら書き込みがしてあったりする。
こんなところに共感している!と、親としてはっと胸を突かれるような詩に、
傍線が引いてあったりもする。
本の隅っこには緑色の絵具がこびりついている。

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ああ、W先生!
私はどんなに教師のあなたをがっかりさせるような駄目な生徒であったことでしょう!
こんな素晴らしい本を2冊、思春期の私に差し出し与えてくれたのに、
愚かな、幼い私は、なんの反応もあなたに返さなかった!

でも、W先生! 
私は自分の子供に、伝えましたよ。
私のところで実を結ばなかったあなたの教育は、
間接的に、私の子供のところで、小さな実をつけたのではないかと思います。
3代の手に渡ってこれだけ読み込まれれば、
そうしてなにがしかの影響をその心に深く残せれば、
一冊の本としては、充分にその命を全うしていると言えないでしょうか。

先生は今も御存命でしょうか。
細い細い体を、よろよろさせながら、長い廊下を遠ざかっていくW先生。
あなたはどういう人だったのでしょう。
どんなことを想い、何を考えて、あの、巨大な、ある種殺伐とした雰囲気の学校で、
若い日々を教師として過ごしていたのでしょうか。



 

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『次姉の贈りもの②』 「忘れがたき人  其の二」

前の記事で、次姉と義兄から贈ってもらった文学全集のことを書いた。

実はこの姉からは、その二年ほど前に、もう一包みの贈り物を受け取ったことがある。
それは私が中学2年生の時のことであったと思う。
女ながらに風来坊の気質の大変に強かった姉は、その頃はもう、家を飛び出て、
一人東京に出ていた。
電話などまだ普及していなかった時代。手紙が唯一の連絡手段だったのだが、
姉からはしばらく何の音沙汰もなかった。

「あいつは今頃どっかで野垂れ死んどるかもしれん。」
年の暮れも近いある冬の夜、母子3人の四方山話の中に姉の話が出ると、
兄が吐き捨てるように言った。

兄と姉は2つ違い。二人は幼い頃から喧嘩をしながらも、心は通じ合った兄妹だった。
二人並んで歩けば、年周りから見て恋人同士のように見えたのに違いない。
ある夜繁華街の裏通りを歩いている時、明らかにチンピラやくざと思われる数人に、
二人がからまれたことがあった。
昭和30年代初め。まだ日本の大方の人は貧しく、大学を出ても職はなく、
まして何かの技術でももたない若者には働く場はなく、若者が
すさんだ心を抱いていた時代でもあった。
売血などということがまかり通っていた時代である。
今の人は知るまいが、今のように献血制度というものが確立する前、
手術などに要する血液を血液銀行が金を払って買い取っていた時代があった。
働き口のない人間は、血を売ってなにがしかの金を手に入れ、糊口をしのぐ、
そんなことのまかり通っていた時代である。

人気のない裏通りを恋人同士が歩いてくる。
ちんぴら達のすさんだ心に、火がつく。
兄と姉は彼らに取り囲まれた。
実は兄は柔道と空手をかなりやっていて、腕に自信はなくもなかったと思う。
妹を守るためになら、ボロボロになっても戦ったであろう。

兄が体を身構えたその時、姉がいきなり、
「痛たたた!」と大声を出して、その場にうずくまった。
まだ何もしていないのに、いきなり若い女が大きな声を出してお腹を抱え込み、
蹲ってしまったので、チンピラ達は一瞬ひるんだ。
姉は素早く履いていた両足の下駄を脱いで手に取った。そうしてそのチンピラ達に
下駄の歯のある方で打ちかかっていったのである。
その頃は、サザエさんの漫画を読んだことのある人なら見たことがあるかもしれないが、
洋服を着ていても、足元は2枚歯のついた、堅い木の下駄を日本人は履いていた。
その堅い下駄の歯で、姉は、チンピラ達を次から次へ殴ったのである。
陸上競技の短距離で県2位をとったこともあり、槍投げまでやっていた敏捷な体。
恐らくそれは目にもとまらぬ早業であったに違いない(笑)。

しかし長居は危ない。
ちんぴら達が一瞬度肝を抜かれている間に、同じように呆然としている兄の手を
強く取ると、姉は脱兎の如くその場を逃げ出したのである。
もうチンピラ達の追いかけて来そうもないところまで来ると、
二人は腹を抱えて大笑いした。

兄と姉はそんな兄妹であった。
兄が行方も連絡して来ぬ姉のことを心配していないわけがない。
それでもどうしようもない姉のやさぐれぶりを兄は半ばあきらめていたようである。

さてその暮れ近い頃のある日。
姉からいきなり届いた荷物は私宛てだった。
クリスマスが近かったので、姉はそのつもりで送ってくれたのであろう。
一緒にまだ家で暮らしていた頃も、姉はほんのたまに、
小さい妹の私を連れて、デパートなどに行くことがあった。
と言っても買ってくれるのは、便せん一つ、などというささやかなものであったが。

ところがその送られてきた箱の中には私の見たこともないようなものが細々と入っていた。
おそらく東南アジアのどこかで作られたのであろう、白檀の木を薄く切って作った扇。
一枚一枚の木には繊細な透かし彫りが施してあり、強烈な香木の匂いがする。
今でこそ、100円ショップでさえ、まがい物の似たようなものが売られているけれど、
当時の子供の私など、見たことも嗅いだこともない、珍しくまた美しい扇であった。
扇はもう一本。これは本当の舞扇。藤間流のものであったと思う。
姉は東京で水商売をしていたから、踊りの真似事でもしていたのであろうか。
美しい舞扇を田舎の妹にも一本、と手に入れてくれたのでもあったか。

外国製の素晴らしい香りの石鹸が数個。やはり外国製の缶入りのお菓子もあった。
見たこともないような綺麗な模様の紙ナプキンの束が数種類。
なんだかほのかに香る、美しい便箋と封筒のセットもあった。
他にも何かこまごまと箱に詰めてあったのだが、あとは覚えていない。
そうそう。なぜかどこかの製薬会社の緑色の小さなカエルの人形まで入っていた。

私がどれほど嬉しかったか。

実は姉はその頃、外国航路の飛行機のパイロットと付き合っていたのである。
贈り物の多くは、その彼から貰ったものであったろう。
姉の恋の始まりはいつも素晴らしいけれど、大抵その恋は実らずに終わっていた。
姉の飽きっぽい、そして喧嘩っ速い性質の故もあったろう。
そのパイロットともいつか別れたらしく、私に贈り物を送ってきたあと
またしばらくして姉の所在は知れなくなってしまった。

そうしておよそ二年が過ぎて、姉はM兄と結婚して里帰りしてきたのである。
そこからのことは前の記事に書いた通り。

この時のプレゼントの嬉しかったことも私には忘れがたく、
そののち、私が誰か幼い者に贈り物をするときは、
高価ではなくとも、こまごました可愛いもの、珍しいものを
いろいろ選んで、綺麗な箱詰めにして送るのが常になったのは、
この時の嬉しかった思い出があまりにも鮮やかなゆえである。

しかし、姉のようには相手の好きそうなものを選ぶセンスが私にないのか、
それとも、受け取る側に、かつての私のように感動する心が薄いのか(!)、
いま一つ劇的な喜びの表情を見ることがかなわないことが多い。

おかしいなあ。選びに選びぬいて箱に詰めているんだがなあ。
子供の見たことのないようなものを探して入れてるつもりなんだがなあ。

今の子は瞬く間に全部開いてしまうのである。
一つ一つ愛しんで包みを開くということをしない。
ガサガサガサガサ、包みを開けて少し喜んで、あっという間に飽きてしまう。
なんだか余韻がない。
そうして、それを見ている親も、「あとは明日のお楽しみにしようか!」とにっこり笑って
子供に我慢の楽しさを教えることをしない。


ああ、貧しくても、昔の私の方がなんだか幸せだったような・・・・・・・。

また、贈り物の季節がやってくる。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『次姉の贈りもの①』 「忘れがたき人  其の一」

私には、ぐれてしまった姉がいたということを、『口紅』の記事で書いた。
この姉は次姉で、私とは9つ違い。
糞真面目な、どちらかというと優等生タイプだった私と違い、
高校を一年もたたぬうちに中退し、それからは母や私の住む家と、
田舎で一人暮らす父の家とをふらふらして行ったり来たり。
高校の頃は化粧気一つ無しの真っ黒な顔で、陸上の槍投げなどをしていたが、
家出を繰り返すうちに水商売で生きることを覚え、
以降はほとんど水商売で生きて行った女である。
午後4時すぎ。湯屋から戻ってから、鏡台の前で化粧を始める。
浅黒い肌も肌理は細かく、おしろいを塗ると、見違えるような血色になる。
もともと切れ長の涼しげな目にアイラインをすっとひく。
そうすると、さらでも涼しげな眼差しが、一種凄味を帯びた美しい女の目になった。
仕上げに確かに口紅は塗っていたのだが、不思議にその色の印象がない。
おそらく、目の鮮やかな印象が、口もとの印象を消していたのだろう。

中学の頃から陸上をやっていた体は、小柄だが、肉が締まって、
手足の先の動きがなぜか綺麗な人だった。
その体に涼しげな夏着物をさらりとかけて、献上博方の帯などを締めて、
鏡の前で振り返って帯の具合をみる。
妹の私さえ惚れ惚れするような、いい女の出来上がりだった。

兄と私は勉強が好きで、母方につき、
この次姉は勉強嫌いで、どちらかというと、父方についていた。
しかし頭が悪かったわけではなく、むしろ記憶力などは兄妹中で一番よかった
かもしれない。彼女の高校の時の風景のデッサンをつい最近まで
私が保管していたのだが、どこか見当たらなくなってしまった。
しかしそれは、高校に入ったばかりの娘の絵にしては驚くほど達者で、しかも
描き慣れているゆえの大胆な筆致で描かれていた。

アイラインをすうっと目元に描く時の手際の良かったこと!
歌も上手かった。

要するに、色々な可能性を身の内に秘めていた女であったと思うのだ。
しかし家が瓦解し、家族がバラバラになっていくときにちょうど思春期を迎えたためか、
それとも本人のやはりそういう気質なのか、高校一年で早くも人生の道を
踏み外してしまった。

本人も水商売ばかりやってはいられないと、準看護師の資格をとろうなどと
勉強しなおしていた時期もあったが、飽きっぽい性格。そしてやはり、
高校に数カ月しか通っていない、ということがネックになって、
水商売以外の道を選ばないことになってしまった。

キップがよく、色っぽいので、当然男たちにはもてた。
いったいいくつ恋をしたろうか。
私が少女の目で見届けた恋愛だけでも、結婚の寸前まで行った恋愛が2回。
しかし、結婚には至らない。相手の家族の猛反対を食らうからである。
男性の趣味は、自分にないものを欲したか、家庭もよく学歴の高い、
真面目な青年ばかりを好きになっていた。
だからまた、相手の家族から結婚に猛反対もされたのである。

したたかと言っても20歳を過ぎたばかり。傷つきもしたろう。
やけになって多くの男たちと遊び歩いたりするようになった。
妊娠中絶、自殺未遂などを繰り返すようになる。
母も兄もその頃は姉のことは半ばあきらめていたと思う。
私は小学校5年か6年。
ふらりと帰ってきては、またふらっと出て行ってしまう姉はよその人のようだった。

その姉が、一人東京に出て行ってから3,4年ほど経った頃。
いきなり結婚相手を連れて東京から戻ってきた。
姉、25歳の時である。
相手は東京の大手出版社に勤める真面目なサラリーマンだった。
ふわっと人を包み込むような柔らかい雰囲気を持った人で、
おっとりとした話し方、シャイな笑顔が魅力的で、高一の私などは会った途端に、
その人を兄と認めたくらいであった。
何より、あの、怒ったりするとあばずれのような激しい啖呵を切ったりする姉が、
すっかり飼いならされて、いい奥さんぶりになっているのには、母も私も
仰天してしまった。

姉は水商売の頃とは違う美しさになっていた。
東京の水に洗われて、M兄と呼んでおこう、義兄の愛に包まれて、
女らしさが匂いたつように綺麗だった。

姉と義兄が東京に戻っていってからひと月ほどして、
母と私がつつましく暮らす6畳一間のアパートに、思いがけず大きな荷物が2つ届いた。
姉と義兄からの届けものであった。
宛名は高校一年生の私。
何だろう・・・・

急いで大きな箱を開ける。
中から出てきたのは、日本文学全集と、世界文学全集であった。
赤が世界、緑の外函と表紙が日本のだったかな。その逆だったかな。
それぞれ2、30冊づつくらいはあったと思う。

私の嬉しかったことといったら! 

小さい頃から本を読むのは大好きだったが、経済的な理由で
自分の本を持つということはままならなかった。
自分の、どころか、家に大体本などほとんどなかった。
その私に?こんなにたくさん。しかも、まだ紙の香も新しい、
美しい全集が?
これが全部私のもの?

大手出版社に勤める義兄が、妹になった私が本を読むのが好きと聞いて、
社内購入してくれた、義兄と姉からの、心のこもった贈り物なのだった。
私がすぐその場で、一冊読み始めたのは言うまでもない。

ああ、あの時はほんとに嬉しかったなあ。
貧しい私の唯一の、そして最高の宝物と言ってよかった。


M兄と姉は残念ながら、男の子一人を上げながら、数年後に離婚してしまった。
勿論、姉のほうが悪かったに違いない。
派手で金遣いが荒く、気性の激しさは、ヤクザ数人にも一人で大啖呵を切りながら
向かっていくほどの荒さであったから。
男の子は優しい義兄が引き取った。

その後の姉は転落の一途をたどって、今は音信不通である。
生きているのか死んでしまったのかさえわからない。
あんなに綺麗な人だったのに。
キップの良さ、粋なこと。ほんとにいい女だったのに。

本はどうしたか?
それから母と私は住居を転々と変えたが、他のものは捨てさってどんどん生活を
切り詰めていっても、この世界と日本の文学全集だけは、私が大事に大事に
引っ越し荷物の中に入れた。
というより、これらが一番の大荷物であったほどだ。
今、それらは、私の兄の家の応接間のガラスの飾り棚におそらく今もある。
さすがに東京に出てくるときには持ってこれず、兄に預けてきたのである。
今度電話したとき、その所在を確かめようか。
私にとってどういう思い入れのあるものか知らない兄一家の者がもう
処分してしまっていなければいいが。

ああ、M兄さん!お元気でいらっしゃるだろうか。
短い間の姻戚関係ではあったが、あなたが、義妹の私に示してくれたこの温情。
それがどれほど若い私の血となり肉となっていったか! 
全く、むさぼるように、次々と読んでいったものである。
世界の、そして日本の文学の概観を掴ませてくれたのも、これらの本であった。

そして、姉さん。あなたはどこでこの冬を迎えるのだろうか。家族に囲まれて
貧しくとも暖かい冬を元気に越してくれればいいが。

4人兄妹。他の3人がそれぞれにずるいところも身勝手なところもあるその中で、
この次姉が一番心がまっすぐであった。そして一番情に厚かった。
それなのに、その人生は早くから狂ってしまった。

でも、あなたがくれた、人生の素晴らしい贈り物。
この私の忘れえぬ大事な宝です。

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*この本は、その時のものではない。
 こんな感じの紙函と本の体裁だったよなあ、と懐かしく古書店で買ったもの。
 田宮虎彦集である。
 見開きになっているのは、私の好きな短編『足摺岬』のページ。

 私は今年、嬉しい贈り物を2回もらった。
 昨日も。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

『このブログをお訪ねくださる皆さまへ』  

しばらく更新していなかったので、ご心配おかけしているかもしれませんが、
彼岸花は元気でいます。

いつも、ご訪問いただきます皆様、ありがとうございます。
自分の勝手で、折角コメントをいただいてもお返事差し上げない、
彼岸花とお話しなさりたいときには拍手ページから入っていただくなどの
お手間をおかけし、いつも本当に申し訳なく思います。

コメントへの返事は、皆様のところへお訪ねし、そこに大抵の場合、
非公開コメントとして書かせていただくようにはしておりますが、
自分のところの返事を、そちらさまでさせていただくのもどうかなあ、と
日々心苦しく、また、迷い惑いしつつおります。


『男の人の声、女の人の声』 「愛しき(かなしき)もの」その八 

演劇を志す者にとって、また、製作者や劇団など俳優を選考する側の人間にとって、
何が俳優として大切な資質と考えるか、というと、
「一に声、二にも声。三、四がなくて五に姿」と俗に言われる、とういうことを
聞いたことがある。
それは本当かどうかはともかくとして、「声」というのは本当に大事だ、
と、演劇関係者でも何でもないが、私も常々思っている。

ただし、私の場合はプロの世界に生きているわけではないので、
「声の質そのもの」はそう問題にしない。
声の質は、遺伝的な要素や、その人の環境、体調などによって、
本人にはどうしようもないところが多いと思うので、
「あの人の声は好き、とか、あの人の声は嫌い」などというと、大変失礼なことになるであろう。
現に私自身の声だって、そう人の耳に快い声とは言えないかもしれないので、
偉そうなことは言えない。

では、ここで「声」に関して何を言いたいか、、というと、それは「声の出し方」
あるいは「話し方」ということになろうか。
ただしこれも、その人の肉体上の要因からくる発声や、話し方の善し悪しは問題としない。
私が問題としているのは、声を発する時の心のありよう、ということである。

遠回りなことを言っていても仕方ないので、私がこの記事を書くきっかけとなった、
悪い例、いい例、と思うものをここで挙げよう。

まず、悪い例。というより、私が、ああ、いやだな、と思う例。
最近、サッカーや野球などの国際試合を日本で開くと、試合開始の前に
双方のチームの国歌を、どうやって誰が選出するのか知らないが、
いわゆる「歌手」と呼ばれる人に歌わせることが多くなった。
昔はブラスバンドが演奏するだけであったのだが、アメリカの真似か、
最近は日本の「君が代」も、歌手がア・カペラで独唱することが多い。

ポップス界や演歌界で名の通った歌手が歌うのだが、大抵の場合、
これがひどくお粗末である。
「君が代」という歌を国歌と考えるかどうかについてや好悪についての議論は置いておいて、
「君が代」という歌自体は、私はなかなかいい歌だと個人的には思っている。
ところがこの歌の荘重な感じを消してしまうような歌いっぷりが非常に多い。
変にアクセントをつけて歌ったり、ただがなりたてているだけで、
その歌の意味を考えて歌っていると思えないような歌い方があまりにも多いのである。

大きな国際試合の始まる前に独唱するのだから、歌手が自分色を出したい気持ちは
わからなくもないが、歌自体の心をすっかりぶち壊しにするような歌い方は、
やはり、やめてほしいなあ、と、古い人間の私などは思う。
国歌を実験的に歌いたいのなら、別のところで個人的にやってくれ、と言いたくなる。
2,3か月前のサッカーの試合の前にあるロックグループの歌手が「君が代」を
歌ったが、ひどかったなあ。
ただ大声で、がなっているだけ、という感じ。
ロックだから駄目だ、といっているのではない。
そこに何の感動も感じさせないような、心の入ってない歌い方はやめてくれ、と
言っているのである。ロックならばこその、素晴らしい解釈を見せてくれ、と
言っているのである。

総体において、日本人の声の出し方が汚くなった、と感じるのは、
私が年をとったせいだろうか?
街でたむろして、大きな声で騒いでいる若者たち。彼らの発声が概して汚い。
なんだかやたらに「ウェ~」というのに近い音が目立って聞こえる。
やいゆいぇよ、の音が目立って聞こえるのである。
そうして、声が黄色くて、とにかく乱暴な話し方に聞こえる。

またその反対に、店の店員やテレビのレポーターなどで、
私が「ぽこぽこしゃべり」と名付けている、妙にこもった声で馬鹿丁寧な話し方をする女子が
もう15年くらい前から増殖の一途をたどっている。
お笑いピン芸人の柳原加奈子がその真似を上手にしている、あの話し方である。

粗暴でもなく、妙に作り声めいた声でもなく、おなかの底から出てくる声、
その人の胸郭に響き、鼻梁に適当に響いて出てくる深い声というものは、
日本人の発声から消えていきつつあるのだろうか。
そうして、自己抑制のきいた、気持ちの良い話し方、というものは
日本人の会話から、いずれ消えていくのだろうか。
声の出し方を日々訓練しているはずの、中高の合唱コンクールを聴いていてさえ、
地声の歌い方が耳につくようになってしまった。

それでは、どんな声、どんな歌い方を私が素晴らしいと思うか。
最近ふとした機会に下記の歌を聴いた。
若い頃聴いたときはわからなかったのだが、今聴いてみると、人の心を
優しく撫でるような歌声と歌い方に、あらためて驚く。

http://youtu.be/FW0p6vMKnXk

この映像を見て、思わず吹き出してしまう若い方もいらっしゃるかもしれない。
それほど、顔の表情から何から、思い入れたっぷりに歌っている。
You Tubeを通じてだから、音源が悪く、あまりにもスローテンポである。
囁くような微妙な細かい歌い回しが聴き取れないのが残念だが、
それでも、歌う時の顔の表情の一つ一つ、口の開け方の一つ一つを
よく見てほしい。

なんと丁寧な歌い方であろうか。
スペイン語の歌詞は、男が女に、「いつ?どこで?どうやって?」といくら
真剣に訊ねても、女はいつも笑って、「キサス、キサス、キサス(たぶん、たぶん、たぶんね)」
と、男の気をそらしてばかり。そのうちに時が過ぎていってしまうよ。
と、嘆く、男の恋の歌である。

でも、そんなスペイン語の意味を知らなくても、この発声の柔らかさ。
この一つ一つの音の丁寧さ。この歌い回しの丁寧さ。
それは伝わってくるのではないだろうか。
ナット・キング・コールという人は、きっと。女性を愛撫する手も優しいのではないかと
思わせるような、優しさと丁寧さに満ちた歌い方である。

もう一曲。これも若い頃聴いても感じなかった、滴るような色気に満ちた歌。

http://www.youtube.com/watch?v=zsgcXZzu6io

同じ歌を他の若い女性グループやジュリー・ロンドンなども歌っていて、
それぞれに持ち味があるが、このディーン・マーチンのこの歌は、
男の歌のセクシーさの極致の一つの例のように私には思えるのだが。
歌の大体の意味は、「同じフロアでいろんな人が踊っているが、
君だけが僕の心を揺り動かすような魔法の踊りかたを知っている」というような内容。
この歌を紹介してもらった人のコメントに、私がもう少し若かったら、
彼の唇にキスしたい、などとあったが、確かにその気持ちもわかる気がする。
若い頃ディーン・マーチンを特に好きな私でもなかったのだが、あらためて
こんなに女心をとろけさせるような歌い方をする人だったのか、と驚く。

ここで私が言いたいのは、男でも女でも、どちらでも、
また、歌声に限らず、話し方に限らず、

「ひとはもっと、全てに丁寧であってほしい」ということである。
人の心を優しく撫でるような歌声。人の心情を深く思いやる心。
ものを優しく受け取る手。
訪問者の背中に向かってガシャーンとドアを閉めないこと。
人の話をできうる限り真剣に聞いてやること。
相手の話の中身を出来るだけ覚えていようとするまごころ…

そう。「まごころ」。
この言葉に尽きる。

私は人の声の中に、この「まごころ」を聴きとりたいのだ。
ひとの仕草や行為の中に、この「まごころ」を感じ取りたいのだ。
ひとはひとにもっと「丁寧」であってほしいのだ。

「どくだみ荘日乗」というブログを始めて一か月余。
ずっと訴えたかったテーマは、そのことである気がする。
そういう「まごころ」や「丁寧さ」に、私はいつも恋してしまう気がする。


テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

『月に寄せて』 「愛しき(かなしき)もの」その七 

昨夜は十六夜の月だった。

夕方5時過ぎ、買い物に出ると、東北の方角あたりの低い空に、
卵の黄身のような色の大きな月がかかっているのを見た。
思わずはっとするほどの大きな月である。

もう、20年近くにもなろうか、朝日新聞の天声人語に、月の大きさの実感を
世代ごとに訊ねてみた、という話が書かれていたことがある。
記事が手元にないので正確な数字ではないかもしれないが、
若い人に訊くと、月の大きさは実感で言うと、一円玉くらい、と答える人が
多かったそうだ、それに対し、高齢者に同じ質問をすると、一メートルくらい、と
答えるというのである。
私ももうすぐ高齢者の仲間に入れられる年齢だが、まさか一メートルとは!
いくらなんでも思えない。
でもそういえば、昔の童謡などの挿絵、例えば、『しょうじょう寺の狸ばやし』などの
挿絵には、踊る狸の背景に大きな大きな満月が描かれていたような。
若い人ほど現実的にものを見、お年寄りは月に夢をまだ抱いているということだろうか。
でも、昨日見た夕方の月は、一メートルというのは大袈裟にしても、
随分大きく見えた。

昔、「蛍雪時代」という大学受験生向けの雑誌があった。
つまり、昔の人は、夏は蛍の明かりで、冬は雪明かりで勉強していた、という
謂れから出た誌名であったが、蛍、雪と並んで、月明かりの明るさも
忘れるわけにはいくまい。
ことに、寒くなるこれからの季節、天空に冴え渡る月影は、ぞっとするほどの
明るさである。

皆さんは、月の明るさを実感したことがおありだろうか。
恥ずかしながら、私が月の明るさを真に実感したのは、もう大人になって、
それも30歳を越えてからである。
あまりにも遅いと自分でも思うが、子供のころは、夕方暗くなる前に
遊びから帰り、夜外出することなどほんとになかったのである。
19歳で結婚してからは、また夜出歩くことなど全くなくなったので、
信じられない話だが、月が明るいものだと実感したことがなかったのである。
住む環境のせいもあったかもしれない。

市街地に住んでいれば、夜でも街頭やネオンが明るくともり、月の明るさを感じられない。
また、私がそうであったように、団地に住んでいると、その建物の向きの関係か、
窓から月を見る、といった記憶があまりないのである。
そんな私が月の明るさに気付いたのは、30歳を過ぎて今
の家に引っ越してからである。
或る晩夜中にご不浄に立って、二階の廊下の小窓からやけに明るい光が
階段の上に落ちているのに気付いた。
街灯?と思ったが、その方向に街灯はない。
小窓から顔を突き出して驚いた。月なのである。明るく辺りを照らしていたのは!

なんと迂闊なことであろうか。
そんな歳になって初めてそんな基本的なことに気づくとは!
まあ、その夜の月の明るかったことといったら!
お向かいの家のモルタル壁も物置も、そうして道路も、月が白々と照らし出して、
電柱や樹木の影などがくっきりと落ちている。
その不思議な、水の底にいるような感覚。

私はそれ以来、月を夜の友とするようになった。
夜、出歩いたことのなかった私が、深夜塾から帰るようになり、
家々が雨戸を暗く閉ざした住宅街の道を自転車で辿るときには、
夜空を見上げながら、離れて暮らす年頃の娘の夜の安全を毎晩
月に祈ったものである。

その娘とは、実家から離れて一人暮らしをしているそのアパートの部屋で、
皆既月食を眺めていたこともある。
あれは2000年7月の皆既月食だったかな。夜半過ぎから2,3時間の間、
明かりを消して暗くした部屋に母子並んで、徐々に部分食が始まり、
やがて、月がすっかり地球の陰に入って皆既月食となるのを静かに眺めていた。

「月はほんとにただの土くれなんだ!」
その時受けた衝撃はそのことだった。
毎夜のように、今は隣に座っているけれど、普段離れて暮らす娘の安全を祈って
願を掛けていた月は、ただの石ころなんだ!そう知った時の、今さらながらの驚き。
あんなに明るい月なのに、あれはただ、太陽の明るさを反射しているだけなのだとは!
肉眼で見ても、月の表面にでこぼこがあり、そしてそれは土の色をした
ただの塊、ということははっきりと見て取れた。
ああ、そのショック!
何か月を冒瀆したような、見てはならないものを見てしまったような、
そんな後ろめたい感覚と共に、太陽の光の強大さにあらためて驚いたものであった。
冴え渡った満月の夜には、月明かりで新聞さえ読めそうなのに、
あの明かりは月自身が発しているのではなく、ただ太陽の反射に過ぎないとは。
皆既月食のあの夜は、少し悲しみを知った夜でもあった。

だから、私は月をあまり大切に思わなくなったか?
いいえいいえ。
今でも私は月が大好きである。
立ち待ち、居待ちの月。十六夜、などという表現も大好き。
梶井基次郎『Kの昇天』
樋口一葉『十三夜』
中原中也『月夜のボタン』…などという月にまつわる文学作品もあるな。

今晩も月が明るい。
私は。私は、ある願い事を今夜の月にかけた。
月と私だけが知ること。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

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彼岸花さん

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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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