『皆様よいお年を』

12月30日。
電車に乗って、暮れの買い出しに。
東京は穏やかな快晴。
手袋が要らないくらい、手が温かだった。

買い物の目的は、ブリ、海老など新鮮な魚介類の買い出しと、
お花を買うこと。

玄関にはこんなお花を飾ります。

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ちょっと面白い色の菊数輪、グロリオサ、斑入りの葉蘭、赤っぽい色のドラセナ、
そして、庭のヤツデも。
花がよく見えるよう上から撮ったので、ちょっと寸詰まりに写っています。



そうして、私の部屋には、毎年必ずこの花を。
日本水仙です。
気品のある姿と、なんといっても、香りが大好きなのです。
この香りを嗅ぐと、ああ、正月だな、という感じがします。


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そうして。
大晦日。昨日とうって変わって、寒い一日でした。
東京郊外の私の家の辺りでは、昼間、ほんの束の間、雪がちらつきました。
空は青空なのに、一部上空に薄暗い雪雲がかかって、細かい雪粒が
舞いました。

午後七時。
ようやくおせちの下準備ができて、あとはお重に詰めます。
文句を言いつつ今年も一応紅白を見るのでしょう。
娘たちが帰ってきます。


皆さま。ブログを始めて一年ちょうど。
皆様に出会えましたことを、本当に心から感謝したいと思います。
私がつまづいていたとき。
こころが萎えていたとき。
あたたかいお言葉を皆様から頂き、どれほど嬉しかったことか。
多くのことを学ばせていただきました。
何よりも、皆さまとお話しさせていただいて、沈丁花、彼岸花の世界が
一挙に広がりました。そのことに自分でも驚いています。


くる年が、皆様にとって素晴らしい年になりますように。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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『小倉百人一首』 私の「もの」がたり 其の五

小倉百人一首。
我が家のももうだいぶ古びてきてしまった。
子供が巣立ってから、もう何年もかるた会などやっていない。
でも、この季節になると、なんとなく押し入れの奥から取り出してみる。

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私が初めて百人一首に触れたのは、多分5,6歳の頃だったと思う。
温泉街の家に住んでいた頃である。まだ、父と一緒に暮らしていた頃。
買ってきたのはおそらく、兄か次姉だったのではないだろうか。
姉の買って来そうなものではあるのだが、不思議と、姉に一緒に遊んでもらった記憶がない。
一緒にカルタ取りをしてくれたのは、兄だった。
私が5,6歳ということは、兄は当時16,7歳か。
私には11歳年の離れた兄が随分大人に見えたものだが、こうやってあらためて
考えてみると、まだいたずら盛りの高校生であったのだなあと驚く。

若かったからか、あるいは小さい妹を笑わせようとしてか、百人一首を
正月、皆でやっていても、兄はふざけてばかりいた。
「百敷きや 古き軒端の しのぶにも 猶あまりある 昔なりけり」という順徳院の歌と、
他の歌をもじって、
「股引や、古きパッチの破れより 洩れいずるなんとかかんとかの・・・・」と言って
私の顔を見てわははと笑う。今でも下ネタ話など大嫌いな兄にしては珍しく。
今の人にはわからないかもしれないが、股引も「ぱっち」も、男性の下着である。
「そうれ、彼岸花! 次は僧正遍昭じゃ。『をとめ』はお前が取らな!」と言って、
「天津風 雲の通路 ふきとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」の札を
私に取らせようとする。
そんな風に遊んでもらううちに、私もいつか百首ある歌を自然に覚えてしまった。

だが、今ここで書きたい私の百人一首に関する思い出は、その2年ほど後。
私が小学校2年生の冬のことである。
その頃私達母子はもう父とは別居していて、家も温泉街の家のあった県から、
違う県に引っ越していた。
母は生活のために、僅かにまだ残っていた田畑を売ったお金で、商売を始めようとしていた。
母が開こうとしていたのは、定食屋のようなものである。
大きな公園の近くにあって、人通りの多い道路に面し、場所としては悪くなかった。

その人が、どういういきさつで、母の店の開店の手伝いをしてくれるようになったのか、
まだ小学2年生であった私には覚えがない。
ただ、店で使う食器を選びに、大きな陶器店に、母と私とその人と行った記憶がある。
季節はちょうど今頃。どんよりとした雲が日差しをさえぎる寒い日だった。
外の薄暗い空の色と店の明るい照明の対比とを覚えているから、
もう夕暮近かったのでもあろうか。

その人は細面で、縁の色の濃い眼鏡をかけていた。
当時、トニー谷というコメディアンがいたが、少し似た感じであった。
店は借りていたので、その不動産関係の人だったのか、あるいは飲食店関係の人で、
新たに店を開くと言うことで母の手伝いをしてくれていたのか、
今となってはもうわからない。
あの男の人はいったい誰だったのだろう。

その人は私に優しかった。
暮れが近づいて、日の落ちるのも早い。
そんな薄暗い部屋に灯りをともし始めるころ。
その人は百人一首を前に私と二人でいた。
「『むすめ ふさ干せ』と言ってね。百人一首の読み札の中で、同じ音で始まる歌が
他にないのは、その7首だけなんだよ。」とその人は言った。
「『む』は、村雨の露もまだひぬまきの葉に、でしょう。『す』は、
住の江の岸による波、でしょう。『むすめふさ干せ』これを覚えておけば、
読み手が、『む』といった時にはもう取り札を人より早く探し始められるね。」

そんな優しい調子の話しぶりで、その人はまた、それぞれの歌の意味や歌人のことなども
私に教えてくれるのだった。
「春過ぎて~、の持統天皇は、秋の田の~の、天智天皇の娘でね」などと。また、
「札を速く取るのに燃える人が、特に気にかけて自分で取りたいと思うのは、在原業平の
『千早振る神代もきかず龍田川 から紅に水くくるとは』だよ。」などと。

その人は小学2年生の私に、百人一首以外のことも教えてくれた。
特に私が今でも覚えているのが、一ヶ月が31日ない『小の月』の覚え方である。
「『西向くサムライ』と覚えておくんだよ。武士の士という字は、十一に似ているよね。
だから、2,4,6,9,11月。『西向くサムライ』。」

ああ、あの人はいったい誰だったのだろう。
家に来ていた、と言っても、私が会ったのも、せいぜい4,5回くらいか。
期間にして1,2か月という短い間だったから、その頃手広く紳士服店を
やっていた叔父(母の弟)の紹介ででもあったのだろうか。
叔父がその頃私たち一家のことをなにかと支えてくれていたから。

普通にちょっと想像すれば、亭主と別れて子供たちを抱えて一人で生きる女。
その女のところを、一人の男が訪れて親切にしていれば、
そこに何らかの恋愛感情があったのではないか、と誰しも思うであろう。

しかし、私は、そんなことではなかったのではないかと思っている。
母に限ってそんなこと、などと単純に思いこんでいるわけではなく、
その当時の家の雰囲気から判断して、そんなことではなかったと思うのだ。
私はまだ幼いから何も気づかなかったとしても、兄も姉もその頃は
何事につけ潔癖な思春期にあった。
とりわけ、理想家肌の兄が、もしそんなだったら、彼の出入りを許していたはずがない。
いくら幼くても私の身にも感じられるような家内の空気の変化が起こっていただろう。
その気配はいっさい感じられなかった。ということは、
その人は、ただ商売上の関係で、我が家を訪れていた、とみるべきかもしれない。
第一、私の口紅に関する思い出の記事にも書いたように、
母は口紅一つささず、子供達のために、身を粉にして働いている女だった。
いや、「女だった」、という表現が似つかわしくないほど、母は女らしさを一切排して生きていた。
母の周りには、生涯、何か峻厳な空気がいつも漂っていた。
 
あの人はいったいどういう人で、束の間、私達の生活を掠めて過ぎていったのだろう。
もしかりに、そこにかすかでも相手に対する好意、の感情があったのだったとしたら、
私は、母のために喜んでやりたい気もするのだが。
私がこんなことを書くと、母は草葉の陰で、
「馬鹿な!」と、昔のように厳しく一言、言い捨てるであろうか。

いずれにしても、もう、遠い遠い昔の話である。


      ・・・・・・・・・・・

私が百人一首のなかで好きな歌。
叙景歌の
「ほととぎす なきつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」
「心あてにをらばやをらむ はつしもの 置きまどはせる白菊のはな」
(この歌は、私が、残菊の記事を書いたとき心に置いていた歌)
なども好きであるし、他にもたくさんあるが、
ひとのこころを描いてうまいなあ、と、いつも賛嘆の想いを抱く歌がこれ。

  逢見ての 後の心にくらぶれば 昔は物を思わざりけり                                                                      

                                         (権中納言敦忠)


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『悲しいクリスマス』 私の「もの」がたり 其の四

12月25日、クリスマスの朝のことだった。
今から50年も前。私は小学6年生だった。

クリスマスの朝と言っても、靴下の中にプレゼントが入っているわけでもなく、
普通の日の朝と何も変わりはない。
でも、私にはそれでも何か普段とは違う気がする朝だった。

窓の外は、灰色の冬空。寒い朝である。
朝ごはんの支度ができ、母は小さな丸いちゃぶ台に母子二人の茶碗などを並べていた。
私はもう一週間ほど前から準備していた手製のクリスマスツリーをうっとり眺めていた。

今は100円ショップに行ったって、プラスチック製ではあるが
そこそこの大きさのクリスマスツリーや、可愛らしいオーナメントを
たやすく手に入れることができる。
しかし、私が小学校のころは、家でクリスマスツリーを飾る人などというのは、
経済的に豊かで、敬虔なクリスチャンでもあるという家庭か、商売をしている家に
限られていたように思う。

しかし、クリスマスに対する憧れは、かえって今の子達よりも逆に強かったかもしれない。
私は戦後の生まれ。戦争に負けた日本に、豊かなアメリカの文化が大きな波のように
なだれ込んできた時代に子供時代を過ごした。
読んだ本は「小公女」や「クリスマス・キャロル」「赤毛のアン」などというもの。
自分の実生活とは遠い存在だったが、西洋の絵本、小説、映画などで見る
クリスマスの光景は、全くため息が出るようにうらやましく、輝かしく思えた。

私もクリスマスツリーが欲しい!!
そう熱烈に願ったが、飾りものは自分で作れるとしても、肝心のツリーがない。

ところが、その一週間ほど前のある朝のことである。
私は母に言われて物置に炭を取りに行った。
冬中炭で暖を取るので、炭は俵で買ってある。
その俵をのぞき込んで、ふと、一番上に、杉の枝を丸めたものがあるのに気付いた。
当時は、炭が割れてしまわないようにするための緩衝材として、杉の枝を丸めたものを
一番上に乗せてあったのである。

これ!樅の木みたい!

私は枝を手に取ると、母のところへ駆けもどった。
「これ、ちょうだい!」
理由を聞くと、母は笑って「いいよ。好きにしなさい。」と言ってくれた。

さあ、それから!
私は丸まってしまった杉の枝を一所懸命反対方向に巻き戻した。
杉の枝はもうほとんど乾燥してしまっている。
乾燥した枝は折れやすい。
私は枝をしばらく水につけておき(もちろん青々とした色に戻ったりはしない)、
少し柔らかくなったところを、慎重に慎重に巻き戻して真っすぐにしようとした。
学校に行く前にお箸を数本添え木として結わえつけておき、矯正してみた。

努力の甲斐あって、杉の枝は、先の方がまだ少し曲がってはいたが、
なんとかクリスマスツリーの代用品にならなくもないほどにはピンとなってくれた。
高さは60センチくらいはあっただろうか。

木の準備をするのと同時に、飾りものを作る。
折り紙を買って、中に一枚ずつ入っている金紙銀紙で、
子供にしては出来の良い立体的な星を作った。
たまに帰ってくる兄には煙草の銀紙を捨てずにとっておいてもらう。
母に頼んで、お小遣いを少し貰って、おもちゃ屋さんで、モールを買う。
これで、赤白のねじねじ模様のキャンデーを作る。赤と緑のモールで、
ステッキも作る。
厚紙を切って、お菓子の家らしきものも工夫して作る。

私は手先は小さい頃から器用だった。
だから、クリスマス飾りは結構満足のいくものに出来あがりつつあった。

ああ、しかし!
私が一番欲しい飾りものがない!
それは、正式にはなんというのか未だにその名を知らないが、あの、丸いガラスの玉である。
クリスマスツリーになくてはならない、あの、赤や緑や青、金銀などの輝くガラス玉。
しかし、どうやって手に入れていいのか私はわからなかった。
デパートに探しに行くなどということも、子供の私に思いつくはずも無く。
またたとえ思いついたとしても、母にそんなもの買ってなんて頼めはしない。

そんなときである。
姉がたまたま帰ってきた。
姉は前にも書いたとおり、当時華やかだったキャバレーで住み込みで働いていた。
「なんだ。そんなものがあんた、欲しいの。」
なんと姉は次に帰って来た時に、赤と緑と金のガラス玉を一個ずつ手渡してくれたのである!
恐らくそれは、姉が店の大きなツリーから、くすねてきたものなのではなかったろうか。
今なら話してももう時効かな。
子供の私には姉がどんな手段で手に入れてくれたかなんて気が回らない。

まあ、嬉しかったこと!
憧れのガラス玉が手に入ったのである!
私が大喜びで、ツリーの仕上げに、3つの美しく光る球を飾ったのは言うまでもない。

さてその朝。
「さあ、ご飯にしよう。」と母。
「待って、待って。」
うっとりとツリーを眺めていた私は最後の仕上げに、ろうそくを一本、
ツリーの傍に立てた。ろうそくと言っても、赤や黄色の小さなろうそくなど
あるわけがないから、普通の、停電の時のための大きなろうそくである。
ろうそくに火が点ると、私のツリーはますますすてきに見えた。

満ち足りた気持ちで、美味しく朝ごはんをいただいていたそのとき!
チンチンチン!と、私の背後でとてもきれいな音がした。
何だろう、この澄んだ音は!

振りかえってみた。
私のツリーが燃えていた。
乾燥した杉の枝に、あまりに近くに置き過ぎた大きなろうそくの火が燃え移ったのである。
「ああっ!」私が悲鳴をあげ、立ち尽くしていると、母がすっ飛んできて、
燃え上がる杉の木を傍にあった座布団で倒し、上から何回か押さえて火を消してくれた。

私の大事なツリーは一部が燃えて黒焦げになってしまった。
私のあの綺麗なガラス玉も全部。
ガラス玉?いったいあれは何の素材だったのだろう。
あんな綺麗な鈴を振るような音をたてて燃えるとは。
あんなに美しかったそれは、一部が溶けかかったように無残に焦げてしまっていた。


正月、皆が揃ったとき、兄や姉に笑われたが、
ああ、私にとってあんな悲しいことはなかった。
今でも、丸いガラスの飾り玉を見るたびに、あのチンチンチン!という
涼しげなようなきれいな音と、その時の悲しみを私は思い出す。
子供の抱える悲しみ。
それは言葉にするすべを知らないだけに、大人が思うよりずっとずっと深く
記憶に残るものである。

さて。私の今年のクリスマス。
一応ツリーを飾りました。
憧れの丸いガラス球も勿論飾っています。
クリスマスソングはエルトン・ジョン。
静かなイブを過ごそうとしています。
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『寒い冬の夜は』 私の「もの」がたり 其の三

東京は昼間はぽかぽか陽気だったが、夜になってぐっと冷え込んできた。
しかし冬の寒い夜は嫌いではない。

昔、母が毎日、遅くまで縫い物をしている傍で、
私は窓辺に寄せた座机の前で勉強したり本を読んだり、
たまには、着物の袖片方くらいは母に手伝って縫ったりしていた。
6畳間の暖房というと、炭火を赤く起こした火鉢だけ。

外は木枯らしが吹いて、木枠の窓ガラスを時折、ガタガタと鳴らす。
でも、火鉢の上では、やかんがしゅんしゅんかすかな音をたて、
部屋は十分に暖かだった。
母の静かな昔語りを聞いたり、私が学校のことを話したり。
ラジオに耳を傾ける夜も。
母娘二人の夜は、静かで安らぎに満ちていた。

そういえば、最近東京で木枯らしの音を聞かない。
関東のからっ風は、この東京にも吹いてくるはずだが、暖冬のせいなのだろうか、
それとも住宅の気密性が高くなったからなのだろうか、
木枯らしが窓を鳴らす音などというものを、この10年ほど聞いていない気がする。
でも、気密性の問題だけではきっとないな。

外に出ても、あまり冷たい北風にコートの裾を捲られ、髪をもて遊ばれるなどという
ことは少なくなったのではないだろうか。
昭和30年代40年代の頃の映画などを見ると、北風で道路の埃が巻き上げられ、
女たちが乱れる髪を手で押さえたり、家路を急ぐ勤め人がコートの襟を寒そうに
すぼめたりするシーンがよくあったものだが。
道路の舗装が完全に近く行われて、風邪で埃が飛ぶ、などということもなくなったのだろうが、
北風そのものがあまり東京では吹かなくなったように感じるのは私だけだろうか。

北風が立てつけの悪いガラス戸や、板戸をガタガタと揺らす音は、
あれはあれで風情があったがな。

そんな寒い夜。
久しぶりに作ってみました。
ぜんざいです。
ご覧になってらっしゃるあなたのためよ(笑)。どうぞ召し上がれ。
お餅は昨日姉が送ってきてくれた、丸餅です。

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夕食後に、ことこと煮こんでみました。小豆も柔らかくふっくら煮えました。
お餅がちょっと大きすぎるのがご愛嬌。

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『父の贈りもの』 嬉しきもの 其の三

故郷の姉から、荷物が届いた。
姉といっても、風来坊で行方知れずの次姉ではなく、長姉のこと。

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干し柿、モチ、干しぜんまい、干したけのこ、姉の漬けたラッキョウの瓶詰、
ここには写っていないが、米、カボス、干しシイタケ。
そして茶封筒に入った姉の優しい手紙。
80歳近い姉は、小柄だが、まだまだ元気で頭もしゃっきりしている。
懐かしいふるさとの香りのする贈り物である。


思い出すのは、父のこと。

何回か書いているが、私は、父とは小学校2年生の時に生き別れをした。
母、兄、私は温泉街の家に残り、父は生まれ故郷の高原の村に、自分の妹を頼って
帰ってしまったのである。
次姉は私たちと一緒にいたり、父のいる村にふらっと帰ったり、落ち着かなかった。

いわば、父は家族を捨てたことになる。母はそれ以降、父を憎みとおした。
家族を捨てて、おめおめと故郷の村に恥をさらしに帰った情けない男として。
でも幼い私は、優しかった父を懐かしがる。
すると母が、何とも言えない複雑な悲しい顔をする。
私が、「父さん」という歌詞の入った歌を何気なく歌ってさえ、母は眉をひそめた。
だから、だんだん母の前で父のことを話すのは、私にとってタブーになっていった。

そんな私だったが、年に二度、おおっぴらに父と触れ合うことができる日があった。
それは、7月の私の誕生日の時と、歳の暮れのちょうど今クリスマスの前頃との二回である。
その時は、毎年、父が忘れずに私に贈り物をしてきてくれるのだ。

贈りものは決まっていた。
まず、少女雑誌。
当時の女の子たちの憧れは、「少女ブック」「少女クラブ」「りぼん」「なかよし」
などの雑誌で、バレリーナ姿や、バイオリンを構えてポーズをとった松島トモ子や鰐淵晴子だった。
高橋真琴のバレエ漫画。手塚治虫の「リボンの騎士」も楽しみだった。
当時の少女雑誌は月刊誌。月にたった一度なのだが、それでも私が母に雑誌を買ってもらうことは
本当に稀にしかなかった。まあ、他の女の子たちも似たり寄ったりで、
買って貰った者がいると、みんなで回し読みをする。
父は毎年二回欠かさず、大抵は「少女ブック」を送ってくれていた気がする。

それから、茶封筒に入った500円札。今でいうといくらくらいの価値があるだろう。
一万円?くらいかなあ。
母にあてては、叔母の田でとれた米2,3升。父が掘った立派な山芋などが荷に入っている。
夏なら、叔母の家の庭でとれたトウモロコシなども。
母は文句を言いながらもいそいそとそれらを戸棚などに仕舞っていた。

私にとってとりわけ嬉しいのは、暮れの方の父からの荷物だった。
まず、少女雑誌の中身が、普通の月と違うのだ。
新年号ということで、付録のボリュームが普段と違った。
当時の少年少女雑誌の付録はとても豪華だった。
藤井千秋画伯描くところの美しい便箋と封筒のセットなど嬉しかったなあ。
漫画や少女小説の別冊付録もたっぷりついていた。

いつものように茶封筒に入った500円札。そして父の手紙。
父の字は綺麗だった。よく字を知っていて達筆だったので、
近所の人々が手紙の代筆を頼みに来るほど。
その美しい読みやすい字で、「お小遣いでお前が好きなものを買いなさい。」などと
書いてある。

母にはいつものように、お米や山芋。小豆などの袋もあったな。
それで母がいつか美味しいぜんざいを作ってくれる。
そうして、甘い干し柿がたくさん。

私は、干し柿を早速2個ほどもらって、3畳間に本を持って引き上げる。
この3畳間は私の寝室兼勉強部屋になっていて、窓に寄せて座机が据えてあった。
何故かここには兄も姉もあまり侵入してこない。
私だけの城のようなものだった。
外は、木枯らしが悲しげな音をたてて吹き荒れ、私のいる窓辺を訪れて
窓ガラスを時折鳴らしても、干し柿を食べながら少女雑誌を読みふける私は
王女様のように幸せだった。

そのうち、母が一声、「焼き米を食べるかい?」と訊ねてくる。
歳の暮れの贈り物には、必ずこの焼き米が入っていた。
この、『焼き米』というもの。私の故郷では「やっこめ」という感じで発音する。
ご存じの方はほとんどいらっしゃらないだろう。
その正確な作り方は私も知らない。
うろ覚えで聞いたところでは、これは大変贅沢な米の食べ方なのだそうで、
秋、新米が本格的にとれる時期のさらに前、完熟前の稲を刈り取って、
まだかすかに青味の残る玄米で作るらしい。
臼でついて平たくつぶしてから(?)、香ばしく炒ってある。
大変に手間のかかるものらしい。
何が贅沢かというと、手間がかかることもあるが、
完熟するまで待てば収穫量も増えるものを、まだ青い玄米で作れば、
量が当然少なくなるからだそうで。
もしかすると、ぜいたくなどではなく、逆に、江戸時代などは
米の収穫前にこっそり青い米を収穫してごまかし、それを美味しく食べるための
貧しい農民の知恵だったのではないかと思ってみたりもする。

焼き米とはどんなものか。
簡単に表現すると、お米で出来たフレークといったところだろうか。
かすかにまだ青味の残った、平たくつぶれたお米。
さらさらした感触で、そのまま手のひらに一掬い取って、口に放り込めば、
コメ本来の持つ何とも言えない香りが口いっぱいに広がる。
一度火が通っているので、そのまま食べられるのである。
モチモチした噛みごこちで、米の甘味がこんなにあるのかというくらい、香ばしく甘い。

これは昔は全国で見られて、戦陣や旅の携行食として好まれていたようなのだが、
今では知る人も作る人もごくわずかなのだろう。
長姉に先日手に入らないかと訊ねてみたが、知人でたった一軒作っていた人がいたが、
その人ももう作らなくなって、手には入らないとのこと。

私は、何も手を加えず、そのまま口に放り込んで自然な甘みを味わうのが好きだったが、
普通はこれを椀に入れ、塩を一つまみ入れて熱いお湯を注ぐ。
すると一見おかゆのようになるのだが、焼き米はモチモチした食感で、
しかも本当に香ばしく、なかなか他にない美味しい食べ物であったように思う。
焼き米に砂糖を混ぜ入れて、おやつのように食べる方法もあったが、
私はあまり好きではなく、自然のままの味が好きだった。

でも、寒い木枯らしの吹く日、母に呼ばれて兄も姉も火鉢の周りに集まっている六畳間に行き、
みんなで着いたばかりの焼き米を、そうやって熱い湯をかけてふうふういいながら食べたのも
今となっては楽しい思い出だ。

ああ、父はどんな想いでいつもあの、私宛ての小包を用意してくれていたのだろうか。
焼き米は当時でも作る家は少なかっただろうから、早くからそこに声をかけておき、
小さな村に書店などというものはないから、多分何でも扱う村の雑貨屋で、
東京からはるばるやってきたピカピカの少女雑誌を買う。
(本当は私の住んでいるところは地方の大都会なのだ)
私の喜ぶ顔を思い浮かべながら、焼き米、干し柿、小豆、山芋・・・、と、
一品一品新聞紙にくるんでいく。
手紙を書いて500円札と共に封筒に入れる・・・。

父よ。母よ。
あなたたちはどういう人だったのだろうか。
あなたたちは本当に憎み合っていたのだろうか。

でも、二人がそれぞれに、私を愛していてくれたことだけは確か。
今は長姉がこうやって、故郷の香りを届けてくれる。
歳の暮れの一つの幸せ。

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『こころのブログ』---皆様へ

このブログをお訪ねくださる皆様、これまで、コメント欄を設け、
コメントをいただいておきながらお返事だけはしない、という、
変則的で、大変皆様には失礼極まりないブログにしておりましたが、
彼岸花、深く考えることあって、このほどコメント欄を通常の在り方に戻すことにいたしました。

「故郷の廃家」ブログで、最後に小5の夏の大切な思い出と父の死のことを書いて、
これでもう、過去には決着をつけた、あとは余生に入ろう、などと考え、
「どくだみ荘日乗」は、極めて閉じたブログにしようと考えていました。
しかしながら、なかなか、世上の望み、というものは人間捨てされないもので、
いっそ徹底するなら、コメント欄も拍手ページも何もなし、とすればいいものを、
それには踏み切れませんでした。
コメント欄の返事は書かず、拍手ページではコメントにお返事を書くという中途半端さ。

ずっと、これでいいのか、これが自分の思っていた形なのかと迷ってきました。

けれども、あることがきっかけで、自分を見つめなおしたとき、
ブログを今年1月に始めて以来、これまでどれほど多くの方と出会い、
(それは本当に、希有な出会い、というものでした)
いつも励まされ楽しませていただいてきたかを考えると、
自分の料簡の小ささにほとほとあきれてしまいました。
皆さまからおこころをいただきながら、自分はこころを返そうとしていなかったのですから。

これまでの失礼を、皆様、お許しいただけますでしょうか。
「どくだみ荘日乗」。
こころをお返しするブログに変えていきたいと思います。

ひとの世は不思議です。
昨日までまったく知らなかった同士が、ある時ふと出会い言葉と言葉を交わすうちに、
触れあった時間の長さとは必ずしも関係なく、
深く魂と魂が通い合うような感覚を味わうことがあります。
言葉を交わさずとも、一瞬で恋に落ちることもあります。
それは必ずしも、人に対してだけでなく、動物や花、本その他の事物に対してさえ。

つらいこともたくさんある此の世。
そういった束の間の出会いや魂の触れ合い、またそれらの単なる『記憶』でさえもが、
ひとを生かし続ける力を持っている。

私はそういった出会いの大切さを、その余情を、常日頃大事に思うと説きながら、
自分はそれを半ば拒否していたことになります。
その不遜さにようやく気付きました。

何よりもまず。人と出会うことって素晴らしいじゃないか。
それこそが、人がこの世にある意味なのではないか。
皆さまとのやり取りがそれに気付かせてくれたのです。

多くの場で、人と人のこころが通い合わないせつなさ、つらさが語られるのを
耳にします。
人と人がこころを閉ざし合い、駆け引きをしあうために、いつも人間関係がぎくしゃくし、
お互いがそれをつらい、と思っているのに、どちらも先にこころを相手に委ねる勇気を持たない。
そのために生まれる悲しみが、この世にどれほどあることでしょうか。

私自身がそれをやっていたのだと思い当たりました。

「どくだみ荘日乗」。
「こころ」のブログといたしたいと思います。

素直になる。正直でいる。率直である。
そうして、やさしい。
そんなブログにしていきたいと思います。

出来ますかどうですか。
あまり理想を大上段に振りかざしたので、次の記事が書きにくくなるかもしれませんが(笑)、
これからそんな風でありたい、とは願っております。
これからもどうぞよろしく。
どうぞ、お気の向くままに、お遊びにお越しください。
そして、お話をお聞かせください。

これまでいただいたコメントには、これから少しづつ、返事を書かせていただくことにいたします。
本来ならば、一番先の方から返事をお書きするのが筋でしょうが、
それでは追いつかなくなるといけないので(笑)、大変勝手ではありますが、
だんだん遡って書かせていただきたいと思っております。
これまでの失礼をどうぞどうぞお許しください。

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『匂いボタン』 私の「もの」がたり 其の二

「匂いボタンって知らない?」と訊ねても、誰も知らない。
今ではあれは私の勘違いかなあと思うようにさえなっている。

今から五十年近くも前。私が中学生の時のことだ。
朝、学校に行って、始業前のざわついた教室でのことだった。
女友達の一人が、「ねえねえ、これ見て。」と言って、直径2センチほどの
ボタンを皆の前に差し出した。
ごくごく淡いピンク色を帯びたそのボタンは、貝ボタンのようにわずかな
光沢を帯びて、半透明で、美しいと言えば美しいかもしれないが、
何の飾りもなく、まあ、当たり前の目立たないボタン、という感じであった。
「これがどうしたの?」という感じで皆が見返す。
「まあ、ちょっと見てて。」
彼女はそういうと、ボタンを机の上に無造作に置き、そこで、ボタンに指の腹を当てて、
机にこすりつけ始めたのである。

その当時の学校の机は、みな木製で、長い間歴代の生徒に使い込まれて、
木目が浮き出たようになっていたり、いたずら者が自分の名前や稚拙な絵などの
落書きを刀で刻みこんでいたりして、どれもかなり表面がでこぼこになっていた。
その凹凸のある机に、彼女はボタンを2.30回も往復してこすりつけただろうか。
「ちょっと、これ嗅いでみて」
近くにいた者が、ボタンの匂いを不審そうに嗅ぐ。
「あっ!いい匂い!」

「どれどれ」
まわりにいた者は順番にボタンを取りっこして、匂いを嗅ぐ。
匂いが薄れたと見てとると、持ち主がまた机にこすりつける。
私もボタンを手に取ったが、摩擦熱で少し温かみを帯びたそれは、
今でいう匂いのする消しゴムのような、ガムの香料のような、
かすかな甘い匂いをさせていた。
「ほんとだ!いい匂いがする!」
女生徒達は、交代でくんくん匂いを嗅いだ。
男子も何人かやってきて、「ほんとだ」と言ったり、「全然匂わない」と言ったり。
それは本当に、あるかなしかくらいの淡い淡い匂いだった。

「私のもやってみよう」
そう言って、各自が自分の制服のシャツのボタンを机の上で擦り始めた。
と言っても、着たままだから、シャツの裾を無理やり引き出したり、袖のボタンを
腕ごと机でゴシゴシしたり。
その頃のうちの中学校は、一応夏冬合服の形は決まっていたが、学校で一括して注文ということではなく、
それぞれの親が、標準に近いものを勝手に誂えて着せているという具合だったので、
生地も素材もばらばらだった。
勿論ボタンも、合服の白シャツということで、ほとんどが小さな貝ボタンが付いていたが、
人によって微妙に違っていたのである。
私も、袖のボタンを必死になって擦りつけてみたが、何の香りもしなかった。
殆どの人のボタンが匂わなかったように思う。
匂う、という者のそれも、首をかしげるような淡さ。

今から20年ほど前。NHKで唐十郎脚本、仙道敦子、大鶴義丹主演で
『匂いガラス』という秀作ドラマがあった。
話の詳しい内容は私自身は忘れていたが、「匂いガラス」というものに
心魅かれる人は多かったらしく、ネットで検索すると、多くの人がこの
ドラマのことを鮮やかに記憶しているようだ。
You Tube動画もアップされている。

その話の匂いガラス、というのは、半透明なガラスのかけらで、
それはどうも、ドラマの中では、墜落した零戦の風防ガラスのかけららしいというのである。
ガラス、と言ってもそれはガラスではなく、今でいうアクリルガラスのこと。
どうやら、このアクリルガラスが、硬いものに擦りつけると甘い匂いがするのは
本当であるようで、当時はまだ、アクリル樹脂に不純物が多く混じっていたので、
いろいろな甘い香りがしたというのである。
日本軍の零戦ではなく、アメリカ軍のB29戦闘爆撃機が撃墜された、その風防ガラスであった、
という説もあるらしい。
樹脂ガラス。特に、ポリメタクリル酸メチル樹脂は、こすると確かに甘い香りを発するので
匂いガラスと呼ばれることもあるという。

匂いガラスの正体がわかってみれば、なあんだ!という感じだが、
それにしても、『匂いガラス』のドラマを記憶している人はいても、
匂いボタン、について反応する人はいない。
貝ボタンの代わりに、樹脂ガラスで作られたボタンであれはあったのだろうか。

ドラマを見てから、中学の頃の、その匂いボタンのことを思い出し、
家中のそれらしいボタンをクンクンしてみた。
長い間に、私の裁縫箱にはたくさん半端なボタンが集まっている。
他にまだ使っていないボタンの箱も数個ある。
これは匂いボタンかな、と思えるものたち。
何の変哲もないものばかり。どれも勿論匂わない。
中学校のあの、でこぼこ机でないとだめなのかな(笑)。 
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我が家の別のボタン箱。
これらのボタンは、10年ほど前の、娘からのクリスマスプレゼント。
下北沢のボタンやさんが店じまいするということで、彼女が気に入ったものを大人買い。
これはコートやジャケット用の大きいボタンの箱で、他にまだ、小さめボタンの箱がある。
なに、「プレゼント」というのは口実で、私に自分の服をたくさん縫わせたいからで(笑)。
これでも、もう三分の一は使いました。
2009_1215_134516-CIMG1059_convert_20091216143233.jpg

ビニール袋が光って何が何だかわからないわね。
ちょっと並べて遊んでみようかな。

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もう洋服に使って、余ったものであるのもあれば、これから使うというものもある。

先日、ある女性歌人が、小さい頃、父君の白い碁石を口によく含んでみた、
という話をラジオでしていた。
ああ、わかるわかる。いい感覚だなあ、と思って聞いていたが、
ボタン、というものにも、そういう、魔力がありはしないだろうか。
そっと撫でてみて、掌で遊んでみて。
かさっと掻き集めてみて、おはじきのように指で弾いてみる。
頬にあててみて、唇に触れてみて、
そうして最後に、ぱふっと口に含んでみたくなるような。
(小さいお子さんの前では絶対に出来ないですが。笑)
そうしてそれが、私の記憶の中の匂いボタンのように、
かすかに甘く香るなら、なお最高なのだが。

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『手を動かすこと』 「愛しき(かなしき)もの」その十一

昔から、女は悲しいとき、
涙を流さないようにするために、手を動かしてきた。

意地悪な姑の仕打ちに耐えかねて泣きたいとき、
洗濯物を抱えて井戸端に行き、ざぶざぶと家中の者の下着などを洗いながら
すすぎの水と共に、心のうちの涙も一緒に洗い場に流し捨てる。

夫の心ない言葉に、心がささくれ立ったとき、
台所で、家中の者の皿小鉢などをかちゃかちゃ小さな音たてて洗いながら、
密かに頬に涙が流れるままにする。
台所は女が人目はばからずに泣ける場所である。

病の子供の回復をひたすら祈るとき、
母は、明かりを落として薄暗くした部屋で、
子供の枕辺に縫い物を持って座り、
ちくちくと繕い物などをしながら、
時折子供の顔を心配そうにのぞきこむ。

昔の女はこんな風に、悲しい時はとにかく手を動かして
その悲しみを、体の外へ出そうとしていたような気がする。

私の母なども、まあ、それが生活の道だったとはいえ、常に縫いものの
手を休めずにいた。
今頃の季節になると、水仕事などで手が荒れる。
そのささくれのたった手に、柔らかい絹ものがひっかかると言って
よく嘆いていた。
昔はどこの家でも正月に向けて、家中の者の衣類を新しく誂えなおしたり、
その余裕のない者は、せめて着古した着物でもほどいて洗って仕立て直しをするのが
常であった。だから暮れには、母のところにも、正月の晴れ着などの仕立ての注文が
多く集まるのである。
他人さまから預かった柔らかい錦紗などという絹ものを着物に仕立て上げるのであるが、
その柔らかい布地が、荒れた手に引っかかって縫いにくいというのである。

母はもともとが小柄な人であったが、手はさらに小さかった。
その小さな手が、動かずにじっとしているのを私はあまり見た記憶がない。
例えば、その小さな手が、火鉢の上にかざされて暖をとってるのなど、
殆ど見たことがなかったような気さえするのである。
その手は、常に何かをしていた。
働き者らしい、先の丸い指。よく動く器用な手。
明日の生活費のこと、家を飛び出ていった二番目の娘のこと・・・
そんな悲しいことのあれこれを、母は手を動かすことで紛らしていたのではなかろうか。

今の女の人は、悲しいとき、何をして紛らすのであろうか。
昔の女のように繕い物などということはすまいが、
やはり、台所でざあざあ水音たてて皿を洗いながら、ひそかに涙を流したりするだろうか。

先日、しばらく連絡のなかった知人から、その母堂が亡くなられたので、
年賀状を欠礼する、という葉書が来た。
昔、「考え事をするにはどこが一番適しているか」ということを大勢で
わあわあ言いあっている時、ある人が「風呂場が一番考え事が出来る」と言った。
すると、その知人と私が同時に声をそろえて、
「いや、風呂場ではむしろ、無心になる。特に頭を洗っている時など、
手を盛んに動かしていると、いつかまったく無心になってしまって考え事など出来ない。」
と言ったことがあった。
それがあまりにもタイミングと言い方が同時過ぎたので、
その場にいた他の人が妙な顔をしたことがある。
年賀欠礼のハガキを見ながら、昔のそんなことを思い出した。
そして、母一人子一人の親孝行息子であったその人は、今、
風呂場で手をしきりに働かせて髪を洗いながら、
母親を失った悲しみを一緒に洗い流そうとしているのではなかろうか、
そう、ふと思った。

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これは、粘土。よくこねて造形して、オーブンで焼くと、固く締まって
丈夫になる。

私は実は今、ある悲しみを胸の内に抱えている。
その悲しみを忘れるために、というのは大袈裟だが、
粘土を一所懸命こねて、細かい造形をしていると、しばし無心になって
胸の底の寂しさをふと忘れている時がある。

でもこの悲しみは本質的なもの、であって、
なかなか、粘土細工くらいではおさまりそうもないのだが。

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『残菊 』 「愛しき(かなしき)もの」その十 

あっという間にもう師走。
こころはまだ、秋口のような気でいたら、もうあたりはすっかり冬の気配が濃厚である。
それでも、やはり温暖化は進行しているのかな。
植物は、昔より、冬支度が遅いような気がする。
近くの川べりを散歩していても、昔より、まだ咲き残っている花が多い気がする。
黄花コスモスや鶏頭、野の花ではあかまんまの花など。
街中でも、日当たりの良い道路の隅などに、夏の花であるムラサキカタバミが、
さすがにすがれた姿ではあるが咲き残っているのを見たり、
秋の花であるホトトギスがまだ美しく咲いていたりするのを見かけると、
昔はこんなことなかったがなあ、と少し自然の変調が不安になる。

今の季節で、私が一番好きなのが、家々の庭先に咲いている残菊である。
残菊と言っても、そういう名の菊があるわけではなく、この時期まだ咲き残って、
冬枯れの庭に姿を乱している菊を残菊と呼ぶ。

花でも葉物でも、庭が盛りの頃には人は、支柱をせっせと立ててやったり剪定をしたり
こまめに世話をして、樹形を整えてやったりする。
しかし、秋が深まり、草木が枯れて、庭が寂しい様相になると、
庭の隅で咲き始めた細々とした菊などには、あまり構うものはいなくなる。

自然、菊は、大きな花を咲かせるための摘芯などもうしてもらえないから、
枝が伸びるままに、増えるままに、勢いのない小さな花をたくさん咲かせることになる。
枝そのものも、支柱など立ててもらえないので、好きな方向に好きなようにのびていき、
やがて花や葉の重みに耐えられず、地べたを這いずるようにだらしない姿に
なっていったりする。

この、姿の乱れた菊が私は好きなのだ。

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花屋に行くと、切り花の菊は、スプレー咲きと言って、一本の茎が
たくさん枝分かれして、したがって小花のたくさん付いた菊が
今多く見かけられる。
これは菊だけでなく、カーネーションなどもスプレー咲きのものが多くなった。
たくさん花がついていれば、それだけ一本でも豪華に見えるからいいじゃないかと
良く売れるようだが、私はあまりこのスプレー咲きというやつが好きでない。
何か味気ない気がするのだ。
言葉は悪いが、一本で出来るだけ花をたくさんという発想が、何かケチくさい気が
してしまうのである。
そんな中途半端な物を買うくらいなら、私だったら、むしろ一輪咲きの菊なり
カーネーションを買って、それを一本、花瓶にさす。
昨今は何でも、合理性というものが優先され、売れるものだけ作ってればいいじゃないか、
売れるものだけ店に並べればいいじゃないかというのが多くなり、
本屋も、洋服も、花屋も、どこの店に行っても同じような品ぞろえ、同じような店の顔に
なってしまって本当につまらない気がするのは私だけだろうか。
主人の好みのはっきりと打ち出された個性的な品ぞろえの店というのが少なくなり、
掘り出し物とか、商品との「稀な出会い」を、自分の勘で探し出す楽しみ、というものが
出来にくくなってしまいつつある気がする。

万事中庸を好み、自分だけ突出しないようにと思うのが今の時代の空気なのかどうなのか、
花の色も洋服の色も、中間色が多くなった。
菊でいえば、同じ黄色でも淡い黄色。ピンクもオレンジも皆淡い色調の、
スプレー咲きのものが多く並んでいる。
それでいて、なぜか、たくさん並んでいるさまが、いきいきと明るくはないのである。
どこかくすんでいる感じがする。
好みというものは人それぞれであるから、何がいいとか悪いとか言えないものであることは
百も承知だが、
「ああ、はっきりしろ!」
と、なぜか叫びたくなる私である。

いま一つ。花屋の花は、なぜああもまっすぐなのか。
要望があるから、まっすぐなものを作るのだろうが、本当にそうなのだろうか?
本当に消費者は、まっすぐな花、まっすぐな硬いキュウリ、まっすぐな筋っぽいインゲンを
求めているのだろうか?
なんだか味気ない。

よくテレビの時代劇などで、道端に菊やリンドウが咲いているシーンなどを見かけるが、
これがもうほとんど、今どきの花屋で誂えてきた、やけにまっすぐな菊やリンドウなので
見ていて笑ってしまうことがある。
花の姿の乱れた菊など花屋にないのだから仕方ないと言えば仕方がないが、
以前、松田聖子主演で「野菊の墓」をやった時、主人公の政夫少年が、
恋する民さん(松田聖子)に向かって「民さんは野菊のようだ」という、一番大事なシーンが
あるのだが、その時松田聖子が手にした野菊が、花屋のまっすぐな白い小菊の花だったのには
ちょっと笑えなかった。呆れてしまったと言ったほうがいい。
なぜ、秋まで待って、野辺に生えている花を使わないのだろう。

もっとも、野菊という名の花はなく、野に咲いているキク科の花ならばどれでも
野菊と呼べるのかもしれないが、私などが子供の頃、「野菊」と言えば、
それは、ヨメナのような、うすむらさきいろの野の菊のことであって、
白い花というイメージは全くなかった。
小学校で習った歌に『野菊』という歌があったが、これも最後の歌詞で、

きれいな野菊
うすむらさきよ

という風に歌われているから、『野菊の墓』の原作者伊藤左千夫も、おそらくは
このヨメナのようなうすむらさきいろの野菊をイメージしていたと思われる。
1955年、木下恵介監督で撮られた『野菊のごとき君なりき』という映画の中では、
ちゃんと、二人が、秋の野に群がり咲く本当の野菊(おそらくヨメナ)の中で
件の大事なセリフを言いあうから、まあ、植物に対する想い、というか、
厳密さが、監督によってこうも違うのかと思わざるを得ないのである。
たかが花一つ、という勿れ。
『野菊の墓』というタイトルの映画に、野菊でない、花屋で買ったピンと真っすぐな
味気のないスプレー咲きの白い小菊を使う、というところで、映画作りの心意気を
もう疑いたくなってしまうではないか。

どんどん、人は自然のありのままの姿から離れていってしまう。
花屋の花は針金でも中に入っているかと思われるほどにまっすぐ。
百合の匂いを嫌う人のために、活けた水に加えると百合の花の
あの気高くも濃厚な香りが消えてしまう、という薬剤が開発されたと、
この夏新聞記事で読んだ。
花粉で衣服などが汚れるのを避けるため、花屋の百合は雄蕊の部分が
切り取られて売られているのを見ると、私などは、あああ!と思ってしまうのだ。
薫りのしない百合?
そんなものなら最初から買わないがいい。

てな訳で(笑)、この、道端の、乱れ咲いた残菊の花を見ると、
なぜか心安らぐ私なのであった。

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初冬の光の中で、人にそう顧みられることもなく乱れ咲く花。
なんとは言えないけれど、なんとなしの風情があるではないか。

そう。今どきの花屋のまっすぐすぎる花には、「余情の美」というものが
感じられない気が私はするのである。



追記。
よく見ると、この写真の比較的大輪の菊たちには、植えた人がやったか、
ちゃんと支柱がたててあるようだ。
自分の家の地続きとは言え、自分の庭でもない川べりのささやかな空き地に
これらの花を植えて、こまめに世話をする人のこころが感じられて、
それはそれで私は嬉しいと思う。

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彼岸花さん

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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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