『御礼、そしてサプライズ』


皆さま。私の『どくだみ荘日乗』。
おかげさまで、10月2日で一年を迎えます。
そして、今晩、閲覧者数が、のべ5000人になると思います。
私のようなものの部屋に、そんなにこれまで多くの方が…

本当にありがとうございます。

お礼と言ってはなんですが、サプライズとしてちょっといたずら心を起こして
こんな写真を。
誰でしょう…


高校生の時の誰かさんの証明書用写真。
いまはこの面影もありませんから、街で会ってもおわかりにならないでしょう。
と言っても、顔を公開するのは、5000人目からの方に限定で~す。
5003人くらいで消去します。
こんな顔でものを考えたり書いたりしております。

見損ねた方はごめんなさい。

 
追記
  5002人目の方まで起きていましたが、2時になったので寝てしまいました。
  6時に起きて消去しようと思っていたら、起きたらあら7時半。
  さらにお二人の early bird さんにお会いしました。
  お目汚しのお詫びと、見損ねた方へのお礼に、こんな映像を。
  こちらの方がはるかに後味がいいと思います。
  それにしても、5000人目の方と5002人目の方はどなただったのかな…。
  いたずらごころで、こんにちは、そしてさよなら。
  
  時は疾く過ぎゆくものかな…



http://www.youtube.com/watch?v=Nf1YhS42C5Q




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『待つ』



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台風一過の秋の日

花びらがボロボロになってしまった紅蜀葵が空を仰ぐ

「もうわたし こんなにぼろぼろ…

もうあなたに顔を向けられない…」

それでも青空を希求するこころは消えない

「来年 また来年

待ってて  わたし もっときれいに生まれ変わるから」






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テレビのアンテナがひとり空を仰ぐ

いのちなき無機物の身ではあるけれど

生きもののようにひとりすっくと立って

青空を飛んでくる電波を待ち受けて 

数本の手ではっしと受け止めて

「爺さん婆さん 安心しな 俺がここで踏んばって

いつまでもテレビ映るようにしていてやるぜ」

粋なシャンソン歌手のように青空の下で大見えを切る。






紅蜀葵よ それでもあなたは綺麗だよ

VHFアンテナよ きみはけなげでいじらしい・・・




待ち続けて待ちくたびれて

こんなつまらぬ戯言でひとり遊びしてみる 秋空の美しい日。













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『雨夜のひとりごと』

秋の雨の日。

昼間は雷を伴った激しい雨だった。
でも、今は、静かな秋の夜らしい雨になっている。
私の心の中にも、今日は終日秋雨が降っていた。


     『都に雨の降るごとく』 ポール・ヴェルレエヌ 、鈴木信太郎訳
               
     都に雨の降るごとく
     わが心にも涙ふる。
     心の底ににじみいる
     この侘しさは何ならむ。

     大地に屋根に降りしきる
     雨のひびきのしめやかさ。
     うらさびわたる心には
     おお 雨の音 雨の歌。

     かなしみうれふるこの心
     いはれもなくて涙ふる。
     うらみの思(おもい)あらばこそ
     ゆゑだもあらぬこのなげき。

     恋も憎(にくみ)もあらずして
     いかなるゆゑにわが心
     かくも悩むか知らぬこそ
     悩みのうちの悩みなれ。


     





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『月に願いを』


今日の月齢は十三。

深夜眠れぬままに、玄関の外に出て月を仰ぐ。
薄い雲が出ているのか、月が美しい暈をかぶっていた。


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あなたもこの月をご覧になっただろうか。
今日も私は、月に、愛する者の無事と幸せを祈る。



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『音楽の贈り物』 15

良い季節になりました。


秋の日ざしが金色。

後で久しぶりに川原の道でも散歩してこようかな。
ここしばらくあまり歩いていませんでした。

カーテン越しの金色の光の中に沈んでいると、こんな曲を聴きたくなりました。
コンパイ・セグンド。
5月14日、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』をご紹介したとき、
80を超えてなお、ダンディで凄い色気のあるひととして触れています。
パナマ帽を粋に少しかしげてかぶり、葉巻をくゆらす。
まあ、その眼付の色っぽいこと!
そのコンパイ・セグンドが一人で歌う歌をご紹介しましょう。

日本語では、『あなたに私の命をあげます』とでもいう意味のタイトルです。

http://www.youtube.com/watch?v=3Nn_ff4Dqyc


もう一曲。

シャルル・アズナブール。
『二つのギター』。



 
…大人の歌です。まいります。
日本では、若い歌手ばかりがもてはやされる傾向にあります。
それはそれでいいのだけれど、新しい息吹は常に必要なのだけれど、一方で
こういう、60,70,80になってなお、自分の生きざまを
歌に刻み込んだような素晴らしい歌唱の出来る人を聴く機会がもっとあってもいいと思うのです。
そういう宝とも言うべき人に活躍してもらえる文化は、いつ消えてしまったのでしょうか。


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『決断の3時10分』


今日の映画は西部劇。
ある方に教えていただいて、前から見たいと思っていた映画でした。
『決断の3時10分』。原題は“3:10 to Yuma"。1957年。アメリカ。
監督デルマー・デイヴィス。主演グレン・フォード、ヴァン・へフリン。

(冒頭は、馬車を強盗団が襲うシーンで始まる。)

アリゾナで妻とまだ子供の息子二人と牧場を営むダン(ヴァン・へフリン)は、
干ばつが続いて牧草が枯れ、折角の牛たちがやせ細っていくのに、なすすべもない。
水量の豊かな川を有する大牧場主から、雨が降るまでの間、水を
買おうとすると、200ドルもかかる。金を借りに街に出るダン。

そこで、たまたま、強盗団の首領ベン(グレン・フォード)を捕えるのに立ち会う。
町一番の射撃の名手ダン。ベンをユマまで護送する仕事を引き受けることになる。
報酬は200ドル。

ユマ行きの列車が停まる町までまずベンを護送していく。
そこのホテルの一室を留置所代わりに、列車が到着するまでの数時間
ベンを見張るダン。片時も気が抜けない。
首領のべンを取り戻そうと、荒くれの部下たちが集結してくる。
3時10分発のユマ行きの列車に乗せてしまいさえすればいいのだが、
応援を頼んだ街の男たちは手をひき、たった一人の味方は、撃ち殺されてしまう。
孤立無援になってしまったダン。恐怖と緊張の汗が滲み出る。

そんなダンの心を見透かすかのように、囚われびとのベンは、高額の金を
提示して、自分を逃がすよう、ダンに囁きかける。
実は、悪党ではあるけれど、ベンはダンの正直さや一本気な正義感、
そうして何より、ダンの妻や子のダンに寄せる信頼と愛を見て、
ダンに徐々に親近感を抱くようになっており、ダンをむざむざ部下たちに
殺させたくないのである。
しかしダンは誘惑に負けない。

列車が来るまで…ベンを列車に乗せてユマまで連れていけば…

映画の中のダンの時間と、観客の私たちの時間が、ほぼ同時に進んでいく。


何よりも、主演のグレン・フォードとヴァン・へフリンの丁々発止の男の
心理の駆け引きの演技が面白く、見事だ。
牧場や家族を守るための金欲しさと正義の間で揺れ動く心をヴァン・へフリンが見事に演じ、
グレン・フォードの、悪党ぶりは小憎らしいほど。
グレン・フォードという人には、私は、ツイードのジャケットなどの滅茶苦茶似合う、
もの静かな紳士、というイメージがあった。
それが強盗団の首領の役。しかも女を言葉巧みに酔わせてしまう甘い女たらしの男。
水を手に入れるため金が喉から手が出るほど欲しい、ダンの弱みにつけ込み、
自分を見逃すよう囁く、そういう狡猾な側面も持った男。
でも実は、酒場の女に心を残し、ダンと妻、子供たちの温かい家庭を羨む心も持った
人情味のある男でもある。

そういう複雑な人格を持った悪党の役を、グレン・フォードは見事に演じている。

ベンは悪党といえども、根っからの悪ではなく、ダンのように、乾燥して痩せた牧草地で
生きていくことの大変さなども十分に経験で知りつくしている。
金さえあれば、水の豊かな牧草地も手に入れられ、なんでも出来るということを
知りつくしている。それゆえの強盗稼業なのである。
だから、ダンを誘惑する言葉も説得力がある。いや、半ば本気なのである。

ストックホルム症候群とかリマ症候群という言葉がある。
犯罪現場で人質と犯人が長い時間を一緒に過ごすことにより、一種の共感と
仲間意識をもち始めてしまう人間の心性を表す言葉。

この場合のダンとベンがそれにあてはまるであろう。
二人の間には、そこはかとない男同士の友情と愛着が芽生えていくのである。

だが、ああ!
ストックホルム症候群、などという心理学の用語がなんと空しく聞こえることか。
この映画は、そんなことは知らなくてもいい。極めて素朴。
それだからこそ、見る者の胸を強くわしづかみにする力をもった映画なのである。

強盗団の首領のべンと、行きずりの関係ながら惹かれあってしまう酒場の女。
男が自分のもとにとどまってはくれないことを女は十分に知っている。
だが、「思い出さえあれば。」そういって女は男を愛するのである。
「思い出のよすがに、きっと真珠を買って送ってやるよ。」と約束する男。
ここには、男と女の、いや、人間と人間の生の心の惹かれ合いしかない。
そのシンプルな心根の美しさ。
ダンと妻、子供たちの、貧しくとも互いを思いあう家族の絆の美しさ。
ともに行動することによって、苛酷な西部の開拓地で生きる男同士の
言うに言われぬ友情を感じ始めていくべンとダン。

飲んだくれの情けない亭主だが、引き受けた仕事は最後まで全うして
立派に戦って死ぬ男も、映画をピリリと引き締めている。

そうして、3時10分発のユマ行き列車が到着するまで、映画と同時進行していく
観客の時間…。

私は昨日、テレビで『アルマゲドン』を見た。
壮大なCGを使った、現代の大作主義のハリウッド娯楽映画。
地球に巨大隕石がぶつかるまであとわずか。その隕石を破壊しに行く男たちの
物語である。だが、大掛かりだけれど、なんと無駄が多かったことだろう。
次から次に想定外の事故ばかり起きて、人々がわめき散らしたり喧嘩したり。
『ために作った映画』…というような気がする。

映画作りに凝れば凝るほど、人間が見えてこなくなる。
泣かせようと演出すればするほど、見る側は冷めていってしまう。ああ…!


それに比し、『決断の3時10分』…
なんとシンプルに、人の絆の美しさを描いていたことか。
昔のものだから良い、と言っているのではないのである。
人間は、何か、何か、極めてシンプルな感情、素朴な感情の美しさを
どこかで置き去りにしてきてしまったのではなかろうか。
それと共に、映画などのもの作りの本質も、どこからか本筋を離れ、
いたずらに複雑になりすぎてはいないだろうか。

…フランキー・レインの歌うテーマ曲もまた、私には懐かしかったのでした。







フランキー・レインの歌を入れようとすると、セリフをスペイン語に吹き替えた映像しか
見つかりませんでした。グレン・フォードの声が本当は素晴らしいのですが。



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『音楽の贈り物』 14

ああ、カーテン越しの秋の日が、金色です。
昨日の大雨もすっきりと上がって、素晴らしい天気。
まだ水気を含んだ青空が、なんだかどこか懐かしい遠い国を想わせます。
そぞろ旅ごころが誘われる季節。

こんな曲をお送りしましょう。



ロス・パンチョス。
メキシコ人のアルフレッド・ヒル と、チューチョ・ナバロ、
プエルトリコ人のエルナンド・アビレス によって、1944年に結成された
ラテン音楽の楽団であり、1981年までは「トリオ・ロス・パンチョス(Trío Los Panchos)」
と名乗っていた。(以上、Wiki による)

メキシコをはじめとする中南米諸国だけでなく、アメリカでも人気を博し、
そして、日本にも数多く訪ねてきて、ある世代以上の人にはファンが多いです。
若い方にはどう映るか知れないけれど、とにかく、このヴォーカルの
素晴らしさをお聴きください。
優れた音楽はきっと世代を超えて、好き嫌いはともかく、その凄みだけは
伝わるのではないかと思います。

ビデオクリップに登場する女性も可愛らしい。
英米圏の女性とはまた違う、キュートで小柄な体に、
滴るような女性の色気と熱い情念がぎゅうっと詰まっているような、
そんな感じがします。

こんな秋の空にふさわしい曲だとお思いになりませんか。
んっ。秋の夜にも良いかもしれませんね。


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『畢生の仕事』

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ご存知、ハヤカワ書房のポケミス、こと、ハヤカワ・ミステリ。

今日私は、ちょっと買い物に出たついでに、本屋を数軒、古書店を一軒
回って見てきた。
で、買ったものが、上にある、『機械探偵クリク・ロボット』。
ん~、読みたいから買ったというよりは記念に。

なぜ記念か、というと、長い間、この早川のポケミスの表紙を担当してこられた
勝呂忠さんが、今年の3月15日に83歳でお亡くなりになり、この本が
最後の本になったからである。これが第1737冊目。
勝呂さんの抽象画、イコール、ポケミス、と言えるくらいに長くこの表紙の仕事を
担当してこられた。
次の1738冊目からは31歳の若きデザイナー、水戸部功さんが担当することになって、
この8月に、新生ポケミス第一号が出た。
私がこれらのことを知ったのは、8月29日の朝日新聞で。

実は私がポケミスを手にしたのは去年が初めてである。
中身も勿論それぞれ楽しめるのだが、私は何よりも、このシリーズの体裁が
一目で気に入ってしまった。
実にすでに1730冊くらいも出た後で好きになったも何もいえたものではないが(笑)。

普通の文庫本よりちょっと縦長の体裁。
表紙は勝呂忠さんの鮮やかな色彩の抽象画油絵。ビニールカバーがかかっているのが特徴的。
何より私がこのシリーズを気に入ったのは、天地と小口に塗られた
う~、これはカナリアイエローとでも言おうか、鮮やかな黄色が、素晴らしく綺麗だと
思ったから。本文の用紙もかすかにクリーム色を帯びて美しい。

このブログの記事ででも一度扱っている。

勝呂さんという、洋画家で多摩美の先生などをしてらした方。
第何号から表紙を単独で担当されることになったのか、詳しいことはわからないが、
長い間、お疲れさまでした。
こころからご冥福をお祈りいたします。

一つの仕事を長く続ける、というのは大変なことである。
画家という職業の大変さと現実。絵を描き続けていくこと自体が、なかなか大変な
ことである。経済的な問題、また自分の情熱を保ち続けるということ、どちらの意味でも。
そうしたことからも、ずうっと一つの仕事を続けてこられた勝呂さんに
拍手を送りたいものである。

…畢生の仕事の持てた人生は幸せである。


表紙絵担当が新しく変わったポケミスは、表紙のロゴも変わった。
絵の形式などはその中身ごとに変えて、写真もつかったりするそうだ。
確かに新しく出た『卵をめぐる祖父の戦争』という本は、従来のとはイメージが一新。
ただ嬉しいのは、版型と、天地、小口の黄色と本文の紙質が変わっていないこと。

日本人はどうも、『新しいこと』=『素晴らしいもの』とい考える癖があるようで、
すぐいろいろなもののモデルチェンジを良くも悪くもしてしまう国民である。
それが日本人のエネルギーでもあるのだが、よいものを長く飽きずに使う、
伝統を作って守っていく、ということも大切。

ポケミスも、この大きさ、形と、この黄色の小口の美しさだけは
変えないでいてほしいなあ。


あ。他には、岩波新書の『新唐詩選』(手帳さん、買いましたよ♪)
新川和江詩集などを買いました。
『など』の部分については、またいつか書きます。

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『別嬪さん』


コラムニストで、雑誌『広告批評』の創始者で主催者である天野祐吉さん。

朝日新聞朝刊、毎週水曜日に彼が担当している『CM天気図』。
わたしはこの人の書くものに必ずしもいつも共感するわけではないのだけれど、
8月25日付の記事は全くそうだなあと思ったので、ちょっと取り上げてみたい。

まずは記事そのものを転載させてもらおう。

   CM天気図『別品の味』  天野祐吉

 前にも言った気がするが、昔の中国では、物事の評価をするときに、
1品、2品、3品…と順位をつけ、同じモノサシでは計れない別格のすぐれものを
「別品」と呼んだらしい。「別嬪」というのは、つまり、人間の「別品」
のことである。
 なんでこんな話をするかというと、つい最近、テレビで別嬪を見かけたからである。
テレビには美男美女があふれているのに何をいまさら、と言われそうだが、
あの人たちは1品や2品や3品であって別品ではない。
ぼくが見かけたのは、正真正銘の別品なのだ。
 家人に聞いたら、ビンビンさんだという。いま中国一の美女と評判の高い
范冰冰(ファンビンビン)という女優さんだそうな。
 そのビンビンさんが中華レストランにひとりすわって、アツアツの小籠包を口へ。
あまりの熱さに口をモゴモゴさせて食べてから、おいしそうにウーロン茶を飲む。
それだけのCMなのだが、その姿が、何というか、いかにも別品なのである。
 何がそう感じさせるのか。彼女を見たのがはじめてだということが、もちろんある。
が、それ以上に、彼女の持っている健康で、品のある、大人の女の美しさがそう
感じさせるのだと思う。そのふくよかな美しさは、やせすぎ美女に占領されている
いまのテレビの中では、それだけでも別品に見えるのだ。
 これにかぎらず、サントリーウーロン茶のCMには、地方の村人たちとか、
きれいな学生姉妹とか、中国の人たちが良く出てくる。で、その人たちの顔が
また、日本人がどこかで失ってしまったような豊かさや美しさを持っていることにも、
ぼくは驚かされてきた。
 それにしても、この国には別品が少なくなった。政界では鳩山由紀夫さんが
別品かもしれないとちょっと期待したのだが、あの人は「別珍」だったね。
  


わたしもこの意見には全く同感で、記事を読んで深くうなずいてしまった。
ビンビンさん。本当に綺麗な人なのだ。
初めてCMで見たときは驚いた。こんな綺麗な人がこの世にいるのか、と。
以前私は、「花のように美しい女のひとなどというものがあるだろうか」という
テーマで記事を書いたことがある。
さしずめこの人などは、その好例として挙げていいのではないだろうか。

ご覧になったことのない方のために、そのCMをお見せしましょう。
今回、彼女の他の写真なども見たが、ここでの彼女がいちばん綺麗な感じが私はする。
それは、あまり化粧などで作りすぎていない彼女の素顔に近い映像だからなのでは
ないかしら。他の写真は作りすぎで折角の美貌が損なわれていたような。
 
http://www.youtube.com/watch?v=-uGxBRI47P4

本当に別嬪さんである。
ああ。私も別嬪さんに生まれたかったなあ(笑)。

美しい人=別嬪さん、もいいが、本来の意味での『別品』。
いい言葉だなあ。
別シテ品格ノスグレタモノ…。


そういえば、林望さんがエッセイで、慶應義塾大学時代の恩師、
池田弥三郎氏と森武之助氏の名を挙げ、二人の酒がまことに『上品の酒の飲み方』で
あったと書いている。(1993年新潮社刊『テーブルの雲』より『酒の品ということ』)
二人の先生たちは非常にお酒が好きで、強かった。
弟子たちを集めて酒盛りをするけれど、飲むほどに酔うほどに、『清談粋話』。
まことに楽しい、それでいて品格のあるお酒の飲み方をなさる方たちであったらしい。
林望さんのような下戸への目配りもまことに行きとどいて。


この『上品』という言葉。「じょうひん」ではなく、「じょうぼん」と読む。
天野祐吉さんの記事の、1品、2品、…というのはこれと同じことを言っているのであろう。

中国で人物を鑑定したり官吏を登用する際に用いた分類を『九品』(きゅうひん)と言って
仏教では『九品』(くひん)と読む。
『上品』(じょうぼん)、『中品』(ちゅうぼん)、『下品』(げぼん)の3つに大きく分け、
これらにさらに又それぞれ上中下の三品があるとしたのだそうだ。
三品の三倍で九品。

仏教では、『上品』の人は極楽浄土を行き来できると言われているそうだ。
こういう『上品』の飲酒家は、酒飲み全体の中では大海の一滴、ごく僅かな例外だ、
と、林望さんは書いている。

なるほどねえ。
上品の酒かあ…。そういえば、そういう飲み方をする人は少ないのかしら。
下品の酒飲みなら、そこらにたくさんいそうだ(笑)。

酒の飲み方にかぎらず、さまざまな側面で『上品(じょうぼん)』であること。
…これはなかなか難しいことだ。
たとえば、ものを食べるとき。たとえば人にものを手渡すとき、受け取るとき。
人を見送るとき、迎えるとき。
お辞儀の仕方。本のめくり方、鼻のかみ方、洋服の着こなし、
喜び方、笑い方、別れの告げ方…

何よりも、その人の『こころの佇まい』が上等であるかどうかということ……。
個々の振る舞いが美しいかどうかということの根本の、精神のありよう自体が問題なのである。

ああ!
私ってなんて、『じょうぼん』から程遠いのだろう!
時に、自分でも愕然とするくらい、
こころが『下品(げぼん)』になリ下がってしまうことがある。
ああ……!

何かこれは、生まれながらにして備わっているもののようにも思える。
あるいは、その人の過ぎ越し方からおのずと立ち上がってくるもの。
上品の人、まして別品の人は、そういうことさえ意識していないのだろう。
そういうものは、身の内から輝き滲み出るものであって、
私のように、「品」のことを考えているようでは、そもそもだめなのであろう。


別シテ品格ノスグレタモノ…。

天野さんの記事の後半部分の、『この国には別品が少なくなった。』
というところにも深く共感。
高級な商品は世界中から日本に集まっているけれど、本当の質と品格を
備えたものというのは案外少ないのではなかろうか。
何よりも、それを手にする人そのものに、ゆったりと流れる時間や、
おおらかなこころ、本当に優れたものを見抜く目、こころの静謐…
云わば『ひととしての香気』のようなもの…。
そんなものが欠けてきているような気がする。

無論、私自身の自戒も含めて、しみじみそう思うのである……。





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『音楽の贈り物』 13

しばらく寂しげな記事ばかり続けていました。
読んでいただく方も困っておしまいになりますね。
ちょっと明るい曲お送りしましょうね。
今、あまり調子のよくない方も、なんとなく気が抜けて、元気が出ますよ。

Waldeck の曲。90年代に活動を始めたオーストリアのグループで、
20年代のタンゴ、30年代のジャズなどを融合した、不思議な世界を作り出す。
…と、紹介されているのですが、この白黒映像、現代のものかしら?

…どう見ても違いますよね。ということは、演奏、歌は現代のWaldeck によるものだけど、
映像だけは昔のものを、ぴったりシンクロするようにあてはめた、ってことなのかな。

とすると、私が感心しているのは、この昔の映像に対してですね。
3~40年代くらいのショーの演出。とっても気がきいていて、とにかく楽しい。
使っている楽器も、演奏ぶりも、歌手もダンサーもみんな、とっても
古めかしいのだけれど、なぜか凄くキュートでお洒落。
へえ、昔、こんな楽しいショーをやっていたんですね。
ベースの人とかダンサーたち、それぞれの動きをよくご覧ください。
ひとりで男と女の抱き合っているように見える衣装や、ベース弾きのパフォーマンスや
ひとりひとりの踊りや演奏姿が本当に楽しい。
それをこういう風にうまく現在の演奏にあてはめたのかしら。
だとすると、感動的に凄い編集だと思います。


曲はどこかで聞いたことがある曲なのですが、邦題などがわからない。
意味は『あなたは僕といると美しい』というような意味らしいのですが。
と思って調べて行ったら、大体のことがわかりました。

原曲は1933年のイディッシュのミュージカル。作曲ショローム・セクンダ、作詞ヤコブ・ヤコブス。
イディッシュとは、東欧やドイツにおもに住んでいるアシュケナージ系ユダヤ人の言語のこと。
それを37年にサミー・カーンがアメリカに持ち込んで、以降ジャズの名曲として、
多くのアーテイストがカバーしている。邦題は『素敵なあなた』。


とにかく、あまりにも楽しげな歌と演奏だから、きっと見たら明るい気分になれますよ。

どなたか、この映像のオリジナルは何なのか、ご存知の方は教えてくださいね。





30~50年代に活躍したアンドリューシスターズというグループも歌っている。
その歌もアップしておきましょう。
このビデオクリップも、『お熱いのがお好き』のジャック・レモンとか、
ルシル・ポールとかクリストファ・リーとか往年の怪優、迷花(!)が次々と出てきて
なかなか楽しい映像です。

http://www.youtube.com/watch?v=Xe2UXccid40

さらに調べると、元歌のイディッシュの演奏もありました。
これも一応アップしましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=ZUVEq6NC7mM

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『砂絵師』

こんな映像をごらんください。

2009年、ウクライナのタレント発掘番組で優勝した、クセニア・シモノワ(正確な読み方は
わかりませんが)の砂絵です。
彼女は、下からライトをあてたアクリル?板の上に砂をさらさらと、時には激しく
たたきつけて、自分の両手だけを使ってその砂をかき寄せまた払い出しして、
一つの物語をまるでアニメーションのように描き出します。
それをプロジェクターで皆に見せる。



ここでは、最初のシーンで若い男女が、公園のベンチで愛を語っています。
そこにラジオのニュースが聞こえてきます。
(この音楽が私にはとても懐かしい。昔娘と深夜起きていて、モスクワ放送を
なんとなくかけていたことがよくありましたが、時間時間の節目によくこの
メロディが流れてきた)
やがて戦闘機が飛来し、激しい空襲が始まります。
男は戦場に兵士として取られていって、二度と彼女のもとには還ってきませんでした。
女は彼の子供を生みます。老いた母の悲しみ。
男は戦没者の塔に祭られます。子どもを連れてそこを訪れ祈る女。
でも彼女は恋人の死を信じていません。いつの日か、きっと、
彼が、彼女とわが子の待つ家の窓をたたく、とそう信じている・・・・

…そんな物語です。

私はこの映像を夏、You Tube でロシアの音楽を探していて偶然見つけました。
調べてみると、どうやら彼女の砂絵は日本でも『アンビリーバボー』という
番組などいくつかの番組で紹介されたことがあるらしいので、あ、見た見た!
という方もいらっしゃるでしょう。

砂絵…。砂と自分の腕一つで、このような陰影に富んだ表現が出来るということに、
私はいたく感動してしまいました。
言葉さえない、短い映像なのに、何よりも戦争の悲惨とそれに翻弄される
庶民の悲しみが伝わってくる。…すごいです。会場でも物語に貰い泣きする人が。


砂絵師。
実は日本にも、砂絵の伝統があります。
でも、このウクライナのシモノワさんのやるようなものとは全く違う。
砂絵師は、祭りなどを渡り歩いて、いくつかの色のついた砂を、糊で絵を描いた上に
さらさらとこぼして、富士山と鶴とか、松竹梅とかなどの決まった絵を描いてみせ、
砂絵の道具一式を子供の玩具として売りつけるのです。

私自身は幼いころ、数回くらい、祭りではなく普段の日のお寺の門前などで
この砂絵師を見たことがあったかなかったか…そのくらいの淡い記憶しかありません。
シモノワさんの芸術性を感じさせるパフォーマンスに比べ、日本の香具師さんである
砂絵師の絵には芸術性などといったものはこれっぽっちもありません。

シモノワさんの砂絵を見てから、香具師の砂絵のことを調べたくなりました。
砂絵師を描いた小説ないかな。…そしたらありました。

丸谷才一。『笹まくら』。昭和41年刊。
「笹まくら」、というのは、旅で宿に泊まれず、そこらの笹の葉をかき寄せて
枕がわりにして寝る。つまり寂しい旅寝を表す言葉です。
主人公は45歳の大学事務職員。平凡な日常を生きています。
しかし彼にはかつて、太平洋戦争のさなか、20歳のとき、出征祝いの夜に
家を抜け出し、徴兵逃れをしたという暗い過去があります。
彼は時計の修理、砂絵師などをしながら、北海道、九州、中国地方、四国…
各地を転々としながら、官憲の目を逃れ続け、5年の放浪の旅の末、
終戦の日を迎えます。
今彼は、過去を隠して平穏に生きている。
しかし一通の訃報が届くころから、彼の築いてきた平凡な幸せな暮らしが瓦解していきます…
その訃報は、かつて彼を徴兵忌避者と知りつつ愛し、四国の自分の家に連れ帰って
かくまい続けてくれた、彼のかつての愛人の死を告げるものでした…。

砂絵師。その言葉自体が持つ悲しみぴったりの、どうにもやりきれない、せつない話でした。
徴兵忌避。そんな言葉を今聞いてもあまりその重大さがピンとこないでしょう。
しかし、日本人は皆天皇の臣下。天皇のためには命も投げ出すのが当然、と
思われていた時代に、徴兵逃れをする、ということは、殺人を犯すよりは
あるいはもっと重大な罪、と考えられたいた時代だったのです。
徴兵忌避者は、日本のどこに逃げても、徹底して捜索され続け、見つかれば、
重罪として処罰される。しかし、罰刑そのものよりも、国賊として本人のみでなく
家族までが非国民のそしりを受け、辱められ続ける…

戦後も彼はそのことを隠して生き続けるのですが、大学の人事異動の件から
彼の過去がひとに知られていくようになってしまいます。

戦争反対。人を殺したくない、というまっとうな感覚から決意した徴兵逃れの逃避行。
そうして戦後十数年たってなお抱き続ける汚辱感。
逃避行をともに続け、身の危険も冒してかくまってくれたのに、捨ててしまった女の思い出…。
5年間の逃避行生活で彼が僅かに味わった安住の地は、彼女の郷里の四国だけででした。

丸谷才一さんは私が昔から好きな作家です。でもエッセイはよく読んだけれど、
小説はあまり読んでいなかった。これは、河出文化賞を昭和42年に受賞。
丸谷才一さんはその後も芥川賞を始め数々の文学賞を総なめにしています。
一貫して、非戦の立場を貫く筋金入りの文学者です。

今、このテーマはさすがに古いと感じられるでしょう。
でも、沖縄問題や米軍との関わり、北朝鮮、中国との関係、などを考えれば、
決して遠い遠い問題ではないと思います。

それもなのですが、私はこの、砂絵を売って生計を僅かにたてながら、各地を
逃げて歩く、孤独な青年の姿、そうしてそれを支える女の姿に、
何か、自分の兄や姉の姿を見て、それでこの文を書いているのかもしれません。

兄も、九州、東京、京都、四国、中国地方…を職を求めて転々としてしていたことがあります。
まだ日本が貧しかった頃…。そこで行きずりの女のひとの情を受けたこともあったでしょう。
ひたすらでやさしい、ただただ温かい、女の情を。
姉はとてもとてもそんなしおらしい女ではありませんでしたが(笑)。

長女と私は堅実な生き方を。
しかし、私の中にもなぜか、兄や次姉と同じ放浪への憧れはあって、
この年になってなお、こころの中をさすらいの旅の夜風や浜風が吹きぬけることがよくあるのです。







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『音楽の贈り物』 ⑫

東京は台風の影響で雨。
昼頃激しく降っていましたが、今は小康状態。
夕方から降りが本格的になるかもしれない、ということで、先ほど買い物に
行ってきました。

いつもは、浅い川の流れも、今日は黄土色の濁流となって、橋の下を
音たてて流れていっています。
風はまだないので、雨は静かにまっすぐに落ちてきています。
霧のような細かい雨粒は、辺りを少し薄い乳色に煙らせて見せています。

2010_0907_155104-CIMG2717_convert_20100908152830.jpg


昨日まで、乾ききって枯れる寸前、というように見えていた川べりのコスモスたちは、
葉からも地面からも、喘ぐように恵みの雨を吸い取って、いまはピンとしているのが
いじらしい。

人にはなんとなくもの寂しい九月の雨だけれど、ああ、植物たちにとっては
なんという甘い雨であったことでしょうか。



しばらく音楽をアップしていませんでした。
夏の音楽が出尽くしたから。
さてまた、秋の音楽でも探していきましょうか。
秋の歌第一曲目。こんな9月の雨の日には、やはりこの歌を。
選曲がストレートすぎるかな。他に思いつきませんでした(笑)。

ああ、でも、台風の影響による雨の地域は、東日本中心。
いま、雨でない地域の方は、また雨の日にでもお聞きくださいね。

昨日までの暑さが嘘のよう。少し肌寒いほどで、
風邪気味で少し熱っぽい私。青い色のカーディガンを羽織って今これ書いています。

http://www.youtube.com/watch?v=bVfM2eXebBA


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『美しき終焉 』


8月半ばのある日、わたしは、何が、と言ってどうとはっきり言えないのだけれど、
あるどうしようもない寂しさを抱えて、銀杏並木のまっすぐに続く
幹線道路の道をひとり歩いていた。

自転車をひいていたのだけれど、乗らずに押して。
この道。行きは下りでいいけれど、帰りはずうっと緩やかな上り勾配。
連日の真夏日の焼けるような日差しの中、自転車を走らせるのはつらいから。
じりじりと西日が、むき出しの腕や顔に照りつける。
銀杏並木の影を拾いながら帰る。

と。足元に何か鮮やかな色が映った。
色のないペーブメントの上に、一点の鮮やかな色彩が。
見るとそれは、一羽の蝶だった。

あ。死んでるのか・・・。

自転車をひいていったんは通り過ぎたのだが、気になって引き返した。
だって、もしかするとまだ生きているかもしれないではないか。
ここは歩道だから自動車は通らないにしても、びゅんびゅん飛ばす
中学生の自転車などは通る。
蝶はそんな自転車に衝突して、今はただ気を失っているだけなのかもしれない。
生きていないにしても、それらに踏み潰されるのはあまりにも無残ではないか。
せめて植え込みの陰にでも移しておいてやろう…そう思った。

蝶のそばに屈みこむ。もうダメみたいだな。
かすかに吹く風が地面を通り過ぎていく。私の肌には気づくか気づかないほどの風にも、
ボロボロになった薄い蝶の羽は敏感に反応して、僅かに揺れている。

すうっと伸びた美しい触角。私の大好きな蝶の目。赤い綺麗な斑点。
そうだ。写真を撮っておいてやろう!
そうすればこの子は私という人間によって、その生が鮮やかに記録される。

自転車に戻って、籠の中からカメラを取り出し、蝶の姿を写真に収めた。
なんという蝶だったっけか。こんなに美しい…。こんなに繊細…。

近くの家の庭先で、草とりをしていた老人が、不思議そうに見ている。

写真を撮った後、蝶の羽をそっと指先でつまんだ。そぐ横の植え込みに
移そうとしたのである。
するとどうだろう!蝶の細い脚は、敷石の僅かな凸凹をつかもうとするではないか!
生きている?
いや・・・生きてはいまい。私が指を差し出しても、蝶はそれにしがみつこうとはしなかった。
かつて、黄色い蝶を抱いて寝たこともある私。蝶の足の感触はよく知っている。
この子の足には、生きているものの気配はなかった。
…それではなぜ、さっき、敷石をつかんだような感じがあった?
おそらく、それは、生き物が持つ生きるための機能なのだ。
蝶やその他の虫がしっかり草や花に止まるため、そこにギザギザが備わっているから…。
それがただ引っかかっただけだったのだろう・・・

私は蝶を、最初、植え込みの躑躅の葉の上に置こうとした。
しかし、風がちょっと強く吹けば、蝶は飛ばされて、また歩道に落ちるかもしれない。
それよりは、ツツジの根方に置いてやろう。
そう思って、しゃがみこんで、躑躅の根元の乾いた土の上にそっと蝶を置いた。

するとどうだろう!蟻が二匹、すぐに寄って来たのである!
ああっ!だめだめ!

私は再び、蝶をやわらかくつまんで蟻から取り上げ、躑躅の葉の間にそっとおろした。
風にとばされないような奥の方に。
もし生きていればやがてここから飛び立つであろう。
そう願いながら。

2010_0823_155052-CIMG2570_convert_20100824230210.jpg


これは、アカボシゴマダラ。
実はこの蝶。東南アジア諸地域で見られる蝶で、日本では
要注意外来生物に指定されているらしい。
日本在来のゴマダラチョウの生息を脅かすかもしれない、ということで。
本来日本には奄美諸島で見られるだけで、それが’95年、遠く離れた埼玉で突然
見かけられ、ここ数年神奈川県を中心とした関東で、急に個体数が増えているという。
そういったことから、これはおそらく蝶愛好家が、意図的に繁殖し関東で放蝶
したものだろうと考えられているらしい。

ああ、でも、そんなこと。人間の勝手な事情ではないか。
先日の八重咲きオオハンゴンソウもそうだが、人間の勝手な移動や貿易取引などで、
海外から持ち込まれる。
マツヨイグサのように風情があれば愛してすてきな名前をつけて貰えても、
反魂草のように繁殖力が強いと迷惑がられる。しかも明るい黄色の花の姿に似合わない
不気味な名前をつけられる。

花に罪はないものを…
蝶に落ち度はないものを…。


わたしが巡り合ったこのアカボシゴマダラチョウ。
翌日、同じ場所を通りかかったとき、躑躅の植え込みや辺りを熱心に
探して見たが、その姿は見かけられなかった。

ああ。私の勘違いで、あのこが気を失っていただけで、
あのあと気づいて、また夕暮れの空に飛び立って行ったのだったらいいが。
それだったら嬉しいのだが……



いつもこのブログに出てきていた女寅次郎のような次姉。

彼女がもう随分前に亡くなっていたことが、この夏の終わりに、風の便りに伝わってきた。
こういう生き方をすればそういう死に方をするしかない、というような、
一人ぼっちの寂しい死であったらしい。

聞いて不思議に涙は出なかった…。
むしろ彼女の生き方、それを是として祝福してやりたかった。
思うさま、自由に、勝手に、激しく生き抜いたものを。なぜわたしが憐れみ嘆くことがあろうか。

姉よ。あなたはある意味、しあわせだった…
あなたはあなたなりに美しく生き抜いたのだ…




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[『余情の美 其の三』


私は、このブログを始めて間もない去年10月に、『余情というもの』という
タイトルで記事を書いている。
これをここでちょっと再録させていただきたい。


         『余情というもの』 

『余情』・・・・・詩歌・文章などのあとに残る趣。余韻。

人が人をどれだけ大切に思っているか。
それはその別れ方に表れるものである。

また、人に限らず、ものに対しても、その物を大切に思うならば、
それに対し思い入れのない場合とは別れ方がおのずと、違ってくるだろう。

例えば、映画。
映画館に行って見る場合にも、テレビで見る場合にも、本編が終わってすぐに
そそくさと席を立つ人は、その映画に対し大して感動もしなかったのであろう。
映画の余韻を楽しむよりは、皆がトイレに殺到して混む前に行っておきたい、とか、
帰りの電車の時間の方が気になるとか、
別の番組にもう心が移っている、とかいうことなのだろう。
その映画に深く感動しているならば、エンドロールまでを、席に着いたまま
静かに味わおうとするはずである。そうせずにいられない筈である。

また、男女のいわゆる『後朝(きぬぎぬ)の別れ』ならぬ、
愛の行為の後でも、どちらか片方が、そそくさと立ち上がり服を着始めるとか、
もっとひどい場合には、ざあざあと体をシャワーで洗い流し始めるとかした場合には、
その人は、相手をさほど愛していない、ということが言えまいか。

いきなり、色っぽい話題になってしまったが、
私は、一体に、別に忙しいわけでもないのに先を急ぐ人というのが嫌いである。
例えば、人と話している時に、こちらの話の腰を折るように、
「それで?」とか「で、何なの」とか、「だから何が言いたいわけ」
などという言い方をする人がいたら、もうその人とは話をする気をなくしてしまう。
これを読んで、「そんなこと普通言わないでしょ。」と笑っている方も、
もしかしたら、自分の兄弟や、自分の妻や夫や自分の子供、また親などに対しては
こういう言い方をしていはしないだろうか。

子供が一所懸命、その日あったことをつたない言葉で親に話そうとしている。
最初はちゃんと聞いていた親も、そこで下の子がタイミング悪く
ミルクをこぼしでもしようものなら、上の子の話をさえぎって、
「(下の子に)ん、もう、・・・ちゃん!気をつけなさい!
(上の子に)え、なに?何が言いたいの。サッサと話しちゃいなさい。
今忙しいんだから!」
などと言ってしまうことはないだろうか。

もし、あなたの恋人が、あなたにこういう言い方をするようになったら、
それは愛の終わりを意味していると思った方がいい(笑)。
逆に、あなたがいつか何気なく話したことを思いがけず覚えていてくれたり、
あなたの少々くどい話もしんぼう強く聴いてくれるようならば、
その人はあなたを大切に思ってくれていると思って間違いない。

同じような感覚で、私は、人の目の前で、ドアをガッシャ―ンと閉める人の
心も疑う。
これも結構そういう人は多いんですってば(笑)。

友人知人が訪ねてくる。
美味しいものを一緒に食べて、楽しく語らって、暇を告げる時間が来て、
玄関に出る。別れの挨拶を和やかにかわして、外に出る。
と、まだ訪問者がそこを立ち去ってもいないのに、ドアをガッシャ―ンと
音たてて閉め、その上、鍵までガチャンとかける人。
これが結構多いのである。

さっきまでの親しさはいったい何だったの、と思うような素っ気なさ。
こういう余情のなさを私は憎む。

おかしいと言われるかもしれないが、私は友人知人は勿論のこと、
新聞の集金、郵便局の人、セールスの人々に対しても、
その目の前でドアを閉めたり、まだその人たちが門を出ていかぬうちに
鍵をガチャンとかけたりすることは絶対にしないようにしている。
それは不用心だよ、と言われるかもしれないが、
それは、人に対する礼儀であって、友人知人であるか否かは
関係ないのではないかと思っている。

不思議なことに、映画館ですぐ席を立つ人。人の話の腰を折る人。
人の目の前で音たててドアを閉め施錠までする人。・・・・・・・
そういう人はそのすべてをやってしまう人なのではなかろうか。
つまり、『余情』という感情に鈍感な人なのではなかろうか。

しかしこれが、男女を問わず、意外に多いのである。
どんなに美しい顔をしていても、私はそういう人に恋しない。
逆にどんな見かけをしていようと、そういう微妙な感情を大切にしてくれる人には
男女を問わず、魅かれてしまう。

そういう人はきっと、ものを大事にし、人を大事にし、
愛撫する手も優しい人なのではなかろうかと思う。

その人の心映えは、微妙なところに現れる。
ものを取り上げる時の用心深さ、ものを置く時の音。
そういった仕草の優しい人は、『余情の美』を知る人であろう。

今、世の中から、こういう『余情』というものがだんだん失せて行って、
人々がガツンガツンと、生で角をぶつけ合うことが多くなっていはしまいか。
あるいはそうされることを避けて、最初から話を聞いてもらえうことを期待しない、
別れを惜しまれることも期待しない、自分もそういう余韻を味わうことを
忘れている、というようなことが多くなっていっているのではなかろうか。
寂しいことである。

どうせ一度しか生きられない人生ならば、滴るような情感の中で生きてみたいと
人にも自分にも願う私である。



自分のこの記事を今読みなおして見て、なんとこのころ、私はつややかな文を書いて
いたのだろうか、と自分に驚く。
自分で言うのも変だけれど。

今の私にはこのつややかさがない。
…それはどこに原因があるか。一に自分自身にある。
私自身が何かを失ってしまったのである。
私の中から何かが消えてしまった。…純粋さのようなもの。

そうしたものは、一度失われてしまうと、もう二度と戻らないものなのであろうか。

今、『つややか』という言葉を使った。
つややかということは、情感が豊かに満ち満ちている、ということであろう。

ところが、その情感も、『余剰』になってしまってはいけないのである。
『余情』と『余剰』…。音は同じで字面も似ているが全く違うもの。
たとえば、ひとと別れるとき、さよなら、といった途端にさばさばしたように
ふりかえりもせずに行ってしまえば、それは愛着がないのである。
といって、では、いつまでも別れを惜しまれると困る場合もある。
転勤する人を駅に送ってホームでさよならを言ったはいいが、列車がなかなか
出発せず、「早く出てくれよ!』と内心思った経験はどなたもおありだろう(笑)。

そう。『余情の美』というものは、ほどが難しいのである。
情感が足りなくてはむろんだめだが、過剰になっては、それはもう美ではない。
どこかで一線をひく潔さ。そこにこそ『余情の美』というものは生まれる。

『つややかさ』ということも、実は過剰ではだめで、ある一線で抑えているからこそ
生まれるもの。そういった意味では『余情の美』と似ているかもしれない。

ああ、私は、このつややかさと余情の美を失ってしまったのではなかろうか!
こころが乾いてパサつく。反対に溢れすぎて過剰になる…その両極端を行ったり来たりである。


私の人生はあと少し。
年とは関係なく、最後までつややかに生ききりたいものである…。
立ち去った後に『余情の美』を残したいものである…。




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彼岸花さん

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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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