『インフェルノ』



たまには、読んだ本のこととか、観た映画のこととかも書いてみようかなあ。
何か本を読んでも、映画を見ても、 あまり記事にしてこなかったので。

で。今日取り上げる話題は、『インフェルノ』。
ちょうど一昨日あたりに、映画が公開されたばかりのホットなテーマだ。
(といっても、映画は私はまだ観ていませんので、映画『インフェルノ』の話題をご期待の方は
悪しからず。)
取り上げたいのは、映画の原作。ダン・ブラウンの小説のほうだ。
一週間ほど前に『上巻』を買って、一昨日、中・下巻を買ってきて、一晩で読んでしまった。

『インフェルノ』、とは、『地獄』という意味。ラテン語からきている。『煉獄の火に
焼かれる状態』というような意味もある。

私は典型的な『読み流し』タイプである。
読むのは非常に速いが、極めて雑。時には興味のないところは斜め読みでぶっ飛ばして、
相当な厚さの本もあっという間に読んでしまう。
だからすぐ忘れる。昨日読んだ本の、主人公の名前が頭に残っていないことさえある!(爆)

そんな読み方では、身にならないだろうと思われるかもしれないし、自分でも
多少はそう思うが、それでもいいのである。印象さえ残れば。
一冊の本を読み終えて漠然と残る淡い印象。あるいは印象的なただ一言の言葉や場面。
それらの積み重ね、長い間の累積が、私という人間の体質を作ってきたと思うから。
書かれてあったことの細部を正確に思いだしたければ、何度でもまたその本を開いてみれば
いいだけのこと。
ところが、私の連れ合いなどは、逆に、実に実に読むのが遅い。
『なんでそう遅いかなあ!』といつも思うのだが、その代わり彼は、読んだ本の細部まで
よく覚えている。(笑)だから、同じ本を二度読むなどということはあり得ないようだ。
私は、読んだことを忘れてしまっているので、同じ本を、何度でも読んで楽しい。(笑)
これはもう、その人その人の個性であろう。

で。(笑)
ダン・ブラウン著『インフェルノ』。あっという間に読んであっという間に細部は忘れようとしている。
ダン・ブラウンや、小説『インフェルノ』 映画『インフェルノ』 については、それぞれのサイトをご覧ください。

ダン・ブラウンは、私は、『ダ・ヴィンチ・コード』『天使と悪魔』そしてこの『インフェルノ』の
3作しか読んでいない。初めて読んだのは『ダ・ヴィンチ・コード』だったが、これはもう、
その出だしの所から非常に引き込まれて読んだ。
ダン・ブラウンの作品は、その扱うテーマが実にいいのだ。
『ダ・ヴィンチ・コード』は文字通りダ・ヴィンチの、それもウィトルウィウス人体図 から、
おどろおどろしく話が始まる。
『天使と悪魔』は、バチカンと秘密結社イルミナティ、フリーメーソンなどを扱う。
そしてこの『インフェルノ』は、ダンテの『神曲』とりわけその中の『地獄篇』がモチーフである。
まず、このテーマの取り上げ方だけで、ダン・ブラウンはセンスある作家だと私は思う。
原則的には推理・サスペンス小説というカテゴリーに入るのだろうが、 テーマの選び方から
見てもわかるとおり、中身は、歴史・地理の知識から絵画、音楽、宗教、象徴学、
神秘学、数学などの知識までが複層的に駆使されていて、非常に面白いのである。
主人公は三作共通して、ハーヴァード大学宗教象徴学・図像学教授ロバート・ラングドンである。
彼がその宗教象徴学の世界的権威であるがゆえに、想像を絶する歴史的地理的スケールの
大事件に巻き込まれていくという話。
また、欧州を中心にいわゆる数々の『歴史の現場』で主人公がスピーディな追跡・逃亡劇を
繰り広げていくので、観光名所めぐり的な要素もある。
興味のある人は、それこそスマホなどで検索しつつ、グーグルアースのストリートビュー
などを開いておいて、舞台となった街の実際の道路の映像を辿れば、主人公と一緒に
必死の冒険している気分を味わえるかもしれない。
たとえば、冒頭部で、重要な登場人物が身を投げるフィレンツェの目もくらむような尖塔を、
下から見上げることもできるし、この地上とりわけ観光地などにあふれた人間の数の多さや、
パン屋、肉屋、薬屋と言った、名もなき人々の暮らしのにおいさえ、そこからは感じ取れる。
むろん、舞台の一つとなっている、水没しつつあるべネツィアの街の瘴気も。

と、ここまではベタ誉めだが、実は、ストーリーそのものは、私はいつも最後がどうも
食い足りない。これだけ壮大なテーマを扱って舞台も滅茶苦茶広げておいて、
結末はそれか~い!!!と、いつも不満足に思うのである。(爆)
とりわけ『ダ・ヴィンチ・コード』などは、始まりが面白かっただけに、非常にがっかりした。

映画のこともちょっと触れておこうか。全くの私の偏見と好みだが。
主人公ラングドン教授がトム・ハンクス、というのが第一に私には気に食わない。
トム・ハンクスという俳優は、名優だとは思うのだが、どうも宗教象徴学の大学教授、
というイメージじゃないなあ…
ラングドンは、アメリカ人だが、いつも着古して擦り切れたハリス・ツイード(英国皇室御用達!)の
ジャケットと、下はボタンダウンシャツにチノパンツ、靴はコードバンのローファーという
いでたちなのだ。

ハリス・ツイード②
写真はhttp://matome.naver.jp/odai/2144142010664877701からお借りしました。

なんと、腕には、本人恥じつつ、ミッキーマウスの時計をはめている!
髪は白髪が交じるダークな色。だが、ふさふさと豊かである。
トム・ハンクスは、軍人は似合うが、こういう茶目っけのある学者のイメージじゃないなあ!
なんといっても、ラングドンのシンボルみたいな、ハリスツイードが似合わないよう!
私は、『ダ・ヴィンチ・コード』はむろん映画より小説の方を先に読んだのだが、読んで
ぱっと思い浮かべたラングドン役の俳優の顔は、ハリソン・フォードだった。
彼なら、ハリスツイードが似合う。…むろん私の個人的好みですとお断りしておきますが。

ついでに、『ダ・ヴィンチ・コード』の映画を見た方のために、またしても独断と偏見を
書いておくが、あのなかにシラスという名の、人物造型として極めて魅力的な
修道僧(あまりにも神と教団を愛して禁欲的なるがゆえに『破戒僧』の域にまで
堕ちているといっていいほどの)が出てくるのだが、私は、映画化するならあの役は、
ジャン・レノ以外にいない!とすぐに思い浮かべたものだ。
『ダ・ヴィンチ・コード』にジャン・レノも出ると聞いて、さっすがあ!と思ったのだが、
私の勝手な思い込みで、ジャン・レノは、ファーシュ警部役だった。


           ***

さて。
以上書いてきたように、ダン・ブラウン原作のこれらのラングドン・シリーズは、
私には、非常に興味深く読み始めて最後は安易な解決に肩透かしを食ってがっかり、
というケースが多かったのだが。(それでも、正直、面白いのは面白いのです!)
それではなぜ、この政治ブログと化した私のどくだみ荘で、しかもTPPの採決や
憲法審査会再開など政治的に重大な時期の今、こんなにのんきに推理小説のことなど
記事テーマとして持ち出したか、と言うと、『インフェルノ』の中に、こんな図を見たから
である。


008_20161031124056c10.jpg005_2016103112412258f.jpg


左は、500万~200万年前ヒト亜科と言われる霊長類が誕生したころから、紀元2050年
以降までの人口増加の図。右は、WHOが出した、1750年から2000年までの、
世界の人口増加と、北半球の平均地表面温度、二酸化炭素濃度、国内総生産、
熱帯雨林と森林の喪失、絶滅種、自動車数の増加、水の使用量、紙の使用量、
海産物の消費量、オゾン層の喪失、対外投資、のそれぞれ急激な増加を一つにまとめたグラフである。

まず人口の急増化についてのグラフであるが、『インフェルノ』の中のグラフは
横軸が均等ではない。ヒト亜科が現れてから現在に至るまでの時間があまりにも長く
横軸が長くなりすぎるからである。したがって、わずか2千数10年ほどの変化に注目するには
不都合なので、猿人、原人、旧人類などの時代の横軸はぐっと縮小してある。
本当は、もっと横軸は長く、いかに我々近・現代人が急激に人口増加したかは、もっと
極端なグラフになっているはずなのである。

(なお、ダン・ブラウンのこの一連の著作は、引用した図像、場所、歴史上の事項、
各種データなどは、ほとんど実在のものであり現実であると断り書きがされている)

これでは見にくいので、別なところから人口増加と、エネルギー消費の推移・未来予測
のグラフを借りてこよう。なお引用先は、それぞれのグラフの下のURL。

世界人口の移り変わり
http://ehikima.web.fc2.com/e-note/fig060-1.jpg

このグラフは、『インフェルノ』のグラフのごくごく後期の年代、西暦1年から2050年までを
切り取ったものと考えていいだろう。2050年には、今の地球上の人口70億が、
91億5000万人になるであろうという人口予測をしてある。
『インフェルノ』とも関係してくるので、中世の14世紀ごろ、黒死病(ペスト)大流行により、
人口が激減しているところにも注目しておいてほしい。



エネルギー消費の推移・予測

http://www.mech.nias.ac.jp/biomass/murakami-book-1kou.htm



これは、紀元前数百万年から紀元2100年までを横軸にとった人間のエネルギー消費の
推移と今後の予測のグラフである。これも横軸は、思い切って途中で何箇所もカットしてある。
横軸の数字がとてもわかりにくいのだが、とにかく、私たち人間は地球が数億年かけて
生成してきた石炭や石油、天然ガス、(そしてウランその他の天然資源をも)、 近・現代になって
恐ろしいほどのスピードで蕩尽してしまおうとしているのは見てとれるだろう。

ワットの蒸気機関は1769年のことである。

とりわけしっかり見てほしいのが、図中の図に、『化石燃料の消費』と題した小さな
グラフである。西暦2016年の今、化石燃料の消費はピークに達していることがわかる。
そして。
恐ろしいのは、誰にでもわかることとは思うが、『化石燃料の消費量がゼロになる』
時が、数十年後?百年後?西暦何年かはわからないが、確実にいつかやってくると
いうことである。

それは人類の『意思』によってそうなるのではない。このまま行けば否応なしにそうなるのである。
大きいほうの図に『エネルギーギャップ』という矢印があるが、これはこういうことだ。
すなわち、我々人類はこのまま行けば、2000何年にかはわからないが、化石燃料を使い尽くす。
その時まで、というよりは、それよりはるか以前に、化石燃料に代わるエネルギーを
確保しておかないと大変なことになるぞ!、ということなのである。


それを、そのもとになるウラン自体有限な資源である原子力に求めるのか、それとも
太陽光、風力、水力、波力などの再生可能エネルギーに求めるのかの選択は、
この記事ではあえて語らないでおこう。
私達一人ひとりが向き合うべき問題だからである。


                                               ***


『インフェルノ』。
この作品は、恐ろしいほどの人口増加の予測とその人口爆発がさらに加速する
エネルギーの枯渇や食糧危機、水危機という恐怖のテーマを、ダンテの『神曲』に描かれている
地獄とさらにその『神曲』に想を得たボッティチェルリにより描かれた『地獄の見取り図』とを
下敷きに使って、ダン・ブラウンが書いたエンターテインメント小説である。
ダンテとボッティチェルリは、文と絵画とで、ありとあらゆる罪を犯した人間たち…
生と死の狭間にとらわれた肉体なき魂たちが、その罪の重さと質によって落とされる
地獄=地下世界のありとあらゆる絵図を描き出す。

だが、これを、ただエンターテインメント作品として読むか。
それはまあ、興味おありの皆さんには、小説なり映画なりをいずれ観ていただいて
判断していただきたい。
私は、この小説の中の数行を読んだだけで、この作者と作品を評価する。
ストーリーの結末が甘かろうがどうだろうが、その数行が、そんなものを超越させる、と。
それは、結末部にあるラングドンの想いである。

『地獄の最も暗きところは、倫理の危機にあっても中立を標榜する
者たちのために用意されている。』


ダンテ.アリゲリエーリの言とされるこの言葉。それを作者ダン・ブラウンは、主人公
ラングドンの思念のかたちで、『危難の時代に無為でいることほど重い罪はない』とも
重ねて書くのである。



さて。私たち人類は今、あらゆる意味で、歴史の大きな転換点に立っているのではなかろうか。
留まるところを知らぬグローバル資本主義がもたらした世界的貧富の差の拡大。
貧困がもたらす社会不安。西欧社会の過去の傲慢に起点を持つイスラム世界との軋轢、
そこから生れ出たISなどの憎悪と恐怖の連鎖。地球温暖化のもたらす気候変動など。
人間はどう生きるか、世界はどうあるべきか、という思想・哲学の不在。
核兵器と核燃料の行方。・・・・・・。

日本では、来週にもTPPの衆院での強行採決がおこなわれるかもしれない。
およそ滑稽なほど時代に背を向けた復古主義的な憲法思想を抱く政権によって
世界に誇っていい平和憲法は改竄の一歩手前まで来ている・・・・・・

これらの問題の解決などできるのかと思うと、無力感に打ちのめされてしまう。
この夏の私はそういう状態だった。失いつつあるものが多すぎるのに、多くの人は
それに気がついてさえいない。気がついている者も無力である……

『インフェルノ』のその数行を読んだとき、自分がすべきことが、ほんのわずかながら
見えてくるような気が、私にはした。
私がこの小説をエンタテインメントとしては不満に思いつつも、おそらく自分にとって
忘れ難い一冊になるであろうと思ってわざわざ記事にするのは、その所以である。

それは。
まずは、エネルギーの無駄使いをしないよう自分にできる小さな日々の努力をすることである。
未来の世代のためにできるだけ多くの資源を残すこと。
これは、現在を生きる我々に課された倫理の問題である。

そして。増え続ける異常気候による大災害。その結果としての食糧不足・飢饉 やもしかすると
パンデミック。恐ろしい水の奪い合い…・・・・・・。
来る危難の時代に備えて、目先の利益や国家・政治家などの面子、思想信条・国の違い、
そのようなものを超えて、皆で力と知恵を合わせていくことこそが喫緊の課題である。

目先に迫ったTPP強行採決。TPPを考えるのに、この地球の気象異常と爆発的人口増加をも
しっかり念頭に置いておかねば駄目である。
『食の自給』確保は、武力防衛と同じかそれ以上に真剣に考えねばならない
もう一つの『自衛』である。

世界の国々と仲良くすること。これは、武力による防衛に勝る『自衛』の手段であると
私は改めて思う。たとえばある国と戦争状態に入れば、その国からの食の輸入は途切れるのだ。
むろん食の輸出もできなどしない。『経済効果』もへったくれもなくなるのである。
それは、日中・太平洋戦争を経験した我々はとうに知っているはずではないか?!

また、今日本は、株価が上がったから(官製相場!)から景気が上向きになってきたようだの
良くも悪くもその原因の一つは原油安だの何だのと言って、原油の値段の経済効果に
与える影響ことばかり報じて、今石油が安いからと言ってそれを潤沢に使うことの罪には
思いを致さない。
今、安ければ、ずぶずぶと使っていていいのか!
石油はいずれ枯渇するのだぞ!
熱源だけでなく、衣類・建材などありとあらゆるものに加工されて形を変えて、現代に生きる
我々(おそらく未来の人々にもそれは必要なものだ)の生活を豊かに支えている石油。
いくら強大なエネルギーを持つ原子力と言えども、原子力は『熱源』『動力』にはなれても、
石油のような働きはできないのである。
それは、太陽光、風力、水力などについても同様。
そのことをちょっと考えてみてほしい。石油を経済効果や金融取引の面からだけ
考えては駄目である。無駄遣いするほどには、もうそれは残っていないのである。
地球が数億年かけて生成してきた石油や石炭を、われわれは、ここ200年程の間に
使い尽くしてしまおうとしているのである!


ここに掲げたいくつかのグラフ。
これを見ていて、強く心に思うこと。
『人類に、戦争などしている暇はあるのか???!!!』


私自身も、ブログで個人的好悪に引っ張られすぎてはいけない。どうしても、そこには
憎悪や対立という無駄なものが生まれる・・・。
『理』でもって書いていくこと。『普遍』の『理』に立脚するのだ。







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『長いものには巻かれろ』


自民党総裁の任期が、3年2期から3年3期つまり最大9年に延長される見込みという。
同党政治制度改革実行本部が10月19日の役員会で見直しを決定。26日の
党所属の国会議員を対象にした会合で、高村副総裁が説明し理解を求め、了承された。
来年3月5日の定期党大会で党則を改正する段取りだという。

ただし、日本の『内閣総理大臣』についての規定そのものは、任期、再選回数、定年もなし、
である。
海外の事情を見てみれば、各国それぞれに、何回もの変遷・変更を経てはいるが、
現在の状況ではおよそ以下の通り。
ご存じのようにアメリカ合衆国では、大統領の任期4年2期すなわち通算8年。
これは建国以来の慣習であったが、32代大統領フランクリン・ルーズベルトだけは、
戦時・有事を理由に、4選で12年間大統領の地位にあった。
第二次大戦後の1951年、合衆国憲法修正第22条に『三選禁止」が明記された。
三選禁止の理由は、
『制限が無ければ、大統領の役職は4年間ではなく終身任期となる啓蒙君主に近くなり、
その権限があまりに強くなって権力分立を脅かすという心配がある』というものだった。
(ただし前大統領の死などで大統領職を引き継いだケースの場合、それが二年以下ならば、
その後の2期を務めれば、最大10年近い任期も可能性としてはありうる。)

フランス大統領は5年2期すなわち10年。
イギリス首相は、任期5年、再選規定なし?サッチャーは14年間首相を務めている。
ドイツ首相は任期5年、2期すなわち10年。
ロシア大統領は任期6年。再選制限なし。
カナダ首相は、任期、再選制限ともになし。

こうやって見れば、これで自民党総裁(日本では今のところイコール内閣総理大臣)の任期が
最長9年になっても、諸外国に比べ特に長いとも思われないであろう。
自民党では、いったん、3年3期に延長したのち、3年無制限、にしようという考えもあるらしい。

とにかく、このまま行けば、安倍政権が、2021年9月まで、9年続く(正確には3500日。9年と7カ月)
ということが可能になりそうだ。そうなると、日本においては歴代1位の長期政権になるという。

過去の長期政権を見てみれば、
1位:桂 太郎 (2886日)
2位:佐藤 榮作(2798日)
3位:伊藤 博文(2720日)
4位:吉田 茂 (2616日)
5位:小泉純一郎(1980日)
6位:中曽根康弘(1806日)
今、すでに安倍政権は、これに次ぐ7位(今日で1744日?)の長さである。

…しかし。よりによって、私の嫌いな政治家がほとんどだ!

海外を見れば、英国マーガレット・サッチャーが14年、ドイツのコール16年、アデナウアー14年、
メルケルも10年
キューバのフィデル・カストロにいたっては、国家元首である国家評議会議長を1976年から
2011年まで32年間も務めている。

公平にいえば、自分と政治観の一致する人物なら長期政権も許される気がし、
そうでない政治家が長期政権に就くのは嫌悪し忌避したくなるものであるし、また
開発途上にある国などは、長期政権で安定的に国づくりをしてほしいと思う一面も
なくはないので(開発途上だからこそ、権力の癒着が起こりやすいという危険もあるが)、
一概に長期政権が嫌い、長期政権はいけない、とは言えないところが微妙である。
これはもう、自分の政治観と合うから許す、合わないから許さない、という問題ではなく、
安倍政権だから嫌う、誰ならいい、自分の支持政党の党首ならいい、という問題ではない。

原則的に一つ確実に言えることは、
あまりに長く同じ政権が続くのは、権力構造の癒着やたるみを生みがちになる。
長期政権が続くということは、権力がそこに集中していくということ。
政権のトップが強大すぎる力を一手に握るのは避けた方がいいということである。

どの組織であろうが、強大すぎる力を持つ者には、なかなか逆らえないのが人情である。
それこそ、『長いものには巻かれろ』で、自己の保身のために、トップの方針にNO!と
言えなくなってしまいがちになる。イエスマンばかりになってしまうのである。

すると、どういうことが起こりがちになるか。
間違った方針をトップが打ち出しても、それに反対する者がいなくなる。
下の者の声が、上にあがって行かなくなる。
組織が硬直してしまうのである。
短期的には安定してよく見えるかもしれないが、長い目で見てそのような組織が
いいはずがない。

異論をはさむものが存在しにくい、ついにはいなくなってしまう社会というものは恐ろしい。

今の日本は、それに徐々に近づいている。
この、安倍総裁の下での、自民党総裁任期延長(一時は任期制限なしの議論もあった)は、
いわば、お手盛りの論議と決定である。自民党内での議論は、わずかにここ1カ月。
この夏前あたりには、次期総裁を狙う石破氏、岸田氏などが、総裁に任期延長に懐疑的、
という新聞報道などがあったように思うが、安倍政権の自民党が参院選に大勝利してからは
党内の異論は出にくくなったか、今回の延長を決めた26日の党会合の出席議員は衆参56人だけ。
石破、岸田両氏や、昨年の総裁選で出馬を断念した野田聖子元総務会長、延長に慎重姿勢を示した
小泉進次郎農林部会長ら、ポスト安倍候補は姿を見せなかったという。
石破、岸田両氏も、表だった反対意見はひっこめた形だ。

沈黙の背景は、現職首相に弓を引くリスクがあるからである。今の選挙制度で強大な
人事権を持つ首相に逆らえば、自分の派閥の若手議員などが選挙で公認を得られにくくなったり、
内閣組閣の際に自分の派閥が冷や飯を食うことになる。イコール派閥の弱体化にもつながる…

私は、参院選を前にした今年7月9日、こんな記事を書いている。
http://clusteramaryllis45.blog61.fc2.com/blog-entry-1906.html

それは、日本における両院制度、すなわ参議院の存在の重要性を説く記事であり、
『決められる政治』というものの怖さを説き、政治が独断的・独裁的手法に陥らないために
どのような歯止めがあるかを改めて認識してもらうため、列挙してみた記事である。

『政治の暴走を防ぐための歯止め』
①憲法。
  第99条『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の
  公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
②三権分立。
③両院制。
④政権党内の良識派の存在。
⑤内閣法制局
⑥ジャーナリズム
⑦教育
⑧国民


これらが今、侵されようとしていることについてはこれまでたくさん書いてきた。
とりわけ、①の憲法の危機については。
安倍政権の任期が、これまでそうとされていた2018年まででなく、2021年までにも
なれば(あるいはさらに延長されてもっと長く!)、安倍総理とその強い支持者たちの
悲願である改憲に、十分な時間が与えられることになる。

冒頭部で私は、一概に、長期政権が悪いとばかりは言えない場合もあることを書いた。
(本質的には、私はそれを拒む者だが!)
しかし、それは、その国の状況による。
要するに、風通しのいい状態での国民の選択の結果としての長期政権なら、まあまあ
いいかなとも思うのである。
だが、一政権が、あるいは一政治家が、強力すぎる権力を握り、それに対抗しうる野党
及び対抗しうる勢力、また批判するジャーナリズムや司法、また国民の目などが
正常に機能していない状態での長期政権は、非常に危険である。

たとえばアメリカにしてもイギリスにしても、フランスにしても、また韓国や台湾など
にしても、政権交代の素地がある。一方に傾いてもまた逆方向に傾き返す力があれば、
権力の危険な集中は避けられる。
だが、日本の現状はどうだろうか。
私たちは、衆参両院において、政権与党とりわけ自民党に、圧倒的な議席を与えてしまった!

それでも、かつての自民党のように、同じ政党内にいろいろな考えを持つ政治家がいて、
時の内閣が暴走しがちな時に手綱を引き締める機能が働いていれば、まあいいのである。
だが、今の安倍政権では、安倍氏に誰も物言えぬほど権力が集中していきつつある。
周りにいるのは、イエスマンだけである。

前の方の記事で、私は、この夏多くのものを喪失した、と書いた。
その一つが、自民党前幹事長谷垣禎一氏の自転車事故がもとでの怪我による
政界からの療養・離脱であった。
私は自民党の政治家の中で、谷垣氏が好きだった。
自党が提出しようとしていたスパイ防止法(国家秘密法)に反対した弁護士出身の
若き日の谷垣氏の面影は、安倍政権になって影を完全に潜めてはいたけれども、
それでも、党内に、しかも幹事長の位置に谷垣氏がいるということは、一つの救いでも
あったのである。
その谷垣氏が・・・・・・
本人の側が、病状の公表をおそらく控えていられるのであろうが、外部からの取材の
様子も全く感じられないのはなぜ??
政治的思惑と関係なく、谷垣氏の一日も早いご回復を心から祈るものである…

私は、twitterで時々、かつての自民党総裁にして第78代内閣総理大臣宮沢喜一氏の
発言を、その著作などの中からまとめたツイートを、読むことがある。
本当にいいことが…時に胸のすくような明快な論理が紹介されている・・・
たとえば。

『戦後日本で何がいいか、一つあげるとしたら、私は、「自由があること」と申します。ですから、もしも自由についての干渉らしいことがおこる兆しがあったら、徹底的にその芽をつぶしてもらいたい。60年前の失敗を二度と繰り返さないように、気をつけていてほしい…(『21世紀への委任状』p.76)』

『自由はある日突然なくなるものではない。…目立たない形で徐々に蝕まれ、気がついたときにはすべてが失われているような過程をたどります。わずか数十年前に、このような経験をしたわれわれは、将来に向かって自由の制限につながる…兆候に対し…監視する必要があります(『新・護憲宣言』p.3)』

『普段は総理大臣が誰だなんて…分からなくても…差し支えない。…総理大臣が白い馬に乗って刀を抜いて「進め、進め!」なんていうのは戦国時代のドラマの見過ぎで…、大きなタンカーをゆっくりと動かしておよそ間違いのない航路を進んでいく船長みたいであるほうがいい(新・護憲宣言pp.52-53)』

『どういう事情があっても、武力行使をしてはいけない、ということです。自衛であろうと、国連の旗の下であれ、です。日本は自衛だといって満州事変から、中国のなかで戦争したんです。そんな自衛がありますか。(『21世紀への委任状』p.89)』

『国会審議は、非効率であっても慎重であるべきだ。性急に物事が決まっていくことに対し、防波堤の役割を果たす制度があることはとても大切なんだ。行政、官僚の側から見ても、二つの「院」があるのは厄介。それこそが立法府が存在する理由だ。「簡単には進まない」からいい(『ハト派の伝言』p.62)』



うう・・・読んでいて、なんだか泣けてくる・・・いいこと言うなあ・・・


一政権が暴走しないための大事な大事な歯止め。
ジャーナリズムの力の失せつつあるのも危機的である。

報道の自由度ランキング ②

出典:http://image.search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RinFMW9RJYCi0Axy6U3uV7?p=%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%BA%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0&aq=-1&oq=&ei=UTF-8#mode%3Ddetail%26index%3D3%26st%3D0

今年2016年は、昨年の61位からさらに下がって、72位である!




だが。今回のこの記事で、私がとりわけ訴えたいのは、②『三権分立』と
④『政権党内の良識派の存在』の大切さ、ということについてである。
三権分立の危機については、一つ前の記事でも、かのスタンディング・オベーションの
件に関し、ちょっと触れた。
だが。こういうことに一つ、注意を促しておきたい。

安倍政権は、ほんとにさまざまな権力を一手に握りつつある。
衆参両院三分の二もそうだし、ジャーナリズムや教育への干渉もそうだし、
内閣法制局長官、日銀総裁、NHK会長などの人事もそうだ。
(今度はさらに、宮内庁の人事にも、天皇退位問題に関して手を入れ、次長に
自分の息の強くかかった元第90代警視総監で内閣危機管理監だった西村泰彦氏を
入れている。
私が、この夏、日本人は多くのものを喪失した、と書いた一つの所以だ。)

長期政権下での人事に関しさらに私が恐れるのは以下のことである。これも、すでに記事にしてある。
http://clusteramaryllis45.blog61.fc2.com/blog-entry-1875.html
『最高裁判事は長官も含め15名ですが、現在その15名中安倍内閣が指名、任命した判事は
 7名います。あとの8名は鳩山、菅、野田の民主党政権任命。しかし、今年はそのうち2名が
 任期が来るので、安倍内閣任命の判事は15名中9名になるでしょう。
 来年17年にはさらに3名に任期が来て、安倍内閣指名の判事は、15名中12名になります。』


安倍政権の任期がさらに長くなれば、最高裁判事15名全員が、安倍内閣指名の判事に
なるということが確実に起きてくる。
これで、司法の独立が果たして守れるだろうか??

私たちが確実に失いつつあるものは大きい…
それは、安倍内閣だからどうだのこうだのという問題ではないのである。
皆さんが、『独裁的』という言葉を聞いて思い浮かべる国々、あるいは一時代の、
民の苦しみと国の行方の危うさを想像してみれば、それが日本という一国の、一政権の
問題などということではない、ということが容易にわかるだろう。











『おまわりさん』


沖縄高江地区の米軍ヘリパッド建設現場に大阪府警から派遣されている
若い機動隊員が、反対運動をしている沖縄の人々に対し、『土人』や、『シナ人』
という差別用語を使った、という件で、ネットなどに批判の声が渦巻いている。

このことにはいろいろな背景があって、単純に一警官が暴言を吐いた、ということで
片づけることが出来ない。自分なりの考えを述べてみる。

                 *

●まず、私の基本スタンス。
このような差別用語を、他人に対して無造作に使う、ということについては、機動隊員も
反対住民も、政治家もジャーナリストも、また一般のネット市民なども区別なく、
いけないことなのである。そのことを押さえておきたい。
『アカ』『バイコク』『ニッキョーソ』『非国民』『チャン、チョン』『ザイニチ』など、
特定の思想の持ち主や職業・団体、その出自などに関する差別用語を人に投げつけること。
また、『バカ』『アホウ』『死ね』『ぶっ殺す』などという侮蔑の言葉や恫喝・脅迫めいた
ことばを他人にぶつけるのも同様。
これらはもう、その人物がどういう立場の人であろうが、相手がどのような人であろうが、
使うべきではないし、使わない方がいいと私は思っている。
これは、自分の戒めとしてもそう思うのであって、例え私が、今の政治にどんなに怒っていようと、
相手に『死ね!』などという恐ろしい言葉や、『バカ』などという侮蔑語を使ってはならない。
そう思いつつ今でも、あまりにも政治家に対する怒りが激しい時、『馬鹿な』などという
表現をついしてしまうことがあるが、使った時には一応よくないなあとは自覚する。
相手も、一個の人格だからである。

国会前のデモなどに行って、交通規制する警察官などに、デモ隊の一般市民の
おじちゃんやおばちゃんが、きつい言葉を投げつけるのをしょっちゅう目にする。
こういうことが私は嫌いである。
あるいは、『アベシネ!』などという言葉をプラカードに掲げるのも、ほんと私は嫌いだ。

●甘い!と怒られるかもしれないが、私は、国会前などのデモ隊を規制というか、
ある意味では交通事故などから守ってもいる警察官、機動隊などに対して、いつも
心の中でねぎらう。そしてデモ隊の誰かが口汚い悪罵を投げつけたときなど、
相手の警官にあとでそっと詫びたことさえもある。

前に一度、デモの記事で書いたことがあるが、国会前集会の一番中心部に近い、
『国会前庭洋風庭園』側の歩道にいると、ドラム隊と呼ばれる若者の一団が、コールに
合わせてリズミカルにドラムなど打楽器を、いつも打ち鳴らしている。
あるとき、じっと見ていると、デモ隊が道路に溢れ出ないよう、何重ものバリケードで
固めている警察官たちの一人が、つい、ドラムのリズムに合わせて左右に体を
微かに揺らしているのに気づいた。40代くらいの体のがっちりしたおまわりさんだった・・・
おそらく彼は、自分が音楽に合わせていることに気づいてもいなかったろう。
私はつい微笑んでしまったのだが、彼も我も、同じ人間だということなのである。

●私はいつもデモや集会に出ていて思うのだ。
機動隊や、警察官らを『敵』と思うな、と。(今はまだ。いずれ、国民がそう思わざるを得ない
時代などが、二度と来ないように、心から、心から、祈る!・・・いや。もうそうなのだ。沖縄では。)
ご存じのように、国会前集会などでは、入れ替わり立ち替わりスピーカーが
マイクを握って、政権批判などをする。それは拡声器で、広い国会前の彼方此方どこにいても
聞えるようになっている。
当然、何千人と配置されている機動隊員らや警察官たちもその演説を無意識にせよ聞いている。
彼らの耳にさえ、というか、心にさえ届くようなスピーチでなければならないのである。
もし、自衛隊員がその場にいるとしたら、彼らにもなるほどなあ、と思わせるような
内容の話でなければならないと。
そのくらいの説得力がなくてどうする。

対立を煽り、憎しみを倍加させるだけが運動のありようではない。
パターン化して人心に訴える力を既に失った反戦・反核運動などの言葉ではなく、
自分たちの心底から出る自分の言葉で、素直に熱く語った時、それは時に・・・
ほんのまれにかもしれないが、反対の立場にいる者の心にさえ届くと、私はまだ
信じていたい。
言葉の力、というものを信じていたいのである。

(その意味でも、あのSEALDsの若者たちのありようは、私には新鮮だった。)

●明治末期、天皇暗殺の嫌疑をかけられて死刑に処されたジャーナリストで社会主義者の
幸徳秋水などは、常時刑事の見張りがついていた。それら『シュギシャ』たちの中には、
見張りの刑事たちをも心服させてしまう人格と言葉の力の持ち主が、おそらくたくさん
いたことだろう。

●一方、『おまわりさん』という言葉も、差別用語であるという。
なんでだかよくわからないが、警視庁警察庁などの内勤組エリート、とりわけ『キャリア組』
『準キャリア組』などと呼ばれる国家公務員の人々に対して、交番や駐在所などにいて
概ね外で仕事をする巡査などのことを、『巡る』という文字がつくことから、『お巡り』、
と呼ぶことが多そうだから、言わば警察組織内での階級差別ということで、『おまわり』は
差別用語とされるのだろうか?その経緯はよく知らないのだが。
歴史的に警察を国家のまわし者、と考えるいやな時代への反省から来たものでもあるか。
一説には、『おまわり』と呼ぶと差別用語で、『おまわりさん』と、さん付けで呼ぶのはいいのだとか、
その基準は実はなんだかよくわからない。
『犬のおまわりさん』の歌の歌詞にもなって子供などが親しみをこめて呼ぶように。



おまわりさん
(絵は私が童謡の本から勝手に借用したもので、この記事とは関係ありません)



ともかく、日本人が、警察官を『おまわりさん』と、『さん』づけで呼ぶ時、そこには
侮蔑の意味あいなどなく、自分たちの暮らしを守ってくれる頼もしい人、という親しみと
感謝をこめて、そう呼んでいることがほとんどであろう。


●どこの家庭にも、親戚、姻戚関係などを遠く辿っていけば、警察官、自衛官などが
一人二人はいるだろう。
私の叔父も、警察官だった。
母の妹の連れ合いで、2人は幼馴染同士だった。叔母夫婦の間には子供がなく、
それゆえにか、とても仲がよかった。何年かに一度、叔母と警察官の叔父の家に
遊びに行くと、いつも春風の吹いているような2人の家庭が、子供心にうらやましかったものだ。
自分自身の家は、父と母が別居して、私は父に会いにさえなかなか行けなかったから。
私が高校生の時、50代前半くらいに見えたその叔父は、当時警部補だったろうか。
その後私は東京に出て、あれこれの親戚つきあいもなくなってしまったので、叔父が
どの階級まで行ったかは知らない。
でも、『警察』というイメージから遠い、穏やかで、妻にも親戚の子なども優しいひとだった。
叔母は、ころころよく笑うひとだった。
前の記事で、私が高校の頃、レース編みなどしていたと書いたが、ある春、叔父叔母の家に
兄とともに過ごした時、世話になったお礼に、クロッカスの花の色のような、春らしい美しい黄色の
テーブルセンターを叔母にプレゼントしたことなど、最近思い出していた・・・

私が、警察官というものに多少の親近感を持つのは、おそらくこの優しかった
叔父のイメージの故にである。
その他にも、遠い姻戚関係、友人関係などたどれば、警察官、自衛官がいなくはない。


●しかし。
ここまでは、いわば、前書きで、いわば私自身のこと。

このようにあるときは、庶民・国民を守る心強い味方、としての警察官・自衛官・
(軍人)、などであるが、これらの人々が、国家権力などの『手先』となるとき、これほど 
恐ろしいものはない、というのもまた過去の歴史や世界の現実を少し見れば明らかである。
彼らが、一旦権力を後ろ盾に、国民・民衆に相対する立場になった時には、
これを警戒しないわけにはいかない。
冒頭の、沖縄高江地区のヘリパッド建設反対運動に、沖縄県警だけでなく、
東京や大阪の機動隊員など、いわゆる増強部隊が派遣されて、
自分たちの故郷沖縄に米軍基地を置かせたくないという素朴な住民の願いを、
力でもって排除しようとするとき、彼らそのものというよりは、彼らを派遣した政府や
警察組織などいわゆる国家権力の側に、私は猛然と強い怒りを感じるのである。

ましてや、その中の何人かが、反対派住民たちに向かって、あろうことか『土人』
『シナ人』などという、愚かしくもおぞましい差別用語を投げつけた、と聞けば。
いったい戦争も全く知らない世代の若い彼らに、いったい誰がそのような言葉を
吹き込んだのであろうか。
聞けば、当該機動隊員たちは、近くにいた排除派の人間が、沖縄の人に対して『土人!』
という言葉を使っていたので、「それが差別用語であるとは思わず、自分も使って
しまった」、とか、「反対派の住民が土で汚れていていたから」などという苦しい弁明しているらしい。
なんと、言っては悪いが、愚かな!

しかし。
今回のことを、当の機動隊員たちの個人的資質の問題に縮小してしまってはならない。
その背景を考えねば。

●今度の一件に関し、ジャーナリズムが、不思議なことに『土人』の方は盛んに叩くけれども、
『シナ人』の発言の方は報道をどうもカットしがちであるようなこと。これもおかしなものだ。
ネットではこの二つの発言が、同時にほぼ同等に報じられているように見えるのに、
テレビなど大手メディアでは、『土人』発言だけが意図的にか大きく取り上げられて、
『シナ人』発言のほうは、取り上げられていないように思える。
これも、何をいったい恐れているのか、おかしなことである。
『土人』も『シナ人』も、明らかに、日清日露戦争ごろから(いや、幕末のころにはすでに?)
日本人の心にあった、
『アジアで日本人は一等優れた民族であって、その他の国の人間たちは劣等民族である』
という偏見の名残である。
私の好きな夏目漱石でさえ、このような言葉を、当時、『偏見』『差別用語』とおそらく
意識せず使っていた。
まあ、当時は、こうした『差別用語』などという言葉や概念そのものがなく、『女中』『百姓』など
職業に関して今では『差別用語』とされるものから、身体の不自由をそのまま直に表した言葉、
身分・出自差別の言葉などが当たり前のように使われていた時代でもあった。
この夏私は外にもあまり出ず、と言ってテレビを見るとか本を読むとかもあまりせず、
ラジオを聴くかパソコン動画配信で落語を聴きながら縫い物、という日がほとんどだったのだが、
1960年代くらいの落語に、この職業、出自、身体などに関する差別用語が溢れて
いるのには驚いた。タイトルと演者は敢えて言わないが、全編、女性の容姿に対する
差別に満ちているそりゃもうひどい演目もあった。

戦争中は言わずもがな。優等民族日本人が、アジアの未開の国々の劣等民族を
西欧列国の支配から開放してやり開明に導くのだ、というごとくに、日本人は朝鮮半島、
台湾、中国、フィリピン、マレーシア、…南方諸島などなどに侵攻していったのである・・・
だが。敗戦とともに、日本人のそうした謂われなきプライドは、表向きは粉々に打ち砕かれた。
しかし。日本人を優等民族と見、アジアのほかの国々の民を蔑視する心根は、謂わば
地に潜って、その後も日本人の心の中にあり続けたように思う。
そればかりか、同じ国の民である、沖縄やアイヌの人々や、日本に同化した朝鮮半島の
人々などに対しても、日本人のそうした歪んだ優越感と蔑視は、表向き影を潜めたように
見えていても、その心性深くに存在し続けている。

●それではいつから、日本人は『差別用語』というものに自覚的になり、そのような言葉を
発することを恥ずべきことと考えて、言葉を選ぶようになったのか。
それはおそらく1960年代にテレビなどが一般家庭にも広く普及するようになった
60年代後半から1970年代80年代にかけてあたりからではなかったろうか。
俗に放送禁止用語などといわれるものがあるとされて、ひとびとがある意味では過剰すぎるほど
言葉の使い方に神経質になった時代である。
『女中』『百姓』などと言えなくなって、『お手伝いさん』『農家の方』などと言うように
なったのもこの頃ではなかったか。

●『差別用語』と言われるものに対する私の考え方はこうだ。
『職業・出自・身分の貴賎』『身体的要件』『性差』『年齢』など、本人のどうしようもない
ことに関すること、また思想信条などに関して、侮蔑的悪意を持って他人に言葉を
投げつけることは絶対によくない。
ただし、その使い方の微妙な言葉もあって(馬鹿、など)悪意のない言い方の場合は
許される範囲のものもある。愛情をもって『ばっかだなぁ!』という場合もあるだろう。
『おまわりさん』もこの範疇に属するであろう。
私は、『言語の豊穣』というものを大切に思う方である。言語が豊穣であるということは
すなわち、感受性や思考力も豊かであるということとほぼ直結していると考えるからである。
あまりにも過剰な自粛は、日本語を細らせてしまうという側面も確かにあって、私は
それも同様に憂うものである。

●だが。それは、差別用語などについての一般論でしかない。

『使い方によっては』とか、『前後の文脈によっては』とか、『言い方のニュアンスしだいで』
などということで、曖昧に片づけてしまってはならない差別用語、蔑視の言葉、というものは
厳然としてこの世界にたくさんある。
今回の、大阪府警の機動隊員たちによる、沖縄の人々への『土人』『シナ人』発言の奥には、
『つられて言った』とか、『売り言葉に買いことば』だ、とか、『差別用語だと思わなかった』
などという弁明や擁護の通用しない、根っこの深い憎悪や蔑視があると思う。

それは、一機動隊員の良識の問題、などという小さな範囲の狭い問題ではなく、
この日本に、それこそ、おそらく幕末の頃からいわば、もう体質のようになって深く
染みついた、歴史的にも構造的にも、長く奥深い問題であると認識するのである。
それは、一機動隊員の資質にとどまらない。
かく述べる私自身、私たち日本人自身の心の奥深くに根強く存在する差別意識
あるいはそこまで言っては極端すぎるなら、『差別を差別と意識しない無定見』と
いうものである。

私たち(と書いていて私は恥ずかしい)本土の人間の、これまでの、沖縄の人々の
苦難に対する無関心。それは、長い長い深い深い根っこを持つ問題だと思わねば。


●私が憂うのは、『ザイニチ』『シナ人』などという言葉や、それを他人に投げつける思想が、
ネット言論が普及するとともに再び、この日本に蔓延して来ているということだ。

しかもそれは、質の変換も伴っている。
かつてこういう言葉が堂々と公然と差別的に使われていた時代もあって、それは長く…
というよりはずうっと消えることなく人々の意識の中に残ってはいるのだが、それらは
一応、ある時から恥ずべき言葉として地下に潜った。
だが今は、歴史とも地理とも関係なく、相手への侮蔑の言葉として見境なく使われるように
なりつつあるということだ。私も、署名集めやビラ配りをしていて、何度『ザイニチ!』
『ニッキョーソ!』『アカ!』などという言葉を投げつけられたことだろう。同じ年くらいの
身綺麗で上品な婦人から、『バイコク!』という言葉をぶつけられたこともある。

『土人』や『シナ人』という言いかたは、戦中派や戦後すぐ生まれた私などの世代の者には、
やはり日本軍のアジア諸国への侵攻という事実とそれへの反省の想いとが分かちがたく結びついていて、
また、戦後のいわゆる民主主義教育のおかげもあって、
多少たりとも心あるものならば、そんな言葉を使うことを恥じる気持ちがあると思う。
つまり、それらの言葉は、否応なしに、歴史や地理の知識に多少は裏打ちされて、使うことを
自制/自省する性質の言葉であったのである。それは世界共通の理念である。

世界人権規約第二条第一項
『すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しく
は社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも
受けることなく、この宣言にげるすべての権利と自由とを享有することができる。』


だが。日本は変わってしまいつつある。
戦後70年。日本が自ら招いてしまった戦争・侵略の記憶は風化しつつある。
若い人の中には、日本がアメリカと戦争したことさえ知らないものがいるという!
ましてや、日本軍がアジアの奥深く侵略していって、それらの国の民に重大な悲しみと
被害を与えたことを、具体的に知らない者はおそらく本当に多くなっていっているであろう。
むろん、沖縄の人々の苦難の歴史も。

『土人』『シナ人』という言葉の否応なしに包含する、後ろ暗い歴史の深部。

それを知らずに、ただ、眼前の相手を侮蔑する、相手に不快感を与えるためにだけ
使ってみようとする者たちがまた生まれてきている・・・!
一方、それを知りつつ、敢えてそれらの言葉を積極的に使おうとする人々もいる。
かの機動隊員たちは果たして前者の方であったか。知っていて使ったのではなかったか。

●大阪府知事が、かの機動隊員らに対し、
派遣業務遂行へのねぎらいの言葉をネット上で書いた、と聞く。

この9月、安倍総理が臨時国会の衆院の本会議で行った所信表明演説の最中に、
『今この瞬間も海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が任務に当たっている。その彼らに対し、
今この場所から、心から敬意を表そうではありませんか』と声を張り上げ、自ら手を叩いた。
その呼び掛けに、自民党議員が一斉に立ち上がり大きな拍手で呼応した、という
例のあの、スタンディング・オベーションの件。
私は、あれを聞いたとき鳥肌が立ったのと同じく、なんとも言いようのない違和感と怒りを
感じるのである。
彼らは、日本と中国その他のアジア諸国、また沖縄と本土の歴史を、十分に知っているはずの
人々である。(当然そうあるべき人々と思う)

戦時中、日本の政府および軍部が、日本兵たちをどういう言葉で励まし賞賛し、
どういう風に戦地に送り出したか。
戦時中も戦後も、沖縄が日本の前線としてどれほどの苦難を与えられ、それに
沖縄の人々がどれほど長きにわたって、時に隠忍し時に徹底して抗議をし続けてきたか。

それらを十二分に知っているはずの人々である。
それにしては、大阪府知事の今回の大阪府警の一員たちの行動に対する見解
逆にそれらを擁護するかのような態度は、全く納得がいかない。
これに対しては、次期新潟県知事になる米山隆一氏が、自分のtwitterで、
以下のように述べているのが、私には一番まともな反応であるように思われた。

『どのような立場でも、どのような状況でも、人は人に対して可能な限り敬意をもって接すべきです。まだ任期は始まっていませんが、私なら、自県の職員が、他県で他県の方に敬意のない対応をした時に、謝罪し、以後改めるよう強く指導することはあっても、「出張ご苦労様」ということはありません。』


『反対派の沖縄の人々やその支援者も、警備の警官などに対し、同じように
汚い言葉を吐いているじゃないか、それらはなぜマスコミは批判しないのだ?!』
という、機動隊員擁護の論調が一部にある。
確かに。反対住民の側も、あるいは相当汚い言葉を、機動隊員や警察官たちに投
げつけていたかもしれない。
それは、この記事の冒頭部にも書いたように、国会前での反原発・反安保法制などの
デモや集会で、折々私が目にした光景であるから。

●だが。ここはきっちりと言っておきたい。
どちらの側も、差別用語、侮蔑用語、また恫喝に似たような言葉は本来使うべきでない。
しかし、自分たちが現実に今住む、いわば自分たちの故郷であり生活の場である
沖縄の土地を、納得もしないまま、国家の意思によって取り上げられようとしている
沖縄の民が臓腑から絞り上げるように発する『怒りと抵抗の言葉』と、国家や『県』という
強大な権力を背景に住民を排除しようとする者たちの『蔑視や恫喝の言葉』が、等価なものとして
秤にかけられるのはおかしい
ということである。

●むろん、私は、冒頭部で縷々書いたように、日本を守るために、日々危険と緊張を伴う
任務に就いている自衛隊員や、警察官、また海上保安庁などの人々に、いつだって感謝と
敬意を抱いている。
だが、この感謝は、私の場合、消防隊員や、また今福島で危険な廃炉のための
作業にあたっている原発作業員にも、また先日東京で、地下の架線の火災による
大規模停電があったが、その時すばやく復旧にあたった東電の作業員にも、
同じく捧げられている。人がときに避けたがる危険な職業に就いている人々すべてにだ。
私は、これらすべての人の安全と無事を願う。

臨時国会開会の所信表明演説の中で、ことさらに、自衛隊員、警察、海上保安庁の
人々だけを取り上げて感謝し、あろうことかその場に居る国会議員全員に拍手を促すという
行為。
私は気持ちが悪くて仕方がない。それと同時に、いいようのない怒りもあのとき感じた。
それは、警察官や自衛官個々人への怒りでは無論なく、彼らのような公務につくものを
政治利用して、国をある方向へ誘導していこうとする意図を持つものが
場所・時代を問わず常にこの人間社会に出現・存在するということへの、本能的警戒感、
というようなものである。

私は、これらの人々が、時の一政府やあるいは何らかの権力の思惑によって、
本来果たすべき任務以上・以外のことを強いられるようなことがもしあるとすれば、
彼らのためにも強くそれに抗議する。
また、彼らが、『公僕』である、という意味を履き違えて、先の参院選で、大分県の
ある警察が、特定の選挙事務所の人の出入りなどを、隠しカメラで撮影していた、
などということがあったのを、憂うものである。
警察官などの職に就くものは、決して『国家』という実態のないものの意を過剰に汲んで、
同胞である人民の一部を敵視したり、それを監視したり、弾圧したりするようなことは
してはならない。そういうことに二度となってほしくない。

警察法第二条第二項。
『警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつて、その責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法 の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない。


また、あのスタンディンング・オベーションを、
『アメリカなど外国の議会などでは当たり前に行われていることだ』といって、
問題視する方がおかしい、という論調も見かけた。
だが私は言っておきたい。アメリカで当たり前なら、日本でもやるのか。
人がやっていることなら自分も許されるという論理の持って生き方が、常々私は
大嫌いである。
それに、あの件に関しては、大事なことが一つ見過ごしにされている。
それは常々、『私は行政府の長であります』とよく言う総理が、立法府の場で、
立法府の人々に、自分の想いへの賛同をああいう風に促す。またそれに多くの
立法府の議員たちが半分驚き多少ためらいつつも従順に従った、というあの構図である。

●この政権は、あらゆる意味で権力をその手に集中しつつありすぎて、今、日本では
三権分立という大事なことがぐずぐずと崩れていこうとしているのを、私はこの夏ずっと
深い悲しみを持って見つめていた・・・・・・

●すべてのことは、その根っこのところで芋蔓のようにつながっている・・・
『おまわりさん』というタイトルのこの記事に、私は私が今抱くすべての憂慮を込めている。
『おまわりさん』には、国民に親しまれ愛される存在でいてほしいものだと
願うものである。


















『秋のいろ』


秋って、寂しいのだけれども、なにかしみじみ幸せな気もする季節である。
寂しいのは、夏の盛り・・・すなわち人生の盛りは過ぎてもう二度と戻ってはこないのだ、
ということを否応なしに感じさせられる季節であるからなのだろうが、しかし、
人生の盛りを過ぎたがゆえに、もう、夏のようにけたたましく頑張っていなくても済むのだなあ…
とでもいうような、静かな心境になれるところが、なにかちんまりと幸せなような気が
するのでもあるのだ。

とは言いつつ、昨年もその前も、秋に私は何をしていたのかなぁ…
あまり記憶がないのである。
なんだか、政治の夏を引きずって、そのままこころ猛々しくいたような気もする…
怒っていたばかりで。><

だが、この秋は、久しぶりに、秋の訪れを静かな心境で迎えている。
あきらめと開き直りとは言いたくないのだが・・・
9月、雨ばかりで残暑がほとんどなかったせいもあるかもしれないな。
10月に入ってからは、夕焼け空の美しい日が続く。
今夜(16日)は満月だ。遅くなっての買い物に、家々の屋根の上に低く、ぽっかりと
美しい月が出ているのを見て、なんだか胸がきゅうっとした。
ここ1、2年ほどのあたしは、ほとんど空を見上げることも少なくなってしまっていたから…




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友が送ってきてくれた小包。
箱が可愛い。



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友のきっかりした手仕事の技の、コースター。




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ああ!編み物の季節が来たなあ。
わたしも、編むこと自体は好きで、子供が小さい頃は、セーターなどよく編んでいた。
若い頃は、殊勝なことに、つれあいに凝ったアラン編みのセーターなども編んだりしてたけれど、
こっちは体の大きいひとなので、毛糸がやけにいっぱいいる。編んでも編んでも
面積が広くて編み進まないので、短気なあたしは懲りてしまって、子供が生まれてからは、
亭主の物は編んでいない。
そう言えば、自分のものもほとんど編んだことがない…
自分のものだと、(編むエネルギー)>(着る喜び、着せる喜び)に思えてしまうからかも。
自分で着るものならどちらかというと、太い糸のざっくりした編み目のものより、
中細、合細毛糸くらいでシンプルな棒針のメリアス編みの、細身のセーターなどが好き。
子供の頃見た中原淳一のファッションブックの女達の着ているような、小ぶりの
質のよさそうなセーターとカーディガンは、いつも私の憧れだった…



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そう。この。左のページの少女が着ているような。

この本は、林檎を贈ってくれた友が、同じく以前贈ってくれた本だ。
中原淳一の本、懐かしいだろうから、と。
秋になったら、紹介しようと思っていて、ようやくその季節が来た。

そうそう。上半身は、こういうふうに体にピタッとしたセーターやシャツの袖を
少しかきあげて、下はタイトスカート、そして細い高いヒールの靴。というのは、
私の定番だった。
袖まくり、と言えば、私は塾に勤めていた時でも、家で水仕事している時でも、
いつも袖をこの絵の少女くらいまくり上げている。
『お仕事モード』に入っている時は、いつだって、このように『さあ、やりますぞ!』と
腕まくりして臨むのだ(笑)。いや、習慣で、ほぼ一日中かもしれない。
袖口や前髪がもたもたしているというのがどうも苦手だ。



高校生の頃は、レース編みなど鉤針編みもしたし、編みもの自体はとても好き。
編みものも無心になれるところがあるから。
ただ、編みものもその人の性格が出るもので、むらっ気な私は、鉤針編みはうまくない。
テンションが高くてぎちぎちに編んでいるところと、脱力していてゆるめになってしまう
ところと、気分が一定しないから編み目も一定しないのだ。
ちょうど、ブログのありようとも似てますなぁ。 怒りのテンション高くて突っ走っている時と、
がっくり来ていてぱたっと記事が書けなくなるときと(笑)。

歳をとってから、毛糸あたりとでもいうのだろうか、ウールの匂いをずっと嗅いでいると、
好きな匂いなのに、めまいに襲われることが多くなって、編み物はもうすっかりやめてしまった…
冬、布地屋さんのウール生地の売り場にいても、ふわ~っと気分が悪くなることもある。
それでも、季節がだんだん涼しくなって行って肌寒いくらいになり、炬燵でもいよいよ出そうか、
という今くらいの季節になると、なぜか無性に編みものがしたくなる。



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そう。秋から冬にかけてのこの季節は、この絵の世界感が少女の頃の私の理想で。
美しい着物と、お湯を沸かしたりお餅焼いたりできる火鉢の炭火、ぬいぐるみのお人形。
そして読みさしの本。
美しい箱。(私は、綺麗な『紙の小箱』というものがとても好きだ)
ここに、編みかけの毛糸があったら、私の世界完成!
今でも、この理想の図がちっとも変っていない。

なんともかんとも。いかにも古めかしいなあ!(笑)
少女の頃からすでにあたしはひどく時代遅れの美感をもっていたな。
(今、乾いてスピード感のある時代についていけない、時代を拒否してるのは当然かも。)


さて。
コースターの下に入っていたのは、こんな美しい林檎たちである。


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なんて!なんて美しい赤のいろなんだろう!
しばらく惚れ惚れと見つめてしまう。
これは岩手の樹齢90年もたった紅玉の原木からもいで送ってくれたリンゴだ。
(うふふ。70年ではなく、90年でした~~!訂正して、林檎の木さんに改めて敬意を♪)
もう樹勢が衰えて、収穫できるのは今年が最後かもしれないということだ…
なったとしても、かろうじて林檎農家のご家族が食べる分くらいだろうと。



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届いて早速皮ごとかぶりついたリンゴの味は、その時、風邪気味で熱っぽかった体に
沁み渡るほど新鮮な酸味と水気があった。
これこれ、これでなくっちゃ。
私はぽそぽそして甘いだけの林檎はあまり好きでないのだ。
あたしにとって、大事なのは、みずみずしさと、酸味とか一抹のほろ苦さとかの
いわばパンチとニュアンスだ。
そして香気。
静けさ。

今年も、ちいちゃな子が入っていて、嬉しい。




友に感謝。おかげさまで、風邪、すぐ良くなった。^^











『キャンドル・ナイト 67』


67回目のキャンドル・ナイト。
67回か…よく灯してきたものだ…




庭の『時計草』の花を、一輪とってきて挿した。





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この頃、またよく、東日本大震災と福島第一原発事故のことを考える。
福島第一原発事故の原因が徹底的に究明されるまでは柏崎刈羽原発の稼働を許さないと
頑張ってくれていた泉田新潟県知事が、突如よくわからない理由で次の知事選立候補を
取りやめた、ということも、私のこの夏の喪失感の一つとしてあった。
東京電力および原発推進を望む側の人々にとっては、泉田知事は、長い間目の上のたんこぶ、
日本全国の原発再稼働にとっての重大な足枷であり続けて来た。
その泉田知事が突然知事再選を望まないと表明した時には、政府初め各電力会社、
原発関連事業者その他、再稼働を望む地元民を含め、原発推進側は大喜びだったと思うのだ。
逆に言えば、私などあの重大事故からまだ立ち直れぬこの日本にあって原発推進、再稼働など
あり得ないと思う側にとっては、一つの大きな保塁が壊れた!とでもいうようながっかり感を
この夏は味わったものだ。

しかし、原発推進側に立つ候補者森民夫氏で無風選挙に陥るかと思われていた新潟県知事選は、
泉田路線の継承、再稼働反対を掲げる医師、米山隆一氏が立候補してくれたことによって、
16日の投票・開票まで、予断を許さぬ激しい選挙戦になっている・・・

無論私は、米山隆一氏を新潟県知事に断固推薦したい!

今朝(12日)の朝日新聞に、オピニオン欄で『国家10万年の計』というタイトルの記事が
掲載されていた。原発が生み出す核のゴミをどうするかということについての識者3人の意見。
その中で、原子力安全研究会技術顧問の杤山修という人が、『原発ごみ 隔離して安全確保』
という見出しで意見を述べていた。この人は、高レベル廃棄物処分の『科学的有望地』の
条件を検討した経済産業省作業部会委員長という肩書きの人である。

「10万年の管理」という言葉が、誤解を招かないか心配しています。実際の処分は、人の管理の手を離れても安全が確保できるようにするのが基本的な考え方です。人の生活環境から離れた地下深くに隔離し、閉じ込めるのです。

 電力会社などの組織が続くのはせいぜい数百年でしょう。いつまでも管理し続けると言っても、空約束にならざるを得ません。だから、数百年を超えて危険が残るものは、人の手による管理が不要になるようにします。

 原子炉内の廃棄物は地下70メートルより深く、使用済み燃料から生じる高レベル放射性廃棄物は300メートルより深くに埋め、坑道も閉鎖します。普通は人が近づきませんが、将来、誰かが偶然にボーリングで掘ってしまうことも絶対ないとはいえません。そこで国が続く限り、掘削などを制度で制限していくべきだというのが原子力規制委員会が求める国の「管理」です。
(中略)
 高レベル廃棄物の放射能が特に高いのは千年ほど。廃棄物はガラスで固め、厚さ19センチの金属で覆います。金属が腐食して壊れるには、千年以上かかります。外側には厚さ70センチの粘土があり、通り抜けるのに数万年かかります。さらに様々なシナリオで将来を予測し、安全を確保します。

 10万年は地球の歴史でみれば短い時間です。プレート(岩板)が沈み込み、地震や火山活動が活発な日本列島で、地下に処分できるかという声もありますが、活断層や火山がある場所を避け、具体的に検討していけば処分に適した場所はあると考えます。

『処分の考え方は分かりにくく、想像をもとにした議論が疑心暗鬼を招いています。どのくらい危ないのか、10万年は長いのか短いのか、まずは中身を知り相場観を持ってもらえればと思います。』




『相場観を持ってもらいたい』
!!!
『相場観』! なんという言葉を選ぶのだろうか!!!
『相場』とは、むろん、株取引など、『実物・現物・直物取引ではなく、市場における
価格変動によって生じる差額で利益を得ようとする投機的取引』(goo辞書より)
のことが一般的であろう。何も株や債券などの取引だけでなく、江戸時代の頃には既に
『米相場』という言葉があった。
だがその他にも、『相場』には、『ある物事についての世間一般の考え方や評価。
また、世間並みと認められる程度。』という意味もある。

この人はおそらく、後者の意味で使ったのであろう。
だが、それにしても。10万年という信じられないような歳月、人間が管理しなければならない
危険な後世への負の遺産である核の廃棄物のことを言うに際して、なんという軽薄な
言葉の選択であろう。

地下300メートルも深く、10万年も封印しなければならないものに対する『世間一般の通念』
『世間並の常識』などというものが、いったい存在するとでもこの人は思っているのだろうか。
理性的に考えても、感情に素直に従っても、『地下300メートルも深く、10万年もの間
封印しなければならないものを、一時の人間がわずか40年そこそこの便宜のために生み出すなど、
全く、狂気の沙汰だ。『疑心暗鬼』も何もない。想像の外だ。

10万年といえば、記事の他の部分を引用すれば、
『アフリカ大陸に現れたホモ・サピエンスが、現生人類と同じような存在になったのは10万~15万年前と考えられます。地球規模に広がったのはこの5万年の間です。日本列島には3万8千年前に到達しました。10万年前は、ヨーロッパには僕らの直接の祖先ではないネアンデルタール人が、インドネシアにはジャワ原人がいました。そういう原始的な、しかも多様な人類がいた時代です。』

10万年前はネアンデルタール人の時代。10万年後は・・・・・・
そんな、想像を絶する時の間、地下深くに封印しなければならないもの…高レベル放射性廃棄物。


8月31日。元気がなくその時はブログ記事に出来なかったけれど、朝日新聞にこんな記事が載っていた。
原子力規制委員会が、原発の廃炉で出る放射性廃棄物のうち、原子炉の制御棒など
放射能レベルが比較的高い廃棄物(L1)の処分の基本方針を決定した、というのだ。
これで、すべてのレベルの放射性廃棄物の扱いの基本が決まったのだ、という。
ただし、実現性は抜き。ただの方針。

ちょっと勉強しよう。
原発の廃炉で出る放射性廃棄物は、
①使用済み核燃料から出る放射能レベルが極めて高い高レベル放射性廃棄物
②L1:原子炉の制御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物
③L2:原子炉圧力容器の一部などレベルが比較的低い廃棄物、
④L3:周辺の配管などレベルが極めて低い廃棄物


に大きく分けられる。
この①から④の放射能レベルの振り分けの定義にも、原子力業界の欺瞞がある気がするなぁ。
『極めて高い』→『比較的高い』→『比較的低い』→『極めて低い』
って、おかしいでしょ!
『極めて高い』→『高い』→『比較的高い』→『中』→『比較的低い』→『低い』→『極めて低い』
というのが普通の感覚だ。それでは煩雑すぎるというのなら、せめて、
『極めて高い』→『高い』→『中』→『低い』→『極めて低い』くらいにはしてほしい。
つまり、この政府だか原子力規制委員会だかの言葉の選び方には、『比較的』という
文字が入ることによって、放射性廃棄物の危険性の印象を全体的に弱める効果を
生んでいる気がするのである。細かいことだが、こういうことも原子力業界の一つの
計算された意図であろう。

①の放射能レベルの『極めて高い』放射性廃棄物は、使用済み核燃料を再処理する我が国
では、要するに、ガラス固化体を指す。いずれは、福島第一原発から取り出される(それが
可能かどうかは別にして)核燃デブリ(溶け落ちた燃料)もこれに入るであろう。
再処理工場における工程で高レベルの放射性廃液がでるのだが、再処理工場では
この廃液を濃縮し、ガラス成分と混ぜ、溶かしたものをステンレス製キャニスターに
注入し固化させる。これがガラス固化体というものである。
製造直後のステンレス製キャニスターに入ったガラス固化体は、人が20秒そのそばにいれば
確実に全員が死ぬというレベルの放射能を持っている。

製造直後のガラス固化体一本は平均4000兆ベクレル、最大4京5000兆ベクレル
の放射能を持ち、200度の熱を発する。
(ちなみに、福島第一原発事故で大気中に放出された放射性物質の放射能は、
57京ベクレル(!)と見積もられているという。2011年8月22日付朝日新聞記事によるから
その時点までで)

無論この高熱を発するガラス固化体をすぐには埋めたり出来ないので、これを30~50年間
冷却してようやく地層処分、ということが出来るようになる。
30~50年間の冷却!これさえ、ほぼ人間の大人になってからの歳月と同じくらいじゃないか。
たかだか40年くらいしか持たない原発から出てきたものを、同じ年月冷却し、それから
10万年地下深くに封印するというのである!

日本には、2008年時点で六ヶ所高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターに1417本、
東海村に247本の計1,664本のガラス固化体があったと、資源エネルギー庁では報告している。
日本の原発の使用済み核燃料の大半は再処理待ちの状態で各原子力発電所等で
貯蔵されている。福島第一原発事故で、4号機のプールに使用済み燃料が冷却
されていて、その冷却が出来なくなって東電が震えあがっていたのをご記憶の方は多いだろう。
原発事故の怖さは、なにも原子炉そのものだけではない、日本全国の各原発にあのように
プールされている使用済み核燃料が冷却できなくなったら、福島第一4号機の危険と
同じ事態が出来するのである。
圧力容器にも格納容器にも保護されていない、むき出しの使用済み核燃料が、
冷却できなくなったら!日本の半分がダメになる、と、東電も菅政権も震えあがっていたのを
思い出してほしい。
その使用済み核燃料が、今はおよそ1万数千トン、大部分再処理を待っているわけだが、
資源エネルギー庁では、2009年末までの日本国内の原発で使用された核燃料を
全数再処理した場合、23,100本のガラス固化体になると推定していた!
しかも、福島第一原発事故を契機に、各地の原発が停止されていなかったら、
原子力発電所の運転により、毎年ガラス固化体1,300-1,600本分相当の使用済み核燃料が
増えていくと推定されていたのである。
原子力委員会では、2030年には7万本となると推定していたという。

さて。話を元に戻して。
①の高レベル放射性廃棄物は、地下300メートルに十万年。
②のL1は、地下70メートルより深いところに埋め、電力会社に300年~400年間
管理させる。(これさえ、狂気の沙汰だ!東電はその頃まである?300年前というと、
日本では江戸時代中期、元禄時代、赤穂浪士の討ち入りがあったころだ)
③のL2は地下十数メートル、
④のL3は地下数メートル、に埋め込む。

事故がなくても使用していようがいまいがいずれ今ある原発は廃炉の時期が来る。
大手電力会社でつくる電気事業連合会は、国内の原発57基が廃炉になれば、
L1だけで約8千トンの廃棄物が出ると試算しているという。

上記、原子力安全研究会技術顧問の杤山修氏は、
『10万年は地球の歴史でみれば短い時間です。活断層や火山がある場所を避け、
具体的に検討していけば処分に適した場所はあると考えます』
とこともなげに言う。
だが、福島第一原発事故で出た(これから取り出す予定の)極めて高レベルの放射性物質
百数十トンともいわれる核燃デブリ(溶け落ちた燃料)から、極めて低レベルの
作業員の脱ぎ捨てるあのタイべックと呼ばれる作業着などまで、その埋設地を
探すことは容易ではない。現実には、福島第一周辺に山積みされているフレコンバッグに
詰められた汚染土の行き場さえもまだ完全にはない。有るとしても『仮置き場』として、
である。


下の図は、放射性廃棄物の地下処分場の候補地についての各都道府県の
回答である。

地層処分 ②
http://blog.goo.ne.jp/flyhigh_2012/e/b9aab91f01c3f492265e785ca0aaed56からお借りしました。)


NIMBY症候群のことは前にも書いたことがある。
Not In My Backyard.
『事情はわかるし理解してるけど、私の家の裏庭に持ってこられるのはお断りよ』、というやつ。
『沖縄の人々の負担はわかる。同情もする。だけど、オスプレイがうちの近くの飛行場に
『駐機』するのさえ、お断りだ』。
『保育園。ないと困るわねえ。でも、うちの近くに建設するのはやめて。子供たちの
遊ぶ声などがうるさいから』
『トイレなきマンション=原発。そんなもの大反対。でも、廃炉作業で出てくる核のゴミは
うちの近くには絶対に持ち込ませないわよ』
これがNIMBY症候群だ。

福島第一事故の廃炉作業から出てくる高~低レベルの放射性廃棄物。
各原発が出す使用済み核燃料。これからそれぞれ老朽化していく原発の廃炉の廃棄物。
それらの行きどころは、レベルの高い低いにかかわらず、日本にはまだない。
世界にだってまだない。地下およそ520メートルの深さまでトンネルを掘り、そこから
横穴を広げ放射性廃棄物を処分していくというあのフィンランドのオンカロだって、
あれだけ大掛かりな工事をしているけれども、あれは自国の原発から出てくる
100年分のキャニスターを収容できるだけである。必要な管理は10万年。
気が遠くなる…

日本の高レベル放射性廃棄物の地層処分地も、火山や活断層から離れた場所で、
運搬しやすいように海岸から20キロ以内のところを、国が候補となる「科学的有望地」
として示すというが、そんなところ、この火山国地震国日本のどこにあるというのだ?

高レベル放射性廃棄物は、地下300メートルに埋める。地下300メートルなら
地下水の浸透はもう影響ないと考えられているらしいが、あのアメリカネバダの広大な
敷地に建設される途中だったユッカ・マウンテン最終処分場も、地元の反対や、
地下水の影響もあって、建設は中止されている。


地下水脈
http://stat.ameba.jp/user_images/20150217/16/boumu/51/5f/p/o0656049913220907791.png?caw=800


これはまるで、人体の血管の図のようだが、関東周辺の地下水流の図である。
この状況は、日本全国同じようなものだろう。
これほど縦横に広くまた深く浅く張り巡っている日本の地下水脈。
その影響を受けない、また逆に水脈に影響を与えないで放射性廃棄物埋設地など
見つけることが出来るのだろうか。

杤山修氏は、処分場候補地は有ると考える、といい、『相場観を持って(処分のことを)
考えてほしい』と安易に語るが、ご自分でもその目途などないことはわかっているはずだ。
火山や地震は無論のこと、水の力も馬鹿にしてはいけない…

福島第一原発は、今、果てしない地下水との戦いをしていることを皆さんはご承知だろう。
阿武隈山系の水が地下水として伏流している。その地下水が福島第一の放射能汚染水と
混じり合って、処分しなければならない汚染水の量を否応なく増やし、その処理に
東電は苦慮している。一日に850トンもの地下水が流入するのである!
私も凍土壁には希望をかけたが、残念ながら、莫大なお金をつぎ込んだ凍土壁も、
今のところ機能していないどころか、先の希望も見えない。
福島第一原発の敷地内及びその周辺に並ぶ汚染水タンク!それも既に用地的に
満杯に近く、少し大きな地震があれば、フランジ型と呼ばれるあの鉄板をボルトで
継ぎ合わせたタンクは崩壊するか水漏れを起こして、膨大な汚染水を周辺の大地や海に
流すことになりかねない。今年4月の時点で福島第一にため込んだ汚染水は80万トン
という。

だが。福島第一原発をかの地に選定した時、1960年代のことだが、その時にすでに、
福島第一の地下は、阿武隈山系の地下水が豊富に流れる地形であることはわかっていた
のである!
今日、東電が、廃炉作業そのものと共に、水との戦いにも明け暮れていることは、実は
福島第一があそこに立地された時から、運命として決まっていたわけなのである・・・
このことについては、既に記事にしてあるので、こちらをぜひ見てほしい。
http://clusteramaryllis45.blog61.fc2.com/blog-entry-1307.html

私は、この福島第一原発建設にあたっての先見性のなさや、津波によって全電源喪失が
一部科学者や共産党議員などによって予見され警告されていたにもかかわらずそれに
素早く対処しなかったばかりか握りつぶした(第一次安倍政権の時のことだ!)こと、
また事故後の対応など、全てにわたる『見通しの甘さ』や誰が責任を持つのかという
責任体制のいいかげんさ、また縦割り行政や妙な縄張り意識から来る情報の停滞、
隠ぺい体質などは…日本の宿瘂のようなものではないかと時々思ってしまう…

それは、豊洲の不思議な地下空間に滲み出た汚染地下水のことも同じだし、
オリンピック会場建設などに関する一連のどんぶり勘定や無見識も同じだし、
遡って言えば、日本が日中戦争に突入しさらにはアメリカとの戦争に踏み込んでいって
やめられなかったことなどにも共通する、言わば日本人の体質と思ってしまうのである。


福島第一の問題や各地の原発の廃棄物の問題は、確かに、日本人みんなで
考えていかねばならない問題である。
もうすでに起きてしまったことなのだから。もうすでに生まれてしまったものなのだから。
私達は『電気』というその恩恵を、享受してしまっている・・・責任の一端を負うしかない。
“Not In My Backyard”では済まされないのである。
だが、放射性廃棄物処分の先はまったく見えない・・・

確実に言えることは一つだけ。
これ以上、核のゴミを増やさない!
このことに尽きるのではないだろうか。
福島第一原発事故。あのような大事故を引き起こしてしまった私達…
福島の人々は、住む場を失い、家族のあるものは解体され、職も失い、思い出も失い、
5年7カ月たった今も、核汚染の心理的恐怖と戦っている・・・

私は、このブログを始める前、別のブログで、原発のことを勉強し、一所懸命記事を書いていた…
8年近く前のことである。
東日本大震災が起こり、福島第一が全電源喪失、と聞いた時のあの悲しみと怒り!
・・・それはいまなお少しも消えないし減じてもいない。

しかし。日本はあの津波や原発事故の後に、悲劇から学んで、よく変わることも
出来た筈なのである。生まれ変わることもできたはずなのである。
だが、実際は、悪い方へ方へとこの日本は動いている・・・

原発再稼働や、憲法改悪など、論外のはずだ。

そのことをもう一度考えてみよう。

私は今後も、11日には、キャンドルを灯し続けていこう。





心ひとつに キャンドルナイト






南亭さんバナー②


葉っぱさん、れんげちゃん。NANTEIさん。
今月もバナーお借りします。
 






『オリンピック雑感』


記事は後にして、まず署名のお願いから。

2020年東京オリンピック開催のため、千代田区の100年も生きてきた樹木たちが
切り倒されようとしています。
反対署名と詳しくはこちらを。
http://shindenforest.blog.jp/archives/66269563.html

『秋の物想い』


金木犀の香りが、胸苦しいようなせつなさを、例年に増して感じさせる秋である。

いろんな意味で、初心に帰るというか…
このブログを始めた頃の自分に戻りたいような気がすることがしばしば。
ずいぶんあの頃は、私も艶やかな感情をまだまだ持っていた・・・。

今でも、自分の本質は少しも変わってはいないとは思うけれど、確実に失ってしまった
ものもある・・・
とりわけこの夏は、私にとってはいろんな意味で、『喪失の夏』だった。
何を失ったのか。
それを言葉にして列挙していけば、「なんだ!そんなもの?」と言われそうなことばかりだ。
しかし、それらの総体は、結構私の語る気力を奪ってしまった。

手仕事が忙しいのをいいことに、この夏は、ほんとうに黙りこくって過ごしていた・・・
手を動かしていると、無心になる。
でも、その手仕事も昨日で終わり、今は一種の虚脱状態。
今夜は、台風18号の名残の風が、窓の外でうなり声を上げている。
なにかこう…胸の内の力無い空虚感と激しい風の音がどうにも合わないのが、かえって
今の気分にふさわしいのかもしれない。




さあ・・・。
また記事を書いていくかなぁ・・・



季節はとうに過ぎてしまったけれど、毎年のお約束事みたいなものだから、
今年も、この花の写真は載せておこう。


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プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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国境なき医師団
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