『キャンドル・ナイト 47』

47回目のキャンドル・ナイトだ。
回を重ねるごとに、悲しみが深くなっていくのはどうしてなのだろう。

どうしてこうなるのだ?!

願う方と反対の方へ方へと国が突き進んで行くのは。


溜息つきつつ今日も小さなろうそくを灯す。


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小さな陶器の皿に水を張り、正月から生き続けている水仙の花を活ける。
さすがにもう元気がないので、短く切って挿してやった。
これであと一週間は生き続けるだろう…

活けてから4時間たったが、切り戻してやったせいで、心なしか、元気を取り戻したようだ。
6つの顔が、今、これを書く私の方を見つめている…

もう少し…もうすこし、一緒にいようね。

まだ残る清冽な香り…














                       
心ひとつに キャンドルナイト







南亭さんバナー②


葉っぱさん、れんげちゃん。NANTEIさん。
今月もバナーお借りします。











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『共に生きるということ』

湯川さん、後藤さん…そして、ヨルダン軍のパイロット、ムアーズ・カサ―スベ氏、
そしてサジダ・リシャーウィ死刑囚と…次々に4人の命が消されてしまいました。
ISILの残虐性は到底理解しがたいものです…
人間が人間に抱く憎悪。…その激しさに身震いしてしまいます…
同時に、国家とか政治・思想・宗教集団などといった大きなもの…『大義』というものを振りかざす
大きな集団の陰で…、小さな個人の命がいとも無造作に奪われたり、その最低限の
尊厳さえ担保されないことのなんと多いことかと、悄然としてしまいます。

憎しみは憎しみを生む…武力を武力でもって掃討しようとする…それがまた憎しみを
増幅させていく…どこまで行ってもきりがありません…
死んだ後藤健二さんは、2010年9月7日付けの自分のTwitterにこんな言葉を残していたそうです。

『目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。
憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった』


私もまた、ここ数日は、悲しみのあまり、怒りに身を任せてしまっていました。
しかし、怒りをぶちまけるだけの記事は、これも『テロに屈しない』などという決まり文句と同じように、
何も生み出さないのでしょう……
このブログの原点に還り、前からずうっと書こう書こうとしていて先送りになっていた記事を
書いてみようと思います。


                       ***

みなさん。私のブログの右側の方の、プロフィール欄の下に、『ペシャワール会』の
URLが貼り付けてあるのにお気づきになられましたでしょうか。
実は、昨年12月から貼り付けています。
湯川さんや後藤さんのことを知る前…そう。実は、1年半前の夏、私は日本人が
戦前、戦中、戦後をどうふるまったかということに遡及して、再びきな臭い戦争の匂いの
し始めた今を考える手立てにしようと、戦争文学についての記事を書いていました。
その第1回が火野葦平の『土と兵隊』『麦と兵隊』についてだったのですが、
ここを訪れてくださる方々の中には、ご記憶の方もおいででいらっしゃると思います。

その、『麦と兵隊』についての記事の最後に、私は、火野葦平の甥にあたる医師、中村哲さんの
ことについてちょっと触れ、いつか中村さんについて書きたいと記しています。
http://clusteramaryllis45.blog61.fc2.com/blog-entry-1286.html

ずうっと、中村哲さんの活動を紹介したいと、記事を心に温めていたけれど、
いよいよ書くときが来たように思います。
それは、中村さんたちの活動が、今回のような、過激武装集団によるテロをどう食い止めるのか、
どうすれば根絶の方向に近づいて行けるのか、武力によって掃討すれば問題は解決するのか、
それともただ手をこまねいて、遠くから日和見していればいいのか、…などといった難しい問いへの
一つの『解答』とは言えないけれども一つの『示唆』であるように、私には思えるからです。

以下の紹介文は、主としてペシャワール会のホームページと、中村哲さんの著作
『天、共に在り』などからのまとめです。
お断りしておきますが、中村さんたちの活動は、特定の宗教や政治思想…国家、
人種、民族などの垣根を超越して行われているものです。
ある政治的志向を持つ(漠然としたものですが)私が勝手にここで取り上げているからと言って、
イコール中村さんたちの活動では決してありません。私のこの記事が、もし特定の方向へ
傾いて読めるとすれば、それは私の書き方が悪いのであって、ペシャワール会とは
関係ないものであることをお汲みおきください。
 

                        *

中村哲医師。1946年福岡生まれ。九州大学医学部出身 。
ペシャワール会は、その中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で、
1983年9月に結成された国際NGO(NPO)団体である。

1984年、中村医師は、パキスタンのペシャワール・ミッション病院ハンセン病棟に赴任。
きっかけは、1982年、彼が上記病院を見に行って、あるドイツ人の女医と会ったことだった。
彼女はカトリックのシスター。20年間をパキスタンのハンセン病診療に捧げている人だった。
当時のパキスタンには全土で2万人もの患者がいるのに、ハンセン病専門医は
わずかに3名という状況。ペシャワール・ミッション病院のあるパキスタン北西辺境州でも
登録患者だけで2400人、実数は5倍以上という中で、専門医はいないという状況だった。

中村医師は、シスターからの依頼を進んで受け、ミッション病院のハンセン病棟担当医に
なった。患者2400名に対し病床は16。ピンセット数本と聴診器1本という装備しかない。
そのような圧倒的に医療器具や手術設備が不十分な環境の下で、彼は10年間
診療活動を続けた。

中村医師がミッション病院に赴任した1984年頃。ペシャワールのすぐ向こうの
アフガニスタンでは、凄惨な内戦が続いていた。
1978年に誕生したソ連寄りの共産政権下では、政府に反対するイスラム主義者への
激しい弾圧が行われていた。これに対して反乱が全国に拡大。
ソ連は、政権の危機と見て、1979年12月、アフガニスタン侵攻する。
ソ連=共産政府は、農村共同体を封建制の温床と考えて、これを徹底的に破壊。
アフガン農村の約半分という5000もの村落が爆撃によって破壊され、直接間接の死者
200万人もを出した。農民たちは国境を越えて避難。1985年までにパキスタンに
270万、イランに150万以上もの難民が逃れたという。
共産主義政権とソビエト連邦軍に対し、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)と呼ばれた
抵抗運動の兵士たちが戦った。ソ連側の圧倒的近代的火器兵器に対し、抵抗運動の
兵士たちはライフルで戦っていたという。
1984年、アメリカは武器支援法を可決して軍事介入。ペシャワール郊外に軍事訓練施設を 置き、
CIA・パキスタン軍部の協力で『国際義勇軍』を組織。ここに20以上のイスラム諸国から来た
20万人の義勇兵が加わった。サウジアラビアの駐アフガニスタン公式代表となったのが、
ウサーマ・ビン=ラディンである。

中村さんたちは、1986年、パキスタン国内のアフガン難民への診療を本格的に開始。
更に、
アフガニスタン国内にも活動範囲を広げ1991年12月、その拠点として、ダラエ・ヌールに
最初の診療所を開設。以来、
アフガニスタン北東部の3診療所を中心に、山岳無医村での医療活動を始めた。

ハンセン病多発地帯は、腸チフス、マラリア、結核、アメーバ赤痢など他の感染症の
多発地帯でもある。ハンセン病の人しか診ませんというわけにはいかない。
ハンセン病の患者の出身地は、山岳地帯の無医村が多い。それで、そういう山岳地帯の無医村に
ハンセン病も、一般診療も行う病院を作ろうと考えたのである。

1989年。ソ連軍が撤退。200以上もの国連組織やNGOがペシャワール入りして
さまざまな支援活動を開始した。
(しかし、1991年、湾岸戦争がはじまると、それらは瞬く間に引き揚げ。)
1998年。中村さんたちは、恒久的基地病院として
PMS(ペシャワール会医療サービス)病院
をパキスタンのペシャワールに建設。
当時のアフガニスタンの政治情勢は、ソ連撤退後の長年の内戦で、無秩序状態にあった。
ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)のアフガニスタン・イスラム国が成立したが、内戦拡大。
タリバンがパキスタンの北西辺境州から勢力を拡大。
1996年、タリバンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。
アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反タリバンで一致、
北部同盟となる。この頃、スーダンを国外追放をされた、ビン=ラーディン率いるアル・カイダが
アフガニスタン国内に入り、タリバンと接近。
1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでタリバンが勝利、アフガン全土の9割を掌握した。
ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カイダ引き渡し要求を
タリバンが拒否したためにアメリカとの関係が緊張化する。
タりバンは、2001年9月の米国同時多発テロ事件のころまでに国土の大部分を
支配するに至っていた。

2000年前後。中央アジアは深刻な旱魃にさらされていた。
アフガニスタンでは最も被害が甚大で、人口の半分以上の1200万人が被災。
食糧生産は半分以下になり農地の砂漠化が進んで、400万人が飢餓線上、100万人が
餓死線上という事態になった。
農民たちは村を棄てて流民化。

「もう病気治療どころではない。水だ!」
栄養失調で抵抗力を失った子供たちが、川にかろうじて残った泥水を飲む。
下痢症などの腸管感染症にかかって命を落として行く…

中村さんは、病院の方は一応安定して機能しだしていたので、清潔な飲料水の獲得に注力していく。
その大干ばつに見舞われたアフガニスタンの村々で水源確保事業
を開始。
2006年までには最終的に
飲料用井戸約1600本を掘削。
それには、中村さんを助ける日本人青年たちだけでなく、現地の人々がタリバン、
反タリバンを問わず、こぞって協力した。
おかしいのは、井戸を掘るのに、掘削機で穴を開けたところへ爆薬を詰め粉砕するのだが、
中村さんらは,ロケット砲や地雷の不発弾を見つけては、火薬をそこから掻き出し、
『平和利用』した、というのである。そして作業には、内戦中に爆破が得意だった
元農民兵(ゲリラ)が大いに役立ってくれた、というのである!
これで、実に数十ケ村の人々が、離村をしないですむことになったのだという。

しかし、水だけではひとは生きていけない。食糧がなければ現金収入を求める出稼ぎ農民たちは
減らない。『傭兵』として内戦に仕方なしに関わっていく農民も減らない。
元来アフガニスタンは、農業国家であった。正確には掴めないが2400万くらいともいう
人口の8割以上は農民、遊牧民が1割、その他高山で林業に携わる者が数パーセント。
戦乱に陥る前はほぼ100%自給自足できていた民であった。
それが、長年にわたる侵略や内乱、そして旱魃などで、家々は破壊され、田畑は砂漠化。
食糧自給率が50%ほどに落ち込んでしまったのである。
食糧自給率50%と言っても、日本などのように農業以外の産業がたくさんある先進国と
殆ど農業で生きていっている他に産業のない国とではわけが違う。

中村さんたちは、砂漠化した田畑を回復することを次の目標にした。
ダラエヌール渓谷を中心に、農業用灌漑用水を得ることに着手。直径約5mの
灌漑用井戸13本
を掘削、
伝統的な地下水路カレーズを38ヶ所で修復した。


これで20数万名の人々が村を捨てずにすむことになった…

危機的な旱魃に対する国際救援は動かない一方で、国連安保理事会は1999年、
テロ行為の防止を目的とする決議を採択。タリバン政権に対しビン=ラディンと
アル・カイダ幹部の引渡しを求めた。しかしタリバンはこれに従わず、経済制裁が
行われることになった。
2001年1月。米英はアフガニスタンの国連制裁を強化する。食糧まで制裁することになった。
タリバン政権は、これに反発。過激な主張が力を持つようになった。
バーミヤンの仏像破壊が行われたのは、こうした中でであった。

2001年9月。アメリカ同時多発テロ。
米英のアフガン報復爆撃が激化する。事前に国連決議を必要としない集団的自衛権
の発動であった。
日本でも『テロ特措法』を成立させ、イージス艦をインド洋に派遣して給油活動に参加。
中村さんは、国会に招致されて、現地の事情を訊かれた。当時、日本は、『難民キャンプで
救援活動するNGOなどを守るために、自衛隊を派遣する』ことが検討されていたからである。
中村さんは、自衛隊派遣は有害無益、それより飢餓救援をと訴えるが、自衛隊派遣の
結論ありきの衆議院特別委員会には聞き入れられなかった。

政治は動かなかったが、しかし、ペシャワール会の呼びかけにこたえ、六億円にもなる
寄付が人々から寄せられた。中村さんたちは小麦と食用油を大量に買い付けて配給にかかる。
2001年10月、「アフガンいのちの基金」を設立し、空爆下、アフガニスタン国内避難民への
緊急食糧配給
を実施し、2002年2月までに15万人に配給。

10月7日。アメリカ軍が『不朽の自由作戦』の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。
中村さんによると、『ピンポイント攻撃』の実態は、『無差別攻撃』であったという。
市民たちは徒歩、タクシー、馬車で日夜市中を逃げ回った。タリバン政権の武器はライフルや
刀剣、対戦車砲以外にたいした武器を持っていなかった。
ほぼ無抵抗のものを相手に戦争が演出されるのを、中村さんは目の当たりに見ていた…
中村さんの記述を借りる。

『世界が捏造と錯覚で成り立っていることに愕然とせざるを得なかった。(中略)
いかに粉飾しようと、この戦争のツケは、暴力的報復として、やがて現れるだろう。
爆風で散乱した両親の死体を拾い集め、両親の屍に取りすがって泣いていた子供たちの
姿が心に焼きついて離れない。彼らが長じたとき…不憫な思いと共に、うそ寒いものを
感ぜざるを得なかった』


11月。カブール陥落。タリバン政権は消滅した。12月。ハーミド・カルザイを議長とする
暫定政府、アフガニスタン暫定行政機構が成立。

中村さんは、そうした首都カブールなどを中心とした政治の激動に関わりなく動いていたが、
それでもその活動も国連を中心とした復興支援ラッシュに翻弄される。
海外の援助団体が大挙押し掛けて大金を落とすと、極端な物価高騰が起こった。
基本物価は高騰し、さらでも貧しく食糧の少ない民の生活を直撃。
もともと少ない医師や技術者は乱立する他のNGOなどに高給で引き抜かれるなど、人材の
奪い合いも起こった。
2002年。中村さんが1991年から活動を続けていた奥地での3つの診療所のうち、
2つが、そうした医師や検査技師たちの引き抜きにあって、閉鎖せざるを得ないことになった。

その間も、旱魃と飢餓は続いていた…中村さんたちが掘った井戸も、水位が下がってきていた。
彼等が水確保に活動していた東部アフガニスタン、ナンガラハル州は、かつて豊かな穀倉地帯であった。
ケシュマンド山系、スピンガル山脈に挟まれた地形で、標高4千メートルを超す山々の
万年雪の雪解け水が、山麓をうるおしていたからである。
西にはカブール河、北からはクナール河が注ぎこみ、そこから取水していた。
しかし、地球温暖化によって万年雪が減少、氷河消失が進む。さらに春から夏の気温上昇で
一気に雪解けが起こってそれは大洪水となってあっという間に流れ去ってしまう。
日本における森林が果たしているような保水とコンスタントな水供給の役割を
万年雪や氷河がここでは果たしていた…その自然のシステムが狂ってきてしまったのである。
そこへもってきて少雨が重なり、困窮した農民たちは、アヘン栽培に手をつけるようになる!
ケシは乾燥に強く、小麦の100倍もの現金収入を得ることができるからである。

タリバン政権崩壊後も、治安維持のために米軍はアルカイダ掃討作戦という名目で
駐留を続けていた。モスクや学校などへの誤爆も後を絶たない。
農地を棄てた流民の群れは大都市に流入、さらには国境を越えて難民化していっていた。
中村さんは、アフガンの民を救うには、農業用水を確保して、砂漠化してしまった農地を
蘇らせるしかないと考える。
空爆下の食糧配給のために寄せられた『いのちの基金』約6億円で、農業復興に
全力を注ぐことを決意する。

(1)試験農場・・・乾燥に強い作付の研究
(2)飲料水源事業・・・現在の事業を継続。総数2000か所を目指す。
(3)灌漑用水事業・・・①枯れ川になった地域の井堰・溜池の建設
              ②大河川からの取水、第一弾としてクナール川ジャリババから
               ナンガラハル州シェイワ郡高地まで13キロメートルの用水路建設
               最終的に取水口からガンベリ砂漠まで約25キロメートルまでに延長。
               現地の人々に『死の谷』と恐れられているカンべり砂漠の一部を緑化する。

という壮大な計画を立てるのである。

25キロ、と一口に言うが、いったいどのくらいの距離であろう。
東京駅を起点にして、中央本線の距離でざっと考えてみると、
東京ー神田ーお茶の水ー水道橋ー飯田橋―市ヶ谷―四ツ谷―信濃町―千駄ケ谷
ー代々木ー新宿ー大久保ー東中野―中野―高円寺―阿佐ケ谷―荻窪ー西荻窪
―吉祥寺ー三鷹―武蔵境
この武蔵境で、25,7キロである…。

日本人が日本でするような河川工事を想っては、この計画の大変さは理解できないだろう。
日本には『圧倒的な物量と機械力、精密な測量と理論的研究を誇る、世界屈指の公共土木技術』
がある。
しかし、中村さんたちにはそのいずれも無かった。
まず、土木工学の専門家など周辺にいない。中村さんは医師である。その医師である中村さんは、
一から土木工学の基礎を学び始めた。基礎的なコンクリートの打設作業、セメントや鉄筋組みの
イロハ、流量計算や流路設計の書物を読み解くのに必要な数学…

けれども、仮に、日本の優秀な土木技師たちがいても…、圧倒的な物量、土木機械や資材が
手に入れられても、このアフガンの地で役に立つとは必ずしも言えない。
先進国のこうしたインフラ援助によくありがちな光景だが、一気に水利施設や学校や…、
といった構造物を作るのは容易なのである。
問題は、それら先進国と言われる人々の支援の去った後の、『維持管理』の方である。
例えば、せっかく水利施設を造営しても、日本だったら簡単に手に入れられるような
部品一つが壊れてしまったら、現地の人はそれを手に入れられないのだから、それでお終い、
ということになる。修理、維持の出来なくなった『先進国からの贈り物』は、ただの廃物廃墟でしか
なくなってしまう…
修理、維持、管理を現地の人々自らが長く続けていけることの方が難しくて大事なのである。

中村さんは、そうした『国際援助』というものの支援のありかたの、時にちぐはぐで
あることをよく知りつくしている…
中村さんたちがアフガニスタン東部奥地でやっていた3か所の病院のうち、2か所を
閉鎖せざるを得なくなったのも、国際援助ブームによる物資の高騰や人材の奪い合いという
こともあったけれど、中村さんたちの病院も政府の意向で『国際医療援助(AMI)』という
組織の傘下に入ることを余儀なくされ、そこでは米国国際開発局のルールが大半はコピー
されて行われることになったということもあった。
ルールに曰く、『分娩室を設置すること』。しかし、現地の実態は、農村では診療所が参院の役割を
する習慣はなく、家庭分娩が普通なのである!誰も来ない分娩室の無駄・・・

いつか自分がいなくなっても…現地の人々が、現地にある資材で半永遠に維持していける灌漑施設を…。

中村さんは、現地のは無論、日本の昔からの水利施設を徹底して研究し見てまわった。
故郷福岡県の筑後川、矢部川、熊本県の菊池川、緑川、球磨川沿い…
…そうして、コンクリートの代わりに、『蛇籠(じゃかご。ふとん籠)』というものに辿りつく。
蛇籠というのは、昔の日本人が、竹で籠を編み、そこに石を詰めたもの。それで造岸して
いくのである。蛇籠を積み上げた背面には、柳を植える。すると無数の毛根が、蛇籠の
石の間に伸びて、蛇籠の強靭性を増してくれるのである。
日本に無数にあった竹はないけれども、針金さえ手に入れれば蛇籠は容易につくれる。
このやり方なら、アフガニスタンに無尽にある石や岩を資材として何よりコストがかからないし、
現地の人々が自分たちで容易に修復できる。しかも、石で家を作り、井戸を築き、
水路を築いてきたアフガンの農民たちは、皆が生まれついての石工である!
柳の根っこでしっかり結びあわされた蛇籠は、小さな魚などの住みかともなり、生物多様性まで
生むのである!

クナール側の夏の大洪水にも備えなければならない。用水路の取水口が壊れたり、
大量の土砂が水路に堆積したりすることを防止するにはどうしたらいいか…
中村さんは、坂東太郎(利根川)、四国三郎(吉野川)と並んで、日本三大暴れ川と
言われるもののひとつ、福岡県筑後川(筑紫次郎)の山田堰を研究する。
取水口に一気に水が押し寄せないようにする用水路、そこへ導く地点の水量を
和らげるための『斜め堰』の考え方…、『舟通し』や『土砂吐き』の仕組み…
綺麗な水をとるため、流水量を調節するための『堰板方式』の採用…
『溜池による貯水』……。学ぶこと、やらなければならないことは山ほどあった。

中村さんの計画の要諦は、農民たちが、用水路の修理、維持管理を続けていけることである。
でも、自分たちが…中村さんがいなくなったら…
そうなっても、地元の人びとが自分たちで用水路を維持し、田畑を守ってそこで
生活を続けていける仕組みを構築しておかねばならない…
中村さんは、用水路の終点、ガンベリ砂漠を緑化して、そこに村を作り、その村に
自分たちが技術指導し、自分たちと一緒に働いてきた農民たちを定住させることにした。
彼等が水路の終点にある自分たちの農地を守るためには、25キロの水路を
守らなければならない…一連の技術を習得した彼等に後を託すことによって、
彼等が後継のものたちに技術伝授をし…半永久的に水路を守っていける…。
そう考えての知恵である。
毎日、5~600名もの現地の人々が中村さんと働いた。

その間、米軍による誤射事件、地方軍閥の妨害、反米暴動、技師たちの脱走、
裏切り、盗難、内部対立、対岸の住民との角逐、用地接収を巡る地主との対立…
大洪水…大変なことも山ほどあった。信頼する日本人スタッフの青年、伊藤和也さんが、
誘拐殺害されるという悲劇もあった……
アフガンの治安の悪化も鑑み、計約50名の日本人スタッフを帰国させ、途中からは中村医師だけが
残って現地の人々と作業を進めてきた…
彼が30年で築き上げた人びととの信頼の絆と人脈が、さまざまな交渉事や、危険から身を守ることや
作業の組織化や…あらゆることで中村さんを支えた。

しかし、そうした数々の、言うに言い尽くせぬ困難を乗り越え、2007年、ついに第一期工事終了。
クナール川から13キロメートルの水路が完成し、途中の地を潤して、1200町歩の広大な田畑が復活した。
20年以上無人だった荒野に農民たちが帰ってきて、家々が建ち並び始め、村々と緑の田畑が
忽然と姿を現した、のである。
第二期工事は、その水路をさらに10キロメートル延長して、さらに2000町歩の緑地を
回復し、最終的には、ガンベリ砂漠に横断水路を作り、砂漠に広大な開墾地を作るというものだった。
2010年2月、クナール川から取水して、マルワリ―ド用水路を経て、ガンベリ砂漠を潤してから
再びクナール川に戻すという、延々25キロメートルの灌漑水路、プラス分水路16,7キロを作る
という壮大な計画は、2003年から実に7年の年月をかけて完遂された。

一日送水量40万トン、灌漑面積3120ヘクタール(町歩)、大小の貯水池12、水道橋5、
サイフォン12、地下トンネル水道1、橋梁26、取水門1、分水門33。

総工費約14億円は、ペシャワール会に寄せられた会費と寄付金で賄われた。
仲村さんはさらに、子供たちが安心して遊べるところ、人びとが集まれるところを…と、
学校も、モスクも建設している!

2014年。用水路流域には15万人が帰農
流水路沿いの砂防林は20万本の樹々。農地には2万本の果樹。さまざまな穀物、野菜、薪や建材、
家畜を飼う草地…、という緑の大地が出来たのである。

それはもう、この写真の上下の変化を比べて見ていただけば、私などがくどくど説明するより
一目瞭然、であろう。


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ぜひ、この下の映像を見て欲しい。
自分たちの村にもう一度住みたい…そこで家族とつつましくても暮らしていける
水利のある農地が欲しい…
山を越えて出稼ぎに行ったり、国境を越えて流民になったりしなくていい、
傭兵になったりしなくてもいい、当たり前の静かな暮らしが欲しい…
人びとの切羽詰まった真剣な想いが伝わってくるはずだ。
何よりも人々の気持ちの現れているのが、作業をしている時の彼等の顔の明るさだ!
その生き生きとした働きぶりだ。
作業には、日当も支払われた。日当を貰って、振り返り振り返り帰って行く
人びとの顔の嬉しそうなこと!
アフガニスタンは多民族国家である。パシュトゥーン人、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、
トルクメン人・・・
人々はほぼムスリムで、中村さんはクリスチャンである。
国や、民族や、宗教の違いがなんだというのだろう……


http://youtu.be/0Ed0cYN7iYw
http://youtu.be/gKGsnIXUzMk
http://youtu.be/H5jwEgsb6Yg
http://youtu.be/ztP_QP0k0sI

『緑の村と学校を作る(1)』
『緑の村と学校を作る(2)』


                    ***


中村さんの活動は、現地の人々の手で、主に現地にある材料で、しかも壊れても
自分たちで半永久的に修復して使い続けていけるというシステムの、実りある先例をこうやって作った。
だが、中村さんらの手だけでは、アフガニスタン全土の復興にはとても足りるものではない。
大旱魃や洪水を前に瑣末な政治論議は無用。そう考える中村さんは、ODAの支援も借りて、
これから、ペシャワール会が独自で実現したマルワリ―ド堰、シェイワ堰、カマ第1堰に加え、
カマ第二堰、ベス―ド堰、カシコート堰と、周辺地域の取水設備の整備を共同事業。
ジャジャラバード北部3郡、計16500町歩の耕地復活と、65万人の農民の生活安定を
目指して、今も活動中
である…

中村さんの言葉。

『PMS(ペシャワール会)の事業は、一農民から大臣に至るまで、政府・反政府という
政治的枠を超え、幅広い人脈に支えられてきたと言ってよい。国境も人種も身分も超えた
協力が、事業に結集していたと言っても過言ではない』
『私は、ここに人間共通の、尊い何ものかを見る』
『平等や権利を主張することは悪いことではない。しかし、それ以前に存在する
「人としての倫理」の普遍性を信ずる。そこには善悪を超える神聖な何かがある』



    

                 【ペシャワール会】
                  http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/

                誰もが押し寄せる所なら誰かが行く。
                誰も行かない所でこそ、我々は必要とされる。





『 私たちに突きつけられたこと』  

朝5時過ぎ。ラジオからその悲しい知らせは耳に入って来た。

なんとも言えない悲しみが胸を満たす…

湯川さん、後藤さんと、そうしてご家族の方々にお悔やみを言うべきなのだが、
憤怒のあまり、その言葉さえ、今は出てこない…黙って頭を下げるしかできない…

その憤怒は、このような残酷が平気で出来る武装集団へ向けられたもので無論ある。
が、それと同等に、安倍政権をふたたび選んでしまって、今、何もできない
自分を含めた国民に向けられたものでもある。

経済至上主義と弱者の切り捨て。それはTPPの本質を見ればよくわかるように、
弱者のつつましい経済活動を破壊し、強者がますます富を蓄積するための巧妙かつ壮大なシステムである。
それが国内でも、グローバルにも、深く広範に強力に行われていくことによって、
貧困層を大量に生みだす…
それは、過去の西欧列強による植民地政策などを見ればわかるだろう。
貧困層は、同時に教育の機会も奪われがちである。
教育を受ける機会を持たぬ、あるいは乏しい、ということは、概して貧困層が
厳しい経済競争の社会において、貧困層から抜け出せぬということだ。つまり、
教育においても負の連鎖が続いていくということだ。
負の連鎖から抜け出せぬとわかった時、ひとのこころはどこへ向かうだろうか?
教育は、社会の構造の矛盾を教える。社会の構造の矛盾を知れば、ひとの怒りは
非暴力による、社会のより良き変革へと本来向かうはずだ。

だが、負の連鎖に対してたたかう言葉も持たぬ人びとの怒りはどこへ向かうか?
得てして、それは、自分たちを苦しめている権力に対してではなく、自分よりさらに弱い
存在…社会の中の弱者や、女子供…そして政治やマスコミが誘導する仮想敵に
向かって、直接の暴力や言葉による脅迫、示威行動などという形で時に現れていく…
或いは、一見強そうなもの、…それは時の権力であったり、武装暴力集団であったりという
外見の強そうなものに自分を仮託して、自分が強くなったような幻想にすがることで
自分の怒りを昇華しようとすることもあるであろう。

武力に対して武力を持ってする。
その方針の間違っていることを、私たちはこれまでいやというほど見せられてきている
ではないか。今回もまた、二人の同胞が(あえて『同胞』という言葉を使いたい)、
過激武装集団によって殺害された。
『テロに屈しない』というむなしいことばだけを繰り返していたわが政府。
人質が現実に捕われ命の危険にさらされているときに、『テロに屈しない!』と
表立って昂然と突っぱねれば、テロリストがどういう反応に出るかはわかりそうなものじゃないか。
そんな勇ましい言葉は、お二人が無事に戻って来てからいくらでも言えばいい。
安倍首相のカイロでの、
『イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を
少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、
総額で2億ドル程度、支援をお約束します』
という、笑顔での演説が、捕えられていた二人の身代金要求(…そして結果的に
二人の殺害という悲劇)に、口実を与えてしまったことは考えられないか。
2億ドルという要求額が、その演説をヒントにしたことを示してはいないか。
それでなおかつ、この政権は、これからさらにテロとの戦いを続けて行く、『罪の償いをさせる』
などということを勇ましく宣言。『罪の償いをさせる』ということはどういうことか。
テロリストを武力をもって鎮圧するという有志国連合に、日本は積極的に加担していくぞ、
ということだろう。
自衛隊の中東への常駐を正当化する恒久法制定に、この二人の国民の死を
利用しようとしさえして行くだろう!
そんな言葉や政策が今後日本国民にどういうことをもたらすのか。

『イスラム国』のような残虐な武装集団は、この世界から無くしていかなければならない。
だが、それは武力によってでは決してできないだろう。
そのような人々が生まれてくる温床を失くさなければ、テロはこれからもずっと続く。
中東に…アフリカに…中南米に…日本に…テロ集団が生まれるその背景を勉強してみよう。
深い深い、どうしようもなく絡みに絡んだ怨嗟の歴史と、社会の病理が見えてくるはずだ。
その怨嗟の歴史はあまりに根が深く、人はこれを断ち切ることはできない!と絶望してしまうであろう…。
だが、人間はそれを非暴力でもってやり遂げなければならない。
『イスラム国』が私たちに突きつけた『お前たちは十字軍に加担するのか?』という問いは、
ある意味で正しい。
アメリカ、イギリス、フランス、旧ソ連、スペイン、ポルトガル、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、
…などが中東やアフリカで、長い歴史の間にした来たこと…中南米や南米でしてきたこと…
そして日本までもが加わって、アジア、太平洋の諸島でしてきたこと…
その歴史を直視してみてごらん。
この、湯川さん、後藤さんという二人の日本人が、斯くも無残に殺されたということになった日の
朝刊には、ドイツの元大統領ワイツゼッカー氏の死が報じられていた。94歳。
第二次世界大戦終結から40周年の1985年5月8日、連邦 議会の演説で
『過去に目を閉ざす者は、現在も見えなくなる』と、歴史を直視することを訴えたひと。
またこの26日には、1990年~91年の湾岸戦争をきっかけにして生まれた
『9条の会』設立の呼びかけ人の一人、憲法学者の奥平康弘氏が、集団的自衛権行使と
憲法改悪に急速に傾いていく祖国をその死の本当に前日まで心配しながら亡くなられた。85歳。
…戦争の悲惨を知り、歴史をしかと直視することの大事さを知リ、それに学んで
2度と同じ間違いを繰り返すまいと訴える人々が次々に亡くなって行く……

今朝の朝日新聞アンケート結果では、憲法改正に賛成、どちらかと言えば賛成を合わせて
国会議員のなんと85%、国民では33%もいるという記事が出ていた。
国民の33%が!
ちなみに、改憲反対、どちらかと言えば反対は、合わせて31%である!
そんなに少ないのか!

憲法を変えたいという人々が、ターゲットにしているのは、9条と96条であるという。
だが、自民党の改憲案は、そこだけがひどいのではないということを、ようくよく覚えていて欲しい。
自民党の改憲案の骨子は、自衛隊の武力行使、要するに海外で戦争ができるようにすることと、
『国民は、国に従え』という、国民主権の理想の廃棄である。
国民の上に国家がある…そしてその国家の名を騙るのは、時の政権である!
時の政権が最上位にあり、国会や司法でさえ、そうして社会の木鐸たるジャーナリズムや
教育の府の自由さえ国家がコントロールできる、そういう社会を目指そうとしているのだ。
時の政権が愚ならば、国民は容易にその諸権利を剥奪され得る…
今回、アメリカ追随の国策が先にあって、湯川さん、後藤さんの命が優先されなかったように。
この悲劇と同時進行している、辺野古の海での国家の横暴も見よ。
沖縄の人々がまたしてもその理不尽に泣いている。
憲法24条、あのベアテ・ゴードンさんが男女の同権を願って、入れてくれた条文だが、
自民党改憲案では、『第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。
家族は、互いに助け合わなければならない』となるのをご存じか。
家族が助け合うのは当たり前である。だが、これを憲法に書きこむことによって、
家族の困窮した時にそれは自己の責任であって、国に頼るな、自分たちで解決しろ、
とりわけ女性は、家庭内にあって、婦女としての責任を全うしろ、という、国家の棄民策とも
言うものが、国家の意志として実行されていきかねない恐ろしさをはらむものであることを。

国民はそれでも、安倍政権の危なっかしい経済政策の束の間の好況のおこぼれが
いつかいつか自分にも巡ってくることを望む、そんな不確かなことただ一点で、
このような政権を今後も支持し続けていくのか?

悲しい現実だが、これで日本は、世界に向かって、日本は文字通り『十字軍の側』に立つ
ということを宣言してしまった。
世界は、武力行使による紛争解決という愚かな行為をこれからもますます続けていくのであろう。
怨嗟は怨嗟を生み、暴力は暴力を生む。永遠の負の連鎖だ。
もう、日本人も、『私達には関係ないです』と、知らないふり見ないふりをしていることは
できなくなってしまった。

私たちは、このまま、有志国連合の一員として、武力で世界を変えて行く、という
側に与していくのだろうか?
それとも、どちらの側につくとかいったことを超えて、人類がこの小さな地球の上で、
本当に『ヒト』同士だけでなく、地球の自然環境とも共生していくという道を選ぶのだろうか?


…深い深い悲しみをもって、お二人の死を悼みます…















『           』

言葉がこんなに無力に思えることはない。

後藤さんも殺害されてしまった……

胸の内に渦巻く憤怒。

 
プロフィール

彼岸花さん

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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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