『大雪と原発 ④』

私が、この一連の記事で取り上げたのは、小河内村、丹波山村、小菅村の一部の人々の
ことである。小河内ダム建設のためにそれらの村々を去ったのは、945世帯6000人である。
ここに書いたのはそのうちの28戸62人の人生にすぎない。
もっと本格的に調べられればいいが、今の私には、ネットの中で調べられることだけで精いっぱい。

しかし、私は、小河内ダムの水底に沈んだ村の人々のその後を調べながら、
ずうっと福島のことを考えていた。

東日本大震災からちょうど3年目の11日を前に、日本全国各地でデモや集会が行われたが、
3月9日、私は、日比谷野外音楽堂で行われる集会とそこから国会前や官邸前に出発するデモに
参加するため、日比谷公園の中にいた。
自分が遅れていったせいもあったのだが、時間前に満員で締め切ってしまった野外音楽堂の中には
入れず、同じように入れない多くの人々同様、デモ出発を待って外をぶらぶら歩きまわっていた。

その時、一人の男性の姿が目にとまった。
福島県双葉郡浪江町、『希望の牧場』の吉澤正巳代表である。
『希望の牧場』というのは正式名称ではない。もとは有限会社エム牧場の経営する浪江農場といった。
福島第一から約14キロの地点にその牧場はある。

2011年3月11日。大地震、大津波発生。
12日。福島第1原発1号機水素爆発、20キロ圏内の住民に避難指示が出た。

12日の浪江町の様子を吉澤さんが語ったものを文字起こししてくれているサイトがある。
『福島 フクシマ FUKUSHIMA 津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに』
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-60.html
牧場の写真や事故当時からの様子、吉澤さんの気もちがこの記事を読むと少しでもわかる。
ぜひ覗いてみてください。飢えて死んで行った牛たちの屍の残酷な写真もここにはある。
しかし、それから目を逸らさないでほしい…
これが日本の現実だということなのだから。
少し引用させていただこう。

12日の朝からテレビを見てたけど、国や東電からは何の情報もないまま。
浪江には2万人の町民がいた。
12日の段階で、町の判断で「逃げろ」と、逃げる場所は浪江町の山間部の津島〔※〕となった。
約半数の人たちが、津島に固まって逃げるんだね。いやー、みんな逃げたね、ダアーッと。
 津島は、原発からだいたい25キロあるかな。1万人ぐらいの人が、そこで、夜通し
焚き火なんかをしながら避難生活をしていた。
 そこに、14日の3号機の爆発があり、そのあと、南の風が吹いたんだね。
それが夜になって、急に冷えて、雨が雪になった。ものすごい放射能が津島に流れてくるわけだ。
だけどそんなことは何の連絡もなかった。
 でも、やっぱり警察や自衛隊の動きでわかるんだよ。それで、「もうここにいちゃだめだ」
ってことになって、今度は、二本松の東和(とうわ)に、全部、ダアーって逃げるわけ。

〔※津島:浪江町津島地区。原発から北西に約25キロの山間部。
この地域の上空を、南東の風に乗って、大量の放射性物質を含んだ雲が通過、
この一帯でも、もっとも激しく汚染された。政府は、「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム
(SPEEDI)」の試算で津島地区への放射性物質飛散を予測していたが、
避難の住民には一切、知らされなかった。


3月14日。3号機。3月15日。2号機水素爆発。
4月25日。福島県は飼い主の承諾を得て20キロ圏内の家畜処分を決める。
20キロ圏内には376戸の畜産農家があり、牛4千頭、豚3万頭、ニワトリ63万羽、
馬100頭が飼養されていた(毎日新聞)。
5月12日。政府は警戒区域の家畜の殺処分を決める。
5月26日。「処分せず研究に活用を」と獣医師ら学識経験者が政府に要望書をだしたが、
政府は安楽死処分の方針を変えなかった。

吉澤代表らは、この政府方針に従わなかった。牛の面倒を見続けたのである。
自分の家で家族のように飼っていた家畜たちを殺処分など出来ず、畜産農家の中には
自分たちが避難する際、せめて家畜たちが自分たちで草を食べて生き残ってくれと願って、
家畜たちのくびきを外してやった人もいた。
皆さんの中には、報道番組などで、それら放たれた牛たちや豚たちが、誰もいなくなった
原発の町の草地に佇んでこちらを見ている映像などをご覧になられた方もいらっしゃるだろう。

また、家畜たちを放していけば、それらが迷惑をかけるかもしれないと、牛舎や豚舎に
つないだまま、泣く泣く避難していった農家もあった。
それら、繋がれたままの牛たちや豚たちの、ミイラ化、白骨化した死体の映像を
報道番組などで見た方もおいでだろう。

吉澤氏は、そのどちらの道も採らなかった。牛を生かし続ける道を選んだのである。
彼は避難先の住まいから、往復4時間かけて牧場に通い、自分のところの牛300頭と
近所の牛や放浪していた牛などを引き取って、計360頭に餌をやり続けている。
牛に餌をやって何になるものでもない。
線量の高い警戒区域の被曝牛たちは、無論、売り物にはならない。
それでも私財をつぎ込んで、自らもおそらく激しく被曝を続けながら牧場に通い続けるのは、
吉澤さんの牛への愛情と、『ベコ屋』(牛飼い)としての、怒りと意地からである。

300軒の畜産農家、60~70軒の酪農家が、もう牛飼いなどできないくらいの
精神的な挫折感の中にあるんだ。
国は、今日も、どっかで牛たちをとっ捕まえて、殺して、埋めて、という殺処分の作業をやっているよ。
臭いものにフタをして、見えないようにする。証拠隠滅だよ。
その一方で、原発を再稼働しようとしている。

浪江、双葉、大熊、富岡というのはチェルノブイリと同じような状態。そこに帰る意味もないよね。
そこでコメはつくれないだろうし、地震の被害もひどい、津波の破壊も半端でない。
浪江町は、原発立地ではない。福島でも発電所のないところ。そういうところが、今回、ひどい汚染をうけたわけ。
しかもスピーディの情報が隠されて、津島でみんな猛烈な被ばくをしている。
原発立地町じゃない、直接には、恩恵をうけない浪江町が、今回一番、ひどい目に合っている。
その人たちが、迷惑な厄介者として、いずれ捨てられようとしている。
避難した10万人の人も、捨てられようとしている。邪魔の者、厄介者、迷惑な土地、迷惑な人たち。
棄民政策だよ。間違いない。
それで、浪江町でも、5人も自殺している人が出ているわけだよ。先日の商店主の自殺が5人目だ。
商売もできない、コメも作れない、うちにも帰れない、帰る意味もないしね。


               ***

福島県の畜産農家、酪農家は、このようにして自分たちが手塩にかけて育ててきた
牛や豚や鶏などを、原発事故のために、このように棄てざるを得なかった…
皆さんは、この遺書をどこか映像ニュースでご覧になったであろう。

福島酪農家遺書


原発事故後間もない2011年6月。福島県相馬市の酪農家の男性(54)が自ら命を絶つ前に
自分のたい肥舎の壁に、チョークで書き残した遺書である。
「残った酪農家は原発に負けないで頑張ってください」。
男性は、東京電力福島第一原発から約60キロ離れた相馬市の山あいの小さな集落で、
約40頭の乳牛を飼っていた。なだらかな斜面の奥に母屋があり、手前に牛舎と堆肥舎が並ぶ。
真面目で仕事熱心――。午前3時から牧草を刈り、牛の世話をした。
前年には、堆肥をつくって売るために堆肥舎を新築し、農機具も少しずつ増やしながら、
父親から継いだ牧場を大きくしようと懸命に働いていたという。

『姉ちゃんには大変おせわになりました。
原発さえなければと思ます。
残った酪農家は原発にまけないで願張て下さい。仕事をする気力をなくしました。
(妻と子ども2人の名前)ごめんなさい。なにもできない父親でした。
仏様の両親にもうしわけございません。(一部省略、原文ママ)』


事故後まもない3月24日には、福島県須賀川市で、野菜農家の男性(64)が自宅の敷地内で首をつり、
自ら命を絶っている。23日にキャベツの摂取制限指示が出ると、男性はむせるようなしぐさを繰り返した。
「福島の野菜はもうだめだ」。
男性は30年以上前から有機栽培にこだわり、自作の腐葉土などで土壌改良を重ねてきた。
キャベツは10年近くかけて種のまき方などを工夫し、この地域では育てられなかった
高品質の種類の生産にも成功。農協でも人気が高く、地元の小学校の給食に使うキャベツも
一手に引き受けていた。「子どもたちが食べるものなのだから、気をつけて作らないと」。
そう言って、安全な野菜づくりを誇りにしていたという。(朝日新聞)

吉澤さんも、自殺した酪農家も、美しい福島の地で、牧畜畜産に夢をかけていた…
それは、小河内ダム建設で村を追われた人々の一部が、山梨県北巨摩郡(いまの北杜市)
『念場ヶ原』 (ああ!なんという地名なんだ!)の、雑木と熊笹ばかりの荒れ地を
鍬一丁与えられて開墾から始めていった気持ちとどこが違っていたであろう!

自殺した野菜農家同様、福島県飯館村の人々は、農業で生きていく道に希望をかけていた…。
平成の大合併の風が吹くなか、飯館村は安易な合併の道を取らず、自力で村を栄えさせる
道を模索した。
驚くほど多くの特産品が村人の創意工夫で生まれた。
お酒、漬け物、農産品、そして全国ブランドになった飯館牛…。
小さな規模の村でも、創意と村人の一致協力と努力で立派に今の時代でも
父祖の地で立派に農業で生きていける…
村の生き方は、全国の小さな農村のお手本となり、見学者も絶えなかったという…。
それは、開拓民から落伍者を出さぬよう共同で開拓農業を土作りから学び、
全国的にも有名なレタスなどの高原野菜で活路を切り開き、やがて美しい牧場風景を
観光の資源にして、今日軽井沢や日光と並ぶような名高い避暑地の町として発展している
あの北杜市清里高原と、どこが、なにがいったい違っていたのであろうか?

いみじくも、自殺した野菜農家の方が、チョークでたい肥舎に書き残した文言そのままに、
『原発さえなければ』……
原発さえなければ、福島の人々は、『うつくしま福島』と呼ばれていたような美しい自然に恵まれた
父祖の地で、今もこころ豊かに暮らせていたのではなかろうか…?

その違いが、『原子力発電所を生活の道として町が選んだか選ばなかったか』にあったのだとしたら、
何とせつないことであろうか!
しかも吉澤さんの浪江町や飯館村は、原発立地自治体でさえない!

『原発さえなければ…』
この福島県民の痛切きわまる想いは、小河内村村長小澤市平が、昭和13年に、

『千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。
けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである。
我々の考え方が單に土地や家屋の賣買にあつたのでは、先祖に對して申譯が無い。
帝都の御用水の爲めの池となることは、村民千載一遇の機會として、犠牲奉公の實を全ふするにあつたのである。
(中略)顧りみれば、若し、日支事變の問題が起らぬのであつたならば
我等と市との紛爭は容易に解決の機運に逹しなかつたらうと思ふ。(そして我々は父祖の地を
去ることになっていなかったかもしれぬ)』

という苦渋の想いと、なんと似ていることであろうか!

              ***

雪に覆われた北杜市と旧小河内、丹波山村、小菅村のことを2か月近くにもわたって
長々と私が書いてきたのは、そして今、福島県浪江町の『希望の牧場』や飯館村のことなどを書いているのは、
何度も言うようにそれらが皆、根底のどこかで繋がっているからである。
私たちは悲劇の後しばらくは、被災地のことを思う。
しかし、2年3年と時が経って行くうちに、それらの悲しみや怒りの共有感情は、徐々に
薄れていってしまいがちである。…私自身もそうだ……

しかし、この記事で今書いているようなことは、みんな、遠い、自分とは関係のない
世界のことなのだろうか?
いやいや…。
私はこれらの記事を書きながら、自分の体のどこかがきゅうっと痛むような錯覚に
ずうっととらわれ続けていた……
記録にないような大雪に覆われた町々……
日本の大陸への侵略戦争も、
日本のダムや橋梁やトンネル工事などのために強制的・半強制的に日本に連れて来られて
異郷の地で死んで行った朝鮮半島や中国の人々も、
大都市東京の水のために水底に沈んで行った村もそこから雄々しく力を合わせて立ち上がった人々も、
同じように東京の電気のため結果的に、故郷の地…住む家も仕事も、中には生きる目的まで
失ってしまった福島の人々も……
これらは皆、同じ一繋がりの物語なのではなかろうか?
そうして私自身もその一繋がりの物語の中のどこかに臍の緒のようなもので繋がれている
小さな登場人物なのではないのだろうか?
…そんな錯覚に捉われるのである。

政治や国家というものの本質は、今も昔とそう変わってはいない。
それに翻弄され続ける民の残念ながら愚かしさ無力さも、今も昔と変わっていない。

と言って、私はこの一連の記事で、国家の悪や民の愚かしさ弱さだけを書こうとしてきたのでは
ないのである。
人々がどんな厳しい環境にあっても、不屈の精神を発揮して、雑草のように立ち上がるのも
今も昔と変わらない。その時人々の心に自ずと組合的な相互協力の精神が芽生えるのも
変わらない。
そうして、人々がより豊かな暮らしを求めて、あたらしい技術や科学に希望を見出して
未来を託す気持ちも、よくよくわかるのだ…!

この写真をもう一度見て欲しい。

当時の清里駅前通り

共同作業場

そしてこの映像もとばしながらでいいからいいからちょっと見て欲しい。
ここには、福島第一発電所建設の話が決まって、地質調査する頃の、今無残な姿を曝す
原子炉などなかった頃の、あの岸壁や低い松などの灌木に覆われた台地の姿や、そこをバイクで行く
地元民の姿、牛の世話をする農民の姿、真面目そうな技術者たちの姿が映像に収められている…

http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/blog/2012/03/7_e04d.html

ああ!
昭和生まれの私には、自分も人も同じように貧しかった時代の、しかしまだ誰にも穢されぬ
美しい大地が、こころに沁みるように美しい青空が、この白黒のぼけた写真や映像から
見えてきそうだ……

時代が移り変わっていくのは仕方がない。
人間の欲望も(向上欲とも言える)もとどまるところを知らぬ。
科学技術の発展を私は全く否定しさりはしない……人間は夢を見る動物でもあるからだ。

しかし、ある一線は、どこかにあるのではなかろうか……。

そのことを深く考えてみるとき、
どこで私たちが行く道を選んでいくよすがにするか。
それは、『個々の時代を個々の特異な事象として見てしまわぬこと』なのではなかろうか。

ある時代にある場所で起こったことは、別の時代に別の場所でも起こり得るのだということを
肝に銘じて忘れないようにすることだ。
ある人に起こったことは(たとえば思いがけない雪中での遭難など)、我が身にもいつか
起こりうることかもしれない、という危機意識を持つことだ。
福島に起こった悲劇が、いつか他の原発近くの街で起きないと、誰が一体保証してくれるのだ?
電力会社も県も国も、マスコミでお先棒を担いで宣伝していた学者・専門家とやらも、
見事におぞましくも責任逃ればかりしているこの実態をようく覚えておくことだ。

そうして。
平和というものは、人民が意識して守って行こうという強い意志を常に自覚して行使しなければ、
あれよあれよろいううちに、一見平和の内にあったように見える国や地域でも、
あっという間に内乱状態や戦争状態、民の自由のなくなる状態に陥り得るということを、
私たちはウクライナ・クリミア、トルコ、エジプトなど世界のニュースで、日々目に耳にしているではないか!

権力の本質は変わらない。
弱者にほど国家的不幸は重くのしかかるのだということを忘れてはならない。
私がいつも『物ごとは、本質的なところで繋がっている』と言い続けているのは実はこのことだ。

この記事で取り上げさせていただいた吉澤正巳氏は、上記サイトの記述をお借りすると、

千葉県四街道生まれ。58歳。
千葉の佐倉高校時代、近隣の三里塚で、成田空港建設のために土地収用法で農地を
取り上げるということが行われており、友人らと反対闘争に参加。
東京農大では自治会委員長も。40年前に父親が、広い土地で畜産をしようと、千葉から浪江町に移住。
大学を出てから父親の跡を継ぎ、生涯の仕事として、畜産に打ち込んできた〕


さらにここにもう少しつけ加えさせていただきたい。
この『40年前に父親が、広い土地で畜産をしようと、千葉から浪江町に移住』という氏の父君は、
新潟県小千谷出身であの戦争の時代満州開拓でソ連国境地帯に入殖し、敗戦と共にシベリアに
3年間抑留され、戦後、千葉県四街道に開拓入殖した人だという。
父君はそうやって、清里の人々同様、戦後やはり必死の想いで開拓入植してためた資金を元手に、
昭和45年、浪江町の満州開拓団時代の親友の紹介で浪江町立野に牧場移転したのである。
ところが同年。小高浪江原発計画(東北電力の)が起こる。
長い根強い原発反対運動があって、浪江町は、浜通りで唯一、発電所のない町
というのを貫いてきていたのである!
しかし…福島第一原発事故は、その浪江町も、飯館村も同じようにいや、風向きの関係で
もっとも放射能汚染された地域になってしまい、人の住めない場所になってしまった……

国策として満州に開拓民をどんどん送り込んでおきながら、いよいよ戦況悪化すると
関東軍はそれらの人々を守り切れず、国は国民を見捨てたのである。

ああ!物事の構図は、いつもなんと似ていることであろう!
福島第一原発事故への国や電力会社の対応を『棄民』だと言いきって、
自らも牛たちと共に『被曝の生きた証人』となって生涯をそのことの告発と闘いに
すごす道を選んだ吉澤正巳氏。

彼の怒りは、彼の体一人(いちにん)の、彼一代の怒りではないのだということを今回初めて知って、
私は、あの3月9日、日比谷公園で見かけた彼のまわりに漂っていたただならぬ空気…
静かな押し殺した怒り…まるで奈良東大寺戒壇院の四天王立像たち、…とりわけ
あの広目天のような内面の激しい怒りを抑えた静かな佇まいの、その理由がわかったような気がしたのである。

希望の牧場のサイトがあります。
生まれた小牛の可愛い姿も、逆に、福島第一の前で車にはねられて死んだ母親の横で
瀕死の状態でいるのが通報され、この『希望の牧場』に連れてこられたものの、やはり
生きながらえることのできなかった『ふくちゃん』の記録なども読めます。
24時間カメラで牧場の牛たちの様子も写している。

希望の牧場は、吉澤氏らが私財を投じて、あとはボランティアや募金活動などで
まかなって行っている…ご支援も出来たらお願いいたします。 

http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/blog/2012/03/7_e04d.html 



40年間にわたって福島県が、東京・関東の電力供給で協力してきた。
水力・火力と全部、東京の方にいっているわけ。日本の経済の繁栄を福島県が支えながら、
いま僕らは、絶望的な状況。福島のわれわれは犠牲を被った。これから差別も受けるわけ。
「福島県はお断り」と。そこから逃げられないからね。そういう運命と、最終的には
たたかうしかないんだよね。俺はそう思う。
俺なんかは、余所に行って、畜産業なんてありえないし、自分の生涯の仕事としてやっている
畜産業を潰されたわけ。だから、これは、もう残りの人生をかけて、償いを求めて、
東電・国とたたかう。それしかないと思っているわけ。
こういう原発事故が起きたっていうことでね、これを人生のテーマにして、
原発のない日本を目指して考え行動するしかないと思うんだよね。
そして、もちろん放射能ともたたかう。農業でも、セシウム問題で、県内どころか、
それを飛びこした全国の問題に広がっている。魚だって取れない。
すべての環境、人生、財産が、みんな潰されたわけよ。汚染について、人間も土地も、
よく調査をする必要がある。単に逃げるんじゃなくて、この現場で汚染状態を正確によく調べるということだよ。
行動なきところに結果などあり得ないし、「少しでもみんなで行動しよう」と言いたい。
「東京に行って、みんなの気持ちを東京の人に、どんどん言って伝えようじゃないか」と。
「原発事故というのはこういうことなんだよ。他人事ではなくて、子ども・孫の世代のことまで考えて、
いま、再稼働をめぐってたたかうときが来ているよ」って。
東電とたたかう、国とたたかう、放射能とたたかう。そういうことを俺は言いたいのね。
ずっとこの1年間、大勢の人が生きる意味とか、哲学を考えてきた。行動までできる人はそう多くないし、
でもそういう人を少しずつ作りながら進んでいると思うよ。

「家も故郷も何もかも失った。最後に、みなさん、立ち上がって、いっしょにやろうよ。東京に行こうよ」。
そういう力が、福島県に必要なのだと思う。福島県がそういう中心にいかなければと思う。
やっぱり誰かがやってくれるだとか、金さえもらええればいいんだとか、そういうのもいるけど、
そういうのは、心にも体にもよくないと思うよね。
浪江の人が、みんな立ちあがって、東電前や首相官邸前に座り込んでということができるように
なるところまで、今年は持っていきたいなと。
そういうことに、残り20年の人生をかける値打ちがあるのだろうと思う。
この被ばくした牛たちとともにね。
  



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『大雪と原発 ③』

さて。だいぶ間が空いてしまったが、『大雪と原発』の記事のつづきを仕上げなければならない。

初めてこちらにお越しの方は、ブログ横の最新記事のところの『大雪と原発①、②』を
ご覧ください。

2月14日から降り続いて、首都圏を襲った記録的な大雪。
山梨県においてはとりわけ人的そして物的被害が大きく、
私はたまたまその山梨県の雪のニュースを見ているうちに、
東京都の水がめ小河内ダムを作るために湖底に沈んだ旧小河内村とその近隣の村、
それと山梨県北杜市の関係を知ることになり、そのことを詳しく調べることになったのである。
思いがけず、物事は深いところで繋がっていき、長い記事になりつつある。先を急ごう。


                  ***
   
旧小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人は、
ダム建設のために父祖の地を去って、山梨県北杜市や東京都奥多摩町、青梅市、福生市、
昭島市、八王子市、さらに埼玉県豊岡町等にそれぞれ移住していくことになった。
(もっとも奥多摩町は、旧小河内村などを併合して出来ているので、正確に言えば同じ町内、
ということになるが)

2月14日から降った歴史的なあの大雪は、これらの地を同じように、白く覆ったのである…
彼等が去った土地も、移り住んだ土地も、同じ雪が被いつくしたのであった……

昭和13年。彼等が去った地では、小河内ダム建設に着工。
日中戦争からさらに太平洋戦争へと突き進んだ当時の日本。物資不足や人手不足、
また技術不足などから、大変困難なダム建設が行われ、その時中国や朝鮮半島から多くの労働者が
連れて来られ、粗悪な労働環境や虐待や事故で亡くなった者がいた、
と言うことを『大雪と原発①②』で書いた。

それでは、一方、小河内ダムの水底に沈んだ村から北杜市などに移り住んだ人々のその後は
どうなって行ったのだろうか。
それを追って行くと…
こちらには、どこにあっても逞しく生きようとする村の人々の、個人と村の互助の、
その努力の結実の歴史があった…


              ***

まず北杜市とはどんなところであろうか。

北杜市(ほくとし)は、山梨県の北西部に位置する。山梨県内の自治体として最北端にあたる。
八ヶ岳や甲斐駒ヶ岳といった山々に囲まれ、市域のおよそ3分の1が八ヶ岳南麓の
冷涼な山岳高原地からなっているため、高原観光によって支えられている街である。
市内にはアウトレットモール、牧場といった観光スポットが存在し、夏場には観光客が多くみられる。
南アルプスからの湧水によるウイスキー製造、日本一長いといわれる日照時間や
映画にも登場したヒマワリ畑などでも知られている
。(Wikipediaによる)

中でも清里高原(きよさとこうげん)は、山梨県北杜市(旧北巨摩郡高根町)周辺に広がる高原。
八ヶ岳の南麓に広がる観光地として有名である。
アメリカから来日したキリスト教の宣教師で、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが設立した
キープ協会が運営する「清泉寮」や「キープ農場」、工芸家のギャラリーなどがある「萌木の村」などが
観光名所となっている。
清里高原は避暑地として有名。「八ヶ岳高原線」とも称されるJR小海線は鉄道最高地点を走る。

清里

写真は清里高原ペンションビレッジ宿泊組合さんのサイトからお借りしました。
>http://www.eps2.comlink.ne.jp/~kiyo-pv/kiyosato.htm

うわあ!いいところだなあ!

さて、今はこうして美しい自然そのものを観光資源にして、『清里』と言えば、
軽井沢や日光などと同じように、多くの人のある種の憧れの避暑地にまでなった町であるけれど、
ここがこうやって栄えるようになるまでには、人々の言うに言えない努力の歴史があったのである。
北杜市清里の発展の歴史を語るのに欠かせない恩人が二人いる。
ひとりは上にちょっと紹介したアメリカ人宣教師ポール・ラッシュ(1897~1979年)である。

明治30年(1897年)、アメリカ・ケンタッキ-州で生まれたポ-ル・ラッシュ博士は、
1925年28才の時、1923年の関東大震災後の日本のキリスト教青年会拠点を立て直すために
宣教師として来日。聖路加国際病院の建設資金の募金活動を行った。
アメリカン・フットボ-ルを日本に紹介したことでも知られている。
清里に活動拠点として「清泉寮(せいせんりょう)」を建てた。戦争中は、強制的にアメリカに帰されたが、
終戦後の昭和20年には、再び日本に来て、清里での計画を進める。
山間高冷地で米作に適さなかった清里高原に、ジャージー牛を紹介して
高原がそののち酪農王国となる礎を築き、また、西洋野菜の栽培促進による開拓支援を行ったのである。

ポール・ラッシュに関しては、彼が終戦後再来日してから、GHQの参謀第二部(G2)の
民間情報局(CIS)に属し文書の編集課長をしていたという、別のエピソードがある。
G2に残された石井ファイル(あの731部隊の創設者、石井四郎元中将の取調及び免罪工作に関与する文書)
に、ラッシュの名前が記された文書が多数あり、どうやらラッシュは石井の免罪工作に関わっていたと
考えられているというのである。
しかしまあ、そのことは、清里と関係ないので、興味のある方は、こちらをご覧ください。
http://www.npointelligence.com/studies_250713Katote_papers.pdf#search='%E5%A4%A2%E3%81%8B%E3%81%91%E3%82%8B%E9%AB%98%E5%8E%9F+%E6%B8%85%E9%87%8C%E3%81%AE%E7%88%B6+%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5'


さて。今一人の清里の恩人と言える人物…この人のことが今回書きたい主なことである。
その人物の名は、安池興男氏。

安池興男は、静岡県の素封家の生まれ。京都帝国大学農学部卒業。
昭和11年(1936年)夏。安池興男は、出来たばかりの清里の駅に降り立つ。
県経済部耕地課技官として山梨県営八ヶ岳開墾事務所長に任命された彼は、
まだ30を少し超えたばかりの青年農林技師であった。
今の清里周辺は、当時念場が原(ねんばがはら)と呼ばれる僻地であった。
標高1200メートルの高地にあって、水源に乏しく、火山灰による酸性度の強い荒れ地であった。

念場が原には、明治以降個人的に開墾に入った者もなくはなかったが、本格的に県が
未墾地開拓事業に乗り出すのは、昭和8年になってからである。
昭和初期の世界大恐慌を契機に、国は農村経済対策として全国に未墾地開拓事業を展開。
山梨県ではこの昭和8年、念場が原が事業拠点に決められたのであった。
その年、木材運搬を目的として小海線が開通し、清里駅が出来ている。

そして昭和11年。安池興男と、小河内ダム建設のため、故郷の村を追われた人々との
物語が始まるのだが、安池興男氏の孫である安池倫成氏のブログから一部引用させていただく。
引用部分は青字で記す。
http://yasuike.pr-blog.jp/%E5%AE%89%E6%B1%A0%E5%AE%B6/%E6%B8%85%E9%87%8C%E9%96%8B%E6%8B%9370%E5%91%A8%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%BC%8F%E5%85%B8%E3%81%AB%E5%87%BA%E5%B8%AD%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F


昭和12年6月。東京市は山梨県が、八ヶ岳開拓の計画があるのを調べ、
この清里の開墾計画を、視察に訪れた。祖父が開墾事務所長をしており、その案内をしたようだ。
それから、同年7月、小河内ダム水没の村である小河内村の人達が視察に訪れたが、
こんなところではとてもだめだと言って帰った。続いて9月に丹波山村と小菅村の人達が
視察に訪れたが、小河内村の人達とは違い、真剣に清里の地形、風向き、日照などの状況を視察した。


そうか…!小河内村の人々の多くは、山梨県の念場が原があまりの荒れ地なのを視察して失望。
それでそこへの移住はあきらめて、東京の奥多摩村や青梅市や八王子市などに移住していくんだな…。
安池興男は、その後9月に訪れた丹波山村、小菅村の人々を、熱意と誠意で持って説得したらしい…

昭和13年4月15日に安池興男開墾事務所長に1本の電話が入る。丹波山村の代表である。
「決めました。翌17日に入植します。」今度は祖父のほうが驚かされた。
余りに唐突で、迎える側としての準備の時間もないからだ。
「待ちなさい。入植をきめてから、しばらくの間時間をくれなければ。こちらの受け入れ態勢も整わない。」
「いえ、もう待てません。どうしても17日に行かせてください。」とのやり取りだ。
耕作を放棄し、わずかな補償料しか得られないと分かった貧しい人々たちは
もう一刻の猶予もない状況に追い込まれていたのだ


昭和13年4月17日。入植希望の各戸から1名ずつ(丹波山村から26名、小菅村から1名、
そして小河内村からも1名)の計28人が、入植の先遣隊として甲府駅で安池興男開墾事務所長に迎えられ、
清里に入植したのであった。
奇しくも、この昭和13年は、関東大震災で崩れ落ちた東京と横浜のYMCA(キリスト教青年会)会館の
再建の為に来日して以来、日本人の心の支えになろうとした聖徒アンデレ同胞会の伝道師ポ-ル・ラッシュが
清里にキャンプ(清泉寮)を建設した年でもあった。

28戸62人の人々の、念場が原でのその後の開拓暮らしはどんなものだったのか。

今は湖底に眠る丹波山村

当時の清里駅前通り

共同作業場

写真は清里観光振興会さんから、お借りしました。
http://www.kiyosato.gr.jp/rekishi/rekishi/yasuike.html

                 ***

ここに、『清里の開拓を語る』という、八ヶ岳南麓景観を考える会作成の資料がある。
https://mail.google.com/mail/u/0/?hl=ja#inbox/144f6e5ec83893e0?projector=1

長い資料なので、大事なところを少しづつまとめながら引用させていただく。

                 ***


小河内ダムに水没した村々からの移住者は、元来炭焼きや狭い斜面を耕す半農民であったことから、
広大な原野の開墾と農業には不慣れである。
入植地は赤松や雑木が茂る原野であった。予め県が伐採していた所もあったが、殆どは
開拓民が徒手で伐採抜根せねばならず、また岩や石ころそして熊笹の除去に大変苦労した。
畑になるまで10年もかかったという。開墾した土の色は黒いが酸性度が強く、
安池興男は、肥料の知識もあまりない開拓民のために、窒素、燐酸、加里の三要素の
知識を教え土壌改良に共に取り組む。

県は入植に当り各戸に鍬1丁を支給し、土地は当初県有地5反歩、最終的には3町歩を
割賦購入とした。(昭和19年に開拓民は割賦を全額を償還することにより、自作農になる
ことができた。)
住宅建設資金として各戸に 1.000円(東京市600円、国 300円、県100円支出)
支給されたが、安池興男はこのうち400円を、平等主義のためプールしておいて
貧富の差に応じて再配分する。苦しい開拓生活からの落伍者を防ぐためであった。
この平等主義は一部の開拓民から反対されたが、安池所長は平等主義を貫き通す。

安池所長は「一人二人の力では何も出来ないが、集団で力を合わせれば驚くべきことができる」と、
開拓民全員の力を結集するよう説いた。そうして、子供達の分校建設、共同墓地の造成、
神社の造営そして興民館の建設など次々に成し遂げたのである。

県による開拓事業予算は開墾に伴う土木工事費のみで、種苗や肥料の購入予算はなかった。
これらの費用は安池所長個人が負担したのだった。
昭和14年、彼は広島県への栄転を断って八ヶ岳地区に留まり開拓に奮闘。
昭和16年奈良県への転任後も、更には退官後も八ヶ岳開拓民の相談に乗るばかりか
金銭的援助も続けたのであった。

さて。話を元に戻すが、開拓民の各戸1名ずつの先遣隊は、まず当座の農具として
鍬一丁ずつを手渡される。その日から、開墾事務所の事務室と倉庫を借りの宿とし、
板敷の上でゴロ寝の生活が始まる。

住宅建設資金を使って建てられるはずの家は「1,000円の家」と呼ばれ、建坪25.5 坪、
コンクリート基礎、白壁瓦葺の農家造りであったが、それができるまでの仮住まいとして、
開拓民は、かつて炭焼きをしていた経験から、笹小屋と云われた粗末な小屋を自力で建てる。
この小屋は丸太組の杉皮葺き8畳間でむしろ戸の粗末なものであったが、これが出来ると家族を呼び寄せた。

入植当時は野菜や雑穀を蒔いたがそば以外は殆ど取れなかった。しかし安池所長の技術指導により
大根、キャベツ、じゃがいも、さつまいもなどの野菜類が、更にとうもろこし、大豆、小豆、陸稲、粟、ひえ、そばなど
の雑穀類も徐々に収穫できるようになった.特に大根やキャベツ、じゃがいもは品質が良く市場へ
出荷することもできた。
安池は農事組合を設立し、肥料の共同購入、農産物の共同出荷を図り、生活面では現金収入のため
野菜の行商を奨励したりしたのである。

念場が原の冬は寒かった。外気温-20度、屋内でも-12~3度にもなり、炭小屋のような
笹小屋での越冬は非常に厳しかった。いろりで松の根を燃やして暖をとるのだが、
松脂の煙で顔は真っ黒、目は赤く腫れ、体は臭くにおった。
呼び寄せられた家族は、学童13名が昭和13年9月清里尋常小学校に編入したが、
子供たちは八ヶ岳地区から峠を越え谷を渡る5~6kmの距離を通学はせねばならず、
八ヶ岳おろしの吹く頃、雪の降る時期は大変な苦労であった。
学校では開拓民の子供達は地元の子供達から「移住民の子、移住民の子」とはやし立てられ
石を投げられたり、あげくは「臭ぇ」、「汚ぇ」、「弁当見せろ」などと揶揄された。
開拓民の子供達は暖を取った松脂の匂いが身体に染みつき、身なりは貧しくボロをまとい、
そして弁当は麦やひえの混じったご飯であったからである。

大都会東京市の住民の水がめ小河内ダムを作るために故郷を追われた人々は、
皮肉なことに、水源の乏しい念場が原の開拓地で、水汲みに苦労することになる…
遠くの泉や小川から天秤棒に二つの桶をぶら下げて、熊笹が茂る石ころ山道を日に数回も運ぶのである。
雨が降れば家中のすべての容器を取り出して雨水を貯め、雪が降ればそれを溶かして水にした。
この地に町営の簡易水道施設が完成し、住民がようやく水の心配をしなくてよくなるのは、
移住から実に半世紀も経た昭和63年のことである!
東京の水のために故郷を失った人々が、かくも水のことで苦労を長く忍ばねばならなかったとは!!

食事は貧しくいつも飢えていた.挽いたライ麦と米を7:3に混ぜたご飯や、ライ麦に人参
や大根を刻んで炊いて食べた。蛇、兎、雉など犬猫以外は何でも食べた。
時には死んだ家畜を皆で分け合って食べた。これらは貴重な動物性蛋白源であった。
女達はセンブリ、ゲンノショウコ、オオバコそしてヨモギなどを使って漢方薬をこしらえたり、
灰を石鹸代わりとして使ったり、大根葉を風呂に入れて入浴剤にするなど生活の知恵を発揮した。

開拓者の楽しみは、一日の農作業を終え風呂に入り、もらい湯にきた人達との世間話する
ことで、何でも話し合ったので家族同然だった。お金の足りないときは「時借」といって融通
し合った. 貧しく辛い生活環境にありながらも、互に助け合い励まし合った。
このようにして培われた開拓者達の親密な関係は、やがて逞しい共同体意識に成長し、
住宅、分教場、神社、共同墓地そして興民館などの建設へと発展していくのである。

安池に指導されて開拓者の意識は高い。子供達の教育は地域づくり100年の計にあるとの自覚から、
分校の建設を考えるようになった。2教室で予算12,000円であったが、建設資金は
東京市からの8,000円の交付金だけで、国や県からの助成はなかった。
当時は日中戦争が激しくなり資材が高騰していた。工事計画は躓く。
一部の開拓民は八ヶ岳地区から離脱していった。

この事態にもめげず開拓民は再起を賭け金策に奔走。幸い母村の丹波山から2,000円
そして安池所長の実家から3,000円を借り入れることが出来た。この借入金で材料を購入し、
工事は開拓民の勤労奉仕とし、ようやく昭和15年7月に校舎が落成した。
開拓民の一致団結した共同作業により6ヶ月の工期が僅か20日で完成したという。

分教場は51名による複式2学級編成、職員2名で発足した。
開校に当り安池所長からオルガンと理科実験機材が寄贈された。
分校はいつも教材教具が不足していた。このことが後日東京都の公立小学校々長会の知るところとなり、
東京都の小河内ダム建設による水没移住民のこともあって、都内小学校の生徒の募金により
267万円が寄付され、分校の教材教具が充実されたというエピソードもあった。


清里千円の家 



千円の家。写真は『八ヶ岳検定』さんからお借りしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yatsu1182/24270893.html

その後の念場が原の開拓地(今の清里地区)の様子は、多くの人がおよそながら
推測出来るのではないだろうか。
開拓農民たちは、雑穀農家から酪農へ、景観をいかしてのペンション経営…観光の町へと、
発展的に産業と生き方を変えていくのである…


清里で本格的に開拓民が酪農を手がけるのは昭和25年になってから。
開拓の若者達数名が乳牛の購入から牛乳の処理加工まで事業化し、牛乳は高原牛乳として
甲府に出荷し、バター、チーズも造る。昭和29年には酪農振興法が制定され、
県は八ヶ岳南麓に粗飼料にも耐え脂肪率の高いジャージー種の牛を多量に輸入。
あの、ポール・ラッシュ牧師が紹介したジャージー種である…。
昭和30年。県は八ヶ岳南麓を集約酪農に指定。酪農に転換する開拓農家が増えてくる。
今までの雑穀農業とは全く異なり、農民の生活態度まで変わる新しい農法への転換であったが、
困難もあったが開拓農家のほぼ全員が酪農家になり、耕作地は牧草地となった。

緑の牧草地に赤い屋根の畜舎、とんがり屋根のサイロが建てられ、ここに新しい清里の
原風景が造られたのである。
昭和40年代に入り、酪農は多頭飼育と機械化の導入により量産と効率化が進んだが、
一方では借金酪農と後継者不足により必ずしも安定した生業とはならなかったという。

昭和20年代から画家や登山家が美し森からキープ牧場辺りに見え始めたが
昭和30年代に入ると夏季に学生や若い会社員らが多数訪れ、キャンプする人も見られるようになる。
酪農にかげりが見え出した昭和39年夏ごろ、ある入植者が酪農から民宿に転業し、
いわゆる牧場民宿が始まった。昭和40年に入ると高度経済成長に伴うレジャーブームが起きて
キープの清泉寮を中心として若い人達で賑わった。
昭和46年に入ると女性向け雑誌が一斉に八ヶ岳の牧場風景(緑の牧草にサイロと赤い屋根の畜舎)を
紹介したことから清里ブームが起こり、若い女性が急速に増えシーズン中清里は大変賑わった。
当初の民宿から昭和50年代に入ると若者の洋風指向によりペンションブームに移行し、
今日の美しい避暑地の町、清里のイメージと産業が定着していく……。


この清里におけるペンションブームの切っ掛けとなるペンション第一号を作ったのは、
興男が静岡へ帰ってから知り合った山田博幸氏。氏は第一勧業銀行の銀行員であったが、
安池興男と知り合い感銘を受け、この地に「ペンションハート」という清里ペンションの
第1号を建てその後の生涯をこの地にささげることになったひと。
大都会東京市の水をさせるために故郷を失った小河内村、丹波山村、小菅村の人々が
念場が原、つまり今の清里でいかに生き抜いたか、清里の歴史を後世に伝える使命感を持って
今も活動していらっしゃるようだ。



                 ***

安池興男は、そのように私心を棄て私財まで何度も投入して念場が原開拓民のために尽くしぬいて、
今は生地の静岡県に静かに眠っている。
開拓の人々は安池興男を今でも大切に想い、「恩渉の碑」と彫った墓を入植者の共同墓地の中心に
作り、そこに静岡から安池とその妻の骨が分骨されて納められているという。
また、「八ヶ岳興民館」は、「公民館」ではなく「興民館」と書く。安池興男の「興」の字を
使っているのである。八ヶ岳興民館にある安池興男を記念する碑には、興男の好きだった言葉
『感激の至情 楽土を拓く』

という碑文が刻まれている。


                 ***


開拓者の言葉
         (上記『清里の開拓を語る』より)

昭和13年丹波山村から念場原に移住し、鍬1丁と3町歩の土地を与えられ、半世紀にわ
たる苦難の開拓を成し遂げた開拓者達は、過去を振り返り次の言葉を残している.

・ 幾多の苦難を乗り越え、広大な荒地を緑の草原に変えたのはわしらだと誇りに思う.

・ 開拓人生は苦しかったが、自分なりに一生懸命働いて生きてきたと自信を持って云える。

・ 女手で畑を維持する事は大変な事で、何べんも手放してしまおうと思ったが、2町7反歩
  の土地を何とか持ちこたえる事が出来た.今は牧草地として息子に引き継ぐ財産ができたことを
  誇りに思っている.

・ 夫は戦争にとられ九死に一生を得て帰国できたが、戦争が終わっても供出の米造りに追われ
  過労がもとで病死してしまった.夫は働いて働いて働き尽くめの一生で本当にかわいそうだった.

・ 楽しい事は何もなかった.一生懸命に必死に働きつづけてこの歳まで生きてきた.

・ 振り返ってみると我慢ガマンの長い年月でした.当時はそれがあたり前の世の中で、
  今の人には分かって貰えない時代でした.しかしその頃はお互い我慢し合ったので皆親切で暖かでした.

・ 親の方が大変で子供はそれ程でもなかった.そのお陰で今は幸せである.苦労した両親に感謝している.

・ 現在華やかな観光地である清里は半世紀前に開拓の時代があり、開拓民の計り知れない苦闘の末に
  今の清里があるとことを理解して欲しい.
                  

                  ***

この記事続く。



『見てください「フタバから遠く離れて」』

                   緊急のご連絡。

今日23日、深夜24時まで、映画『フタバから遠く離れて』を特別見ることが出来ます。

監督スタッフの皆さんの、一人でも多くの人に見てもらいたい、という願いから、
限定無料公開されているのです。
急で申し訳ありませんが、私も昨日知って明け方までかかって見たばかり。

私は、原発事故についていろいろ反対記事を書いてきたけれど、本当には福島の状況を
ちっともわかっていなかったんだなと、この映画を見て思い知らされました。

とにかく、一人でも多くの方に見て欲しい!
今回見られない人は、ぜひ、DVDその他で、何とか見てほしいなあと思いました。

https://apps.facebook.com/futaba-movie/



              ***


「私たちも原発事故の当事者である。」
(映画のディレクターズノートより拝借)

何も見えない。311後の日本は、何も見えないことにフラストレーションを抱えてきた。
あの原発で何が起こっているのか?原子炉の中はどうなっているのか?放射能はどこへいったのか?自分は被爆したのか?被爆したとしたら、どうなってしまうのか?

今回の事故で日本政府と東電の対応はとても似通っていた。事実の公表をさけ、「健康にただちの被害はない」という文言に終始する。肥大する政府不信と東電不信・・・日本国民だけでなく、世界中からも不信を買ってしまった・・・国が推進してきた原子力政策。それが破綻を来し、危険だという理由から、警戒区域の中を見ることはできなくなった。大手メディアも国の命令に従い、僕たちの「知る権利」は宙吊り。何も見えない、知らされない恐怖と闘い続けるのが、ポスト311の日本の日常となった。


そんなとき、もっとも割を食う、もっとも無視され放置されるのが、避難所の人たちだ。自分たちの家に帰られるのか、仕事はどうなるのか?基本的な質問に対する解答が永遠に引き伸ばされ続ける。その宙ぶらりの時間を記録しなければいけない。忘れ去られてはいけない。そんな強い衝動に駆られて、僕はキャメラを手にした。まだ地震・津波の被害状況ばかりがニュースで、その甚大さばかりが強調された2011年3月末のことである。


この映画は、避難民の時間を描いている。1日や1週間のことではない、延々とつづく原発避難。今回の原発事故で失われたのは、土地、不動産、仕事・・・金で賠償できる物ばかりでない。人の繋がり、風土、郷土と歴史、という無形の財産も吹き飛んでしまった。それに対する償いは、あいにく誰も用意していない。用意できるものでもない。

そして、僕たちはその福島で作られた電気を使いつづけてきた。無意識に、加害者の側に立ってしまっていた。いや我々は東電じゃないんだから、加害者じゃない、というかもしれない。本当にそうなのか。地方に危険な原発を背負わせる政府を支えてきたのは、誰なのか。そんな犠牲のシステムに依存して、電気を使ってきたのは誰なのか。いま 僕たちの当事者意識が問われている。



              ***

こちらも急ぎのご連絡。
松井大門先生の東北での展覧会2014、開催中

ああ。私は何をぼんやりしてたんだ!?



      2014松井大門先生








『梅』

狭い、日当たりの悪い庭の、それも北側の角に植えられた梅。
少しでも朝日と西日を求めて、庭とは反対側の塀の外の方へ方へと枝を伸ばしていく。

幸い塀の外は、人も殆ど足を踏み入れぬ隣家と隣家の間の私道になっていて、
しかも我が家はその2軒より1メートルほど高いところにあるので、伸び出た枝が
すぐに人の通行の邪魔になるということではないのだが、秋になれば木の葉は落ちる。
ずっと剪定しなければなあ、と気になっていたが、太い枝を女手で剪定出来るだろうか…
とぐずぐず先延ばしにしてきた。
私は握力や背筋力など人並み以下で、とりわけ非力なのである。

しかし、『桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿』と俗にも言う。
咲き誇る梅の花を貰いがてら、外に伸びた枝だけでも剪定することにした。

それでなくても窮屈な敷地に、梅の横には槿(むくげ)、紫式部も植わっている。
それらが絡み合っていて、作業がしにくいったらない。
切ろうと思う枝は直径3センチほどには太くなっていて、剪定ばさみではとても切れそうにない。
おっかなびっくり、それでなくても足場の悪い所に脚立を立て、のこぎりで引き落とす。

隣の私道にワサワサいって落ちたやつを、あとで拾いに行って、一本ずつ肩に乗せて
端っこは引きずりながら家まで運んでくる。
我が家からその私道への出口はなく、家々の一角を大回りしていかなければ
そこへ行けないのである。
大きいのが3本と、細かい剪定枝が10本ほど…
こぼれた花びらも箒で掃き寄せて掃除。

我が家側に落ちた枝も含め、大きな枝たちをのこぎりや大小のはさみで切り分けた。
これから、家中に梅の枝を飾る。
隣家の人たちにもおすそわけで配った。
家で挿しきれない分は、バケツに入れて『ご自由にお持ちください』と書いたカードと
包装用に新聞紙を添えて、裏の川べりの遊歩道に数日置いてみることにする……

さて。
梅の花たち。


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まずは玄関の上がり框に置いて。
松は、正月の活け花のを、棄てずにいる…



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窓に飾って。





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二階の窓辺にも飾って。




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こんな花瓶にも飾って。
…と言っても、実はこれ、市販の酒瓶。
ある地域で、作家ものの酒瓶として販売されている有田焼の器らしい。

私は、リメイク用の和服をネットで買うことがある。
そんなオークションサイトを検索していて、ふとこの酒瓶に出会った。
「お!この風景は!」と思ったが、小さな写真ではよくわからない。
売り主も、この瓶の出所は知らぬらしく、なにも書いてない。
でも、見当をつけた場所の地名と『地酒』という言葉を入力していくと、見事にヒット!
どうやら、この町に生まれこの町を愛した画家の絵だという。

市販品なので、骨董的価値のあるというものではないけれど、この瓶をオークションでゲットして
手元にこれが届いたときには、なんだか胸がきゅんとした。
と言っても私以外に入札者はなく、値段もわずかなものである。

でも、なんだか出会いを感じたのである…
人とも物とも、確かに、不思議な縁というものはあるのじゃなかろうか。
この画家さんは、2011年、80数歳で亡くなられたらしい。
この町を、この路地を、こよなく愛した画家さんだったという……



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梅の枝はだんだん短いものになっていく…
こんなグラスに。



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また、もっと短いのはこんなグラスに。
庭の八つ手の、一番小さな葉を添えてみた…^^


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以前登場したことのあるこの緑と赤の色の入った磨りガラスのグラスには、
同じく庭の南天の赤い葉っぱを。
そう言えば、このグラスは、上記の酒瓶の街で買って来たものだ……




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梅の枝には、小さな小枝がいっぱい枝別れして、その一つ一つにもちゃんと蕾がついている。
花一輪も今回は棄てたくなく、小さな枝も全部集めた。
3センチくらいの短いものも全部…。ぎゅうぎゅうづめでごめんね。




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それにさえ届かぬ極短い枝や、作業中にこぼれ落ちた花は、丁寧に拾い集めて、こんなガラス器に。
梅って、幹から直接、一輪だけ咲き出ている子があったりして、そういう子もここに。^^





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はい。その子たちが昨夜のキャンドルナイトの花たち。

特別な日に、深い鎮魂の想いを籠めながら、花びら一つ一つを拾い集めた。

青白い月の光のようなライトをあててみた……





                ***

[追記]

水を入れたバケツに挿して、裏の川べりの遊歩道に置いておいた梅の枝たちは、
我が家で活けたのよりは長さも長く、結構な本数があったのですが、
夕方買い物がてら出てみると、一本も残さず、みな、お持ち帰りされていました。^^

見ず知らずの方々が、持ち帰られたのでしょうが、なんだかほんのりこころが温かい。






『東日本大震災から3年』



一昨日9日には、日比谷公園で、首都圏反原発連合や『さようなら原発1000万人アクション』などの
集会があって、そのあと国会包囲が行われた。
私は当日出るのが遅くなって、日比谷公園に着いたときには、もう集会は半ば過ぎていた。
前回と同じに、危険防止のため、一定以上の人数は野外音楽堂の中には入れない。
既に集会の始まった時点で入れなかった人々は、音楽堂の周辺の公園内で待っている。


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う~~~ん…
多いのかな、少ないのかな……
少ないのだろうな……

2011年の明治公園の、6万人と言われた集会に比べると、悲しいことだが
人数は減ったと認めざるを得ない…



この日は、デモと国会包囲を同時に行っていくということで、半数はデモの隊列に並び、
半数の人は、三々五々、自分たちで国会の方に歩いていくようだった。
私はちょっと迷った末、やはり街行く人々に少しでもデモの隊列が長く見えるよう、
デモ組の方で待つことにした。

…しかし、デモの出発は遅い…
公園内で足止めを食ったまま、時間だけがどんどん過ぎていく…
並んでから1時間も経ったろうか、漸く歩き始めてからわかった。
警察の規制が、いつも以上に厳格なのである。
前の方をゆく隊列と厳密に一定の距離を保ちながら、デモ隊のストップ、スタートを
警官隊が完全にコントロールしている。
どういうことなのだかわからなかったが、今回のデモは『請願デモ』ということらしく、
あるところまで来ると、…要するに国会周辺にいよいよ近づくと、幟旗と鳴りものは禁止、という。

え?そうなの? 知らなかった…何の法律?或いは条例?

要するに、『お行儀の悪い子にはお願い事(請願)させてやらないよ』というわけか?
国会の裏まで来た時、また警察が、私のいたグループにストップをかけた。
隊列の中に、幟旗を掲げている人がいて、それを下さないとスタートできません、というのだ。
隊列の中からも振り向いてその人に向かって、「おい!旗下せ!旗下さないと、
出発させないんだってさ!」と、声をかける者がいる。
しかし、私からは見えなかったが、その人は頑として旗を降ろさないらしい。
少し偉そうな階級?の警官が来て、「旗を降ろしなさい!」と叫ぶ。が、下ろさない。
足止めを食っていらいらしたデモ参加者の中からも、「おい!何やってんだ。下ろせ!」という
声がまた上がる。
一方で、「なんで幟旗掲げちゃいけないんだよ!」と警官隊に激しくくってかかる人も現れた。
ちょっと一触即発の空気……。

が、その偉そうな警官の状況判断か、(たぶん旗は降ろさないまま?)スタートの合図。
ようやく隊列が動き出した…。

私はずうっと顔をしかめていた……。
いつもデモに出ると、なにがしかふっと微笑みたくなる瞬間がこれまではあった…。
前の人の帽子に蝶々が止まってしばらく動かないでいたり、
おまわりさんが、ドラム隊の小太鼓のリズムに合わせて、意識せず体を揺すっていたり。
大きな流星が、国会を取り巻く人々の上をひそかに流れて行ったり。
子供たちが可愛らしかったり……。
デモとはいえど、なにか毎回、こころにぐっとくるエピソードがたくさんあったものだ。

だが。こんな盛り上がらないデモは初めてだった……。
私が、遅くなって、集会に出られなかったことや、判断誤って、国会包囲の方に
さっさと行かなかったことなどこちらの不手際もあったのかもしれないが、
とにかく警察のコントロールがここまで利いたデモはこれまでで初めて!

まず警官隊の数の多さったら!!
そして、警官隊が、デモ隊を細かく分断していくというのが、いつもに増して徹底しているように
私には感じられて、しかも、それを跳ね返すだけの元気がデモ隊になく、
私も含め、みな大人しく警官隊の誘導通りに行動していた……
なにも警官隊を敵視するわけじゃない。
私は、おまわりさんも人間、といつも思っていて、警備大変だなあ、といつも感謝したくなる
くらいのものなのだが、それにしても、あまりにも警官隊の誘導の強化と、デモ隊の大人しさが目立つ…


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経産省前のテント。
ここだけは、熱気が変わらない。
だって。ここにずうっと陣取って抗議を続けているふくしまの人々は、諦めるわけにいかないのだ!



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なんだか、列がぱらぱら疎らだなあ……



ああ。これも。
秘密保護法が通り言論の自由が徐々に徐々に奪われていく時代の、いよいよの始まりを
象徴的に示しているものなのだろうか…
都知事選で脱原発の人々が真っ二つに割れてしまったことの後遺症がこういうかたちで
出ているのだろうか…
私が顔をしかめたくなっていたのは、そんなことを考えていたからであった。

そうそう。私がいたデモのグループは、警官隊に『最終梯団』と呼ばれていたな。
『梯団』?
私たちデモ隊は、軍隊じゃないんですけれど…
やだなあ…梯団、などと呼ばれて、おとなしくデモするのは……。

私が遅れて参加して、デモ隊の中心近くに一歩も近づかなかったからそんな印象
受けるのだろうか…私だけの印象なのだろうか…

そう思っていたが、国会前で、私の隣に座っていた女性も、ぐるっと国会前、官邸前、
経産省前などを一回りしてきたらしいのだが、人がなんだかばらばらの印象を受けた、と
語っていらした。

警察のデモ隊分断策と、それから主催者側の、デモ隊と国会前包囲を分けた、というのも
人がパラパラ散って見えた一因なんじゃないかな。
流れ解散した人も随分いたんじゃなかろうか。




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主催者発表では、この日の集会参加者は、延べ3万人。
延べかあ……
ということは、実質2万人くらい、ということかな…

う~~~ん……



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私は、福島の人々への想いが薄れていっているとは思わない。
原発への危機感が弱っていっているとも思わない。
ただ…人々のあきらめが、もしこの日の参会者の数に出ているのなら、それは
すごく!すごく!危険で悲しいことである。
私たちはあきらめるわけにはいかないのだ。
この日本を変えていくのは、政治家じゃない、私たち自身である。
私たちがあきらめたとき…日本は本当に、本当に危険な道をまた歩き始める。

なんだか、苦い…あの東日本大震災と福島の悲劇から3年目の集会にしては、
苦い想いの残るデモだったなあ…
私の単なる、個人的印象か?
なにしろ今回は、本当に末端にいたものなあ。

デモを違うところで記録していてくださった方の映像でもご紹介しておきましょうか。
こちらは、元気。かなっ??…


)





『3年の月日』

3年が過ぎた……

今日も気持が重く、言葉が出てこない……

黙とうをささげた後、
私は午後ずっと、庭の槿などの剪定をしていた……
我が家の敷地の外に大きく伸び出ていた花盛りの梅の木の枝も、
いくつもの花瓶に活けられるよう、切り取った…
玄関と、階下の部屋と、二階と…
小さな枝も一本も無駄に捨てたりしないで、小さな花瓶に活ける。

黙々と…
これが。
なにも言えない、言うと憤怒が吹き出るばかりの私の、
私なりの鎮魂のしかただ……


3年目という今日の日のキャンドルナイト。

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はらはらとこぼれ落ちた梅の花を丁寧に拾い集めて、その中にいつもの小さなろうそくを立てた…







                         
心ひとつに キャンドルナイト




南亭さんバナー②


葉っぱさん、れんげちゃん。NANTEIさん。
今月もバナーお借りします。





『原発ゼロ☆大統一行動 ~福島を忘れるな!』

2014 ②




0309 NO NUKES DAY
原発ゼロ☆大統一行動 ~福島を忘れるな!再稼働を許すな!~
【日時】2014年3月9日(日)
【場所】日比谷野音(大音楽堂)・国会議事堂周辺
【呼びかけ】首都圏反原発連合/さようなら原発1000万人アクション/原発をなくす全国連絡会
【協力】脱原発世界会議/経産省前テントひろば/再稼働阻止全国ネットワーク

*アクセス
○「日比谷公園」最寄り駅:地下鉄日比谷線「日比谷駅」、地下鉄丸ノ内線・千代田線・日比谷線「霞ヶ関駅」、地下鉄三田線「内幸町駅」
○「国会議事堂」最寄り駅:地下鉄有楽町線「桜田門駅」、地下鉄丸ノ内線、千代田線「国会議事堂前駅」、
地下鉄丸ノ内線・千代田線・日比谷線「霞ヶ関駅」、地下鉄有楽町線・半蔵門線・南北線「永田町駅」

【タイムテーブル】

<<第一部>>
13:00~ 大集会 *場所:日比谷野外音楽堂
14:00~ 巨大請願デモ/国会大包囲 *日比谷公園出発で「請願デモ」と「国会包囲」を同時に行います。

主催:首都圏反原発連合/さようなら原発1000万人アクショ ン/原発をなくす全国連絡会


●日比谷野外音楽堂大集会プログラム(敬称略)

1.司会挨拶 阿部浩一(さようなら原発1000万人アクション)・湯本弘美(原発をなくす全国連絡会)
2.主催挨拶 Misao Redwolf(首都圏反原発連合)
3.スピーチ/福島から
  名木昭(福島県内の全原発の廃炉を求める会・呼びかけ人)
  鈴木薫(NPO法人 いわき放射能市民測定室たらちね・事務局長)
  早川篤雄(福島県楢葉町宝鏡寺住職/福島原発 避難 者訴訟原告団・団長)
4.カンパ案内
5.ゲストスピーチ 坂本龍一(音楽家)
6.スピーチ/原発現地から
  中村きくえ(八幡浜・原発から子どもを守る女の会)
  石地優(原子力発電に反対する福井県民会議・事務局次長)
7.集会決議
8.請願デモや国会包囲の注意事項説明
9.閉会のコール ATS(ラッパー)

*予定は変更する場合もございます。

<<第二部>>
15:30~17:00 国会前大集会
主催:首都圏反原発連合

司会:松本るきつら

<オープニングライヴ>
15:30〜15:40、ジンラらムータとリクルマイ
<登壇者>
菅直人(衆議院議員 元内閣総理大臣)
生方幸夫(衆議院議員 民主党)
志位和夫(衆議院議員 日本共産党)
笠井亮(衆議院議員 日本共産党)
田村智子(参議院議員 日本共産党)
吉良よし子(参議院議員 日本共産党)
小宮山泰子(衆議院議員 生活の党)
福島みずほ(参議院議員 社民党)
川内博史(元衆議院議員 民主党)
三宅雪子(元衆議院議員 生活の党)
チェ・ヨル(韓国・環境財団代表)
ケンドラ・オーリッジ(アメリカ グリーンピース エネルギーキャンペーナー)
台灣四五六反核運動 からのメッセージ(台湾)
早川篤雄(福島県楢葉町宝鏡寺 住職/福島原発 避難 者訴訟原告団・団長)
中村きくえ(八幡浜・原発から子どもを守る女の会)
アユム☆グリーンレモン(伊方原発とめまっしょい若者連合)
原発現地から…他
<共催者挨拶>
井上年弘(さようなら原発1000万人アクション)
笹渡義夫(原発をなくす全国連絡会)
<協力団体挨拶>
吉岡達也(脱原発世界会議)
渕上太郎(経産省前テントひろば)
柳田真(再稼働阻止全国ネットワーク)
<クロージングライヴ>
16:50〜17:00 ATS

(敬称略/順不同)

<<アートエリア>>
14:00~17:00(予定)

 場所:国会図書館前 バンドによる演奏とアジテーション。プラカードやステッカーななどで反原発を伝える素材を作った表現を集めました。
 LIVE ACT: 切腹PISTOLS/i Zoom i Rockers feat ECD/ザ・生きさせろーズ/SoRA/他
 EXHIBITION: 281_AntiNuke/ナナエル

▼呼びかけ

2011年3月11日、東日本大震災、福島第一原子力発電所の過酷事故からまもなく3年。

放射能汚染水漏れなど、事故収束の目処も立たず、いまだに14万人もの人々が満
足な補償も受けられないままの避難生活を余儀な くさ れています。
しかし、自民党安倍政権は何の反省もなく、エネルギー基本計画から原発ゼロ目
標を放棄し、再稼働、輸出、核燃料サイクル等を強 行し ようとしています。

全国的に巻き起こった反対運動によって、現在稼働している原発はゼロとなって
います。これこそ国民の希望の反映です。原子力発 電と いう既に “終わった技
術” を維持・推進するのは電力需給の問題ではなく、政官財などの一部の都合で
しかありません。

一進一退のせめぎ合いの中、我々市民が忘れず諦めず声をあげ続ける事によっ
て、政府に再稼働を断念させ、原発の ない未来を1日でも早く実現するために、
2014年3月9日に『0309 NO NUKES DAY 原発ゼロ☆大統一行動 ~福島を忘れる
な!再稼働を許すな!~』を開催します。また、3月9日を前後した全国のとりく
みをつなぐ『NO NUKES WEEK』共同行動をよびかけます。

福島第一原発事故と被害者を風化、忘却させないように、3月9日は全国からかつ
てない規模の行動を起こし、大集結して原発を終 わら せましょう!



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アクション名:3.9 NO NUKES DAY 原発ゼロ★大統一行動

詳細はこちら。
http://coalitionagainstnukes.jp/?p=3932


『お雛祭り 新しいこ]

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さて。ちらしずしもできたし、みんな揃ったし、あとは慧人くんが来るだけね。
みんな、おなかすいたでしょうど、もうちょっと待ってね。
お茶でも飲んでましょう。

こんど来るちと、けいとくんっていうの?

そうよ。慧人くん。

ふうん…


それにしても遅いわね。もう八時よ。心配だわ……

ピン・・ポーン……

あ!ちた!!!


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こんばんは。
ぼく、慧人。
遅くなってごめんなさい……




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とちゅうで道がわからなくなったの…
それでおそくなったの…
(ヒック……)
いぬのおまわりさんにきいたの…
(ヒック……)
おまわりさんがつれてきてくれたの……
(しくしく…ヒック……)



まあまあ!
そうだったの!今、あまり遅いから、心配なのでお外に出てみようと
していたところだったのよ。
一人で来るなんて思わなかった。おにいさんがそこまで連れて来てくれると思ってたのよ。

ヒック。
ぼくひとりで来れると思ったの…


まあ、かわいそうに。でもよく来られたわ。
よかったよかった。
さあさ、まずは、暖かいところにお座りなさい。
あずちゃん。慧人くんをお席に連れていってあげてね。


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けいとくん。
ちゃむかったでちょ。




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さあ。
みんな揃ってよかったよかった。
さあじゃあ、みんなで、おごちそういただきましょう。
苺のケーキもあるわよ。
エッグスタンドのこっこちゃんが、お背中にのせてひなあられも運んできてくれたわ。
たくさん食べてね。
今、温かいお吸い物、運んで来るわね。


は~~~~~~~~い!






『お雛まつり』

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今日はお雛祭り。
もう娘は大きくなったので、お雛様たちもなかなか出して飾ってあげる気になりません。
それでも、桃の花など一応飾りましょうか。
今晩はまた、ちらしずしでもするかなあ。

おや。大きなガラスの瓶の下にいるこのこはだれ。


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起きたばかりでまだぼ~っとしています……



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おや。少し目が醒めてきたようで、お花のあいだにはいっちゃた。
これこれ。まず皆さんにご挨拶なさい。



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は~い。

みなさん、こんにちわ。
あずさでしゅ。




年に一度だけ、和紙の箱のベッドから出てくる、この小さなろうそく人形のあずさのことは、
こちらをご覧くださいね。


http://clusteramaryllis45.blog61.fc2.com/blog-entry-92.html


あずさはまだしばらく、ここで遊んで行きます。
明日ね。あたらしいおともだちが来るから、そしたらみんなでおごちそう食べましょうね。

は~~~~~い。











『大雪と原発 ②』

さて。続き。

前の記事で、大雪の日の連想から、山梨県北杜市と小河内ダムの関係を述べた。
大東京の水を確保するために山梨県の丹波山村・小菅村や東京都小河内村の合計945世帯
約6千人(そのほとんどが小河内村の647戸)が、この北杜市や東京都奥多摩町、青梅市、
福生市、昭島市、八王子市、さらに埼玉県豊岡町等に移転したのである。
(小河内村は氷川町、古里村と合併し、昭和30年、『奥多摩町』となっている。)

それでは、その小河内ダム建設はその後どのように進捗して行ったのだろうか。

小河内ダムは、石川達三が『生きてゐる兵隊』で、発禁処分を受けたあの昭和13年11月に着工している。
その後、日本は太平洋戦争へと突入。激化する戦局の中で昭和18年、工事を中止。
終戦後の昭和23年に工事が再開される。ダムが完成したのは昭和32年(1957年)11月26日の
ことであった。実に19年余りの歳月と約150億円の総工費をもって完成したのであった。

ダム工事は当時の技術不足や戦争遂行のための資材不足、労働力不足などから困難を極め、
建設中に東京都職員や建設会社社員、下請作業員ら、実に87名が殉職し、
昭和33年(1958年)湖畔にその慰霊碑が建てられている。

その慰霊碑の裏には、中国人、朝鮮半島の人とわかる殉難者の名前も刻みこまれているという。
日本では戦中多くの中国人や朝鮮半島の人々が強制連行、または徴用されて、
こうしたダムや、炭坑や、銅山などで苛酷な仕儀とに従事させられていた。
あるサイトで、小河内ダムの慰霊碑を見て来た人の記憶によると、半数近くが
それらしい名前だったという。
しかしまた別の資料では、韓国人犠牲者6名と書いてあるのもあって、中国および
朝鮮半島出身の人々の正確な殉難者の人数はわからない。
ダムや水道局広報課に電話したが、即答はしてもらえなかった。
いつか自分で行って自分の目で確かめて来られたらいいなあと考えている……

戦中の日本におけるダム建設で、多くの日本人技術者や労働者が事故で亡くなったことは
みなさんもご存じでいらっしゃるだろう。
同じくこれら中国・朝鮮半島から連れてこられた労働者のうちの殉難者も、小河内ダムに
限らなかった……。

私の住む街から、北杜市のある山梨方面に向かう中央本線の駅に相模湖駅というところがある。
相模湖は相模ダム建設によってできた人造湖である。
ここには、私の娘などが小さい頃には遠足で行き、また後年、私も娘と共に、周辺を
探索したこともある美しい景観の湖である。
夏には、いつも私がパソコンをする二階の部屋から、この相模湖で行われる花火大会の
音が聞こえてき、大きな打ち上げ花火なら、その上辺が遠く私の窓からも見える。

相模ダムは日本初の多目的人工湖で、1940年から47年までの間に建設され、いまでは
神奈川県民にとって不可欠の飲料水用ダム・発電所・観光地になっている。
相模ダムを建設するため、当時の日本は述べ360万人の労働者を動員した。

相模ダムについては以下のブログに詳しい。要約して引用させていただく。詳細は原文を。
http://blog.livedoor.jp/kanagawagaikiren/archives/73397.html

『在日者の足跡』
  「相模湖・ダム」神奈川外キ連(外国人住民基本法の制定を求める神奈川キリスト者連絡会)」


1931年に満州事変が勃発してから、日本の軍事費は大幅に膨張した。
川崎・鶴見・横浜を中心とした京浜工業地帯で軍需品を量産するための大量の電力と
工業用水の確保が急務となった。
1935年、神奈川県知事石田馨は、相模川上流域にダムを建設することを計画。
1938年、半井清知事によって県会に提出される。しかし、地域住民を中心とする
デモ隊2000人が県会議事堂をとりかこみ、地元では土地不売同盟が結成されるなど、
激しい抵抗運動が起こった。
しかし県当局は、陸軍大将の小磯国昭・杉山元・荒木貞夫らを迎えて一大デモンストレーションを行い、
住民は結局、軍事体制に協力せざるを得なくなる。
138戸の住民が転居させられ、1940年11月、相模湖・ダムは着工された。
工事の中断もあり、完成は、敗戦後の1947年。
この間のべ360万人がダム工事のために働いた。戦時中の労働者不足で、北陸や東北からの出稼ぎ、
学徒動員・・・そして建設工事に携わった6割の人が「朝鮮」出身労働者であった。

「日本・韓国朝鮮人の殉職者殉難者名簿」には52名の名前があるが、名前から推測して、
「韓国朝鮮人の殉職者殉難者」は17人前後。病死者(病死扱いにされた)の数は、はかりしれない。
逃亡者は多く、逃亡が見つかると死にいたるほどの暴行を受けが、「朝鮮」出身労働者の逃亡は
後を断たなかった。
一方、捕虜として強制連行され、相模ダム建設で働かされた中国人が287人いた。
「中国人の殉職者殉難者名簿」には28名の名前がある。その死因は、作業中の転落などの事故、
大腸炎・結核などの病気のほか、自殺・精神病・警察取調中・不明などが書いてある。


別のサイトには、この住民の激しい反対運動を抑え込むために、県当局が行った
上記、『陸軍大将の小磯国昭・杉山元・荒木貞夫らを迎えて一大デモンストレーション』
の詳しい内容が書いてあった。
国や県そして軍部のそのあこぎなまでのやり口…そして、その時代がどういう時代であったか、
とてもわかりやすいので、そのまま引用させていただく。


『文献にみる補償の精神【11】戦争という大義』(相模ダム)
            古賀邦雄 水・河川・湖沼関係文献研究会
http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=244

 結局、水没者の人々が同意をしたのは、時代への流れであり、戦争であったという。
この書に「それが端的に現れたのは陸海軍将星の相模川べりのデモである。
勝瀬の人々の間には、なお強い反対の空気が濃かったころである。与瀬町に集まった将軍たち
ーーー荒木貞夫、杉山元、小磯国昭といった飛ぶ鳥おとす陸軍の将星に加え、海軍も加わり、
勝瀬地区を中心に陸海合同の観兵式をあげたわけであるから人々のきもをつぶす示威であった
」とある。
このように水没者には、強権的ともいえる軍の圧力をひしひしと胸に堪えたことであろう。
それは「戦争のため、国家のため」という大義名分を自ずと醸成せざるを得なかった。

昭和初期の時代を振り返ってみると、昭和6年満州事変、7年上海事変、11年2・26事件、
12年盧溝橋事件、日中戦争、14年ノモハン事件、第2次世界大戦、そして昭和16年12月太平洋戦争
が始まった。
一方、戦時体制のなかで京浜地帯では、重化学工業が軍需の増大で飛躍的に発展し、
内陸部の相模原では軍都の建設が進み、大量の水と電力を必要とした。
このように戦争へ突入した非常時において、勝利のためにあらゆる犠牲が強いられ、
相模ダムの水没者にかかわる補償の精神は、「戦争という大義」によって貫かれていく。
とくに、昭和13年「国家総動員法」の成立、15年「大政翼賛会」の創立と、
戦争への挙国一致体制が整いダム建設における個人的な補償要求は一刻も早く解決せざるを得なくなった。
「大義とは、人の踏み行うべき重大な道義、特に主君や国に対して臣民のなすべき道」とあるが、
水没者は、「戦争という大義」に拠る「補償の精神」のもとに、止むなく契約同意せざるを得なかった。
戦争という時代の流れには逆らえなかった。


『おおゆきと原発 ①』で書いたが、
小河内村の人々などが、『帝都の御用水の爲めの池となることは、村民千載一遇の機會として、
犠牲奉公の實を全ふするにあつた』
『國内摩擦相剋を避けんとする國民總動員運動の折柄に、我等は此の衝突こそ事變下に許すべからずとして』
と、泣く泣く村を去ったのとまったく同じである。
本当に。『顧りみれば、若し、日支事變の問題が起らぬのであつたならば』!である……

また。
下記のサイトでは、1930年代から1940年代にかけて、軍需生産の拠点である
広島と呉へと電力を供給するために行われた電源開発工事における朝鮮人労働者の実態が見られる。
http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/kyosei/1206hiroshima.html
広島県の北方の山々を水源とする神野瀬川発電工事は、
高暮ダムにおける朝鮮人労働者強制連行と、その虐待とも言えるひどい労働実態から、
地元の人々の間で『白骨ダム』と呼ばれていた。過酷な労働や虐待に絶えかね逃亡者も多く、
今世紀に入ってからも周辺から複数の白骨が見つかっているのがその所以。
ダム本体の打設では、上からシュートで落とされるコンクリートに人が巻き込まれても、
そのまま救出する事もなく作業は続行され、堤体の中に埋められる者も居たと、
逃走して生き延びた方が証言しているという。

どんなところでしょうか。
高暮ダム

ああ…小河内といい相模ダムといい、この高暮といい、日本のダムには、なんと多くの
日本人技術者労働者の犠牲と共に、こうした、強制・半強制、徴用と言う名目で
中国・朝鮮半島から連れてこられた人々の悲しい歴史が埋もれていることだろう…!
この三か所だけではない。あなたの住んでいる近くのダムの歴史をちょっと調べてみて欲しい。
さらには、ダムだけでなく、日本全国の炭鉱、銅山、トンネル、橋脚その他の大規模事業においても、
こうした連行と強制労働の歴史が次々に出てくるはずだ…

1942年(昭和17)、東條内閣は戦中で人材不足していた日本産業界の要請で
「華人労務者内地移入二関スル件」を閣議決定する。1946年に外務省が東亜研究所に委託して、
戦時中の華人労務者等に関する現地調査を行った「外務省報告書」によると、
華人労務者は「自由募集」とともに、「行政供出」「特別供出」「訓練生供出」により集められ、
このうち「行政供出」については半強制的な面もあったことが記されている。

企業35社(135事業所)が厚生省に必要な華人労働者数を申請し、運輸省と軍需省が協議をして
各事業所へ割り当てて人数を確定し、大東亜省が現地の在中日本大使館、労務統制機関などと連絡取り、
汪兆銘政権(南京国民政府)は日本の要請から華北労工協会・日華労工協会・華北運輸公司・
福日華工会社などの中国側の労務統制機関を通じて労務者を集め、労務統制機関の職員の他に
武装した軍隊も協力して北京、保定、塘沽、大連、石門、済南、青島、徐州、呉淞、邯鄲にあった
「訓練所」と称する集結地に集めてから日本へ移送したとされる。
報告書によれば、訓練所では病人が続出し死者も出るとともに逃亡を防ぐために
厳しい警備が敷かれており、さらに日本への船中で564人が死亡したとされる。
外務省報告書の移入集団別素質によると、集められた華人労務者の75%が農民で
12歳の少年から78歳の老人まで及び、日本全国の135事業所に38,935人(15歳~60歳位)
が送られ、6,830人が死亡していることが記されている。(
以上、Wikipediaによる)

こうして強制連行された中国人らが虐待に耐えられず起こした反乱としては、花岡事件が有名である。
戦時下、秋田県花岡は年間3000トン以上の銅を産出し、最も将来性のある鉱山とみなされていた。
鉱山労働力が不足した戦争末期には、秋田県花岡川の改修工事などを請負った鹿島組により
1944年以降に現地移入された中国人は986人に上り、1945年までにうち137人が亡くなった。
彼らは過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜に、国民党将校耿諄の指揮のもと
800人が蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。
7月1日憲兵、警察、警防団の出動により獅子ヶ森に籠っていた多数の労働者も
拷問などを受け弾圧(殺害)され、総計419人が死亡した。
ここに連れて来られていたのは中国人だけではない。朝鮮人の連行は1942年から始まり
解放までに4000人以上が連行され、連合軍捕虜も約300人が連行されたという。

その他にも、ちょっとネットで検索しただけでも、どれほどの悲劇が日本各地で起きていたことか。
折しも、この2月26日。
戦時中に日本へ強制連行され過酷な労働を強いられたとして、中国人元労働者や遺族の
合計37人が26日、三菱マテリアル、日本コークス工業(旧三井鉱山)の2社を相手取り、
謝罪と損害賠償を求める訴状を北京市第1中級人民法院(地裁)に提出している。


日中国交正常化をうたった72年9月の共同声明は、
「中国政府は日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」と規定している。
中国人の強制連行訴訟は日本で数多く起こされたが、相次いで敗訴が確定している。
おそらく今回の訴えも、仮に北京市第1中級人民法院(地裁)が習近平指導部の意向を踏まえ、
訴えを受理したとしても、今の安倍政権下の日本企業は、相手にもすまい。

ただ……。
私たちは、戦争が終わって何もかもかたがついたのだと勘違いしていはすまいか。
しかし、私たち日本人が都合よく過去のことを綺麗さっぱり水に流して忘れることが出来ても、
日本の侵略の犠牲になった国々の人は、容易にそのことを忘れはしない。

中国、朝鮮半島の人は、いつまでも日本人を恨んでしつこい!と思うだろうか。

1月25日。NHK新会長の籾井勝人氏は、就任会見の際、慰安婦問題への個人的見解として、
「今のモラルでは悪いことだが、当時の戦争地域には大体つきものだったと思う。」
「日本だけがやっていたようなことを言われるのはおかしい。ヨーロッパはどこだってあったのではないか」
と主張してフランス、ドイツの名を挙げた。「なぜオランダにまだ飾り窓があるんですか」とも述べた。
韓国についても「日本だけが強制連行したみたいなことを言っているから話がややこしい。
お金をよこせ、補償しろと言っている。しかしすべて日韓条約で解決している。
なぜ蒸し返されるんですか。おかしいでしょう」と述べた。その後、発言を「全部取り消します」と
言ったが、籾井氏は、日本軍が韓国人女性だけでなく、オランダ人女性に対して犯した罪のことを
知らないのだろうか。いわゆるスマラン事件のことを。白馬事件

1944年、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所から
スマランにあった慰安所に強制連行し強制売春させ強姦した容疑で、戦後、国際軍事裁判において
(将官や兵站責任者の佐官などの高級将校を含む)当該軍人・軍属(請負業者)たちに
有罪が宣告された事件である。
日本軍が関与してそんなことがあったことを知っていたなら、どうしてぬけぬけと、
『オランダには飾窓の女が今も公然としているではないか』と言うような恥ずかしいことを、
一国を代表する公共放送の長として言えるのだろう?
この論理は、朝鮮人従軍慰安婦について語る人の中にも、時々見られる論理である。
曰く、『韓国兵だってベトナム戦争の時にベトナム女性を云々…』『韓国には妓生文化が云々…』
どこかの国が何かをやっているからそれで自分の国がなにをしてもいい、という論理は
全く成り立たない。
皆がやっていれば、どんな犯罪も悪事も許されると言うのか?
他の誰が何をやっていようとそれで自分たちの罪が許される、などと言うことはないのだ。

日本軍は外国の地へわざわざ大挙して出かけていってその地でそこの人々の財産や命までもを奪い
蹂躙したのみならず、どんな理屈をこねようと、こうやって他国の人を強制的に連れてきて、
苛酷な労働や虐待や栄養失調などで、日本で死なしめたのである!

太平洋戦争における戦勝国の中でも、オランダ、オーストラリアなどは
戦中に自国民が捕虜収容所等で日本軍から受けた虐待を、なかなか許せないでいる国の
代表である…
世界は、日本のしたことをまだ決して忘れてはいない。

同時に、日本人が日本でなしたことの遺跡もまた、今は美しいみどりに覆われているかも
しれないが、ダムのように、私たちの周りに、『日常』としてあり続けているのである…。

              ***


大雪被害のひどかった北杜市への想いから、思わずいろいろなことに連想が広がって行って
しまった…。(苦笑)
しかし、私がいつも繰り返して言う、『物事はその底辺で繋がっている』…と言うことを
ここでも述べてみたかったのである。

ちなみに、今回の大雪で、東京都奥多摩町はやはり孤立状態になっていた…。
東京都奥多摩町…。山梨県丹波山村、小菅村も……。
…それらの地名がこの記事の冒頭に出て来ていたのにお気づきだろうか。
ツイッターでの声。
「国道411号線の雪崩をどかして通過した直後に再び大規模雪崩…危ねぇ…」
「山梨県丹波山村が孤立状態かな? 西ルートの国道411号柳沢峠がダメ、
村から小菅へ向かう県道18号もストップ。大月から奥多摩経由の国道139号もストップ。
奥多摩の国道411号も雪崩が起きた写真来ているし・・・」


このあたりこそ、まさに…!
同じくツイッタ―での声が、私の言いかけたことのそのあとを呟く…。

『このあたりは小河内ダム建設道そのまんまだもんな』


                 ***

いろいろなことの構造は、なんと似ていることであろうか。
大東京や、横浜、広島など都会のために先祖以来守ってきた地がダムの湖底に沈んで
故郷を永遠に失ってしまった人々…
その横面を札束ではたいて言うことを聞かざるを得なくしたのは、ときの権力者…政治家や、
軍部や大企業である…
大都会のために電気を作り出す原発の関連施設…福島や青森県六ケ所もなんと事情が似ていることであろう…

そうしてまた、別の構造であるように見えるが、中国や朝鮮半島の人々に対し、私たちがしてきたこと…
それもまた、この、大都市への富や利便の一極集中と小村の過疎化、という問題と
底の方で、しっかり繋がっている!

最後にさらにもう一つ。
上に挙げた、中国人強制労働者の悲劇が起きた秋田県花岡鉱山跡地は今どうなっているか。

鉱山跡地の活用方法の一環として、首都圏のゴミ焼却灰の埋め立てをエコシステム秋田(廃棄物処理業者)など
関連会社が連携して行っていたが、2011年(平成23年)の福島第一原子力発電所事故により
飛散した放射性セシウムを含む焼却灰が千葉県流山市などから持ち込まれていたことが
判明した。
焼却灰は、JR貨物により秋田貨物駅を経由し大館駅に搬入され、すでに流山市から
エコシステム秋田に搬入された溶融飛灰207トンは、薬剤処理のあと2011年7月までに
エコシステム花岡(土壌浄化処理、資源リサイクル業者)と鹿角郡小坂町のグリーンフィル小坂
によりそれぞれ花岡鉱山跡地と小坂鉱山跡地に埋め立て処分された。

未処理の焼却灰はしばらく大館駅にコンテナのまま保管されていたが、7月14日に
コンテナ3本を流山市に送り返している。
(以上Wikipedia)


この記事続く。



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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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