『 リベラルの結集を ②』

さて。この記事のタイトルを、『リベラルの結集を』とした。
『リベラル』、とはなんであろうか。
また、それに対極するものとはなんであろうか。

『リベラル』の定義付けは実は非常に難しい。
だが、話を進めなければならないので、私の『リベラル』に対する考えは、
本文の下の『追記』に書かせていただくことにして、
日本で一般に『リベラル』と言う時には、漠然と『社会自由主義』
『穏健な革新を目指す立場(中道左派)』とでも言うようなものを指す
とお断りしておいてから書き進めたい。
まあ、よく言う『ハト派』という曖昧な言葉がその概念の印象をよく表しているだろうか。
一般的に『リベラル』の対極としては、『全体主義』『集産主義』を指すことが多い。
しかし、私がその対極にあると今、ここで考えているものは、
『極右的ネオリベラリズム』もしくはそれに近いものを念頭においている。
では『ネオリベラリズム』とはどういうものか。
わかりやすい例で言えば、
息子ブッシュが8年間の政権担当で世界を不幸に巻き込んだような、
そして今回ロムニー候補が掲げていたような、とどまるところを知らぬ経済の自由主義、
そして『自立』と言う美名のもとでの弱者切り捨て政策のようなもののこと。

私が『リベラルの結集を』というタイトルを掲げた、その『リベラル』という言葉。
私はここで、『「極右的ネオリベラリズム」に反対するすべての勢力』
を漠然とイメージしている。
その意味で、私は日本共産党も、この『リベラル』と言う言葉の内に含んで話していくつもりである。
もっとも、日本共産党の人々は『リベラル(自由主義)』と呼ばれることなどまっぴら!
と言うかもしれない。でも、ここは。この大事な際、固いことは言わないでほしい。
(日本共産党についての私の深い想いは、次の記事で書いてみたい…。)


かつて、日本には、自民党の一党支配に対する反対勢力が曲がりなりにもあった。
社会党、共産党の左派政党がそれである。
その良し悪しについての論議はいろいろあるだろう…
私は、国の政治というものが、ひといろの政策で固められてしまうことほど
危険なことはないと思っている。
日中・太平洋戦争中の日本のような軍事国家などもってのほかである!!!

その意味で、長い長い自民党政治の中で、それに異を唱える存在というものが
絶対に必要であると思ってきた…
同じ政党がずっと政権を握っていれば、そこにどうしても腐敗や癒着が生じがちである。
また、一極に権力が集中すると、ややもすれば力を過信して暴走しがちになる。
反対勢力というものがあれば、政治は暴走出来にくい…
その意味で私はずうっと、共産党や社会党に票を投じて来たのである。
(だから、もし、社会主義・共産主義国家でも、それが人々を抑圧するならば、
私はそれに反対するであろう。)

私の場合、勿論社共の掲げる政策に納得できる部分が多かったということが第一であったが、
その、抑止勢力としての役割に期待していたところも大きかったのである。

だが、『第五の敗北』と言う記事で書いたように、この2つの政党は、
自らの招いた失敗や、世界的の要因も両方あって、日本では弱小政党になり下がってしまった…

自民党がひとり勝ちした政治…その悪弊は、皆が知るところであろう…
2009年の夏の、民主党政権誕生は、この国に2大政党を根付かせたい、
そのような力を持つ第二の政党を作りたい!という国民の悲願が出した結果ではなかったか!

…民主党も最初はそれを自覚して、官僚支配からの脱却など、いいことを
たくさん言っていたものである…
だが、政権を担当したことのない民主党の政治家は、結局官僚にからめとられてしまった…
そうして、国民は短気であった!
私に言わせれば、国民は辛抱が足りなかった!
私が嘆くのは、2010年、参議院選で、国民が民主党にお灸をすえて、
ねじれ国会が生まれてしまったことである。
慣れない政権運営、自民党政権が長く続いたことによるさまざまな悪弊を絶ち切ることは、
なまなかなことでは出来ない。それに対し、国民は早く結果を求めすぎたのではなかったろうか…
結局、私たちは、自民党に代わりうる対極としての政党をここで育てそこなったのである…

民主党政権成立の3人の立役者たち…その大物政治家たち…

…小沢氏は離党した…2年近くにわたる不当とも思える裁判で無罪は確定したものの、
 小沢氏はかつての力を失ってしまった…
…鳩山氏は、今時の政治家に珍しく政治の理想も持っていたのに、若くして
 引退を表明せざるを得ないところに追い詰められた…私は彼が勇気を持って
 普天間の県外移設を言いだしたことを評価している。問題はその弱気と、総理たる鳩山氏の
 足を引っ張った外務省防衛省などにあったのでないかと思っている。
…菅さんだけが、まだ民主党に残っているが、彼も孤立無縁。
 かつての総理大臣に選挙応援を頼む者とてなく、彼は地元の武蔵野市で、
 一人、少ない聴衆の前で、ひたすら脱原発を訴えているようである。
 その孤独な姿が、数日前、小さく新聞に出ていた…

これらの人々に問題がなかったとは言えまい。
しかし。しかし、これらの民主党政権誕生時の立役者たちが揃って脇に追いやられ、
野田佳彦氏のような、権力欲を行使する快感だけ強くて、政治的理想のない
小者政治家が残って、かつての自民党と同じような政治を、いやある意味でもっと
ひどくてお粗末な政治を行って、民主党を解体してしまいつつあるこのこの結末は、
なにか単なるほろ苦さを超えて、重く腹にこたえる…!

しかもその大物3人が、揃いもそろって、マスコミによる一大バッシングを受け、
政治の表舞台から半ば、あるいは完全に引きずり降ろされてしまっている。
一体、誰がそうなって嬉しかったのだろう、とつい深読みしてみたくもなるのである…


そうして今、私たちがそこから折角逃れて来た自民党に、
いや、さらに悪い強権的、右翼的政治家に国民の人気は集まっているように見える…
これらの政治家は、野田氏も含め、揃いも揃って原発推進である…!!!
私たち国民が願ってきた政治の転換というものは、こういう終わり方でいいのか!
こんな、滅茶苦茶な、支離滅裂な、低レベルの政治争いを私たちは求めていたのか?

ノーベル賞作家大江健三郎さんは、7月16日『さようなら原発十万人集会』の折、
『わたしらはもう十数万人にのぼる私たちは、侮辱のなかで生きてゆくほか無いのか。
あるいはもっと、次の原発の大爆発によって侮辱のなか死ぬほか無いのか。』と
国が私たち国民の生きる権利を侮辱しているという、『侮辱』という
強い言葉を使って悲痛な訴えをされた。

人間が、その、生まれ育った土地、自ら選んだ土地で、ささやかに普通の暮らしをしていく権利。
子供を外で遊ばせ、自分の田や畑で米や野菜を作り、それを生計の道とする…
漁師は海や川で魚や貝をとる…
休みの日には野原や山で山菜採りをしたり、子供が泥んこになってスポーツをしたり、
あるいは小さな庭に花や野菜を育てて楽しむ…
そんな、普通の、そんな当たり前の暮らしをする権利を、東電の事故は
奪ってしまった!
そして、東電も国も、それからマスコミなどの多くまでもが、その問題に
まともに向き合おうとしていないのである。
…これを、人間の人格、全人としての存在への侮辱と言わずに、どんな軽い言葉で
言い表せようか?

国民無視のこんな政治を許してしまうこの悲しさ口惜しさ!
そして。さらに。国民は、第五のこの敗北を喫しただけではなく、今、『第六の敗北』
に向かってひた走りに走っている…

大江健三郎さんや、瀬戸内寂聴さん、澤地久枝さん、内橋克人さん、肥田俊太郎さん…
反原発集会によく来て演説をしてくれるこうした知識人たちは、それぞれ、
77歳、90歳、82歳、80歳、95歳である…。
若い論客たちよ、もっと外に出てくれ!!!






『リベラルとは』
    ↓

『リベラル』ということを説明することは非常に難しい。
liberal を辞書で引くと、『自由な、自由主義の』とでてくる。
ということは、自由民主党が『リベラル』なのであろうか?
…どうも違う。

Wikiによる定義を一応載せておこう。

『自由主義(じゆうしゅぎ、英: liberalism、リベラリズム)とは、
政治や経済などにおける思想や運動や体制の類型のひとつ。
啓蒙思想から生まれた近代思想の一つであり、人間は理性を持ち従来の権威から自由であり
自己決定権を持つ
との立場から、政治的には「政府からの自由」である自由権や個人主義
「政府への自由」である国民主権などの民主主義
経済的には私的所有権と自由市場による資本主義などの思想や体制の基礎となり、
またそれらの総称ともなった。
自由主義は政治や経済における多元主義でもある。
自由主義の対比語は、政治学的には権威主義や全体主義、
経済的には社会主義の計画経済などの集産主義である。

「自由主義」や「リベラリズム、リベラル」という思想や用語は、時代や地域や立場
などにより変化している初期の古典的自由主義(Classical Liberalism)
レッセフェール(自由放任)を重視して政府の権力を最小化する立場が多かったが、
20世紀には社会的公正を重視して社会福祉など政府の介入も必要とする
ニューリベラリズム(New liberalism、社会自由主義)が普及した。
アメリカ合衆国や日本では「リベラル」という用語は、この社会自由主義の意味で使われる場合が多く、
穏健な革新を目指す立場(中道左派)だとされる。

この「リベラル」に対して本来の自由主義的な側面を強調する表現が
リバタリアニズム(libertarianism)で、
特に経済的に古典的自由主義を再評価する立場を
新自由主義(ネオリベラリズム、Neoliberalism)とも呼ぶ。


『自由主義』と一口に言っても、ざっと言って上の4つほどの立場がある。

本来『リベラル』の対語としてあるのは、上にも書いてあるように、『全体主義』、『計画経済』
であろう。共産主義社会や社会主義は、その意味で『リベラル』とは呼べない。
だが、私は 、
アメリカ合衆国や日本では「リベラル」という用語は、この社会自由主義の意味で使われる場合が多く、
穏健な革新を目指す立場(中道左派)だとされる。』
という引用下線部の記述にあるように、
この記事で『リベラル』と私が書くときには、その『穏健な革新を目指す中道左派』と
言うのに近いものを指して語るということをお断りしておきたい。
日本の共産党や社民党は、武力革命によってではなく議会政治で日本を変えて行こうと
している、という意味で、『極左』ではなく『左派』である。
私はこの両党に近いグループも、ここで『リベラル』の仲間に意識としては入れて書く、
ということも前提として断っておく。
要するに私がこの『リベラル』という語の対極として置くものは、『極右的ネオリベラリスト』
である。『極右に近いネオリベラリスト』というものもここにおいておこうか。

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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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