『ブルームーン』



今夜は、三年ぶりにブルームーンだ。

…ああ…前にブルームーンの記事書いてから、もう三年になるんだなあ…

ひと月のうちに満月の日が2回あると、その後の方の満月をブルームーンという。
ブルームーンに願い事をするとそれは叶えられるという…

この頃、俯いて歩いてばかりいて、以前のように、青い空も夜の月も見上げなく
なってしまっていた。
さっき、自転車を取り込みに外に出て、明るい月の光に驚いた…
そっか…今夜はブルームーンだっけなあと…

まあ、余計なことはつけ加えまい。
イギリスのジャズシンガー、ダイアン・ショーの大人の唄声で、聴いていただこうか。














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『いいなあ!栄村!』


最高だ♪




『この国の行方 ⑥-1』

また、『この国の行方』のシリーズに戻ろう。
これまで6つほど、私自身の考えを述べることなしの、引用記事を並べて来た。
それらは皆、国内外の学問研究に携わる人々や弁護士会などからの、安倍政権への
危惧と忠告の緊急会見やアピールとその要旨である。
こういうものが次々と発せられる今の政治状況について、私の考えを書いておく。


9.『知』の否定 其の一』

歴史修正主義、など、安倍政権の特徴を表す言葉はたくさんあるが、安倍政権の特徴の一つに、
『反知性主義』というようなものを、失礼だが私はどうしても感じてしまうのである。

断っておくが、『知性』という言葉で、私は、単なる学歴とか知識の量とか頭の良さとか、
そういった表面的なことを意味していない。

安倍首相とその周辺の『反知性主義』と言って私が意味するところのものは…
なんというのかなぁ…『人智というものの軽視』とでもいおうか…


人類は、何千年もかかって、幾多の知恵を蓄えて来た…。
人を殺さない、戦争をしない、他人のものを欲しがらない・奪わない、女性を強姦しない、…
約束を守る、嘘をつかない、他人を恫喝しない…などという、それこそ人間が生きていくうえでの
基本的原則のようなものから始まって、自由、平等、といった普遍的価値まで…
紀元前の昔のあまたの知恵者たちや思想家たちの深い考察。
数知れぬ名もなき人々の経験から生まれたいわば『経験知』、とでもいうようなもの。
そうして、近代の高度に体系化された哲学・倫理学、法律に至るまで……
『人はどう生きるか、人はどうあるべきか、という、人類の知恵の総体』、
というようなものがあると思うのだ。

それは、個々人が生きていく上の、時には憲法や法律のようにきちんと成文化された約束事であり、
また時には成文化などされていなくとも目には見えなくとも、明らかに個々の人々の胸のうちにある
いわば生きていく際の『条理』『道理』のようなものである。

だが、それは、ただ個々人が守っていくべきものであるだけでなく、同時に、一つの国家や、
一つの企業といったものも、人類が長い長いその試行錯誤の末に生み出してきたこういう
『知恵の総体』というものを軽視してはならないし、大事にして守っていかなければならない、
と私は思う。
私がここで言うところの『知性』とは、そういった深い意味での『人間の知恵の総体』といった
ものを意味している。

だが。
安倍首相とその取り巻き連のやり口を見ていると、この、数多の戦争や侵略、略奪や強殺、
強姦…貧困や病などなど…数えきれないほど多くの不幸の経験の過程を経て、人類が
多くの血と涙と汗を流した末に少しずつ育んできた知恵の総体、というものを、彼等は
どうにも無視・軽視しているとかそもそも理解していないと思われるようなことばかりしている
ように思えて仕方がないのである。

●日本がかつてアジア・太平洋地域において侵してきたあの侵略・戦争の否定と、あろうことか
時にその美化。(あれは自衛のためであったとか、アジアを解放するという崇高な目的が
あった、とか)

●韓国併合や台湾などの獲得、『満州国』建設と中国へのさらなる侵略。続く南方の国々への侵略。
これらにいったいどんな正義があろうか。これらを『侵略』と呼ばず 『進出』と書いて
どんな理屈付けをしようと、要するに、日本は、他人のものを欲しがったのである!
武力で他人のものを奪ったのである!
イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、スペイン、ポルトガル、オランダ…こうした西洋諸国は皆、
歴史上他国の土地を収奪してきたじゃないか、などというのは、日本がアジアでしてきたことの
正義化の理由にはならない。要するに、日本は、これらの国に遅れて他人の土地を収奪しようと
目論んだのである。
皆がやっていることだから俺もやる、というのは自らの行為の正当化の理由には
決してならない。そんなことは子供でもわかることだ!
●いまだに治外法権状態の米軍基地が県の面積の10%、本島だけで言えば、その18~19%
を占めている沖縄の問題をどう考えているのであろう?
●福島第一原発そして福島という郷土はどうであろう?
東電と国の原発推進政策策によって、放射能汚染で『うつくしまふくしま』は、失われてしまった…

人が生まれたところ、いま生きている場所で誰からも侵されず平和に生きていけること…
それがどれほど大事で、どれほど当たり前に守られるべきことか。その基本的なことさえ、
この政権はわかっていない。

●『女性を強姦していい』などと、誰が胸を張って言える?
そんなこととても言えまい? なぜ、戦時下なら許されるのか?
たとえその組織が民間の斡旋宿などであろうがなかろうが、日本軍が、従軍慰安婦の募集や
時に徴用を(暗黙のうちに)許し、ときには(公然と)依頼し、その収容や異動にそれこそ
公然と便宜を図り、軍ぐるみで朝鮮半島の女性だけでなく、日本人台湾人中国人フィリピン人…
南方諸島の娘たち…時にはオランダ人など白人の女性もを、日本国兵士や軍属の
性処理の相手にすることを組織、黙認、容認したことは、どうやっても否定の出来ない
歴史的事実である。
従軍慰安婦の問題は、相手が商売女だったらたとえ相手が抵抗しようと許される、
というような問題では決してなく、相手が金を受け取った貰っていないの問題でも決してなく、
またその行為者が、日本軍兵士であったから他国の兵士であったからなどという問題でも決してなく、
『どこの国でもやってるじゃないか』とか、『男とはそういうものだ』などと恥知らずな申し開きが
通用するような問題でも決してなく、戦時中という特殊な状況下だったのだとかいう言い訳が
効くような問題では決してなく、その行為者被行為者の男女の区別さえ実はなく、
『強姦してはならない』という、人間の根本的な規範そのものなのだ。
かつての日本軍の行為だったから責める、ISILの残虐だから責める、などというものではない。
男女という性の平等…いやそれすら狭い定義である…。およそ同じ人間としての尊厳を侮辱し
侵すものだから許されないということなのだ!

この、人間としての尊厳を侮辱し犯してはならないという根本原理をわかっていない人々…
韓国人従軍慰安婦問題を、どうしても過去の歴史の闇に葬ってしまいたい人々を、
私は、以上のような意味で糾弾したい。

●約束を守る。嘘をつかない。こんな、基本的規範でさえ、この政権は守らない。
それはこのポスターを見てていただければ、説明さえ不要であろう。

ポスター


TPPは単に農業問題(それは無論、食の自給率や安全性などの観点からものすごく大事な
問題であるのは当然のことだが)に限らない、日本という国の皆保険制度など
基本インフラの崩壊や、日本の自治権のアメリカ大企業による侵害、などという、底知れぬ
大きな危険をはらんだ協定なのである。
すべてが秘密主義で行われる中で、それに参加すれば、どれほどの利益があり、どれほどの
損失があるのかも、その概算さえ示されていない。民主党野田政権の頃、議会答弁で
いくらの利益があるという数値を示したことがあったが、例えば米作農家や牧畜産業農家
への損失補てんなど、損失と差し引きすると、その経済的メリッが低いのに驚いた記憶がある。
それに比し、失うものはどれほど大きいかしれない。
実際は。こんなことにもなりうる。
『日本農業 一人負け 参加国の輸出増 70%背負い込む 米農務省がTPP試算 (2014/11/13) 』

安倍政権に限らず、リベラル系新聞までが、TPPを、ある種の希望ででもあるかのように、
それが早く締結されることを願うような論調であることに、むしろ私は驚く。
そして。これは、どこでも誰も指摘していないことのように私には思われるのだが、
TPPは、日本の産業がアメリカ巨大企業群の犠牲になるとかいうだけの問題ではなく、
逆に日本が、弱い国々の産業を破壊し、その国のインフラを壊すことだってありうるということ。
TPPというのは、どこまでもシビアに容赦なく『強者の論理』で進められていくものである、
ということを忘れてはならない。


公平に言えば、TPPは安倍政権のみの責任ではなく、菅氏や野田氏など民主党政権にも
その責任が大いにある。
ただ。上記掲載の自民党ポスターは、これは明らかな、嘘である!選挙に勝つためだけの
時期、TPP断固反対などと謳って農家票を取り込むための重大な欺瞞である!
こんな大きな嘘を国民に対してつく政権を、どうして信じることができよう?



                      *

安保関連法制や、安倍内閣の歴史認識に関し、国内外の多くの学者たちや学生たちが
抗議声明や、憂慮の声明を出したということの紹介をした。 それは今も新たに出され続けている・・・・
私は、これらは、もうすぐ出てくるであろう70年談話や、集団的自衛権行使を含む安保関連法制に
対する直接の抗議と憂慮の表明であるばかりではなく、安倍政権という内閣組織の持つ
本質的乱暴さ、論理の粗雑さ…への危惧の念が、ここに来て一気に噴き出した
のではないかと思っている。
集団的自衛権行使、ということのみに特化して反対しているのではなく、安倍政権そのものの
持つ体質や思想に、国民が不安と懸念を抱いているということの表出ではないかと思うのだ。

言葉数は多い。だが、それは、この政権がほんとうは何をしたがっているのかを隠す
美辞麗句ばかりである。
安倍政権のワンフレーズは、極めて抽象的でちょっと聞いただけでは美しく聞こえるものが多い。
『美しい国、日本』『日本を取り戻す』『すべての女性が輝く』『アベノミクス』『三本の矢』…
そうして今回の『積極的平和主義』などなど…

だが。そうした一見美しい言葉の陰に隠れている思想はどんなものであろうか。
そもそも、安倍氏が目指す『美しい国』とはどんな国なのだろうか。

私が思う『美しい国』とは、稲作や漁業、林業などという一次産業を大切にして、
日本の美しい田園風景や海、森などを保全し、そこで人々が贅沢はさほど望まずとも
悠々と、安全に、生きていける国である。
(無論、工業や第三次、第四次産業を発展させるな、という意味ではない!)
だが、どうだろうか。福島第一原発事故は、その美しい日本の国土を…農地も山林も
海も空も…放射性物質で取り返しのつかない汚染させてしまった…!
私は稲作に限らず、農業は、その国の根幹だと思っている。国民が天災や異常気候などに
左右されることなく安心して安全な食を得ることができること。
だが、TPPは、グローバル資本主義に基づくアメリカ巨大産業の飽くなき欲望で、
日本の農業を根底から切り崩して行くであろう。
『美しい国、日本』という言葉でおそらく多くの人が思い浮かべる美しい稲田の風景などは、
この国から徐々に、しかし確実に、消えていくであろう…。
『美しい国』…日本の歴史や伝統文化を大事にする国、と安倍首相はまた言う。
だが、学校の式典で日本国旗を掲揚し、国歌を斉唱することを国家が強いるような国が
美しい国、なのだろうか?その際起立しない先生がいるかどうかを監視するような国が?
日本の伝統や文化を大事にするのはいいだろう。しかし、他の国の伝統や文化を尊重しなかった
過去の歴史を直視しない国が、美しい国と果たして言えるだろうか?

『日本を取り戻す』とは、誰から一体何を取り戻すのか。
GHQに支配されていた戦後の日本のあの屈辱の日々を、アメリカから取り戻す、
というのだろうか。それにしては、この、アメリカへの卑屈な追従ぶりはどうだ!?
沖縄の民などの日本国民よりも、まったくアメリカの方を向いてしまった外交姿勢はどうだ!?
安倍首相の『日本を取り戻す』とは、単に首相個人のやるせない想い…祖父の名誉を取り戻し、
祖父の出来なかった九条放棄を含む改憲を成し遂げること、という、個人的妄執なのではないか!?


●『すべての女性が輝く』社会をつくると言いながら、その女性観の貧困さ、蔑視はどうだ?
この政権が導入を検討していたが、当事者の女性たちから総スカンを食ってとりやめ?に
なっているらしいあの『女性手帳』の発想のいびつさはどうだ。
『女性には妊娠適齢期や産みやすく育てやすい年齢がある』ということが例え医学上
少しの真実があるとしても、国がそれを上から『女性手帳』というようなものの姿を
借りて全女性に押しつける、ということの無神経さ…
その他にも、この政権の一見女性を持ち上げているようでいて、実は、出生率(少子化対策)も
子育ても、労動力不足解消も、介護も…皆、女性の手に負わせようとする…、女性は家で
しっかり働け、産めよ育てよ、という旧態然とした価値観が、あれこれの政策に見え隠れするのである。
国会、地方議会を問わず、少ない女性議員に対するセクハラ野次も、自民党議員からの
ものが多いのは、この政権の価値観を後ろ盾にしているからじゃないのか。
そうして、この政権の、『女性が輝く』どころか!女性蔑視の思想が、もっとも如実に
表れているのが、上に書いたように、従軍慰安婦問題なのである!

安倍政権はモラルハザードを起こしている。安倍政権には、倫理観が欠如している…

なかなか上手い言葉で、この私の、安倍政権への拭いがたい違和感を説明できない…

そう。安倍政権には、『悲しみの感情が感じられない』
この世にある数知れない不幸…人類が経験してきた数知れない不幸や悲劇…
そういうものに対する惧れと共感の念のようなものが、感じられないのだ…


                      *


9.『知』の否定~其の二』
この下に続きます。

        ↓

『この国の行方 ⑥-2』

この政権とそれを取り巻く人々の、『反知性主義』とでも言うべき、人間の根本原理への
無理解と軽視が、今、もっとも如実に表れて出でているのが
『自由』とか、『平等』とか、『民主主義』とか『法治主義』とかいった、
近代が生んだ諸々の理想や価値観への無理解と軽視、積極的無視、

であろう。

これらの概念やそれを具体化した社会制度を築き上げるために、人間はどれほど多くの
汗と涙を流し、ときに命までもを捧げて来たであろうか。
例えば言論の自由、例えば集会結社の自由、例えば法の下の平等……
人間がそれらを普遍的価値として認識し、現実に自分たちの社会に成文律として確立して
いくまでに、どれほど、どれほど多くの先人たちの労苦があったことであろうか…
世界には、いまだに、それらの自由どころか、生存権さえ国民に保障されていない国々がたくさんある…
日本だって、わずか70年前まではそうだったのだ。小林多喜二…、三木清…
どれほど多くの人が、自由のために戦い、そしてそのために投獄、拷問、虐殺や刑死、
拷問の果ての死に至ったか知れない…多くの多くの血や涙が流されてきたのである…

この政権には、そうした、重い重い価値への、なんというかなぁ…軽薄なおちょくり、
といった言葉や態度があまりにも目立つ。


●沖縄二紙が気にくわないからと言って、『潰してしまえ』と発言したあの、元NHK経営委員の
百田氏。それは、自民党の若手国会議員の勉強会である文化芸術懇話会に講師として
招かれた際の(本人いわくオフレコ)発言である。
『沖縄の米兵が犯したレイプ犯罪よりも、沖縄県全体で沖縄人自身が起こしたレイプ犯罪の方が、
はるかに率が高い』などというひどい発言も、軍隊を保有しないバヌアツ、ナウル両国を、
『家に例えると、くそ貧乏長屋で、泥棒も入らない』などという発言は、およそまともな神経では
考えられない侮辱的発言である。このような人が、公共放送NHKの元経営委員として、NHKに
送りこまれていたのである。このところのNHK報道の偏向ぶりは、目に余るものがある。

●同じ『文化芸術懇話会』では、参加議員から、『マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが
一番。経団連に働きかけて欲しい』『悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを
列挙すればいい』などという、政権に批判的な報道は規制すべきだという意見が出た。
この会合には37人が参加した。官邸からは加藤勝信官房副長官が出席してもいる。上記百田尚樹氏の
言もこの会合で飛び出したものだ。
これは言論の自由への圧力かけそのものではないか!!!

●若手の先っぱしりだけではない。昨年の衆院選前に、自民党は在京テレビ各局の自民党担当の
責任者を自民党本部4階の一室に個別に呼び出し、『報道の公平中立』を求める文書を渡した。
そこには、ゲスト出演者の選定、番組で取り上げるテーマ、出演者の発言の回数や時間、
街頭インタビューの取り上げ方にまで細かい要請が記されていたという。
『報道の公平中立』は無論のこと、ジャーナリズムが守るべき原則であろう。
しかし、それを例えば、議席をほんの少ししか持たぬ弱小政党が、自分たちにも発言の場をくれ、
自分たちの活動も報道してくれ、と要請するのと、今、政権を握っている与党が党本部に担当者を呼びつけて
『公平中立に報道するように』と『要請』するのとでは本質的にわけが違うと思うのだ。
政権与党からの『要請』は、『政治的圧力』と紙一重である。
それこそ報道の自由への過介入と言えはすまいか。

●国会周辺で秘密保護法への反対を訴える一般市民を石破幹事長(当時)が、
『単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われる』と発言。
これなども憲法第21条で保障された国民の『集会の自由』を貶め
国民が政治に参加しその意志を伝えるわずかな正当な機会であるデモを侮辱する発言ではなかろうか。
その国会前デモや集会は、いつも私が報告として書くように、警官隊による立ち入り禁止エリアや
分断がどんどん厳しくなっていっている…誰がこれを警官隊に命令しているのか…
(私自身は、警官隊を非難しても仕方がないと思っている。闘うべき相手はその上にいる連中である。
警官隊も、警備をしながら、集会参加者の演説などを聴くともなし聴いているであろう。
警官隊、自衛隊員…これらの人々をさえも共感させるような運動でなければ、と私は思っている。)

●『三連休が明ければ、国民も(今、国会前に集結している学生たちも、集団的自衛権のことなど)
忘れるであろう』、などという発言は、国民を愚民としか見ていない政権の驕りを示す
発言ではなかろうか。

●『法の下の平等』は、この政権で守られているであろうか。安倍政権の経済政策は、富めるものに
手厚く、貧しいものにどこまでも厳しい。
・生活に困窮して家賃を滞納し、公営住宅から強制退去させられる当日、中学2年の一人娘を殺害
したとして起訴された千葉県の母親。わずか月12,800円の家賃が払えず、2年間滞納した
果ての強制退去措置であったという…。
・新幹線で焼身自殺を遂げ、罪もない女性を巻き添え死させてしまった、あの71歳の男性は、
35年間真面目に働いて年金を納めて来たが、年金額は月12万円。その中から、健康保険料や
住民税、家賃も払わなければならなかった。
彼が当日、油の入ったリュックを背負って家を出て、駅の方へ俯きがちにとぼとぼと歩いていく映像が
街の防犯カメラに撮られていたのを見た。
子殺しや、関係ない他人を巻き込んでの自殺など、無論許されるはずがない!
しかし、それはわかっていても、あの男性の悄然とした最後の日の姿は、私の心にしみついて
離れない…。

貧富の格差は拡大している…。日産など一流企業のトップの給与は社員の142倍の9億円近くとか
それに近いとか。会社に正社員として勤めていられるならまだいい。
この国の非正規雇用率は、男性22%、女性は57%。労働者全体では30%を超える。
安倍政権の元、労働者派遣法改悪で、さらにこの労働条件は悪化を辿るであろう。

一票の格差の是正も、当事者の国会議員に任せていたのでは、思いきった改革ができるわけがない。
今の国会議員選出方法は明らかにおかしい。安倍第二次内閣が成立した2012年の衆院選。
自民党の獲得票の全有権者に占める絶対得票率は小選挙区が24.67%。比例代表は15.99%。
ところが、自民党が獲得した議席は小選挙区で定数の79%にあたる237議席、比例代表は、
同31・67%の57議席だった。
国民の4人に一人の支持しかない小選挙区で80%近くの議席って、どう考えたって変だろう!
結果的に、衆議院での与党(自公)の議席率は、325/480で3分の2超、となった。

繰りごとを言うようだが、この得票率の低さであった安倍政権が、国民の全面的白紙委任を
これで得でもしたかのように、数の論理で、日本を戦争の出来る普通の国にするという、
国のかたちを根底から変えてしまうような法案を、強行採決して決めてしまうというのは、
どう考えたって納得できない。

●6月。自民党のリベラル系若手議員が作った 「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」
の勉強会が、小林よしのり氏を講師に招いて行われることになっていたのだが、それが
上からの指令で急に中止になった。 理由は「国会が空転しているため」ということだった。
ところが、安倍応援団の「文化芸術懇話会」の方は、同じ時期に開かれ、そこで例の百田発言
などが出たのである。
自民党はかつて比較的リベラルとされる派閥などもあって、一つの会派が独善と暴走に
陥らないようけん制する役割を果たしていた。
ところが、今の自民党には、小選挙区での公認を得られなくなるという怖れもあって、
安倍政権に違う考えもぶつけてみることのできる議員たちがいなくなってしまった。
若手議員たちが、それではまずいと、こうして勉強会を開こうとすれば、上からやんわりと
圧力がかかる…
政権内の異論は許さぬという締め付けが強くなって、自民党公明党の与党は今、
安倍首相の独裁政治になってしまっている…。


                     *


今回、日本弁護士連合会、元最高裁判所判事、元内閣法制局長官、憲法学者などの、
いわば法曹関係者や法律の専門家が、集団的自衛権の行使を含む安保関連法案について
次々と立ち上がっているのは、集団的自衛権行使の違憲性も無論だが、
安倍政権の、法治主義や立憲主義、憲法の国民主権の原理などへの
無理解や、否、わかっていながらの横着な無視、軽視に、法治国家としての
重大な危機をかつてなく感じたからなのではなかったろうか。



ある一時期の一つの政府が、権力を一手に握ってしまう…その恐ろしさは、ナチスの悪業、
戦争中の日本の軍閥政治…それらの歴史を見れば、容易にわかる。
『この国の行方』シリーズの前の方の記事で書いている通り時の政権が不当に権力を一手に
握ってしまう弊害やそれが国民にもたらす不幸を防止するための縛り

は、近代社会においては二重三重四重…に設けられている。

●日本においては、まず第一に憲法
●時の政権が暴走してしまうことをとどめる第二の大きな壁は、無論、『三権分立』
思想と仕組みである。
●だが実際には、衆議院の第一党から内閣総理大臣がほぼ慣習的に選ばれるということから、
衆議院の多数派は、時の内閣と一体化し、立法府行政府双方での一党支配が起こる、という
重大な弊害も当然出てくる。
そのために二院制があるのである。いつも繰り返し言っているが、参議院は決してなくしてはいけない。
『決められる政治』ほど怖いものはない。
参議院が政権の暴走を止める、という働きを十分に果たすような選挙制度の改革が必要だし、
そのような見識を持つ人物を、わたしたちは国会に送り込まなければならない。
内閣法制局も、政治の暴走を防ぐ、きつい縛りの一つであった。第二次安倍政権が、
それまでの内閣法制局の慣習を破って、安倍総理に親しい小松長官を送り込むまでは。
内閣府内におかれた内閣法制局も、これまでは内閣内の『法の番人』、として
憲法に違反する法制など出さないよう厳密にチェックする役割を果たしてきた…。

●だが、行政府が…ときの一政権が圧倒的権力を一手に掌握して悪政を行うことへの
最後の歯止めは、国民自身の声である!
国民が、デモや、パブコメや公聴会や、意見メールなどや、そうしてもっとも大事な投票行為によって、
理不尽な政治にノー!という抗議を発する。…それが一番大きな力なのである。
国民主権とはそういうことなのだ。
国民は国家のためにあるのではない。国家が国民のためにあるのだ。
そうしてそれは、ただ漫然とその権利を享受していては、いつまた、国民の持つ諸権利を
奪ったりないがしろにする政治が行われるようになるかもしれない。
だから。

『第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の
不断の努力によつて、これを保持しなければならない』




しかし。
この政権は、これらの縛りを全部外してしまった…
まず、内閣法制局人事の慣行に逆らい、法制局長官に、安倍首相と思想の近い小松氏を
外務省から呼んで長官の座に据えた。これは、内閣法制局が時の内閣の僕になるという
悪しき前例を作ってしまった。
そして、何より罪が重いのは、何よりも許せないのは、
国の最高法規としての憲法を、安保法案という下位の法に従わせる
という、すなわち、時の内閣の恣意によって憲法を必要に応じいかようにも解釈できるという、
悪しき前例を、これまた作ってしまった、ということであろう。
それは単に集団的自衛権行使容認の問題に限らない。
一度そうした手法が許されてしまったら、これから、どの政権が、どんなちゃぶ台返しをやるか
もうわからなくなってしまったのである!
国民が…議会が…長い間知恵を絞って、これでいこう、これを守っていこうと決めて守って来たことを、
一内閣が恣意によって、いとも簡単にひっ繰り返す。
それが許されるなら、もう憲法などないも同然である!
どんな変更だって、数の論理で押し切れてしまう!

これは、明らかに『行政権』の逸脱である。憲法が許す範囲を越えている!
そして、それは三権分立の破壊であり、国民主権への冒涜であり、文明国家
としての規範=立憲主義や法治主義の破壊行為である!







                     *


9.『知』の否定~其の三 』
この下に続きます。

        ↓


『この国の行方 ⑥-3』

ある一時期の政権の暴走を止める、最後にして最大の縛り、というのは、国民の声だ、
と書いた。
ところが、その国民の考えや価値判断を大きく左右し国民の思想形成に大きく大きく
関わるものが二つある…それは『教育』と『ジャーナリズム』である。

この二つが、権力を掌握している政権に完全に握られてしまったら、国民の手に政治を取り戻すには、
…そう、10年20年…或いはもっと…30年などという歳月を要するであろう。
或いは、1945年の日本の敗戦のようなカタストロフィが、外部から力を加えられて起きるまでは。



教育は、次世代の子供たちの世界観を養って行く。
それは広く自由な場で、広く自由に闊達に行われるのであらねばならない。
一つの価値観を押し付けるとか、或いは権力側が教えたくないものは教えない、とか
いうことがあってはならない。

とりわけ私が、国家の教育への過干渉で最も忌むのは、学問の自由への
干渉である。
●文科省は6月8日、国立大学に対して人文社会科学や教員養成の学部・大学院の縮小や統廃合
などを求める通知を出した。
理系人材を求める財界の要求に応えて“人文系つぶし”に踏み出すもの。
各大学は通知を参考に中期目標・中期計画を策定しなければならない。
通知は、「持続的な競争力を持ち、高い付加価値を生み出す国立大学となることが期待される」
と強調。理系分野の「人材需要」などを理由に、人文社会科学系や教員養成系の学部・大学院
について「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組む」と明記した。
国立大学への運営費交付金についても「機能強化に積極的に取り組む大学に対し重点配分する」
として、
(1)世界で卓越した研究(2)全国的な研究(3)地域貢献―の三つの支援の枠組みを示した。
すでに国立大学の基盤的経費である運営費交付金は、法人化後の10年で約1292億円も削減され、
教育研究に重大な障害をつくりだしている。重点配分によって、各大学が類型ごとに資金獲得競争
に追い立てられ、大学や学部の再編・統廃合が進められる危険性を抱えている。

●NHKのアンケート調査によると、これに対し、国立大学の83%が政府の方針に従い、
何らかの見直しをする予定であると回答。対象となる学部がある国立大学64校への
アンケートの結果、回答のあった57校中、「全く受け入れられない」との回答をしたのは2校。
「不本意だが受け入れざるをえない」が2校。25校が「趣旨は理解できる」と回答したという。


大学人文科学系



この回答を見て、私は憤激のあまり涙が出そうになった。
今、国立大学は、すでに文科省に生殺与奪の権を握られてしまっている。文科省~国の方針に
従い、目に見えるような成果を上げていかなければ、法人運営費交付金がカットされるのだ。
国は28年度から一般運営費交付金の3割を削減し、削減分を取り組みの優れた大学に
重点配分する方向で検討しているという。

だが、取り組みの優れた大学とはどんな大学なのだろう。
理系学部の強い大学であって、企業の即戦力として通用するような学生を輩出する大学か。
国際的な組織への論文提出数が多い大学か。
そもそもこっちの大学の方があっちの大学よりも、研究成果を上げている、という判断は
どこでどうやって誰がするのだろう。文科省の匙加減一つ、ということにならないか?!

そもそも、2015年度日本の公的教育費の対GDP比率を国際比較してみると、なんと日本は
148か国中101位である!一位はキューバ。
政府支出に占める公的教育費割合では、日本はこれまたなんと、123位である!
http://www.globalnote.jp/post-1479.html
その中でそれでは日本の大学生一人当たり教育費は世界何位かというと、10位である。
大学生の一人当たり公的教育支出は何位かというと、世界29位である。
なんだ!割と高いじゃないか?
これらの数字は何を意味するのか。
要するに、日本の大学は学費が高いということ。しかし公的援助は国力の割に少なく、
親や本人の負担が大きい、ということである。
これは大学生のみでない。塾の費用などを含めた小中高生の教育費に占める親の負担は、
日本はとても大きいのだ。親の経済力が子供の教育の質に直結するということは
もうずいぶん前から問題になっている。
●今、話題になることが多い、大学生のブラックバイト問題。
これはただ大学生たちが遊ぶ金欲しさにバイトしているのだろう。バイトなどするからいけない、
学生は学業という本分に励むべし、などというのは認識不足も甚だしい。今、親たちの仕送りは激減し、
親元を離れて遠くの街の大学で学ぶ学生たちは、バイトをしなければやっていけない、奨学金を
受けなければやっていけない、という子が多くなっている。
ブラックバイト…。正社員並みに働かされても給料は安く、シフトを一方的に決められることで
授業や課外活動に支障をきたしてしまったりする悪辣な労働形態である。
●大学を卒業した時にすでに奨学金という借金を300万とか400万円とか背負ってしまう若者も
多いという。日本にはアメリカのような返還免除の奨学金が少なく、『奨学金』と銘打ちつつ、
実はそれは単にその学生が20歳やそこらで背負い込んでしまう借金と変わりない。
ましてやノルウエーのように大学が無料、などという国とは並べて考えることさえできない。
●大学を卒業すると、学生たちは奨学金返済をして行かなければならない。うまく
きちんとした会社なり何なり定業に就ければいいが、そうできなかった場合、奨学金返済は
若者たちの大きな負担になってのしかかっていく………

●2014年、文科省は、大学生らの経済支援に関する報告書をまとめた。有識者会議メンバー
の一人はその検討過程で卒業後に就職できず、奨学金の返還に苦しむ人たちについて
「防衛省でインターンシップ(就業体験)をさせたらどうか」と発言した。若年貧困層を
兵士の道に追い立てるのは「経済的徴兵制」ではないのか。(東京新聞2014年9月3日)
http://www.asyura2.com/14/senkyo170/msg/776.html

もう皆さんご存じでおいでと思うが、米国では実際、軍に入隊すれば国防総省が奨学金の返済額を
肩代わりする制度がある。それは、兵士の確保のためだが、格差社会が進む米国では、
この制度に頼らざるを得ない貧困層が多く、結果的に兵士の多くを貧困層が占めている。
貧困層にとっては、これは、『学資援助』という甘い蜜で誘われて、実際は、大学卒業という
ことと引き換えに、兵士以外の生きていく道の選択を奪われる『経済的徴兵制』なのである!


日本という国は、いや、今の政権は、いったいどういう国作りをして行きたいのであろうか。

大学は、単に即戦力の企業戦士を養成するための場ではない。そこでは、あらゆる分野の学問が、
その経済性とか即効的な有意性とかに関わりなく、自由に闊達に行われるべきところ。
その自由さ、学問分野の広さの中からこそ、やがて素晴らしいアイディアや優れて個性的な人も
生まれてくる…
ところがこの政権は、工学部系など社会にすぐ役に立つ分野の学問研究に力を入れて、
文学、教育学、史学、哲学、倫理学、宗教学…、おそらく法学も…
そういった分野の…いわゆる人文系の学問を露骨に縮小していこうという方針を今、打ち出しているのだ。
そういう学問は、確かにすぐに国家に利益をもたらさない。
だが、そういった学問こそが、実は学問の世界の豊穣さを生みだすのに大きな力を
持っているのだと私は思っている。 ひいては、社会そのものに豊穣さを。
文学部のない国立大学など…私には考えられない!

●2004年。私は、国立大学の法人化に、すごい危惧を抱いていた。
大学が企業のようなものになる…そこでは当然のように目に見える成果が期待される…
●さらにその前に、1991年、大学における教養課程の要件が緩和され、多くの大学で
教養課程の縮小や廃止が進んだ。
その時も、私は、「ああ…!」と深いため息をついたものだ。
大学では無論専門課程と、そしてこの教養課程を普通学ぶ。その他に語学や体育もある。
4年間は短い。まして就職運動に大学4年生のほぼ1年間をとられてしまうのでは。
自分のえらんだ専門外の教養科目など、やらされるだけ時間の無駄!…そういう人も多くいる。

だが私はそうは思わない。自分の専門が例えば理工系であっても、人文科学、社会科学などの
概論や、あるいは、そういう分野で分けない学際的な感覚を、大学生のうちに身につけることが、
例え将来、実際に理工系の職業や研究職に就いたとしても、どれほど、その基礎作りに
大きく役に立つか…。
ものを大きく捉える目、ものごとを深く見通す目、柔軟な発想力、幅の広い学際的知識…
そういったものは、その人がどんな職業に就こうがとても大切になってくるのである。
それはまた、学問の世界の入り口のようなものでもあって、専門課程や大学院等で学ぶための
基本的素養・ものの見方を養う働きをすると私は思う。
教養科目を無駄と思うその発想の貧困さよ…
一切の無駄の排除された世界、なんて、そんな味気ない恐ろしいものがあるだろうか?

だが。しかし。
今度の文科省の人文社会科学系学部や教育学部などの縮小方針は、これを、単に教養科目から
削除するなどという規模のものでなく、学部ごと、学科ごと、大学から無くしていってかまわない、
という、無茶苦茶なものである。
要するに、『人文系つぶし』である!
その意図する本当のところはいったい何なのであろうか。…ただ教育費予算を節約したい?
いやいや、そうではないであろう。
要するに、人文社会科学系の学問の大事さが、わかっていないのである!!!
意地悪な見方をすれば、人文社会科学系の学者が小うるさく思えて嫌なのか?
人文社会科学系の学問は、人間のモラルについて深く考え、そうした心を養っていく場でもある。
もしかすると、安倍政権にとっては、邪魔な学問なのか?

アメリカは、成果主義の国である。大学での研究も成果第一と学者たち自身も割り切って考える。
だがその一方で、例えばメディカル・スクールなどに行く前に、学部で文学を専攻する学生がいるという。
人の体を扱うようになる前に、人の心やいのちの本質というようなものを知っておきたいからだという。
専門分野の基礎としてそうした人文社会科学系の学問に触れて、幅広い視野と深い思考力を
身につけておくことの重要さを知っているからであろう。
日本学術会議は、『(人文科学は)人間と社会のあり方を相対化し批判的に考察する』と指摘する。



教育の場に『効率』や『成果主義』を過剰に持ち込めば、それは一時的には効果を上げたように
見える時期があるかもしれないが、やがてそうした学問の場は、目に見える成果だけを競い
すぐに結果の見えない研究は軽視し排除していく硬直した組織に堕していく危険もはらむ。
それは、時には、成果を誇示するための杜撰な研究発表や虚偽さえ横行する歪んだものに
なっていく危険性をもはらむ。
大学の場ではないけれども、小保方氏の一件などは、そういう弊害を象徴するケースだったのではないか。

学問研究というものは、2年3年の短いスパンでその成果を求めてはならないものだ。
決して。断じて。
学問研究の精神というものは、時に50年、100年、1000年の時をも、過去にも未来にも
自由に行き来して、真理を追究していくものである。
学問研究の成果というものは、過去の学問の基礎の上に立って初めて成り立つ。
時に、奇跡のように独創的な、まったくのひらめきによる発見や発明があるではないか、
と思う人もいるかもしれないが、それさえも、過去の学問の基礎を知らなければ生まれないものである。
医学や物理学、生理学、化学…こうした分野の優れた研究者に、優れて哲学的な人がいるのは、
そういう人々が、学問というものの学際的な性質…専門知だけからではなく、幅広い思考からこそ
すぐれた発想が得られるということを、経験で知っているからなのではなかろうか。

ある国の政治の、学問・教育に対する態度というものは、そのまま
その国の『政治の質を表す』もの、ではないかと、私は常々思っている。


●人文系学問を学ぶということには、もう一つ大事なことがある。
それはそれらが、『言葉をみがく』『ものごとの意味を深く考える』学問であるということだ。
歴史に深く思いを致し、未来を思う。先人の思想に学ぶ…広く世界を想う…
想像の翼を高く豊かに走らせる…
無論、私はこう書いたからと言って、理工系の学部で学んだ人が、言葉の豊穣を知らない、
などと言っているのなどでは決して決してない。上にも書いたように、科学者にして素晴らしい
文学者でもあるひと、科学者にして素晴らしい芸術家であるひとはたくさんいる…
大学になど行かなくても、おのずから深く考えることによって、世界の深淵や豊穣を知っていき、
磨かれた知性や境地に到達する人もほんとに多い。

私がここで言いたいのは、大学という学問の場を、いわば国策として、狭い効率第一主義の
余裕のないものにしてしまっていいのか!という大きな疑問なのである。

●今、この国の政治は、政治の言葉がどんどん単純化されて薄っぺらになっていっているように
思える。
集団的自衛権行使の必要性を説く説明の、まあ、なんと、失礼だが薄っぺらであることか。
集団的自衛権行使を、殆ど密室の閣議決定によって決め、国会でろくな審議もしないまま、
数の論理で強行採決してしまうなどということは、この国の最高法規である憲法を蹂躙するものであり、
また、国民主権の根本思想や、法治主義、立憲主義の放棄であり、この国のかたちを
全く変えてしまうような大きな大きな、いわば国民に対する背信行為である。
もっといえば、それは、冒頭部分にも書いた、人類の『知の総体』というようなものへの冒瀆である。
しかし、それにしては…なんというあの、あれらの説明ボードのイラストたちの、程度の低さよ。
この政権は、国民をあの程度のものと考えているのだろうか。
赤ちゃんを抱いたお母さんが逃げていく…、あのいつも使われる絵。
あそうくんやすがくんの出てくる漫画…。お隣の火事…。
~事態、などと名のつくいくつもの状況を説明する言葉や事例は、いつも同じ文言の繰り返しである…
こんな国民を小馬鹿にした政治があろうか?
この政権は、国民を愚民の群れとでも思っているのではないか。

『国民は、同じ文言を繰り返して聞かせていればそれが徐々にインプリントされ、
いつかそれを受け入れていくものだ。』
『国民は、 すぐに忘れる。』

これらの言葉は、安倍首相、もしくはその周囲の取り巻きから発せられた言葉もしくは
その思想である。

単純化されたフレーズを繰り返すことで、政治そのものを単純化していくこと…。
公平に言えば、それは安倍政権で始まったことではなく、小泉政権の時にはすでに
明らかに見えていた。小泉政権の大衆迎合主義がそれである。
『構造改革なくして成長なし』『自民党政治をぶっ壊す』『自己責任』などという短いフレーズで、
大衆の心を掴み、小泉氏が何をこの国に実際はもたらしたか。
小泉内閣でもたらされた『規制緩和』や『構造改革』などという政策の、『緩和』とか『改革』
などという一見美しく聞こえる言葉の実体が、今、どれほど中小企業やそこに勤める人々を
苦しめ、ありとあらゆる社会構造を余裕のない息苦しいものに変えてしまっているか。
ワンフレーズ・ポリティクスは、大きな問題の争点を単純化し、その実質を見えにくくすると共に、
批判派を『抵抗勢力』などと呼ぶことで、丁寧な議論を実質的に封鎖してしまう…
しかし、安倍政権の政治理念ややり口は、小泉政権のそれと似ているようであるが、小泉政権の
それよりもはるかにこの国を大きく変えようとするものである。

私は、この政権の、反知性主義というような性格を、心の底から嘆く。
この度、多くの学者たちや学生たち、法律の専門家たちが、立ち上がったのは、集団的自衛権の
憲法違反を警告するためだけであろうか。
いや、安倍政権というものの、『人智』というようなものへの軽視や鈍感、また積極的な蹂躙が、
我慢ならないということも実は大きいのではないだろうか。
ここに書いたことは、実は皆、繋がっているのだ。
ブラックバイトという労働問題や、女性蔑視、原発、沖縄・・・すべてのことが絡んでくる。

●国立大学から人文系の学部を無くす…。
私が怒っているのは、それが単に大学の問題を超えて、この政権の根本的な冷酷さ、
無関心というようなものにもつながっているような気がするからである。
おそらく、東大や京大のような大学から人文系はなくなりはすまい。
しかし、地方の大学はどうであろうか。大学の合理化、という荒波で、地方の大学から
人文系の学問の場が消える…。いや。人文系に限らず、地方の大学の存続そのものが
文科省の評価の匙加減一つで危うくなる。
それでは、地方出身でそういったものを学びたい!と願う若者はいったいどうすればいいのか。
大きな大学に親元を離れて行くしかあるまい。
かくて、地方からの若者の流出はますます進む…。
それで、『地方創生』などと果たして胸を張って言えるであろうか?


象徴的なニュースが一つ、この頃あった…

●『防衛省が大学に研究費 軍事応用も視野、公募開始』
国の安全保障に役立つ技術を開発するとして、防衛省は大学などの研究者を対象に研究費の支給先の公募を始めた。
研究者に直接お金を出すのは初めてで、最大で1件あたり年3千万円と一般の研究費に比べて高額だ。
軍事応用が可能な研究分野の広がりが背景にあり、戦後、軍事研究と一線を画してきた日本の学界にも課題を突きつけている。
公募対象は大学、独立行政法人、大学発ベンチャーや企業。今年度の予算は3億円で、8日に募集を始め、
8月12日に締め切って10件程度を選ぶ。
成果は「将来装備に向けた研究開発」で活用するとし、実用化の場として「我が国の防衛」「災害派遣」「国際平和協力活動」を挙げた。
支給額は文部科学省の科学研究費補助金の1件あたり年平均約200万~300万円より高い。
基礎研究に限定し、成果は原則公開、研究者は論文発表や商品への応用ができる。
防衛省の担当者は「安全保障への活用の遠いゴールを示しつつ、広く応募してもらえるよう工夫した」と話す。

朝日新聞
http://digital.asahi.com/articles/ASH786RLMH78ULBJ00V.html



                      *        


●もう一つ。権力者に握られてしまっては致命的なもの。それはジャーナリズムである。
この、報道、ということが一つの権力の元に傾斜を深めていくとどういうことが起こるか。
国民の価値観が、一つに染められて行ってしまう危険性が濃厚になっていく……。
行きつくところは、ときの政権に誰もNO!と言えない、恐ろしい恐ろしい社会だ。
すでに私たちの国は、どれほど自由のなんとなくない…忖度する社会になってしまったことで
あろうか。

…これらすべてが、この政権の蘇ってきたこの3年弱の間に起きてしまっていることなのだ…
私たちは、ただそれを見ているのか。

予算はどんどん削りつつ、自由な学問の城であるべき大学への介入。
なぜ、当事者である学者や学生は起って怒らないのだろう…?!
なぜ、若者たちは、劣悪な労働条件下で働く人々は、怒って立ち上がらないのだろう?
赤ちゃんや子供たち。
赤ちゃんや子供たちは、決して国家のために、国家というものを、いずれ支えていくための、
『人材』『道具』などではない。
その存在自体が大きな喜びであるのだ。
ママさんたち。がんばれ!
政治は国民が自らの手で変えていくものだ。自分たちの権利は自分たちの手で守らなければ。

ひとびとがようやく!ようやく、立って声を上げ始めた!




『「安保法案 東京大学人緊急抗議集会・アピール』

『安保法制に反対する学芸大からのアピール』

『安全保障関連法案に反対する長野大学教職員有志アピール』

『岩手県の大学関係者・研究者・弁護士有志のアピール「私たちは専守防衛逸脱・憲法違反の安全保障関連法案の廃案を求めます』


安全保障関連法案に反対する立教人の会


『安保法制に反対する医師・歯科医師アピール 大阪』

『安保関連法案に反対するママの会』

『映画関係者ら、安全保障関連法案に反対するアピール』

『安全保障関連法案に反対する一橋大学有志の声明』

『演劇人ら安保法案に反対声明 106の劇団・団体が賛同』

『安全保障法制関連法案に反対する一橋大学有志の声明 』

『安全保障関連法制の改正に反対する会長声明 島根県弁護士会』

『安保法案に反対する広島大学人有志の声明』
  
『安保関連法案のすみやかな廃案を求める島根大学 大学人アピール』

『安保関連法案に反対する島根県立大学有志の会』

『戦争法案反対デモ実行委員会@鳥取』                             ・ 
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                             ・

早稲田立ち上がる『安全保障関連法案に反対する早稲田からのアピール』


『安全保障関連法案に反対する早稲田からのアピール』
            安全保障関連法案の廃案を求める早稲田大学有志の会
               http://www.waseda9.org/

             早稲田大学のみなさん 署名をお願いします




「安倍政権による憲法無視・国民無視の暴走に抗議し、安全保障関連法案
の廃案を求めます」


 戦後日本は、戦争の惨禍を踏まえ、戦争放棄を掲げた憲法のもと、平和国家としての歩みを
重ねてきました。それから70年目の今、安倍政権は数の力をかりて、日本を戦争する国に
変えようとしています。安倍首相は国内合意よりもアメリカに対する約束を優先し、国民の強い
反対や懸念を無視・黙殺して暴走をつづけています。

 早稲田大学の前身、東京専門学校は、「学問の独立」を掲げて開校しました。

一国の独立は国民の独立に基いし、国民の独立はその精神の独立に根ざす。而して
国民精神の独立は実に学問の独立に由るものなれば、その国を独立せしめんと欲せば、
必らず先ずその民を独立せしめざるを得ず。その民を独立せしめんと欲せば、必らず先ず
その精神を独立せしめざるを得ず。而してその精神を独立せしめんと欲せば、必らず先ず
その学問を独立せしめざるを得ず。


 この建学の精神を生かし、校歌に謳われている「進取の精神」と「学問の独立」を掲げ、
「久遠の理想」を実現するためにも、私たちは、安倍政権による憲法無視・国民無視の
暴走に抗議し、安全保障関連法案の廃案を強く求めます。

                      安全保障関連法案の廃案を求める早稲田大学有志の会



賛同者 (*が呼びかけ人)

1300名(2015年7月22日 12:56 現在)

呼びかけ開始わずか2日で、すでに賛同者1,300人突破。
目指せ1万人の<<早稲田からのアピール>>(2015年7月22日12:55)






賛同者リスト、あまりに長いので省略します。
直接http://www.waseda9.org/をご覧ください。

寄せられたコメント、の一部、それも7月20日分の一部のみですが、追記にて紹介させていただきます。

      ↓

続きを読む

『安全保障法制等の法案に反対し、平和と人権及び立憲主義を守るための宣言』日本弁護士連合会


『安全保障法制等の法案に反対し、平和と人権及び立憲主義を守るための宣言』
     http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/assembly_resolution/year/2015/2015_1.html




戦後70年を迎えた今、平和と人権及び立憲主義はかつてない危機に瀕している。

政府は、2014年7月1日に集団的自衛権の行使容認等を内容とする閣議決定を行い、これを受けて現在、安全保障法制や自衛隊の海外活動等に関連する法制を大きく改変する法案を国会に提出している。これは、日本国憲法前文及び第9条が規定する恒久平和主義に反し、戦争をしない平和国家としての日本の国の在り方を根本から変えるものであり、立法により事実上の改憲を行おうとするものであるから、立憲主義にも反している。

先の大戦は国内外で多くの戦争被害者を生んだ。日本はアジア・太平洋地域への侵略により、同地域の多くの人々に重大かつ深刻な被害を与えた。また、日本軍の多くの兵士や関係者も死傷し、国内では沖縄における地上戦、広島・長崎への原爆投下、大空襲等により、膨大な数の人々が被害を受けた。

戦争は最大の人権侵害であり、人権は平和の下でこそ守ることができる。

これは、先の大戦の余りにも大きく痛ましい犠牲に対する真摯な反省と、そこから得た痛切な教訓であり、この反省と教訓を胸に私たちの国は戦後の歴史を歩んできた。

憲法前文及び第9条が規定する徹底した恒久平和主義は、この悲惨な戦争の加害と被害を経験した日本国民の願いであり、日本は二度と戦争を行わないという世界に向けた不戦の誓いの表明である。これまでも幾度か憲法第9条を改正しようとする動きがあった中で、今日に至るまで恒久平和主義を堅持してきたことが、アジアのみならず世界の人々の平和国家日本への信頼を育んできた。

ところが、戦後70年を迎え、日本国憲法の恒久平和主義に、今大きな危機が迫っている。

今般、国会に提出された安全保障法制を改変する法案は、憲法上許されない集団的自衛権の行使を容認するものであり、憲法第9条に真正面から違反する。

また、自衛隊の海外活動等に関連する法制を改変する法案は、自衛隊を海外のあらゆる地域へ、しかも「現に戦闘行為を行っている現場」以外であれば戦闘地域を含めどこにでも派遣し、弾薬・燃料等の軍事物資を米国及び他国軍隊に補給することを可能とするものである。これは外国で戦争をしている他国軍隊の武力行使に対する積極的協力であり、他国軍隊の武力行使と一体となり当該戦争に参加するに等しいものであって、憲法第9条に明らかに違反する。また、このような戦争をしている他国軍隊への積極的協力は、相手側からの武力攻撃を誘発し、我が国が外国での武力紛争に巻き込まれる危険を伴い、現場の自衛官は、武器を使用して他国の人々を殺傷する立場に追い込まれ、自らが殺傷される危険に直面する。全世界の国民が平和的生存権を有することを確認し、国際紛争を解決する手段として戦争と武力行使を永久に放棄し、戦力の保持を禁じ、交戦権を否認している日本国憲法の下で、このような事態を起こしかねない法制への改変は到底許されない。

このように、最高規範である憲法の恒久平和主義に反する極めて重大な問題であるにもかかわらず、主権者である国民に対して十分な説明が行われないまま、2014年7月1日に閣議決定がなされ、それを受けた与党協議を経た安全保障法制等を改変する法案が第189回国会に提出されたが、米国との間で「日米防衛協力のための指針」の見直しが先行して合意された。政府の方針が、主権者への不十分な説明のまま、対外的に決定され、憲法改正手続を経ることなく、法律の制定、改廃によって憲法第9条の改変が事実上進められようとしている。これは立憲主義に反するものであり、到底容認することができない。

戦前、弁護士会は、言論・表現の自由が失われていく中、戦争の開始と拡大に対し反対を徹底して貫くことができなかった。戦後、弁護士及び弁護士会には弁護士法第1条の「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」という使命が与えられた。この使命は、国民からの期待と信頼に応えるものであり、今、弁護士及び弁護士会が「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」という立場から意見を述べ行動しなければ、弁護士及び弁護士会は、先の大戦への真摯な反省と、そこから得た痛切な教訓を生かせないことになる。

私たちは、1950年の第1回定期総会(広島市)に引き続いて開催された平和大会において、日本国憲法の戦争放棄の崇高な精神を徹底して、平和な世界の実現を期することを宣言した。私たちはこの決意を思い起こし、憲法の恒久平和主義や基本的人権の保障及び立憲主義を守り抜くために、集団的自衛権の行使等を容認し自衛隊を海外に派遣して他国軍隊の武力行使を支援する活動等を認める、今般の安全保障法制等を改変する法案に強く反対するとともに、平和と人権、そして立憲主義を守る活動に国民と共に全力を挙げて取り組む。

以上のとおり宣言する。

                    2015年(平成27年)5月29日
 
                       日本弁護士連合会



                           ◆


提案理由
第1 はじめに
1 平和と人権及び立憲主義の危機

戦後70年を迎えた今、平和と人権及び立憲主義はかつてない危機に瀕している。

日本は戦後、恒久平和主義を基本原理とする日本国憲法の下、一度も戦争をすることなく、平和国家の礎を築いてきた。

ところが、政府は、2014年7月1日に「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」と題する閣議決定(以下「本閣議決定」という。)により、集団的自衛権の行使を容認する立場を明らかにするとともに、自衛隊を海外に派遣して戦争を遂行する他国軍隊を直接的に支援したり、任務遂行のための武器使用を認めるなどの活動の拡大方針を決定した。本閣議決定を受けて、「日米防衛協力のための指針」が国内法制に先行して見直され、そして今、安全保障法制や自衛隊の海外活動等に関連する法制を大きく改変する法案が国会に提出され、その審議が行われている。

これは、日本国憲法前文及び第9条の下でこれまで築いてきた平和国家としての日本の国の在り方を根本から変えるものであり、立法により事実上の改憲を行おうとするものであるから、国家権力の行使は憲法に基づかなければならないという立憲主義にも反している。

今改めて、日本国憲法の恒久平和主義と、その原点である先の大戦を振り返り、平和と人権の問題を確認することが必要である。


2 アジア・太平洋地域における戦争下での人権侵害

1931年9月18日、日本軍が謀略により起こした柳条湖事件を口実に開始された中国侵略は、1937年7月7日の日本軍の夜間演習中の偶発的出来事から生じた盧溝橋事件等を機に本格化する。

日本は、アジア・太平洋地域への侵略により、同地域の多くの人々に重大かつ深刻な被害を与え、約1900万人の戦争犠牲者を出したとされており、数々の重大な人権侵害を引き起こした。

日本軍の多くの兵士や関係者も、戦死し、病死し、餓死していった。日本国内でも、沖縄における地上戦、広島・長崎への原爆投下、大空襲等により、膨大な数の人々が被害を受けた。我が国の戦争犠牲者の全体数は約310万人といわれている。

戦争は最大の人権侵害であり、人権は平和の下でこそ守ることができる。これは、先の大戦の余りにも大きく痛ましい犠牲に対する真摯な反省と、そこから得た痛切な教訓であり、この反省と教訓を胸に私たちの国は戦後の歴史を歩んできた。



第2 日本国憲法の徹底した恒久平和主義
1 戦争の違法化の徹底

国際社会は、戦争をめぐり、不正な攻撃への対抗等を目的とする「正義の戦争」だけが許されるとする「正戦論」から、戦争に訴える権利は国家の主権的自由であるとの考え方(無差別戦争観)を経て、戦争は違法であると考えるようになった(戦争放棄に関する条約(パリ不戦条約、1928年))。もっとも、そこで禁止される戦争は、「國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭」、すなわち侵略戦争を指し、自衛戦争は認められるなど全ての戦争を違法とするものではなかった。

第二次世界大戦の反省の下に制定された国際連合憲章(以下「国連憲章」という。)は、平和的解決義務を具体化し(国連憲章第2条第3項)、「武力による威嚇又は武力の行使」を原則として禁止し(国連憲章第2条第4項)、戦争の違法化を徹底した。しかしなお、国連が軍事的措置等をとるまでの間の暫定的な措置として、個別的又は集団的自衛の権利を害するものではないとされた(国連憲章第51条)。


2 国連憲章を超える日本国憲法の徹底した恒久平和主義

このような中で日本国憲法は、全世界の国民の「平和のうちに生存する権利」を憲法前文に明記し、「武力による威嚇」及び「武力の行使」を禁じて戦争を放棄したこと(憲法第9条第1項)に加えて、戦力の不保持と交戦権の否認を規定し(憲法第9条第2項)、国連憲章の規定による集団的自衛権の行使をも認めないという、世界の平和主義の系譜の中でも類がない徹底した恒久平和主義を基本原理とすることとした。

それは、余りにも悲惨な戦争の被害と加害を経験した日本国民の願いであり、日本は二度と戦争を行わないという世界に向けた不戦の誓いの表明である。これまでも幾度か憲法第9条を改正しようとする動きがあった中で、今日に至るまで恒久平和主義を堅持してきたことが、アジアのみならず世界の人々の平和国家日本への信頼を育んできた。



第3 日本国憲法の恒久平和主義の大きな転機
1 安全保障法制等を大きく改変する法案の国会提出に至る経緯

本閣議決定では、①武力攻撃に至らない侵害への対処、②国際社会の平和と安定への一層の貢献(①及び②は自衛隊の海外活動への規制を大幅に緩和するもの)、③憲法第9条の下で許容される自衛の措置(集団的自衛権行使容認に係る安全保障法制に関するもの)の3点について述べている。

本閣議決定を受けて、「日米防衛協力のための指針」の見直しが行われ、今般、安全保障法制及び自衛隊の海外活動等に関連する法制を改変する法案が国会に提出され、その審議が始まっている。


2 安全保障法制等の特徴-集団的自衛権行使容認と自衛隊の海外での戦争協力支援

(1) 徹底した恒久平和主義を採用している憲法第9条の下では自衛戦争を含めた全ての戦争を放棄したとの見解が有力にある中で、従来の政府見解は、自衛のための実力の行使が認められるとしつつ、それはあくまでも、我が国が外国から武力攻撃を受けた場合にこれを排除することに限定していた。その上で、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず実力を持って阻止する集団的自衛権の行使は認められないとしていた。これにより、自衛隊が海外に出て戦争に参加するような積極的な武力の行使に歯止めをかけ(専守防衛政策)、我が国の安全保障法制の合憲性を保持しようとしてきたのである。

しかし、本閣議決定はこれらを変更し、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」にも、必要最小限度の実力を行使し得ることとし、今般の安全保障法制を改変する法案は本閣議決定の実施に法律上の根拠を与えようとするものである。

これは従来の憲法上は許されないとしてきた集団的自衛権の行使を「自衛のための措置」として認めるものであり、さらには「自衛のための措置」であれば国連の軍事的措置への参加も可能にしようとするものである。


(2) また、自衛隊の海外活動等に関連する法制を改変する法案は、地理的限定をなくして海外のあらゆる地域の戦闘行為を行っている現場近くまで自衛隊を派遣し、戦争等を遂行する米国及び他国軍隊への支援として、弾薬・燃料等の軍事物資の提供や輸送その他の役務の提供等を可能とするものである。

これは外国で戦争をしている他国軍隊の武力行使に対する積極的協力であり、他国軍隊の武力行使と一体となり当該戦争に参加するに等しいものである。

さらに、今般の法案では、平和協力活動の範囲を拡大するとともに「駆け付け警護」その他の任務遂行のための武器使用を認めようとするものである。また、自衛隊法を改変する法案等により、自衛隊の活動と権限を他国軍隊の武器等の防護等や在外邦人の救出活動にまで広げようとしている。これらの法案もまた、我が国が戦争や戦闘行為に陥る具体的危険を生じさせるなど、自衛隊の海外における武器の使用に道を開くものに他ならない。



3 安全保障法制等を改変する法案は恒久平和主義に反する

このように、今般の安全保障法制等を改変する法案は、集団的自衛権の行使等を容認するばかりでなく、戦闘中である米国及び他国軍隊への後方支援として、自衛隊を海外のあらゆる地域へ、しかも戦闘地域まで派遣し、弾薬・燃料等の物品や自衛隊の役務を米国及び他国軍隊に提供することを可能とするものであり、また自衛隊の武器使用権限を拡大するものである。

他国軍隊に戦闘地域で弾薬・燃料等を補給することは武力行使と一体化した戦争参加とみるべきものであり、相手国からの武力攻撃を受け、武力紛争へと発展する高度な危険を伴う。また、武器の使用権限の拡大も武力紛争のきっかけとなりかねない。いずれにしても、このような状況下で、現場の自衛官は、武器を使用して他国の人々を殺傷する立場に追い込まれ、自らが殺傷される危険に直面する。戦前の盧溝橋事件は、現場での兵士の武器使用が全面戦争のきっかけとなる危険があることを示しており、今改めてこの歴史の教訓に学ばなければならない。全世界の国民が平和的生存権を有することを確認し、国際紛争を解決する手段として戦争と武力行使を永久に放棄し、戦力の保持を禁じ、交戦権を否認している日本国憲法の下で、他国軍隊の武力行使に協力することは、平和的生存権を侵害し、憲法第9条に反し、到底許されないものである。



第4 日本国憲法の立憲主義に対する危機
1 国民への情報提供が不十分な中での安全保障法制等の改変

今般の安全保障法制等の改変に向けて、本閣議決定やその後の「日米防衛協力のための指針」の見直し作業、さらには与党協議が行われてきたが、その間、主権者である国民に対しては、十分な情報が与えられず、民意を反映させようとする努力も行われてこなかった。国民は、第189回通常国会が開会された後、安全保障法制等の改正案等が国会に提出されて初めて具体的な情報を得ることができた。

そもそも、国政の在り方を決定する権威と権力を有するのは国民である(国民主権)。

この国民主権が十全に機能するためには、内閣総理大臣、国務大臣及び国会議員は、憲法尊重擁護義務(憲法第99条)を負う者として、充実した国民的議論が保障されるように、必要かつ十分な情報を提供し、多様な意見に十分に耳を傾けながら、丁寧に説明する責任がある。しかし、政府は、恒久平和主義に反する安全保障法制等を改変する法案が国会に提出されるまで、主権者である国民に対して十分な説明を行わないまま、不透明な状況下で既成事実を積み重ねてきたのである。



2 立憲主義に反することは許されない

このように、最高規範である憲法の恒久平和主義に反する極めて重大な問題であるにもかかわらず、主権者である国民に対して十分な説明が行われないまま憲法の恒久平和主義に反する本閣議決定がなされ、それを受けた与党協議を経た安全保障法制等を改変する法案が国会に提出され、米国との間で「日米防衛協力のための指針」の見直しが先行して合意された。政府の方針が、主権者への不十分な説明のまま、対外的に決定され、憲法改正手続を経ることなく、法律の制定、改廃によって憲法第9条の改変が事実上進められようとしている。これは立憲主義に反するものでもあり、到底容認することができない。



第5 憲法の恒久平和主義や基本的人権の保障及び立憲主義の擁護と弁護士会の責任
1 戦前の弁護士会の活動の教訓

今、平和と人権及び立憲主義が危機に瀕しているときだからこそ、弁護士会は、憲法の恒久平和主義や基本的人権の保障及び立憲主義を守るための意見を述べ、活動に取り組まなければならない。

戦前、人権擁護活動を熱心に行っていた弁護士はいたものの、それは個人的対応に留まり、弁護士会としては、必ずしも十分な人権擁護活動は行っていなかった。朝鮮への植民地支配や、中国への侵略、さらにはアジア・太平洋地域へ戦線が拡大し、言論・表現の自由が失われていく中で、弁護士及び弁護士会も戦時色に染まっていき、1944年には、中国大陸の権益を軍事力により確保するための国家総動員体制に組み込まれる形で、大日本弁護士報国会が作られるなど、弁護士会は戦争の開始と拡大に対し反対を徹底して貫くことができなかった。

また、先の大戦下では、個人の権利主張は反国家的であるという風潮が強まる中で民事事件が減少し、刑事事件についても被疑者・被告人を弁護することを敵視する見方が強まった(日弁連五十年史)。そのため、国民が司法制度を利用する機会が減少し、弁護士の活動範囲が狭まったのであり、平和や人権を守るための活動を積極的に行うことは、それ自体大事なことであるとともに、日常の弁護士活動の基盤として弁護士が人々の権利を擁護するために必要であるということも、真摯な反省と痛切な教訓として残った。


2 当連合会の原点-人権を守り平和な世界を築くこと

日本国憲法は1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行された。基本的人権の保障が憲法上明確に規定されたことに伴い、弁護人依頼権の規定(憲法第34条、第37条第3項)など弁護士に関する規定が憲法上初めて置かれた。これにより、弁護士の職務が人権擁護や司法制度にとって不可欠な存在であるとされた。この弁護士の新たな地位及びその職務を規律するため、1949年5月30日に改正弁護士法が成立し、弁護士法第1条により新たに「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」使命が設けられた(同年6月10日公布・同年9月1日施行。)。

改正弁護士法を受けて、1949年9月1日に当連合会が設立された。1950年5月12日に当連合会は第1回定期総会を被爆地である広島市で開催し、それに引き続いて平和大会を開催して、次の平和宣言を採択した。

「日本国憲法は世界に率先して戦争を放棄した。われらはこの崇高な精神に徹底して、地上から戦争の害悪を根絶し、各個人が人種国籍を超越し自由平等で且つ欠乏と恐怖のない平和な世界の実現を期する。右宣言する。」

この宣言に表れているとおり、戦争を放棄した日本国憲法の恒久平和主義(憲法前文及び第9条)を徹底することは、当連合会の原点である。そして、その原点は、戦前において国が戦争への道を推し進めようとしているときに、弁護士及び弁護士会がそれに必ずしも十分な対応ができず、むしろそれを推し進める役割の一翼を担ってしまったことへの真摯な反省と痛切な教訓に基づくものである。


3 立憲主義違反を阻止するのは弁護士及び弁護士会の当然の責務

憲法をないがしろにすることは、憲法により守られている私たちの人権をないがしろにすることである。弁護士及び弁護士会の「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」という使命は国民からの期待と信頼に応えるものであるが、今この立場から意見を述べ行動しなければ、弁護士及び弁護士会は、先の大戦への真摯な反省と、そこから得た痛切な教訓を生かせないことになる。

当連合会はこれまでも、2013年5月の第64回定期総会において「集団的自衛権の行使容認に反対する決議」を、2014年5月の第65回定期総会において「重ねて集団的自衛権の行使容認に反対し、立憲主義の意義を確認する決議」を採択した。また、2014年9月には「集団的自衛権の行使容認等に係る閣議決定に対する意見書」を、2015年2月には「『日米防衛協力のための指針の見直しに関する中間報告』及びこれに基づく見直しに対する意見書」を採択してきた。

平和宣言に示された私たちの原点を踏まえたとき、日本国憲法の基本原理である基本的人権の保障と恒久平和主義に反する法律が制定されようとし、立憲主義が脅かされている今、これに対して、基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とし、日本国憲法の掲げる平和な世界の実現を期すると宣言した私たち弁護士及び弁護士会が、人権と平和を守るために意見を述べ、行動することは当然の責務である。



第6 結論
私たちは、1950年の第1回定期総会(広島市)に引き続いて開催された平和大会において、日本国憲法の戦争放棄の崇高な精神を徹底して、平和な世界の実現を期することを宣言した。私たちはこの決意を思い起こし、憲法の恒久平和主義や基本的人権の保障という基本原理及び立憲主義を守り抜くために、集団的自衛権の行使等を容認し自衛隊を海外に派遣して他国軍隊の武力行使を支援する活動等を認める、今般の安全保障法制等を改変する法案に強く反対するとともに、平和と人権、そして立憲主義を守る活動に国民と共に全力を挙げて取り組む。




『安全保障関連法案に反対する学者の会』

『安保法案に抗議声明 益川氏ら学者150人が会見』
                        朝日新聞2015年7月20日21時09分  編集委員・北野隆一



『安全保障関連法案に反対する学者の会』に賛同する大学教授ら約150人が20日、
東京都内で記者会見し、安保法案に対し「世論調査で反対多数の状況での強行採決は、
国民の意思を踏みにじる立憲主義と民主主義の破壊」とする抗議声明を発表した。
20日までに会の賛同者は学者1万1218人、市民2万2779人に上ったといい、
31日夕には学生らと共同で、集会や国会前での抗議行動をする予定。

 発起人でノーベル物理学賞受賞者の益川敏英・京都大名誉教授は
「安倍首相が有事と思えば戦争ができるようになる。立憲主義に真っ向から敵対している」と批判。
上野千鶴子・東京大名誉教授は「新国立競技場は市民の声で白紙に戻った。言えば通る。
もっと深刻な安保法案も廃案に追い込める」と呼びかけた。

 池内了・名古屋大名誉教授は「科学者の軍事研究への動員が始まっている。安保法案を打ち破り、
軍事研究をしない運動を広げたい」と述べた。高山佳奈子・京都大教授は「憲法を無視して
いいという国際世論はない。憲法に反する安保政策で、ジャーナリストやボランティアら
外国にいる日本人への危険は増す」と説いた。                        ◇

「安全保障関連法案に反対する学者の会」が20日に発表した、「安全保障関連法案の衆議院
特別委員会と本会議での強行採決に対する抗議声明」の全文は以下の通り。
 



安全保障関連法案に反対する学者の会

         「安全保障関連法案に反対する学者の会
                     市民の賛同者をなお募っています。



                         ◆
               

 7月15日衆議院特別委員会、翌16日本会議で、集団的自衛権の行使を容認することを
中心とした違憲性のある安全保障関連法案が強行採決されたことに、私たちは強い怒りを
こめて抗議します。

 各種世論調査では、戦争法制としての本質をもつ安全保障関連法案に反対が多数となり、
8割を超える大多数が今国会での成立は不必要としていた状況の中での強行採決は、
主権者としての国民の意思を踏みにじる立憲主義と民主主義の破壊です。

 首相自身が、法案に対する「国民の理解が進んでいない」ことを認めた直後の
委員会採決強行は、現政権が国民世論を無視した独裁政治であることを明確に示しています。

 衆議院憲法審査会で3人の憲法学者全員が安全保障関連法案は「違憲」だとし、
全国のほとんどの憲法学者が同じ見解を表明しているにもかかわらず、今回の強行採決が
行われたことは、現政権が学問と理性、そして知的な思考そのものを無視していることの
あらわれです。

 戦後の日本は憲法9条の下で、対外侵略に対して直接的な関与はしてきませんでした。
政府は「安全保障環境の変化」を口実に、武力行使ができる立法を強行しようとしていますが
戦後日本が一貫してきた隣国との対話による外交に基づく信頼関係こそが、脅威を
取り除いてきたという事実を見失ってならないと思います。

 私たちが6月15日に表明した見解は、多くの学者、大学人に共有され、いくつもの大学で、
学生と教職員が一体となった取り組みが行われました。私たちは参議院での審議を
注意深く見定めながら、立憲主義と民主主義を守り、この法案を廃案にするために、
国民とともに可能なあらゆる行動を実行します。

 2015年7月20日

 安全保障関連法案に反対する学者の会


『学問は権力の下僕ではない…京大有志の声明』

学問は権力の下僕ではない…京大有志の声明、共感広がる
                  朝日新聞2015年7月18日22時20分     増谷文生

                             


 衆院を通過し、審議が参院に移ることになった安全保障関連法案。憲法学者らから「法案は違憲」
との指摘を受けながら成立へ突き進む安倍政権に対し、一風変わったメッセージで待ったを
かけようとする動きがある。インターネットや口コミを通じ、賛同者がじわり広がっている。

 安保法案の採決が衆院特別委員会で強行された15日の前夜、京都大吉田キャンパス
(京都市)の教室で、詩のような声明書が読み上げられた。
 京都大人文科学研究所で准教授を務める藤原辰史(たつし)さん(38)が、ゆっくりと読んでいく。
学者、研究者、市民合わせて賛同者が3万人を超えた「安全保障関連法案に反対する学者の会」
と学生たちによる緊急シンポジウムの場。約600人の参加者でぎゅうぎゅう詰めになり、
熱気が漂う教室が静寂に包まれる。

 太平洋戦争が終わってから70年。沖縄の人たちは今も米軍基地と向き合う。
集団的自衛権を使い、自衛隊が海外で武力を行使することを認める安保法案は
様々な危険性をはらむ。
 戦後70年間、憲法9条のもとで戦争を放棄してきた日本。声明書は、こうした姿勢を
変えて米国との関係を強化したうえでの「積極的平和主義」を推し進めようとする安倍政権に
疑問を投げかける。そして、太平洋戦争で大学が戦争に協力したことへの反省も込め、決意を示す。

 藤原さんが1分半ほどかけて読み終えると、教室内に拍手が10秒ほど続いた。

   ■ □ ■

 声明書を作ったのは、今月2日に立ち上がった「自由と平和のための京大有志の会」。
ふだんは戦時中の食べ物の歴史を研究する傍ら、安保法案などについて同僚や学生と
議論している藤原さんが草稿を書いた。

 ホームページ(http://www.kyotounivfreedom.com/)に声明書を載せると、ツイッターなどを
通じネット空間に拡散。「歴史をふまえた名文」「ハートを撃ち抜かれました」といった書き込み
とともに賛同する人も増え、フェイスブックで賛意を示す「いいね!」は1万9千件に達した。
北海道や静岡などの集会で声明書を読んだという連絡も寄せられ、藤原さんは「勇気づけられます」
と話す。

 教員や留学生には翻訳を買って出る人も。英語、中国語、韓国語、ポーランド語、イタリア語、
アラビア語などの声明書ができ、ホームページに載っている。藤原さんは「学者、学生、市民が
自由に発想し、議論ができる勉強会を企画していく。市民の目線で戦争の愚かさ、平和や自由の
大切さについて考え、その成果を発信していきたい」と話している。(増谷文生)
   


                      ◇

■「自由と平和のための京大有志の会」の声明書(全文)


戦争は、防衛を名目に始まる。

戦争は、兵器産業に富をもたらす。

戦争は、すぐに制御が効かなくなる。


戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。

戦争は、兵士だけでなく、老人や子どもにも災いをもたらす。

戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。


精神は、操作の対象物ではない。

生命は、誰かの持ち駒ではない。


海は、基地に押しつぶされてはならない。

空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。


血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、

知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。


学問は、戦争の武器ではない。

学問は、商売の道具ではない。

学問は、権力の下僕ではない。


生きる場所と考える自由を守り、創るために、

私たちはまず、思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない。







『日本の歴史家を支持する声明』

歴史「偏見なき清算を」 米の日本研究者ら187人声明

米国の歴史研究者らが公表した声明の全文は次の通り。(原文のまま)


日本の歴史家を支持する声明(全文)
                             朝日新聞2015年5月7日21時22分


     ◇


 下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第2次世界大戦
に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。
私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。
この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、
われわれが共有する関心から発せられたものです。

 また、この声明は戦後70年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに
70年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、
自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し
他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。

 しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを
認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因と
なっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。
この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられて
きました。そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な
考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上に
たえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。

 元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために利用されると
すれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、被害者自身の尊厳をさらに
侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼女たちの身に起こったことを否定したり、
過小なものとして無視したりすることも、また受け入れることはできません。20世紀に
繰り広げられた数々の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、
「慰安婦」制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、
そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、
特筆すべきものであります。

 「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなりの部分は
破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも記録されていなかった
かもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の管理に対する日本軍の関与を明らかに
する資料は歴史家によって相当発掘されていますし、被害者の証言にも重要な証拠が
含まれています。確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもって
いません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の
証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。

 「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に
正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも
重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が
落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われた
という歴史の事実を変えることはできません。

 歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が「強制的」に
「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、
大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、
既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を
重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、
被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、
より広い文脈を無視することにほかなりません。

 日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、
歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。
この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、
そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。
そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。

 多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、いまだに難しいことです。第2次世界大戦中に
抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに
40年以上がかかりました。アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束された
にもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに1世紀を待たねば
なりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くっています。
米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、19・20世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる
人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、
十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。

 今日の日本は、最も弱い立場の人を含め、あらゆる個人の命と権利を価値あるものとして
認めています。今の日本政府にとって、海外であれ国内であれ、第2次世界大戦中の
「慰安所」のように、制度として女性を搾取するようなことは、許容されるはずがないでしょう。
その当時においてさえ、政府の役人の中には、倫理的な理由からこれに抗議した人がいた
ことも事実です。しかし、戦時体制のもとにあって、個人は国のために絶対的な犠牲を
捧げることが要求され、他のアジア諸国民のみならず日本人自身も多大な苦しみを被りました。
だれも二度とそのような状況を経験するべきではありません。

 今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に
立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。4月のアメリカ議会演説において、
安倍首相は、人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを
直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを賞賛し、その一つ一つに
基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。

 過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国のあいだの協力関係を養います。
「慰安婦」問題の中核には女性の権利と尊厳があり、その解決は日本、東アジア、そして
世界における男女同権に向けた歴史的な一歩となることでしょう。

 私たちの教室では、日本、韓国、中国他の国からの学生が、この難しい問題について、
互いに敬意を払いながら誠実に話し合っています。彼らの世代は、私たちが残す過去の記録と
歩むほかないよう運命づけられています。性暴力と人身売買のない世界を彼らが築き上げる
ために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り
全体的で、でき得る限り偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。


署名者一覧(名字アルファベット順)

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『70年談話』

戦後70年の節目に安倍晋三首相が出す「安倍談話」をめぐり、国際政治学者ら74人が
17日、共同声明を発表した。以下、朝日新聞からの転載。



学者ら74人の「戦後70年総理談話について」声明全文
                             朝日新聞2015年7月17日20時11分



「日本が過ち、潔く認めるべきだ」学者ら74人が声明


 この夏、安倍晋三総理大臣が戦後70年に際して発表すると報道されている談話について、
日本国内でも海外でも強い関心が寄せられております。

 下記に名を連ねる私共国際法学、歴史学、国際政治学の学徒は、日本国の一員として、
また世界に共通する法と歴史と政治の問題を学問の対象とする者として、この談話にかかわる
諸問題について多年研究に携わってまいりました。

 私共の間には、学問的立場と政治的信条において、相違があります。しかしながら、そのような
相違を超えて、私共は下記の点において考えを同じくするものであり、それを日本国民の皆様と
国政を司る方々に伝え、また関係する諸外国の方々にも知って頂くことは、専門家の社会的責任
であると考えるに至りました。ここに以下の所見を明らかにする次第です。


(1)戦後70年という節目に表明される総理談話は、なによりもまず、大多数の国民が飢餓に苦しみ、
多くの都市が灰燼に帰していた1945年の日本から、今日の平和で豊かな日本を築き上げた
先人達の努力に対して深甚な感謝の意を捧げ、そうした日本を誤りなく次の世代に引き渡して
行くという国政の最高責任者の意志を日本国民に示すものであるべきであります。
このことは、戦後50年、60年たると70年たるとを問わない、先世代と将来世代の国民に対する
現世代の国民の責任であり、この点広く社会の合意があるものと考えます。

(2)また、こうした戦後日本の復興と繁栄は日本国民の努力のみによるものでなく、講和と
国交正常化に際して賠償を放棄するなど、戦後日本の再出発のために寛大な態度を示し、
その後も日本の安全と経済的繁栄をさまざまな形で支え、助けてくれた諸外国の日本への
理解と期待、そして支援によるものでもありました。このことは、さまざまな研究を通して
今日よく知られております。こうした海外の諸国民への深い感謝の気持ちもまた示されるべきもの
と考えます。

(3)さらに、戦後の復興と繁栄をもたらした日本国民の一貫した努力は、台湾、朝鮮の植民地化
に加えて、1931-45年の戦争が大きな誤りであり、この戦争によって三百万人以上の
日本国民とそれに数倍する中国その他の諸外国民の犠牲を出したことへの痛切な反省に基づき、
そうした過ちを二度と犯さないという決意に基づくものでありました。戦争で犠牲となった人々への
強い贖罪感と悔恨の念が、戦後日本の平和と経済発展を支えた原動力だったのです。
戦後70年、80年、90年と時が経てば、こうした思いが薄れていくことはやむを得ないこと
かもしれません。しかしながら、実にこの思いこそ、戦後の日本の平和と繁栄を支えた原点、
文字どおりの初心であり、決して忘れ去られてはならないものでありましょう。

(4)このことは、戦後50年の村山談話に含まれ、戦後60年の小泉談話でも継承された「侵略」
や「植民地支配」への「痛切な反省」、「心からのお詫び」などの言葉を継承すべきか否かという、
世上論じられている点にかかわります。ある特定の言葉を用いるか否かで総理の談話の善し悪し
を論ずべきものでなく、ましてや「村山談話」という特定の総理談話の個々の言葉を継承するか
否かがその後の総理談話の質を決する基準でない、というのは多くの専門家、そしてなによりも
多くの国民が同意するところかもしれません。しかし、いかなる言葉で語られるかは、それが
国際的にも大きな影響をもつ責任ある文書を評価する上で、どの国でもどの時代でもきわめて
重要な基準です。政治を司る者は、こうした言葉の枢要性を誰よりも深く考える責務を負っている
はずです。このことは、歴史と法と政治を研究してきた私共が、日本の為政者に対して
特に強く申し上げたいところです。

(5)言葉の問題を含めて、「村山談話」や「小泉談話」を「安倍談話」がいかに継承するかは、
これまでの総理自身の言動も原因となって、内外で広く論ぜられ、政治争点化しております。
このことは、国内もさることながら、中国、韓国、米国などを含む、日本と密接な関係をもつ国々で
広く観察される現象です。こうした状況の下では「安倍談話」において「村山談話」や「小泉談話」
を構成する重要な言葉が採用されなかった場合、その点にもっぱら国際的な注目が集まり、
総理の談話それ自体が否定的な評価を受ける可能性が高いだけでなく、これまで首相や
官房長官が談話を通じて強調してきた過去への反省についてまで関係諸国に誤解と不信が
生まれるのではないかと危惧いたします。安倍総理がしばしば強調される「村山談話」や
「小泉談話」を「全体として継承する」ということの意味を、具体的な言語表現によって明らかに
されるよう、強く要望するものです。

(6)以上に述べたことは、戦後70年談話が閣議決定を経ない「総理大臣の談話」であっても
変わりはありません。日本の内外において総理大臣は国政の最高責任者として日本を代表する
立場にあり、閣議決定の有無といった問題は、一般国民にとって、ましてや海外の諸国民にとって
ほとんど意識されることはありません。肝心なのは談話の中身です。70年談話がその「言葉」ゆえに
国際社会で否定的に受け取られ、その結果、過去と現在と将来の日本国民全体が不名誉な
立場に置かれ、現在と将来の日本国民が大きな不利益を被ることのないよう、安倍総理が
「談話」で用いられる「言葉」について考え抜かれた賢明な途をとられることを切に望むものです。

(7)日本が1931年から45年までに遂行した戦争が国際法上違法な侵略戦争であったと認める
ことは、日本国民にとって辛いことであります。その時代、先人達は、現世代を含む他のどの時代の
日本国民よりも厳しい試練に直面し、甚大な犠牲を被りました。そうした先人の行為が誤っていた
ということは、後生のわたしたちが軽々しく断ずべきことではないかもしれません。しかしながら、
日本が侵略されたわけではなく、日本が中国や東南アジア、真珠湾を攻撃し、三百万余の国民を
犠牲とし、その数倍に及ぶ諸国の国民を死に至らしめた戦争がこの上ない過誤であったことは、
残念ながら否定しようがありません。そしてまた、日本が台湾や朝鮮を植民地として統治したことは、
紛れもない事実です。歴史においてどの国も過ちを犯すものであり、日本もまたこの時期過ちを
犯したことは潔く認めるべきであります。そうした潔さこそ、国際社会において日本が道義的に評価され、
わたしたち日本国民がむしろ誇りとすべき態度であると考えます。

(8)この点に関連して、安倍総理を含む歴代の総理は、侵略の定義は定まっていないという
趣旨の国会答弁などを行っておりますが、これは学問的には必ずしも正しい解釈とは思われません。
なによりもそうした発言は、日本が1931年から遂行した戦争が国際法上違法な侵略戦争であった
という、国際社会で確立した評価を否定しようとしているのではないかとの疑念を生じさせるものであり、
日本に大きな不利益をもたらすものと考えます。

 20世紀前半の国際社会は、第一次大戦の甚大な惨禍を経験して、戦争を違法化する努力を
重ねて来ました。1928年の不戦条約はその代表であり、日本も締約国であった同条約は
自衛以外の戦争を明確に禁止しておりました。1931年に始まる満州事変が1928年の
張作霖爆殺事件以来の関東軍の陰謀によって引き起こされたものであったことは、歴史学上
明らかにされております。当時の日本政府はこれを自衛権の行使と主張しましたが、国際連盟は
その主張を受け入れませんでした。その後の日中戦争、太平洋戦争を含めた1931-45年の
戦争が名目の如何と関係なく、その実質において日本による違法な侵略戦争であったことは、
国際法上も歴史学上も国際的に評価が定着しております。

 戦後国際社会は一貫してこうした認識を維持してきたのであり、これを否定することは、
中国・韓国のみならず、米国を含む圧倒的多数の国々に共通する認識を否定することになります。
戦後70年にわたって日本国民が営々と築き上げた日本の高い国際的評価を、日本が遂行した
かつての戦争の不正かつ違法な性格をあいまいにすることによって無にすることがあってはならない。
これが専門研究者としての私共の考えであり、同時に多くの日本国民が共有する考えでもある
と確信しております。


 1924年、神戸で行われた有名な大アジア主義演説において、孫文は日本が西洋覇道の鷹犬
となるか東洋王道の干城となるか、と日本の国民に問いかけました。私共は西洋を覇道と結び付け、
東洋を王道と結び付ける孫文の見解を必ずしもそのまま受け入れるものではありませんが、
中国が欧米列強と日本によって半ば植民地の状態にされていた当時の状況下において、
この問いかけはまことに正鵠を得たものであったと考えます。残念ながら日本は覇道の道を歩み、
その結果ほとんど国を滅ぼすに至りました。

 戦後日本はこのことを深い教訓として胸に刻み、世界に誇りうる平和と繁栄の道を歩んで
参りました。日本が将来にわたってこの王道を歩み続け、戦後築き上げた平和で経済的に繁栄し
安全な社会をさらに磨きあげ、他の国への経済・技術・文化協力を通してそれを分かち合い、
国民が誇り得る世界の範たる国であり続けて欲しいと願わずにはいられません。
私共は、歴史、国際法、国際政治の研究に携わる学徒として、いやなによりも日本国の一員
として、そう考えます。

 総理が、戦前と戦後の日本の歴史に対する世界の評価に深く思いを致し、現在と将来の
日本国民が世界のどこでもそして誰に対しても胸を張って「これが日本の総理大臣の談話である」
と引用することができる、そうした談話を発して下さることを願ってやみません。


                                              2015年7月17日



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『6分でわかる安保法制』

海空居士さんのところからお借りしてきた動画。
今回の安保関連法制について、簡潔に、わかりやすく説明してくれています。
あの若い人たちの活動、『SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)』が
制作した映像です。

多くの人に見てほしい。
ご紹介と拡散、お願いします。




すみません。画像が削除されて見られなくなってしまっているので、リンクURL貼り直しました。






『戦争法案反対!自公を許さない』

昨日15日、私は、国会前の抗議行動に行っていた。

そして、今日、2015年7月16日。
今、衆院本会議をネット配信『国会を見よう!』で見ながら、これを書いている。

この同じ時間、国会前では、若い人々を含めた多くの人々が、台風の影響下の
吹き降りの雨の中、今も抗議行動を続けているであろう。

今日は、私は、彼らへの強い連帯の想いをこめ、ネット上でリアルタイムで、深い怒りと
抗議を訴えていきたい。
写真をとりあえず先に載せ、記事本文は順につけ加えていく…ので、記事は時間を追って
長くなっていくだろう…


                       ***



この安保関連法案は日本の国のかたちを根底から変えてしまうほどの重大な
内容を多く含んだものである。
それは、日本がこれまで憲法の精神にしたがい守ってきた平和主義をかなぐり捨てる
という重大な問題を抱えたものであるだけでなく、日本が同じく守ってきた三権分立の
原則を弱体化
立憲主義の思想を蹂躙し、さらには、さらには国民主権という
根本的な原則までもを破壊
する、おぞましいものである。 


5月26日この安保関連法案の審議に入って以降、公共放送であるNHKが、
異常に思えるほど、この重大な重大な法案審議を中継放送しなかったことに、
まず強く抗議する。


(ああ!
本会議で可決されてしまった!!!!!!!!!!!!!)

ここから先は、深い悲しみと火のような怒りをもって、書いていく。



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衆議院特別委員会で、安保法制関連法案が可決されてしまった15日は、東京はこのような
美しい青空だった。




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抗議集会は一応午後6時半からであったけれど、私は、2時間ほど前に行ってみた。

国会議事堂正面に道路を挟んで位置する国会前庭には、『憲政の神様』『議会政治の父』
と言われる尾崎行雄を称える憲政記念館のある北地区の洋風庭園と、南地区の和風庭園がある。
これは南地区和風庭園の方。
ここで、抗議行動が始まるまでの時間、簡単に腹ごしらえして、静かに本でも読んでいよう
と思っていたのだが、5時閉園ということで追いだされてしまった…

でも…私にとっては、今年初めての蝉の声を、ここで聴いた。
このような、歴史の悪い方への転換点ともなろうという日に…と、なんだかしんみりとして、
まだそれほど『降るように』ではない、どこか若々しいミンミンゼミの声を聴いていた…



2015_0715_182437-CIMG4838.jpg


仕方ない。議事堂からまっすぐのびる道路を渡って、北地区の方の舗道に行く。
このとき、5時少し過ぎ。
もう、かなりの人がこうやって木陰の石垣に席をとっている…



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この日の抗議行動は、6時半頃の時点で2万5千人と主催者が発表。
だが、これまでのデモと比べた私の感覚では、そんなに少なくはない…4万人はいるんじゃないか
と思っていたが、後に修正されたか、今朝などのネットでは、6万人となっていた。
…う~ん……それほどまではいたかな…どうかな…
でもまあ、6時半過ぎて、続々と、会社や学校を終えた若い人々などが集まって来たので、
結果そのくらいは行ったろうか。
いつも書くことだけれど、警察の規制が厳しく立ち入りできない区画があることと、
主催者の事故予防の見地からか、とにかく集まってきた人々は分散させられる。
また、私を含め老齢の参加者たちは、警官の規制に概しておとなしく従うので、
議事堂正面から遥かに離れたところにまで分散して場所取りをしてしまうので、
「ああ!大勢集まったなぁ!」という数の多さの可視化が、なかなかなされないのである。

私にしてみれば、せめて10万人は集まってほしかった…



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だが、若い人々は、やはりそうした、警察とおとなしい参加者の間に出来た暗黙のお約束
など気にしない。私は、北側の前の方にいて、身動きが取れなかったので、途中まで
気がつかなかったが、いつのまにか、警官隊の置いた歩道のコーンや、道路に出ないように
置かれた鉄柵などは大勢の若者の勢いで決壊していて、若い人たちは、正面の大道路に
もうこうして雪崩出ていたのだった。
若い人々…学生たちを中心としたSEALDsの主催する抗議活動では、これまでも、このように
決壊してたらしい。 さすが若い力! ^^
真ん中赤い幟旗の向うにうっすら、国会議事堂の建物が写っているのだが、見えますでしょうか。




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この日は、民主党岡田代表、共産党志位委員長などが、珍しく並び立つ集会となった。
どなたかもこの場での演説で言っていたけれど、日本の野党勢力や、リベラル派
と言われる人々の組織は、細分化して互いにけん制し合うことはあっても、こうして
堂々と共闘することは、最近はこれまで珍しいことだったのである。
私に言わせれば、そんなくだらないセクト主義がこれまで当たり前だったのこそが腹が立つ。
だが、今回の危機はそんなことを言っていられないほど重大である。
安倍首相を中心とした戦争法案及び改憲を推進する勢力の国会で占める数と力は大きく、
それが戦後70年の曲がりなりにも平和主義や立憲主義、国民主権貫いてきた日本を、
大きく根底から変えてしまおうとしている…
そのことへの危機感が、遅ればせながらの野党共闘を生み、また、これまで改憲論者で
あった人々までもが『反安倍や、民主主義の破壊への怒り』という一点で、
共に今、戦っているのだと言えよう。


とりあえずこの記事は、15日の抗議行動を伝えることを主として、私のこの日
胸の内に抱いていた怒りの数々については、次の記事から書いていく。
無論、『この国の行方』はまだ書き終わっていない。続けて書いていくつもりだ。

だが、最後に一つ。

この日、みんなが主に集まっていたこの国会議事堂正面の、国会前庭北地区には、
先ほども触れたように、『議会政治の父』と呼ばれた尾崎行雄の記念館がある。

この一カ月、自分の考えをまとめるためにも、書かれたものも読んだし、国会中継も
ネットで出来るだけ見たりしていた。 
その多くの情報の中で、ネット配信がなかった審議を直接傍聴に行った方の報告…
あるサイト記事へのコメント欄にあったものであるが、心に残ったので、
ご本人の了解は得ていないが、ご紹介する。
5月26日の回の傍聴に行った(…大学名が書いてあったから大学生だろうか)人の
感想。
民主党幹事長・枝野幸男氏の質疑をその人が聴いた。その質疑からの引用である。

『「衆議院にしていやしくも立言議定の府ならんや、賛否の議論、
いまだ半ばに至らざるに当たって、討論終結の声、既に四方に沸く、
わが国には表決堂ありて議事堂なし」(尾崎行雄の言葉)
再び本院は表決堂とのそしりに甘んじることになるのか、それとも、
堂々たる立言議定の府たり得るのかが問われている。』



枝野氏の言や良し。
…しかし、とにかく悪法は衆院を通過してしまった…


…次は、日本の国会両院で『良識の府』『再考の府』、と俗に言われる参議院での
審議に移る。今の参議院に、『良識の府』と言われる見識ありや、と問うと、残念ながら
その役割は全然果たしていないように思われる。

これからの国会での安保法制審議の手順を、一応載せておくと。


審議国会
(図は、弁護士ドットコムニュースhttp://www.bengo4.com/other/1146/1307/n_3391/さんからお借りしました)


参議院で過半数の賛成を得れば、この戦争法案は、それで可決。
否決されるか、あるいは、60日を経過した場合は、もう一度衆議院に戻して再審議。
三分の二の賛成を得れば、その場合も可決する。

「なんだ!それじゃ、参議院ってあんまり意味がないじゃない?議員たちの給料も無駄だし、
いっそ、参議院なんてなくして、一院制にしてしまった方がいいんじゃない?」
…そう思いたくなる。だが。だが、ちょっとそれは待った!
今の安倍政権の現状を見てわかるとおり、行政権を握る内閣(政府)が、自分たちの
恣意で政治をいわば私有化する…すなわち政府が行政権をほしいままにして暴走する
ということが起こりうる。それを見越して、憲法では三権分立を謳い、
ありとあらゆる方法で、政治の暴走に縛りをかけているのである。
内閣に法制局があるのも(安倍政権以前には、『あった!』…)、この縛りの
一つなのである。
国会が衆参両院の二院制になっているのも、その縛りのひとつなのだ。
衆議院の議席の多数を占めれば内閣総理大臣を選定・指名して政権与党となることができる
という我が国の政治の仕組み上、権力が多数政党にどうしても集まりやすい。
つまり、内閣と一体化した衆院の、そして内閣の、暴走の下地ができやすいということだ。
参院は、それをチェックする役割をある意味担う。また、国会での審議を慎重に行うという
牽制力にもなるはずなのである。
本来は。

だからこそ、参院の役割は実は大きいのである。
今の日本のように、衆参両院の多数を自公が握っている状態、…それは『決められる政治』で
あるかも知れないが、 『決められる政治』ほど恐ろしいものはない!
ということを、私たち国民は、胆に銘じて覚えておく必要がある!!!

そうして。参議院議員には、良識のひと、を、心して選ぶよう努力すべきである。
ただ面白そうだから、とか、顔がいいとか、育ちが良さそうだから、有名だから、とか、
そういう理由で安易に票を入れてはいけない!これはしかし、衆議院議員、地方議会議員でも
同じことであろう。
結局、政治の質は、そのままその国の民度を表してしまうのだ!


憲政記念館を近くに感じながら…、日本の憲政の歴史を想いながら…、
そんなことを、もういちど、心にしっかり刻みなおしておきたいと思った…。

あきらめるのはまだ早い。
あきらめるわけにはいかないのだ!!!


政治の暴走を止める、究極の、そして最後の縛りは、国民の声である!!!









『この国の行方 ⑤』

集団的自衛権に話をもどそう。
本当は、このシリーズ記事の、『この国の行方 ④』の、『4.集団的自衛権ってどんなもの?』
というところで、続けて書こうとしていたことだ。

集団的自衛権行使について議論するとき、その行使を容認する者も、行使は出来ない、
とする者も、集団的自衛権、というものが、国連憲章第51条で認められている、という
大前提のところから議論を出発させているように私には思えるのだ。
前者は、国連憲章で認められているのだから、と言い、後者は、国連憲章で認められていても、
日本には国の最高法規である憲法があって、そこでは9条で、『武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』
と明記してあるのだから、
集団的自衛権行使は憲法違反である、と主張する。

今、もう明日中にも、戦争法案が衆院を通過してしまうかというときに、悠長に
集団的自衛権の考えかたの成立の歴史になど戻っていられるか!とも思うのだが、
案外、本質的な問いを含んでいるようにも思えるので、書いてみたい。


7.集団的自衛権の考えかたは、そもそもどうやって生まれて来たか。

以下の歴史の記述は、ほぼ全面的に下記のサイトの歴史記述を参照し、そこに私自身の
解釈を加えてあるので、私のバイアスのかからない客観的詳細をお知りになりたい方は、
原文をお読みください。およそ賛成の立場でも反対の立場でもないところから書いておられる。
『集団的自衛権の法的性質とその発達―国際法上の議論―松葉真美』

国連憲章のそもそもの原型は、1944年10月9日、米英ソ中の4か国による会議を経て
発表された「一般国際機構設立のための提案」、いわゆるダンバートン・オークス提案である。
ここで、国連の基本構想、例えば、
①五大国(米英ソ中仏)と6か国の非常任理事国で安保理を構成
広範な武力不行使の原則、
集団安全保障制度などという
集団安全保障と地域的安全保障について規定した、今の国連憲章第7章及び第8章の
基本構想がほぼここに提案されたのである。

だが実は、自衛権を規定した国連憲章第51条に相当する条項は、ダンバートン・オークス提案
にはまだ見当たらなかった。

翌1945年2月に米英ソの首脳が集ってヤルタ会談が開催された。
ここで、『大国の拒否権』の規定が取り入れられることが決定した。
それについて特に憂慮を示したのが、米州諸国であった。米州では、ダンバートン・
オークス会議のずっと以前から、平和と安全に関する地域的機構の設立に向けた
動きが進められていた。
地域的機構の自立を望む米州諸国は、1945年、チャプルテペック協定(Act of Chapultepec)調印。
米州のある一国に対する攻撃は、米州すべての国に対する侵略行為とみなす旨の
共同防衛体制の構築であり、侵略に対しては武力を含む防衛措置をとる、
ということが規定された。

しかしヤルタ会談において決定された安保理の表決方法では、拒否権を有する国は、
自らが加盟していない地域でも、地域的機構の強制措置を阻止することが可能となる。
つまり、5常任理事国の一致がない場合には、地域的取極や地域的機関による
強制行動は不可能という結果になることになる。
米州諸国は、そのような制度は、独力で他国からの攻撃を排除できる大国はともかく、
そうした力を有しない中小国の平和と安全を無視するものであるとして強く反対した

そしてその懸念は、1945年3月22日に相互援助義務を約束したアラブ連盟規約
(Pact of the Arab League)に署名したアラブ連盟にも共有されていた。

こうした動きの中、1945年サン・フランシスコで、国際連合設立のための連合国会議
が開催
され、ダンバートン・オークス提案が検討された。
米州諸国は、米州の地域的共同防衛体制の自立が国連憲章上保障されるのでなければ
会議から脱退すると強硬に唱え、会議は一時「ラテン・アメリカの危機(Latin American
Crisis)」とも呼ばれる現象に見舞われた。

そのため、修正案が、検討された。
最終的に第四専門委員会の最終報告書として提出されたのは、米国提案の、
『緊急の必要性に迫られた防衛活動に限り、安保理の事前の許可を不要とする』というもの。
これは集団的自衛権を規定した現在の国連憲章第51条とほぼ同一の内容であった。
その後、新条項は、国連憲章第51条として本会議で正式に採択された。

このように、国連憲章第51条、特に集団的自衛権は、地域的機構の自立の確保を目指す米州
諸国の動きに端を発し、最終的には、地域的取極の枠を超えて、武力攻撃の開始から
安保理による措置までの間隙を縫う機能として規定された。
集団的自衛権は、安保理を中心とした集団安全保障体制を維持しつつ、地域的機構による
防衛行動の自立性を保障するための「アイデア」であり、サン・フランシスコ会議で急遽
考案されたものだったのである。


さて。長々と、集団的自衛権の歴史を書いてきたが、みなさん、どう思われるだろうか。
私は、ある種の悲しみをもって、この歴史を読んだ。

断っておくが、ここで、『米州』と記されている地域は、アメリカ合衆国の州のことではない。
ここで言う『米州』というのは、南北の両アメリカ大陸、およびカリブ海を含む周辺の島嶼・海域の総称
である。

私は、集団的自衛権を認める国民憲章第51条が設定されたきっかけが、
五大国の拒否権に対する米州の懸念から生まれたと知った時、最初、心の内で
小さく『なるほどね!』と言ったのである。
私はその時点で大きな勘違いをしていた。
私は、アメリカという大国をすぐ傍に持つ中南米の弱小国諸国が、文字通りの大国である
アメリカがさらに拒否権を持つことによって、中南米諸国が自衛のために結束することにも
大きく干渉することを許してしまうという怖れから、チャプルテペック協定を結び、また、
サン・フランシスコでの国際連合設立のための連合国会議において、米州の地域的
共同防衛体制の自立が国連憲章上保障されるように強く求めたのだと思っていたのである。

『米州諸国は、そのような制度は、独力で他国からの攻撃を排除できる大国はともかく、
そうした力を有しない中小国の平和と安全を無視するものであるとして強く反対した』
という表現に、大きな読み違えを起こしてしまったのである。

だが、違っていた。チャプルテペック協定には、アメリカ合衆国も入っているのである。
すなわち、『米州』という定義には、アメリカ合衆国も入っている。
そうなると、話が全然違ってくる…。
アメリカ合衆国を含む米州諸国は、一体、五大国のいずれの拒否権を念頭に置いて
この、集団的自衛権につながる地域的共同防衛権を国連憲章に盛り込むことを
強く求めたのか?
…それは、ソ連相手、以外に考えられない。

実際、この1945年のチャプルテペック協定の概念は、1948年に調印されたボゴタ憲章に
ひきつがれ、1951年、米州機構(略称:OAS)という国際機関になっている。
南北アメリカの国々の平和と安全保障・紛争の平和解決や加盟諸国の相互躍進を謳う。
本部はアメリカ合衆国のワシントンD.C.。 事務総長も、同機構の歴史上、米国が支持
しなかった候補が選ばれたのは歴代2005年チリのホセ・ミゲル・インスルサがはじめて、
というから、極めて大国アメリカの意向のかかった組織であったと言えるだろう。
ボゴダ憲章~米州機構は、当初、アメリカ合衆国主導の反共主義同盟の色合いが濃く、
アメリカによる中南米支配の道具と言われ、
『アメリカの共産圏に対する封じ込め政策の一環』とも言われていたという。
ケネディ政権の時のキューバ危機を思い起こす…。
だが、その後の米州機構は、そう単純な動きはしない。親米と反米との間で揺れ、
また、内乱や国境紛争、民族自決の理想との間で、複雑に揺れているように見える…
2011年12月には、 ベネズエラの呼びかけでラテンアメリカ諸国により、北アメリカ
(アメリカ合衆国とカナダ)を排除しキューバを受け入れる「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体」

が結成されている。
一方、1962年の決議で、米州機構から追放されたキューバ(2009年、キューバの復帰を認めて
いる)、とアメリカ合衆国が、今、和解の道を模索中であることは皆さんもご承知の通り。

さて。
このように、国連憲章に、個別的自衛権や集団的自衛権を明示する第51条が盛り込まれた
歴史を見てくると、そもそもの最初から、米英ソ中仏という五大国の思惑、とりわけ
アメリカ合衆国のそれが、大きく働いていたことがわかる。
(アメリカが敵対視していたソヴィエト連邦もまた、この集団的自衛権を、他国への
軍事介入の口実としていく…)
…こうして国連憲章に集団的自衛権が規定されると、北大西洋条約機構(NATO)
のような、この新しい自衛権を認める様々な相互援助条約が世界中で次々に締結
されるようになっていったのである。

さて。実際に、この集団的自衛権が行使されたと認められているか或いは当事者が
その行使の正当性を主張している例というのは、過去にどんなものがあるのか。



8.集団的自衛権の行使」と主張された主な軍事介入の例


● 1956年 ハンガリー軍事介入(旧ソ連)
● 1958年 レバノン軍事介入(アメリカ)
● 1958年 ヨルダン軍事介入(イギリス)
● 1964年南アラビア連邦軍事介入(イギリス)
● 1964年~75年 ベトナム戦争(アメリカ、)
● 1968年 チェコ侵攻(旧ソ連・ワルシャワ条約機構)
● 1979年 アフガニスタン戦争(旧ソ連)
● 1981年 ニカラグア侵攻(アメリカ)
● 1981年チャド軍事介入(リビア)
● 1983年チャド軍事介入(フランス、アメリカ)
● 1983年アンゴラ軍事介入(キューバ) 
● 1983年 グレナダ侵攻(アメリカ)
● 1988年ホンジュラス軍事介入(アメリカ) 
● 1990年~91年 湾岸戦争(アメリカ)
● 1993年タジキスタン軍事介入(ロシアなど)
● 1998年コンゴ民主共和国軍事介入(ジンバブエ、アンゴラ、ナミビア) 
● 2001年 アフガニスタン戦争(アメリカ、NATO)
● 2014年イラク軍事介入(アメリカ)

以上は、集団的自衛権の行使が国連安保理に報告された例である。
2014年、ISILに絡んだ、アメリカ軍によるシリア領内への空爆も、記憶に新しい…

こう、過去の集団的自衛権行使例とされるものを見てきて、いやでも気付くのは、
その行使国は、米ソ英仏という国連の五大国がほとんどであるということである。

ここに書いたように、そもそも国連憲章に51条として、集団的自衛権の考え方が
導入された時、それは、独力で他国からの攻撃を排除できる大国はともかく、
そうした力を有しない中小国の平和と安全を守るため、というところから議論された
ものであった…


しかし、これまでの例では、米ソ英仏の大国による行使例がほとんどであり、しかも、
その正当性が甚だ怪しいものがあるのである。
外部からの武力攻撃の発生があって、被攻撃国による正当な援助要請があるという
集団的自衛権の要件を満たしていたのかが曖昧な事例や、内戦や自由化、独立運動
などに第三国が介入したものではなかったかという点について疑義のあるものなど、
集団的自衛権の濫用が疑われる事例が少なくない。
集団的自衛権の名を借りつつ、実は支援を依頼してきた当の国への本格的軍事行動に拡大
してしまう例などもある。
チェコスロバキアへの、ソ連とワルシャワ条約機構の侵攻などがそれである。
 *チェコスロバキア動乱 - 1968年にチェコスロバキアで起こった自由化運動の
   影響拡大を恐れたソ連および東欧諸国によるワルシャワ条約機構軍が、改革運動を
   鎮圧した事例。ソ連は軍事介入はチェコスロバキア政府の要請によるものと安保理で
   説明したが、チェコスロバキア政府はこれを否定。

ベトナム戦争、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻、湾岸戦争、9.11をきっかけにした
アフガニスタン戦争……ここに列挙した数々の事例…そのどれ一つを取り上げてみても、
親密な関係にある友国を同盟国として共に守るとか、友国への第三国からの攻撃が
自国に及ぶ恐れがあった、などという明確な例が見いだせるだろうか?

大国による集団的自衛権行使は、実は、民主化の弾圧、旧植民地の利権欲しさ、冷戦の代理戦争…
などという、ゆがんだ理由に基づいて行われたものがほんとうに多いのではないか。
大国が他国に軍事介入する際の言い訳、として使われてきたことばかりなのではないか。

どなたかがどこかで書いていた。
「『集団的自衛権』というものは、『侵略』と『自衛』という、本来は絶対に両立しないもの、
それどころかむしろ正反対であるものを包含する概念になってしまった』
と。

そうして今…日本国憲法の縛りがあるゆえに、集団的自衛権の行使を70年近く
求めてこなかった日本が…安部内閣という一内閣の盲執によって、その衆参両院での
圧倒的多数の力を背景に、強引に、集団的自衛権を行使する国に、まさに変えられていこうと
している…
集団的自衛権を口実に、数々の不当で不毛な戦争や軍事介入をしてきたアメリカと共に、
日本もまたとんでもない泥沼に踏み込もうとしている…。

集団的自衛権は、安倍首相やその取り巻き連が言うような、『自然権』などでは決してない。
ここに書いたような諸国間の思惑と駆け引き…とりわけ米ソなど大国の思惑の
強くにじむものであり、しかもそれは安保理が紛争解決に乗り出すまでの緊急措置として
人間によって考え出されたされたものである。
自然権は、ひとりひとりの人間が、生まれつくとから持っている天賦の権(特定の天が与えた、
というような狭い意味の言葉ではない)、誰からも奪われることのない崇高な権利…
例えば人権のようなもののことである。

自民党改憲案を見ればわかるが、いたるところで、国民の、不可侵の諸権利を、
『公益および公の秩序』のために制限するような思考が盛り込まれている!
国家、というものの元に、自国の国民の権利を制限するような思想を持つ政権に、
『集団的自衛権は自然権』などと、私は言って欲しくない!
そのような思想を持つ政権が、本当に自国の国民の『平和と安全と幸福』を
守ってくれるのであろうか??!!
また、本当に、世界の人々の『平和と安全と幸福』に貢献していけるのであろうか??!!



                       *

                      【付記】


* 上記、チャプルテペック協定に参加した、『米州』の国々は、どこどこだったのだろう。
それがすごく気になっていた。が、英文資料に、それを見つけたので、ここに書きくわえておく。

アルゼンチン、ボリヴィア、ブラジル、チリ、コロンビア、コスタリカ、キューバ、ドミニカ共和国、
エクアドル、エル サルバドル、グアテマラハイチ、ホンジュラス、メキシコ、ニカラグア、
パナマ、パラグアイ、ペルー、アメリカ合衆国、ウルグアイ、ヴェネズエラ
                                         以上の20カ国

* なお、念のためつけ加えておくが、ここに五大国の一として言及されている中国は、
いうまでもなく、1971年までは中華民国(台湾)を指す。
中華民国は、1945年から、国連・安全保障理事会の常任理事国の一つであった。
1971年、国連総会にて、国際連合総会決議2758が可決され、『中華人民共和国を
中国の唯一の正統な政府とし、「蒋介石の代表(中華民国)」を追放する』としたため、
中華民国は国連と国連機関から脱退。以降、中華人民共和国が安全保障理事会の
常任理事国をも含む代表権を獲得して、今に至っているのはご承知の通り。





『キャンドル・ナイト 52』

…ああ!…もう、7月かあ!……
月日が巡るのの速いこと!……

50…52回めのキャンドル・ナイトだ。

とても悲しい。

この4年間。あの東日本大震災や福島第一原発事故は、いったい、起こらなかったとでも
いいたいのか。
新・国立競技場に2520億円。それだけあったら、どんなにかいろいろなことが
出来るだろうに。
一度進み出したら、だれも止められない止めようとしないただ突き進み、
大きな大きな破たんや悲劇を生んでも、だれも責任を取らないというのが日本の体質だ。
あの侵略と戦争もそうだった…
この国の体質はちっとも変わっていない…

また、今宵だけは、心静かに小さなろうそく灯そうか。



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立派に育ったカイヅカイブキや八つ手や南天をかわいそうだが泣く泣く伐って、
がらんと寂しくなった庭に、4月からせっせといろんな低木や草花を植えた。
日当たりが悪いからとて植えることをあきらめてこれまで来たが、試みにダリアも植えてみた。
もともと中輪咲きの種類ではあるけれど、やはり日当たりが足りないか、そう大きな花は
咲かないが、それでも我が家のダリア1号だ。
カクタス咲きの白い花は、花のさしわたし14センチほど。
数日来の雨に打たれて、頑張って裏庭にひっそり一人咲いていたが、もうすぐ花も
散りそうなので、家の中に連れて来た。

小さな、ろうそくと、お話でもしているようでしょう…




心ひとつに キャンドルナイト






南亭さんバナー②


葉っぱさん、れんげちゃん。NANTEIさん。
今月もバナーお借りします。












『もう、時間がない!安保法制を止めるためにまだできること』

時間がない!

私はこの1年間、いったい何をしていたのだろう!

このまま行けば、来週中にも、安倍政権は、衆院での安保法制は十分時間をかけて
論議を尽くした、として、採決に進むだろう。
ご存じのように、衆院を通ってしまったら、事実上法案は通ったも同じだ。
昨年7月1日の閣議決定から、1年間もあったのに、一体私は何をしていたのか。

なんとか今からでも、法案を廃案にする手立てはないのかと、自分でも考え、
また、わずかな光明を求めて識者の声など探ってみるけれど、こういう方法があるよ、という
アイディアや知恵にはちっとも出会えない。
このまま手を拱いているしかないのか…

これからの数日に出来ることはなんだろう…。
とにかく、審議を長引かせ、期限切れに追い込むか、採決に臨む議員の良心と良識に
訴えかけられればいいのだが…。
それが可能であろうとなんだろうと、思いつくままに書きだしてみる。

① 国会周辺を、安部氏にとって一つのトラウマであるであろう60年安保時と
  同じ、30万人規模で取り囲む。
  今、学生たちが立ちあがった!SEALDsは日に日に賛同者を爆発的に増やして行っている。
  その主張もしっかりしている。
  憲法学者を含む学者たち、法曹界、宗教人、文学者、タレント…怒りの声は広がっている。
  世代や党派や分野を超えた巨大な連携で、国会をとり囲み、大きな圧力をかける。

② 公明党議員、創価学会員への働き掛け。
  かつて『平和の党』と自負した、庶民政党の感覚はどこへ捨てた!安倍政権のようなものの
  下駄の雪(踏まれても蹴られてもついていきます下駄の雪)になり果てることを残念に
  思っている議員や、学会員はたくさんいるはず。学会員からの突き上げ、政権内部からの反乱を。

③ 谷垣禎一氏、河野太郎氏など、自民党内に、まだ良識ある議員は、たくさんいるはず。
  谷垣氏はすっかり安倍政権に絡め取られてしまったように見えるが、きっと心の内では
  苦々しく思っているのではなかろうか。
  先月25日、安保法制をめぐり、自民党のリベラルな若手議員が、小林よしのり氏を
  講師に招き、勉強会を開こうとして、執行部から『時期が悪い』と言われ中止を余儀なくされた
  ことがあった。中止に追い込まれたのは、党内ハト派とされる「宏池会」(岸田派)の
  武井俊輔、無派閥の石崎徹両衆院議員らが立ち上げた「過去を学び『分厚い保守政治』
  を目指す若手議員の会」。
  こういう人々にも、メールやファックス、電話などで働きかけ、②と同じく、政権内部からの
  反乱を。

④ 採決に持ち込まれてしまう場合。
  日本の戦後70年の歴史を見直し、日本の将来を決定するような重要な法案なのであるから、
  投票に関して、個々の議員が自分の考えに従って意志を示せるように、党議拘束を外すよう
  求める。

⑤ 同じく、日本の戦後70年の歴史を見直し、日本の将来を決定するような重要な法案。
  それなのに、審議時間はまだまだ足りていないし国民の理解は得られていないどころか、
  各種調査によっても、この法案は今、無理して通すべきでないという声が圧倒的である。
  採決の判断を下すのは、議長。大島理森衆議院議長は、国対委員長を二度つとめ
  歴代最長在任記録を持つ国対族の大ベテラン。自民党国対にも、大きな影響力を持つ。
  戦後70年の国会の歴史に最大の汚点を残すことになるであろう今度の決定に、議長として
  汚名を残してしまうことのないよう、大島理森議長の良識に訴えかける。

⑥ 採決と直接関係ない市議会、県議会議員などにも抗議の声を伝える。
  彼等が一番恐れるのは有権者に見離されること。地元民の抗議の声が激しいという
  地方議員からの恐怖の訴えも、国政に与える影響は無視できない。


⑦ 安保法制成立、川内原発再稼働、辺野古工事決行…これらが同時に決まってしまえば、
  リベラル勢力は意気消沈してしまってもう立ち上がる力を無くすだろう、と書いた記事を見た。
  それを逆手に取る。戦争法案断固反対、川内原発再稼働反対、辺野古工事断念、
  それらと共に、今、大きな問題となっているオリンピック新国立競技場の杜撰見積もり、
  世界遺産認定問題、安部談話、など、全ての問題で同時に批判の声を上げる。
  『あべ、いやだよね』のムードを、国会議員の間にも広げる。


⑧ 以下は、日刊ゲンダイより。
  『国会の知恵袋”伝授 安保法制を廃案に追い込む「秘策と戦術」』
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/159985/3

  衆院事務局に33年間勤め、国会運営を熟知し“国会の知恵袋”とも呼ばれる
  元参院議員の平野貞夫氏のアドヴァイス。

 ・歴代の法制局長官や憲法学者などを多数呼び、見解を聞きたいと議院運営委員会(議運)
  に迫ることだ。「このままでは議長の権威を失墜させる」として衆院議長も巻き込む。
  専門家を50人も呼べば、審議は相当時間がかかる。与党がこの要求を拒否したら、
  野党は審議拒否すべきだし、与党が強行した場合、野党が国会の内外で猛抵抗で騒げば、
  世論もますます関心を持つ。(これは一部実現したなあ。もっと大規模に。)

 ・全衆院議員の5分の1(95人)が会派を超えて結束し、反対すれば、本会議で記名投票になる。
  牛歩で時間稼ぎもできる

 ・法案の「撤回要求」の決議案を出す。

 
 ・法案の「分割要求」決議案。「平和安全法制整備法案」は10件の改正法案を
  ひとくくりにして1件の法案としている。議員によっては一部賛成や一部修正の者もいる。
  一本化法案はそうした議員の表決権の侵害である。

 ・十分な審議が必要だとして、特別委員会の中に「小委員会」の設置を要求する。
  法案1件ずつ、つまり10の小委員会が必要で、それぞれで審議を行えば、時間切れに追い込める。


実際、野党のこうした抵抗で、戦後の破防法は参院で否決されたという。
60年安保では「条約修正権」を巡って議運の中に小委員会が設置され、真剣な議論の結果、
集団的自衛権の行使の道が閉ざされたという。

あきらめるのはまだ早い。
というより、あきらめてなんかいられない!



 

『この国の行方 ④』 

政府の安保法制案の法的根拠としている今一つのこと、砂川事件判決について
進む前に、そもそも、集団的自衛権とは何なのだろうか。その歴史を確認しておきたい。


4.集団的自衛権ってどんなもの?

集団的自衛権は、1945年に署名・発効した国連憲章の第51条において初めて明文化された権利である。
国連加盟国のすべてには、国連憲章により自衛の手段として「個別的自衛権」と「集団的自衛権」とが
認められている。

「個別的自衛権」とは、単純に自国に侵略・攻撃してきた国などに対して、その侵略や攻撃から
自国を防衛し、反撃する権利。 わかりやすく言えば、『正当防衛』の権利に近いだろうか。
「集団的自衛権」とは、大雑把に言うと、密接な関係にある他国が第三国から攻撃された場合、
その被害国を支援したり、一緒になって反撃したりする権利。 わかりやすく言えば、
自分の親しい友達の一人が誰かから殴られている。その仲間でない第三者である『誰か』は、
次に自分たちに殴りかかってくるかもしれない。だからみんなで反撃しよう、ということか。

国連憲章第51条
『この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、
安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、
個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。
この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。(後略)』



5.それなのになぜ、日本は、集団的自衛権を行使できないの?

なんだ。やっぱり政府のいうように、集団的自衛権は、国連で認められているんだ!
じゃあ、なんで行使しちゃいけないの?

そこが問題である。
ご承知のように、日本は、日本国憲法で、『戦争の放棄』を謳っている。

日本国憲法 前文の一部。
『(省略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し』

第九条第一項 『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄
する。』
第二項 『前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない
。』

この、日本国憲法の縛りは強い。なにしろ、日本の国のこれが『最高法規』なのだから。
しかし、こうやって憲法前文と九条によって、日本は戦争を出来ない、と縛る一方で、
実は憲法にはこういう条項もある。

第九十八条
第一項  『この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に
関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない』 
第二項 『日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。』


憲法は国の最高法規であって、その条項に反したことをしてはいけないとする一方で、
我が国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守すること、
とも書いてあるのである。

ここが、一番解釈の分かれることの一部でもあるかなぁ…
個別的および集団的自衛権を認める国連憲章は、まさにこの確立された国際法規であろう。
要するに、日本は、自衛権を行使してもいいのか、それともいけないのか。
自衛権行使容認派は、この第二項などを盾に取り、国連だって認めているのだから、
日本が自衛権という権利を行使しないのは、財産をもっていてもそれを使えない『禁治産者』
みたいなものだ、などという暴言もつい飛び出すほど、憲法の縛りがあることにイラつく。
自衛権行使反対派は、国連憲章は確かに自衛権を認めているが、それはすべての国が持つ
『権利として』認めているのであって、それを使うか使わないか、を最終的に判断するのは
それぞれの国であり、日本においては国の最高法規である日本国憲法が、『武力による威嚇
又は武力の行使は放棄する』と謳っているのであるから、自衛権もこれは使えないし使わない、
と、考える。

さて。ここで、私はわざと曖昧に『自衛権』という表現を使い、敢えて『個別的』『集団的』の
区別をしないで書いているが、ここに、実は、私の一番深い悩みはある…
つまり、私は、『個別的自衛権も日本は放棄すべき』と考えるのかどうか、ということだ。
憲法九条の第二項を素直に読めば、憲法は一切の国の交戦権をも否定し、いわゆる戦力は
一切保持しない、と言っているように思える…

つまりこれは、自衛隊を持つこともいけないということではないか。【自衛隊は今日本では
『軍隊ではない』とされていて、これに当てはまらない、と(無理矢理)解釈されている。】
また、交戦権はない、ということは、例えばどこかの国が、日本を攻めて来た時にも、
日本は丸腰で無抵抗を貫け、ということか。

……
正直言って、この個別的自衛権の行使については、私自身の考えはまだ揺れている…
若い頃は、『日本は一切の戦力を棄てて、絶対中立を保つべきだ』などと、考えていた。
だが…この問題は本当に、本当に難しい……
これについては思うところも山ほどあって、まだ自分自身の言葉に出来ていないので、
この記事では、『集団的自衛権の行使』ということに限って話を進めたいと思う。



6.憲法は解釈をしてはいけないものなの?


上記の例のように、日本国憲法にはきわめて大事なところで、極めてあいまいな
記述をしてあるところがあって、そこで、例えば、この集団的自衛権行使が可能かどうか、
や、自衛隊は違憲なのかどうなのか、などという極めて難しい、本質的で微妙な問題が、
それを扱おうとする人々の思想や立場によって、いかようにも拡大解釈~判断できる
ところを生んでしまうのである。
それゆえに、この九条のような曖昧な個所を曖昧でなくしよう、という改憲の動きは、
憲法施行後のこの68年間、常にあって、国を二分する議論になって揉めて来たのである。

憲法というものに限らず、およそ法令などというものでさえ、考えられ得る
すべての事態に対する細かい項目があって、こういう場合はこう考えてください、と
書いてくれてあるわけではない。
時には、句読点の打ち方一つ、或いは日本語が本質的に持つ曖昧性(主語をはっきり書かないなど)
で、いかようにも解釈できる、まったく反対の結論もそこから引き出せる、ということが
起きてくる。つまり、『解釈の余地』がどうしても入り込むものなのである。
これはしかし、日本国憲法に限ったことではなく、あらゆる国の法規・法律の文章に
起こりうることであろう。

…以上のように書いてきたからと言って、私が憲法の解釈を積極的に容認している、
というわけでは無論ない。
その矛盾点を自分で自覚しつつ、正直に私自身の考えを述べるならば、

誰が、どのように、解釈するか、ということが問題なのだ。
そうして、当然のことながら、法規解釈として法理に叶っているかと、いうことが
問題になってくる。
それが違憲でないことの証明。解釈の法的根拠。過去の判断との整合性など、いろいろな
条件が当然ながら満たされなければならないのだと思う。

そう。
そして。
一つこれこそ大事、と思うことを書き漏らしていた。
憲法にすべての細部を書きこむわけにはいかない以上、個々の条文に、解釈の余地の
あるところは存在してしまうだろう。しかし、
絶対に勝手な解釈変更を許さない、許してはいけない、という箇所があると私は思う。
それは、この日本国憲法の基本精神であるところの、『平和主義』『国民主権』
『基本的人権の尊重』に直接言及する個所である!










『この国の行方 ③』

牽強付会。
今の政府の政治のありようを見ていると、もうずっとこの言葉がつきまとってはなれない。
(牛を引くと言えば。そう言えば昨日は七夕だったなあ…)

安部内閣の牽強付会ぶりの最たるものが、彼等が集団的自衛権行使が現行憲法下で
容認されると考える根拠とする二つのこと…すなわち自民党政府のいわゆる72年見解、
と言われるものと砂川判決ではないだろうか。

それらについて書いてみる。


3.いわゆる『72年見解』について

いわゆる72年見解と言われているものは、政府が1972年10月に参院決算委員会に
提出した「集団的自衛権と憲法との関係に関する政府資料」のことである。
昨年、安倍政権が自衛隊の集団的自衛権行使するのを容認する閣議決定を出したとき
そして今年、集団的自衛権行使するための法案を含む安保法制案を今、衆院で審議している
わけだが、それができる法的根拠としているものが、この72年見解である。
もう、これをもって現行憲法下で集団的自衛権行使ができるとすることのそれこそ牽強付会は、
その論理の無理矢理さは、実際に読んでいただくのが一番早く判っていただけるだろうと思う。
以下に引用する。そう長くないので、先入観なしに読んでご覧になってみてください。


「集団的自衛権と憲法との関係に関する政府資料」
(昭和47年(1972年)10月14日参議院決算委員会提出資料

「国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する
武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化
されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第
5条(C)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソヴィ
エト社会主義共和国連邦との共同宣言 3第 2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと
思われる。

そして、わが国が、国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然
といわなければならない。

ところで、政府は、従来から一貰して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有していると
しても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるもの
であって許されないとの立場に立っているが、これは次のような考え方に基くものである。

憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、
前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、
第13条において「生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、
最大の尊重を必要とする」旨を定めていることから、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和
のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持し
その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。

しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための
措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまでも外国の武力攻撃に
よって国民の生命、自由及び幸福追求の擁利が根底からくつがえされるという急迫、不正の
事態に対処し、国民のこれらの擁利を守るための止むを得ない措置として、はじめて容認されるもの
であるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまる
べきものである。

そうだとすれば、わが憲法の下で武カ行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正
の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止
することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」



一体、この同じ自民党の過去の政府見解の、どこをどう読めば、結論として『集団的自衛権も
行使できる』と解することができるのであろうか!
みなさん、おわかりになられますか?
私はちっともわかりません。私には、この72年の見解は、『集団的自衛権はわが国の
現行憲法下では行使できない』とくっきりと結論付けているとしか、どうしても読めません。

現政府が集団的自衛権行使の容認の根拠として使っているのが、72年見解のこの部分である。

『第13条において「生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、
最大の尊重を必要とする」旨を定めていることから、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和
のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持し
その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。』


確かに。この部分だけを取り出せば。
しかし、『しかしながら、だからといって』と文は先に続くではないか。
そこでは、『その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべき』
と、『憲法が、平和主義をその基本原則とする憲法が自衛のための措置を無制限に認めている
とは解されない』と釘をさし、
しかる後に全体の結論として、
『したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権
の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない
。』と、くっきりと書いてあるのである。

この!肝心要の結論部分を削り取ってしまって、途中の、下線部のところだけから集団的
自衛権行使が出来る、と強弁する人々…。
そんなこと、どこの世界で通用するだろうか!?
例えば、未来を担う子供たちに、そういう手法があるよ、と、胸を張って教えられるのか!?
会社で…学校で…一般社会でそんなこと通用するのか!?

72年とは日本を取り巻く世界の状況が変わったから、というのならば、その古いと自らみなす
72年見解をもって集団的自衛権行使の法的根拠とするのはまったくおかしいじゃないか。
自らもう状況が合わないと認める72年見解などを持ち出して、しかもその結論をくるっと
百八十度変えてまったく反対の結論を無理矢理引き出す、などという牽強付会をしないで、
つまりそもそも72年見解を無理矢理根拠に使うことなど考えず、昨年の閣議決定を白紙に戻して、
現在の日本を取り巻く状況というものも冷静に分析しつつ、一から国民の前で堂々と議論
しなおせばいいじゃないか。
それでも私は、集団的自衛権行使に反対するけれども。

また。
政権は、この72年見解の『しかしながら、だからと言って』で始まる段落の、『あくまでも
外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の擁利が根底からくつがえ
されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの擁利を守るための止むを得ない
措置として、はじめて容認されるもの』云々という箇所の、『外国の武力攻撃によって
国民の生命、自由及び幸福追求の~』というところの『攻撃』を、
『我が国に対する外国の攻撃』にプラスして、『密接な関係にある他国に対する攻撃』 というものも
自分たちで勝手に加えて考えるらしいのだが、そうしてそこを集団的自衛権の行使の
容認される根拠としているらしいのであるが、この72年見解のいったいどこにそんなことが
書いてある? どうしたらそんなことまでがこの文から引き出せる!?

土台無理なこじつけ法案を、なぜか弁護しているように思える現・内閣法制局長官
横畠裕介氏の答弁もしどろもどろである。それはそうだろう、もっとも法解釈に厳格で
あるべき立場の人が、黒を白と言い募る政権への質問の矢面に代わりに立たされているのだ。
民主党小西洋之議員が、情報開示請求をし、72年(昭和47年)政府見解の原本を
確認したところ、この見解を作成した当事者…吉國一郎内閣法制局長官をはじめ全員が、
集団的自衛権の行使を否定していることが確かめられたそうである。
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-6614.html

横畠氏は、なぜ、安倍政権に対し、毅然とした態度を取らないのか。
考えてみればこの人も気の毒である。
そもそも内閣法制局は内閣の下で法案や法制についての審査・調査等を行う機関であり、
その長は、内閣が任命する。内閣(政府)が国会に提出する新規法案を、閣議決定に先立って
現行法の見地から問題がないかを審査することから、俗に「(行政府における)法の番人」
といわれることもある内閣にとっては煙たい存在である。
また、法制局の人事であるが、キャリア官僚は独自採用せず、各省庁から参事官以上を
出向で受け入れ、局長級以上の幹部になるのは原則、法務省、財務省、総務省、経済産業省
の4省の出身者だけというのが不文律とされ、さらに長官までには、第一部長→法制次長→長官
という履歴が1952年以来崩されていないとされていたが、2013年8月、安倍政権によって
法制局勤務経験のない外務省出身の小松一郎が長官に就任したことは記憶に新しいだろう。
安倍政権は、自分と考えの等しい人物を、法制局の慣習を破って、長に据えたのである!
しかし、これも御承知のように、小松長官が病のため退任されるということが起こり(ご冥福を
お祈りします)、結局慣行通り、法務省出身でなおかつ内閣法制局次長の横畠裕介が長官に
就任しているのである。

内閣法制局は、その慣行性の重視と頑迷さ、組織防衛の強さなどから『伏魔殿』などと
ときに呼ばれたりするが、法解釈を安易に変えさせない、というその基本姿勢は、私は
実は評価している。
行政が時の内閣の恣意によって暴走することのないようにする仕組みは、二重三重に
あっていいと思うからである。国会が与党の圧倒的多数で事実上行政機関(内閣)の歯止めに
ならず、司法もまた、次に書くが三権分立の一つの権としての役割をときに放棄するような
判決しか出さないようなこともある中で、内閣の内部にあってその出してくる法案や法制が、
『憲法に合致しているかどうか』を厳しくチェックする機関はあっていいと思うからである。
内閣法制局については、いろいろ問題点はあるかもしれないが、憲法にのっとった
既存の法解釈を頑迷に守るという役割はこれからも果たして行って欲しいと願うものである。

横畠長官よ。法制局の慣行に則るならば次に長官になる順番であった自分を差し置いて、
外部から自らにとって与しやすい小松氏を呼んだ安倍政権に、心の内で怒りは覚えない
のだろうか。法制局の誇りを取り戻せ。
(まあ、最後のこの部分は、安保法制をなんとしても通させたくない私の、全く勝手な
願望であることは十分にわかっているのではあるが。)

72年見解は、我が国の憲法下での集団的自衛権行使は認めていない。



『この国の行方 ②』

安保法制がどうしてわかりにくいのか。
そして国民の理解を得られないのか。
それは、こじつけの上にさらにこじつけを重ねていっているからだと思う。
次にそのことを書いてみよう。


2.『平和』ということばの濫用』

安保法制と呼ばれて今盛んに議論の的になっている11の法案の総称を、自民党は
『平和安全法制』と呼んでいるようだ。世間の一部はこれを『戦争法案』と呼んでいるが。

安倍政権の際立った特徴の一つに、言葉による印象操作がある意味で巧み、ということが
あるように思う。
『戦後レジームからの脱却』、『美しい国』、『日本を取り戻す』、『アベノミクス』、『三本の矢』
『この道しかない』、などなど…
短いキャッチフレーズで国民の心を掴むのが巧みなのは、小泉純一郎元総理だった。
小泉政権で幹事長などを務めている間に、小泉氏のキャッチフレーズ政治を学んだのか
どうかは知らないが、とにかく安倍氏は盛んにキャッチフレーズを使う。
人間というものは、同じ言葉を繰り返されると知らず知らずその思想までをインプリント
されていってしまうことがあることを、よく知っているようである。
『アベノミクス』などという経済の真の回復のための実体を伴わない言葉が、どれほど
国民に過剰な期待と幻想を抱かせていることか…
しかし。キャッチフレーズ政治は、ものごとをわかりやすそうな簡単な言葉で単純化して見せるが、
その内実は丁寧な説明責任を放棄した、言葉そのものの持つ深い意味さえ破壊してしまう
ことがあるのではないか。
そしてそれは、ものごとを深く国民に考えさせない、一種の熱狂と思考停止の中に
国民を追いやってしまい、さらに自分たちの政治運用をやりやすくする効果を生む。
言って見れば反知性主義の政治と言えるのではないだろうか。

私の怒りは、そうした言葉の本来持つ深い意味や美しい意味を、この政権が言葉を弄ぶことで
破壊してしまう…そのことにも向けられているのじゃないかなと自分で思うことがある。
『平和』『美しい国』『国民の安全と幸福を守る』『女性が輝く』などという、本来深い哲学と
広い意味を持つ言葉が、ごく安易に、ときに捻じ曲げられて使われ、その本質が
何やら穢されていくことへの怒り…

とりわけ『平和』という言葉の濫用とその意味破壊はひどい。
さて。『平和安全法制』というネーミングは、安倍さん自身が内輪の集まりで、
「『特定秘密保護法』は名前が悪いと言われたので、今回はこういう名前にした」
と語っていたというところからもわかるように、特定秘密保護法があの名前で、国民に、
政府が秘密を抱え込んでいるような印象を与えてしまった、と言う反省から来たものらしい。
(2015年5月16日朝日新聞朝刊)
しかし、名称は別にして、今回のこの法案が、『平和』を目指すものというふうに本当に
思えるだろうか。むしろ逆に、この法案は、これまで日本が曲がりなりにも守ってきた
『戦争の放棄』『平和主義』という憲法の根本理念を覆し、世界に対しても『戦争をしかけない国』
という日本の(好)イメージを捨て去り、日本を戦争の出来る国へと変えてしまうことに突き進む
大変な法案である。

『平和』という言葉は、また『積極的平和主義』という語にも用いられている。
『積極的平和主義』という言葉はしかし、実は安倍政権で初めて生まれたものではなく、
日本においては1992年、自由民主党の『国際社会における日本の役割に関する特別調査会の提言』
(いわゆる『小沢調査会』の提言)において出てきた言葉であるらしい。
湾岸戦争の時、日本は多額のお金を出しはしたが戦後処理以外に自衛隊は派遣しなかったため
国際社会から批判を受けた、その時に自民党政権や外務省などが受けたプライドへの傷…。
そこで、「日本さえ平和であれば良い」という一国平和主義、「日本が軍事的活動を行わない事が
国際平和に寄与する」とした考えを「消極的平和主義」と位置づけてこれらを否定
し、
日本国憲法前文の「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」
に代表される理念を前提に、人道支援はもとより、場合によっては国連平和維持活動に代表される
自衛隊海外派遣などの軍事的オプションを含む国際支援があってこそ世界平和が近づく
という考えを「積極的平和主義」
としたのだそうだ。(上記提言、Wikipediaなどの記述)

第二次安倍政権においては、『積極的平和主義』という言葉は、2013年12月17日、
第二次世界大戦後初めてとなる国家戦略(大戦略)として国家安全保障会議(NSC)及び
第2次安倍内閣の閣議で決定された『国家安全保障戦略』に関して
その基本理念
であると明示されているものだ。

    1992年の自民党の『国際社会における日本の役割に関する特別調査会の提言』
    (いわゆる『小沢調査会』の提言)の詳しい内容については、その原文がなかなかネット上では
    見ることができない。一つほぼ全文を載せているサイトがあるのだが、そこは転載禁止と
    なっている。興味のある方は、『国際社会における日本の役割に関する特別調査会の提言』
    と入力して検索なされば、上の方で出てくるのでご覧いただきたい。
    また、下記サイトも賛成反対の別は横に一時置いて、わかりやすい。
    『積極的平和主義の系譜』
    安倍政権で打ち出された、積極的平和主義をその基本理念の一つとする『国家安全保障戦略』の
    概要はこちら。http://www.cas.go.jp/jp/sir    you/131217anzenhoshou/gaiyou.html


さて。この日本における積極的平和主義という概念と比べて欲しいのが、海外のそれ。

「消極的平和」「積極的平和」というフレーズ自体は、1942年にアメリカの法学者クインシー・ライト
が唱えたのが最初とされるそうだ。
さらに、ノルウェーの政治学者ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung、1930年10月24日 - )が
平和を戦争のない状態と捉える「消極的平和」に加えて、貧困、抑圧、差別
などの構造的暴力がない「積極的平和」を提起し
それは平和の理解に
画期的な転換をもたらした。
ヨハン・ガルトゥングと彼の『積極的平和主義』についての説明に関しては、下記URLの、
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説が詳しくてわかりやすいので参照されたい。
『ヨハン・ガルトゥング』

そこから一部抜粋しよう。
『平和学を打ち立てたこの巨人は、該博な知識の持ち主で、対象を一面的にとらえるのでなく
歴史的にも地理的にも非常に多面的に考察し、せめぎ合いの向こうにそれらを超越する
新しい解決方法の地平を展望する。彼は平和学者として国際問題の紛争解決について
助言・提案を行うなかで、紛争当事者との対話・議論の経験から、紛争解決ではなく、紛争転換
のためのトランセンド(超越)法を編み出した。
トランセンド法とは平和創造の主体形成のための方法であり、対話と創造性に基づき、
紛争を非暴力的に転換していこうとする実践・訓練・研究のことである

彼が1990年代以降主宰している「トランセンド」というNGOでは、実際に紛争を調停する
役割を担う人々のトレーニングを行うための各種プログラムが企画・立案されている。
また、実践的にも国際紛争の診断・治療・予後といった枠組みで国際問題の解決にも
貢献しようとしている。』

彼の提起やその後の研究の結果、現行の平和学の対象領域は広がり、貧困、飢餓、抑圧や
開発、ジェンダー、コミュニティ、ノーマライゼーション、異文化教育といった
日常生活に関わるテーマも含むように
なってきたのだと言われている。


どうであろうか。
私たちが『平和』という言葉を普通に聞いたとき、それは当然のこと戦争がない状態(持続的に)を
単に指すだけではなく、貧困や飢餓、抑圧などによる死や苦しみなどのない、安全で安定した
そういう世界を漠然とイメージするのではないだろうか。
同じ『積極的平和主義』という言葉だが、あなたは安倍政権の意味するような防衛戦略と
ときに武力行使を容認することも厭わない積極的平和主義と、ヨハン・ガルトゥングなどの
提唱するものと、どちらを選びとられるだろうか。

確かに、安倍政権がしきりに強調して見せるように、日本を取り巻く国際環境は、
緊張を強めていることは私も否定できない。だが、冷戦時代、ベトナム戦争の頃だって
世界は相当な、という以上の緊張状態にあった。
なぜ、今、安倍政権は、自衛隊を米軍と共に、というよりは米軍の一部のように
世界に向けて展開させることを容認する集団的自衛権行使やその他の関連法案を
こうまで急いで成立させようとするのだろうか?
しかも憲法第99条の第一項
『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。』
という条文の規定を侵すような、しかも、
憲法第98条の第一項、
『この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び
国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。』という条文を
むしろ自分たちの作る法律の下位に置くとでもいうような違憲行為とも思われる危険を冒してまで
なぜ、拙速に決めてしまおうとしているのだろうか?

憲法改定も安倍政権の視野にいよいよ入って近づいてきた今、国民が、自分たちの国の
平和、そして世界の平和を守るためにはどういう現実認識と理念とをもって進んで行けばいいのか、
そのことを真剣に考えてみる、これはいい機会かもしれないと私は思っている。
私自身はこれまで、『改憲?問答無用だ!』というような、ガチガチの護憲論者であった。
だが、日本国憲法の成立過程、いやそれ以前に日本はなぜあれほどの手痛い敗戦を
喫したのか、日本軍はアジア太平洋地域で一体何をしてきたのかということ、
立憲主義という言葉の意味も知らないという人々が増えて来ているように思える今、
一度護憲・改憲論の対立の桎梏を自ら少し外して、歴史を、そして現実に行われている政治の
基本概念を、共に見直してみるいい機会であるとも思っているのだ。
その意味で、私も少し変った…とは言えるのかもしれない。

一般市民が、『平和』という語を集会の目的に冠しただけで、公共の施設を使わせてもらえない
などということが出来して来ているという。
一方で権力を一手に掌握している政府が『平和』という言葉を頻繁に利用することに
生理的とも思える抵抗を感じる私のような者もいる。
『平和』という語が特定の思想に偏ったものであるとの漠然としたそれこそ偏見が、この国に
広がっていっているのかもしれない。

『平和』という言葉が泣いている…


『この国の行方  ①』

もうずっと以前のことだが、必要があって辞書を引いていたことがあった。
『A』 という言葉の意味を調べたかったので、そこを見ると「『B』を参照せよ」とある。
そこで『B』のところを見てみると、なんと、「『A』を参照せよ」とあった!

もうそれがなんという辞書でなんという言葉の意味を探していたのか覚えていない。
多分、ある程度定評を得ている辞書ではなく、安価なばったもんの辞書だったのでは
なかったろうか。
しかし、それにしても。「こんないい加減さで仮にも『辞書』という名の商品して通用するのか!」
と仰天したことだけをはっきりと覚えている。

安保法制に関する国会論議で、主に野党の議員の質問に対する政府側の人々の答弁を
聴いていると、まさにこの『A』を問えば『B』を見よ、と答え、『B』を問えば『A』を見よ、
或いはもっと極端に、『A』を問えば、「『A』ならば『A』です」と答える、そういう答えしか返ってこない
というような堂々巡りの虚しさを感じてしまう。

どういう質問をしても、
「我が国に対する武力攻撃が発生、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、
これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が
根底から覆される明白な危険があること。 これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために
他に適当な手段がない。まさにそういう場合でございます。そうしてその場合も、 必要最小限度の
実力行使にとどまるべきということでございます」
というような、同じ文言の答えしか返ってこない。
そういう不毛さに対する苛立たしさと虚しさである。
『A』を問うても『B』を問うても、『C』を問うても、同じ『A』という答えしか返ってこない… 

すなわち
、『自衛の措置としての武力の行使の新三要件』
『 ○ 我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する
武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が
根底から覆される明白な危険があること
○ これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
○ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと』


という新三要件の文言…、とりわけ、
『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から
覆される明白な危険があること』『我が国の存立を全うし、国民を守るために
他に適当な手段がないこと』などという文言が、何を訊いても、金太郎飴のように返ってくる、
そういう答弁や説明にしかなっていないように思える。
昨年、自衛隊の集団的自衛権行使容認の閣議決定がなされた時の、この内閣官房の
サイトをちょっと見てほしい。『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由…云々』の
文言のオンパレードだ。
『「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答』

『集団的自衛権の行使を可能とする武力攻撃事態法改正案』だけを取り出してみても、
憲法との整合性が問われる難しい問題である。これについて今までどれほどの議論が
過去の政権で国会で…戦わされてきたことだったろうか。
それなのに、この政権は、新法『国際平和支援法案』と、武力攻撃事態法を含む10の改正法案を
一括して通してしまおうとしているのだ。

そんな重大な法案たちなのに、上記のような金太郎飴のような答弁を繰り返すそういう議論を
80時間やろうが会期を95日も延ばそうが、それで国民に十分に説明した、国会で議論を尽くした、
と一体言えるのだろうか。
いみじくも、ある自民党議員の妻が「地元で安保法制について訊かれても説明できない」、
というのを聞いて、安保法制を作った当の専門家、兼原信克・内閣官房副長官補が
説明したが、「全然わからなかった」という反応であった、ということをかの麻生太郎財務大臣兼
副総理が言っていたらしい。(5月15日、朝日新聞朝刊)
私も正直言ってよくわからないから、新聞などを横においてちょくちょく見ながらでなければ
この記事も書けない。

昨年、集団的自衛権行使容認の閣議決定が行われると言われるようになった頃から、
私もずうっと私なりに勉強しているけれど、政府が現憲法下で集団的自衛権が行使できる
と言っているその理論的根拠がちっとも理解できない。

この一年間の私が疑問に思ったことや、本などで調べてみたことなどを、順序立てて書いていこうと
思って何度も試みていたのだが、問題が重大過ぎて広範過ぎて、とても順序立ててなど書けそうもない。
だから、相当順序がめちゃめちゃになると思うけれど、どうにか書けそうだと思うことから
ひとつひとつ書いていってみようかと思う。



1.集団的自衛権行使を含む新安全保障法制制定を急ぐ安部政権の
何を一番問題と思うか。


この一連の法案に関連して、私も自分のしっかりした考えをもてない、従ってすっきりと
言いきれないことは実はいっぱいある。
例えば、安倍政権がしきりに強調する『我が国を取り巻く安全保障環境がますます厳しくなって
行っている』という点などに関しては、私も、否定できないでいる。
だから、国の防衛とか平和のための外交努力とかいうことに関しては、政権の方針に反対とか
賛成とかいうことを超えて、実は国民全体で真剣に考える時が来ているのではないか…
そう深刻に考えることも増えている。
『憲法を何が何でも守る』『自衛隊も違憲だ!』…ずっとそう思ってきた私自身の心の内も、
正直、実は微妙に変化して来ているところはあるのだ。
その微妙な問題についてはおいおい書いていこうと思う。

しかし、私が安倍政権というものを一番問題視するのは、その根本思想とそのやり口である。
安倍政権は、衆参両院で圧倒的多数の議席を得たことに慢心して、日本国民が
曲がりなりにも戦後68年間守ってきたこの平和憲法を、一内閣の恣意的解釈を元に
その根本から突き崩そうとしている。
現憲法の『平和主義』…この国は二度と戦争をしない、という誓いを破って、
戦争の出来る国へと変えていこうとしている。
それも、国民に信を問うことなく、すなわち改憲の正式手続きを踏むことなく、
姑息な『憲法解釈』それも一内閣による恣意的解釈によって、なし崩しに実現しようと
している。
今、集団的自衛権行使を含む安保法制制定に関し、多くの憲法学者や前内閣法制局長官たち…
日本弁護士連合会…などと言った、いわば法律の専門家たちがこぞって反対の声を
大きく上げているのは、何も九条のことだけでなく、安倍政権のやりかたが、国民主権や
基本的人権の尊重、立憲主義、法治主義といったこの国の根本の理念を汚すものだから
であろう。
だから、本来は改憲論者である人々までが、護憲改憲の違いを超えて、安倍政権のやりかたに
今、厳しく異議を唱えているのではなかろうか。
私が安倍政権に対し思うところも一番はそこだ。

今、この国の三権分立の仕組みは、危機に瀕している。
三権分立という考え方は何のためにあるのか。
憲法は、前文で、国民が主権者であることを宣言している。国家が行使する権力を、
立法権(国会)、行政権(内閣)、司法権(裁判所)に分けているのは、これら三つの
独立した機関が相互に抑制し合い、バランスをとることによって権力の濫用を防ぎ、
国民の権利と自由を護る
ためである。
ところが今、私たち国民は、敢えて言わせてもらうが愚かにも先の衆院選参院選で
自公を大勝ちさせ、安倍政権に絶大な権力を与えてしまった…
本来、国民に選挙によって選ばれた国会議員ならば、政党のためでなく国民のための
議論をするべきである。しかし今の政治家たちは党議拘束というものが強く、党のトップ…
自公の場合は安倍政権そのものであるが…の方針に異論を唱えることが出来にくく
なってしまっている。しかも、数において衆参両院で与党が大勢を占めているので、
政府の決めた方針は、少数野党の反対があろうと、ほぼ通ってしまう状態に陥っている。

4年前、民主党政権の頃…民主党と自民党が大連立を組むという動きがあったことを
覚えておいでだろうか。民主党の『決められない政治』にしびれをきらした国民は、
経済界をはじめとして、大連立をおおむね歓迎した。
しかし、私は、『決められる政治』ほど怖いものはない、と大連立に危機感を抱いていたものだ。
だが…今の安倍政権への権力集中は、4年前の大連立の危なさどころじゃない!
数を頼めばなんでも出来るという思い上がりが許される、そんな力を私たちは今の政権に、
自公に与えてしまったのである…
行政権は安倍政権がしっかりと握っている。国会(立法権)も安倍政権のほぼ思うままである。
しからば残るものは、司法権…裁判所にしっかりしてもらうしかない。
が、その裁判所も、原発訴訟を見てくれば察せられる通り、おおむね安倍政権というよりは
自民党の政策を是とする判断を下して来たことが多かったようだ。

このブログのいくつか前に、私は、『日本と原発』という記事を書いた。
『日本と原発』というタイトルの映画、それも河合弘之氏と海渡雄一氏という二人の弁護士さんが
作った映画である。
その記事で私はこんなことを書いている。

『とにかく、この重大な問題の山積した日本にあって、一庶民である自分は、いったい
何を一筋の光と思って進んで行けばいいのだろうか…という悲しみはずうっとずっと去りません。
そんな中で、私が、ここにまだ一つの希望があるのではないのか、と感じていたのが、
実は法曹界の人々…日本弁護士連合会の人々に対してだったのです…』


過去に数多くの公害裁判、原発訴訟…それらで裁判所が出してきた結論の多くを思えば、
私のこの言葉を「ええっ??!!』と思われた方もいらしたのではなかったろうか。
日本は、法曹界…司法の世界もその三権分立の機能を十分に果たしているとは言えない…
それは私も認める。たまに、福井地裁による大飯原発4号機再稼働差し止めの判決文のような
深い倫理観に裏打ちされた名判決も出るけれど。

…それでも私は、この行政、立法権が共に一つの政権にほぼ掌握されてしまったような
今の日本にとっての救いは、わずかに司法権に関連した仕事に従事する人々…に
あるのではなかろうか、というまあ、信念というよりはひそかな願い、を抱いていた…。

『裁判は、たったひとりでも正義をかけて闘える民主主義社会の安全弁みたいなもの』……
という、この映画の中の河合弁護士の言葉に、私は激しく同感したものである。

だが、政権による集団的自衛権行使に関連した法制作りとその成立へのステップは着々と進み、
正直言って、6月のあるときまでの私は、もう半ばあきらめが出てきてしまっていた…
デモをしたって何になろう。怒りの記事を書いたって何になろう…。
自公(プラス維新?)の圧倒的多数でもって安保法制は可決されるだけだ。
そう思って、なんだか政治の世界に対する怒りも期待も捨てかけてしまっていた…。

ところが、6月4日、衆院憲法審査会において、憲法学者の長谷部恭男氏、小林節氏、
笹田栄司氏の三人が、集団的自衛権行使を盛り込んだ安全保障関連法案について、
『違憲』と指摘。
これが、安保法制の国会での論議の流れを、そして、国民の関心までもを大きく
変えたのには、私は、驚いた。
こんなことがあるのか!と。無論嬉しい意味でだが。
法曹界の人々のプライドと良識はまだまだ死んではいない…と。(甚だ失礼な言いようではあるが)
そして目の前の黒い霧が少し晴れたような気がしたものである。

…思えば、安倍政権の、集団的自衛権行使の憲法解釈による容認と、それによる憲法の
なし崩しは、日本の法治主義の否定に近い。
法曹界の人々がそれに対し怒らない方がおかしいというくらいなものだ。
一内閣の恣意によって、憲法もゆがんで解釈され、国会での議論も金太郎飴のような
答弁に終始し、適当な時期が来たら、数の論理でもってこのような、大事な法案…
日本が戦争の出来る国になるか否か、というような国のありようを全く変えてしまう法案を
強行採決するとすれば、そういうことが通用して行くのならば、私たち国民はこれから
何を信じて生きていけばいいのだろう。
子供たちにも何をもって信義ということを教えていけばいいのだろう。
戦争の放棄を謳った九条をなし崩しにしてしまう。そのことへの怒りも無論であるが、
それ以上に、この政権の立憲主義や法治主義、国民主権の憲法理念の軽視に
腹が立っているのだなあ、と自分自身の心を覗いてみていまさらながらに深く感じる。

さて。7月半ばにも行われようかと言われる安保法制の衆院での採決。
間に合うかどうかわからないけれど、わたしなりに思うこと、勉強してきたことを書いていこうと思う。

プロフィール

彼岸花さん

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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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