『星と月の夜をたずねて』追記


あの小さな呼び鈴について。
玄少子さんが、一夜のうちになんと、あのこの姉妹、ともいうべき品を見つけ出して
くださいました。
eBay という、世界展開しているアメリカのオークションサイトなんですが、そこに
あの呼び鈴とまったく同じ作りのものが載っていました。
絵の場所が違うだけで、細かい装飾などもほんとに同じ。
残念ながら、もう売れてしまったもののようで、その商品自体には辿りつけません。
いくらで落札されたのか、などという現実的な興味とかね。(笑)

でも、おかげさまで、関連商品などから、どうやらあれは、やはり1878年のパリ第三回万国博覧会と
無縁でなく、ホテル・ナポレオン(ホテル・ナポレオン三世?)の卓上ベルだったのかもしれない、
ということがわかったのです!
それでは、あのこの姉妹(兄弟かな)にお会いください♪

https://www.google.co.jp/search?q=SONNETTE+DE+TABLE+NAPOLEON+III+EXPO+UNIVERSELLE+1878&rlz=1C1RNAN_enJP434&es_sm=122&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_ftSVPqXLYWymAWp0IDYDA&ved=0CCEQsAQ&biw=1130&bih=683

玄少子さん。ありがとう~~~♪


                        *
≪再追記≫

もうひとつ、あのこの仲間が載っているサイトを見つけました。

そもそもそのページは、アメリカのベル好きの人々が集まっているNPOの
サイトのようで、世界中に1,500人の会員がいるという極めつけのベルフリークたちの集まり。
でも、みんなで一つのベルの歴史などを徹底的に調べたり、語り合ったりする、
(出所やその価値などについての質問も受け付けてくれるのだそう)、言わばベル愛好家兼
蒐集家兼研究者の集団みたいな人々の集まりらしいです。^^
アンティークな卓上ベルについても、なんと27ページもにわたり、260
(関連品含めるとそれ以上)ものすてきなベルを紹介しています。
これらのベルは、やはり、御邸などの主人や女主人が、使用人たちを呼ぶのに使ったり、
その他にも、ホテルのフロントなどにも置かれて、席を空けている係を呼んだり
するのにも使ったのかもしれません…
実にさまざまな卓上ベルの数々…中にはうっとりするほど芸術的なものや
意匠が面白いものもたくさんあります…

それで。問題の、あの呼び鈴の仲間のこというのは、この25ページめの少し下の方。
通しナンバーでいうと238のd。

http://www.americanbell.org/forum/viewtopic.php?f=6&t=4193&start=312

おお!やはり、基本的な構造は同じです。
で、こちらは、あのトリスケルというか、渦巻き模様の面がなく、3枚の絵の面で
出来ています。絵は、やはりトロカデロ宮(別の絵)と、それからなんと、一枚は私が
ご紹介したあの子のと同じです。どこの絵かはっきりわからなかったけれど、ルーヴル宮殿
を違う角度から(セーヌ河畔から)描いたもの、とこれで判明しました!
あとの一枚は、カルーゼル広場の凱旋門の絵。
あとは、装飾もちょっと違っていて、これは、星と月の飾りの部分が、金属打ち出し細工に
エナメルで緑と赤に着色してあるようです(誰かが買ったあとで塗ったのか?)。
下のレース部分の金属も、こちらは籠目模様。
私は、下の台座の白い部分の素材は何かなぁ、と思っていたのですが、『アラバスター(雪花石膏)』
とわかりました。『アラバスター』という語は私にとって思い出のある語ですが、まあここでは
長くなるのでよしておきましょう。

この品物は、1878年のパリ万博の際、チュニジア館で土産物として売られていたもののよう。
とすると、私のところのあの子もやはり、同じ時に同じ目的でつくられたものでしょう。

あ~…出所がわかって、本当にすっきりしました。



                    *

≪再々追記≫

これらの呼び鈴たちが、1878年第3回パリ万博のときの、チュニジアのパビリオンで
土産物として売られていた、というところまで、上記でつきとめました。
でも、『なぜ、チュニジア?』という疑問が、その時書きながらかすかに頭をかすめました。
が、そのまま…

でも、書き終わってしばらくして、やはり、『なぜチュニジアパビリオン?』という疑問が頭の中で
大きくなっていきます。それで調べてみたのです…


19世紀の地中海沿岸は、オスマン帝国が弱体化しつつある中、フランスが勢力を伸ばす
状況にありました。
1871年にはフランスはチュニジアの隣国のアルジェリアを支配下に収めています。
問題の1878年第三回パリ万博の前年1877年には、チュニジアの保守派がクーデターを起こし
太守ハイル・アッディーンが失脚。
これをうけて、列強は万博の年のその1878年にベルリン会議を開き、フランス、イタリアに
チュニジアの自由権の承認しているのです。
つまり、1878年という年は、パリにおける第3回万博と、フランスのチュニジア属国化の画策とが
同時に進行していた、という年なのでした!
その後イタリアが譲歩し、第三共和政のフランスは3年後の1881年、オスマン帝国領のチュニジアに侵攻します。
隣国のアルジェリアを支配下に収めたことの延長線上にチュニジア侵攻はあったのです。
1883年、「マルサ協定」締結。チュニジアはフランスの保護国になり、以降、1956年まで
73年間も植民地体制が続くのです!
したがって、1878年のパリ万博のときにはすでに、フランスはチュニジアの宗主国に
なりつつあった。そのフランスの、チュニジアにおける統治権とフランスの勢威を
世界にアピールするために、『チュニジアパビリオン』は設置されたのではなかったのでしょうか?……


チュニジアの国旗。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97

なんと!呼び鈴の飾りそのままじゃないですか。
中央の三日月と星は古くからのイスラム教の象徴であり、幸運のシンボルでもあった。
赤い色はオスマン帝国時代の反抗勢力の名残だそうです。
パリ万博でなぜこのような模様が?というのがぴんとこなかったけれど、ここで繋がってきました!


チュニジアと言えば思い出すのが、2010年から2011年にかけて起こった民主化運動、
『ジャスミン革命』という美しいことばで呼ばれたあの大規模反政府運動です。
チュニジアで始まったこの民主化運動はあっという間にエジプトなど周辺アラブ世界に
広がっていって、これまた『アラブの春』という美しい名で呼ばれていたことは記憶に新しいです。
しかし、現実には、チュニジアの騒ぎはアラブ世界に飛び火して、リビアではカッザーフィの独裁政権が
フランスなどNATO軍などの介入も得て倒され、カッザーフィーは殺害され、その後のリビアはシリア同様
内戦状態になってどうしようもない状態です。カッザーフィーのいなくなったリビアから流出した武器や傭兵や
戦闘のノウハウが、あの日本人人質殺害事件が起きたアルジェリアなど周辺アラブ世界の
過激派武闘集団に流れ込んでいると言われていますし、そもそもあの人質事件は、
フランス軍のマリ介入が遠因の一つともいわれています。
同じくエジプトでも民主化運動でムバーラク独裁政権が倒されはしたものの、
その後の混とんもみなさんご存知の通り。
アフリカの諸国の歴史から、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー…などの
先進欧州諸国の政治経済文化あらゆる面での介入と欲望と搾取の影は拭い去ることはできないです…

                        *


小さなこの、呼び鈴。
骨董品です。もう、これが作られた時からおそらく百四十年近くの時が流れている…
骨董品は、ただ『モノ』としてそこにあります。
でも、この子が生まれてすぐに見た人間の歴史の1ページは、その後も連綿として続き、
幾多の動乱と悲劇を繰り返し、それは今も続いているんですね。
人間の歴史は『アンティーク』にはならないのです。過去は今に、今は未来に続いている…

この呼び鈴は、属国化される国の人々の想いや、
逆に、『世界にフランスあり』とパリ万博を機に華々しく宣伝して、チュニジアなど
海外における諸権利を確たるものにしていこうとする大国の思惑や…
そのような重い歴史を、その小さな体に背負っていたのですねえ…
生まれた時やところはおよそわかったけれど、しかし、この子自身が辿ってきた、
長い長い旅路は、それはわかりません…。この子しか知りません。

どこをどうめぐって私のところへ辿りついたのか…
人と人との縁だけでなく、ものとの縁というのも、ほんとうになんだか不思議なものです…





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『星と月の夜をたずねて』

福島県知事選は終わったけれども、与野党相乗りで選挙の争点はぼかされてしまいました。
言いたいことはたくさんある。だが、言えば、また、長くなりそうです。
少し考えがまとまったら、あらためて記事を書くことにして、今回は、まあ…
このところ硬い記事ばかり書いているので、たまには昔のように、私の個人的な話など
書いてみましょうか。
『ジョルジュ・ペレック』と『パトリック・モディアノ』のことを調べていて、かつてこの世界に生きていた
人々の(今年度ノーベル賞作家モディアノは無論お元気でおいでだが)足跡をたどるのが、
なんというか、この殺伐として先行きの見えない世にあって、何やらしみじみと懐かしい
作業であったから、もうひとつ、そんなお話を。


                       *


昨日27日は三日月でした。うっかりして見損なってしまいました。
今月は皆既月食があり、オリオン座流星群の月でもあったのですが、どちらの日も
私の住む地域は天候の状態が思わしくなく、見ることが出来ませんでした。
流星群といえば、毎年楽しみにしている8月のペルセウス座流星群も、まるでその最大日の
前後を狙い撃ちしたように、曇りまたは雨の日が続いて見ることが出来ませんでした。

そんな中、ちょっとしたものをお見せしましょうかねぃ…


2014_1028_082447-CIMG3279.jpg


これ。何が入っているとお思いになりますか。
金貨銀貨や真珠、ダイアモンド、サファイアなどのお宝がざっくざく? まさかね…^^
箱は、マトリョーシカみたいに3つ同じデザインの大中小の箱が入れ子になっている。




2014_1028_082549-CIMG3282.jpg





蓋を開けてみると…



2014_1028_082736-CIMG3285.jpg



これ。なんだとお思いになりますか?


これ。実は呼び鈴なんです。
大きさは、底面の台座の直径およそ9センチくらいかな。
上に出ているつまみのようなものを下に押し下げてから手を離すと、右の方のつるの
先に付いた小さな丸い球が、中に組み込まれている真鍮?の半球形の鐘を、チン!と
叩いて鳴らします。
澄んだ綺麗な音ですが、思いのほかに大きな音。

呼び鈴の用途に使うのであろうとは思うけれど、いつ、どこで作られたのか詳細はわからない。
かなり古ぼけて、金属部も少し波打ったりしています。
ただ、星と三日月がデザインされたその不思議な外見と、呼び鈴としての用途もある(つまりただの
飾りだけのものでない)というところが気にいって、買ってしまいました。

この呼び鈴らしきものの由来が知りたい。でも、元の箱など無論なく、買ったところでも
由来などわかりません。



ヒントは、まず、三日月と星、というこの組み合わせです。
『三日月と星』がデザインされているということですぐ思いつくのは、トルコの新月旗(月星章旗)です。
三日月と星の組み合わせはイスラムのシンボル。他のイスラム圏の国で、この三日月と星の
組み合わせの国旗を使っているところも結構あるけれど、トルコのもいずれの国のも、
この、呼び鈴の星と月の感じとは少し違うかなあ…



2014_1028_082840-CIMG3287.jpg


次にヒントになるのは、この面です。

渦巻きを三つ組み合わせたものが入ってる円環がデザイン化されている。
この部分の細工などは結構手が込んでいます。
渦巻き三つ、というのが伝統的にどこかの国または地域で使われていないかしら…、
そう考えて調べてみたら…ありましたよ~~~!


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%84%9A%E5%B7%B4


『三脚巴』という伝統的なデザインらしい。
その名の通り、もとは、直角に膝を曲げた三本の足が120°の角度で追いかけっこ
しているように組み合わされたもの。
このデザインは、フランス、ブルターニュのシンボルであり、また、マン島やシチリアの
シンボルでもあるといいます。
この呼び鈴の模様のように、三本の脚を簡略化して、単なる3つの渦巻きにしたデザインは、
西ヨーロッパの新石器時代シンボルだそうです。しかしケルト文化などだけでなく、
このしるしはそれこそ世界各地で使われていて、渦巻きをさらに簡略化すると、
日本の家紋…例の『三つ巴』にもなるというのです。
ちなみに、私の母の実家は九州の落人部落と言われる山奥にあったのですが、
紋章は、六角形の中に三つ巴であった、と言っていたような……

しかし、渦巻き模様の意味はわかったものの、それだけでは、やはり、
この呼び鈴が作られた地域や時代は特定できません……



2014_1028_082900-CIMG3288.jpg




三番目のヒントは、2面に配された小さな絵です。
一枚はこれ。
私は、西洋建築(と思われる)の様式に弱いので、これがいつ頃の時代の建物なのか
わかりません。裾を引きずる人々の服装から察すると、1920年代以前、ということでしょうか。
第一次世界大戦を経験し、女性服にも合理性が求められ、1925年ごろには
スカート丈が膝頭まで上がった、といいますから。



2014_1028_082940-CIMG3289.jpg



さて。一番ヒントになりそうなのが、この面です。
二つの高塔と、少しそれよりは低いいくつかの塔に旗がなびくお城らしき建造物と、
そこから延びる広い道と噴水らしき一角、緑の植栽がなんとなく見てとれます。
そして。小さな文字が入っています!
『TROCADER』と。パリのトロカデロ広場か?それならば、『TROCADERO』の綴りのはずですが…
綴りミスか、それとも英語式の綴りでしょうか?……
トロカデロ広場なら、パリの街の西部、セーヌ川右岸の丘の上に建つシャイヨー宮の正面(東側)にある
半円状の広場です。広場中央には人工池があります。シャイヨー宮のテラスからはセーヌ川の対岸にある
エッフェル塔やシャンドマルス公園などが眺められます。

早速、シャイヨー宮で画像検索して、小さな絵の中の建造物と比べてみます…。
(行ったことないからわからないの)
…人工池もあって広場はそれらしいけれども、建物のかたちは全く違うなぁ……

しかし。『シャイヨー宮は、1937年のパリ万国博覧会の時に造り替えられて出来た』、とあります。
それならば、もとの姿は?・・・・・・・・・・・・
ありましたよ~~~!シャイヨー宮のある場所には、元、トロカデロ宮殿が建っていた。
このトロカデロ宮殿というのは、あの1878年第3回パリ万博のときに建てられたものです。
お城というよりは、博物館などとして建てられたらしい。
1878年の第3回パリ万博と言えば、日本にも縁浅からぬ万国博覧会です。

おお! 下の絵の右側には、トロカデロ宮がくっきりと見えます。

1280px-Panorama_des_Palais 1878年パリ万博


1878年パリ万国博覧会。
『普仏戦争からのフランスの復興を祝って開催された。
庭園を囲むようにトロカデロ宮が建設され、その対岸のシャン・ド・マルス公園には
巨大なパビリオンが建てられた。アレキサンダー・グラハム・ベルの電話機や、
トーマス・エジソンの蓄音機や自動車、シンガー社のミシンが出品されるなど、当時の各国の
発明品が所狭しと並べられた。
パリの美術界でジャポニスムが沸き起こっていた時期に重なり、日本からの出品は
前回(1867年第二回パリ万博に日本は初めて参加)に引き続き印象派絵画に影響を与えた。

(絵と文 Wikipedia記述に加筆)

このトロカデロ宮は、アンリ・ルソーが後に『エッフェル塔とトロカデロ宮殿の眺望』に描き、
H・G・ウエルズの『解放された世界』の中にも登場します。
(ちなみに、エッフェル塔が出来たのは、後年、1898年の第4回パリ万博のときです。
上の絵の左の方、1878年の万博では巨大なパビリオンが建てられた、と書かれている
シャン・ド・マルス公園にエッフェル塔は建てられた。)




ここで、一人の日本人の名前をあげておきましょう。
林忠正。
嘉永6年11月7日(1853年12月7日) - 明治39年(1906年)4月10日)。
明治時代に活躍した日本の美術商。越中国高岡(現在の富山県高岡市)出身。
1878年(明治11年)に渡仏。
当時のパリでは日本美術への人気が高く、博覧会でも日本の工芸品は飛ぶように売れた。
トロカデロ宮殿内の「歴史館」では各国の参考品が展示され、特に日本に興味を持つ
印象派の画家や評論家などは連日、日本の展示物を見物に来ていた。
忠正はそこに立って、流暢なフランス語で詳しく説明した。
また、浮世絵からヒントを得て新しい絵画を創りつつあった印象派の画家たちと親交を結び、
日本に初めて印象派の作品を紹介した。1883年(明治16年)に死没したエドゥアール・マネと
親しんだのも、日本人として彼一人である。1905年(明治38年)の帰国に際し、500点もの
印象派のコレクションを持ち帰り、自分の手で西洋近代美術館を建てようと計画したが、
その翌年に果たせぬまま東京で死没した。52歳没。
(Wikipediaより)


林忠正
う~ん…そんな時代に。…そんな日本人がいたのだなあ。
興味がおありの方は、ぜひ、上記Wikipediaにもっと詳しく書かれていますから、お読みください。
私がここで短く引用した以上の興味尽きない人物です。だが、彼の業績は必ずしも後世の人々に
正しく評価されてはいないようです。明治という時代の日本の中で、彼の開明性は、一歩も二歩も
進み過ぎていたのでしょう……
それでも。百数十年前、明治初めの頃のパリの街を歩いている一人の日本人の姿が
生き生きと立ち上がってくるようです……

さらには。あのニューヨークの自由の女神像は、アメリカ合衆国の独立100周年を祝い、
フランスから贈られたものだということは周知の通りですが、この資金集めのため
フランスでは記念像建造キャンペーンとして、宝くじや、1878年のこのパリ万博において、
完成頭部を展示して約40万ドル相当の寄付金を集めたのだそうです。
(自由の女神像は、そうして1884年にフランスパリで仮組み完成され、214個に分解して
フランス海軍軍用輸送船イゼール号でアメリカに運ばれました。)


自由の女神 1878 パリ万博





さて。小さな呼び鈴にもう一度戻りましょう。


トロカデロ宮spot100-10


おお~!
この呼び鈴の小さな絵そのままに近い絵(着色写真?)もあるではないですか!
(絵は下記のサイトからお借りしました。
http://www.geocities.jp/kcc_newair/paris_spot/spot100.htm

…ということは、この呼び鈴は、1878年の第3回パリ万博と、1937年の第7回パリ万博の
間に作られたものだということではないでしょうか?
なぜなら、1878年第3回パリ万博でトロカデロ宮殿が建設される以前に、この絵が
描かれるはずはなく、また、1937年第7回万博の際にトロカデロ宮殿が取り壊された跡地に
現在のシャイヨー宮が建てられた後では、旧トロカデロ宮殿をわざわざこのような
観光みやげ?もののような呼び鈴の題材にするはずはないだろうと思うからです。
新しいシャイヨー宮が出来たなら、取り壊されたトロカデロ宮殿ではなく、新観光スポットとしての
シャイヨー宮を描くのではないでしょうか?

…とすると…。これが1878~1937年というその頃のパリの風景を描いているのなら、
建築様式のわからないもう一枚の絵の場所は…なんとなくサンラザール駅の建物に似ている気もしますが…

と。調べては来たものの、パリとは全く関係なく、
もしかすると、案外、手先の器用な日本人が輸出用に作ったものかもしれません!(笑)

結局、この小さな呼び鈴が、いつどこで何のために(おそらく観光みやげか…)作られたかは、
はっきりしたことはわかりませんでしたが、使われている渦巻き模様の意味や、2枚の古い絵の
題材となっている時代はおよそつかめたのではないかと思います。
別にそれでどうだというわけではないけれど、ただの呼び鈴、と思っているよりは、
ものにだって愛情が湧いて、なんだか可愛くなるじゃないですか?^^



                         *





2014_1028_103300-CIMG3320.jpg



なお。小さなこの呼び鈴をくるんでいる袱紗のようなものは、私が古い縮緬地を
二枚合わせにして、この子のために縫ってやったもの。
和洋折衷? いいのっ!(笑)
青紫の布はずっと以前、京都の骨董市で買ってきたもの。江戸か明治期のものと思います。
黄蜀葵(とろろあおい)と、桔梗の花が描いてある。黄蜀葵は中国原産だけれども、
日本へは古い時代に渡来。 根をすりつぶした粘液が、手漉和紙の糊として利用されてきたという。
根は鎮咳薬などに用いられるというから、同じくいろんな薬効をもつ桔梗と共に、
昔の人に愛されてきた植物であったでしょう。黄色い美しい花はオクラの花に似ていますが、
直径15センチとはるかに大きく、葉も枝つきも違います。
裏地にした黄土色の一枚も、いつかどこかで買ったものですが忘れたな…
菊、竹、梅などの花丸模様がところどころに控えめに散っています。
これももう、あちこち穴があいたりして、柔らか~くなった縮緬だから、たぶん相当古いものと思います。
寂びた感じの金色の布でバイアステープを作って、パイピングの縁取りにしてみました。

そうして。仕上げに。
最初に目を魅かれた、星と月の飾りに合わせて、小さな錆びた金色のお月さまのような
真鍮の輪を、飾りにつけてみました……


ということで、小さな、古ぼけた呼び鈴の来し方を探検してみる小さな歴史の旅は終わり。^^




『時を超えて、一人のひとの人生を深く想うということ ④ 』

パトリック・モディアノとジョルジュ・ペレック。

モディアノは日本においてはまだ認知度が低いのか、
『村上春樹が惜しくもまたノーベル賞逃がす。取ったのはフランス人作家、パトリック・モディアノ…』云々、
という記事ばかりの中、この二人の名が並べられて語られているサイトがあった。

そのサイトは、
『占領下のパリ、強制収容所、居合わせなかった者の記憶:モディアノとペレック』という記事。
http://perec.jp/data/shiotsuka.pdf
おお!!!……
筆者は、なんと、あの、ペレックの、E 、eを一切使わないで書かれた作品『La Disparition 』を、
『煙滅』というタイトルで、日本語で一番多く使われる『い』の音、また『き』『し』など
いの段の音も使わないで、日本語に翻訳した、あの塩塚秀一郎氏ではないか!!!

塩塚氏のこのサイトに出会わなかったら、私は、モディアノとペレックを結びつけて考えては
いなかったろうし、いつか暇で気が向いたときに、愉快なおなぐさみ記事として
ペレックの壮大な言語的実験と、それをご苦労なことに、英語や日本語に訳した人々もいる!
ということの紹介記事を書くにとどまっていただろうと思う。
だが、私は、塩塚氏の記事の、冒頭のこの文章に惹き込まれてしまう。

『占領下、全国民がド・ゴールを先頭にしてレジスタンスで一致していたという神話は、戦
後のフランスで暗黙裡に受け入れられてきました。団結して戦禍からの復興にあたるために、
この種の神話が必用とされたのです。しかし実際には、レジスタンスとしての活動をしたの
はごくわずかな割合の国民にすぎませんでしたし、ユダヤ人検挙にフランス人が積極的に関
っていたことも明らかにされてきました。偽の英雄神話や被害者意識から抜け出し、ユダヤ
人虐殺に対するフランス人自らの責任を問う声は、近年ますます大きくなっています。フラ
ンスがなしたこと、その被害者たちの痛みを忘れてはならない。そうした「記憶の義務」と
いう考え方
は、1994年頃、全フランス的な規模でひろがっていました。ちょうど、モーリス・
パポン裁判によって、ユダヤ人迫害へのフランス官吏の関与が問題視された時期でした。
害者の記憶はもとより、加害者が持ち続けるべき記憶にも光があたりはじめたのです。

このような文脈で考える時、奇妙な「記憶」をめぐる書物をあらわした二人のユダヤ系フ
ランス人作家が思い浮かびます
。』


それが、モディアノとペレックだった。
私は、下線部、とりわけ『記憶の義務』という言葉に
心惹かれた。
『記憶の義務』とは。
『時を超えて、一人のひとの人生を深く想うということ ③ 』で、わたしは、モディアノが、
一種の探索小説とでも言えるような『ドラ・ブリュデール』という作品を書いたことを述べた。
ほぼ作家自身と思われる語り手の『私』は、40年以上も前の1941年12月31日付の
古新聞「フランス・スワール」紙に、一人の行方不明少女の尋ね人広告が載っているのを見つける。
シャンゼリゼでナチスの一斉検挙にひっかかった父が、その囚人護送車の中で一人の少女を見かけたと
後年話していたことがある。
もしかしたらその少女がドラなのではないか。
語り手の『私』のドラ探索が始まる…

ここから、また、私が強く惹かれた塩塚氏の文章を引用しよう。

『モディアノは、ドラの誕生日を突き止めるまでに四年、生まれた場所を知るまでにさらに
二年の時を費やします。これほどまでに時間がかかったことは、名もない少女の生の軌跡を、
半世紀以上たってから突き止めようという、企ての無謀さを思えば別段不思議でもありませ
ん。むしろ、モディアノの執念深さに驚くばかりです。それだけでなく、探索に行き詰まっ
たモディアノは、「忘却の番人」とでも言うべき人種の存在を嗅ぎつけるのです。無名のまま、
痕跡も残さず消えていった人びとについて、彼らの記憶を隠蔽しようとする番人
。「記憶の義
務」が果たされないよう、この「忘却の番人」が立ちふさがり、自分の発掘作業を妨害して
いるのだと。たとえば、区役所の戸籍係は、ドラとモディアノに血縁関係がないことを理由
として出生証書の発行を拒みます。モディアノの反応。「一瞬、この係員は“忘却の番人”の
一人ではなかろうかと思った。恥ずべき秘密を隠し、誰かの生きた痕跡をほんの少しでもた
どろうとする者に、それを禁止する役目を担った番人。』


ああ…
この『記憶の義務』という言葉と『忘却の番人』ということば。
私がこの頃考えていることどもを、なんとぴったりと象徴しているのだろう。

河野談話の成立までの検証を行ってみたり、河野談話そのものを消し去って新しい
政府談話を出そうと画策している人々…
クマラスワミ報告書に『吉田証言』への言及があるからとて、そこではその信ぴょう性を疑う
秦郁彦氏の言葉も公平に載せているにもかかわらず、クマラスワミ氏に、吉田証言部分の
削除を求めたという某政府。
一市民からの要望があったからと言って、漫画『はだしのゲン』を小中学校の図書館で
自由に読めなくするよう指示していた某市教育委員会。
西山正啓監督の記録映画『脱原発 いのちの闘争』を、「タイトルが政治的」という理由で
公共施設の利用を許可しなかった某市。……

なんと!名もなき人々の生の軌跡や痕跡を、記憶から組織的に消してしまおうとする
『忘却の番人』たちが増えて行っていることだろう!

再び塩塚氏のページに戻って、そこで引用されているモディアノの『ドラ・ブリュデール』の一文を
再引用しよう。

『この見知らぬ娘が、父と同じように、ユダヤ人に共通の運命を免れた可能性もある。彼女の名
は永遠にわからないだろう。彼女の名も、またあの夜捕らえられた影のような他の人たちの名
もわからないだろう。ユダヤ人問題担当の警官たちはといえば、作成したカードや、町での一
斉検挙あるいは個別検挙の際のいっさいの尋問調書を破棄してしまったのだ。
これを書き留め
る私という存在がいなければ、シャンゼリゼで 1942 年 2 月に、護送車の中にいた私の父や、
あの見知らぬ女性がこの世に存在した証拠は何一つ残らないだろう
。「身元不明者」の範疇に入
れられる人間(死んでいようがいまいが)でしかなくなるのだ。』


ここにはくっきりと、名もなき一人の人の生の痕跡をたどって、それを書き留めておこうとする人、
つまり『記憶の義務』を負おうと試みる人と、反対にそんなもの、と破棄してしまう人間たちがいる
ことが書かれている。
後者は『忘却の番人』たちだ。

モディアノの考えかたのよくわかる文をもう一箇所。

『一斉検挙の際、逮捕者一人ひとりの調書に署名した、当時「捕獲吏」と呼ばれた警官たちは、
みな死んでしまったか、あるいは齢をとり体が不自由になってしまったろう。何万という調書
は破棄され、もう「捕獲吏」の名前も永久にわからないだろう。だが、保管文書中には当時の
警視総監に宛てられた、返事のもらえなかった幾百通もの手紙が残されている。そうした手紙
は半世紀以上打ち捨てられたままになってきた。まるで遠方の中継地の倉庫の奥に置き忘れら
れた航空郵便の袋のようだ。今日、私たちはこうした手紙を読むことができる。宛て先のご本
人たちが目もくれようとしなかったのだから、当時まだ生まれていなかった私たちこそが、手
紙の受取人であり管理人なのだ。


ナチスによるユダヤ人一斉検挙の時、捕獲吏として働いた警官たちや警視総監は、
もう亡くなってしまったかもし生きていてももう高齢で、当時の責任を取ることはできない。
逮捕されドランシーに収容されたユダヤ人の親、妻、祖父母らが、当時の警視総監に宛て
釈放を懇願する悲痛な手紙を何通も何通も書いた。しかしユダヤ人一斉検挙の際、
逮捕者一人ひとりの調書に署名した捕獲吏たちはもう歴史の表舞台から消えるか引っ込んでいる。
彼等がもう読めないのであるならば、後世の我々が、たとえ当時生まれていなかったにしても、
それらの手紙の受取人、管理人となって、歴史の闇に、名もなく人知れず消えて行った人
ひとりひとりの人生を掘り起こし、それを消えない記憶として書きとどめておくことが、
後世の人々に課せられた『記憶の義務』というものではなかろうか、というのである。

旧日本軍がアジアで侵した罪について、よくされる議論で、
『その当時生まれてさえいなかった我々が、どうして被害国にいまさら謝ったりする必要があるのだ?
俺たちがしたことでもないことについて、俺たちは永遠に謝り続けなければならないのか?』という
疑問が出されることがある。
私自身の答えはYESだ。
私も、一応戦後の生まれである。しかし、その私が、自分が生まれる以前に
日本軍がかつてアジアの諸地域で引き起こしてきたことに対して、贖罪の意識を持たなければ
ならないと考えるのは、それは現在と未来のためでもあるのだ。
過去の出来事を直視できないものが、どうして現在の悲劇を見ることができるだろう?
そして、子供たち、生まれてくる子供たちが生きて行く世界でまた同じようなことが起きないように
することもできるであろうか?

極めて非力ではあるけれど、私がぽつぽつと過去の戦争文学などを掘り起こして
紹介しようとしているのも、早速この記事を書くことで巡り会った言葉を使わせてもらうなら、
自分も、『記憶の義務を負う』と考えるからだ。
そして、私がここで書き残して行くことばは、これをたまたま通りすがりにでも読んでくれる人が
いるならば、もしかして、その人のこころの中に記憶として残るかもしれないではないか。

一つの過去の事実を探っていけば、そこにはいくつもいくつもの、見知らぬ人々の生がある。
そのひとりひとりは、あなたや私と同じように親や兄弟を持ち、明日のことをくよくよ思っている
そんな『私』かもしれない。

一人の女が、今、今日20人目の相手となる兵士がむしろをかき分けて入ってくるのを見ている…

従軍慰安婦の一人一人の人生をおもってみずに、慰安所に集めたのは軍か軍に委託された業者か、
慰安婦たちはいくらいくら給料を貰っていて、それは日本軍兵士の給料の何倍だったか
(慰安婦たちが受け取っていた軍票など日本が敗戦するとただの紙切れ同然になったのに)
などということを言い立て、『強制性』の証拠書類があるなら出してみろ、などという人々の
言のなんとこころないことか。
『忘却の番人』たちは、証拠種類など残しはしない。敗戦と同時に日本のあちらでもこちらでも、
中国大陸のあちらでもこちらでも、上つ方も下下の憲兵も、戦犯追及の裁判を恐れて、
証拠書類になりそうなものやその他の物品は燃やし去ったのである。
そうして戦後も、そのほとんどが、自分たちに都合の悪い事実については固く口を閉じて
語らぬままでいたのである…。

                       *


私は『時を超えて、一人のひとの人生を深く想うということ ② 』で、『試験飛行』というサイトの
ペレック論を一部引用し、いい書評だなあ!と思ったと書いた。その箇所をもう一度引用しよう。

「『隠滅』(邦題『煙滅』)のなかで、抹殺された「E」の悲痛な声にならない叫び声を
聞き取れる読者には、ペレックが決してイロモノ作家なんかではないことがわかるだろう。
この饒舌な作家の真の魅力とは、行間に漂う、書かれ得なかった、どうしようもない哀しさなのである。」


人間が人間を知ろうとすること…そこには大きな共感がときに生まれる…
歴史のはざまに埋もれてしまって、もの言えぬその人を深く理解していこうとする過程には、
時代や時を超えた一体感がときに生まれるものだ。無論こちら側からの一方方向のものだが。
しかし、どのように理解しようと努めても、モディアノの作品には、その調査される人の
最後の最後の部分には踏み込まぬつつましさがあるし、ペレックの作品には、
Eの活字のない小説や、第一部と第二部のつなぎの部分が中断符(…)のみのページになっているなど、
『欠落』の特徴が色濃い。

人が一人のひとの人生を掘り起こそうとしても、モディアノやペレックのように、父と子、
母と子の間でさえ、『時』という大きな障壁があって、その人の所には辿りつけない。
わからない部分は大きな空白として残したままにしておくしかない。
しかし。
掘り起こされなければ、歴史のはざまでまったくの無として終わってしまう生がほとんどである。
また、過去の有名な人であっても、それを『私』が知らなければ、その人の生は私にとっては
無に等しい。
早い話が、私にとってのこのモディアノとペレックという二人の作家。
モディアノは少しは知っていたけれど、ペレックのことは、妙な実験的作品を書いた奇矯な人、と
いうのでしかなかった。
だが、こうやって二人の父母のことや、二人がこだわり続けたテーマが何を意味しているのか
ということやを、この数日間の間に集中して調べることによって、もうこの二人の作家は
私にとって見知らぬ人ではなくなった…今や、極めて親しさを感じる人々である…
モディアノの作品、実はこれまで非常に読みづらかったのだけれど、今回、彼のことを
詳しく知るようになって、一挙に、そのワンシーンワンシーンの意味がわかるようになったのである!

ペレックについては、私はその作品を全く読んでいないので、あのEを使わない小説を、
何と日本語に訳すという無茶なことをなさった当の塩塚秀一郎氏のペレック論を
殆ど参考にさせていただいた。なるほどなあ、これほどペレックに入れ込んでいるがゆえに
そのような殆ど無謀な、と言っていい日本語訳という作業もできたのだろうなあと
しみじみ思う。一人の人を追う、ということは、ある意味、その人に恋していくことに似ている…
そうして、もうおひとかた。ペレックについて参照させていただいたサイトがある。
福住遊というかたで、この方も自ら『ペレキアン』と名乗るペレック読みのペレック研究者で
いらっしゃるようだ。
その方の論文も参考にさせていただいたが、ペレックに多少でも興味をひかれたかたは
福住氏のこのブログをご覧ください。
http://perec.jp/archives/380
何と、ペレックの足跡をたどる旅をしていらっしゃる。
ここには、母と生き別れになる前にペレックが住んでいたヴィラン通りを訪れる
ペレック自身の映像がある!どんな想いで、ペレックは母との思い出の場所を訪ねたろうか。
そこにはペレックの母が勤めていたという美容室の古いドアもかろうじてこの時はまだ
残っている!

こちらの記事では、父は戦死、母をアウシュビッツで失ったペレックが、戦後、疎開先から
パリに戻って伯母一家に引き取られて暮らしていたアソンプシオン通りの福住氏による
探訪記がアップされている。
http://perec.jp/archives/533
なんと、少年時代のペレックが、伯母とアパルトマンのバルコニーで写っている写真がある。
福住氏は、この写真の背景となっているバルコニーの鉄柵の模様と、後ろの排水管から、
ペレック達のアパルトマンをとうとう見つけてしまうのである。
はあ~……、ペレックファンは、ペレックに似て、徹底的に遊ぶ(探る)人たちのようだ…

                       *

さて。最後に、モディアノとペレックの関係を。
以下も、塩塚氏のサイトから学んだことであるとお断りしておく。青字部分、塩塚氏の
サイトからの引用。

モディアノが『ドラ・ブリュデール』を書くにはもう一つのきっかけがあった。
それが『強制収容所移送者記録名簿 フランスから消えたユダヤ人』(1978)という書物であり、
モディアノはこれに激しい衝撃を受ける。
この『記録名簿』は、ユダヤ系フランス人セルジュ・クラルスフェルトが妻ベアーテの協力を得て、
第二次大戦中にフランスからアウシュヴィッツを中心とする絶滅収容所に送られた、
少なくとも 75,251人にのぼるユダヤ人の姓名、生年月日、出生地、国籍を可能なかぎり
正確に調べ上げ、その名前を移送列車ごと、アルファベット順に並べた膨大なリストである。
アウシュヴィッツ到着後に彼らを待ち受けた運命も一覧表で示されている。


『ドラ・ブリュデール』出版の三年前、1994年11 月 2 日付「リベラシオン」
紙のインタビューで、モディアノは次のように語っています。「クラスフェルトの『記録名簿』
は、私が正面から見つめる勇気のなかったものを、そして表現できないまま感じていた居心
地の悪さの理由を、私に明らかにしてくれた。(中略)まず私は文学について問い直してみた。
文学を産み出す主要な原動力はしばしば記憶なのだ。だから書かねばならなかった唯一の本
はセルジュ・クラスフェルトが書いたような、この種の『記録簿』であるように私には思わ
れた......。だが当時、私はクラスフェルトと連絡を取る勇気はなかった。また、こうした記
録を見事に具現した作品を書いている作家ジョルジュ・ペレックともコンタクトを取る勇気
は出なかった。」
クラスフェルトの名もペレックの名も、『ドラ・ブリュデール』において直接に言及されることは
ありませんが、この作品が書かれたきっかけとして、二人がいかに重要な意味をもっていたかが
分かります。


そうか。モディアノが『ドラ・ブリュデール』を書いたきっかけの一つに、ペレックの存在が
あったのだなあ…

塩塚氏は、結びのところでこう書いている。

『最後に余談となりますが、モディアノとペレックとを結びつける絆をもうひとつだけご紹
介しましょう。モディアノが忘却から救い出した少女の母親は、セシル・ブリュデールとい
う名でした。つまり、ペレックの母と同じファーストネームをもっていたのです。そして、
何という偶然なのか、二人とも同じ日付、1943年 2 月11 日の移送列車でアウシュヴィッツ
に送られたことも判明しています。『ドラ・ブリュデール』という書物を書いたきっかけのひ
とつとしてペレックの名を挙げているモディアノが、この事実に気づいていなかったはずは
ありません。にもかかわらず、この作品のなかで、モディアノは、この日付の符合はもちろ
んのこと、ペレックの名にすらあえて触れていないのです。なぜでしょうか。モディアノは、
自分がドラという少女にとっての「記憶の番人」であると自負していました。だとすれば、
セシル・ペレックの「記憶の番人」は、当然その息子ジョルジュ・ペレックの手にゆだねら
れるべきである、とモディアノは慎ましく思いやったのでしょう。悲劇をささやかに小声
で語る二人の作家に、ふさわしい絆のありかたであると私には感じられます。』


                          *

塩塚氏は上の引用で、モディアノに対し、『慎ましく』という形容をしておられる。
ペレックも、モディアノも、そして当の塩塚氏も、何と慎ましく、ねばり強く、
過去に生きた人々の足跡を歴史の隙間から掘り起こす作業をしているのだろう…

この春から夏の日本は、とりわけ、塩塚氏が『忘却の番人』という言葉で表したような動きが
露骨になった季節であったように思う。
春、政府は歴代政権が踏襲してきた従軍慰安婦に関するいわゆる『河野談話』の成立過程を
検証するチームを設置。6月20日、検証チームは、第2次世界大戦中の旧日本軍の
従軍慰安婦の募集や管理での強制性を認めた 1993年の内閣官房長官談話について、
検証報告書を衆院予算委員会に提出した。(私の全文読んだ印象では、河野談話を貶める
ような事実は何一つ新たに出ていなかったように思う。検証チームは公平だったという印象を
私は持った…)
そうして、あの朝日新聞バッシング騒ぎ…
この14日には、外務省が、元慰安婦に償い金を支給した「女性のためのアジア平和国民基金
(アジア女性基金)」への「拠金呼びかけ文」(1995年7月18日付)を同省のホームページ
から削除。『強制性』の文字があることを忌んだのだろうか。

過去の歴史を消そう消そうと躍起な人々は、いったい何を恐れているのだろう……

立場や思想の違いに関係なく、事実を事実として記録し、それを保管すること。
歴史の曖昧な部分に関しては、これまたどちらが正しかったかどうかなどということに
関係なく、関係者にとって都合の悪いことでも丁寧に事実を掘り起こして、
それを公にも公開していくこと。
歴史の過ちを知り、それを二度と起こさないようにしていくためには、その態度しかないじゃないか。
戦争が悪いとか、国に騙されていたとか、そういうことではないのだ。
過去に生きた人々の一人を、その全存在を我が身に引きつけて一度考えてみてごらん。
ただ同情するということではないよ。
もっと厳しい、自分自身に刀の切っ先を突きつけて問うような行為だ……

『自分はどう行動するのか』 そのことが問われてくるはずだ…。

私は今回たまたま、モディアノとペレックという、両親がユダヤ人であったために
重い負荷を心に負うことになった二人の作家のことを書いた。
でも、私が心惹かれた塩塚氏の引用文の冒頭にもあるように、この記事によって、私は、
ドイツ人が悪くてユダヤ人は被害者という図式や、
ドイツ人が悪くてフランスは立派だった、というような単純な見方をしない。
塩塚氏の冒頭の文章のように、フランス人が皆、パルチザンだったわけではないのだ。
モディアノがずうっと生涯かけて、ユダヤ人でありながらもしかして対独協力者で闇ブローカーで
あったかもしれない父親の影を引きずって行かざるを得ないように、何人だから正義で
何人だから極悪、などという単純な切り分けは出来ない。
要は、ひとりひとりのこころの問題なのである。
その時あなたはどうふるまうか、ということ。
過去を深く知り、そこでのひとりひとりの生き方を深く想うことによって、
ひとは自分の知り得ぬ過去の悲劇にも自分の考えを構築していくことができる。
『想像力』というものを、わたしはいつも、時や空間を超えてひとびとと人々を
結びつける大事なものだと思っている。
だが。『全く知らないこと』に関してひとは想像力を持ち得るものだろうか?
『知る』『知ろうとする』ことこそが、人間を人間たらしめる一つの要件なのではないかとさえ
私は思っている。
それに対し、『過去の記録や記憶を隠ぺいする』『消してしまおうとする』行為の浅ましさ。

                      *

『時を超えて、一人のひとの人生を深く想うということ』
軽く楽しく始まった①から、重い④まで。思いがけず長い記事になってしまったが、
私がここで書いてきたことどもの内容に関連して、歴史とはなにかということを深く問うような
写真を一枚、紹介して、長い記事の結びとする。
あのロバート・キャパの有名な写真。
ドイツが降伏してパリ解放がなった時の、パリ近郊、シャルトルで撮った一枚。
フランス人でありながら、ドイツ兵と情を結んだ女たちを、住民が丸刈りにして
見せしめにした。女が抱いている赤ん坊はドイツ兵の子供であろう。
このような写真もまた、『記憶の義務』を見事に果たし続けている、と言えるであろう。
左の下から2番目がその写真です。 (クリックすると大きな写真になります)

http://www.magnumphotos.com/C.aspx?VP3=SearchResult_VPage&VBID=2K1HZOUT2VV77


『時を超えて、一人のひとの人生を深く想うということ ③ 』

パトリック・モディアノとジョルジュ・ペレック。
その二人が並べて語られているサイトがあるということから、なんとなく二人の間に
共通性というか、関連がありそうだということを知って、大いに喜んだ、というところまで書いた。

パトリック・モディアノ。1945年パリ郊外生まれ。
父はユダヤ系イタリア人の実業家。母はベルギー出身の女優だった。
モディアノ自身は、戦争を知らない世代だが、父親は第二次世界大戦中、
ドイツナチスの占領下にあったパリで、なぜか、強制されていたユダヤ人登録をしないで、
占領下を生き抜いている。一度ユダヤ人の一斉検挙で、ドランシーにあった
ユダヤ人収容所に送られたにもかかわらず、引受人が現れて収容所から
出ることができた…
なぜ、父は、ナチス占領下のパリにあって、ユダヤ人登録もせず、あの苛烈な時代の
ユダヤ人追及の網から逃れて生き延びることができたのか…
父はユダヤ人でありながら、人に語れないような仕事や人間関係やをひそかに
有していたのではないか… (…ユダヤ人でありながら対独協力者?…闇取引?……)
その疑問の影と、ナチス占領下でのユダヤ人の生への探索が、モディアノの多くの作品の
重要なモチーフとなっている。

そのモチーフがとりわけくっきりと出ているのが、『ドラ・ブリュデール』(1997年)という
作品だ。ドラ・ブリュデールというのは、一人のユダヤ人少女の名。
語り手である作家の『私』は、ほぼ作者モディアノ自身である。
その『私』は、1988 年の暮れに、40年以上前の1941 年 12 月31 日付の古新聞「フランス・スワール」紙に、
一人の家出少女の尋ね人広告が載っているのを見つける。
ドラ・ブリュデールという名で、少女の特徴がこまごまと記された広告の末尾には、
両親の連絡先が記されている。
『パリ、オルナノ大通り41 番地、ブリュデール夫妻宛情報提供されたし』

この『オルナノ大通り』は、『私』=モディアノの人生と深く結びついた地名であった。
幼い頃、母に手を引かれて行った蚤の市…、二十歳頃にはこの辺りに住んでもいた。
作家はドラに関する入念な調査を開始する。

作家は三十年ほどさかのぼる自らの過去を回想しはじめ、やがてドラと自分が何か
運命的な糸で結ばれていたような思いにとらわれていく。ドラのことを調査しその人生を
再構築していくことが、作家自身の父親と自分の少年時代との記憶、という
自伝的な要素と交錯していくのである。
作家はドラの誕生日を突き止めるまでに四年、生まれた場所を知るまでにさらに二年
時を費やす。
行政資料を読み込み、証人の話を聞き、ナチス・ドイツによるユダヤ人一斉検挙が
吹き荒れる時代にこのユダヤ人少女がたどった軌跡を再構成してゆく中で、
作家は自分自身の父への疑問をもまた追及していくことになっていくのである。
…ナチ占領下のパリでなぜか他のユダヤ人たちには強制されていたユダヤ人登録を免れ、
一度つかまって収容所に入れられたものの知人によって救い出される…
そうしてあの苛烈なナチのユダヤ人狩りをくぐりぬけてパリで生き抜くことができた父…
自分の父親とは一体何者で、パリで何をしていたのか…

そうして、ドラの一家と、父の人生はどこかで交錯していたのではないか?という
思いにとらわれるようになり、さらにドラの軌跡を探索し続けて行くのである…
作家の父親が逮捕されたのが 1942 年の 2 月であった。これはドイツ軍布告施行の日。
おそらくシャンゼリゼで一斉検挙に引っかかったのであったろう。
父は囚人護送車のなかで、十八歳くらいの若い娘がいることに気づいたが、途中で彼女の姿を見失う。
そのことを、作家は、20年後、逮捕現場近くのレストランで、父の口から聞いているのである。
もしかして、父が見たというその少女がドラなのではないか……

しかし、執拗な、と思えるほどの作家の資料調査によって、結局わかったのは、
二人が別人であること。ドラは、その他多勢の人々とともに、1942年9 月18 日、
アウシュヴィッツへ向かう移送列車の中に居た、ということだけだった…。


                         *

一方、ジョルジュ・ペレックは、1936年、ユダヤ系ポーランド移民の子として、パリに
生まれた。父親は第二次大戦中の1940年、外人部隊に参加して戦死。
母親はペレックを夫の兄一家に託して疎開させ、自身はアウシュヴィッツで亡くなっている。
幼くして孤児となったペレックは、その伯父夫妻に引き取られて養育された。

その間の事情について、ペレックの父方の従姉であるビアンカ・ランブランは
下記のように書いている。
ビアンカは、幼いペレックを引き取って養育した、当の伯父夫妻の娘である。
(ちなみにこのビアンカ・ランブランという女性は、あの実存主義の哲学者サルトルと
その生涯のパートナーで女性論の古典『第二の性』を著したボーヴォワールの両方の
愛人だったとして、『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』という告発本を
書いた人である。そういう女性の存在は噂で聞いたことがあったが、まさか、
ジョルジュ・ペレックの従姉であるとは思ってもみなかった…驚きである…)

そのビアンカ・ランブランのペレック一家についての証言。

『母はヴィラール・ド・ランスに腰を落ち着けると、義妹であるセシール叔母に、ジョルジュを
こちらに来させなさい、わたしが面倒を見てあげるから、と申し出た。<中略>
セシール叔母はしばらく迷っていた。夫は外人部隊に志願し、1940 年6 月22 日の休戦の
数日前に戦死した。ただでさえ悲しいのに、そのうえ息子と離れて暮らすなど彼女には
とても耐えられなかった。それでも最後には、息子の身の安全を考えて、母の申し出を
受け入れることにした。というのも、脅威がより具体的な形となって表れてきたからで、
彼女の住んでいるベルヴィル界隈は特にそうだったのである。
1941 年11 月のある晩、セシール叔母と私はリヨン駅までジョルジュを送りに行った。
ジョルジュはまだ五歳半で、事情がよく呑み込めていなかった。セシール叔母は息子に<
シャルロ>の雑誌を一冊かってやった。このことについては彼の著書『Wあるいは子供の
頃の思い出』のなかでも触れられている。ジョルジュは行き先を記した板を首にぶら下げ
ていた。』

(ビアンカ・ランブラン『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』阪田
由美子訳、草思社、1995、pp.125-126)

この、『ジョルジュは行き先を記した板を首にぶら下げていた』という記述は、あの名作
『禁じられた遊び』(1952年。フランス映画)で、やはりナチス・ドイツのフランス侵攻による
ドイツ軍の爆撃で両親を失った幼い少女ポーレットが、孤児たちを施設に振り分ける集会所で
首から名前を書いた札を吊るされてぽつんと待っている姿を思い出させる…。

…こうやって、ペレックは、リヨン駅で見送る母の姿を見たのを最後に、二度と彼女に会えなくなるのである。
母がアウシュビッツでどのようにして亡くなったのか、調べてもついにわからなかった。

①で紹介したような、超前衛的な実験的文学作品群の一方で、ペレックは、
少年の自分がそうやって伯父の家に疎開している間に、家があったベルヴィルの街で捕えられ
アウシュビッツで死んだ母の、そのいわば空白の年月を探るという、自伝的要素を色濃く持つ
作品群もまた書いているのである。

そのような作品の代表で最も自伝的色彩が濃いと言われているのが、
『Wあるいは子供の頃の想い出』(1975)である。
この小説も、ペレックらしく、実験的二重構造になっている。
世界の涯のオリンピック国家『W』。そこは、オリンピックの理想「より強く、より高く、より速く」
に基づいて、不可思議な教練機構が精緻に構築されている社会だ。そこでは人々は
スポーツに専念している。
そのまったくのフィクションの世界と、ユダヤ人という負の刻印を帯びた子供の頃の思い出を綴る
自伝的物語の世界とが、二枚合わせの鏡のようになって、交錯していく…
言うまでもなく、フィクション部分のオリンピック国家『W』というのは、ナチとあのヒトラー政権下の
1936年ベルリンオリンピックを 思わせ、『W』という国はアウシュビッツの寓意であろうと
いうことを読む者に感じさせる。しかし実は、『W』はユートピア的な『あるどこか』という
架空の場所にあったのではなく、南米チリ沖のチリ沖、ティエラ・デル・フエゴにあったという設定になっている。
なぜ、チリ沖、ティエラ・デル・フエゴなのか。
このペレックの『Wあるいは子供の頃の想い出』が出版されたのは、1975年。
その頃、チリはピノチェト将軍の軍事独裁政権下にあった。
ピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、多くの反体制派の市民が弾圧された。
人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が作戦によって殺害され、数十万人が
各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命したという。
なるほど。『W』は単にアウシュビッツの寓意であるだけでなく、この小説が書かれた
1975年ごろという『現在』にもつながっているのである…
その他にもこの作品には、ペレックらしいさまざまな仕掛けがしてある。
例えば、この作品は第一部、第二部の二部構成になっているのだが、そのそれぞれは、
フィクション部分と自伝部分の章が交互に来るように構成されている。
それぞれの章は95ページずつからなる。
けれども第一部は、11章のフィクション自伝部分があって、本来の順番からいけば、
その次にはやはり95ページからなる自伝部が来るはずなのだが、実際の作品では、
その自伝部にあたる箇所には、一枚の白紙と、紙の真ん中にあたる地点に『中断符』(・・・)
のみが書かれたページとまたもう一枚の白紙との3ページしかない。
そうして、第二部が第12章のフィクション部分からまた始まるわけだが、なぜ、第一部と
第二部の間は、中断符のページで繋がれ、実質的には第一部は11章で終わっているのか。
第一部の自伝部は、主人公がリヨン駅を出てヴィラール・ド・ランスに出発するまでの思い出を扱い、
第二部の自伝部は、疎開先での思い出とパリに帰るまでの出来事を扱う。
母と別れたリヨン駅から、伯父たちの住むヴィラール・ド・ランスに到着するまでの間が
ちょうど描かれていないのである。
この空白は、何を意味するのか…。
なぜ、第一章は、実質的に11章で終わっているのか…。
ちなみに、主人公の母は、1943年1 月ドランシーに捕らえられ、2 月11日にアウシュヴィッツに
向けて強制移送された、となっている。
この『11』日という日付…。

                        *

さて。パトリック・モディアノとジョルジュ・ペレック。
この二人の名が並べられて語られているサイトがあることで私は二人のことを知ったのだが、
二人の共通点は、年齢差は9歳ほどあるけれど共にユダヤ系のフランス人作家であり、
共に、自分は生まれていないか生まれていたとしても幼かったナチ占領下のパリにおける、
一人のユダヤ人の足跡を探っていくことを作品のモチーフにしていた、という
そのことだけなのだろうか?

この記事、シリーズ最後の、『時を超えて、一人のひとの人生を深く想うということ ④ 』に続きます。


『時を超えて、一人のひとの人生を深く想うということ ② 』

さて。ここからは、また、私らしく『だ、である』体で書いて行こうか。

人間を『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)と定義した、オランダの歴史学者ホイジンガ。
遊戯が人間活動の本質であり,文化を生み出す根源だとする人間観である。
そう言う観点からすると、①で取り上げたジョルジュ・ペレックなどという作家は、
そうしてE、e という活字を一切使わないフランス語の実験小説のそれを、やはり
E、e という活字を使わずに英語に訳したギルバート・アデアというイギリス人も、
また、日本語の音で一番多い「い」や、いの段の音、き、し、ち、に…などを使わずに
日本語に訳した塩塚秀一郎という人も、なんと壮大な、失礼だが何の役にも立たない
言語的遊戯をしている人々なのであろう!
まさに、『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』としての人間の、面目躍如の代表みたいな人々である。

実は私が彼等のことを知ることになったのも、ひょんなことからだった。
昨年の5月頃だったろうか、なんのためだったか理由は忘れたが、『日本語に、一番多く
出てくる音ってなんなのだろう』と考えて、検索してみたことがあったのだ。
その結果が、①にも書いたとおり、『い』という音だったわけで。
そのついでに、じゃあ、英語ではなんというアルファベットなのだろう?と思って検索している
過程で、ジョルジュ・ペレックというフランス人作家が、E、eの文字を一切使わず、小説を書いて、
しかも、それを英語に訳したイギリス人がいる!という話にぶつかったのである……

へええっ!面白いなあ!
こういう手の類の遊びが大好きな私は、さらに調べて行くと、①で紹介したサイモン・シン『暗号解読』
に、英文版の方が載っているということを突き止めた。
で、私、買いましたよ~。この『暗号解読』という500ページ近くある分厚い本を。
わずかその1ページを見るために。 …まあ、少しおかず代節約すればいいや、と思って。
この本自体も、暗号の歴史というものから現代の最先端数学、物理学(なんと暗号の世界の
近未来は、量子暗号というものにまで行き着きつつあるそうな!)について縦横に語って、
そういうことに興味のある方には非常に面白い本であるだろう。私はまだ読んでいないが。

愉快だなあ、面白いなあ…
こういう一見無駄かもしれないけれど、人間の遊びごころ全開のこうした知的遊戯が好きな
私は、いつか、ペレックやアデア、そして『暗号解読』の本のことを、暇があったらブログ記事に
してみようと思って、パソコンのお気に入りに入れて保存して、そのままになっていたのである……

                *

ジョルジュ・ペレックの名をふたたび私の記憶の底から呼び戻すきっかけになったのは、
今回、ノーベル文学賞を獲得したのが、フランス人作家パトリック・モディアノだということを知ってからだ!
パトリック・モディアノ。その名を知る人も、その作品を読んだことのある人も、日本では少ないであろう。
しかし、フランスでは、『モディアノ中毒』という言葉があるくらい、熱狂的に好きな人は好き、
という作家である。
私自身は、ある時期から…そう…1980年代くらいかなぁ…そう。ちょうどかの村上春樹や
村上龍などの出て来た頃から、殆ど現代の小説というものを読まなくなって
(ドキュメンタリーなどの方が好きになった)、まして海外の現代作家に手が伸びるということなどもなく、
パトリック・モディアノは、たまたま知り合いに勧められて読んだから知った。

日本版Wikipediaなどで検索しても、

パトリック・モディアノ(Patrick Modiano、1945年7月30日 - )は、フランスのパリ近郊
オー=ド=セーヌ県ブローニュ=ビヤンクール生まれの作家。歌手のマリー・モディアノは娘。
ある人物や自己のアイデンティティなど、何かを探し求めるという作品が多い。
ミステリー的要素を含んだ物語と叙情的な文の運びから、フランスでは「モディアノ中毒」という
言葉があるほど人気が高い。2014年ノーベル文学賞受賞。
フランスで最も権威のある文学賞であるゴンクール賞やアカデミー・フランセーズ賞の
受賞作家としては初のノーベル文学賞受賞者となった。


わずかこれだけでそっけない。
少し大きな本屋でも、モディアノの作品を置いているところは結構少ない。
その作風と主題は、なんというのだろうなあ…自分が生まれる前の両親などの生きていた時代を
ある理由があって探偵のように調べることになる主人公、というのが多い。
過去に生きていた人々が歩いたパリの街などを実際に歩いて辿りながら、現在の自分の
実生活がそこに交錯していく。主人公が現在の生活ですれ違うたくさんの登場人物たちは、
当然、現代にぽっと湧いて生まれた存在ではなく、10年前、20年前、30年前…という
過去の時代を過ごしてきていて、それが、主人公が探索している人物と、ひょっとして偶然、
過去においてその生が交錯したことがあったのではないか、
というようなストーリーが多い。
だが、探し求めるその人物の足跡も、現在において知りあっている生身の人間たちも、
過去にどのような経歴を持っていたのか、どんな毎日を過ごしていたのか、
経済的基盤をどこにおいていた人々なのか、その本名や住所や職業や出自にさえ
疑わしいところなど出てきて、話は、過去に行ったり現代に戻ったりすることと相まって、
甚だ淡くて曖昧な印象なのである。
しかも、探索がテーマでありながら、その探索結果は、ついに明らかにされることのないまま
本は終わってしまう!
くっきりした劇的なものがたり展開を求める人には、なんとも曖昧ではっきりしなくて
イライラするかもしれない…

しかし、読み終えた後に残るいわゆる読後感は、なぜだか極めて淡く綺麗なのである……

                  *

さて。
モディアノがノーベル賞と聞いて、なぜ、私は、パソコンの中に1年前にしまい込んでおいた
ジョルジュ・ペレックのことを思い出したか。
モディアノがノーベル賞貰ったか、へええ…と思いつつ、少しモディアノを検索していたら、
『モディアノとペレック』と二人の名を並べて論じてあるサイトにぶつかった。

「あれ?ジョルジュ・ペレックってどこかで聞いた名前だな…ひょっとして?」と思って、
パソコンの『お気に入り』の中を探しまわって、ジョルジュ・ペレックの名をふたたび
自分のパソコンの中に見出した時はなんだか嬉しかったなあ!
そういう意味では、わたしもまた、一人の人を探しまわる…という、他人にとっては無駄な
遊びを、時間をかけてしていたことになる…。
ペレックのことは、①で書いたように、Eを使わない小説を書いたということ、
回文の当時におけるフランス記録をうちたてたとかいった、実験的手法の作家である
ということ以外は、ユダヤ系で母が収容所でなくなっている、ということ以外、
作品も読んだことないし、ほとんど知らないに等しい私だったが、
「これ、短いけれど、いい書評だよなぁ」と思って、『試験飛行』というこのサイトの
ペレックに関するこの記事を、昨年保存しておいたのだ。
http://d.hatena.ne.jp/seul/20130102/1357145187

私が「ああ、いい書評だなあ!」と思った部分を引用させていただく。

『言語の可能性を追求し続けたといえば聞こえは良いが、この作家は、
言ってみれば、その短い生涯を、なんの役にも立たない言葉遊びに費やしたような感じである。

だが、底抜けに陽気で馬鹿げた『小さな自転車』の中にただようミントのような一抹の悲しさを
感じられる読者、または『隠滅』のなかで、抹殺された「E」の悲痛な声にならない叫び声を
聞き取れる読者には、ペレックが決してイロモノ作家なんかではないことがわかるだろう。
この饒舌な作家の真の魅力とは、行間に漂う、書かれ得なかった、どうしようもない哀しさなのである。


残された孤独な創作ノートには、次のような走り書きを読むことができる。
Je vis dans le cahier.(わたしはこのノートの中で生きている)
幼くして両親を亡くし、文学という檻の中に閉じ込められたペレックは、それでも、これからも、
その作品の中で嬉々として生き続けてゆくだろう。


ね。いい書評だとお思いになりませんか?
ペレックを読んでいないのに、なんだか泣けてくる。

                    *

さて。パトリック・モディアノと、1年前ひょんなことからその名を知ることになったジョルジュ・ペレック。
二人が共にユダヤ系の両親を持つフランス人作家であって、両親たちがあの強制収容所に
入れられるところだった、入れられて亡くなった、という共通の出自を持っている、という
ところから来てもいるのだが、実は『モディアノとペレック』とその名を並べて論じる人がいるほどに、
密接なしかし淡い関わり合いを持つ作家たちだった、ということを知って、私がどんなに感動したか。

長くなるので、再び、ここでいったん切りましょう。③に続きます。




『時を超えて、一人のひとの人生を深く想うということ ① 』

遊んでいる場合じゃない。書かなきゃならない記事は山積しているのだが……

ちょっとこの本のページ、見てください。

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ああ…やっぱり、私のデジカメと腕じゃ、近い距離は全然撮れないな…。
仕方ない、キーボードのタイピング、極めて遅くて苦手なんだけれど、書き写してみるか…

英文見ただけでもう、面倒くさ! ってお思いにならないで、先を読んでくださいね。
これ。一つのクイズ です。^^
そして。一つのクイズと言うだけの記事でなく、実は私のここ2日間ほどの想いも込めた
記事になっていきますので、ぜひ先をお読みくださいね。


Today, by radio, and also on giant hoardings, a rabbi, an admiral notorious
for his links to masonry, a trio of cardinals, a trio, too, of insignificant
politicians (bought and paid for by a rich and corrupt Anglo-Canadian
banking corporation), imform us all of how our country now risks dying of
starvation. A rumour, that's my initial thought as switch off my radio, a
rumour of possibly a hoax. Propaganda, I murmur anxiously, as though,
just by saying so, I might allay my doubts - typical politicians' propaganda.
.........


ああっ!逃げないで。 これ、中味読まなくても、関係ないの… 
実は、この英文は、小説の一部で、実際はまだまだ続くのですが…
さて。これをご覧になって何かお気づきになりましたか?

ちょっと、考える時間を。…ね……



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この本の中で紹介されている英文なんです。 サイモン・シン著『暗号解読』。
そう。 実は、この英文、『暗号』とは言えないけれど、ある仕掛けがあるのです。

お気づきになりましたか?

…はい。実はこの英文にはアルファベットのE、e の文字が一つも使ってないのです!!!

さらに、驚くことがあります。
実は、この英文の原文は、もともとジョルジュ・ペレックというフランスの作家が、
フランス語で書いたもの。
La Disparition (1969) (邦題『煙滅』)というその小説は、200ぺージはあるという
長い小説なのですが、ペレックは、なんとフランス語で最も頻出度が高い活字E 、e を
一度も使わずに書いているのです。
(ということは、フランス語の基本中の基本語と言える uneも、le、lesなども、
『彼女は』という意味のelleなども一切使えないということだ…!)
それでは、ここに掲げた英文は?

これは、フランス語から他言語に翻訳不可能と言われた(そりゃそうですよね!)ペレックの
その『La Disparition 』を、なんと、ギルバート・アデアというイギリス人が、
やはり、E、eの文字を使わずに英語訳したものなのです!
ほんとだ。これまた英語の頻出語と言える、the、he、she、theyなどが
全然使ってない!

なんと!愉快だと思いませんか?
私は、人間の、こうした無駄遊びとも言えるような精神が大好きです。

しかもペレックはその次に、e以外の母音活字を禁止した(a,i,o,u使用禁止)中編を発表し、
度肝を抜いています。
また、極度に難解なクロスワードパズルを組み上げてみたり、
(当時の)フランス語における新記録という1247語からなる回文を作って見せたり、
「ひとつのマンションの全室の全住人の複雑に絡み合った生活史を、古今東西の名作文学の
マトリックスに絡み合わせて、余すことなく描きあげた超大作『人生使用法』を、
膨大な注釈と登場人物の年表まで付けて上梓」したり。
(*「 」引用部分は下記サイトから。)
http://d.hatena.ne.jp/seul/20130102/1357145187

とにかく、「なんでそんな無駄な実験を!」と常人は考えてしまうような言語遊戯的な作品を
多く上梓しているひとなのです。
こういう風に、特定の文字を使わない制約を『リポグラム(文字おとし)』と言うそうです。
フランス語でEの使用を禁止するだけで、使える語彙は、なんと三分の一に減るそうです。



ジョルジュ・ペレック
(Georges Perec, 1936年3月7日 - 1982年3月3日)。
フランスの小説家、随筆家。パリ出身。ユダヤ系。
本来の苗字はペレツ(Peretz)であり、父方を通じてイツホク・レイブシュ・ペレツの遠縁にあたる。
1965年に長編"Les Choses. Une histoire des années soixante"『物の時代』でデビュー、
同作でルノードー賞を獲得。1967年からは文学グループ「ウリポ」に加わり、
言語遊戯的な作品を多く上梓した。
"Un homme qui dort (1970)"『眠る男』は映画化され、1974年度ジャン・ヴィゴ賞を受賞した。
他の代表作に"La Vie mode d'emploi (1978)"『人生使用法』など。
彼を称えて、小惑星(2817)ペレックが彼の名を取り命名されている。
(Wikipediaより)

                    *


本当に愉快でしょう?
フランス語で一番使う E、eを一度も使わないそんな小説を書く人がいて、
それをまたEの字を使わないで英語に訳すイギリス人がいた……!
ちなみに、日本語訳はいくらなんでも無理でしょう。
ところが、これを実験してみた日本人がいるのです。
『煙滅』(塩塚秀一郎訳、水声社、2010年)。
ただし、当然ながらアルファべット文字国ではない日本。

ここでもう一つクイズ!

それでは、日本語において文章をひらがなに書き表わしたとき、もっとも頻出度の高いひらがなは
なんだと思いになりますか?つまり日本語で最も音としても多く使われているひらがなは?

ある実験によれば、『い』だそうです。
第1位…「い」 第2位…「ん」 第3位…「か」 第4位…「し」
http://www.excite.co.jp/News/bit/00091179941794.html

塩塚氏は、その、日本語をひらがなで表記した場合にもっとも高い頻度であらわれる
『い』を、しかも『いの段のひらがな』全部ぬきで、翻訳しぬいているのだといいます。
『い』だけでなく、『き』も『し』も『ち』も使わずに。
だから、『隠滅』『消失』というような意味のタイトルが、なぜか『煙滅』となっているのです。
その他にも、いの段の欠落を暗示するさまざまの工夫も織り込んでいます。
『煙滅』について詳しくは、こちらのサイトを。
http://blog.goo.ne.jp/kazenotikara/e/f90b75d8fc417068c29577614bd13079


                      *

ほんとに、世の中には、暇人というか(失礼!)、面白いことを考える人がいるものですよね。
私は、こういう遊び心が大好き。
人間を、ホモ・サピエンス(知恵ある人)と定義する言い方は有名ですが、
オランダの歴史学者ホイジンガは、人間を『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)と定義しています。
遊戯が人間活動の本質であり,文化を生み出す根源だとする人間観です。
また、フランスの哲学者 H.ベルグソンは、人間を『ホモ・ファーベル』(作る人)と
定義しています。これもわかるなぁ……


                      *

しかし。この記事の本当の主題は、ジョルジュ・ペレックのそうした遊び心について、だけでは
ありません…
でも、さすがに長くなるので、一旦ここで切りましょう。②に続きます。

『キャンドル・ナイト 43』

43回目のキャンドルナイト…
毎月言うけれど、もうそんなに経ったのだなあ……


さて。この10月のキャンドル・ナイトの用意は。


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小さな白い器に、ホトトギスの花と、いつもの小さな亀山ろうそくを入れてみた。
ろうそくちゃんも水に浸かっているが平気だろう。
我が家の裏庭にもホトトギスは自生していて、殆ど誰にも見られることなく、その
風情ある花を毎年ひそかに咲かせている。
その横には、秋海棠もまた、結構な叢を作る。
ひょっとして10月のキャンドルナイトまで、もってくれないかしらと思っていたが、
今朝、覗いて見てみたら、秋海棠もまた、やはり花は終わってしまっていた…
このホトトギスは今日花屋さんで買ってきたもの。その中から一枝短く切り取って挿してみた。

ホトトギスの蕾もまた、被災地のかたへ想いよ届いて、という、薄紫色のろうそくのように
見えませんか?^^


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この洋風の器は、実は、正面はこんな感じだ。
これは、芭蕉の葉を描いた煎茶セットのなかの一品で、『湯冷まし』。
玉露など煎茶を淹れるのに、お湯を適温に冷ますための器。
理由あって、ちょっと、芭蕉の葉をデザインしたものを集めていたときのもの。



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朝になって、
ろうそくを抜き取った後のホトトギスの花たちが寂しげだったので、
これもずっと飾って葉っぱがもうくたびれてしまったオレンジ色の鶏頭の花を短く切り詰めて
一緒に挿してやった。
ね。秋らしい風情になったでしょう・・・





                    *








東日本大震災の被災地に木材を供給する林野庁の補助金事業で、
実際に岩手、宮城、福島の3県に供給された木材の量が全体の約0.7%にとどまることが
8日、会計検査院の調べで分かったそうだ。海外に輸出されたケースもあり、
復興予算の流用がまた一つ明らかになった。 
事業は、住宅や公共施設などが大きな被害を受けた被災地を支援するため、
不足している木材を被災地に供給するのが主な目的。2011~14年度、
東京都と神奈川県を除く45道府県に総額約1399億円の補助金を出した。
林野庁は流用が社会問題化した翌年の13年、直接被災地に木材を供給する取り組みに
制限するなど使途の厳格化を求める通知を出し、未使用分の返還を求めた。
45道府県のうち36道府県が14年度末までに約490億円を返還する予定。
林野庁計画課は「今後とも通知に沿って事業が実施されるよう指導する」としている。
(毎日新聞10月8日の記事より抜粋)

この復興予算の流用は、民主党政権下においてその杜撰さが明らかになったものだが、
自民党政権になっても、これだけではない、復興予算の流用はあった。
そんなことをあらかじめ禁止する仕組み作りもできない国や官僚の無能さも問題だが、
これは東日本大震災の被災地のための資金、と知りつつ、全然関係ない地域や組織が
自分たちの事業に流用するそのこころが、私にはわからない…

                   *


福島第一原発事故で、原発というものがどれほどの被害をもたらすものか、ということを
皆、知ったはずなのに、ここに来て、太陽光発電、風力発電など自然エネルギーなどで
生みだす電気を、電力会社が買い取らないようにしようとする動きが露骨になって来た。
理由は、太陽光など気候条件によって発電量の異なる安定しない電気を、送電線で
取り込むと、大規模停電などが起こるかもしれないというものだ。
しかし、自然エネルギー比率を高めていけば、送電網拡張の必要性は最初から
わかっていたはずだ。それを技術的問題とか資金の問題とかにして、ずるずる手を殆ど
打たないできたのは、国と電力会社の怠慢でしかない。
要するに、あらゆる策謀で、原発の必要性をまだいい抜けたいとしか思えない。
新しい産業に夢を託して、太陽光や風力発電などに参入した企業は(発電量の安定している
地熱発電までが)先の見通しが立たなくなってしまった・・・・・倒産したり撤退するものが
これから続出するだろう。電力会社と、原発を続けたい政府の思うつぼだ……


                    *

マララさん(とインドの人権活動家カイラシュ・サティヤルティさん)がノーベル平和賞を受賞。
憲法9条を守ってきた日本人は、ノーベル賞受賞ならなかったけれど、がっかりすることはない。
もしかしたら、第一候補かも、と世界の人々に思わせるほど、『憲法9条』の不戦の誓いは
これで世界に大きく知られることになったのだから。
世界各国に平和憲法を広めるために、日本国憲法、特に第9条を保持している日本国民に
ノーベル平和賞を!という、神奈川県の一主婦の発想から生まれたこの動きは、
荒唐無稽などころか、有力な候補と噂されるまでになり、改憲とりわけ9条を
変えてしまいたい今の政権を、『もし貰ってしまったら?』とおそらくひそかに悩まさせるほどの
力を持ったのである。
この運動は続けたい。
子供たち、若い人々、政治にあきらめを抱いてしまっている人々…多くの人々の間に
さらに論議を広げて、現憲法の平和の精神を深く知ってもらって、
国民がゆるぎない意志で、9条は捨てない!現憲法の平和主義、国民主権、立憲主義の
基本思想を変えさせない!と本当に思えるようになったとき、そういう選択をした時…、
この憲法と日本国民は、ノーベル平和賞のほんとうの有力候補に再び取り上げられるであろう。
ノーベル平和賞については、いろんな疑問点や問題点はあるかもしれない。
しかし、この賞を育てていくことも、また、世界に生きるわれわれ人類の見識と叡智によって
できることなのではないかと私は思っている。
その意味で、今回の受賞者に、そして二人を選んだ委員会に拍手を送りたい。
そして、小さな、一主婦の想いから生まれた『9条を守っている日本国民にノーベル賞を』という
運動にも大きな拍手を送り、私もそのために動きたい。

マララさんについても9条についても、まだいろいろ想うことはあるのだけれども、また続く記事の中などで
折に触れ書いて行きたい…








                       
心ひとつに キャンドルナイト




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『朋有遠方……むぐぐ』

9月某日。

友より思いがけず、荷物が届いた。


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中には一冊の書物とお手紙が。

『李賀』の漢詩集。

李賀(り が、791年 - 817年。貞元7年 - 元和12年)。中国中唐期の詩人。字は長吉。
昌谷(現・河南省洛陽市の西約50km)の人。
『鬼才』と評された。この鬼才という言葉は日本語のそれよりもはるかに意味が深い。
屈原、陶淵明、李白、杜甫、・・・数多くの世界に冠たる詩人を生んだ中国にあっても、
『鬼才』と称えられるのはこの李賀のみであるという。

その詩は伝統にとらわれずはなはだ幻想的にして、想像力の飛翔を見る。
豊かで絢爛なその用語の色彩感は独特のものだが、その主な情調は沈鬱にして悲憤に
満ちている…
27歳で早世するも、彼の詩を愛する文学者は同時代にも後世にも数知れず、
韓愈、魯迅、毛沢東…、近代日本の作家のなかにも、泉鏡花、芥川龍之介、日夏耿之介、堀辰雄、
三島由紀夫などがいるという。



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私は漢文の素養が全くない。
そのことを、このブログを始めてからも何度悔いたことだろう。
私の、人生における三大後悔は、この『漢文の素養がないこと』と、『楽器が弾けないこと』『泳げないこと』
と、何度もあちこちで書いている…(苦笑)
漢文の素養がないということは、漢字という文字の豊穣を、いわば半分くらいしか
味わえないということだ。そうしてそれは、中国文学の豊穣もまた、知らずに人生を
終えてしまうということだ。
こんなに漢字の持つ意味の世界が好きなのになぁ…言葉をもっと豊かに自在に駆使したいのになぁ…

過去に、ひとにも『勉強してみれば?』と何度も勧められたけれど、漢詩の世界は、私には敷居が
とんでもなく高かった……
しかし、この秋、私は意を決して、受験用の漢文の参考書を買い、文字通り一から勉強する
ことにしたのだ。
そんな私に、友が贈ってくれたのが、この李賀の詩集だ……

 


                                                                                ***




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切手がたくさん。

この切手についての詳しい事情はここでは書けない…

だが、ひとのこころのあたたかさと、ひとの縁の不思議さに、久しぶりに泣けてしまった……

 

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これらは、『このひと(私のこと)は、鳥が好きだ』ということを聞いたあるかたが、
わたしのために、たくさんお持ちの切手の中から選んでくれたものだ。 
わたしは花も好きだが、小鳥たちも好き。
自分で飼いたいとか、その生態をよく知っている、とかいうのではないのだが、
小鳥たちの姿やしぐさに、造型的興味を非常にひかれる。
鳥をモチーフにした香合など欲しいなあと思ってオークションを覗いてみるが、
いいものは高くて手が出ないのであきらめている…
だから鳥たちの切手。とても嬉しい。



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その他にも、たくさんの美しい切手たち。
実は私は、収集こそはしていないけれど、切手のもつ小宇宙がとても好きだ。

これはまた別の話だけれど、いつも、美しい珍しい切手を貼って、荷物や案内状などを
送ってくださるかたがいる…
小包の箱などはさすがにかさばっていくので取っておけない。
そこでわたしはいつも、それらの使用済み切手を、いつも丁寧に切り抜いて、
綺麗な箱に入れて全部とってある。
切手の持つ小宇宙…そのデザイン性の豊かな世界に魅了されるということもあるけれど、
その人が、数多く送るものの一つ一つに、その送る相手の趣味や雰囲気を想いつつ、
一枚一枚切手を選び分ける、そのこころをとてもすてきだと思うから。

さて。今回のこの切手の数々。
これをくださったかたと私は面識がない。
それでも。
そのかたは、見知らぬ私のために、見知らぬ私の姿を想像しながら、これらの切手を
こころ籠めて選んでくださったのだ。
私にも、その、切手を一枚一枚選んでいく、細い指が(おそらく)見えるような気がする……


追記: 友よりお許しが出たので、追記として書かせていただきますが、
     『そのかた』と私が書き記したのは、『李賀』をくれた友のご母堂。
     想像の通り、やはり指は細くっていらっしゃるそうです。^^
     話の前後関係からして、「ああ、本のかたのお母さんだろうな」ってわかっちゃったかな?
     これで、話が繋がっていきます…^^
     きっとお若い頃、お花のようなかただったろうと思うので、切手の感謝をこめて
     薔薇色の文字で書いてみました。 ^^



               
                        *


昔……もう30年以上の昔になるが、母が、私と娘に、時折ハンカチなどを思いがけず送って
よこしてくれたことを思い出した。
母は長男である広島の兄の所に引きとられて、向うの親戚ばかりの見知らぬ土地で
その生涯を終えた。彼女には資産などこれっぽっちもなく、わずかな年金を
自分の自由に使える唯一のお金として、ほそぼそと老後を生きていた。
年金と言っても、働きづめに働いても月々の掛け金など納めてこれなかったはずだ。
どういう仕組みでその母がわずかばかりでも年金を手にできたのかわからないが、
おそらく当時、その額は月々にすると千円か、2千円といったところではなかったろうか。

母というものはいつまでも母であって、そのわずかな年金ででも、
大きくなった娘にもその子にも何かしてやりたいといつもいつもせつなく思う…
それが母というものなのであろう。
年に一回か二回、手紙に添えて、ハンカチやシャツのようなものを送ってくる。
そのハンカチなどは、おそらく母が歯医者などにたまに街に出た機会に、近くの
スーパーなどで買ったものであろう。
でも、それらを選ぶとき、母はどれほど真剣にこころ籠めて、選んでくれたのであったろうか。
そのうつむいた顔と、小さな、苦労の多かった手を(母は小さな女だった)私はいつでも容易に
思い浮かべることができる。

なぜか、或るその方が送ってくださったこれらの切手を一枚一枚、手にとって見て行きながら、
私は久しぶりにわが母のことを思い出し、その母に報いてやることのなかった自らへの
本当に歯噛みしたくなるような悔恨と…でも不思議に懐かしい気持のよい涙を流したのである…。


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60年前。46歳くらいの母と小学校1年生の私。ああ…46歳にしてはなんと母は老けていたのだろう!
美しいひととは言い難かったかも知れないが、膚は肌理こまやかで色が白く、
髪が多くて艶やかなのが唯一の自慢だった…
二人の少女は、私と年の変わらぬ姪たち(母にとっては孫たち)。
彼女たちが来たこの日、私は具合が悪くなり、この日か翌日入院したのでよく覚えている。
肺浸潤で、夏休みから2学期にかけて2カ月ほどの入院措置が必要になった。
写真を撮られていた間も、気分が悪かったのではなかろうか。むくんだ顔をしている。
母は、なんとなくおそらく元気がなかったであろう私を心配しつつ、久しぶりに会う孫たちをも
母鳥のように手を広げて抱いている…

…この小さな手。よく動く器用な手だった。
縫い物などよくする人の手にしばしば見るように、母の手も、指先が丸かった…
私は、母の縫ってくれたワンピースを着ている。
母は和裁を仕事にしていたけれど洋裁はできなかった。
でもこうして、私の夏のワンピースくらいは、自分で考えて工夫して縫ってくれた。
りんごの柄のこの木綿の布。なんとか、同じものを手に入れられないかと探しているが、
似て非。私にとって幻の、なつかしい布だ。




                       *
                          
母親というものは、その愛情を、子供(や孫)にだけでなく、子供に関わる人にまで、
radiate(放散、輻射)するものなのだなあ、と、しみじみ思う。










                         ***


10月某日。
別の友から、荷物が届いた。

林檎!


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まあ!なんと可愛くて綺麗なのだろう!
りんご農園で摘んできたばかりという林檎たちは、農薬も使っていないので
皮ごとガブリと食べても大丈夫だという。


余談だが、
実は、箱の中にパッキング材として入っているこの白くて透明な、細いそうめんのようなもの。
私は子供の頃からなぜかこれが好きで。でも、当時これは高級果物などをデパートで
贈答用などとして買わないと、滅多にお目にかかれなかった。したがって、我が家にはあんまり縁がなく。
でも、一緒にままごとなどしている友達の家にこれがあったりすると、貰って、
これをかき氷に見立てて、朝顔の花の絞り汁などをかけて遊んだ。
…と書ききってみたが。
しかし、果たして50~60年も前のそんな昔から、このパッキング材、あったりしたかしら…?
もしかしたら、「そういう風にしたら面白いだろうなあ…」という想像しただけだったのかしら?
それとも40年ほど前、小さかった娘相手に、そんな遊びをして見せたのだったかしら?
でも、娘はままごと遊びにほとんど興味を示さない子だったがなあ……

とにかく、私は今でもこの、ぴらぴらきらきらしゃりしゃりふかふかしたパッキング材の
手触りと見た感じが大好きである…
だって、弱い日差しが差す真冬の午前、陽光の温かみを受けてシャーベット化してきらきら光る
あの汚れなき雪のようじゃないか?♪

『ところで、これは、一体なんという名前のものなのだろう……』

いつもその疑問は頭にあったが、今まで調べてみたことはなかった。
でも、どんなささやかな目立たぬ商品にも、呼び名はちゃんとあるんだよなぁ。
そうでないと商談するにも困るから。

……
調べてみた。
ちょっと探すのに苦労した末に、やっとこれの名前がわかった。
『セロパッキン』というのだそうだ。
『パッキン』は、packing (荷造りすること)という英語そのままだなあ!と思ってちょっと笑う。
でも、『セロ』はなんだ?
…ああ!『セロファン』かぁ!(爆)

これ。石油製品のようにいつまでも土に還らず海や土壌を汚染するものではなく、
セロファンってセルロースを加工した透明の膜で、主な原材料は木材を粉砕して作るパルプであるため、
紙と同様、土にかえる生分解性の環境にやさしい緩衝材なのだという。

なんとも即物的な、そっけない名前をつけられているけれど、長い間好きでも名前を
知らなかったこれの、名前がわかって、ちょっとじ~んとする…

ちなみに。調べている途中で知ったこと。
昔々、プチプチ(別称:気泡緩衝材、エアパッキン、エアキャップなど)やこのような市販の緩衝材が
なかった時代…長距離での輸送ではシロツメクサ(白詰草)も使われていた時期があり、
白詰草の名前はそこから来たのだそうだ!
シロツメクサは、海上輸送が標準的に利用されていた時代に梱包資材として盛んに使われたため、
世界各地にその種子も運ばれ、帰化植物としてかつての海運網拠点を中心に繁茂しているのだという。(Wikiより)
白詰草。いわゆるあの、『クローバー』である。

へええっ! 知らなかった!……皆さんご存じでいらっしゃいましたか?
1846年 (弘化3年)にオランダから献上されたガラス製品の包装に緩衝材として詰められていた
のが日本における白詰草の最初だそうだ。
へええっ…試しに、亭主にシロツメクサの名前の由来を知っているかと訊ねてみたら、
ちゃんと知っていた! …びっくり。…知らなかったお馬鹿さんは私だけ?(笑)


2014_1002_154312-CIMG3231.jpg


小さな、宝石のように綺麗な林檎たちを、山水画の描かれた和皿に並べてみる…
可愛いなあ。美しいなあ。
可愛すぎて食べられないよ~
(葉っぱのついた一個だけを残して、もう食べてしまってありませんが)



2014_1002_154807-CIMG3233.jpg

どれくらいちっちゃくって可愛いかというと。
普通こういうとき、100円ライターなどと比べることが多いのかな。
でも、うちにはライターがない。そうだ。いつもキャンドルナイトの時火を灯すのに使うマッチだ!
あら。そういえば、マッチ、使いきっちゃったんだった!(買ってきておかなくっちゃ)
チャッカマンは比べるには大きすぎるし。
ということで、小さなミシン糸のロットと比べてみる。ね。可愛い林檎でしょう?

実は、9月の半ばごろひいた風邪がまだ治らない。
咳の風邪で、毎日、あんまり咳をしすぎて筋肉が痛くなってしまった胸とおなかを
かばうように手で押さえながら、身をまるめて苦しい咳をしている。

小さい頃。私が病気になると母が食べさせてくれたのが、擦りおろしりんごだった。
おなかが痛いときでも、風邪で喉が痛くてものを飲みこめない時でも、熱がある時でも…
冷たい擦りおろしりんごは、熱に倦む子供の口になんと優しく甘かったろう!

まるで私が風邪をひいたのを知ってでもいたかのように、偶然りんご園に行って、
それでもぎたての林檎を送ってきてくれた友……

すりおろすのは無論もったいないから、かぷり!と、皮ごといただきました。^^


                     ***


秋もだいぶ深まって、台風が一過した今夜は、美しい十三夜の月が空に輝いている……
月を見に玄関の外に出れば、我が家にもささやかな金木犀の木があって、
もう花は終わりかけだけれどまだかすかに名残の香はある……

李賀は、木犀が出てくる漢詩をいくつも書いているなあ。

    
…というくらいしか、漢文初心者の私には言えないのが口惜しいところ。てへへ。





『夏の記憶』

随分ブログをさぼってしまって、もうすぐ1カ月たってしまう。
どこにも行かない、何も特別しない、極めて無為に過ぎたこの夏だったけれど、
巡り会ったお花たちは、一応載せておいてやろうかなぁ。
同じ植木鉢の花でも、二度と同じ花は咲かないのだもの。

まずは『月下の三美人』から。

6月。月下美人の花が咲いた。
ほんとに。ほんとうに一夜しか咲いていてくれない儚い花なので、夕方、家の中にとりこんで、
いつもパソコンをする横のベンチチェストの上に置いて、その高貴な香りと、せつないほど
優美な花を一夜だけ楽しむ。
花は女の子で、私も女なのだけれど、こんな大きな、顔くらい大きな白い花を
そばに置いていると、なんだか自分が遊郭に通う若旦那ででもあって、
白いかんばせの花魁と、情を交わしてでもいるかのような、そんななんだか悩ましい夜となるのだった……


2014_0610_220151-CIMG2739.jpg


8月11日。
夜顔の最初の花が咲く。
夜顔とよく混同されるものに夕顔がある。
夕顔というのは、干瓢の花だ。
夜顔と同じく、白い美しい花を咲かせるけれど、しわしわのはなびらで、葉も全然違う。
朝顔や昼顔、夜顔と違って、朝顔の仲間というよりはかぼちゃの花にむしろ似ている。
ややこしいのは、この夜顔を『白花夕顔』という名で、種子を売っていることだ。

夜顔は、このように真珠光沢があり、またこうした膚質の白い花によくあるように芳香がある。



これは9月に入って撮った写真。


2014_0905_181352-CIMG3146.jpg


友にいただいた種から咲いた花。^^


真珠光沢の花びらの美しさは、月下美人と共に、夜の大君の寵愛を競い合う。
蚊に刺されながらも、いつまでも玄関先に佇んで、話しかけていてやりたい美しさだ。


そうして。
今一人、月下に花咲く妖しい花がある。
我が家の庭にある花ではないけれど、その花の咲くところを私は知っている。
夏の遅い陽が落ちて、あたりが薄暗くなってから行ってみたが、夕方から咲き始める
月下美人や夜顔と違って、その花はまだ咲いていない。
夜を越えて、早朝5時。むくむく起きだして行って見ると、なんともう、花は閉じてしまっていた!
それから数日は雨。
雨が上がった日の夜9時。
ひとりで川原をうろつくのは危ないかな、と思いつつも、今を逃したらまた来年まで会えないからと
思って、夜の川原に出て行く。
花は咲いていたが、さて、真っ暗な中でどうやって花にカメラの焦点を合わせるのかわからない。
ここらへんかなとあてずっぽうでカメラを向けてフラッシュを何度も焚いてみたが、
花は写っていなくて、葉や茎ばかり。
あきらめて、一旦寝て、またさらに早い早朝4時。まだあたりが暗いうちに起きて、
今回は、小さな懐中電灯持参で行く。
左手の懐中電灯で花を照らしたら、デジカメのねらいどころが今度はバッチリ。
夜中や早朝、足場の悪い川っぷちで、そんな苦労をしてようやく撮った、もうひとりの月下の美人がこれだ。


2014_0903_213334-CIMG3140.jpg


カラスウリの花。
精妙なレース細工のよう。


                        *

さて。他の子たちも載せておいてやろうかなぁ。


玄関の門扉の朝顔。
美しい青の絞り入り。


2014_0806_061800-CIMG2939.jpg


下の写真は、私がいつもいる部屋の窓辺に育てた朝顔。
もっと淡い水色の、美しい絞りの花も今年咲いていたのだが、ピンボケ写真になってしまっていた。
今年は水色の朝顔で統一。
来年も、我が家の朝顔はこの青の絞りのにしよう。


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さて。お散歩行ってきます。
お伴はこのこ。


2014_0811_160942-CIMG2960.jpg


友が縫って送ってくれた、小さな巾着袋。
絹の小布を丁寧に縫い合わせて、うっすら綿も入っているので、ふかふか柔らかいの。
この可愛い袋に何を入れようかなぁ、と考えたが、いつでもおでかけの時に
連れていけるように…そうだデジカメだ!と思って、それ以来、このこはお買い物にもいつも
中にデジカメをやわらかくくるんで、私についてくる。^^


2014_0914_165146-CIMG3186.jpg


玄関先のこのこも、年一回は必ず登場させてやりたいな。
タマスダレ。
いつも『行ってらっしゃい♪』『お帰りなしゃい♪』と言ってくれる気のいいこだ。
一夜しか咲かない気位の高い月下美人のお姐さん達と違い、このこは
夕方になると丸く閉じて眠って、朝になるとまたぱっと開く、ほんとに気だてのいいこ。



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この花はセンニンソウ。仙人草。
川べりの道に毎年咲く蔓性の花。芳香がある。
自転車でさあっと走り抜けていても、この花の叢がどこかにあると、「あ、咲いたな」と
わかるほどの甘い香りだ。
一枝折り取って、背の高いガラス瓶に挿してみた。
この瓶、いいでしょう。薄くて背が高い。
暗紅色の色もよく、小さな丸い珠のついた同じガラスの栓がある。

仙人草と、優雅な名をもらっているが、これ、全体が結構な毒草だそうだ。
茎の汁が皮膚についたりすると爛れるという。
知らずに摘んできたが、ふと、「待てよ。同じく白いあのテイカカズラも毒があるんだよな」と思って
調べてみたら、やはり毒草だった。
でも、幸い、皮膚がただれたりなどしなかった……
身近な花でも毒草は案外多いので、草花をいじったら、手を洗うことだ。





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通りすがりの小道の奥に。



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ひとり咲いていた百合。
たぶん『高砂百合』という種類だと思う。
私の街には、この百合がこうやって道端や、民家の庭先などにどうも自生して来るようで
よく見かける。
このように草丈も割合低く、他の百合と違って、いつも花は一つか二つの小ぶりなのを、
つつましげに咲かせているのがいじらしい感じだ。



             *


今年の夏のテーマは白い花だった、かな。
それでは最後に、真っ赤な私を。^^



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彼岸花さん

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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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