『夏の思い出』

ああ……
2013年の夏も過ぎて行きます。

この夏は、私には珍しくひとりの旅もして…
でもその後は、暑さのせいもあって少し停滞気味の夏。
旅の記録もまだ書けていません…

それでも。
いく夏を惜しんで、この夏の思い出の一部、少しアップしておきましょうか。

       

                    



             



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これ。なんでしょ。


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実は、暑中見舞いの絵ハガキ。
この夏、ク―ママさんにいただいた包みにそっと添えられてありました。
透けない紙を2枚合わせにして、その間に透明なプラスチックをはさみ、
丸くくりぬいてあります。
ほんとの風鈴みたい。^^
誰が作るのか、よく考えるもんだなと思います。
涼しげでしょう?



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いただいたものは、これ。
匂い袋です。
ラベンダーの花をドライフラワーにしたものが、中袋に入っています。
夏着物の絽の端布を丁寧に縫い合わせて作った表袋。絽の透けた布から、ラベンダーの
とってもいい香りがほのかに香ります。



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反対の側はこんな感じ。
ク―ママさんとお仲間の皆さんは、東日本大震災の被災地の、仮設住宅に住むお年寄りの
方々に、こうした手仕事のキットを送る活動をしてらっしゃる。
出来あがったものをお送りするのもいいけれど、外に出ず仮設住宅に閉じ籠りがちな
方々に、手を動かしてものを作る楽しみを取り戻していただきたいと、
活動の一つとして、こうしたキットも送っているのです。
私も、家にある絽や紗の端布を少しばかり送らせていただきました。
そしたら、こんないい香りのすてきな匂い袋が戻ってきました~!
ラベンダーって、こんない香りがするんですねえ。
夏の疲れた心や神経をほんとに癒してくれる香りです。



             

                          





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旅の思い出に買って来た品々の一部もお見せしようかナ。
これ。Kの街のおみやげ物屋さんで買って来た、ガラスの金魚。
この夏ずっと、パソコンをする私の横にいてくれました。



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これは、今月のキャンドルナイトでもご紹介した、旅先の海辺で拾った貝たちです。
プラスチックのケースに入れて大事にしまってあります。
水槽みたい。
ちょっと狭いかな。


              


この時の記事にも書いてありますが、震災後2年以上過ぎた今でも
埼玉県加須市の廃校になった高校の体育館で避難所暮らしをしていらっしゃる
福島県双葉町の方々105人がおいでです。

その方々は、お年を召して、夫婦二人だけあるいは一人暮らしで介護を必要とする人が多く、
仮設住宅などで孤立することを恐れて移住に踏み切れない…
この加須市の高校校舎での生活が、まだ人とのつながりや、役場からの福祉の手が
届きやすくて安心だからだというのです…

しほさんが教えて下さった、そうした方々の住宅確保のための支援の署名集め。
プリントアウトして郵送するという一手間が必要ですが、よろしければぜひ
署名にご協力ください。

原発事故による避難者の「住まい」に関する署名 | 震災支援ネットワーク埼玉
http://431279.com/news/shomei.html


国会向けと地方議会向けと2枚、必要です。

第一回の締め切りは、9月17日到着分まで





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『火野葦平 「麦と兵隊」②』

私が日中戦争・太平洋戦争を描いた数多くの戦記物のフィクション、ノンフィクションの中で、
この火野葦平の『土と兵隊』『麦と兵隊』を最初に手に取ったのには理由があった。
いわゆる典型的な反戦文学ではないものを最初に読んでみたかったのである。
無論、国家の意を汲んだ戦争称揚の作品は読みたくない。
戦争賛美でも徹底した反戦でもなく、冷静に、いいことも悪いことも含め
当時の様子を活写したもの…。

しかし、それはなかなかない。
ご存じのように、日本は1893年の出版法、1887年の新聞紙条例、
1909年の新聞紙法等によって、出版・新聞等に対する国家による内容の厳しい検閲が行われていて、
日中戦争が勃発してからはさらに、作家も言論人も自由は封じられていた。
だから、純粋な意味で、戦前戦中における反戦文学というものは、本当に少ないのである。
私のように予備知識のない者は探すのに苦労するくらいである。
大抵の作家は、戦争の嵐がいつか吹きすぎるまで、頭を低くし口を閉じ、
筆を折ってじっと隠忍するか、あるいは国家の方針に従い、戦争遂行のプロパガンダの
作品を書くか…そのどちらかしかほとんどなかったと言ってもいいだろう。

戦後、そうした人々は、くびきから解放され、また作品を書きだすのであるが、
私には、戦中はそうやって積極的、消極的に戦争協力していながら、戦後になると
手のひらを返したように、戦中の自己を反省し、禊は済ませて新しく生まれ変わりました、とばかりに、
明るい作品や、戦争批判の作品を書いていった、変節の作家を、大変に苛酷な言葉だが
なんだか信用ならないと感じてしまっていたのである。
(だが、色々な、戦後に書かれた作品を読んで行くうち、ほんとにたくさんの作家が
戦中には書けなかった想いを吐露している…それらにも向き合ってみようと思うようになった。)

戦争称揚でもない、戦後になってからのご都合主義の戦争批判でもない…、
戦中の反戦文学はもともとほとんどない…
そういう乏しい選択肢の中で、どちらにも傾かず比較的、客観的に戦争を見つめた作品はないか…
そう思って必然的に辿りついたのが、火野葦平であったのである。

火野葦平の『土と兵隊』『麦と兵隊』。
どんな印象を受けられただろうか…。
彼は従軍記を書いたり講演をしたりすることによって、国民を戦地に向かわせた
ということで、戦後、公的にも私的にも随分厳しい糾弾の嵐の中に立つことを余儀なくされた。
しかし、私が最初にこれらを読み終わった時残った印象は、率直に言って、戦意高揚の
プロパガンダ性などほとんど感じなかった。
私に残った印象は、ただ、 広い中国の大地を、そこに張り巡らされたクリークの水や泥や
雨と戦いながら、ひたすら這いつくばって前進する日本軍兵士の姿。
そして何処までも続く広漠とした麦の畑の中を、
黙々と行進していく兵や馬や、トラックや戦車のシルエットである……

その雰囲気を、あれからおよそ70年、日中戦争・太平洋戦争などというものを知らない
若い方々に伝えたいと思って、こうやって当時書かれた文学に力を借りようとしているが、
言葉というものは、古くなっていく。引用しただけではその意味も雰囲気もわからない言葉が
続出してくるだろう。
例えば、両作品に『円匙』で土を掘る場面がしょっちゅう出てくる。
野営をするとき、円匙で穴を掘ってそこに寝る。行軍中には何度も敵の攻撃を俄かに受けるが
敵が掘ってうっちゃって逃げた塹壕や味方の先に行く隊が掘った塹壕があればいいが、
そういつも都合よく何処にでもあるわけではない。頭を低くさげて地面に這いつくばったまま、
少しでも敵の銃弾から身を守るために、自分の周りの地面をこの円匙で掘るのである。
少しでも、ほんの少しでも、自分の頭を低くして、弾にあたらないようにするために…。
私は古い人間なので、大抵の用語は分かるし、そのイメージも描けるけれど、この円匙は
実感が持てなかった。
丸い匙?…小さなスプーンで人間が隠れられるほどの穴を掘る?

検索してみると、あった!
『円匙』(えんび。正しくは、えんし)。
http://www.日本の武器兵器.jp/archives/2732
なるほど!円匙とは、いわゆるシャベル、スコップの類のことか!
そうだよなあ!お匙では土を掘るのは大変だよなあ…
このサイトでは、兵隊の必携品であったこの円匙を背嚢(はいのう。背負い鞄)に入れた兵士の姿が
見てとれる。これが正規の装備で30キロ以上あったという兵の持ち物の実際の姿だ。
背嚢の中には、およそこんなものが入っていた。

携行口糧甲4日分(米840g(精米640g、精麦200g)、牛肉缶詰、乾燥野菜、漬物、粉味噌等)
携行口糧乙1日分、(乾パン675g、金平糖10~20粒、缶詰肉150g、食塩12g)
缶詰3(上記と別)。
干魚1日分。空腹を紛らすため、鰹節をかじるシーンが何度か出てくる。
梅干1日分、被服(襦袢、袴下)
歯ブラシ、カミソリ、裁縫道具、包帯など日用品は、雑嚢に入れる。
被服はそうした下着のほかに、それから、小さく丸めた毛布一枚もある。
現地は水が悪いというので、ビール瓶に日本の水を詰めたのも『土と兵隊』では出てくる。

これらのほかにさらに、当然のことながら、銃や軽機関銃。弾薬盒を前に2、後に1、
弾薬実包120発、鉄帽(ヘルメット)、防毒面、件の円匙(スコップ)、飯盒、水筒、
地下足袋。
その他に携帯天幕や外套を持つこともあった。一体全体で、どのくらいの重さがあったことやら!

1945年、20歳の日本人男子の平均身長は165センチ(ちなみに女子は153センチ。
1995年には男子171センチ、女子158センチ)。
今より、5,6センチは小柄な体で、この重い装備を身につけ、兵隊は、
中国の広漠とした大地を、あるときはクリークを体どっぷり泥水につかりながら渡渉し、
窪地を跳び渡り、雨の中を濡れ鼠になって行き、また、地に這いずりしながら進軍して行くのである。

『土と兵隊』では13人の部下を持つ小隊長として。
『麦と兵隊』では、ともに行軍する従軍作家として。
火野葦平の視線は終始、作家の冷徹な眼を保ちつつ、いわば…、人情味はある。
それは、味方の日本軍兵士に対してだけでなく、捕虜になった中国軍兵士に対する眼も、
行く先々で束の間交渉を持つ中国の農民や女、子供に対する観察も同じである。
捕虜になった中国兵4人を囲んで、日本兵で支那語のできるのが話しかけてみたり、
あるいは、煙草に火をつけてやって、繋がれた彼等の口に銜えさせてやったりする光景は、
ああ、戦場にあっても、人間というものはこうだろうな、と思わせる説得力を持つ。
どこの戦争のどこの戦地でも見られた光景なのではなかろうか。
大岡昇平『野火』では、逆に飢えと乾きと病に半死になった日本兵捕虜が、アメリカ兵に
煙草を銜えさせてもらうシーンが出てくる…。
戦闘が終わり、国家というものを背景に背負っていない状態の兵士と兵士は、
温かい肉体と人懐っこい心を持った一人間と一人間でしかないものを…。

人に向けられる視線だけではない。
道々、見ながら通り過ぎていく中国の農村の風景にも、夜、浅い穴に身を横たえて仰ぐ
星の光にも、殺伐とした戦場であることなど関わりなくふっと飛んで消える蛍の光にも、
兵士と苦楽をいわば共にする馬たちにも、途中で挑発する鶏や豚やアヒルなどにも、
飛来する中国軍の弾に当たって死ぬ農家の驢馬たちにも(何で死ぬのかわかっていなかったろう…)
火野の素直な観察眼は向けられる…。

私は、他にも林芙美子等、数人の従軍記を読んだ。それらだって兵士たちの労苦を
描いていないわけではないのだが、この、火野の2作品は、兵士たちに対する、
そして、敵味方関係なく、およそ生きているものへの視線が、他とちょっと違うような気がするのだ。
『優しい』『温かい』などという単純な言葉では表しきれない…何か、根本的な、生きとし生けるものへの
シンパシーとでも言おうか…。
これは、そうあってほしいという、私の思いこみのせいなのかしれないが、
私はここに、自らは沖仲仕という港湾労働を仕切る組の親分でありながら、その労働者たちの
ために組合を作ろうとしていた、若き日の葦平の眼差しをなぜか感じるのである。
前の記事で、東電の例を引き合いに出したが、自分等の会社で一番危険でつらい仕事をする
4次、5次、6次…の派遣原発労働者…それらの人々に対する、経営者、また上級正社員の視点には、
こうした、同じ人間としてのシンパシーなど、感じられはしない…。
まさか組合を作ってやろうなどと、そんなことは思ってみもしないだろう…

人間の本質というものは、戦地でも根本的にそう変わりはしないと私は思っている。
戦場では、人間が変わると一般には言われている。
上官に命令されれば、心にどれほど抵抗を感じていても、ひとは捕虜を刺し殺したり、銃で殺したりする。
そうしなければ、自分が軍隊という厳しい場で生きていけないからである。
しかし、これを命令したり命令されて喜び勇んでやる人と、深い苦悩を感じつつ、戦争というものの残酷に
自分も従わねばならないことを呪いつつ、心のうちに手を合わせて捕虜を処刑する人との
間には、大きな大きな一線というものが画然としてあるように私は思うのだ。
前者はおそらく、概して、終戦後日本に帰った後も、心にあまり痛みは感じないで生きて行ったであろう。
後者は、その胸の内に深い傷を抱え、ある者は戦争に関して一切口を閉じて語らぬまま、
ある者は、贖罪の活動をしながら、一生重たい想いを抱えて生きて行ったのではなかろうか。

私は、火野葦平は、後者の人であったと思っている…

これは、いわゆる反戦文学ではない。
しかし、と言って、これが、戦争に深く加担した、国威高揚のための文学だとも思えない。
読んだ後の感じは、むしろ静かな作者の怒りである。そして兵や民への共感である。
これは、火野葦平が、自ら戦場に身を置いて、伍長として部下と共に戦った経験、
激しい戦闘の実態も、また、奪われる側の暮らしもつぶさに経験している、そのことが
自然にそうさせているのではないかと私は思う。
これは想像や聞き書きではない。作家自らが眼で見、経験したことなのだ。

『麦と兵隊』の冒頭シーンに近いところ…火野が従軍作家としての命を受け
上海から、戦場に近い基地・蚌埠まで十二時間軍用列車で行くシーンがある。
延々と続く麦畑、走り去る楊柳とアカシアの並木。望楼の上で見張りをしている兵士。
粗末なにわか作りの警備小屋から、ゆっくり進む列車の兵士に向かって帽子や手を振る日本軍兵士の
姿や、こちらの軍用列車の上からも、「煙草やろうか」と言って、『バット』(軍配給の煙草の名)を
投げて渡す姿などを彼は見ている。
煙草は、戦場の兵士たちにとってどれほど大事な有難いものだったことか…。
戦いが一息ついては煙草を吸い、つらくて吸い、疲れて吸い、捕虜にも差し出す…。
そういう現地の兵たちの労苦に思いをいたしながら、一方で彼は、
支那事変勃発直後こそは、さすがに内地日本の銃後の国民も緊張していたけれども、
それからしばらく経ったここに至っては、内地の空気は甚だしく弛緩しているという、
内地に一度帰った者の戦地での噂話を思う。
そして、これだけの大がかりな戦をしながら、内地はそんな戦のことなど思わぬげに
のんびりしているという国民の鷹揚さを許容する気持の一方で、
戦場の実態を知らない「『軽薄な国民に対する憤り』も胸の底から湧いてくるのを禁じ得なかった」
と書いているのである。

私は、このあたりに、火野葦平という作家の、本質的な部分が垣間見えているように
思えてしかたがない。
『土と兵隊』『麦と兵隊』は、
彼自身が他の作家の従軍物語を指して言ったように、『感動的な言葉を持って綴られた、
戦場に於ける、血沸き肉躍る壮烈な武勇伝や、忠勇鬼神を哭かしむる美談や、面白い物語や、
雄渾な構想を持った事変小説や』などではけっしてない。
と言って、明らかな反戦を意図したものではない。
しかしながら、その淡々とした戦場描写に、私は、なによりも強く、どの作品よりも強く、
『戦争はごめんだ!』という思いを抱いた。
おそらくそれは、これらがフィクション性を極力排した、正直な戦場の記録であるからだろうと思う。
無論、これは、一日本軍兵士、一作家の視点でしかない。中国側からの視線はないのだけれども、
それでも。


この作品は、反戦だの戦意高揚文学だのの範疇を超えて、何か、戦後の、
それこそ銃後にいた人々の『軽薄な』批判など許さぬような強さがあると私は思う。
そう言った意味で、これからも多くの人に読み継がれて欲しいと思う。

私は、火野葦平という作家が、このように戦場の経験をありのまま書きとめてくれておいた
ことを、ありがたいと思う。ほんとうは、どれほど口を噤んでいたかっただろう。
ほんとうは、どれほどもっと語りたかっただろう。
彼自身の言葉によれば、『ここに書いてあるだけのことを、私は戦場で見て来たわけではない』
『ここに表現されているのは、書きたいことの十分の一にすぎない』

でも、私は、この2作品で十分だと思うのだ。
戦争というものがどういうものか…
それは、なにも声を高くして激越に語らずとも、この淡々とした従軍記の、行間に、
まさに、行と行の間に、こんなに切実に読みとれるではないか!!


火野葦平。終戦の15年後、『革命前後』という自らをモデルにし自らの戦争責任について
記した作品を書きあげて後、どんな気持ちを抱いて53歳の誕生日の前日、自宅で睡眠薬自殺を
遂げたのだったろう。

彼はどんな想いで、自分の人生に区切りを付けたのだろうか。

                *

『はだしのゲン』が、松江市の各小中学校の学校図書館で、昨年12月以来閉架扱いになっていた
というニュース。
日本軍兵士が中国兵の首をはねるシーンや、女を襲うシーンが出てくるのを、子供に見せるのは
どうか、ということらしい。
きっかけは、ある男性から昨年8月に市議会に出された陳情書だった。
「ありもしない日本軍の蛮行が掲載され、子どもたちに悪影響を及ぼす」と、学校からの撤去を求めていた。
陳情は不採択となったが、一部市議から「不良図書」だとして市教委が適切な処置をすべき
だとの意見があり、閲覧制限の指示につながったのだという。
下村文科相も、この措置を『問題ない』と認識しているという…

『ありもしない日本軍の蛮行』と最初に投書した男性。その意見を結果的に取り上げて、
閲覧制限に至らせた一部の松江市議、市教委、そして各小中学校、さらに下村文科大臣は、
『はだしのゲン』のそうした日本軍の蛮行の描写を、『ありもしない』ことと、やはり
同じように思ったのだろうか。
…こういう大人にこそ、私はこの火野葦平の『麦と兵隊』『土と兵隊』や、
次に私が取り上げてみようとしている石川達三『生きている兵隊』などを読んでほしい。
これらは決して反戦、反動、反日の文学などではない。しかし、その中には、
日本軍の蛮行がくっきりと描き出されている。
『ありもしないこと』などでは決してないのだ!

日中戦争における日本人の死者は45万人とも。
一方の中国側の死者ははっきりしない。1985年、共産党発表では、軍隊の戦死者100万人、
民間人2000万人、計2100万人というが、この数字は不確かにしても、日中戦争の
戦場となった中国の側に、比べ物にならない多くの死者が出、多くの経済的損失があったことは
否定できないだろう。
語られぬ死、名前さえ知られぬ死が、どれほど中国側に多くあったことだろう……
これらのことを、私達は見ないように無視して、忘れて通り過ぎることは出来ないと
私は思うのだ。


なお、余談であるが、私が尊敬する、ペシャワール会医師、中村哲氏は、火野葦平の甥である。
半年ほど前、私はそのことを知った。
戦火のアフガニスタンで、医療、水源確保(灌漑用井戸掘削・水路建設)、農業支援などの
活動を行っているこのひとの肝の据わりかたというのか、なんという覚悟の出来た見事な人
だろう!といつも思っていたが、、火野葦平とのつながりを知ったときは、驚きもし、
なんだか嬉しかった。
中村哲氏については、いつか記事にしたいと思っている。




『火野葦平 「麦と兵隊」①』

『麦と兵隊』は、芥川賞作家で陸軍伍長であった火野葦平が陸軍報道部に引き抜かれて、
その命を受けて徐州作戦に従軍作家として同行した時の記録である。

徐州作戦は、日中戦争中の1938年(昭和13年)4月7日から6月7日まで、
江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本陸軍と中国軍(国民革命軍)
による戦いである。
徐州作戦の構想は、まず台児荘の北と北東にいる第10師団・第5師団が、
蒋介石の率いる約50万ともいう中国軍の大兵力を徐州付近に引きつける。
一方、第14師団と第16師団が微山湖西側から南下して徐州を目指し、
南から中支那派遣軍(第9師団・第13師団)が北上して中国軍を包囲するという計画である。
日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、中国軍主力を包囲撃滅することはできなかった。
(以降、日中戦争は否応なく泥沼化していく…。)

火野葦平は、この中支那派遣軍第9師団 吉住良輔中将の率いる吉住部隊と共に、
どうやら行動したようだ。軍報道部の主力や各新聞の従軍記者も全機能をあげてこの
部隊と行動を共にする、と書いてある。日記は、5月4日、火野が上海の、
この前の記事で出て来た、報道部馬渕中佐の部屋に行くところから始まる。
そこで火野は、第9師団高橋少佐宛ての書面を渡され、いよいよ前線に赴いて、
報道部高橋少佐のもと、従軍して記事を書いていくことになる。

季節は麦の実る頃である。広い中国の野は一面の麦、麦、麦…。
付近の部落の住民は逃げてしまっているので、刈り取る者もいないのである。
その海のような麦畑の間の道を日本軍兵士たちはひたすら行軍していく。
火野の乗った報道部の自動車は、行軍するそれらの兵士たちを時に追い抜き、
また、別の一隊と共に、徴発した部落内の仮の宿舎で寝泊まりなどしながら、
前線へ前線へと進んでいく。

蒋介石の軍は日本軍の進軍に連れて後退。戦闘で捕虜になった中国軍兵士を火野は
多数目にする。

『捕虜が入口の門の木の下に四人座っている。いずれも正規兵で、どれも慓悍で
頑丈な体格である。日本の兵隊が周囲に集って、中に少し支那語を操るのがいて、
色々と話しかけ、大声で笑ったり、又、煙草に火をつけて捕虜に銜えさせてやったりしている。
何時でもそう感じるのだが、私が、支那の兵隊や、土民を見て、変な気の起るのは
彼等があまりにも日本人に似ているということだ。(中略)これは、つまらない感傷に
過ぎぬかも知れぬが、これは、大きな意味で、我々と彼等とは同文同種であるとか、
同じ血を受けた亜細亜民族であるとかいうような、高遠な思想とは全く離れて、
眼前に仇敵として殺戮し合っている敵の兵隊が、どうも我々とよく似ていて、隣人のような
感がある、ということは、一寸厭な気持である。それは勿論充分憎むべき理由があると
思いながら、この困ったような厭な気持を私は常に味わって来たのである』


その少し前、火野は、別な衛兵所に繋がれている捕虜を一人見ていた。
その32歳、雷国東という名の捕虜は、火野の知人のAにそっくりだった。

生まれは湖南省。安い俸給で従軍して、戦闘中、気がついたら自分一人になっており、
日本軍の捕虜になってしまったのだという。財布には一厘銭と手紙が一通。
恋文であった。

『雷国東、我的親愛的哥哥、来手書十六号接得、心裏是娯楽的本意』
『我為儞肝腸想、我想為儞結為夫婦、我為総想百年偕老』
『情長紙短、千祈千祈回音、劉玉珍上言』 


『らいこくとう、わがしんあいなおにいさま、おてがみはじゅうろくにちににつきました、
こころはうれしさでいっぱい』
『わたしはあなたをしんからあいします、わたしはあなたとふうふになりたい、わたしはどうしても
ひゃくねんのちぎりをしたい』)
『じょうはながくかみはみじかし、きっときっとおへんじを、りゅうぎょくちんより』 


敵の日本兵に、恋人から来た手紙を奪われ読まれるのを、繋がれたまま、感情を押し殺した
無表情な顔で見ていたこの、慓悍な顔つきをした兵士は、生きて恋人のもとに
帰ることが出来たのだろうか…。

夜の行軍もある。

『前進していくうちに、曇っていた空は次第に晴れてきて、朧月がぼんやりした顔を見せ、
尚も、進んで行くと、次第に月ははっきりした面貌を表わして、晈々たる月明となった。
満月である。月光の中を何処までも続いた部隊が、何処までも続いて進軍していく』


想像してみるだけで、戦争中にもかかわらず、何やらもの悲しく美しい情景である。

5月17日。孫圩という城のある村落で戦闘はにわかに激しくなる。
城壁まで30メートル。敵は城壁の内に立て籠もって、城壁の上から銃眼から盛んに撃ってくる。
火野達は部落の家の陰に身をひそめるが、曳光弾があたりを照らしだし機関銃が家の壁や
屋根を撃ってくる。すぐに落ちると思った城はなかなか落ちない。こちらの攻撃は
城壁に阻まれ、向うからはこちらは丸見えである。兵は壕から出られない。
そのうち迫撃砲がどんどん撃ちこまれるようになる。最初は遠くを狙っていたが、
だんだん照準は定まって来て、火野達のいる廟のところまで届くようになる。
そこでもここでも死者や負傷者が出る…
火野は、ここでは兵士ではなく、報道班の記者なのだが、そんなことは見境なく
砲弾は襲いかかってくる。彼は死を覚悟。しかしその中でも、隙を見つけるようにして
従軍記録を書きつけ続ける。

『次第に廟に這いよって来た敵の迫撃砲弾はいよいよ正確な照準が定まったようである。
廟を繞(めぐ)って、続けさまに落下する。私は何回となく土煙を被った。私の周囲では
一発の砲弾の落ちる度に何人も死傷者が出た。(中略)
この穴には下士官は居なくて兵隊ばかりだ。(中略)私は、突撃が始まったら私に続いて
突撃するのだ、と兵隊に云った。私は分隊長のような気持ちになって来た』
『私は、既に、一日終るまで私の命があるかどうか判らなくなった』



しかし、さしも必死の中国軍が立てこもった城郭も、日本の増援部隊が続々と到着、
包囲網を狭めていき、戦車隊も着いて攻撃を激しくした結果、5月18日。ついに一角が破れる。
この、火野が居た孫圩城での戦いはしかし、徐州作戦におけるほんのほんの一部分にしか過ぎない。
同じような戦闘が、あちこちで繰り広げられていたのである。
報道部の高橋少佐は、人間味のある人物。新聞などには華々しく書きたてて貰えないこうした幾多の
小さなしかし命がけの戦闘の小さな記事を、いつも複雑な想いで見るのだ、というようなことを
火野ら従軍の新聞記者らに述懐する。

5月19日。徐州がついに荻須師団によって占領される。敵はいち早く逃げ去ったのである。
それより日本軍は、敗残兵の掃討、殲滅作戦にかかる。

火野報道班は、また進軍を続ける。まだどこまでも麦畑が続く中を、歩兵や車両や馬は
黙々と進軍していく。

『二十五里舗の城壁の前に掘られた壕の中に、支那兵の屍骸が山のように積まれてあった。
(中略)堆積された屍骸もまだ新しく、まだ血が乾いていない。屍体の間に挟まって
蠢いているのもある。私はこれを見ていたが、ふと、私が、この人間の惨状に対して、
暫く痛ましいという気持ちを全く感ぜずに眺めていたことに気づいた。私は愕然とした。
(中略)百に近い屍体で埋められている壕の続きに、沢山の土民が居た。女子供ばかりである。
何人かよぼよぼの爺も居る。まっ裸の子供を両手に抱えたり、乳を銜えさせたりしている女が多い。
痛ましい眺めである。彼等の不安の表情は正視に堪えないものがある。兵隊が子供に
熱量食の菓子をやっている。煙草をやる者もある。彼等は猜疑深い表情をし、なかなか
受け取らない。兵隊は大喝して銃剣を突きつけた。ようやく子を抱いた女は煙草を手に取った。
一口二口吸って、はじめて笑った。すると今度は外の者も笑顔を見せて、皆、煙草をくれと
云いだした』


よく、日本軍が戦地では悪いことをしなかった、兵は現地人に礼儀正しく慈しみ深かった、
という証拠として、日本軍の兵隊の周りに子供たちなどが群がり、ものを貰って
笑顔でいる写真などが掲載される。火野の描いたこういう場面を読むと、被占領民の
日本軍に対する感情が、そう単純なものでないということを知ることが出来るのではなかろうか。
日本軍兵士の前で子を抱いて煙草を吸って笑っている女の写真だけを見れば、彼女が
日本軍兵士と寛いで談笑しているように単純に見えるだろうが。

実は一方で、敵兵の中に土民が加わっていて、弾薬を運んだり壕を掘るのを手伝ったり、
兵といっしょに手榴弾を投げているのを目撃した者の話もここには載っている。
抗日思想は一般の民衆の間にも普及し始めている頃であった。

『我々の部隊は部落に残って土民を全部集めて避難させた。城壁の外側にある小集団部落には
百に近い正規兵の軍服が脱ぎ棄てられてあった。廟は避難民でいっぱいになった。老人や子供が
茶を沸かして我々のところにやって来た。(中略)廟に村長というのが居った。(中略)
通訳が色々と話をしている。(中略)この辺には蒋介石は来たことはない。李宋仁や外の
偉い奴は軍隊と一緒に来たことがある、茶なんぞ出してサービスがよいではないかと云えば、
いや、我々は日本人にばかりサービスをする訳ではない、支那軍が来れば支那軍にもサービスするのだ、
と云う。それでは両方来たらどうすると訊けば、逃げ出しますよ、と云って笑った。
なるほど仲々正直で食えない親爺だと思った。私は度々麦畑の逞しさに圧倒されたが、
その麦畑の主人こそかかる農民たちなのであろう。(中略)』

『しかしそれは支那軍が好きだからでもなければ、もとより日本軍が好きだからでも
なんでもないのだ』


5月21日。
『出発。廟に居た避難民が何時の間にか日の丸の旗を作って持っている。不格好な旗である。
縦に長い白布に四角い赤い布を縫いつけたのもある。煮しめたような白地である。
我々が行くとその旗をさし出すのである。(中略)部落の家の軒にも旗が翻っている。
「歓迎大日本」「歓迎親華勝利大日本」などと書いた赤紙が至るところに貼ってある。
(中略)纏足をしている老婆や、乳呑児を抱えている女や、等も皆旗を持っている。
(中略)一個所に女子供や老人が集まって避難しているところには、ぐるりと垣を作るように
旗を持ったのが取り巻いている。道路にずらりと旗を持って出迎えるのもある。
籠に卵を入れてきたり、鶏を何羽も括って来て、進上します、と云う』


火野葦平の書くこの光景。
中国の民が日本の旗を打ち振っていたからと云って、それが日本兵に対する親愛の情
であった、とはなかなか言えまい。日の丸の旗は、日本軍から自分たちの身を守る唯一の護符の
ようなもの。ズラリとそれを並べれば、女子供を守る結界のようなものになるとでも信じて
いたかったのだろう。
私たち日本人は、中国や朝鮮半島、また南方アジアの人々が、日の丸に対し抱く
特殊な憎悪感情を、彼等の執念深さや偏狭さのせいと考えがちである。
「一体いつまで、日の丸や旭日旗を怨みに思うんだ?いい加減にしろよ!」などと。
しかし、そこには、まだ、かつてこれらの地を侵略していった国民の、身勝手な視線しか
ないのではなかろうか…。
侵略された側の恐怖、怒り、諦め、怨み、…そういったものは、民族の血の中に
いわば体質的なもののようになって受け継がれ生き続けるのではなかろうか。

5月22日。
火野らの居る日本軍の一隊は、朔里店という城壁のある一寸した街で束の間の休息をしている。
城門には「歓迎大日本」「恭賀大日本」などとまた貼りだしてある。

その数日間で各所で日本軍に捕えられた中国軍の敗残兵は毎日千五、六百を下らないという。
5人10人とくる場合もあるし何百と固まってくる場合もある。
おかしいのは、深夜の行軍中、一人の疲れ切った日本兵が隣を歩く兵に声をかけたが返事をしない。
もう一度声をかけると支那語の返事が返って来た。日本兵は『敗残兵が紛れこんどるぞ』と
怒鳴る。すると列の外のところからも逃げ出す者がいる。彼等は当然全員捕虜となる…
飲まず食わずでひょろひょろに疲れ切った中国兵は暗闇の中、友軍の列だと勘違いして
喜んで加わったのだという。日本兵も中国兵ももうくたびれきっているので、
しばらく一緒に歩いていてもほとんど口を利かない。それでお互いに気がつかなかったのである…

なんとせつない話ではないか。暗闇の中ならば…、
旗や徽章や軍服などという、互いの違いを明らかにすることのない暗闇の中ならば、
友軍も敵もない…、人間は仲間という温かみを求めて、こうやって共に歩くのであるものを……。

火野ら報道班員は、報道部の上官・高橋少佐から、彼等の舞台は徐州作戦の任務を終えて
一応基地・蚌埠(バンプー)へ帰る、ということを告げられる。
『徐州に入城は出来なかったが、タンネンベルヒの大殲滅に匹敵する徐州作戦の
効果を大ならしめるに尠からぬ功績があった』と褒賞の言葉を得て。
タンネンベルヒの戦いとは、第一次世界大戦中の1914年、ドイツ軍が鉄道網などを
利用した素早い作戦で戦力2倍のロシア軍を包囲し、撤退させた戦い。
日本陸軍の戦いを世界に向けて宣伝する、という軍報道部の役割を十分に果たした、という
お誉めの言葉である。

一行は、居残ってなお中国兵の殲滅を続ける部隊の人々との別れを惜しむ。

『歩兵衛兵所に敗残兵が沢山来ていると云う。(中略)私は衛兵所に行ってみた。(中略)
奥の煉瓦塀に数珠繋ぎにされていた三人の支那兵を、四五人の日本の兵隊が衛兵所の表に
連れ出した。敗残兵は一人は四十位とも見える兵隊であったが、後の二人はまだ二十歳に
満たないと思われる若い兵隊だった。聞くと、飽くまで抗日を頑張るばかりでなく
こちらの問いに対して何も答えず、肩をいからし、足をあげて蹴ろうとしたりする。
甚しい者は此方の兵隊に唾を吐きかける。それで処分するのだということだった。
従いて行ってみると、町外れの広い麦畑に出た。ここらは何処に行っても麦ばかりだ。
前から準備してあったらしく、麦を刈り取って少し広場になったところに、横長い
深い壕が掘ってあった。縛られた三人の支那兵はその壕を前にして坐らされた。
後に廻った一人の曹長が軍刀を抜いた。掛け声と共に打ち降すと、首は毬のように飛び、
血が簓(ささら)のように噴き出して、次々に三人の支那兵は死んだ。
 私は眼を反らした。私は悪魔になってはいなかった。私はそれを知り、深く安堵した』



さて。こういう、後の我々から見れば、かなり内向きの感懐で、
火野葦平の『麦と兵隊』は終わる。






『火野葦平 「土と兵隊」②』

日本軍報道部が、従軍記者や従軍作家に出した『従軍記者の栞』という小冊子があった。曰く、
『諸君の一言一句が、国民は勿論、敵国否全世界に及ぼす影響の甚大』云々。

火野自身が日記に書いている言葉を引用すれば、
『当時、ペンに加えられていた制限は大きなものであった』
『日本軍が負けているところを書いてはならない。
 戦争の暗黒面を書いてはならない。
 女のことを書かせない。
 敵は憎々しくいやらしく書かねばならなかった』

火野葦平の『麦と兵隊』『土と兵隊』を読んで、私は正直言って、それほどこれらの
作品に、戦争称揚のプロパガンダ性は感じなかった。
まずそれが私には意外であった。
発表年次は『麦と兵隊』が先だが、扱われている中味は『土と兵隊』の方が
時間的に前のことを書いているので、この作品から始めよう。

『土と兵隊』は、火野が、後に芥川賞を受ける『糞尿譚』を書きあげて、
1937年9月、小倉第114連隊に応召入隊、杭州湾上陸作戦に従軍した折の、
従軍記録である。
彼の身分は陸軍伍長。第二分隊長として13人の部下を任された身であった。
『土と兵隊』初版の前書きに、火野自身が書いていることによれば、出征以来、弟たちに
宛てて書いた手紙の蒐録である。弟政雄もまた応召出征している。
記録は、1937年10月20日、どこの戦地に送られるともしらされないまま、
門司港を出航した太平丸の船上から弟に宛てた手紙で始まる。
出航したとはいえ、船は玄界灘に停泊。2千人近い兵士たちは、狭い船室で、
退屈し切っている。軍用馬も200頭ほど。
兵士がすることは、ひたすら日記をつけることと出す当ても確かとない手紙を
誰かれに宛てて書くこと。
しかしやがて11月2日。太平洋丸は出航。
11月4日。翌日にいよいよ杭州に上陸という日を迎え、火野初め兵士たちは
明日から始まる戦闘を前に、家族友人に宛てて遺書を書く。
11月5日。午前2時。上陸用舟艇に乗船。

『耳の傍を弾丸が呻って過ぎる。泥砂の中にぷつぷつと穴を開けてつきささる。
我々は遮二無二突進した。抜刀した小隊長が走っていく。(中略)頭上を音立てて
弾丸が通り過ぎる。耳の横を伝ってつつうと冷たい汗が流れ落ちた。私は水筒の水をのんだ。
泥にまみれた水筒を泥だらけの手で持ったので、水は泥といっしょに口の中に流れこんだ。
私は前後して堤防に辿りついた兵隊を見廻して、みんな居るか、番号、と云った。
みんな居た。顔見合わせると、皆血走った眼付をしていたが、誰も身体は上から下まで
鉄兜も、銃も、手も、顔も、泥だらけになっている。泥の中から眼をぎょろぎょろさせている。
皆息を切らして大きく肩を動かしている。私達は血走ったような眼付をしてお互の顔を
見合ったが、やがて私達はげらげらと笑いだしてしまった。無茶苦茶な緊張ぶりが、
お互が無事だったと思うと、顔を見合わせている中に、何かおかしくてたまらなくなったのだ。
すると、身内に暖いものでも湧いて来るように、私達の間に勇気が生まれた』


この作品が『土と兵隊』と題された所以である。
以降、火野伍長を含む日本軍上陸部隊は、杭州の泥と土に低くへばりついて
戦闘を続けることになるのである。
装備は重い。基本の軍装をしただけで8貫600匁(約33kg)。
『これに銃を持ったり、軽機関銃を担いだり、弾薬匣を下げたりして、舷側から
縄梯子を伝って舟艇に乗り移り』…堤防を攀じ登り、泥地に伏せ、突撃する。
あまりの重さに、ついに皆、背嚢の中から罐詰や、米など武器以外のものを
捨てていかざるを得なくなる始末。従って、糧食が不足気味となり、兵隊たちは
いわゆる『現地調達』で、中国人の民家や庭の農作物や鶏や豚を奪って進軍していくことに
結果としてなっていくのである。
『現地調達』と云えば聞こえはいいが、実際のところは、この小説でも見る通り、
『略奪』である。住民が逃げてしまったとの農家に入って宿となし、保塁とし、
庭に出てくる鶏を絞めて皆で食べる。芋を掘って茹でて食べる…
水牛や驢馬を『調達』し荷役馬の代わりに使う。その背についでに鶏も結びつける…

『我々は途中の家をことごとく焼き払った。敵兵が潜伏する怖れがあるからだ。
家は藁なのですぐ燃えた。(中略)彼方でも此方でも藁家が炎々と赤黒い煙をあげて
燃えだした。燃える家の前に殪れ(たおれ)ている支那兵があった』


『雨が土砂降りになって来た。身体中に泥と水が沁み透り、ぞくぞくと寒気が
襲って来たが、私は身体に力を入れ、なるべく動かないように鯱(しゃち)こばっていた。
動く度に新しい水気が身体を撫で、寒さが耐えがたくなってくるからだ。(中略)
なんと戦争というものは汚いもんだの、寒くはないか』


『雨が止むと、暫くして、虫がしきりに啼き始めた。』

勇ましい戦闘シーンもあるにはあるが、全体のトーンは、ひたすら戦場の兵隊の
肉体的実感…寒かったり、重かったり、眠れなかったり、クリークの濁った水を
浄水液を入れて飲んだり(のちにはだんだんそれさえしなくなってそのまま飲む)、
朝炊いて飯盒に詰めた冷たい硬い飯を戦闘のあいまに急いでかッこんだり…
と云った、兵士の生物的側面が淡々と描かれていく。
固い糧食を急いで食べた後で、11月の大陸の冷たいクリークの水に分け入ったり、
泥濘の中を匍匐前進したりとやっていれば、当然腹をこわすものが続出してくる…。
火野伍長も真っ赤な便をする。たいていの者がそうであるという。
血が出ているのだと思ったが、原因はわからない。腹をこわしたわけでもないという。
皆、クレオソート丸を飲んでいる。

私なら、すぐ死んじゃうな…。

読みながらそう思う。女だから虚弱だということではない。
神経の細い者は、この戦場では生きていけまい、と思ったのである。

今回たくさん本を読んだ中に、映画監督で『人情紙風船』などの名作を撮った、
山中貞雄 の『陣中日誌』があった。
彼は陸軍軍曹として、北支、火野と同じく杭州湾上陸。そして南京攻略戦にも、と
転戦しているが、昭和13年(1938年)河南省の野戦病院で28歳の若さで
亡くなっている。死因は赤痢。
彼の『陣中日記』は毎回の記載は短いが、ほとんどが、いずれ内地に無事帰れたら
撮りたい映画の構想が、戦いの毎日の中でもいやでも浮かぶのだろうか。
いや、そういう境遇だからこそ又さらに思うのだろうか。
ふと浮かんだ映画のワンカットがいくつもいくつも書きつけてあって、涙を誘う。

彼がもう死の直前に、親しい友人に送った手紙。

『いつかニュース映画で兵隊が褌一ツで川を渡るのがありましたね。婦人席なんか
大喜びで、あれは受けとッたよと当時のはなし。失礼な!! 罰があたります。
僕の病気の原因は洪水で、あの恰好を一月ばかり毎日続けたからです』


映画界の若き鬼才として将来を嘱望されていた山中監督は、映画を再び撮ることを夢見、
美味しいものを食べることにあこがれつつ、激しい下痢に苦しみながら中国の地に没した。

『土と兵隊』に戻ろう。
中国の行く先々に張り巡らされた灌漑用のクリーク。
それと雨に、兵士も兵站を運ぶ馬も戦車もが、進路をしばしばさまらげられて苦しめられる。

『我々より以上に車輌部隊が苦しんでいる。馬は喘ぎながら泥に噛みつかれた
車輛を曳き出そうと力をこめ、今度は自分の足を取られ、何回も転倒する。(中略)
馬が数十頭も倒れたという噂が伝わってくる。横倒しになった馬の死骸にも行きあう。
兵隊たちは、失った馬の代わりに、村から、水牛や驢馬を徴発して、荷をくくりつけてまた
進軍していく。

従軍作家火野葦平は、こう記述する。

『既に我々の軍馬の間に、殪れた馬の代りの水牛や驢馬が居る。本道上をそういう苦労を
しながら進んでいく車輛部隊と、歩いていく兵隊とが、見渡す限り蜿蜒と続き、進軍して行く。
そのどの兵隊も、足を痛め、胸苦しく、歯を食いしばって歩いているには違いないが、
ここから見ていると、寧ろそれはただ颯爽として、美しくさえ見える。(中略)
私の身内に歓びに似た勇気が湧いた。私は歩きだした』


この文章を、自分に課せられた戦意高揚のプロパガンダという使命…それに応じた
文章と見るか。
…私は、一兵士としての、いや、人間としての素直な感情を、ここに見た。
こういう記述は、侵略される側の中国の民に対する鈍感と言われても仕方があるまい。
しかし、苛酷な戦闘の最中にあっても、人間というものは、そこに何かの意義や、
時には『美』をさえ探そうとするものである。
そこのところの人間の思考経路の落とし穴のようなもの…。
火野葦平のこれらの作品は、私は倫理観とか善悪、というものを超えて、
一つの記録として、戦場における兵士の行動と心情の記録として、
やはり文学作品としての意味があると思っている。

激しい戦闘シーンも数々ある。
だが、私には、それがちっとも勇ましく感じられないのだった。
戦争は勇ましいものでなどない。火野葦平自身が従軍手帳に書きしるしているように、

『脳漿を地にすりつけるような戦だ』

…脳漿は、脳脊髄液、脳を満たしている液である。
頭を射ぬかれた兵士は、地にどう!と倒れる。脳漿が流れ出る……
これは自軍も敵軍もない。運が良くなければ、撃たれたらまず死ぬ。
至る所に死骸はごろごろしているのである。人の死体も馬の死骸も。
後方から、食料や水の支給など届かないので、兵隊たちはクリークの水を飲み、
それで米を洗って飯盒炊爨する。
束の間の休息に飯を炊き、食べ終わった後になって、さっき米を洗った同じ水たまりに
中国兵の死体があったのに後で気づく、というような記述もどこかにあった…。

火野葦平は、職業作家として、出来る限りの私的な感情を避けて、淡々と手紙体の文を
綴っていく。だが、その客観の中に、かえっていたましい戦場の実態というものが
生き生きとひしひしと描かれていくのである。
ここには、戦う当の相手、中国兵に対する憎しみすら感じられない。
ただひたすら、兵は泥や雨やクリークや、それから美しい晩秋の青空の下を行軍していく。
銃弾を必死に避け、夢中で撃ち、泥人形のように疲れて眠って、また起きて
急いで朝ごはんを仕込んで、野糞をして、また行軍して行く。

『この附近は日本の農村と殆ど変らない風景である。支那の少年が私達の所に駆けて来た。
見ると、息を切らし、土の素焼きの茶瓶と茶碗とを持っている。黙って我々の方に差し出す。
私達は茶をのんだ。銅貨を出して、やろう、と云ったが、不要不要(プヨープヨー)、
と云ってどうしても取らない』


このような、戦争中ではあっても、民衆と民衆の間に自然に湧き起こるであろう束の間の
中国人少年との交歓や、進軍の途中で見つけた民家の蜜柑の木、それに兵士が群がり、
その房を分け合って、この世のものとも思えぬ甘露に喉をうるおしたり、
野天風呂を工夫してたてたり、収穫期をとうに迎えた美しい稲穂の中や、
コスモス、野菊の咲き乱れる野を行軍する、のどかで美しい描写もある。

だが。戦争は戦争だ。
この束の間の少年との交流のようなものだって、『麦と兵隊』の中では、
日本軍が目の前にいる間は、日本軍に自ら進んで食べ物などの物資をにこにこしながら差し出すが、
日本軍の一隊が通り過ぎた後、国民党軍がそこを通りかかれば、同じようににこにこ
接する、したたかな農民の姿もまた描かれていた。
民衆というものはそういうものだろう。それでなければ生きていけない時代でもあったということだ。

『トーチカの上に三つ空気抜きがあった。私達はそこから手榴弾を入れることにした。
(中略)私は扉の前に立って扉を叩いた。銃把でごとごと叩いた。それから、
儞、来来(ニー、ライライ)、出て来いと云った。私の知っているたった一つの支那語だ。
(中略)次々に支那兵が出て来た。どれもひ弱そうな若い兵隊だった。それは、しかし、
歯がゆいことには、どれも日本人によく似ていた。彼等は手榴弾のためにやられたらしく、
気息奄々としているのや、真っ黒に顔が焦げたのや、顎が飛んで無くなっているのや、
左頬の千断れたのやが、次々に現れた。彼等はぺこぺこお辞儀をし、手を合わせて、
助けて貰いたいというような哀願の表情をした。最初出て来た四人の支那兵の一人が
逃げようとした。阪上上等兵がそれを打ち殪した』


『大隊本部のある先刻の部落まで帰ってくると、ずらりと捕虜が並んでいた。(中略)
少し寝た。寒さで眼がさめて、表に出た。すると、先刻まで、電線で数珠つなぎにされていた
捕虜の姿が見えない。どうしたのかと、そこに居た兵隊に訊ねると、皆殺しましたと云った。
 見ると、散兵壕のなかに、支那兵の屍骸が投げこまれてある。壕は狭いので重なり合い、
泥水の中に半分は浸かっていた。三十六人、皆殺したのだろうか。私は暗然とした思いで、
又も、胸の中に、怒りの感情の渦巻くのを覚えた。(後略)』





さて。
この記述からあと数ページで、『土と兵隊』は終わる。
火野伍長はずうっと足のマメに苦しまされている。
マメの痛さはみなさんもご存じでおいでだろう。
戦争中にたかが足のマメか!と思うのは認識不足である。
兵士たちは必ずしも、自分の足にあった靴を履くことは出来なかった。まして
戦争も末期になれば、死んだ戦友の靴を取って履き換えることさえした。
戦場の兵士の靴をめぐる話は、日本だけでなくいろいろ切実なものがあるが、まあここでは触れまい。
彼はマメをつぶして足の裏は平らになり、爪は黒くなって抜け落ちているが、
「それでも兄さんは自分の精神力を信じ、勇ましく前進していくつもりだ」と弟への
手紙に書き送って、そこでこの小説を閉じている。

だが実は、先日のNHKの『従軍作家たちの戦争』を見ると、火野葦平の、
戦争中に出版されたものには、上のシーンに続く記述のどこからかあとは、もともと
なかったのだという。
戦後、火野葦平は戦争協力作家として糾弾を受け、しかし逃げ隠れせずに、
自分の作品内で、戦中の自分の行為を厳しく見つめて行った。
実は、家族への手紙の中にも、自分がそうやって死に切れないで苦しんでいる
中国兵に頼まれて、銃でとどめを刺したことを書き送っている。そして、手紙の余白に
こう書いているのである。
「この手紙みんなに読んで聞かせてください」
従軍作家という役割上、作品には正直な戦争の実態は書けない。たとえ書いても
厳しい検閲に引っ掛かって削除させられ、自分も下手をすると安全でなくなる…
実際、当時出版された『土と兵隊』には、このとどめをさすシーンはない。
しかし、彼が残した従軍手帳には、このシーンと思われるメモの後に、火野伍長が
死にかけた中国兵のとどめをさしてやるシーンが実はあとから貼り付けてあったという。
彼はそのシーンを入れたものを、後にこの作品の決定稿と指示する。
私の読んだ、昭和28年発行、平成12年46刷の新潮文庫では、火野葦平の
指示通り、伍長が中国兵を撃つシーンが加えられている。

『嘔吐を感じ、気が滅入って来て、そこを立ち去ろうとすると、ふと、妙なものに気づいた。
屍骸が動いているのだった。そこへ行ってみると、重なりあった屍の下積みになって、
半死の支那兵が血塗れになって、蠢いていた。彼は靴音に気附いたか、不自由な姿勢で、
渾身の勇を揮うように、顔をあげて私を見た。その苦しげな表情に私はぞっとした。
彼は懇願するような眼附きで、私と自分の胸を交互に示した。射ってくれと云っていることに
微塵の疑いもない。私は躊躇しなかった。急いで、瀕死の支那兵の胸に照準を附けると、
引鉄を引いた。支那兵は動かなくなった。山崎小隊長が走って来て、どうして、敵中で
無意味な発砲をするかと云った。どうしてこんな無残なことをするのかと云いたかったが、
それは云えなかった。重い気持ちで、私はそこを離れた』


『土と兵隊』。
この作品が世に出されたのは、1938年(昭和13年)11月。南京攻略の
一年後くらいのことである。
日本が敗戦して、GHQによって、民主主義や、戦時の捕虜の扱いや、いわゆる
西欧の倫理観を我々は叩きこまれたわけだが、そういう意味で、火野葦平が
この作品を書いた時代は今の常識とは全くなにもかもが違っていた。
私達は今の時代に、彼を責めることが出来るだろうか。
沖仲仕の親方でありながら、港湾労働者のために労働組合を作ろうとしていた
若き日の火野葦平。
私は、人間というものは、本質においてそう変わるものではないと思っている。
戦地で野蛮に変わる人間は、やはりどこか、平時においても少しの残虐さを
持っていたのだと。逆に、平時に優しかった人は、戦時に、例え、上官の命によって
敵を殺すことを余儀なくされたとしても、その痛みは彼の胸に永遠に残るであろうと。
火野葦平を私は単純に戦争協力者、従軍作家の代表のような者として見ることが出来ないのである。
彼の内面はもっともっと複雑に思い乱れ、それをぐっと押さえて戦後を生きていたのではなかったろうか。

なぜ彼は、わざわざ、自分の戦争協力者としての罪の上に罪をさらに自ら塗り重ねるごとく、
この中国兵の苦しみに自ら手を下してとどめをさすシーンをつけ加えたろうか。
彼は戦後をどのように生きたろうか。それをもっと知りたいと思う。

大きな暗い空虚を抱えて、彼は自死するまでの日々を生きたのではなかったろうか。
亨年53歳。


『麦と兵隊』について次に書くが、こちらでは火野葦平という作家の
眼を、心を、もう少し突っ込んで覗いてみたい…






『8月15日に思うこと 火野葦平「土と兵隊」 ①』

日本が戦争に負けて、戦争をやめることを決めてから68回目の夏。

それがまた、おかしなことに、ほんとにおかしなことに、
何やらきな臭い熱風がこの国の上を、そして私たちの間に吹き始めている……!!!

私たちは、あの夏、「もう二度と戦争はいやだ!」「二度と戦はしない」と
世界に向かって、自らに向かって誓ったのではなかっただろうか?


この3月頃から、ずうっと戦争に関する書物を読んでいた。
一つの理由として、昨年の衆院選と今夏の参院選で、いわゆるリベラルと目される政党が
ほぼ壊滅してしまったこと、そして、自民党が圧倒的多数の議席を得て、これまでの
自民党が何とかやろうやろうとしても国民の間の戦争忌避の感情がなんだかんだ言って
食い止めてきた集団的自衛権の行使や、改憲やが、ついにできるような状況に
なってしまったことへの焦りがあった。

1970年代一時盛り上がった反原発運動が、一部の人間の特殊な活動になってしまい、
既成政党の『平和憲法』『護憲』などという言葉が、そのままでは国民の間に
もう広く共感を生まなくなってしまったこの状況……
そういう状況の中で、とうとう福島の事故は起きてしまい、
今また、改憲がつい目の先に来てしまっている。

従来の言葉、従来の方法ではもう広く国民に非戦、反原発の想いを伝えることが出来なくなってしまった…
危機はすぐそこに迫っているというのに!

どうしたらその状況を打破できるのか…
ずっとそのことを考えていて、ふっと思ったのは、物語の力を借りるということである。
激越な、でも決まりきった繰りごとになってしまったプロパガンダの言葉は力を失ってしまったが、
ひとの心に届きやすい物語の力を借りればひょっとして…と。
戦争を肉体感覚として知らない若い人にも、それならばひょっとして伝えやすいのではないか、と。

そう思って、戦争に関する過去の様々な小説や評論を手あたり次第読み始めたのである。
読み溜めたものは随分多い。
…さて、その多くの本の中から、どれについて真っ先に語ろうか……。

そんなことをここ数日考えていたのだが、その迷いをふっきることの後押しするように、
昨日、NHKで、『従軍作家たちの戦争』という番組が放送された。
戦争中、国民及び被占領地の人々に日本の大東亜共栄圏の思想を吹き込むために、
そして戦意高揚のために、大きな宣伝効果を期待して、多くの作家や画家や音楽家たちが
戦争賛美の作品を書かされた。戦地の兵士たちの姿を勇ましく伝え、内外に日本の
強さを喧伝するため、作家たちが従軍作家として国によって戦地に送り込まれた。
番組は主に、そうした従軍作家の中で中心的役割を果たしたと言っていい火野葦平をメインに
据えて作られていた。

火野葦平。
…そう言っても、若い方々はほとんど知らない作家ではなかろうか。
福岡県若松町(現・北九州市)出身。父は地元で沖仲仕『玉井組』を大々的にやっていた。
『沖仲仕』という仕事も、なかなか今の若い人には感じが伝わらないだろうなあ。
Wikipediaの記述を借りよう。


沖仲仕(おきなかせ、おきなかし)は、狭義には船から陸への荷揚げ荷下ろしを、
広義には陸から船への積み込みを含む荷役を行う港湾労働者の旧称。
1960年代以前の貨物船のほとんどは在来型貨物船であり、荷揚げ荷下ろしの作業は
本船から艀、艀から桟橋と荷物を移動させるために、多くの作業員を要する仕事であった。
港湾荷役事業は元請けの下に複数の下請けがあり第三次、第四次の下請けが現場作業を担当した。
体力のない下請けは作業員の雇用維持が出来ず、手配師と呼ばれる
コーディネーターに人集めを依頼する形態が常態化した。
高賃金で体力勝負となる労働現場は荒くれ者が集まることから荒廃しやすく、
暴力団などに対する人的供給源や資金源となることもあり、反社会的な位置づけを
受けることがあった。
沖仲仕を父に持つ作家火野葦平の著書『青春の岐路』には
「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、
仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。
普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」とある。
日本において今日、「沖仲仕」という言葉は差別的である、とされ、
一般の報道などに際しては自主的に「港湾労働者」などに置き換えられて表現される。


これが、沖仲仕という職業である…。

作家火野葦平は、文筆の傍ら、自身も家業『玉井組』を継いで沖仲仕のいわば親分となり、
若松港湾労働者の労働組合を結成するなど労働運動に取り組むが、検挙されて転向している。

親分が組合を作ってやる…ここがちょっと愉快である。変な例えだが、言ってみれば、
東電が、原発ジプシーの原発作業員たちの組合を親身になって作ってやるようなもの。
上のWikiの記述にもある通り、港湾労働者は、今の原発ジプシーと呼ばれる
『渡り』の原発労働者と全く同じに、二次、三次というふうに間に入る仲介業者などによって
給与をピンはねされても、自分たちの労働者としての権利への無知(と敢えて言おう)ゆえに
戦うことも知らなかったのである。その労働者たちのために組合を親分自身が組織する……
火野葦平という作家の作品に入る前に、ちょっと予備知識として知っておいていいことかもしれない。

なお、余談だが、この港湾労働者を描いたものに、古い映画だが、マーロン・ブランド主演の
『波止場』という名作がある。エリア・カザン監督。アカデミー賞を主演男優賞初め8部門で
受賞している。
さらに余談だが、私の兄も、若い頃、大学中退して、その後は母や妹の私などを養うために
職を転々。この沖仲仕をずっとやっていた時期があった。
私が原発を本能的に憎むのは、渡り者の原発ジプシーの労働者たちの姿が、若き日の兄の姿と
重なるからかもしれないとずっと思っている。原発というものがその労働形態において
本質的に差別構造を含んでいるからである…。

九州福岡県はかつて炭鉱景気に沸いた土地。総じて気の荒い土地である。
私は博多育ちだが、幼い頃は、朝鮮人の部落などもあり、また三業地(料理屋,待合,芸妓屋の
3業が集まって 営業している地域)や有名な飲食店街などもあって、
混沌とした活気のある街であったように思う。
そんな土地で沖仲士の元締めという気の荒い職業を文筆業の傍らやっていた作家。
港湾労働者の権利を守るために組合を作る努力をしていた若き二代目親方。
…昭和という時代をざっと掴んだうえで火野葦平についての私の文の続きを
読んでいただけたらと思う。


火野葦平は、出征前に書いた『糞尿譚』という作品で1938年。第6回芥川賞を受けた。
31歳。当時陸軍伍長。授賞式は日本から小林秀雄が赴き、戦地で行われた。
兵士の芥川賞作家。これに目をつけたのが軍部のプロパガンダを担っていた陸軍報道部である。
上海に拠点を置いていた中支那派遣軍報道部。
その中心人物は、馬渕逸雄中佐であった。
『宣伝報道は思想戦の一分野であって近代戦における重要なる戦争手段の一つである』
と考えていた馬渕は、ナチスドイツのプロパガンダ作戦に倣って、
前線に作家、カメラマンなどを送り込んで一大戦争宣伝計画を実施しようとしていた。
しかもそれは単なる従軍記者の目ではなく、実際に戦地で戦う兵士の視点に立って書いた
プロパガンダ報道。そんなことは出来ないか、そう彼は考えていた。
そこへ丁度現れたのが、火野葦平という存在である。

日本軍が、内地、戦地のみならず占領地、いや世界にまで向けて日本軍のプロパガンダを急がねば、
と焦っていたのにはもう一つ理由があった。
ちょうどその頃、第一回芥川賞作家であった石川達三の、『生きている兵隊』という作品が
中央公論に掲載された。これは石川が南京攻略戦に参加した兵士から聞き取りをして
書いた小説である。
南京攻略戦では多くの中国兵士、非戦闘員が日本軍によって殺害された。
ここには民間人に危害を加える日本兵の姿が綴られていた。
『生きている兵隊』を掲載した中央公論は、発売前日発禁になる。
石川達三は『安寧秩序を乱した』として、禁固4カ月執行猶予3年の判決を受ける。

ところが発禁処分となったはずの『生きている兵隊』が流出。その中国語への翻訳が
上海新聞、またいくつかの単行本となって中国で出版された。
当時国民党を率いていた蒋介石は、日本軍の非人道的行為を世界に訴えるために、
アメリカ、雑誌『LIFE』などに、南京における日本軍の残虐行為を写真で紹介していた。
蒋介石のメディア戦略は国際世論を大きく動かそうとしていたのである。
日本の内務省は、これに危機感を抱く。
報道部馬渕中佐は、石川の小説が流出して翻訳され、抗日、反日のプロパガンダに
使用されたことに同じく危機感を抱き、これに対抗して日本も報道・宣伝活動を行わねば
ならないと考えたのである。

兵士作家火野葦平は、馬渕によって報道部に引き抜かれ、南京攻略に続いて日本軍が行おうとしていた
一大作戦徐州攻略作戦に従軍記者として参加することを命じられる。

…こうやって、彼の『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』の、『兵隊三部作』は
書かれることになった。
彼は分厚い手帳20冊にもわたる膨大な従軍メモを書き残している。作品はこれらの
メモや、自身の記憶をもとに、ほとんどストーリーなどない従軍観察記という体裁で
書かれた。そこには、兵士と共に、いや、自らが兵士であった人でなければ書けない
リアルな描写で、行軍に次ぐ行軍、戦闘、死、食事、睡眠など兵士の日常が描かれている。
3部作は300万部に達する大ヒット作になる。
『麦と兵隊』は8ケ国語に翻訳され、日本の戦争宣伝に大きな役割を果たす。
『土と兵隊』は映画化され、これも大ヒット。戦地と内地の一体感を形成し、
戦意高揚に大きな役割を果たす。
この成功を機に、陸軍報道部と内閣情報部は、火野に続き、次々に一流作家たちを従軍記者として
戦地に送り込む。彼らは『ペン部隊』と呼ばれ、戦意高揚の文章を書いていくことになるのである。

阿部知二、井伏鱒二、尾崎士郎、海音寺潮五郎、片岡鉄平、川口松太郎、菊池寛、岸田國士、
久米正雄、佐藤春夫、高見順、瀧井孝作、武田麟太郎、丹羽文雄、林芙美子、深田久弥、
横光利一、吉川英治、吉屋信子……これはほんの一部である…
作家たちとの仲立ちをしたのは、文藝春秋社長、菊池寛であった。

さて。火野葦平は兵隊三部作で一躍時代の寵児となり、従軍作家と言えば火野葦平、
そして『麦と兵隊』という名が出てくるような、いわば戦記文学の象徴的存在となっていく。
その後も彼は、フィリピンなど南方にまで転戦。多くの文章を書き送った。
1942年、日本文学報国会が結成さる。作家たちはペンで、講演会で、日本の戦争を
喧伝し、戦争に協力していくのである。

しかし、日中戦争は泥沼化、続く太平洋戦争も、アメリカをはじめとする連合軍の
圧倒的戦力と情報力に、日本は次々に敗退に次ぐ敗退を重ねていき、ついに今から68年前、
1945年8月15日。日本は敗戦の日を迎えるのである。

戦後、菊池寛となんと300人近い作家たちが公職追放になった。
火野葦平も公職追放。彼は戦争協力者としてつらい戦後を生きていかねばならないことになる。
戦後の彼は、その作品の中で、戦争協力者としての自分自身を直視し、自分と向き合う中で
『麦と兵隊』『土と兵隊』などについても、自分の従軍日記には記してあっても、
厳しい検閲の中で削除せざるを得なかった部分を書きたし、原稿校了している。

…終戦から15年目。自宅で睡眠薬自殺。亨年53歳。


さて。
私はこの記事の冒頭で、どの本について真っ先に語ろうか迷っていた、と書いた。
それは主に、この火野葦平を先に書くか、石川達三『生きている兵隊』を先に
扱うか、について、つまり因縁のこの2作について迷っていたのである。
私が、戦争文学を読もうと思い立って、この2冊を真っ先に取り上げたのは、
まず、火野葦平に関しては、彼の『麦と兵隊』『土と兵隊』が、こうした戦記文学が
その後盛んに書かれることになっていく、その嚆矢的作品であったということ。
それから、これがいわゆる反戦文学ではない、ということに因っていた。
日本が日中戦争で、アジアで何をしてきたか…それを知るのに、最初から反戦の文学ではない、
いわば、客観的に近い記録文学的なものを初めに読んでみたかったからだ。
淡々と戦場の日常が書かれているものをまず先入観なしに読んでみたいと思った。

石川達三『生きている兵隊』に関しては、この作品が日本の文学史上、それほど
大きな意味を持つ作品であるということは、実は知らずに選んでいた。
手に取ったのは、戦後に作家たちが自由になってから書いたものでないものを、という基準。
ここにも一部名を挙げているが、実に、実に多くの作家たちが、戦争中軍部に協力して
戦意高揚のための作品を書いている…
そうして、そのほとんどが、戦争が終わると、そうした自分たちの軍への協力などなかったとでも
言うかのように、戦争の悲惨について書き始めた…
「戦争が終わって、自分の身が安全になってから、反戦厭戦の作品を書くことは容易だわよね。」
そう私は無慈悲にも感じていたのである。
(多くの作品を読み進めていくうちに、この無責任な非難の考えは改めることになる…)

戦争中に、戦争の悲惨を描いた作家は誰か。
そう思って探していて、この作品に辿り着いたのだ。
戦時中に書かれた反戦文学、というものが非常に数少ない中で、勇気を持って
戦場の悲惨を描いた作家とはどういう人だったろうという興味を抱いたからである。
もともと石川達三という作家は、その芥川賞第1回受賞作『蒼茫』を読んでいて、
その骨太な作風に魅かれた記憶があったということもある。
石川達三は、この本が発禁処分を受けた後、やはり節は通しきれなかったか、
火野らのように、従軍作家の中に加わっているが、本質において、強い反戦の作家であったと
私は思う。
『生きている兵隊』については次に取り上げてみたい。
 
さあ。ここからが、ようやく火野葦平の作品について、である。
長くなるので、いったん切ろう。



『展覧会 2つ』

私がお邪魔させていただいている方々の展覧会二つ。

一つ目は。
うつくしきひとの展覧会だ。
『さおるかたりぬ』ブログのさおるさん。


『丹羽小織 日本画展』 

2013_0813_082217-CIMG1051.jpg


場所: 『ギャラリー めどにけづり花』
    (道の駅古今伝授の里大和: 岐阜県郡上市大和町剣164)

日時: 8月14日(水)~18日(日)9:00~18:00
    


                 *
 

【ふるさと東北の大切な宝物たち】松井大門水彩画展

 場所: 高周波文化ホール(新湊中央文化会館)
     富山県射水市三日曽根3-23 0766-82-8400

 日時: 8月16日(金)~18日(土) 10:00~17:00

 関連出版: 日めくり(¥2,625)2種 ポストカードセット(¥1,050)2種



大門先生とれんげちゃんは、この展覧会のあと、東北の方に直接また向かわれるのだ
そうです。被災地を初め、東北各地で展覧会ひらくための下見。
出来るだけ多くの会場が確保でき、多くの方々に見ていただけるといいなあと
思います。旅は9月まで続くのだとか。
先生、れんげちゃん、道中お気をつけて。



                 *

お近くの方は、ぜひぜひお訪ねくださいね。



『キャンドルナイト 29』

埼玉県加須市で、まだ避難所暮らしをしている方々がいらっしゃるという。
2011年3月11日に起こった福島第一原発事故で、故郷を奪われた福島県双葉町の
105人だ。
迂闊だった…。もう、みなさん仮設住宅や借り上げ住宅に何とか移っていらっしゃると
思っていた…。
無論、仮設住宅の暮らしは、見知らぬ土地、狭い部屋、近隣からの孤立…と
決して楽なものではない。
しかし、まだ段ボールで仕切った、教室で暮らしていらっしゃる人々がいらっしゃろうとは!
その方々は、お年を召して、夫婦二人だけあるいは一人暮らしで介護を必要とする人が多く、
仮設住宅などで孤立することを恐れて移住に踏み切れない…
この加須市の高校校舎での生活が、まだ人とのつながりや、役場からの福祉の手が
届きやすくて安心だからだという…

あれから2年5カ月である…
人生の晩年に迎えた理不尽な、それまでの穏やかな暮らしの破壊…
原発事故がなかったならば、どれほど多くの人々が、以前と同じとは言えずとも
故郷の地を失わずにすんでいただろう。

この日本は何かが狂っている…

福島第一からは、毎日汚染水が海に漏れ続けている…
それなのに、『福島原発は安全対策を十分にしている』と言って、津波の危険の指摘に
目をつむっていた首相は、ふたたび政権の座に戻って、自国の原発の再稼動を目指すばかりか、
自ら原発のセールスマンとなって、海外に日本の原発を売りつけようとしている…

東日本大震災で発生したがれきの受け入れを“検討”しただけで、ごみ処理施設の新設費など
復興予算約86億円の交付を受けた堺市。
なにも堺市だけを責めるのではない。本来、宮城、岩手、福島など東日本大震災の
被災地で使われるべき復興予算に、蟻のごとく群がった全国の自治体や官の団体は
どれほど多かったことか…。

『あれほど大きな不幸があった後で、人間がより良く生きようと思うようにならないでどうする!』
…そう、ここで何度も書いてきたけれど、あれから見えてきたのは、人間の浅ましさの方が
多かったような。

気持の鬱々とする夏…
思いがけず一人で遠い旅をすることになった。
いつかそこに行くことがあろうなどとは想像してみたことさえなかった瀬戸内の島に。
なぜかまだ、旅の記録が書けずにいる……。
とても楽しかったのになぜなのだろう……。

旅の二日目。島の浜辺で貝拾いをして遊んだ…




2013_0811_211306-CIMG1017.jpg


こんな箱に入れて持ち帰った。宿で食べたチョコレート菓子の箱。
上に緩衝材代わりに詰めてある紙は、宿で出た夕食のお品書き。これも旅の思い出にと。
薄い貝は、それでも荷物の間でほろほろと壊れていた。



2013_0811_212911-CIMG1030.jpg


壊れていないものをそっと取り出し、台紙の上に並べていくと、
2013年7月30日の海が洗っていった砂が、貝の間からさらさらとこぼれ落ちる…
私はこの日、一つ年を取った。
66歳の誕生日の砂だ。


いつものように小さな亀山ローソクを立てて、巻貝や、二枚貝の片割れ、
うす青いガラスの欠片、フジツボのついた石ころ、5センチほどの青い背中したルアー…
カラカラに白く乾いた何かの海藻(根っこがついている!)などを
静かに回りに並べてみる…。

瀬戸内の海は穏やかに凪いで、砂浜は白かった…


この悲しみは何なのだろう……


何かが、「もう取り戻せないよ」と私に告げるのだ。

取り戻せないのは若さか…。
ほんとうはこの胸に秘められたかもしれないはずの…、いや、現実にはありはしなかった『思い出』か。

自分のうちにこの年になってもまだ僅かに残っていたナイーブさのかけらか…
ちょうど、この、波に洗われて、白く粉を拭いたようになってはいても、割れ口に
もとの透明な青さを見せるガラスの欠片のような。

何かの善をまだ信じられていた心か……。
悪に、理不尽に、燃やす怒りの心か。


小さな炎は、今日、揺れ動かない。

 
               *


でもまだ信じている。地球の回復力を。人間の叡智を。




                         
心ひとつに キャンドルナイト




南亭さんバナー②


葉っぱさん、れんげちゃん。NANTEIさん。
今月もバナーお借りします。
















『お知らせ』

ご心配おかけしましたが、家人の病状は深刻なものではなく、じき退院できそうです。
10年ほど前、脳梗塞をやって、そこから立ち直った家人ですが、また、半身麻痺の同じ症状!
すわ、脳梗塞再発か!と覚悟しましたが、診断は一過性脳虚血症とやらで、要するに
一種の脱水症状。
その日、ちょうど病院に定期検査に行ったのですが、水飲みたいのにずっと帰るまで我慢していたらしい。
病院内は冷房が効いているはずだし、行き帰りもタクシーでしたのにね。
脱水症で、脳梗塞のような症状になるんですね~~~。怖いです。
でも、ほっとしました~~~~~!
私も、キャンドルナイトの日には、ブログに戻ります。
静かにお声をかけてくださった方…黙って見守って下さった方…
ほんとうにありがとうございます♪

皆さまもどうぞ、涼しいからと言って油断なさいませんよう、水分とミネラルをお摂リくださいね。



『お知らせ』

家人が入院のため、しばらくブログお休みします。


2013_0730_155626-CIMG0596.jpg


プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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