『こんなところへ行ってきた』




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こんなところへ行っていました。





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Lake Nozori。




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青いよう~~~~~!

この日は上空は雲ひとつない快晴。
でも、その青空に負けないくらい青い、まさに天空の湖なのだった。
湖面あたりの標高、およそ1500メートル。
実は、これ。ダム湖なのである。
それも、かの東電の。

でも、そんなの、この美しさの前で関係ない…


ここには、空の青を映し、水の青を映す、青いニジマスが棲んでいるの。 




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クマ笹の覆う斜面。
季節が違えば、高山植物にも会えるはず。
今回あたしが見たのは、ハクサンフウロとマツムシソウ…。
こういう植物層の景色が好きだなあ…あたしは山の娘だから…。


浅間山や、晴れた日には遠くに富士山も小さく見えるはず。
この日は上空は文句なしに晴れていたけれど、富士山の上あたりは雲で
見えなかった。
写真の左手に付近の山々が一望できる。












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見晴らし台の木のベンチの上に寝転がる。

こんなに青い空だよ。






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寝転がったまま、腕を頭の上に伸ばして撮った写真だから、天地が逆。

ああ…もう…なんにもいらないや…。






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山の上はすっかり秋色だ。



ずうっと厚い木のベンチに寝転がって、青い湖と青い空とを見ていたかったけれど、




帰らなくっちゃね…







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ここは、帰りに通った温泉郷。

いつか、この宿に泊まりたいな。

この宿のことは、こちらで。

https://retrip.jp/articles/1669/





本当は、旅の目的は別にあったのだけれど、
それはいつかまた、別な折に…




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『えっと…』

安保法制が通っちゃったので…傷心旅行してきます…

…って冗談です。
まだまだあきらめるもんか!です。

短い旅してきます。

すみません。いただいたコメントの返事など、帰って来てからじっくり
書かせていただきますね。





『一政権が日本を恣に変えてしまうのを許すのか ③』

9月18日。
それは奇しくも、84年前の同日夜。中国奉天北部の柳条湖で、南満州鉄道の
線路が日本の奉天独立守備隊の河本末守中尉らによって爆発されるという事件が
起こった日である。満州での兵力行使の口実をつくるため石原莞爾,板垣征四郎ら
関東軍幹部が仕組んだものであり、満州事変の発端となった。
『自衛』とか『在留邦人の命を守る』などという名目で、行われてきた日本軍の
悪事の一つである。

今また、『自衛』とか、『アメリカの艦船に乗ったお母さんと赤ちゃん』とか、
『存立危機』とか、『日本を取り巻く世界の情勢が変わった』などという、曖昧な
概念のもので、国民の気分を煽りたてるようにして、一連の法案がこの国会で
採決可決されようとしている……

今日はいよいよその安保法制が参議院本会議で採決される日。
だが、私は、夫の病院がよいの付き添いで、二か所病院に行かねばならなかった。
朝、家を出て、帰りついたのは午後3時半。
参院がどうなっているのか、留守にしている間中、情報が得られなかった。
すぐにネットを見ると、まだ採決はされていない!
疲れてはいたけれど、急いで夫の夕食の支度だけしておいて、4時半家を出た。
今日、行かなければきっとずっと後悔すると思ったから。



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国会前に着いたのは午後6時過ぎ。
もう、かなりの人でいつもの歩道は埋まっていた。
ちょっとでも座れるスペースはないかと歩道を移動。朝からろくにものを食べていなかったので、
途中駅で買ってきたものを少しお腹に入れておきたかった。
南庭側の歩道の車道寄りに、一か所わずかな空きを見つけて、隣においでの
老婦人に会釈して、地べたに紙を敷いて座った。
この方が、隣にいらしたその老婦人。
「ちょっと失礼して食事させていただきますね」とそのかたに断ると、
「腹が減っては戦が出来ぬ、と言いますからね」と笑って答えられる。
あ。この方は、いつか私が記事にその写真を載せたことがある方だ。
一人で手製の横断幕持って、ほぼ同じところに立っていらしたあの老婦人だ。
そのことを告げると、にっこりなさって、
「そうですよ。もう、私は40年以上、反戦と反原発で、毎日のように国会前に
通い続けています」とおっしゃる。
びっくりしてしまった。
聞けば、彼女の父君も、治安維持法と軍規の厳しい中で、反戦思想を掲げる軍人で
いらしたのだそうだ。無論、表だってそんなことを言えはしなかったろうが。
彼女が三歳くらいの時、というのだから、昭和何年くらいだったろうか…
もっと詳しいことを聞きたかったが、既にコールが始まっており、あたりが騒がしいので
隣にいてもよく話が聞こえない。
だが、つまり、彼女は父娘二代にわたり、バリバリの反戦闘士でおいでだということだ。

ずっとそばにいて話を聞きたかったが、私は少し動いて写真を撮っておかねば。
それで、彼女にお別れのご挨拶して、立ち上がった。
「後ろ姿のお写真撮らせていただいていいですか?」とお訊ねすると、こうやって、
ポーズをとってくださった。

ほんとはせめてお名前など名乗り合いたかったな、とも思ったけれど、
この淡さが人生の機微とも言うものではないのだろうか…。
きっとまたここで会える。そうも思ったし…
それまで、きっとお元気でいらしてくださいね。





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警察側には主催者から、将棋倒しの危険を防ぐため、車道を開放するよう
連日申し込みをしているはずだ。その結果、というか、妥協案というか姑息な
はぐらかしというか、今日は、警察車がこれまでのように車道の端に連なって
参加者を車道に一歩も入れないようにするのではなく、警察車を少し中央寄りに
配備して、車道の一部にも参加者が出られるようになっていた。
それで、私も車道に出た。これで国会議事堂が正面から見られる。

いろんな人が応援に駆けつけていた。
鎌田慧さん、落合恵子さん、などはいつも変わらず参加する人々。
佐高信さん、金子勝さん、蓮舫さん(代読?)、室井佑月さん、横浜の公聴会で意見を述べた
公述人水上貴央さん、ママの会の代表…。
私が聴いていたのはその辺までだったが、あとで私の好きな作家島田雅彦さんなども
スピーチしたらしい。
国会から一時駆けつけた?蓮舫さんは、この声が国会にいる議員たちにも十分届いていて、
それがどれほど力になるかわからないと言っていた。
私だって一所懸命声上げて、持って行っていたサイリウムかざしていたよ。





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上空では、取材のヘリが何機も飛び回っている。
みんな。歩道の木陰にいないで、せめてわずかな間でも、みんな車道に出て、
大勢集まっている図を、見せつけてやろうよ!
同じ思いの人々が、徐々に車道に出てくる…
それでもまだ、歩道の植え込みのあたりに陣取っている人々の方が多いのだった。
高齢者が多く、長丁場だから、植え込みの石垣などに座って参加していたい、
というのも無論よくわかる。






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いつも車道に人々が溢れ出た時でも、正門正面の車道に人がいっぱいに
なることはなかった。国会周辺のあちこちに人々は場所取りしているのだが、
それらが皆、この正面道路に集まってほしい…という私の願いはいつも叶わないから。
しかし、今日は、主催者の総がかり行動のアナウンスが、国会周辺にいる人々に
正面道路にぐるっと回って集まるように呼びかけていた。
そうそう。それなのよ。とにかく数を可視化させることなのよ。

今日はどのくらいまで、人々がいるのか…
私は、車道を桜田門方面に下って行って、それを確かめることにした。
国会のシルエットが上の写真より小さくなっているのがわかるでしょう。
今日は、正面道路の裾の方まで人がいっぱいだ。
みんな、どれほどの切実感を持って、連日ここに集まってきていることか…。





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ずうっと一晩中、ここにいて、今この最中も、国会の中で安保法制可決に
抵抗を続けている野党議員たちに声援を送りたい…。
でも、家のことも気になるし、一晩中はとてもいられない…。
本当に申し訳ないが、私は午後8時半、国会前を後にした。
写真は、おお!また、福島、『希望の牧場』の、吉澤さんの抵抗車だ!








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今日は、午前中から座り込みなどしていてくれたひとびともいる。
総がかりの前半が終わって、SEALDs主催のシュプレヒコールなどになり、
また総がかりが主催する…
私のように後ろ髪引かれつつ帰る人もいるにはいるが、こうやって8時9時になっても
仕事など終えて駆けつけてくれる人々が続々あちこちの地下鉄の駅から
集まってきていて、交差する……



                     *



家に帰りついたのは、午後10時半。
それからまた、参院本会議の中継などを見ていた…
9月19日に日付が変わって。午前2時17分。希代の悪法・安保法制可決。


採決前の各党の最終弁論。
民主党の福山哲郎議員の弁論は、歴史に残る心打つものであったと思う。
自公からの緊急動議により、この最後の弁論さえも、15分という時間制限を
するように採決が図られ、これも与党の圧倒的多数で決められてしまった。
だが、福山議員はこの決定に抗議して、30分ほど弁論。
熱い、熱い、魂のほとばしり出るような弁論である。
いずれ画像が消されてしまうかもしれないので、消されないうちに見てほしい。
中央、地方の公聴会を開いて民意を問うふりをしながら、その記録さえ、特別委員会
最終日に議員に配られなかった。
無論、それらの貴重な意見に対する委員会での議論もなし。
特別委員会の採決は、鴻池委員長の不信任決議が否決され、鴻池氏が
委員長席に戻ってきた直後、自公の議員たちが委員長の上に人山を作り、
反対派野党議員が抗議でそれを取り囲む中、自民党佐藤委員が大きく
手を振り回して席についている賛成派議員に起立するよう合図。
それが、『賛成多数と認めます』ということになって、もう可決されてしまったのだった…。
速記者たちが議事録さえ取れない、放送局のアナウンサーさえ、何が起こったか
わからないうちの一瞬の採決であった。
無論、通常手続きの採決前の総括質疑も行われず、野党議員たちには、議事の
進行順さえ知らされていなかったらしい中での抜き打ち採決であった。

議事録が取れないほどの騙し討ち的採決であったため、この重大な法案についての
参議院特別委員会の記録を後に文書としてみても、そこにはこの一部始終が
記録としては一切のこらない!
だから、こうしてここ、本会議の場で、前日の卑劣な特別委員会採決の
一部始終とその瑕疵を、こうやって語り、記録に正式に残しておくのだ!と
福山議員がうっすら涙を浮かべて抗議弁論した映像である。
是非、見てほしい……

http://no-nukes.blog.jp/archives/8339473.html


国会の外では、SEALDsなどから『福山ガンバレ!』のコールが沸き起こり
外から同時的に福山議員を応援。
twitter、facebookなどでも同時に応援のメッセージが延々と送られ続けていた。

想い起こせば…過去形で語らねばならないのが悔しいが、…、この一連の
安保法制の、草案作成から昨年7月1日の閣議決定…そして今回の審議に
至るすべての過程で、自民党公明党の与党の発してきた言葉のすべての、
なんと空疎で不誠実であったことであろうか!
いや、そもそも、この法案自体が、空疎かつあり得ないめちゃくちゃな内容の
ものであった。
安倍政権がこの法案の必要性のよりどころとしたものは、72年見解から
砂川判決という理論的根拠、…ホルムズ海峡、アメリカ艦船にお母さんや赤ちゃん
という例のフリップから、サマワでの自衛隊の安全な活動事例、自衛隊員の
法的身分の保障に至るまで、ことごとく理論崩壊と嘘で固めた法案である。
政府の説明も、皆さんご存じのとおり、あの空虚な新三要件なるものの文面を
ただ黄門さまの印籠のように振りかざして繰り返し読みあげるだけの、まったく
誠意と中身のないものに終始した…
しかも、公聴会結果の真摯な検討を含め、一切の議論過程を含め、不誠実と
瑕疵の連続である。

国民は、審議が十分でない(一案件当たりにすれば、わずか平均9時間そこそこに
過ぎない)と思う人が圧倒的多数。今回の国会で無理に成立させることはない、
という意見も圧倒的多数。
それにもかかわらず、この法案は…
『平和主義を貫く』という日本の戦後70年が、がらりと百八十度方向転換されて
しまう、この希代の悪法は、そういった国民の声も、法律の専門家、学者たちの
圧倒的な違憲判断も無視して、ついに強行採決されてしまった……!


自民党議員で国際政治学者の猪口邦子参院議員は、議員会館の事務所で
こう語ったそうである。(毎日新聞 2015年09月18日 23時36分)

3週間ほど前、上智大教授時代の教え子から法案に反対するよう求める手紙が届いた。
猪口氏は「市民運動的なノリでは(社会に)貢献できない。電話して会いに来てくれれば、
新たな観点に気づいたかもしれないけれど、十数年ぶりの相手に手紙だけ送るのは、
私が教えた対話の作法じゃない」と苦笑
した。


なんという傲慢!なんという不見識!
自民党議員である前にあなたはひとりの人間であろう。一人の国民であろう。
そしてなんと、国際政治学者を名乗っているのだろう??!!!

なんで、手紙で彼女自身の学生たちが訴えるのが作法に叶わないのか?!
先生はお忙しいだろうから、電話や会いに行くのは失礼であろう、いつでも自由な時間に
読める手紙が礼儀にかなっているだろう…学生たちはそう考えたのではなかったろうか?
国会議員になると、そんなに偉くなるのか?学生たちなら自分より下の人間であるから、
会いに来られるよう膝を屈して求めるのが当然だと思いあがっているのか?

それよりなお私が腹が立ち、また『国際政治学者』として考えられない不見識、と
思うのは、『市民運動的なノリでは(社会に)貢献できない
という発言である。
市民運動が社会に貢献できないだと?
貴女は、それを世界の国際的政治学者の集まりで言えるのか?!
貴女は、今日も国会前に集まっている一般市民たちや学生たちの前で、それを言えるか?!

世界の国際政治学者たちの前で、そんなことを言ったら、失笑されますよ。
市民運動は、人間の権利だ!
選挙で一票を投ずる以外に直接政治に参加することのできない普通の国民が、
わずかに自分たちの想いを届け表現することのできる、神聖な権利なんだぞ!
フランスの、イギリスの、ドイツの、アメリカの、…ポーランドの、かつてのチェコの…
中国の、台湾の…ブラジルの…歴史上の市民運動をあなたは知らないのか!
シャルリー・エブド襲撃抗議…言論の自由封殺への抗議に立ち上がった
あの宗教・人種を越えた市民たちの集まりを、あなたは知らないのか!

あまりに低次元の認識に笑ってしまう。これが自民党の政治家の平均的認識
なのではあるまいか。
それが、このような空疎にして立憲主義、民主主義、法治主義…国会のありようを含め
この国が過去の戦争などの経験から痛い痛い想いをして獲得し、戦後70年
守ってきたこの国の制度や信頼のすべてを崩壊させる、悪法を平気で生み出すのだ!
自民党の憲法改正草案の低次元さを見よ。


…この一連の法案審議のすべてを通じて、私が一番感じたのは、この法案を創り、
それを推進しようとする人々の、言語の空疎さ
である。そもそも法案の言語と中身そのものが。

『積極的平和主義』『我が国の存立が脅かされる』『国民の生命、自由及び幸福追求の
権利が根底から覆される明白な危険がある』『必要最小限度の』『切れ目のない対応』
『我が国を取り巻く国際環境の悪化』……繰り返し繰り返し答弁に使われてきた
これらの言葉と、またそれを発する人々の、誠意の微塵もないどこか浮ついた態度。
(あなたたちの妙に好きならしい言葉、『誠』を、行いで国民に見せてよ!!!)
法案に法的整合性がないことを本人たちが一番知っているから、実のある言葉が
出てこないのだろう!
聞けるなら、昨日の本会議採決前の各党の弁論の、公明党議員の弁論を聞いてみてください。
まさに、上記の決まり文句の切り貼り羅列である…。その空疎さな感じと言ったら!
結局、彼にもこの法案が、ほんとのほんっとに必要なのかどうかの確信がないから、
福山演説のようには、自分の言葉で語ることが出来ないのであろう。

(そういえば、横畠内閣法制局長官の答弁もひどかったなあ…
彼の罪も重いぞ。内閣法制局のいい意味での伝統をぶち壊してしまった…。
これからはもう、どんな懸案に対する未来のどの法制局長の言葉も、もう重みのない
信頼のできないものと判断されかねない悪しき前例を、彼は作ってしまった…。
すなわち、内閣法制局は、『内閣府における法の番人』たる誇りを捨て、その時の
政権のいいなりになる気弱なポチになり下がってしまった、ということである!
横畠氏の、あの苦しまぎれの答弁と、本心を隠す作り笑いの哀れさよ…)

それに対し…法案の危険性を訴える人々の言葉の…なんと真実味と真剣さに
溢れていたことであったろう。憲法学者たちの言葉、学者たちの言葉…
学生たちの言葉…ママさんたちの言葉…戦争を直接経験してきた人々の
警告…宗教界からも、作家からも…芸能界、俳優、映画人…多くの人々の
憂いに満ちた警告があった……


私は。
不思議に、少しもがっかりしてない。
逆に、希望を見た。
言葉の不毛』にあきれもしたが、この国にまだある『言葉の豊饒』に気がついたからである。
この国にはまだ、命がけで語ることをやめない人々がいる……
命がけで戦争に向かう動きを阻止しようとする人々がいる…
(記事冒頭で紹介させていただいた、この老婦人のように。)
若い世代にもその動きが繋がって行った…
日本全国の人々が連動した……!
それを象徴しているものの一つのように私が思うのが、あの長野県栄村の軽トラデモ
であると私は思っている。
(この軽トラデモが象徴しているように思う民の歴史についての想いは、近いうちに書きたい。)

それらがある限り、まだ絶望するのは早い!


最後にもうひとつ。
今回いくつかの参院決議の場面で、ただ一人、『牛歩戦術』を実行した山本太郎議員。
あれをあざ笑う人間たちがいる…
だが、私は、そういう人々に言いたい。
あなたは、山本氏のように、周りの空気など読まずに、自分の正しいと思ったことを
たった一人になっても実行できるのか?と。
いや、まあ、そんな人々への問いなどどうでもいい。
私がここで言っておきたいのは、山本太郎、という一人の人間がやって見せた
『たった一人でも、自分が今やるべきと思う正しいことをやる』という、勇気のことである。
牛歩戦術が美しい国会戦術か、などということはこの際、関係ない。

この!この!この、いつでもみんなが、理由なく空気を読みあう、という、国民病とも
言うべき性向の顕著な日本社会にあって。
ただ一人、あの場で牛歩戦術を行うことに、いったいどれほどの勇気と信念が要ることか!
私は、山本太郎の行為を美しいと思った。
中身はこの際、関係ない。
ひとがひとであろうとする決意の美しさを、
私は、あの、ただ一人のろのろと歩く姿に感じたのである。

そういう言わば、体の奥底から発する真実の言葉や
人間の勇気から出てくる不屈の行為が、まだこの国のあちこちに
見られる限り、あきらめなくてもいい、諦めるのはまだ早い、と
私は思うのである。










『一政権が日本を恣に変えてしまうのを許すのか ②』

国会前に行けないからせめて、と、昨日からずっと、岩上ジャーナルで
国会前デモの定点中継と、国会中継と twitterで現場の様子を把握していた。
今もその三つを順にチェックしている。これでおよその動きは正確につかめていると思う。
だが、ネットをやる人々はそういうこともやろうと思えばできるけれど、これらは、
いったいどれくらいNHKや民放などでしか情報を得ることのできないひとに
正確に伝わっていっているのだろう?

9月17日、午前10時50分。
今、現在の様子は、今朝まず理事会が理事会室で行われる予定であったが、
鴻池委員長が理事会室でなく委員会室で理事会を行うことを決定。
理事会からそのまま委員会に移行してしまう恐れがあることに反発した野党が
理事会室で行うことを要求。

その抗議の中で、鴻池委員長が『委員会開会』を宣言。
鴻池委員長に対する不信任動議が野党から出された。
鴻池委員長が自民党の筆頭理事佐藤正久氏に委託すると言って委員会室を出て行った。
そのままヒゲの佐藤正久氏が委員長席に座ったが、野党抗議の中、佐藤氏は
席を離れ委員会室を出て行った。今現在委員会は中断中、という状態である。
『我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会』の委員長は、
理事会の正式な選出を経て選ばれなければならないはずである。なんで、
鴻池前委員長の指名で勝手に選べるのか。
もう、自公のやりかたはめちゃくちゃである。野党が単に妨害をやっているのではない。

議会制民主主義というものは、今考えられ得る最も合理的な国民の政治参加の
方法であろう。それは認める。
しかし、議会で多数を得た政党が、好き放題をやっていいということでは決してない。
議員一人一人の『自分は国民を代表しているのだ』という良心と責任感によって
丁寧な論議や議決を行われることなしに、単に議員の所属政党の方針への盲従、
多数決の論理ですべてが押し切られてしまうのなら、それは議会制民主主義の
崩壊である。
決して、議会制民主主義=多数決の横行であってはならないのである。

繰り言といわれようがかまわない、何度でも言うが、
国民は、その時々の空気に流されて、特定の政党に今のように圧倒的多数を
与えてしまうことには本当に用心深くあらねばならない。
『決められる政治』ほど恐ろしいものはないのだということを肝に銘じてほしい。
今のまるで独裁的とも言えるような安倍政権のやり口を反面教師にして、
一票を投じる、という行為、投票に行かないという行為にもっと重みを感じてほしい。
自分が一票を投じようとしているその議員の所属政党の方針や、その議員の
日ごろの活動や発言に異を感じ、議員としての自覚や資質に欠けるなどという
疑問点があれば、そういう人に入れるべきではないのである。

議会制民主主義というものは、国民、議員の双方が成熟していなければ
正しく機能しない。

内閣は行政権を担い、国会は立法権を担う。
時の一内閣が暴走するのを止めるのも議会の役割である。だが、衆院で多数を得た政党から
通常、内閣総理大臣が選ばれるという日本の政治の仕組み上、与党が圧倒的多数を
両院議会において占めれば、内閣が仮に暴走しても議会がそれを止めるということは
今回の法案審議の場合のように、大変難しくなってしまう。
数の論理でどうしても歯が立たないのであれば、野党は時間を長引かせて期限切れ、
ということに持ちこむしか方法はなくなってしまう。

本当は、国民が議会報道を見て、『ああ、これなら十分に審議が尽くされたな。納得できる』
と思えるところまで、与党野党に関わらず、真率な議論を尽くすべきなのである。
今回の安保法制に関してはどうだろうか。
衆参両院で100時間も審議した、と与党は言う。もう充分な時間をかけた、と。
だが、この法案には11もの個別の件が一括して押し込められている。
ひとつひとつの件に関しかけた時間は、単純計算すれば、わずかに9時間そこそこ
ということになる。
これまで日本は集団的自衛権行使は憲法上求められないということでずっときた。
ところが安倍政権は、珍妙極まりない集団的自衛権行使の容認のための新三要件
なるものを作りだして、集団的自衛権は現行憲法下でも限定的に行使できるということに
しようとしている。
いわば、日本の方針をがらりと百八十度変えようとしている重大な案件であるにも
関わらず、一本あたり、わずかに9時間そこそこの審議で衆参両院をもし通過してしまうのなら
それを国民は漫然と認めていいのだろうか?

しかも、ご存じのように、そのわずか両院で各々一案件当たり平均9時間程度の
審議そのものも、安倍氏をはじめとして、ろくな答弁はしていない。
新三要件なるものをドラマの水戸黄門の印籠のように振りかざして、その文言を
ただ繰り返すのみの空虚な答弁に終始した。
これでは国民が納得できる議論が行われたとはとても言えない!

数の論理による一方的議会運営は、議会制度への国民の信頼を無くし、それは
議会制度の崩壊であり、大事な大事な三権分立の原則の死を招く。

今、雨の中で国会前で多くの人々が安保法制反対を叫び続けている。
彼等がいるすぐそのそばには、尾崎行雄を記念する『憲政記念館』がある。
『憲政の神様』と呼ばれる尾崎行雄翁は、大正6年、憲政の大義という著書
の中で、次のように述べている。

『衆議院にしていやしくも立言議定の府ならんや、賛否の議論、いまだ半ばに
至らざるに当たって、討論終結の声、既に四方に沸く、
わが国には表決堂ありて議事堂なし

即ち、議会で議論が十分に尽くされもしないのに、(数の多数の論理によって)
一方的に審議終了が決められるなら、そこはもう議事堂ではなく、単なる『表決機関』
にすぎなくなる、と警告しているのである。

今回の安保法制は、新三要件 『わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由
及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること』という、きわめて
曖昧な主観的要件のもと、政府の恣意的判断でそれぞれの件の行使の可能性が
著しく拡大していく恐れのあるものである。
その内閣によって閣議決定されたものが、仮に国会で事前審議が行われるとしても、
今のように与党が圧倒的多数を持っていてなんでも自由に決められる政治状況に
なっていれば、閣議決定も国会決議も、なんら歯止めの働きはなしえない。
もう一つそこに至る前の歯止め機関であるべき内閣法制局も、今は政権の
代弁機関、擁護機関となり下がってしまっている状況の中、国民が、あらゆる手段で
与党の暴走を止めるしかないのである。野党の応援援護をするしかないのである。

国会の外では、若い人々がほぼ一晩中雨の中、大きな声で安保法制廃案と
安倍退陣を叫び続けていた。今も。
一口に『一晩中』というけれど、もう冷たくなった雨の中、声を上げ続けることが
どれほど大変か。いくら若いと言え、彼らの健康が心配である。

ほぼ一晩中と半日、これらの動きを追うことで過ぎてしまった。
記事を書こうと努力していたが、なかなか思うことをうまく書けない。
一旦記事を切って、引き続き、参議院の動向を追い、また考え続けていく。









『一政権が日本を恣に変えてしまうのを許すのか ①』

2015年。9月14日。
安保法制に反対する国会包囲行動に参加。
一応6時半から抗議行動開始、ということで6時少し前に正門前に着いたのだけれど、
霞ヶ関駅で下り口を間違ってしまって、いつもの正門前北庭歩道の方でなく、
南庭の方に辿りついてしまった!
普段ならここでもいいのだけれども、今日は皆で自然に言い合わせて『正門前へ!』と
いう了解事項が出来ていたためか、もう正門前歩道は既に人でぎっしり。
警察の規制は8.30よりさらに厳しい。先日人々がバリケードを越えて車道にあふれ出るのを
許してしまったのを反省して、今日は、バリケード代わりに大きな警察車両を連ねて、車道を閉鎖。
さらに鉄柵をつなぎ合わせて、壊されにくくしたものが人々を阻んでいる…



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おお! これは、五日記事にしたこともある、福島県『希望の牧場』の、吉澤正巳さんの
抗議車だ!
怒りは同じ想いです。



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私が身動きできなくなってしまったところは、ちょうど南庭側歩道角の、なにかずうっと
工事をしている囲いの横。左右は植え込みとその工事塀。前後は人垣でここからは
全然なにも見えない!
私はちょっと閉所恐怖症気味のところがあるので、ここにいてはやばい!
気分が悪くなるな!と思って、無理無理ほんの少しだけ移動して、塀の陰からは
脱出した。
しかし、もっとぎゅうぎゅう詰めのところに嵌まり込んでしまった!前には非常に背の高い
横幅もそれなりにある若い男の人がいて、その体温が伝わってくる。なんだか空気が
薄い気がして、上を向いてあっぷあっぷ金魚みたいに空気を吸う…ここもまずいな。
少し体をずらしたら、しめた!歩道の人垣の端、植え込みとのほんの隙間に入る
ことが出来た。ここなら我慢できそう…
民主、社民、生活、維新、の4党首?のスピーチをやっているようだが、話を聞くどころじゃない
ぎゅうぎゅう詰めだ。植え込みの向うに陣取った人々から『開けろ!開けろ!』の
大声の抗議コール。
このままじゃ、人々が折り重なって危険だから、バリケードを開けて真ん中の車道を
開放しろ!と叫んでいるのである。『開けろ!』コールの方がスピーチより大きい。
私の前後だけじゃおそらくなかったろうが、警官にくってかかる光景も、参加者同士の
『押さないでください!』という小競り合いもあった…。

今まで参加した中で、一番身の危険を感じたかな…
ちょうど動けなくなってしまった場所が、バリケードを挟んで警官隊とデモ隊が
一番激しく睨みあいする場所だったので…人々が将棋倒しに折り重なってしまう
危険の最も大きいところだったのだ。でも、前にも後ろにも横にも動けなかった…。
気分が悪くなった人がいたようで、その人を運ぶ動きが、またぴったりくっつきあった
人波を圧迫する。
ほんとうに、何のために、人々を狭い歩道に押し込めるのか。
要するに、車道に人々があふれて60年安保の抗議集会のあの有名な航空写真の
再現を阻みたい…その当局の思惑でしかないだろう。

この男の子は小学校2,3年生くらいかなあ。大人たちの間に埋もれてあっぷあっぷ
していたのを、お父さんが抱き上げていた。それでなくても人が半端なく密集している
のに、子供をずっと抱いているお父さんはたいへんだ!
お父さんの背中をちょんちょんとつついて、私の前にほんの少し空いている植え込みの
石垣にお子さんを座らせるよう、目顔で合図してみた。ここなら、もし、人々が将棋倒し
などになっても、お父さんと私とで護ってあげることが出来る。

この子が、この混雑にいやな思い出しか残らないというのでなければいいが…
などと老婆心を出していたけれど、バリケードが壊れて、人々が車道に溢れ出たとき、
この子もにっこりしていたので、ちょっと安心した。




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『開けろ!』コールますます高まる。
お! バリケード壊したか?





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出た~~~! 車道に出た~~~!
国会議事堂がようやく正面から眺められる!
少し参加者同士でもぴりぴり感情がぶつかり合い気味だった人々が、一度に笑顔に
なっている。あちらを見てもこちらを見ても、みんな笑顔だ。


この日は、何か光りものをもってくるように、という『お触れ』、ではないが、連絡が
どこからともなく広がっていて、みんな手に手に、発光するものを持参して来ている。
私もちっちゃな懐中電灯と発光するサイリウムを持って行っていたので、コールに合わせて
ずっと振り続けていた…

今日は、前半、ずうっと文字通り身動きもできなかったので、正門前以外のところに
どれほどの人々がいたのか全然把握できなかった。
主催者発表では参加者4万5千人ということだった……。
お年寄りなど10数人が、歩道に人々が密集した中にいて気分が悪くなり、手当を
受けたようだ…。どうか、早く回復されますように…



                    *

さて。
参加することが目的ではないのだ。
この醜悪な安保法制を廃案にすることが目的である。
今、これを書いているこの時間も、横浜の地方公聴会会場、そして国会前では
抗議行動をしている人々がたくさんいてくれるであろう。
午後4時45分ごろの情報では、横浜で行われていた地方公聴会会場付近で
抗議参加者と警官隊のもみ合いがあったようだ。過剰警備がそのような偶発的事故も生む。
だが、警官が目指す敵ではない。どうか、冷静に。逮捕者など出さないように行動
してほしい。(しかし、そのくらいの覚悟は皆しているのだろうなあ…。涙だ!)

この地方公聴会の開催要領も卑劣そのものである。東京で昨日中央公聴会。
なぜ、地方公聴会が横浜なんだ?!
沖縄でやりなさい!
横浜なら、1時間もしないで東京に帰ってこられる。6時ごろから最終審議~強行採決に
持ちこめるという計算だ。
中央公聴会も地方公聴会も、国民の意見は一応聞きました、というアリバイ作り
である。姑息極まりない。

今、横浜でシット・インなどの体をはった抗議をしてくれた人々などは、国会前に
再び向かっていることであろう。彼等が公聴会会場外で車を通さないシット・インなどを
したことで、議員たちが国会に戻る時間を遅らせ、審議開始が遅れているそうである。
少しでも、審議を遅れさせて、法案阻止したい。法案に反対する野党5党ガンバレ!
牛歩でもフィリバスタでもなんでもあらゆることして法案を廃案に追い込んでください。
国会内外で戦っている人々に心からの応援を送る。
そして、全国に、想いよ届け!と心配しつつ見守ってくれている人々がそれこそ
数知れずいらっしゃるであろう。
私は、今晩は、それらの人々への連帯の想いも込めて、安保法制と政権批判を
続けて書いていこうと思う。


思えば。
この法案ほど『筋の悪い』法案があろうか。

将棋、囲碁などで、『筋が悪い』という言葉を使うようである。また、芸事などでも
素質が芳しくないことを同じく『筋が悪い』と言うようだし、要するに、『質が悪い』
『先の展望が開けそうもない』ということだが、
この法案は、その目的から成立過程から法的根拠から、審議過程から、なにからなにまで
『筋が悪すぎ!』








『国会包囲行きます!』


国会包囲9月14日



明日。行ってきます。





『キャンドル・ナイト 54』



54回目のキャンドル・ナイト。



ただ、蝋燭に想いを託す。


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どうしてこんなにたくさんの悲しみがあるのであろう…



やっちゃんさんの記事。
http://taniguchi11.blog.fc2.com/blog-entry-549.html





心ひとつに キャンドルナイト






南亭さんバナー②


葉っぱさん、れんげちゃん。NANTEIさん。
今月もバナーお借りします。
















『この国の行方 ⑧』



11.本当に、あの道しかなかったのか?



ここに一人の青年の写真を掲げる。


朝河貫一




この写真を見て、「ああ、あのひとだ!」と、すぐにおわかりになる方はおそらく少ないだろう。
私も3年前までは、少しも知らなかった…
いや、正確に言えば、この人のことを知らず、その逸話だけほんの断片的に知っていた…。

朝河貫一。
1873年(明治6年) - 1948年(昭和23年)
日本の歴史学者。日本人初のイェール大学教授。1942年同大学名誉教授。
古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の第一人者として
欧米で評価された。特に「入来文書」(鹿児島県薩摩川内市(旧入来町)の入来院家に伝わり
鎌倉時代から江戸時代にわたる古文書群)の研究が有名。
イェール大学には、彼の業績を記念して、朝河貫一記念ガーデンがある。
それほどの評価をアメリカで受けながら、彼の名も業績も、日本ではあまり知られてこなかったのは、
彼が22歳で渡米して後、その生涯を殆どアメリカで過ごしたからである。

写真は、福島県立図書館所蔵。『朝河貫一資料』よりお借りしました。


                     *

私が、朝河貫一という人の存在を知ったのは、2012年、福島第一原発事故の
『国会事故調報告書』の『はじめに』という序文の中でである。
医学博士黒川清氏を委員長とする、この『国会事故調報告書』を私は高く評価しているのだが、
ここではその、朝河貫一に関する部分だけを引用しよう。

『100 年ほど前に、ある警告が福島が生んだ偉人、朝河貫一によってなされていた。
朝河は、日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書『日本の禍機』
を著し、日露戦争以後に「変われなかった」日本が進んで行くであろう道を、正確に
予測していた。

「変われなかった」ことで、起きてしまった今回の大事故に、日本は今後どう対応し、
どう変わっていくのか。これを、世界は厳しく注視している。この経験を私たちは無駄に
してはならない。国民の生活を守れなかった政府をはじめ、原子力関係諸機関、社会構造
や日本人の「思いこみ(マインドセット)」を抜本的に改革し、この国の信頼を立て直す機会は
今しかない。この報告書が、日本のこれからの在り方について私たち自身を検証し、
変わり始める第一歩となることを期待している』



                      *


私はこの序文に、なぜか心惹かれ、朝河貫一ってどういう人だったのだろう、
どんな警告をしたのだろう、と思って、『日本の禍機』というその本を買ったのである。
少し驚いた。そして、小さな偶然に、ちょっぴりじんとした…
その本の校訂・解説を、私がかつて大学で一度だけ授業に出て、そのたった一度の授業で、
先生がその身の周りに漂わせていた学問の世界の豊穣さや香りに魅せられ打ちのめされて
しまった、あの、U先生が書いておいでだということを知ったからである…


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さて。朝河貫一とはどんな人で、その『日本の禍機』という本の中でどんなことを言って
いるのであろうか。

安倍談話で首相は
『日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました』
と、言った。まるで日露戦争の美化だ。
朝河は、その日露戦争の時代を、青年として、アメリカに生きていた人である。
彼はアメリカで何をしていたのか。
ダートマス大学を卒業、イェール大学大学院歴史学科を優秀な成績で修了した後、
母校ダートマス大学の講師に迎えられ、東洋史と東洋文明、東西交渉史などを
教えていた。
1904年2月8日。日露戦争ぼっ発。朝河30歳。
彼は同年、英文で『日露紛争 その諸原因とその諸争点』という340頁にも及ぶ本を上梓。
アメリカとイギリスで出版された。
それは二百三高地で乃木将軍が苦戦中の折であり、ロシアは、バルト海艦隊の
主力、第二・第三太平洋艦隊(いわゆる『バルチック艦隊』)を極東方面に増派。
このバルチック艦隊が日本海目指して北アフリカを通過、というような時であった。

朝河は、この本を明治期における東洋経済史とも言える部分から書き起こして行く。
日本の産業構造が農業から工業へ変質発展、中国大陸に市場を求めるようになったこと。
ロシアの満州に対する植民地的占拠に対する日満韓の共通の利害を論じ、日露衝突の
背景を分析。また、清国を舞台とした西欧諸国の植民地的外交や利権争奪の
歴史経過についても論じている。
朝河は本だけでなく、アメリカ各地で数十回にも及ぶ日本擁護の演説を行った。

当時アメリカの一部には、日清戦争に勝利した日本を指して言う『黄禍論』が
勢いを得ていた。また、日本がキリスト教国でなくロシアがキリスト教国であったことから、
ロシアに対する同情が日本への親しみよりは強い傾向があった。
朝河は、『戦争の結果がどうであろうと、日本は満洲に領土的野心はない』と
日本が正式に宣言したことを、代弁して世界に訴えた。
歴史学者として、クリスチャンとして、世界を広い目で見ていた朝河は、
アジアが19世紀の欧州列強による植民地支配を向後も同じように受けるのでなく、
独立した国家と国家間の正当な貿易がそこで行われ共に繁栄していくことを、
東洋に民主主義的新しい秩序と平和が築かれていくことを、
そして祖国日本がその主導的役割を果たして行けたら、ということ(それは決して
武力を持って他国に介入し植民地化することなどではない)を夢見ていた…

中国における列国の機会均等を同じように求めていたアメリカでは、朝河のこの演説は
好意を持って受け止められた。
そのアメリカの仲介もあって日露戦争は、かろうじて日本の勝利で終わった。
1905年のポーツマスにおける日露の講和会議には、朝河もオブザーバーとして
参加した。

しかし。
朝河は日本を弁護する講演をアメリカで行いながらも、心の底では、
日本が『中国の独立と領土保全』や『機会均等』を守らないのではないか、という
怖れを
抱いていた。
日本が上記の二大法則を宣言したのは、日本の国是としてこれを守るという強い意志
から出たものというよりは、単にロシアに反対し世界の同情を得て、満韓における利権を
ロシアより奪うための『私曲』(不正な手段で自身だけの利益をはかること)そのもの
から来ているのではないか…
、と深く思い悩むのである。

その恐れが現実になった。
ロシアの膨張主義を批判して、清の領土と独立を保全する、清と韓国への列国の
貿易等の機会均等を世界に向けて訴えた、その当の日本が、ロシアと同じ膨張主義と
排他政策をとっていったのである


朝河は、日本がいずれ遠からず、世界で孤立していくであろうことを予感した。そうして
それは必然的にアメリカとの衝突をいずれ引き起こすことを予感した。
1909年。朝河は『日本の禍機』を、日本人に向けて書く。

『危難の何たるかは今に及びて問うまでもあらざるべし。東洋の平和と進歩とを担保して、
人類の文明に貢献し、正当の優勢を持して永く世の畏敬を受くべき日本国が、かえって
東洋の平和を撹乱し、世界憎悪の府となり、国勢頓(とみ)に逆運に陥るべきことこれなり。
清国と相信じ相助けて列強をして侵略の余地なからしめ、また諸協約のために今なお
蝕せられつつある主権の一部分をも、完全に清国に恢復するの時到らしめ、かつ厳に
機会均等の原則を遵(まも)りて、満韓においてこれを破らんとする他の諸国を警(いまし)む
べきの地位にある日本が、かえって自らこれらの原則を犯して世界史の命令に逆らい、
ついに清国をして我に敵抗せしめ、米国等をして東洋の正理擁護者たらしむべきことこれなり。
日本もし不幸にして清国と戦い、また米国と争うに至らば、その戦争は三十七、八年
(日露戦争のこと)のごとく世の文明と自己の利害との合わせる点にて戦うにあらず、
実に、世に孤立せる私曲の国、文明の敵として戦うものならざるべからず。日英同盟
といえどもまたその時まで継続すべきものにあらざるべし。

欧米人の中には東洋に右のごとき大難の起らんこと、今後数年を出でじと断言するもの
少なからず。しからざるまでも、日本は行く行くは必ず韓国を併せ、南満州を呑み、
清帝国の運命を支配し、かつ手を伸べてインドを動かし、フィリピンおよび豪州を嚇かし、
兼ねてあまねく東洋を威服せんと志せるものなりと信ずるもの比々(どれもこれも)
然らざるはなきもののごとし。
ただに欧米の人士が多くこれを信ずるのみならず、
フィリピン、インドおよび豪州の民もまたこれを懼(おそ)るるのはなはだしきは間接に
これを知りうべきのみならず、余はしばしば直接にこれを証したり。』
(朝河貫一『日本の禍機』 講談社学術文庫 より)

朝河は言う。(以下、文語体の原文を、彼岸花が意訳してまとめる。)

満州問題にしても、南満鉄道を幹線とし大連を主港とする方針が根本的な日本の
『病患』
である。いくら一方で法理上の機会均等を謳っても、他方で移住民や当局者が
これに反するような精神を持ってこれに反するような行為をしていたのでは
中国はますます日本への怒りを溜めて行き、世界の理解からは遠ざかり、いつか
日本は『不正の側に立つもの』となるだろう。
「清国の独立と領土保全」「機会均等」の二大原則は動かせないものであり、
これを無視して私曲の政策に及べば、今は味方してくれている英国も敵に回し、
またこの二大原則を重視するアメリカをも将来大きな敵としてしまうだろう。
日本が最も恐れるべきところは、清国でもない欧米諸国でもない。自らを不正の地
に陥れ清国および欧米をして正義の側に立たしめるのにある。
自分は、
『清に行く行くは完全な主権が行われて、居留地、専管地、鉄道地帯などの外国行政権の
まったく消滅するに至る時が来ることを望む』
『真に国を愛する者ならば、日本がこのように正義に対する賊、国際的平和・進歩の
破壊者の地位に陥ってしまうのをどうして黙って見ていられようか』
と、朝河は書くのである。

『日本の禍機』は、1909年、『実業之日本社』から出版された。
早稲田出身の増田義一が社長を務める『実業之日本社』で出されることに
なったのである。採算など度外視しての引き受けであった。朝河もまた原稿料など
求めず、代わりに、各有力者や青年・学生に広く読まれるよう取り計らって欲しいと
頼んだ。本の『禍機』という邦題は、かの坪内逍遥が、今を日本の最大の危機と
思ってこの書を急ぎ書いた朝河の意を汲み取って、『危機』よりももっと強い広い
意味で、ということで『禍機』という言葉を選んだ。再校と三校も逍遥自身が行なった。

時は前後するが、
1907年。『軍令』第一号発令。
『軍令』というものによって、軍部が立法権を得ることとなった。しかもそれは、帝国議会は
もとより閣議を経る必要もなかった!
これがのちの軍部暴走に繋がっていくことを、
朝河は予見していた。後述するが、彼は、1941年『日本改革の提言』をして、そこで
『法改正して軍務と政務を分けること』ということも、悲痛をもって警告している…。

1914年。第一次世界大戦勃発。日本はこれに参戦して、ドイツに宣戦布告。
連合国の勝利に貢献した功績により、パリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約により
ドイツの山東省権益、パラオやマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島を
委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。

1915年、大日本帝国は中華民国袁世凱政権に14か条の要求と7か条の
希望条項、いわゆる『対華21ヶ条要求』を提示。
山東省権益継承、関東州の租借期限延長、南満州鉄道の権益期限延長、
沿岸部を外国に割譲しないこと
、などを突きつけた。中国人の反日感情が高まり、
五四運動などが起こる。
朝河は大隈重信に手紙を送り、膠州を返還するように説く。膠州を長く日本が持てば、
世界の信用を失い、米国の中国への同情と逆に日本への反感は強まる。
日本の前途と世界の平和に新たな危害が発生する、と厳しく諫言するのである。


1917年。「ロシア革命」が勃発すると、1919年、アメリカと共同歩調を取り
シベリア出兵。だが、他国が兵を戻す中でもシベリア出兵を継続したことで各国の
猜疑を招き、国際的立場を厳しいものにしていく。日本がロシアや中国において
アメリカの利権を侵すのではないかという疑いを持たれるようになって行く。

1931年。満州事変勃発。その後十五年にわたる中国との戦争の始まりである。
朝河は、ここでもできうる限りの動きを取る。高木八尺、徳富蘇峰ら多くの日本の
指導者層の人々と手紙を交わして、日本の危機を説く。朝河は、実に多くの
当時の日本の有力者に対して、憂慮の手紙を書いている。大隈重信、渋沢栄一、
鳩山一郎、岩波茂雄、……

徳富蘇峰は朝河にとっては早稲田の先輩であり、留学の際、資金に苦しむ
朝河に援助してくれた恩人でもある。
徳富蘇峰は、その出発点においては、若くして熊本バンド(札幌バンド、横浜バンドと
並ぶ日本の明治のプロテスタント派の3つの源流の1つ)結成に携わり、新島襄の開いた
同志社英学校に入って洗礼を受けるなどキリスト教の影響を強く受けている。

当初は、国権主義や軍備拡張主義を批判し、自由主義、平等主義、平和主義を
標榜していたのだが、徐々にナショナリストの側面を強めて行き、とりわけ三国干渉に
衝撃を受けて以降は、強硬な国権論・国家膨脹主義へと変節を遂げていく。
1931年(昭和6年)満州事変が起きると、蘇峰はその皇室中心主義的思想をもって
軍部と結び、『興亜の大義』『挙国一致』を喧伝。
1942年(昭和17年)には日本文学報国会を設立して会長に就任。後の大日本言論報国会
においても会長に選ばれ、日本が全体主義、軍国主義に前のめりになり、太平洋戦争に
雪崩打っていく、その言論のリードをした中心人物の一人とも言われている。
自分の発行している『国民新聞』や『毎日新聞』で強硬論を煽って行ったのである。
大変に思想の振れ幅の大きい人物で一言でくくれないところもある。
だが、太平洋戦争中の言論統制の苛烈な時代、もの書きたちが委縮して日記さえ
官憲の目に触れるのを恐れて書かなかった時代、克明な政治批判、ジャーナリズム
批判や生活記録を綴り続けた清沢 洌(きよし)は、後に『暗黒日誌』として刊行された
その日記の中で、この徳富蘆花を糞味噌に批判している。
開戦の責任は徳富蘇峰と本田熊太郎(元駐華、駐独大使)の二人にある、とまで
言いきっているのである。

閑話休題。
さて、朝河貫一もまた、恩人であり、旧来の友人でもあるこの徳富蘇峰に、アメリカから
丁重ではあるが率直にして厳しい意見
を書き送っている。
1933年。日本は国際連盟脱退。ドイツではヒトラーが独裁権力を確立。
日本軍は熱河省も『満洲国』の領土だと称して、華北に侵入開始、北京や天津を
攻撃。
そんな時局に朝河は徳富蘇峰に書くのである。

『日本軍部のやり口はドイツの亜流であり、それを皇国の精神などと称するのは
僭越偽善である。軍部は暴力を行使して防衛力が乏しいものたちまで撃破するという
無謀な国策を立て、蛮力をふるって武器のない人々を殺害しているではないか。
これはまさしく日本の武士道に反する卑劣な行為である。』

1937年。盧溝橋事件。日中は全面戦争に至る。
こんななか、63歳になった朝河は、エール大学正教授になっている。
1938年。国家総動員法。戦線不拡大を謳いながら、
徐州、武漢、広東の三方面の攻略に大兵力を向けて行く。
1940年。第二次近衛内閣は八紘一宇の実現と大東亜新秩序の建設を基本政策に
決定。日独伊三国軍事同盟締結。
1941年。日本軍は仏印に侵攻。日米の対立は深まり、アメリカは石油など
軍事物資の対日輸出を禁止。東条内閣成立。


朝河はほとんど絶叫に等しいほどの悲痛をもって、日本改革の提言を行った。

・日本軍を中国から撤退させて征服した土地を返すこと。
・日独伊三国同盟を破棄すること
・法改正して軍務と政務を分けること
・ドイツに対戦する諸国に為し得るだけの援助を行うこと
・民心と教育とを開放すること
・自由に世界と知見と物資を交換できるようにすること


朝河の憂慮の想いから出た行動は休むことなく続けられる。
30年来の親友であるハーバード大学フォッグ美術館東洋部長ラングドン・ウォーナー
と組んで、ルーズベルト大統領から天皇へ親書を出して貰い、天皇から戦争回避の
勅令を出すよう働きかけてもらうようにするという、計画を練るのである。
1941年11月23日。朝河は天皇にあてるルーズベルト大統領の親書草案
書き上げた。
11月27,28日。ウォーナーは、親書懇請運動のため、ワシントンの官庁街を
タクシーを飛ばしてかけずり回った。大統領やハル国務長官には会えなかったが、
各省庁で最高の要人たちに会って草案と朝河の手紙を見せたと報告してきた。

ルーズベルト大統領の親書は天皇に送られた。だが、実際のところ、親書は
まず12月7日午前中にグルー駐日大使に打電され、7日正午には東京の電報局に
着いたが、グルー大使の元に配達されたのは午後10時過ぎであり、大使が
すぐさま東郷茂徳外務大臣に会いに行って親電を天皇に見てもらうよう依頼した
のは12月8日午前零時30分ごろであった。
8日午前3時前、天皇は、東郷外相から親電の内容と外交交渉の顛末を聞いた上、
親電に対する回答案を許可している。
だが、8日午前3時25分には、真珠湾攻撃が開始されてしまっているのであった。
8日午前11時40分。宣戦の詔勅。
なぜ、親電が7日に東京の電報局に着いていながら、10時間も遅れてグルー大使の
ところに届いたのか。
理由は、参謀本部の軍人の命令で故意に「遅らせるよう」中央電信局の係官に
指示
していたことが極東軍事裁判で明らかにされている。
『昭和天皇独白録』の解説によると、参謀本部通信課の戸村中佐の話として、
「・・・作戦課の瀬島少佐から・・・『いまさら米国大統領から親電がきてもどうなる
ものではない。かえって混乱の因になると思って、右親電をおさえる措置をとった』」

朝河のぎりぎりの願いは叶わなかった…
しかも、その親書の内容は、朝河が草案を書いた日本の事情に配慮したもの
とは違い、日本軍が仏印から兵を引くよう求める直截的な内容のものであった。
実は、朝河たちは知らなかったが、ルーズベルトは1941年10月に既に、天皇に
親書を送ることを考えて検討に入っていたのである。

日米が戦争に入ってからの朝河の生活は、敵国人であるにもかかわらず、
長年の彼のアメリカにおける学究生活と業績が高く評価されるゆえに、
不自由ないものであった。
1943年には心臓の不調のため病院で静養。69歳。
1945年。太平洋戦争終結。
彼は朝6時から夜8時まで机に向かうという静かにして厳しい研究生活を続けた。
研究の合間には昔、妻ミリアムと散歩した公園などを散歩したり妻や友人の墓に
詣でたりして思い出に浸ることが多かったという…
1948年8月11日早暁。心臓麻痺でひとり保養先のホテルで永眠。74歳であった。
AP電もUIP電も『現代日本がもった最も高名な世界的学者朝河貫一博士が』と、
その死去を報じた。日本占領のアメリカ軍の新聞『スターズ&ストライプス』は
弔意の記事を掲載して、横須賀基地では反旗を掲げた、という…。
対して日本の新聞は訃報電文を新聞の隅に3,4行載せたものの、朝河貫一
という名の綴り方さえ知らなかったという…。


朝河貫一は、日本人、アメリカ人、中国人、ドイツ人…それぞれの国民性や
その行く末を深い知識によって歴史・文化比較の観点から分析している。
後年のヒットラーの自殺などは、1945年4月のその死の6年も前、1939年に
友、村田勤への手紙で予言しているのである。

日本について書かれたものの一部を紹介しよう。
『無争の迎合』の習性について。

『日本の場合は、たやすく妥協する根深い習性を形成することとなる。そこにあるのは、
ちがった意見が討議と譲歩によって中道を見つけ出したものではなく、目上の人への
文句なしの尊敬の慣習が、まわりの者の感情に感染しあった結果生まれた
沈黙の妥協
であるか、それとも一方の意向の廃棄による迎合でしかない。
これは家庭や社会で、また宗教によって、自分の権利を主張するのは、利己的であり、
恥ずべきことだと教えられてきたからであり、そこから日本人は、他人の意志に従うことは
自己否定であり名誉なことだとしてきたのである。』


ああ!……今、自民党のありさまを見よ。一部ジャーナリストのありようを見よ…。
福島第一原発事故後の当事者たちの責任の取り方を見よ…
朝河の表現は柔らかいが、ここに書かれている日本人の習性は、今も少しも
変わらない。津波による全電源喪失の危険が早くから指摘されていたにもかかわらず、
東電はぐずぐずとそれを真剣に検討することなく終わって福島第一原発事故は起きた…
後藤さん・湯川さんの救出が急がれていたにもかかわらず、政府は動かず、彼等の
死後も、安倍政権を批判することを差し控える忖度が日本中を覆ってしまった…
安保法制の論理に無理があることは、内閣法制局長官が一番わかっているで
あろうのに、彼は法制局の伝統を無にしてまでも安倍政権のいいなりの答弁を
続けている…
安倍政権の憲法違反とまで言われる強引なやり口を国民が批判しているを
知っていながら、自民党公明党の議員で、政権に対し正論を説くものは村上氏
一人しかいない…
党内に安倍首相の独裁的手法を苦々しく思う者はいても、その再選を
阻もうと立ち上がる者はいない。いても首相取り巻きたちの切り崩し工作によって潰されてしまう!


『国のためならば、正義に反してもよい、正しい個人の名誉を傷つけてもいいという考え方は、
旧式な日本の遺物である。こうした思想は、一時的な国利を重んずるあまり、永久の
国害を論ずる人をさえ、『非愛国者』として遇してしまう
ことがある。そのため識者は、
世の憎悪を恐れる結果、国の大事についても公言することが出来なくなるか、もしくは
識者自身が世の習性に感染し、独立の思考を立てられなくなってしまう
ようになる』
とも彼は書く。

朝河はまた、自由主義政体こそは、人類が到達した最高度のものであると同時に、
最も困難な政体でもあると考えていた。それは、この政体の地盤となる個々人の
責任感が、すこぶるゆるみやすい
からであると説明し、民主政体は根本的に
常に道義的であることが正しく、個々人にあっては、絶えず自分は道義的であるか、
公民的であるかを自省する必要があると強調する。
朝河はさらに、『自由憲法を造ればそれですべてがすむというものではない。
自由は毎日個人の責任犠牲をもってのみ
買い得べき最高価の貨物なり』とも
言っている。

ああ…! これなど日本国憲法12条の精神そのものではなかろうか

『第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、
これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、
常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ』


朝河貫一が100年ほど前に祖国日本に警告したこと…
私たちはそれから少しは賢くなっているのだろうか…?




                    *


今からおよそ140年前の、1874年(明治7年)8月7日。
一組の親子連れが、住み慣れた福島県の二本松を後にした。父は娘の手を引き、
母は男の赤ん坊を背に負っていた。
一家は由井から渋川へ、下川崎まで行って阿武隈川を舟で渡った。
西飯野からは、青木のつづら折りの山坂を上り下りして、夜になってようやく
伊達郡立子山村(たつごやまむら)の、天正寺に辿り着いた。
あるじの朝河正澄は、元は二本松藩宗形治太夫の二男。
九歳で小野派一刀流を学び、免許皆伝となった。先意流薙刀、宝蔵院流槍術、
柔術、砲術、水練、乗馬と武芸百般に秀でており、学問も漢学、国学等も究めた。
十三歳の時以来、定府(じょうふ)として江戸に住み、京都、浜松、鎌倉、江ノ島等を訪れた。
全国各地の人々と交流し、時代の空気を肌で感じ広い視野を持っていた人物といえよう。
戊辰戦争では、白河、棚倉、郡山、安子ヶ島、二本松の深堀と転戦した後、
十六~十七歳の少年、隠居老人、戦い方を知らない役人などと共に二本松で
西軍に応戦するが、力及ばず落城。
妻ウタは、元は信州田野口藩の藩士松浦竹之進の長女として生まれ、二本松藩
砲術指南役の朝河家に嫁いできた人であった。
だが、先夫照成は天狗党討伐の際戦死。先夫の父も戊辰の役のとき戦死。
未亡人となったウタは、二人の娘と姑ヤソを抱えることになった。
だが、屋敷は二本松城炎上の際焼失してしまい、生きるのに困ったウタは
世話する者があって、この正澄を朝河家の婿として迎えることになったのである。


夫婦は傘張り、手習い師匠、洗濯仕事、針仕事などやったが生活は苦しかった。
正澄は内職の傍ら、小学校三等授業生の教員資格を目指して勉強。
1873年(明治6年)。長男貫一が生まれた。
教員資格を取った正澄は、伊達郡立子山村立小学校の校長格の教員として
迎えられることになり、それで一家は二本松を去ったのであった。



立子山天正寺

立子山小学校があった、福島県伊達郡立子山村、天正寺遠景。
写真は、こちらのサイトからお借りしました。

http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10011.103.nihonmatsu/html/00002.html



校舎は天正寺の客殿と続きの2間、校長の住居は庫裡だった。
立子山は阿武隈山塊に抱かれ、冬は寒さが厳しいところであった。

長男貫一は、生まれつき虚弱で発育が遅く、誕生日が過ぎても歩けるどころか
片言も発することさえなかった。
貫一が2歳になった翌月、ウタは貫一のことを心配しながら死んでしまう。
正澄は後妻ヱヒを迎える。
このヱヒが、また、慈愛に充ちた賢い女性であった。彼女は幼い貫一を見るなり、
貫一の言語機能がひどく遅れていることに気づく。彼女は正澄とともに、
熱心に単語図や連語表を使って、貫一に発音の練習を繰り返しさせた。

4歳になる頃には貫一は体も言語も、年齢相応になるまでになった。
正澄は幼い息子に近古史談、日本外史、四書五経などを教え始めた。




立子山小学校

天正寺内にあるかつての立子山小学校。一度建て替えたその建物か?
写真はこちらのサイトからお借りしました。
https://kacco.kahoku.co.jp/blog/mingei/18448




貫一は立子山小学校初等科に入学。7,8歳のときにはもう11、2歳の
力を見せ『神童』とか『朝河天神』などと近在のひとに言われるほどだった。
伊達郡内の学力比較試験の際には、いつも彼が立子山小学校を代表して
出席。最優秀の成績を上げたという。

川俣高等小学校を経て、福島尋常中学校に二里半の道を歩いて通うようになる。
貫一の、上級の学校で勉強したいという願いを父が聞きとどけたのである。
福島尋常中学校は後に安積郡に移転。安積中学校(後の安積高校)と
呼ばれることになった。

1892年。貫一は安積中学校を首席で卒業。卒業生総代として彼は答辞を
読むことになっていた。貫一の口から出たのは見事な英語の演説であった。
英人教師ハリファックスは、『やがて世界はこの人を知るであろう』と語ったという。
こんな逸話もある。
貫一は、英和辞書を毎日2ページずつ暗記した。そして暗誦したものは、一枚ずつ
食べるか破り捨てるかしていき、カバーだけになった時、それを校庭の西隅の
桜の樹の根元に埋めたというのである…。
作家久米正雄はこの安積中学校の18年後輩であった。久米は貫一のまねを
して、覚えてもいない辞書のページを食べて桜の根方に埋めたという。^^

中学を出た貫一は、アメリカ留学の第一歩としてまずは東京専門学校(後の
早稲田大学)に進むことを決意。英語教師や翻訳などをして資金を貯めた。
上京した貫一は、友人に紹介されて本郷教会の牧師横井時雄に会う。
横井によって洗礼を受けた。
貫一の文才に感服した横井は、友人でダートマス大学の学長をしていた
ウイリアム・J・タッカーに朝河のことを話した。タッカーは、朝河の才能と経済的
苦境を知って、彼に学費・舎費免除の留学の機会を与えることにした。

だが貫一には渡航費がない。友人知人にお金を借り、彼の貧しさと才能を
見込んで当時早稲田で教えていた坪内逍遥が翻訳の仕事を回してくれなどしたが
なかなか資金はたまらなかった。
これを解決してくれたのが、徳富蘇峰や大隈重信、勝海舟の三人であった。

1895年(明治28年)。貫一は東京専門学校を首席で卒業。
同年12月。貫一は横浜からサンフランシスコへ向かって旅発った…。
入学したのは、ニューハンプシャー州ダートマス大学。
そこでの朝河はいつも最優秀の成績を上げた。英語・ドイツ語の学力では
学部学生の水準をはるかに抜きん出、ドイツ語教授をはじめ、諸教授は、朝河の
卒業に際し、その学力と共にその人格と人を引き付ける個性にも讃辞を
惜しまなかったという…。



                   *

さて。朝河貫一の生まれてからのエピソードを後回しにしたのは、少し
個人的な思い入れがあるからである…ささやかきわまりないものだが。

貫一の父正澄が婿養子に入った朝河家は、二本松藩の砲術指南の家柄で
あった。
『八重の桜』のあの新島八重も、会津藩砲術師範であった山本権八の娘であった。
二本松藩と会津藩は共に、1868年(慶応4年・明治元年)、戊辰戦争で新政府軍を
相手に戦い、まずは二本松城が、そして会津若松城が、落城。
二本松少年隊と白虎隊の少年たちがそれぞれ戦死あるいは自刃したのは
皆さんご存じの通り。

私は、朝河貫一という稀有の才能に魅かれるとともに、戊辰戦争で二本松城で
少年たちと共に戦い敗れ、男子の絶えた朝河家に婿養子として入り、教員資格を取って
福島の辺鄙な村の小学校長となった貫一の父正澄の生涯に、いたく心惹かれるのである。
なぜなら、正澄が小学校校長扱いとして二本松を去って赴任した立子山、という
土地は、私のつれあいの、年のずいぶん離れた次姉が嫁いだ村であったから。
私の義理の姉の一人になったそのひとは、昔看護婦をしていて、弟である
私の連れ合いに、いろいろな本などを買い与えて当時としては新しいことをいろいろ
教えてくれた人であったという。
その義姉さんの夫は、盲目であった。体の大きな立派な押し出しのひとで、まだ目が
見えていた若い時分はたいへんな働き手で、皆に一目おかれる男であったという。
私が初めて連れ合いの故郷の福島市に連れていかれたとき、次姉夫婦に
会うこともあったが、既に二人はかなりの年で、親戚の集まりに少し顔出すだけで
すぐに山の家に帰ってしまい、私はあまり話をしたことがない。
立子山に行ったこともない。
昭和の後年になっても、そこは辺鄙な場所であるということだった。
しかし、『立子山の姉さん』『立子山の義兄さん』と夫が言うとき、私はなにか
なんというのだろうなあ…俗塵から自ら離れて生きる杣人のような孤高の印象を
受けて、遠くから微かな共感を持って聞いていたものだ。
それは、私の父が晩年一人で山で生きていたからでもあったし、父の父という人が、
義兄と同じように若い頃山で作業中、事故で失明した人だったからかも知れない…

朝河貫一は、その立子山の出身であるという…
そしてもう一つ。実は私は、もうずっと以前に、辞書を暗記して食べそのカバーを
校庭の桜の根方に埋めたという福島の偉人の話を夫から聞いたことがあったのである。
しかしその時私は、辞書の紙って不味いだろうなあ…と思っただけで、『ふうん』と
気のない返事をして、それっきり『辞書喰い』のその人のことを忘れてしまっていたのである。
無論その名も。

2012年、朝河貫一のことを知って『日本の禍機』という本を買った時、私は
その人こそ、あの辞書を食べてカバーを桜に下に埋めたひとか!と驚いたのである。
もっとも夫は勘違いしていて、貫一を母校の先輩、県立福島高校の卒業生だと
思っていたらしい。貫一はそうでなく、安積高校の人であり、『朝河桜』と呼ばれる
その桜の樹も、安積高校にあるのだが。

さらなる偶然は。
記事冒頭部分にも書いたが、78年後に再版された『日本の禍機』の、
校訂・解説を、私がかつて大学で一度だけ授業に出て、そのたった一度の授業で、
先生がその身の周りに漂わせていた学問の世界の豊穣さや香りに魅せられて
しまった、あの、U先生が書いておいでだということを知ったということもあった…
古今の古典や、心理学や、象徴学や、…といっためくるめくような学問の世界
への扉を開いて見せてくれたあの授業!
…若い心にどれほどそれが眩しかったことか!
自分はなしえなかったけれど、学問の世界への淡い憧れ、というものは、
その後も私の中に消えずに残って、なにがしかの影響をきっと及ぼしている。

一言で言えば、『世界は多様で、驚きに満ちているものだよ』ということだろうか。
たった一回受けた授業で、先生が、その身で私に教えてくれたことは、そういうことだった。

だが。そんな小さな私事の偶然はともかく。
私は、戊辰戦争に敗れ、新しい暮らしを求めて二本松を去り、当時は今よりさらに
寂しいところであったろう立子山の地に向かう親子の姿を想像すると、なんだか
涙が出そうになるのである。とりわけ父正澄の想いに。正澄自身、進取の気性に富む
学問好きの人であったろう。息子のアメリカへ留学したいという夢を文句ひとつ言わずに
許した父のこころ…。

朝河貫一が、遠い遠いアメリカの地から、祖国を想い、戦争の禍を招くようなことは
するなと警告する出来得る限りの動きをしたということのその底には、父正澄が知る
戦争の敗者の悲惨というもの、戦の悪を、幼い頃から聞いて知っていたからではなかろうか、と
そんな想像をしてみるのである。
いわば、貫一の体に戊辰戦争の敗者のその血が流れていたからではなかろうか、と。
彼が徳富蘇峰に、日本軍が武器もろくに持たぬ民を武力でもって制し、蛮力をふるって
武器のない人々を殺害していること。これはまさしく日本の武士道に反する
卑劣な行為である、と強い言葉で書き送った心の底に、そんな、父から受け継ぐ
日本の武士道のあるべき姿への想いがあったからなのではなかったろうか。

彼は戦後も思考を止めず、戦後の日本のあるべき姿についても書き残している。
『日本人の特色は妥協の一事にあり』と手厳しい。
すぐ悔悟反省するのは、その『妥協』的性格のいい面であるかもしれないが、一方、
「強力野心にして他を控制するものに雷同することあるを免れず。軍部の行動を憎みながら、
之に反抗せずして、之に駆逐さるゝを劫けなかった如きは其例でありませう
」とも書き、
日本人は、
無私の反省と、無事の迎合とを、種々のかたちにおいて将来も繰り返すのであろう
と、戦後の日本をまったく見事に予感して、敗戦の3年後の1948年8月、日本の将来を
憂慮しつつ亡くなったのである。
素直に反省するのはいいのだが、今後も『無事(面倒なことが起きない)であればいいと…
余計な波風を立たせないように大勢に迎合する』ということを繰り返して行くのだろう
、と。
なんと耳の痛い諫言ではないか…。

彼は、占領下にある祖国日本を遠くから見て、アメリカにいつまでもすがっていてはいけないと
言っている。
二院制の必要を説いている。
教科書の中身などに国家が介入すべきでないということも書いている。
実は私は、朝河の思想に全面的に賛成するものではない。
彼は日本は自衛力を持つべきだと言っている。
彼においては天皇制は自明の理なのであったろうし、共産主義を(おそらく)恐れ、
その経歴上、視点がアメリカ寄りになってしまうところはどうしてもあった。

だが、彼の残してくれた日本への数々の警告は、残念ながら今も生きている。

その誠実な、筋を曲げぬ生き方と広い視点は、それ自体が一つの大きな啓示
であるように私には思える。
何よりも、こういうひとが過去にいた…と言うそのこと自体が、心にしみるのである…


なお、ここに書いたことは、主に以下の本を参考にして書いた。

『日本の禍機』 朝河貫一 (講談社学術文庫)
『最後の「日本人」 朝河貫一の生涯』 阿部善雄 (岩波現代文庫)





『戦争法案廃案8・30国会10万人・全国100万人大行動 報告』

なんとか雨が降らないでくれればいいがと願っていたが、国会前行動の当日は
雨時々曇り。
この日は、私の地元でも抗議集会があった。それに出てから、直接国会前に向かう。

いつもは私は、地下鉄『国会議事堂前』で降りるのだけれど、今日は大勢集まるから
警官隊の規制も厳しくなるぞと思って前もって情報チェックしてみたら、国会議事堂前は
警官隊の規制がとりわけ厳しく、国会前に近づけないかもしれない、とあった。
で。『霞が関』で降りることにした。こっちの方が規制を受けずに国会正門前に
行きやすい可能性がある。
『国会議事堂前』駅を避けて『霞が関』駅にしたのは大正解だったと後でわかった!
国会議事堂前駅は、警官隊によって出口規制が行われていて、国会正門にいちばん
近い2番出口は警察が封鎖。駅構内は前にも後ろにも身動きがとれないほど人が
いっぱいあふれて、普段なら、1~2分で地上に出られるところが、30~40分もかかる
有様だったという。
隣の駅でそんなことが起きているとも知らず、霞が関に着いてみると、拍子抜けするほど
ホームはガラ空き。「ああ、雨のせいで参加者少ないのかなあ…」と心配になってきた…

だが。外に出てみるとそんなことなかった!
着いたのは午後1時半ちょっと過ぎくらいだったが、ものすごい大勢の人々。
その人混みを縫うようにして、議事堂正門北側の歩道を前へ前へと進んで行った。
だが、人が多い。本当に多い!
その日の気温は24度とか言われていたのだが、雨もよいで湿度がもともと高い上に
とにかく人がものすごいので人いきれですごい湿気である。
それでも前へ前へ。
どうせ行くなら、一番中心部に行ってみなくちゃ、集会の大きな輪郭がつかめないでしょ。

1時40分ごろ。
決壊した!
警官隊が、三角コーン、鉄柵、機動隊車両などで三重四重に築いたバリケードを、
ひとびとが決壊させたのである。
後で耳にした情報では、警官隊も歩道にぎゅうぎゅう詰めの人々が将棋倒しになって
危険と判断し、決壊しても無理矢理それを止めようとはもうしなかったようだ。
お~お~…。やったよ…


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私も歩道から広い車道に出た。
うわあ。ここもすでにすごい混雑。でも、前へ前へ。
ドラム隊の横を通って、シュプレヒコールの中心の方へと向かう。
この日。コールを主導するSEALDsなどの人々の中心集団は、一般の人と
同じ地面にいて、つまり、いつものようにお立ち台、というようなものの上に
いなかったせいか、どこが中心なのか、ちょっとわかりにくかった。

さて。いつもなら、最前線をちょっと見たら、議事堂周辺をぐるっと一回りしてみる
ところだ。それでおおよそ、今日は何万人くらい来てるな、というのが過去の回と
比べてなんとなくわかるのだ。
でも、昨夜は一睡もしていない。眠れなかったのだ。午前中のデモにも出たし、
今日は体力にあまり自信ない…
それで、途中からは国会前北庭の中に移動した。国会前には洋風庭園の北庭と
和風庭園の南庭がある。デモの人いきれに酔ったようになった人々は、ここに逃れてきて
豊富な樹木の影で休憩していた。
雨はどうにかこうにかもって、時々曇り、時々雨がぱらつくといった具合。傘はどうやら
ささないでも間に合うくらい。

参加者だが、う~ん……はっきり言って正確な数字はわからない。
60年安保のあの有名な写真ほどではなかったけれど、車道の国会に近い方に
なればなるほど、決壊して溢れ出た人々の密度は高まっていき、そこだけで
相当な数になったと思う。

しかし、警官隊のバリケードが決壊して車道に出られるようになっても、いつもの
ようにおとなしく議事堂周辺の歩道上にいた人はとても多かった。
北庭、南庭にもかなりの人々がいた。夕方以降のいつもの集会だと、この二つの庭園は
5時には閉まってしまうのでそこにはいられない。だが、今日はまだ開いているので、
そこにいた人々がかなり多かった。歩道にいる人も公園にいる人も空撮写真では
樹木の陰になって正確な数は把握できないだろう。

警官隊はとにかく一個所に人々が集まらないように、ルートを規制する。
『こっちからは国会正門には行けないことになっています』とか、『もう人がいっぱいで
危険なので、議事堂から少し離れたどこそこのあたりにまだ場所があります』
とか言って、地下鉄の出口から次々に吐き出されてくる人々を分散させるよう
誘導していくのである。
今回も、初めて来た人で、国会周辺の会場の様子がわからない人は、あきらめて
帰ったという人もいたようだ。せっかく来たのになあ…。

航空写真で見ると、議事堂から随分離れたところの道路にもかなりの人々がいる…
まあ、組合など集団で来ている人は、離れ離れにならない場所を求めて、そうした
ちょっと離れたところに位置取りすることが多い。しかし、状況がわからないままに、
誘導されるままにそんな離れたところで静かに参加している人々もいつも多いので
ある。
その上!今回はなんと、あまりにも人がどんどん来るので、「日比谷公園に行って
ください!」と指示された人たちまでいたというのだ!だから日比谷公園にもかなりの
人がいたとか。
終了時間前に帰る人、終了近くになっても駆けつけてくる人…
結局、どのくらいの人々が集まったのか、本当にわからない。だが警察関係筋に
よるという三万数千人ということは絶対にない!
未確認の情報だが、国会周辺の地下鉄駅4駅を利用した人は、この日9万人ほど
いたという。これらの駅の普段の利用者がおよそ2万人くらいというから、差し引き
7万人がこの日の4駅利用のデモ参加者、ということになろうか、という。
だが、ここはその4駅の他にあと2駅くらい最寄り駅がある筈だ。しかもおそらく一番
利用者が多かった桜田門駅?は、このカウントに入っていないというし、地下鉄で行くと
正門前に近づけないだろうということで、タクシー乗合で来た人々やバスで来た人々も
多かったから、やはり主催者発表の12万くらいというところかなぁ…。
(あとから続々詰めかけた人々などを考慮して、述べ35万、という数字を主催者は
後で出したそうだ…。)

私としては残念だったのは、警官隊のルート規制が徹底していた故に、多くの人が
国会前に全然近づけず、だいぶ離れたところに…正門前のSEALDsなどをとり囲む
人々の熱気も全然伝わってこないところで参加していざるを得なかったということだ。
若い人たちはLINEやtwitterなどで、現場の様子を伝えあって、どこからどうやって
正門前においでよ、などと生の情報をやり取りできるが、情報にも地理にも慣れて
いない初めてのひとや高齢者は、警官隊の誘導におとなしく従って、そんな遠く離れた
ところにいるしかなかったろう。
ある参加者の投稿文面を一部引用させていただく。
 
『そして、地上でもまた規制。国会正門方向に行こうとしても、警官が鉄柵で止め、
青信号なのに渡らせてくれない。』
『結局、国会をぐるっと2/3周くらいして、憲政記念館のあたりで、ふたたびお巡りの規制で
止められ、仕方なくその辺りでスピーカーから流れてくるスピーチとシュプレヒコールを
聞いていました。メイン会場にたどり着けないたくさんの人が、衆議院第1・第2議員会館
や参議院議員会館の周辺や外務省・国交省の周辺にあふれていました。
警察の過剰規制に怒ってくってかかり、逮捕されかかる人までいたようです。』


過剰な規制がなかったら、もっともっと多くの人が国会正門前に集まれただろう。
『もう国会前はいっぱいだから、日比谷公園に行ってください』といわれて行ったという
多くの人々なども含めると、国会前の人波は、ものすごいものになっていたのでは
なかろうか。(もっとも、最初から日比谷公園に集まった労組関係の人々などもいたようだが)
60年安保時の写真ほどまでは行かなくとも、航空写真は発表されたものよりもっともっと
インパクトのあるすごいものになっていたに違いない。
そして、政権に対する批判効果…可視化できる抗議の数がもっと大々的に、
もっと印象の強いものになっていたに違いない。
私は、今回の集会は、とにかく正門前に参加者ができる限り集まって、その圧倒的数を
可視化して見せることが一番大事だと思っていたので、twitterで、『警官にルートを
指示されても、ぐるっと大回りすれば正門前に辿りつけるから』、と書いてみたのだが…。
お年を召したかたや、赤ちゃん連れなどで、危険な最前線に行くのは止した方がいい人
などを除き、正門前に行きたいのに結果行けなかった人々のことが残念だ…
私も経験したことがあるので、すごくその無念さがよくわかる…

この映像が、参加者の熱気をすごくよく捉えてくれていると思うので使わせていただこう。
上記、日比谷公園の様子や、そこから国会前の様子まで、よく雰囲気を捉えていると思う。





クウーママさんが教えてくれた、31日朝刊の新聞各紙の報道比較。
読売、日経は一面で報道せず。
https://twitter.com/FATE_SOSEI/status/638237950887628800/photo/1



とにかく、若い人々の活躍が嬉しい。もうすっかり国会前のデモは、SEALDs
などの学生たち…若い人たちが主導している感じだ。
3.11後。地震と津波と原発事故と…あれだけの悲劇があったにもかかわらず、
日本の言論をリードする立場にある人々の発言や行動は低調で、今一つ大きな
社会運動につながっては行かなかったように思う。
この安倍政権による集団的自衛権行使の閣議決定や、秘密保護法などについても、
それが、日本人が敗戦後必死で守ってきた平和主義や国民主権、法治主義などの
大切な理念を根底からひっくり返すような危険で醜悪なものであるにもかかわらず、
ジャーナリズムを含めた日本の言論は、今一つ盛り上がらなかったように思う。
いつも発言し行動する人は、ほんの一部の限られた人々だけだった……

こんな大事な時に!なぜ黙っているのか?なぜ動こうとしないのか?
私にはそれがずっと不思議でならなかったのである…
このことは以前にも書いたことがあるが、原発事故が起きたとき、文学者などの反応や
対応は概して緩慢で薄かった…盛んに言葉を発信し動いてくれていたのはごく一部の
作家でしかなかった…
宗教家も哲学者も…そして、こうした社会の問題に昔ならば一番敏感であった学生たち
に至っては、政治的行動という面ではほぼ無反応と言ってもよかったのではなかろうか…
政治家もそうである。

『この国に原発を忌む人々の 政治の受け皿無きを悲しむ』

つたない、直な歌であるけれど、原発事故後の怒りをぶつけるところのない、どうにも
やるせない思いを表出した私の短歌。
この怒りは今も続いているし、さらにまた今、戦争法案を法治主義を無視して無理やり
通そうとしている安倍政権に国民の多くの怒りは向けられている。それなのに、
それを託す政党がないという、その状況は少しも変わっていない。

実は市民たち…名も無き民たちは、大震災・原発事故後も黙々と活動していたのである。
被災地へ被災地へ…遠く鹿児島や沖縄からさえボランティアに向かう人々もいた…。
国会前では、毎週のように脱原発を訴える集会が今でも継続され、経産省前テントに
今もがんばっている人々がいる…
安倍政権批判も、市民レベルでは個々に活発に行われていると思うのだ。
だが。その核になる存在が、なかった…

わかっている。社会の変革は、一部のインテリ層や一部の指導層によってなされる
ものではない。一人一人の人間が、自分の頭で考え、立ち上がって声をあげるとき
初めてなされるものである…。
それはわかっているのだが、しかし、その声がばらばらなところでばらばらなときに
上げられるのでは、社会変革をもたらすような目に見える大きな動きにはなかなか
なって行かない。

何か、誰か、これら個々の想いをまとめる核になってくれる人々はいないのか…

私は絶望していた…

そう。よく動いてくれている人々はいた…。
それは、前にこれも書いたけれど、日本弁護士連合会の人々である…
彼らは原発事故後もいち早く声明を出し立ち上がってくれていた。
ペンクラブにも、宗教界にも、学生運動にも、政治にも期待を抱けない中、私が唯一
信頼を託せたのが、この日弁連の人々であった。
同じくこれも法曹界のひと…裁判長樋口英明氏の、深い哲学に満ちた大飯原発4号機
再稼働差し止めの判決文にも感動させられた…

だが。安倍政権と自公は、あまりにも多くの議席を得、あまりにも大きな権力を
手にしてしまった…
もうなにを言ってもなにをしても駄目かも……

実は、私は、ついこの5月ごろまで、そう諦めかけていたのである…
元気を振り絞って記事を書こうとはしていたけれど、心の底では、
『この国の政治はもうどうにもならない。行くところまで行って自ら崩壊するまで、
≪気づき≫はないのかも…』と諦めかけていたのである。

しかし。そのあきらめ状態から立ち直らせてくれた人々がいた。
それが、6月4日、衆院憲法審査会において、『安保法制は違憲だ』と言いきって
くれたあの憲法学者三人、長谷部恭男氏、小林節氏、笹田栄司氏であった。

そこから、本当に嘘のように、日本の流れが変わった…!
もし、この三人の発言がなかったら、衆参両院における安保法制の審議は、
『もうどうせ、自公の数の力で押し切られちゃうんだろ…』という国民のあきらめの
うちに、たいした波乱もなく可決成立してしまっていたかもしれない。
私は、この三人の憲法学者に、本当に感謝してもしきれないくらいなのである。

『そんな中で、私が、ここにまだ一つの希望があるのではないのか、と感じていたのが、
実は法曹界の人々…日本弁護士連合会の人々に対してだったのです…』
以前私は、『日本と原発』という記事の中で、そんなことを書いたことがあるが、法曹界が最後の
砦になるかも…という直感はまんざらでもなく当たっていたかもしれない…

『言うべき人が当たり前に言うべきことを言う』…
そのことがどれほど大事なことか。

それまで、その当たり前のことを敢えて言おうとせず、大きな権力を与えてしまった
安倍政権に、あろうことかむしろ『忖度する』ムードが日本を覆ってしまいつつあった…

この憲法学者三人の会見は、その忖度ムードを吹き払ってくれた!
『王様は裸だよ!』…『安倍政権は空っぽの王様だよ』…
そこから皆がそのことを勇気を持って言い始めたのである…

SEALDsは、Students Emergency Action for Liberal Democracy
の略。『自由と民主主義のための学生緊急行動』の意味である。
そのSEALDsの動きが、憲法学者たち3人が呼び起こした動きに連動した。
もっとも、SEALDsは、この春生まれた動きというわけではなく、2014年、SASPL
(サスプル:Students Against Secret Protection Law/特定秘密保護法に反対する
学生有志の会)として、ムービー・文章による情報共有や、新宿・渋谷に集まった
学生デモや官邸前抗議行動、沖縄、辺野古基地問題に関するアクションなどを
してきたグループである。

憲法学者三人が明らかにしてくれた『王様は裸だ』ということ。それをみんなが言う勇気。
次々と憲法学者たちやその他の法曹関係者たちが賛同意見を公告し始め、
法学に限らずその他の学問分野の学者たち、学生たち、卒業生たちなども
声明を出し始めた。
現在のところ100を超す大学から安保法案反対の声が上がっているという。
『安全保障関連法案に反対する学者の会』

7月31日には学生団体「SEALDs(シールズ)」と憲法学者たちが主体となっている
「安全保障関連法案に反対する学者の会」が共同で安保法制反対集会とデモを行った。
主催者によると、集会の方には約4000人の方が参加し、その後の国会前デモには
約2万人が参加したとのこと。学生団体と憲法学者らが共同で集会をするのは異例で、
両者は「共に廃案に持ち込もう」と声を上げた。

さらに8月26日には、安全保障関連法案に反対する学者の会と日本弁護士連合会が、
東京・霞が関の弁護士会館で共同記者会見を開き、会場には、全国から学者と弁護士
あわせて300人以上が集まり、安倍政権が推し進める安保法案の廃案を訴えた。


300人学者・弁護士
(写真は、弁護士ドットコムさんからお借りしました)



どうだ。壮観じゃないか。こんなことは初めてだという。

法曹界や学者や大学生たちばかりではない。
高校生たちのグループ T−ns SOWLやトールズ(TOLDs)、ミドルズ(MIDDLEs)、
オールズ(OLDs)、『安保関連法案に反対するママの会』、「映画人九条の会」、
医療・出版・印刷などの労働組合、「戦争法案に反対する宗教者・門徒・信者全国集会」…
そうして海外からの声オーバーシーズ(OVERSEAs)など…
(詳しくはこちらを。http://xn--nyqy26a13k.jp/archives/3873

それこそ多くの団体、個人があっと言う間に立ちあがり、その中には、公明党の
支持母体である創価学会や創価大学の人々もいて、上記学者・弁護士の集まりにも、
またこの8月30日の国会前デモにも、本来『平和の党』を目してきた公明党の変質に
抗議し危機を訴える人々が加わっていた。


2015_0830_135853-CIMG4982.jpg


この日、創価学会の人々は、国会正面北側道路に位置を取り、党に抗議するための
署名集めをしていた。無論私も署名させてもらった。

東京ばかりじゃない。日本全国津々浦々、県、市、町、村、個人…規模こそ違えど
無数の戦争法案反対の運動が、ほぼ同時に生まれているのである。
その中には、先日紹介した長野県栄村の軽トラックデモのような、微笑ましくも
人のこころにぐっとくる効果的なデモもあった…。
twitter投稿からの引用だが、
『三重県の小さな街のデモ。たかだか200mの隊列だが沿道の老夫婦から
拍手を受け、車の中から手が振られる。警備のお巡りさんから
「あと少しです。がんばりましょう」と声がかかって笑い声が起きる。』

などという微笑ましいのもあった。

…そうなのだ。私も、いつもデモに行くとき、警官隊や機動隊員を敵とは考えない。
彼らは仕事でバリケードを築き道路規制もしているのだ。同じ日本人じゃないか。
警備をしながら彼らもデモ参加者の演説を聞き、シュプレヒコールも聞いているだろう。
中には、ほんとにそうだなあ…と思い、自分もデモ側にいたいなあ、と思う人もいるに
違いない。
私など年配者から見れば、デモ隊の若者たちも警官たちも、同じような若い頬の青年たちだ!
ある回の反原発デモのときなど、いつもドラムを叩いてシュプレヒコールや行進に
勢いをつけてくれるドラム隊の面々。
その軽快なドラムのリズムに、バリケード向うのベテランの警官が思わず足で
無意識に拍子をとってしまっているのを私は目撃したこともある(^^)。

かつて。警察官や特高警察が、庶民にとって恐怖の的であった不幸な時代が確かにあった。
しかし。今はそういう時代ではない。二度とそういういやな時代にしないよう、だからこそ
こうやってデモや集会をしているのである…
警官隊を必要以上に毛嫌いし敵視するのは、愚かなことだと私は思っている。
むしろ彼らを心情的にこちら側に取り込むくらいの大きな気持ちがなければ。

同様に、同じ反安保法制、反原発の仲間同士で、瑣末な考え方の違いをあげつらって、
差別化を進めていくのも愚かで残念なことである。
私たちが立ち向かっているものは途方もなく大きく強い。その前で味方同士で
分裂していてどうするのだ!

SEALDsのメンバーがどうだとかこうだとか、老人たちがどうだとかこうだとか、
デモは効果がない、メールや電話攻勢や直接陳情の方が効果的だとか、その逆だとか、
そもそも投票しないやつが悪いのだ、とか、そんなことをうだうだぐだぐだ言っている場合か!
投票は無論のこと、デモも、メールも電話も直接陳情も、投書もパブコメも公聴会も…、
ぜ~んぶやればいいじゃないか。
どこが主催だのどの年齢が中心だの、そんなことも言ってられる場合か!
その意味では、今はとにかく、多少の違いは不問にして、大きく大きく『反安倍』
『反戦争法案』という一点で団結すべき時である。

今回。私は目撃し損ねたけれど、民・共・社・生活の党の4党首がそろって国会前の
集会に姿を見せスピーチした。初めてのこと
だろう。
うんうん。そうこなくっちゃ。
デモ隊から大きな歓声が沸いたそうである。
前回デモに行ったときかな、その時は民主党岡田代表と、共産党志位委員長が
並んで登壇し、その時でさえ会場からは「おお~っ!」というようなどよめきが起こった。
そのどよめきは、この両党が違いを超えて共に戦ってほしいという、参加者の
切実な思いの表出だったろう。
まして今回は、そこに社民党吉田党首と生活の党と山本太郎となかまたちの
小沢代表も加わった…。
彼らにはこれから、安保法制の審議だけではない、来年の参院選、さらにはその先の
衆院選をもにらんで、共闘してもらわなければ困るのである!
とにかく安倍政権を倒し、戦争法案を廃案にする、その一点で今は共闘し、
参院選では、これら皆で候補者を絞り込んで共闘して欲しいのである。

政治の受け皿を作ってほしいのだ!!!



                     * 

さて。今回の安保法制廃案、安倍政権打倒の集会は、さまざまに論じられている。
・デモなんかしても、どうせ衆参両院で圧倒的議席数を占める与党は、黙って
いても法案成立させられる。だから無駄だ…
・今、運動の中心になって注目を集めているSEALDsも、こうした学生運動・市民運動が
陥りがちなように、その運動方針など細かい違いへの不満や対立が増幅して、いずれは
内部分裂を起こし、縮小消滅してしまうだろう…

私も、正直言って、その不安は抱く。そんなことになって欲しくないと、ほんとに悲鳴を
上げたくなるくらい心から切実に願う。
実際、法案は、あと10日かそこらで成立してしまうだろう…

だが。私は、これらの国民の動きの一切を無駄だなんて絶対に思わない。
あじさい革命などと一時呼ばれた脱原発運動もすっかり縮小したように思われるかも
しれないが、とんでもない。3.11後の脱原発運動は、そのまま、この安保法制
反対運動に重なって今も継続されている。
『首都圏反原発連合』などの人々が確立してくれた国会前や都内各地でのデモ、
集会などのノウハウは、今回のSEALDsなどにしっかり受け継がれている。

さらには。
よく指摘されることだが、これまで労働組合や60年安保、70年台学生運動の
生き残りのような世代の年配者たちが中心であったデモに対し、今回はとりわけ多くの
若者たちやママさんたちが中心になって組織してくれて、そこに『動員をかけられた』
メンバーなどではなく、個々人が自由に自分の意思で参加しているということが、
今後に向けても大きな大きな意味を持っていくと私も思っている…
そして。東京だけではない。これまでデモなどしにくかった地方の村や町街などでも
同時多発的にデモや集会が起きて行ったこと。これも、今までと違う傾向だ。


日本には、『政治はプロに任せろ』という暗黙のプレッシャーが、どこからと言わず、
いわば国民自身の内にも、言わば自縄自縛的にあったと思うのである。
『政治はプロに任せろ』は、すなわち、『政治は自民党に任せろ』とほぼイコールである。

戦後長く…先進国としては異常なほど長く自民党の一党支配が続いてきたこの日本。
政治は自民党が本流で本筋で達者であり、政権担当したことのない野党各党は
言わば政治の実情のわからない素人集団。政権など任せても不安でしようがない…
といった『刷り込み』が、国民のうちにも、また政治家自身のうちにも(与野党問わず)
あったと思う。


その偏見のよくあらわれているひとつの例が、『市民運動あがり』という蔑称である。
民主党菅元総理に対し、この差別的な言葉がどれほど使われたことであったろう!
あの桜井よしこ氏などは、3.11後、私の知る限りでも菅総理に対しこの言葉を
軽蔑的によく使っていたし、なんと、朝日新聞の天声人語子までが、このことばで
菅総理を揶揄していたことがある!

市民運動の何が悪い!!??
市民運動上がりでなぜ悪い!!??

『市民運動』は、憲法に保障された国民の権利じゃないか!
代議制を主として採るゆえに、国民一般は、投票行為によってしか政治に参加する
機会がなかなかない。
デモや集会、公聴会参加、ビラ作成と配布、投書など、『市民』が出来る活動は、
憲法がこれを保障している。恥ずかしいことでも滑稽なことでも何でもないのである!
それどころか、憲法は、その第12条で、『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。』
と、くっきりと、憲法が侵されないよう不断に努力せよ、と国民に訴えている
ではないか。

私たち現代人は、概して、憲法に書かれているようなことどもは、言わば天賦の
当たり前に誰にでも自然に与えられた権利のように思いがち
であるが、とんでもない!
言論の自由にしてもデモなど集会の自由などにしても、参政権も男女平等も…
それこそ国内外の無数の先人たちが、知と涙と汗で戦いとってきてくれたもの
なのである。

…いずれもうすぐ日本でオリンピックである。オリンピックに男女が参加するのは当たり前と
思ってはいないか?
だが世界には、女がスポーツをすることさえ許されぬ国や地域がまだ厳然として存在する。
スポーツどころか、マララさんが今戦っているように、女が学校に行くことさえ許されない
そんな国や地域がまだこの地球上にはたくさんあるのである。
3年前。ロンドンオリンピックの時、私は、苦い一言をブログ記事に付け加えたことがある。

『日本人は、自らの今手にしているしあわせに鈍感である。
その幸せは、先人達が血のにじむ努力や時には迫害を受けつつ獲得してきた権利である。
今回のオリンピックで初めて、参加国すべてが男女参加にこぎつけたのだ、ということを
御記憶なさった方も多いだろう。びっくりしませんか?!
女はオリンピックに出られない、という国が前の大会まであったのだ。
日本じゃ当たり前に女もスポーツできるし、選挙権もある。
でも、その我が国だって、婦人が、国でも地方でも参政権を得たのは、戦争後の
1946年のことである。
それまでには、幸徳秋水や青鞜の平塚らいてうや奥むめお、また菅直人が青年の頃
市民運動家としてそのもとでスタートを切った、あの市川房枝などが、
砂を噛むような悔しさの中、血を吐くような訴えを続けてようやく獲得した女性の権利
なのである。』


私たちが憲法に保障されている諸権利…
それが獲得されるまでにはどれほど長くの時間と大変な努力が
継続されて来たことか。だが、それが奪われる時にはほんの一瞬だ、
ということを私たちは、もっと肝に銘じるべきだ。

そのいい例が今、目の前にあるじゃないか。
安倍政権のしていることは、その、国民の権利を守ってくれる憲法への、それこそ
冒瀆であり蹂躙である。『挑戦』などという前向きなものではないぞ!
安倍政権になってから、どれほど私たちは、好きにもの言うことに躊躇いを抱くように
なってしまったことか…
ただ正当な政治参加の権利を使うためにデモに出る…そのことさえ安倍政権になってから
人によっては、一種の恐怖を抱かざるを得なくなっているのだ。
つまり、公安などに顔写真などを撮られて、それが政府などに情報集約され、いつか
何かの機会に監視対象になったり拘束逮捕されたりするのではないかという恐怖。
あるいは、それをネタに恫喝してくる者がいるのではないかという恐れ。
現にSEALDsの学生たちに、『(そんな活動していると、)就職できなくて震える(ことに
なるぞ)』という、愚かな愚かな脅しをブログに書いた地方議会議員がいる!

ご存じだろうか。今回30日の国会前の抗議行動では、主催者が配慮して、公安などに
写真を撮らせないようにした一角があったということを。
それは、正門前南側公園際の歩道の一角で、そこにいれば、公安警察などに顔写真を
撮られる心配なくいられて、その代わり、参加者自身もそこではスマホなどで写真を撮ることを
しないように、という約束の区域があったということ。

デモに出るのに、そんな心配をする人が出てきたということなのである。
民主党政権はぐずぐずの、自民党に比べれば政権担当の経験の浅い、いわば
『プロ』でない、ド素人政治家集団であったかもしれないが、少なくとも民主党政権
時代にはデモに出て顔写真を撮られる恐怖を感じたり、何かもの言うのに忖度
しなければならないなどということはまず無かった…!

あの、私が嫌いだった野田政権でさえ、脱原発団体の代表者と会い、エネルギー
比率についての公聴会などを何度も開くなど、国民の声を割合すくい上げようとは
していたものだ。


『市民運動』という言葉が、特定の政治的志向を持った者たちの特定の活動を表し、
それが一種の揶揄として使われる、などということ自体が、そもそもこの国の病巣を
表していると私は思う。
市民運動は、本来、政治的志向などを問わずに、国民全員の権利としてあるものだ
と思うからである。良くも悪くも、この言葉がある種の色を帯びてしまって、
それが、本来の国民の意思表示の手段としての役割から違ったところへ押し込められて
しまったのが、この国の不幸の一つなのではないかとさえ思っている。

そういった意味で、今回のSEALDs、T−ns SOWLなどや、ママさんたちの運動は、
特定の政治色もない、本当に自由な個人の集まりということのままに、急速に
国民の間に広がりつつある運動である。
また、栄村軽トラックデモのように、地元の人々の日常の集まりからごく自然に
生まれたようなデモも、これまたある意味での強靭さを内包
しているように思う…。
今まで、脱原発を望んでいても、政治色の強く感じられるデモ隊などにはどうも
気持ちがひいてしまうという人々も、この若い人たちの集まりや、地元色いっぱいの
デモには興味をひかれ、実際今回参加してみたという人も多かったであろう。
だから沿道での応援も多かったのではないか。

つまり、新しい形の市民運動が…『市民運動』という言葉がすでに色がつきすぎているなら
その言葉をあえて使わなくてもかまわない…新しい形の政治運動が、この国に生まれて
育っていっているのじゃないか
と、私は思うのである。

今回の国会前抗議行動、全国の運動は、年齢間の垣根さえ軽々と越えたように思う。
SEALDsなど若い人たちに続いて、OLDs、MIDDLEsを名乗る人々が出てきたのは、
一種の悪ノリというかご愛嬌である。OLDs、MIDDLEsって、要するに今までの中高年の多い
脱原発運動や反安倍の運動と同じ層じゃない?^^
聞けばBONsだったっけな?、お坊さんたちの集まりもまだ出来てはいないけれど
用意してあります、などという書きこみもどこかで見たな(笑)。
ちなみにTOLDsは、東京のリベラルでデモクラティックな先生たちの集まりだという。
こちらはすでにできていて、他府県の人々も含め、8月30日時点で1340人の賛同者が
いるという。

だが。こうした冗談のような、いわば軽い動きも、これを単に「便乗だ!」などという
マイナスな感触で私は捉えない。
8月30日の国会前の反安保法制と安倍打倒の巨大集会が、いとも容易に警官隊の
三重四重に築いたバリケードを決壊させたように、この運動は従来の市民運動の
固定観念をも『いい意味で決壊させた』、というふうに私は捉えている
のだ。

SEALDs のどなたかが、『60年代、70年代に戦ってこられた方々をリスペクトする』
というようなことを言っていた。

これだこれだ!この感覚は、今までの運動にはなかったんじゃないかな。
若者たちにとって、かつて安保闘争などを戦ってきた年寄り達は、無用の口出しをする
小うるさい存在であり、かつて体を張って警官隊ともみ合った老人たちにとっては、
若い人たちの運動が生ぬるい…そんな溝があるのがこれまでは感じられた。
だが、今はそうじゃない。上に書いてきたように、若者と老人たちの間には
ある種の、互いへの、それこそ『リスペクト』が生まれているように思う…。
そうして、その両極だけが突出した運動ではなく、ママさんたちやそれこそMIDDLEsが、
その間の層を形成しているのだ…

この感覚は、はっきり言って、ついごく最近まで無かったものだと私は感じている。
朝日新聞の投稿欄や、ネットの言論などでは、ごくごく最近まで…それこそこの春ごろ
までは、『若者が政治に無関心でどうする』とか、『平和憲法と九条にしがみついて
この日本をどうしようもない国にした老人たちは責任をとってほしい』などという論調の
投稿がよく見られたのである。
私自身も、つい『今の若い人は…』という語り口でたびたび書きがちである…

だが。今はそれが違ってきているのだ。
今回の国会前行動の、SEALDsと並ぶもう一本の柱になったのは、
『戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会』だったのではないかと思う。
この人々にも私は感謝する。この会についてこんな記事があった。

中心メンバーの高田健さん(70)は、高校生の時に60年安保闘争に参加して以来、
平和運動を続けて半世紀になる。毎週木曜、議員会館前で安保法案への抗議集会を
続けている。参加者は中高年が中心。労組ののぼりが立ち並ぶ伝統的な市民運動だ。
野党の国会議員や弁護士も参加し、最近は毎週数千人が集まるという。
(8月31日毎日新聞朝刊より)

この総がかり行動実行委員会の中高年たちが、若者たちの集まりと共闘する…
SEALDsを見つめる老人たちのまなざしの優しいこと!
そうして、SEALDsたちもまた、自分たちが実際にこれだけの大きな運動を主導する
経験をして、60年代安保闘争の凄さを膚感覚で実感したのではないか。
それが、上記引用した『『60年代、70年代に戦ってこられた方々をリスペクトする』
という言葉に表れているように思うのである。

『抗議行動が終わった後、SEALDsの中心メンバー、奥田愛基さん(23)は話した。
「日本が70年間、一人も戦死しなかったのはずっと声を上げてきた人たちがいたからな
んだなと今日思った。それって本当にすごいことだと思う
」』(伊木緑。同8月31日毎日新聞)

という感慨も、これも運動を主導して初めて、実感として気づくことであろう。
ここにはもう、若いとか中年層だとか、老人層だとかの垣根は存在しなくなっている…

同じ8月31日付の毎日新聞の同じ記事に印象的な一節があった。

「敷布団と掛け布団」。中野晃一・上智大教授が最近、集会でこんな例え話をしてくれた。
若者らの新しい運動が掛け布団。長年続く運動が敷布団。多くが政治への不満を募らせる
「寒い時代」にはふかふかの掛け布団が重ねられる。それは喜ばしいこと。でも地味で誰
も気に留めなくても、敷布団がなければ体が痛くて眠れない――。高田さんらへの敬意を
表した言葉だ。
「敷布団は敷布団らしい働きをしよう」。反原発や沖縄問題に取り組む団体、法律家や学
者、母親世代の「ママの会」……。別々に活動する市民団体を束ね、今回の主催・賛同団
体は約30に上った。
60年安保闘争以降、平和運動は党派やほんの少しの思想の違いで対立しがちで、共に
活動するのが難しいこともあった。「本気で法案成立を止めるには一緒にやることが大事だ
という思いを共有できたのだろう」と喜ぶ。』
 


そうそう!これなのだ!これを私たちは求めていたのだ!
『敷布団と掛け布団』…うまい例えだなあ!
『敷布団は敷布団らしい働きをしよう』…なんだか今の私の心情にもあんまり
ぴったりすぎて涙が出てくる…
そうなのだ。私もこうしてブログを書いているが、それでなにを求めるでもないのである…。
ただ、自分が70年近く生きて来て…(私は日本国憲法と同い年だ!! ^^)
私なりに見聞きし勉強してきた末に辿り着いた理想というものがある。その理想から
現実の社会がどんどん遠ざかって行くように見えるとき…危惧の念と心配とで、
警告を発せずにはいられないから、こうして書いているのである…。
私もまた、一枚の、薄っぺらな、模様さえすり切れかかったおんぼろ敷布団だ……!
そんな薄っぺらな敷布団でも、何枚も重ねれば、寒さは遮断してあげられるではないか。

今回の集会には、中咽頭(いんとう)がん治療のための休養から復帰したばかりの
坂本龍一さんも駆けつけて、演説してくれ、SEALDsの奥田愛基さん(23)と握手する
という感動的シーンがあったらしい。

『現状に絶望していたが、若者たち、主に女性が発言するのを見て、希望があると思った』
『民主主義や憲法が壊される崖っぷちになって、日本人に主権者や憲法の精神が根づい
ていると示された。日本の歴史のなかでは、憲法は自分たちの命をかけて闘いとったもの
ではなかったかもしれないが、今まさにそれをやろうとしている。ぼくも一緒に行動して
いきます』


この坂本龍一氏の言葉も、まさに私が思っていたことだ…
上にも書いたけれど、私も、このほんの5月ごろまでは、『もう、何もかも安倍政権の
思い通りをこの国の民は許してしまうのかな…』と、絶望しかけていたのである。
その絶望に一筋の光を射してくれたのが、あの三人の憲法学者たちであった…。
彼らが教えてくれた『王様は裸だよ』という指摘が、どれほどこの国の多くの人々に
活を入れてくれたことか。
私は彼らに感謝してもしきれない。
象牙の塔に籠っていた学者たちが、なんと古い書物の匂いのする研究室から出て
立ち上がった!
SEALDs…若者たちも、その他の憲法学者たちも、映画人も、宗教人も…
ママさんたちも、軽トラも…海外からも…あらゆる立場の、あらゆる世代の人々が
自分の意志で立ちあがった!

私は、これらの人々に、本当に感謝したい。
それから、3.11後から変わらずコンスタントに粘り強い活動を続けてくれている
日本弁護士連合会の人々に、本当に感謝する。
今度のあれだけの大きな規模の集会で、二人の逮捕者しか出さなかったのは
(警官ともみ合って警官を小突いたという。警官に怪我なし。よかった…)
弁護士さんたちのグループが、ボランティアで会場内のあちこちにスタンバイし、
デモ隊と警官との間にトラブルがあった時にはすかさず割って入れるよう、目を配っていて
くれたおかげでもあると思う。このことも報告しておきたい。
また…警官隊もよく自制してくれたと思う。デモを規制するという役目ではあったけれど、
警官隊の自制心ある誘導のおかげで、怪我人がほとんど?出なかったのだということが
言えると思うから。決壊現場でも状況を見て現場の判断でバリケードをはずしてくれたともいう…


                    *

さあ。ようやく長い長い報告は終わり。

戦いはこれからである。
来年の参院選で、自公を倒すこと。
そして、どんなことがあっても、憲法改悪など絶対にさせないこと。


薄いせんべい敷布団たちと若い新しい掛け布団たちが大事に
くるんでいるものは何であろう?
そこに大事にくるまれているもの…私は、それは、この国の憲法と
民主主義の精神であると思うのである…













 
プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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