『地に実るもの』 

空を自由にゆくものもあれば、この大地にしっかり根をおろして、そこで生き、
毎年の実りをもたらすものもある。

友よりの嬉しい贈り物。

枝からもいで来たばかりの林檎たち。とラ・フランス。



2013_1016_110414-CIMG1271.jpg



なんて綺麗なんだろう。

林檎は紅玉と千秋だ。
どちらも美しい名前をつけてもらったね。^^

紅玉はなんと、樹齢80年の老木がもたらしてくれたもの。

一つ一つ丁寧にくるんであったのを、半分、箱から出して器に並べる。
綺麗だなあ…


ふふ。ラ・フランスちゃんには、まだ葉っぱがついている…


2013_1016_110531-CIMG1273.jpg


この一番ちっちゃいこ。
あまりにも可愛らしくて、感情移入しちゃって、食べられそうにないわ。どうしよう!
名前つけたい… でもだめだめ。



天の恵みの陽光と雨、そして大地からの栄養と…それらをたっぷり受けて育った無農薬の果物たち。
そして、友のこころと…。


ああ…じいっと眺めているだけで、こころが滋養に満たされてくるようだ……




スポンサーサイト

『空ゆくものたち ②』



ある方と、流れ星の話をしていて、もう10年以上も前、流星群を見ようと家のベランダで
寝転がっていたとき、流星のほかに、人工衛星がすうっと通って行くのを見て感動した、ということを
お話しした。それ以来、人口衛星を見たことはない、と…。
また、1977年に打ち上げられ、木星や土星などの数々の鮮明な写真を私達に送ってくれ、
この夏、太陽圏外に出て、はるかな星間空間の航行に入って行ったあの、ボイジャー1号。
あの無生物である宇宙探査機になぜか人間は、自らの心を仮託してしまうものだ、などという
話もした……。

そうしたらその方が、あるサイトを教えて下さったのだ。
国際宇宙ステーションISS、ハッブル宇宙望遠鏡、中国の宇宙モジュール天宮などが
航行しているのが、いつどのあたりでどの角度で見えるか、刻々と教えてくれるというサイト。

皆さん、流星ではなく、人工衛星が地球を回って飛んでいるのを、夜ご覧になられたこと
ありますか? 私は、その十数年前の一回っきりありませんでした。
でも、その方によると、毎日毎晩沢山見えるのだという。私が知らなかっただけ。^^

しかも、この教えてもらったサイト。自分の居住地域の空のどこから人工衛星がどういうふうに
見え始めて消えていくか、のシミュレーションまでして見せてくれる。
実は、11日になるまで、折角そのサイト教えていただいていたのに、そのシミュレーションの機能に
気付かなかった。気付いてびっくり。なんて便利なものなんだ!!?

その方に記事にすることをおことわりしたうえで、まずはそのサイトをご紹介させていただこう。
TriSat 国際宇宙ステーションを見よう

このサイトを訪れると、左側に地図が出てくる。
あら? これ、まず、Google EarthまたはGoogleマップをダウンロードしておかないとだめなのかな。
私はダウンロード済みなのでこうやってすぐ見られるけれども。
Google Earthって、みなさん、ご存じでいらっしゃいますか。
これをダウンロード(無料)しておくと、例えば、ストリートビューなどという機能では、
自分の住んでいる地域はもちろん、世界中の主要都市の街角を自分で歩いているか車に乗って
移動しているような楽しみ方をすることが出来るの。
『Google Earth ダウンロード 無料』で検索すると、出てきますから、興味のある方は
やって見てくださいね。ご自分の住んでいられるところが、ある程度の都市の、道路の整備
されたところなら、自分の家の住所を入力したり、あるいは、国名からパソコン画面の地図を
スクロールして移動したり拡大したりすることで、自分の家の周囲の風景が、車窓から見るように見えて来る。
例えば、どこかにいきたい…パリにはいけないけれどパリの街並みを散歩したい、と思ったら、
パリの街の隅々を本当に今、散歩しているように実写風景で360度のパノラマ写真で
移動しながら見ていくことが出来る。
このように世界の街並みを散歩したいと思ったら、自分の部屋に居ながらにして出来るし、
日本国内でも、かつて住んでいた町の懐かしいアパートのあたりにもう一度行きたいと思えば、
住所か、その場所の地図上の位置さえわかればパソコンの中で帰って行くこともできる。
これは、Googleが、世界中に撮影班の車を走らせて、ありとあらゆる町の道路を映像に収める。
それを私達が見ることが出来るのである。
例えば私の家は、公道に面していないので、私の家の玄関までは写らないけれど、
私の家のすぐ近くの道は通り、我が家の屋根はちゃんと写っている。
撮影日にそこに停まっていた車や、干してあった洗濯ものなどまでが、その日のまま
いつでも世界中の人から見られることになる。

とってもおもしろくて興味尽きない半面、これは、例えば、ストーカ-が悪用することだって
考えられるし、自分の家など写されたくないのに、写ってしまっているというプライバシー問題も
起きている。このGoogle Earth ,Googleマップは、人工衛星から撮影された
地表の画像、建造物のCG、地図データ、ストリートビュー(人手による市街撮影画)などを
組み合わせることで、地球全体の俯瞰やビルの形状確認、地上から見た街並みの閲覧を可能にしたもの。

そもそも人工衛星というもの自体が、軍事利用と言うことと切っても切り離せないものなので、
Google マップなどを必要から使っている時も、私などはいつも、多少の罪悪感を感じつつ
見てしまうのだが。

さて。このTriSatというサイトで、地図をスクロール、拡大して、自分の家の近くまで
行ってみよう。下の方に、例えば国際宇宙ステーションの、見たい日付の見える時刻、
方角、仰角などが出ているので、この表だけでも、自分の立つ位置からの空の方角が
わかる人ならば、およそどこら辺を人工衛星が通過するかは、大体わかる。
だが、この表で日付をクリックして指定した後、Google地図に戻って再生ボタンを押すと!
…なんとまあ、私なら、私がいつも流星群を見上げるために寝転がる川原のサイクリングロードからの
そのままの眺めに重なって、人工衛星の飛ぶ軌道がくっきりとシミュレートされて見ることが
出来るのである!
これならば、空を方角もわからずに漠然と見上げている必要はない!

まあ、なんと便利なんだろう!と感嘆すると同時に、人間の知ろうとする意志の
底知れぬ深さと欲望に、何やらそらおそろしさを感じてしまうのも正直な気持ち。

今月11日の夕暮れ。その日はキャンドルナイトの日でもあった。
シミュレーション画像のおかげで、山の端のどこから国際宇宙ステーションが現れて、
どの角度でどこのあたりへ消えて行くかは、もうしっかりわかっている。
その日は夕方になって風が出てきて、半袖では少し寒いくらいだった。
佇んでいる私の傍を、川原を夕暮れ散歩やジョギングする人が時折通り過ぎて行く。
時間より早めに行ったのでちょっと手持無沙汰…

…そうやってもう暮れなずんだ空を見上げていると、実に、実に多くの飛行機が日本の上空を
飛んでいるのだなということがわかる…。
こんなに自分の家の上空を多くの飛行機が短時間の間にも行きかっているとは思わなかった。
おそらく羽田から関西方面に行くものとか…私にはわからないけれど、軍用機もあるのだろうなあ…
最初は音はしない…ぼおっとあちこちの方角に眼をやっていると、夜空を行く機影が
視角に入ってくる。
飛行機と人工衛星はどこが違うのか、どう違って見えるのかって…?
飛行機は、夜間飛行の際には、主翼の左右の端に赤と緑のランプを点灯させて飛ぶ。
左舷に赤ランプ、右舷に緑ランプを点灯する。これらのランプをナビゲーションライトなどという。
これら赤緑の明かりが、もし左が緑、右に赤が見えるなら、それはこちらに向かって飛んでいることが
一瞬にしてわかり、衝突事故を避けることが出来るようになっているのである。
これは世界共通の約束事。無論飛行機は、そんな目視によるだけでなく高度な機器によって
安全に操縦されているわけですが。

ところが、流星は無論のこと、人工衛星は、こんな赤緑のランプはつけていない。太陽光を
反射して光っているだけなので、いわば白色一色。爆音も後から聞こえてこない。
だから飛行機とはっきり区別がつく。

この日も、まあ、実に多くの飛行機があちらからもこちらからも来る…
『夜間飛行』という言葉に、私達はなぜそこはかとない浪漫を感じてしまうのだろう…。
『星の王子さま』のサン・テクジュペリは、『夜間飛行』も書いていたな。
実際、暗い夜空を、赤と緑の光を左右の主翼に点灯し、そして白色灯を点滅させながら飛んでいる
飛行機の姿には、なんともいえない哀愁や旅情のようなものをかき立てられる。
飛行機の明かりが遠く去ってしまいかけてから、ようやくかすかな轟音が地上に聞こえてくるのもいい……。

腕時計を見ると、時間だ!
西の方の空をじっと見ていると、星がそれに見えたり、また飛行機が着たり、結構気が散る(笑)…
暗いところに立つ私の姿を認めて、スピードを落としながら横を通り過ぎて行く車もあるし…。

ああ…来た!きっとあれがそうだ!
白一色。飛行機よりもゆっくりめにこちらにどんどん近付いてくる…
国際宇宙ステーション(International Space Station、略称:ISS)は、アメリカ合衆国、
ロシア、日本、カナダ及び欧州宇宙機関(ESA)が協力して建設を進めている宇宙ステーション。
地球及び宇宙の観測、宇宙環境を利用したさまざまな研究や実験を行うための巨大な有人施設である。
地上から約400km上空の熱圏を秒速約7.7km(時速約27,700km)で飛行し、
地球を約90分で1周、1日で約16周する。

なんだか感動……
あそこに、6名の宇宙飛行士たちが今もいて、作業などしているのだろうか……
NASAやロシア、欧州の宇宙飛行士たちである…

宇宙開発は、ほぼイコール軍事戦略の一環として語られることも多い。
科学というものは、いったいどこまで進んで行き、人間はいったいどこまでやれば気がすむのであろうか…。
原発から出る、まだ処分場の見つからない放射性廃棄物をロケットで宇宙に打ち上げれば、
などと言いだす者もいる。
早い話が、私達が今、便利に使っているこのネットというものも、私達はそこから
色々な情報を便利に拾っているつもりでいるが、私達のその行為は裏返せば、私達が
利用しているGoogleやfacebookなどから、いつでも、それらを必要とする組織に
筒抜けに動きを把握されてしまいかねないものなのだ、ということを覚悟しておく必要がある。
つい最近も、私達が何気なく、『いいね!』と言ったことも、企業によって無断で宣伝に
実名で引用されかねない、とか何とかいう話をちらっと目にしたばかりだ。
私の書く記事なども、既に、どこに、とは知らないから言えないけれども、さる機関には、
キーワード検索などで、情報の一環として取り込まれているのだろうなあ、と覚悟している。
12月の衆院選の時、NHKで自民党の選挙戦略を密着取材していたものをやっていたが、
そこでは、一流広告会社の一流分析員なども加わって、ネット上のあらゆる発言から
キーワード検索。国民が今何に一番関心を持ち、またして欲しがっているかを調べ上げ、
それを地方での遊説の際の、演説の中味に即盛り込む、というのを見た。
街角の監視カメラも携帯も、これからさらに進んで行くであろう便利な情報機器も、裏返せば、私達は
これからあらゆる自分たちの行為を即時、細かく監視されている世界にもう突入してしまっていると
いうことなのである。

ああ…そんなことを複雑に頭の中に思いめぐらしながら、宇宙ステーションを複雑な想いで
見上げていて、楽しいか?

ええ。…楽しいのである。

なぜ楽しいのだろう…
なぜ私は、この、軍事的な意味でも科学の進歩の粋とも智の集積とも言える人工衛星達を
見て、拒否反応を起こさないのだろう…
巨大核施設を見ればすぐに鳥肌立てるではないか!

…きっとそれは、『空』というものを介在させているからではないかな、とふと思ってみる…
大きな空。広い空。どこまでも果てしなく広がる宇宙……
この世にへばりついて生きていかざるを得ない私達人間…
広い空と海とは、常に憧れの対象であった…

人間というものは、複雑な言語を身につけると並行して、途方もなく複雑で高度な頭脳の働きと、
複雑な感情というものも獲得してしまった。
その一方で人間の感情は、本当に微妙である。理性で憎みつつ情で愛する、ということをしてみたり、
またその逆をいってみたり。

今私は、巨大核施設を憎むと言ったが、これだって、人間が古来から空にあこがれて来たのと同じように、
永遠の炎、永遠のエネルギーを求める人間の素朴な感情から出たものだ、と言われれば、
『原子の火』を手に入れた時の科学者たちの、その興奮する気持ちもわからなくはないのだ。
同様に、広い空に人間が憧れるように、新天地を中国大陸に求めて続々と渡っていった、私達の
一、二代前のご先祖様たち…その興奮と熱気がわからないわけでもないのだ。

しかし…。
その情と、あのような苛酷な事故を起こす原発というもの、それから、国家をあげて他人の土地へ
侵略していくことを認めることは、まったく別のものである。

はあぁ……理屈っぽくなってしまったな。

夜空をすうっと、流れ星よりはるかにゆっくりと、飛行機のように轟音をたてることもなく
私の上空を通りすぎて行った、あの光。
あの光に、なぜかせつない胸の内を仮託したくなるこの私の心の動きは、いったい何なのだろうなあ…

そういえば。ISSが来るのを待っている間に、そう…西から東の方向に向かって、
大きな流れ星がひとつ、つ~~~~っ!と流れて消えるのも、その日、見た……。^^

それから数日後には、月がだいぶ明るくなってきていたので、最大仰角のあたりでは見えなかったけれど、
西の山の上あたりから、こちらに向かって近づいてくるハッブル宇宙望遠鏡の白い光も
数秒間は見えたのでした…。


空のショーに案内してくださった方に感謝また感謝。





『空ゆくものたち ①』

以前は、昼も夜も、随分空をよく見上げていたものだけれど、
3.11後…、とりわけ、日本が今の政党を選んでからは、なんだか絶望してしまって
買い物に外に出るにしても、下ばかりうつ向いて歩いているような気がする。

以前はこのブログ、随分空の記事が多かったのだ。
ところが今年になってから、今調べてみたら、空について触れているのは、わずかに2回しかない。
9月にお散歩の記事で一枚だけ空を写した写真が出ているのと、あとは2月に冬の虹を
見た時の記事だ。その虹も、実はそのとき私はうつ向いて歩いていて、
仲の悪そうな老夫婦のご主人が、いかにも意地悪そうな口調で奥さんに、「だ~から!
出てんじゃん!」と言い棄てた。それを聞いて、何が出てんだろう、とふと空を見上げて
虹が出てるのに漸く気がついた、というありさま。
いかに、ここのところ、私がうつむいてばかりで歩いていたか、外にもあまり出なくなっていたかを
示すものが、私のこのブログの空の記事の少なさにもはっきり出ている。

毎年載せて来たペルセウス座流星群の記事も、今年は天気が悪くてみられなかったし。

さて。それでは、少し記事にするのが遅くなってしまったけれど、久しぶりに
空の記事を書きましょうかねぃ…

まずは10月初めに撮っていた青空の写真から…



2013_1009_154052-CIMG1151.jpg


嵐の去った翌日だ。


2013_1009_153442-CIMG1136.jpg


ああ……!気持ちがいいなあ…!


2013_1009_153343-CIMG1132.jpg


なんて青いんだろう…!


2013_1009_154324-CIMG1153.jpg


あの空の青さに溶けて行ってしまいたくなるよ……
  
空ゆく雲たちは楽しそうだな…


2013_1009_153818-CIMG1144.jpg


ここはいつも、私がなぜか立ち止まるところ。
小さな藪が川沿いの道にあり、春にはその藪の中で鶯が啼き、初冬の夕暮れには
雀たちがねぐらにする…。



2013_1009_154002-CIMG1148.jpg


可愛らしい愛を確かめあっている君たちも、空をゆくものたちだね。^^
白い彼氏の方はとても彼女に夢中で、わずかに黄色みを帯びたお嬢さんの方は、とても
つつましやかでおしとやかなのだった…♪ ^^


2013_1009_154227-CIMG1152.jpg


君もこれから、愛の巣を作るところなのね♪



ああ…やっぱり空はいいなあ……

うつむいてばかりいないで、空を見上げて生きていかなくちゃなあ……

背中の曲がったお婆さんに早くなっちゃうよ。
空は飛べなくても、背筋を伸ばして、前を向いて、
自転車引いていこう……








『10.13 久しぶりのデモへ』

昨日、2013年10月13日。
ひさしぶりに『さようなら原発1000万人大集会』と首都圏反原発連合などが主催の
デモに行ってきました。
去年12月の『さようなら原発1000万人大集会』以来だから、実に十か月も
デモに参加してなかったことになります…
大江健三郎さんなどその間ずっと集会や講演会やデモに主催、参加し続けていて
くださった方々の意志の強さを思って、いつも頭を下げ続けていました……

2013_1013_140952-CIMG1199.jpg

この日は1時から日比谷公会堂で、大江さん等の講演会をやっていたのですが、私はデモから参加。
2時から動き出すというので、公会堂の中の『アーカイブ・カフェ』に駆けこんで、ちょっとだけ
食べ物をおなかに入れておくことにしました。
『アーカイブ・カフェ』はその名の通り、この日比谷公会堂で行われた音楽会やコンサートなどの
パンフレットや写真、CDなど貴重な資料が展示されているちょっとレトロな空間で、
慌ただしくコーヒーとシフォンケーキを掻きこむような無粋な訪ね方はしたくなかったのですが。


2013_1013_142254-CIMG1201.jpg

昨年12月の雨の中の集会は五千人ほど。
「ああ…少なくなったな…」とはっきりわかるほどの寂しさでしたが、今日は、もう、
日比谷公園のあちこちにこうしてデモ開始を待つ人々が沢山いて、今回は多くなりそうという
予感を感じさせました。講演会も満員だったようで、人々が会場から吐き出されて階段を
降りてきます。

2013_1013_144713-CIMG1209.jpg

例のごとく、いろんな組合旗や幟がひしめきってる中、私はいつものごとく、一人で参加。
…と!
お…!
見覚えのあるグループのお名前が!




2013_1013_151716-CIMG1211.jpg

ある方のブログで活動を拝見したことがある、とお話しして、私もこのグループの方々の
後について歩かせていただくことにしました。
盛岡で毎週金曜日にデモしてらっしゃるグループの方々の中からお二人。宮古のかたが
お二人。そして東京在住の盛岡出身のかたお二人?

と言っても、例のごとく、いい年をして人みしりの私。あとは幟旗のあとをつかず離れず
ついていっただけですが。(笑)
あとで、もっとお話させていただけばよかった、とちょっと後悔。


今日はほんとに参加者が多く、自分たちのいるところのデモ隊が動き出すまでに、4,50分
待たされました~~~!
暑くはないけれど、秋の日差しが強く、既にだいぶ疲れた……

2013_1013_155457-CIMG1223.jpg


東電前では『原発反対!』のシュプレッヒコールもひときわ声をはりあげて。



2013_1013_155743-CIMG1227.jpg


この子はですね~。
『脱原発NONUKES』のゆるキャラ『ゼロノミクマ』くんです!
この子ね、2013年度ゆるキャラグランプリに参加してるんです!
http://blog.nonukeart.org/post/63515564067

ぜひぜひみなさん、脱原発を叶えるためにも、このゼロノミクマくんを上位入賞させてくださいっ♪
エントリーの投票はこちらから
投票するには登録が必要ですが、ぜひよろしく応援おねがいいたしま~す!


2013_1013_160948-CIMG1234.jpg

延々と続くデモ隊。警察が、交通のためという理由で、デモ隊を短く分断させるよう規制するので、
これは私がいた隊列だけです。この前にも後ろにも沢山の列が続く。
歩道橋に上って、写真を撮ったりしていたので、盛岡の皆さんとここでお別れ。
さようなら。
遠くにいても、心で応援しています♪♪♪


2013_1013_161121-CIMG1236.jpg


これ。本当にそうだ!と、こころから共感……


2013_1013_161648-CIMG1238.jpg

後から来たグループ。


2013_1013_163527-CIMG1245.jpg


デモコースは大体40分くらい。
再び日比谷公園に戻ってきました。
もう先に着いていた人々は、公園で待機していたり、これから国会議事堂前で抗議集会が
あるので、既にそちらに向かって歩きだしてます。
私もすぐに国会議事堂の方へ向かいます。


2013_1013_163847-CIMG1249.jpg

議事堂正面の大通りでは、デモ行進を終えて議事堂前の一角に向かう人々と、今、デモから
流れてきた人々とが、このようにお互いに長い列になってすれ違います。


2013_1013_173138-CIMG1260.jpg


暮れなずむ議事堂と集会参加者たち。



2013_1013_173747-CIMG1265.jpg


今日はずいぶん多くの応援の警察官や機動隊員、公安の人たち、機動隊の車などが動員され、
おとなしいデモ参加者に対し、厳重警備体制がひかれていました。
でもまだ、警察官など親切で丁寧で優しいのです。交通規制している顔も穏やか。

この人々が、一般市民に向かって棍棒を振り上げ、催涙ガスを浴びせる…そんな時代が
再び来ぬといいのですが。

この日のデモ参加者は、二万人と言っていたようです。



『キャンドルナイト 31』

2013_1011_211855-CIMG1181.jpg

今夜は、こんなコップ…。
夏に一人旅した折、これもKの街で買って来たものだ。
高価なものではないけれど、磨りガラスに赤と緑の色が綺麗なので気に入って買って来た…
小さなつまみが横にくっついている。高さ9センチ。

秋らしい色でしょう…
だいぶ冷たくなった秋のお水をほんの一口、こくっと飲みたいときに。

            ***

今月はこんな歌をお送りしよう。
NHK『ひょっこりひょうたん島』は、皆さんご記憶のかたも多くていらっしゃるだろう。
岩手県大槌町にある蓬莱島が、この島のモデルと言われていることも。
蓬莱島は周囲約200mの小島で、大小2つの丘が連なったひょうたん形をしている。
小さな方の丘には高さ7.4mの大槌港灯台があったが、2年7か月前、東日本大震災で根元から倒壊。
その後、再建され、2012年12月13日に初点灯した。
島は、かつては大槌町漁業協同組合が所有していたが、同漁協は東日本大震災の影響で自己破産を申請。
島は破産管財人によって管理され、第三者の手に渡る可能性も生じたため、大槌町が2013年8月にも
この島を取得することになった。(以上Wikiより)


『ひょっこりひょうたん島』の中のこの歌。





すみません!肝心の歌、You Tube貼り付けたつもりで、貼り付けていませんでした!(汗!)
あらためて。聴いてください、メロディがせつないです。楠トシエさん。ご存じの方も多いでしょうが、
当時のCMソングの女王とも言うべき実力派歌手の歌唱が素晴らしいです。



『勉強なさい』 ★全作詞:井上ひさし&山元譲久/全作曲・編曲:宇野誠一郎


(子どもたち)しち はち くう じゅう
 勉強なさい 勉強なさい
 大人はこどもに命令するよ 勉強なさい

(博士)えらくなるために お金持ちになるために
(子どもたち) あーあーあーあーそんなの聞き飽きた

(サンデー先生)いいえ賢くなるためよ
 男らしい男 女らしい女
 人間らしい人間 そうよ人間になるために 
さあ勉強なさい

(トラヒゲ)そうだとも 泣けちゃうな 今の一言
 みんな忘れるな

(テケ)トラさんもね

(サンデー先生)さんにがろく

(子どもたち)さんにがろく

(サンデー先生)さざんが

(子どもたち)きゅう じゅう じゅういち じゅうに じゅうさん
 良い子になあれ 良い子になあれ
 大人は子どもを教育するよ 良い子になあれ

(博士)人にほめられるために お気に入りになるために

(子どもたち)あーあーあーあーそんなの聞き飽きた

(サンデー先生)いいえよい大人になるためよ
 男らしい男 女らしい女
 人間らしい人間 そうよ人間になるために
 さあ良い子になりなさい

(トラヒゲ)そうだとも 泣けちゃうな 今の一言
 それも忘れねえ


一見、先生が子供たちに『勉強しなさい』の決まり文句を言って、子供たちがうんざりして
いるかのように聞こえる。
偉くなるため、お金持ちになるため、人に誉められるため、気に入られるために
勉強するの?いいこにならなきゃならないの?

だが、サンデー先生はこういうのだ。

いいえ賢くなるためよ
 男らしい男 女らしい女
 人間らしい人間 そうよ人間になるために

いいえよい大人になるためよ
 男らしい男 女らしい女
 人間らしい人間 そうよ人間になるために


私はここのところを聞くと泣けてくる。
ああ…なんていい歌詞なんだろう!

男らしい男!
女らしい女!
これを、男の役割、女の役割を決めつけている、などという浅薄なジェンダー論で
裁いたりしないでほしい。そんな単純な歌ではない。
女を家庭に押し戻そうとしているどこかの国の改憲論などと夢夢一緒にしてはならない!

男が男であり、女が女であることは美しいことなのである!
でも、それ以前に…。

男が本当に人間らしい人間になったとき…
女が本当に人間らしい人間になったとき…、
男は真に男らしく美しく、女は真に女らしく美しくなるのだ。
人間は、男女に関係なく、真に人間らしい人間であるとき美しい。

男が男らしくあるということを、何かはき違えて、やたら勇ましがっている政治家がいる…
迷彩服を着てヘルメットをかぶり、戦車の上から自衛隊員に向かって手を振り、敬礼を受けるのが
男らしい行為なのか。アメリカのいいなりになって、地球の反対側にだって自衛隊を武装させて
送り出すのが男の甲斐性なのか。
子供が小さいうちは、母親は家にいて子供の面倒を見た方がいいのだと云わんばかりに、
憲法の条文のニュアンスや労働環境を微妙に変えて、『女は家に』いるようにすることが
この国が思う『女の女らしさ』なのだろうか?

そうじゃないだろう?
『人間が人間らしくあること』こそが大事なのだ。
今、この国は、人間が人間らしく生きられないような国になりつつあるのだぞ。

福島の子供たちは、外で思いきり遊べない。
仮設住宅の子供たちは、大きな声を出して走り回って遊ぶことを遠慮する。
お年寄りたちは父祖の眠る墓の守も出来なくなった。
米農家が米を作れない。
果樹園主は、林檎や桃を出荷できない。
酪農家は手塩にかけて育てた牛や豚を殺さざるを得なかった。
漁師は魚を獲ってはならない。
母親は安心して自分の乳房を赤ん坊の口に含ませてやることが出来ない。
そのうちに、サトウキビ栽培農家はサトウキビを栽培しても仕方がなくなるだろう…


政治は、国民が安心して『人間らしい』生活が出来るようにするのが第一の使命であろう。
おとなは、子どもたちが安心して大きくなることが出来る、そんな国を作るために、そんな国を守るために、
これまで学校に行ったり本を読んだり新聞を読んだり、ニュースを見たり
『勉強してきた』んじゃなかったの???

おとなは、ただお金持ちになるために、そのお金持ちたちをさらに肥え太らせるために、
偉くなるために、経済界やらアメリカから誉められるために、そのお気に入りになるために、
これまで大学に行ったりアメリカに留学したり、本を読んだり新聞を読んだりニュースを見たりして
『勉強して』きたの?
勉強はそのためだったの?

ちがう。
人間は、人間になるために勉強するのよ。
人任せにしていては、人間は人間になれない。

お金持ちになるためにさらに富を溜めるためにこの世を理不尽に動かしている者たちがいる…
人間から人間らしさを奪う戦争をするために、武器を殺人兵器を作っている者たちがいる…
それを買おうとする者、自分たちも作って売りたいと思う者、実際に使用したいと思う者たちがいる…
人間を分断するために大金をばらまいて土地を買い、そこに危険とわかっている原発を
作り売ろうとする者がいる…
都合の悪い情報は国民の目から見えないようにしてしまい、国民をおとなしいもの言わぬ羊の群れに
してしまおうと思う者たちがいる…

こういう者たちから、自分たちの正当な人間としての権利を守るために、
私達は、一人一人が勉強しなければならない。
声をあげていかねばならない。

人間らしい人間 そうよ人間になるために勉強するのよ。

ああ!楠トシエの歌うここの箇所のなんてすばらしいことだろう!
泣けちゃうな。この一言!


井上ひさし。
彼はこんな素晴らしい校歌も作っている。


『釜石小学校校歌』
【作詞】井上 ひさし
【作曲】宇野 誠一郎

いきいき生きる いきいき生きる
ひとりで立って まっすぐ生きる
困ったときは 目をあげて
星を目あてに まっすぐ生きる
息あるうちは いきいき生きる

はっきり話す はっきり話す
びくびくせずに はっきり話す
困ったときは あわてずに
人間について よく考える
考えたなら はっきり話す

しっかりつかむ しっかりつかむ
まことの知恵を しっかりつかむ
困ったときは 手を出して
ともだちの手を しっかりつかむ
手と手をつないで しっかり生きる







『生きてゐる兵隊 ④』

さて。『生きてゐる兵隊』。すこし先を急ごう。
これが発禁になったと思われる箇所は他にも沢山ある。

敵兵を倒すことについて何の良心的呵責もなしに行える例の笠原伍長が、夜、営舎で
焚火にあたっている時、その左手のふとい小指に銀の指輪を嵌めている。倉田少尉が見つけて
「それは何だね」と問うと、笠原は「姑娘(クーニャ)がくれたんですわ!」と答える。
笠原だけでなく、他の兵士も銀の指輪を嵌めている。
支那の女たちは結婚指輪に銀を使うらしく、どの女も銀指輪を嵌めている。
あからさまには書いていないが、これにより石川は、笠原伍長らが中国人民間女性を犯して
或いはその場で殺し、その指に嵌めていた指輪を略奪してきたのだということを暗に示している。
この後も、戦闘がふっと小休止して数日の休養を与えられている時などに兵士は最も
女を欲しがるのだ、と石川は書く。兵士たちは街の中をうろうろと女を探して回り、居ないときは
時には城外の民家まで出かけていく。そして帰りには指に銀の指輪を嵌めている…

11月20日。無錫での激しい戦闘が膠着状態で小休止している夜。
ある民家から女の泣き声が聞こえてくる。こんなところにどうしてまだ女が、と、
平尾一等兵と笠原伍長が調べに行くと、17,8の娘が死んだ母親に取りすがって泣いているのだった。
夜が更けて行っても泣き声は止まない。
女の泣き声は一層悲痛さを加えて静まり返った戦場の闇をふるわせていた。号泣から涕泣嗚咽へ、
獣の長鳴きのように唸っていたかと思うとまた悲鳴に似た叫びの調子に。
「ええうるせえッ!」
平尾上等兵が叫んで飛び出していく。数人の兵が続く。
 彼等は真っ暗な家の中へふみこんで行った。砲弾に破られた窓から射しこむ星明りの底に
泣き咽ぶ女の姿は夕方のままに踞っていた。平尾は彼女の襟首を掴んで引きずった。
(中略)
「えい、えい、えいッ!」
 まるで気が狂ったような甲高い叫びをあげながら平尾は銃剣をもって女の胸のあたりを
三たび突き貫いた。他の兵も各々短剣をもって頭といわず腹といわず突きまくった。
ほとんど十秒と女は生きてはいなかった。彼女は平たい一枚の布団のようになってくたくたと
暗い土の上に横たわり、興奮した兵のほてった顔に生々しい血の臭いがむっと温かく流れてきた。
(中略)
笠原伍長は壕の底の方に胡坐をかいて煙草を喫いながら笑いを含んだ声で呟いた。
「勿体ねえことをしやがるなあ、ほんとに!」


このシーンのあと、都会の新聞社の校正係をしていた、もとはロマンチックな気質のこの平尾一等兵、
小学校教員であった倉田少尉、医学生であった近藤一等兵ら、それぞれが今の殺戮にそれぞれの
想いを胸の中で巡らせるのだが、このあたりの作者の描写はまた、やや類型的である。

12月。常熟、無錫、常州…と、次々に陣地を失った支那軍は、南京をとり囲む丘陵地帯と
紫金山と南京市街の城壁に逃げ込み立てこもる。
こういう追撃戦においては、どの部隊でも捕虜の始末に困る。自分たちがこれから必死の戦闘を
するというのに、警備をしながら捕虜を連れて歩くわけにも行かない。
「捕虜は捕えたらその場で殺せ」それは特に命令というわけではなかったが、大体そういう方針が
上部から示された。

笠原伍長はこういう場合にあって、やはり勇敢にそれを実行した。彼は数珠つなぎにした
十三人を片っぱしから順々に斬って行く。4人を自分で斬った。捕虜たちは初めのうち土に跪いて
一斉に喚き嘆願していたが、あるときから急に静かになって両手を膝に乗せ、青ざめた顔をして
覚悟を決めたように黙然となる。「あと、誰か斬れ」と笠原が言うが、さすがに斬る者はなかった。
彼等は二十歩ばかり後へさがって銃を構え、漸くこの難物を処分した。

近藤一等兵と平尾一等兵は、住宅街の中で大きな邸宅に宿営する。
既にその家は、支那軍が逃走する前に略奪の限りを尽くしていったらしく、荒らされていた。
二階客間に二人は行く。紫檀に細かい細工を施した椅子、朱塗りのテーブル、大理石の暖炉、
シャンデリア、山水の掛け軸、窓の外には孟宗竹の影……
平尾はマントルピースの上に、珍しい日時計を見つけ、それを大切に服の内ポケットに入れる。
彼は支那の悠久の文化に心を打たれている…

彼はいまになってはじめて支那という国を理解したような気がしていた。つまり支那の民衆は
政治とは全くかかわりもない生活を何世紀となくつづけて来たのだ。政府が清朝であろうと
孫文のものであろうと全く関心するところなかったに違いない。(中略)
「支那人というのは、本当の無政府主義なんだ。一人一人がそれを実行してるんだなあ」
(中略)彼は例の竹の杖を握って勢いよく玄関をとび出しながら大きな声で言った。
「左様なら。おみやげ有難うござんした」


12月8日。部隊は南京まで一日の行軍というところまで来る。
その夜、兵たちは米や芋を背嚢に詰め込み、腰には小銃弾をいっぱいに準備し、遺書を
財布や手帳に挟む。倉田少尉は遺書を書いた鉛筆をぴしりと折って焚火に投げこむ。

12月9日。もはや南京は包囲されている。日本軍の飛行機が南京城内に飛んで、
上海派遣軍総司令官から南京防備軍総司令官に宛てた投降勧告状を投下する。
回答期限は12月10日正午まで。回答がなければ城内攻撃を開始する、と。
回答はなく、午後一時、総攻撃の命令全線に下る。
10日深夜。南京市街は炎々として火の底にある。空爆の火災もあるが、支那兵が
火を放ったものである。城内では既に支那兵の略奪が始まっている。
11日。中国軍の必死の防衛に戦線は膠着状態。
12日。中華門はもはや友軍が占領して日章旗を立てたという情報が入ってくる。
全線の攻撃はただ紫金山の陥落を待っている。
倉田や笠原の西沢連隊に、部隊本部から(午後六時までに紫金山を完全占領すべし)
という厳しい命令が下る。
総攻撃開始。武井上等兵、連隊旗手などが戦死する。
午後五時三十五分、紫金山第一峰を完全に占領。

さて。南京陥落からの様子を、石川達三はどう描いているであろうか。
晴れがましい南京入城式まで僅か2ページの記述である…。

山頂の支那軍が中山門その他に加えていた砲撃が止むと同時に、城門に迫っていた各部隊の
猛攻撃が開始され、その夜のうちに城門はすべて八文字に押しひらかれた。戦車隊の突入。
敵軍の死体は戦車の無限軌道の下に轢かれ潰された。

(中略)
 十二月十三日、西沢部隊は峰つづきの天文台を通って山を下り城外を迂回して下関(シャカン)停車場
に入りさらに碼頭に出て、一カ月あまりで再び揚子江の水を見た。
 友軍の城内掃蕩はこの日もっとも悽愴であった。南京防備軍総司令官唐生智は昨夜のうちに
部下の兵をまとめて挹江門から下関に逃れた。(中略)
 挹江門は最後まで日本軍の攻撃をうけなかった。城内の敗残兵はなだれを打ってこの唯一の門から
下関の碼頭に逃れた。前面は水だ。渡るべき船はない。陸に逃れる道はない。彼等はテーブルや
丸太や板戸や、あらゆる浮物にすがって洋々たる長江の流れを横ぎり対岸浦口に渡ろうとするのであった。
その人数凡そ五万、まことに江の水をまっ黒に掩うて渡って行くのであった。そして対岸に
ついてみたとき、そこには既に日本軍が先回りして待っていた!機銃が火蓋を切って鳴る。
水面は雨に打たれたようにささくれ立ってくる。帰ろうとすれば下関碼頭ももはや日本軍の
機銃弾である。----こうして浮流している敗残兵に最後のとどめを刺したものは駆逐艦の攻撃であった。


十四日城内掃蕩。正規兵は庶民の服に着換えて避難民の中に紛れ込んだので、本当の兵だけを
処分することは次第に困難になって来た。
十五、六日場外掃蕩。
そして西沢部隊は他の部隊と共に十七日正午、中山門外に集結した。南京入城式。

              *

十三日のいわゆる南京陥落の日の朝から、晴れの入城式までを、石川はわずか2ページにわたってしか
書いていない。酸鼻を極めたであろう中国兵の『処分』も、『掃蕩』という一語の記述で
済ませてしまっている。
実際にその場にいたであろう兵たちに石川が取材した時、兵たちはどんなことを語ったのであろうか。

              *
そこからの約40ページは、占領後の南京市街と兵の様子を描いている。
 南京に残っていた住民はすべて避難民区域内に押しこめられた。その数は二十万というが、
正規兵も千人くらいはまぎれこんでいるらしい。その他の市街地には殆ど支那人の姿はなくて、
日本の軍人ばかりがぶらぶらと歩きまわっていた。酒保への買物と徴発と。


笠原伍長は中橋通訳とよく徴発に行く。羽根布団、スリッパ、姑娘の写真、…
笠原は石炭やうどんを打つためのメリケン粉を徴発してきて、池で手榴弾で鯉をとって来て、
部下に食べさせてやったりする。彼は、戦闘が終わっても生命力の旺盛な生活人であり
軍隊仲間への情誼は厚いのである。片山従軍僧は、空き家になっている骨董屋や寺に忍び込んで
仏像など掘り出し物を持ちだして自分のものにする…

 酒保を開いた商人たちの本当の目的は酒保ではなかった。彼等は支那紙幣を
狙っていたのである。国民政府がつぶれた今、紙屑と同じではないか。
いや、さにあらず。商人たちは、支那紙幣はもう紙屑だと思っている支那人や兵士からそれを安く買う。
10ドルのものを2,3ドルに買う。そしてそれを上海に持って帰れば、そこでは
1ドルはなおも日本円の1円10銭に通用している。鮮やかなドル買いである。
経済支那はなお滅びていなかったのである。
そうして彼等狡猾な商人たちは忽ちの中に成金になった。

南京市内には二か所に慰安所も設けられた。
笠原や近藤も行く。大通りにはまだ死体が転がっている。夜の間に猫や犬がそれらを食う。
慰安所には100人ばかりの兵隊たちが2列に並んで待っている。女は支那姑娘である。
敵国軍人相手に一人30分づつ。鉄格子の入り口には憲兵が銃剣をつけて立っている。

年末が来て正月が来る。笠原、近藤らの部隊は近々また移動になるらしい。
二人はその前に、片山従軍僧が遺骨を届けに行くのに附いて上海に部隊への手紙等が
届いていないか確かめに行く。上海の日本人の一角、虹口(ホンキュ)一帯は、商人や
休養中の将兵や領事館員などやで、まるで戦争などどこ吹く風と華やかな賑わいを見せていた。
カフェ、キネマ、酒場、喫茶店、…料理屋の前には軍の自動車がずらりと並んで
ここは将校相手の慰安所になっている。
(兵卒と将校たちとは、慰安所でも差別があった。昼は兵卒、夜は将校とか、兵卒は
朝鮮、中国娘で、将校たちには日本人の女。とか)
湯、畳、日本娘、贅沢な支那料理、ウイスキー、キネマにダンスホール…
しかし、上海の橋の向こうでは虹口を追われた避難民たちが、家も食べるものもなく
舗道で跣足で寒さに震えている…

上海から南京の戦場の帰りの貨車から、近藤らは戦場の風景を眺めている。
支那兵の朽ちかけた死体が2つ3つづつくらいかたまってあちこちに転がっている。
馬の死体も肋骨だけになっている。食うべき肉も尽きた、痩せた野犬の群れが丘の高みにいる…
しかし農夫はそれらの横で早、畑をうっている……

元医学生近藤一等兵は、上海の歓楽に触れて自分が生きていることの有難さを感じた後で、
再び死というものについて観照し、自分が生き残っていることの苦しさを感じ始め出す。
南京の前線に帰りついた後、彼は、漢口帰りという芸者のいる店に平尾と一緒に上がって、
そこで白い猫を見て、錯乱を起こす。かつて自分が殺した女スパイの白い肉体を思い出し、
芸者に向かって発砲してしまうのである。死なせはしなかったが。

倉田ら部隊はまた移動である。新しい戦場はどこなのか彼らにはわからない…
そこには近藤の姿はない…憲兵隊本部での事情聴取を受けていたからである。
最後のシーンは…
まあ、ここに書くのはやめておこう……


さて。こうやって石川達三『生きてゐる兵隊』は終わる…。
やや頭でっかちの、『ために書いた』小説、という嫌いはあるけれど、
日本軍の残虐行為を描きながらそれを観念論の問題に置き換えて語るという
もどかしさ、生ぬるさは感じてしまうけれど、
昭和13年という時代にこれを書いておいてくれたことを、やはり私は感謝したい。

たかがフィクションではないか。
一遍の創作作品がいったい戦争の何の真実を告げ得るというのか…。

この作品で主人公たちがしてきた戦を、
そのモデルとなった実際の第16師団の師団長、陸軍中将中島今朝吾らが、その日記で
(軍人としての自分の日記がこうやって後世、反戦の記事に引用されるのは、
おそらく不本意ではあろうが)記録に残しているものがある。
次の記事で、それとの比較対照を行ってみたいと思う。

私は、旧日本軍の軍人たちを糾弾しているのか…?
私がこの記事を書きながら感じているのは、悲しみだけである…






『生きてゐる兵隊 ③』

11月14日。彼等は支塘鎮を占領。

 夜が明けて点呼を終り朝食をおわると、勤務のない兵隊たちはにこにことして
野営地から出て来た。勤務で出られない兵がどこへ行くんだと問うと彼等は、
野菜の徴発に行ってくるとか生肉の徴発だとか答えた。進軍の早いしかも奥地に向っている
軍に対しては兵糧は到底輸送しきれなかったしその費用も大変なものであったから、
前線部隊は多くは現地徴発主義で兵をやしなっていた。北支では戦後の宣撫工作のために
どんな小さな徴発でも一々金を払うことになっていたが、南方の戦線では自由な徴発に
よるより他に仕方がなかった。炊事当番の兵たちは畑を這いまわって野菜を車一ぱいに
積んで帰り、豚の首に縄をつけて尻を蹴とばしながら連れて帰るのであった。
 やがて徴発は彼等の口実になった。その次には隠語のようにも用いられた。殊に
生肉の徴発ということは姑娘(くーにゃ)を探しに行くという意味に用いられた。

町はずれの崩れ残った農家の中に若い女が居るのを近藤一等兵が眼ざとく見つけ出した

(中略)
近藤がのっそりと入っていくと、泥と垢で汚れた女はひと足退いて拳銃を向け引き金を引く。
だが不発であった。
「スパイかも知れん。何か持ってやせんか」
(中略)
 他の兵は彼女の下着をも引き裂いた。すると突然彼等の眼の前に白い女のあらわな全身が
晒された。(中略)近藤は何となく拳銃の引き金を引いた。やはり不発であった。
「畜生め、もう少しで俺はやられるところだった」(中略)
 近藤一等兵は拳銃を左手に持ちかえると腰の剣を抜いて裸の女の上にのっそりと跨った。
女は眼を閉じていた。彼は暫く上から見下ろしていたが、そうしている中に再び凶暴な感情が
わき上がって来た。それは憤激とも欲情とも区別のつかない、ただ腹の底が熱くなって来るような
衝動であった。
 彼は物も言わずに右手の短剣を力限りに女の乳房の上に突きたてた。白い肉体は
ほとんどはね上がるようにがくりと動いた。
(中略)
そのとき扉の外に靴音が乱れて、兵隊の顔が三つ四つ蔀窓からのぞいた。
「何をやったんだい」と言ったのは笠原伍長であった。
「確かにスパイと思われましたから、いま、自分が殺しました」
笠原は裸の女を眺めまわし、洟水をすすって笑った。
「ほう。勿体ないことをしたのう」


そのあと、近藤たち、兵は徴発してきた野菜や豚で昼食を準備するのだが、近藤一等兵は
奪った銃をいじりながら、先ほど殺した女のことと、自分が医学生であることを考えている。
女の死体を解剖することに慣れていた彼も、生きている女を殺ったのは初めてである。
スパイであれば当然の処置だったと思う。だが、生から死への転換がこうも易々と行われること。
たとえ敵であろうと味方であろうと、かくも生命が軽蔑されている戦場というもの…
自分も医学者でありながら、その医学を侮辱したのだ、…などと。
だが、彼の思索はそこまででストップする。

そうだ、戦場では一切の知性は要らないのだと彼は思った。(中略)彼はこれを以て
疑問をうち切り、煮え上がった飯盒の蓋をとりながら微笑して隣の兵に話しかけた。
「さっき俺が殺した姑娘は美人だったぞ。うむ。……生かしておけばよかったなあ……」


兵たちと離れた、中隊本部に宛てられている民家では、倉田少尉が、中隊長や他の将校連と
酒を飲んでいる。倉田少尉の軍服は、何人殺したかわからない敵兵の血で汚れている。
将校たちの食事は当番の兵が運んでくる。その調理は、半ば強制的に徴発されてきた
支那人の軍夫たちがやらされている。
彼等はおかしなほど従順に、日本兵たちの指図に従ってせっせと働く。

すると兵はこの儞(ニー。本来「あなた」という意味だが、日本兵たちは捕虜や徴発で
労役をやらせている中国人たちを、半ばからかいと軽蔑をこめて「儞」と呼んでいた)たちの
同胞を沢山殺して来たことをふと釈明したい気持ちになり、おいと肩をつついて煙草を一本
くれてやるのであった。
「謝々、謝々!」
 彼等はまるで餌を与えられた鶏のように純真に喜んで煙草を吸った。
(日支親善なんて簡単なことだ)と兵は思った。事実、こういう非常の場合にあって、
一人と一人との私的親善は、まことに簡単であった。お互いに生命の危険にさらされている場合、
しかもそれが個人的な意志から出たものでなくて国家的な作用であるだけに、一つ垣根を
とりはずして接近してみると、互いに相あわれむ同病の患者であった。兵も儞たちも人なつかしい
心の侘しさを抱いているのであった。


11月19日。
上海を失った支那軍は、昆山から敗走してきて、古里村で主人公たちとぶつかる。
戦闘は3時間ほどであっけなく終わり、支那軍は常熟に向かって退却。
主人公たちは、焚火を囲んで飯盒で飯を炊いている。

「片山さん今日は殺っとったじゃねえか」と通訳が言った。
「殺るさ君、わしじゃとて同じことじゃ」
「何人やったね」
「さあ、数えもせんが五、六人やったろうな」
 僧はこともなげに答えた。
 つい先ほど、ほんの三時間ばかり前であった。部落の残敵掃討の部隊と一緒に
古里村に入って来た片山玄澄は左の手に数珠を巻き右手には工兵の持つショベルを持っていた。
 そして皺枯れ声をふりあげながら路地から路地と逃げる敵兵を追って兵隊と一緒に駆け廻った。
(中略)
「貴様!……」とだみ声で叫ぶなり従軍僧はショベルを持って横殴りに叩きつけた。
刃もつけてないのにショベルはざくりと頭の中に半分ばかりも食い込み血しぶきを上げてぶっ倒れた。
(中略)北支の戦線で彼が殺した人数は二十人を下らなかった。
 北支に居たころ、西沢連隊長から問われたことがあった。
「従軍僧はなかなか勇敢に敵を殺すそうだね」
「はあ、そりゃあ、殺ります」と彼は兵のように姿勢を正して答えた。
「ふむ。敵の戦死者はやはり一応弔ってやるのかね」
「いや、やっている従軍僧もあるようですが、自分はやりません」
(中略)
「そうか、国境を越えた宗教というものは無いか」
それはむしろ憮然とした言葉であった。大佐は宗教というものまたは宗教家というものに
失望を感じたのであった。


連隊長西沢中佐は部下を愛する親のような心を持った軍人である。幾千の捕虜を
皆殺しにするだけの決断も持っていたが、敵を愛することを知らない軍人ではない。
彼は自分が抱えた心の空虚を慰めてくれうるものは宗教であろうと思っていた。
だが、この片山従軍僧の言葉に、暗い失望を感じる…

 戦場というところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまい、おなじ程度の
ことしか考えない、同じ要求しかもたないものにしてしまう不思議に強力な作用を
もっているもののようであった。医学士の近藤一等兵がそのインテリゼンスを失ったように、
片山玄澄もまたその宗教心を失ったもののようであった。
(中略)
 しかしそれは必ず氏も片山従軍僧の責任とは言えないものであった。平和な時には彼の宗教は
国境を越えるだけのひろさをもっていた。戦時にあってそれが出来なくなったのは、宗教が
無力になったというよりも、国境が超え難く高いものになって来たのであった。


さて。
このようにして、小説は実際の戦線の動きにほぼ沿いながら、このように、主要な人物たちの
内面も追っていく。
無論この小説は、作者も付記で、『これは実戦の忠実な記録ではなく、かなり自由に
創作を試みたものであり、部隊名、将兵の氏名なども多く仮想である』と書いてある通り、
フィクションである。
私が4月頃最初に読んだときはともかく、この記事を書くために8月末から再度この小説を
読み返して思ったことは、やや、人物造型が類型的だな、ということであった。
つまり…主要な登場人物たちの性格づけが、ある役割を背負わされているようにくっきりしすぎていて、
取り上げられるエピソードも、主人公たちにあるセリフを言わせるために設定された、というような
感じがして、主人公たちの内面の苦悩や、平時との性格の変わりようなどの大事な
人間的部分が、やや、こちらにそのままに伝わってこない憾みがあるように思った。

と言っても、こんな私の勝手なごたくは、今が曲がりなりにも何を言っても自由で、戦時の
言論統制下でもなく、もう過ぎたことに対してだから言える、お気楽な感想にすぎないのだが。
それは十二分にわかった上で、二度とこの『生きてゐる兵隊』のような時代が来ないことを願って
これを書いている……

面白いのは宮本百合子…と言っても、若い方々はご存じないかなあ。
旧姓中條百合子。宮本顕治の妻。宮本顕治は、日本共産党の戦前の非合法政党時代からの
日本共産党の活動家であり、戦後、1958年に党の書記長に就任してから40年間、日本共産党を指導した
大物中の大物政治家、作家。宮本百合子は戦中、多くの作家がこの記事でも何度も触れているように
官憲の迫害を恐れてだんまりを決め込むか或いは国威発揚の作品を書いていくかした中で、
何回も投獄されながら、ついにその志を曲げなかった作家であった。
その宮本百合子が、この『生きてゐる兵隊』を入手。
昭和15年8月、『昭和の十四年間』を『日本文学入門』(日本評論社)に発表。そこで次のように論評した。

「石川達三の小説が軍事的な意味から忌諱に触れたのもこの年の始めであった。
文学のこととしてみれば、その作品は、当時の文学精神を強く支配し始めていた所謂意欲的な
創作意図の一典型としてみられる性質の作品であった。「蒼氓」をもって現れたこの作者は、
その小説でまだ何人も試みなかった「生きている兵隊」を描き出そうとしたのであろうが、
作品の現実は、それとは逆に如何にも文壇的野望とでもいうようなものの横溢したものとなっていた。

作者はその一、二年来文学及び一般の文化人の間で論議されながら時代的の混迷に陥って
思想的成長の出口を見失っていた知性の問題、科学性の問題、人間性の問題などを
作品の意図的主題としてはっきりとした計画のもとに携帯して現地へ赴いた。
そこでの現実の見聞をもって作品の細部を埋め、そのことであるリアリティーを創り出しつつ、
こちらから携帯して行った諸問題を背負わせるにふさわしい人物を兵のなかに捉え、
全く観念の側から人間を動かして、結論的にはそれらの観念上の諸問題が
人間の動物的な生存力の深みに吸い込まれてしまうという過程を語っているのであった。

人間の問題を生活の現実の中から捉えず、観念の中にみて、それで人間を支配しようとする傾向は、
昭和初頭以後の文学に共通な一性格であるが、この作品には実に色濃くその特徴が滲み出していて、
作者が自身の内面的モティーブなしに意図の上でだけ作品の世界を支配してゆく創作態度が目立っている」


宮本百合子の指摘は図星だったので、石川達三は弁解しなかったそうである。
他の連中は近寄りもしない中で、まともな対応をしたのが百合子だったから。
朝日新聞の例の『筆禍をたどって』という夕刊のシリーズにはこう書いてある。
『生きている兵隊』の一審判決の前後のことであろう。

『友人たちは誰一人弁護してくれなかったと、達三は戦後の講演で話している。
「弁護することが出来なかったのであります」
そんな中で、理解を示した人が、少なくとも2人いた。』


記事によれば、一人は、尾崎秀実。中国問題の専門家。ゾルゲ事件で44年、絞首刑。
尾崎は二審の法廷で達三側の証人になった。
今一人は、鹿地亘。発禁処分になったが押収しきれなかった『生きてゐる兵隊』は、
海外に流れて翻訳されたのだが、中国語に翻訳されたものがいくつかあって、そのうち
夏衍の翻訳した『未死的兵』の序文を、このプロレタリア作家で、中国にわたって反戦活動をした
鹿地亘が書いているのである。

こうした一事から見ても、1938年(昭和13年)という時代が、既にどれほど言論の自由がもう
奪われてしまっているかということがわかるであろう。
友も皆、口を噤んでしまう時代…。
石川の孤立感もよくわかるし、また彼が、『生きてゐる兵隊』での一人の皇民作家としての失敗を
取り戻すべく、次は自らまた熱烈に志願していわゆるペン部隊の一員として従軍記を書いていったという
その心境もわからなくはないのだ。

さて。宮本百合子の評に戻るが、

『こちらから携帯して行った諸問題を背負わせるにふさわしい人物を兵のなかに捉え、
全く観念の側から人間を動かして、結論的にはそれらの観念上の諸問題が
人間の動物的な生存力の深みに吸い込まれてしまうという過程を語っているのであった。
人間の問題を生活の現実の中から捉えず、観念の中にみて、それで人間を支配しようとする傾向は、
昭和初頭以後の文学に共通な一性格であるが、この作品には実に色濃くその特徴が滲み出していて、
作者が自身の内面的モティーブなしに意図の上でだけ作品の世界を支配してゆく創作態度が目立っている』
という批評は、まったく、わたしがこの作品に感じていたのもそこだった。

この宮本の石川評。昭和初頭14年間の文学論としても非常に面白く思った。
私は常々、なぜ文学者たちや評論家たちなど、ペンを武器に出来る者らが、戦争に突き進む日本を
ペンの力で食い止められなかったのだろうか、という疑問を胸に抱いていたが、
いよいよ日中戦争がはじまり検閲がさらに厳しくなって文学の自由が奪われてしまうその前に、
日本の文壇というものが、ひょっとして、観念的なものに陥って内省的になりすぎ、
文学の力を失っていたのではないか。そんなことを考える。
この小説も、とかく、登場人物たちが理屈っぽいのである。

そうなのだ。何か外側から取ってつけたような人物の内面告白が、この小説に没入できない原因で
あるかもしれない。
だが。
さらに調べて行くと、この、従軍僧でありながら、敵兵をシャベルででもなんででも
殺していったという片山従軍僧。
「読売新聞」昭和21年5月9日付の石川達三のインタビュー記事がある。
そこで彼はこの人物についてこう語っているのである。
 
『戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合は
いくら何でも無茶だと思つた、三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで
殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、
にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は廿名を下らない、
彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、
支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に
永年培はれてきたのではあるまいか』


創作だとは言いつつも、石川は、南京攻略に携わった第16師団33連隊に取材してこの小説を書いている。
この時の33連隊は何人から構成されていたろうか。一つの連隊は500~5000名の
将兵から成っていたという。従軍僧が一つの連隊に何十人もいたわけではないだろうから、
モデルがいるならば、それはその性格や行為から言って、おのずと人物が特定できて来てしまう。
同じ33連隊にいた人物が戦後、この片山従軍僧のモデルとなった人物が、石川のこの小説が証拠と
されてGHQの取り調べを受けるのではないかと戦々恐々としていた…と語っている。
だが、それは聞き書きであるし、この本題から逸れるので、そんなこともあっただろうなあ、というのに
とどめておく。
余談だが、この第16師団歩兵第33連隊は、その後、転戦に転戦を重ねて徐州会戦や武漢作戦、
襄東会戦に参加。昭和16年一旦帰還した後、再び動員されて、ルソン島レガスピに上陸。
マニラの戦いなどに参加。その後、昭和19年、レイテ島に移駐。10月、アメリカ軍上陸開始。
軍旗奉焼ののち挺身切り込みし玉砕した者。ドラッグ防御の大隊がダガミ高原で玉砕。
昭和20年(1945年)5月。サマール島にいた第3中隊が玉砕している…嗚呼!!!……

ああ、もしかして…。
もしかして、石川は、そうやって兵たちの間に飛び込んで取材をして回った。
その間に、この小説の中で登場させた人物たちの原型となる兵士たちに、この従軍僧のモデルと
なった人物と同様直接出会って話を聞くか、間接的に噂を聞いていたとしたら…
なまじ生身の人間が実在し、その中には取材の間中世話になった関係者の顔も浮かぶゆえに、
そこに多少の遠慮やためらいが生じ、人物造型の筆が甘くなるということはなかっただろうか…。

いっそ戦後、それまで口を噤んでいた多くの作家たちがそうしたように、くびきを解かれて
自由に創作の筆を走らせることが出来るようになってから書いていたなら、この作品は、
文学作品としてはもっと優れたものになっていたかもしれないなあと、ふと思う。

私は、火野や石川の小説を読む前に、兵士たちの生活を描いた記録を何冊か読んでいるが、
そこにはどれにも、ひどい新兵いじめのようなものや、軍隊内での理不尽な階級差別の実態が
描かれていた。(当然これらも終戦になったから書けたものばかりである)
石川の小説にはそれが全くないのである。敵に対しては冷酷な殺戮をする彼等が、同じ
日本兵仲間同士では、非常に和気藹藹と描かれているのが読んで最初から気にはなっていた…。

無論。彼はそうした部隊内でのいじめを、短い同行中には目にすることが出来なかったのかもしれないし、
(外部の人間の前で陰湿ないじめはしないであろうから)、またたとえ目にしていたとしても、
書くことが出来なかったのだろう。
なにしろ既に、検閲は厳しくなっていて、軍内部の規律の緩みなど最初から書くわけには
行かなかったのだから。

戦争中に書かれた数少ない文学の中から、日本人が大陸でしてきたことを見つめ直そうと
いう試みを考えたとき、その最初の作品として、この石川の『生きてゐる兵隊』を選ぼうか、
それとも火野葦平の作品にしようか、と迷って、結局発表された時期としては後に来る
火野の軍隊シリーズの方を先に選んだのは、火野の『土と兵隊』『麦と兵隊』には、
淡々としたドキュメンタリータッチがより強く、それが戦場の有無を言わさぬ行軍行軍の日々を
かえって鮮烈に表わしているような印象を受けたせいもあったのだと今にして思う。
そういった意味で、同じ火野作品の中でも、私は流行歌にもなって人口に膾炙した『麦と兵隊』
よりも、『土と兵隊』の方に強い印象を受けたのは、前者は火野が従軍作家の命を国から受けて
いわば少し外部から軍の進行や戦闘を描いたものであり、後者の『土と兵隊』の方は、
火野自身が伍長として戦っている、つまり軍の内部に文句なしにいるその肉体的実感が
より生々しく、下手な理屈や観念論や生死観などというものが入りこむ隙なく、即物的に
描かれていた故の強さがあったからではなかったろうか、と思うのだ。


プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
リンク、トラックバックご自由に。

『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
最新記事
最新コメント
リンク
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
09 | 2013/10 | 11
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QRコード