『火野葦平 「土と兵隊」②』

日本軍報道部が、従軍記者や従軍作家に出した『従軍記者の栞』という小冊子があった。曰く、
『諸君の一言一句が、国民は勿論、敵国否全世界に及ぼす影響の甚大』云々。

火野自身が日記に書いている言葉を引用すれば、
『当時、ペンに加えられていた制限は大きなものであった』
『日本軍が負けているところを書いてはならない。
 戦争の暗黒面を書いてはならない。
 女のことを書かせない。
 敵は憎々しくいやらしく書かねばならなかった』

火野葦平の『麦と兵隊』『土と兵隊』を読んで、私は正直言って、それほどこれらの
作品に、戦争称揚のプロパガンダ性は感じなかった。
まずそれが私には意外であった。
発表年次は『麦と兵隊』が先だが、扱われている中味は『土と兵隊』の方が
時間的に前のことを書いているので、この作品から始めよう。

『土と兵隊』は、火野が、後に芥川賞を受ける『糞尿譚』を書きあげて、
1937年9月、小倉第114連隊に応召入隊、杭州湾上陸作戦に従軍した折の、
従軍記録である。
彼の身分は陸軍伍長。第二分隊長として13人の部下を任された身であった。
『土と兵隊』初版の前書きに、火野自身が書いていることによれば、出征以来、弟たちに
宛てて書いた手紙の蒐録である。弟政雄もまた応召出征している。
記録は、1937年10月20日、どこの戦地に送られるともしらされないまま、
門司港を出航した太平丸の船上から弟に宛てた手紙で始まる。
出航したとはいえ、船は玄界灘に停泊。2千人近い兵士たちは、狭い船室で、
退屈し切っている。軍用馬も200頭ほど。
兵士がすることは、ひたすら日記をつけることと出す当ても確かとない手紙を
誰かれに宛てて書くこと。
しかしやがて11月2日。太平洋丸は出航。
11月4日。翌日にいよいよ杭州に上陸という日を迎え、火野初め兵士たちは
明日から始まる戦闘を前に、家族友人に宛てて遺書を書く。
11月5日。午前2時。上陸用舟艇に乗船。

『耳の傍を弾丸が呻って過ぎる。泥砂の中にぷつぷつと穴を開けてつきささる。
我々は遮二無二突進した。抜刀した小隊長が走っていく。(中略)頭上を音立てて
弾丸が通り過ぎる。耳の横を伝ってつつうと冷たい汗が流れ落ちた。私は水筒の水をのんだ。
泥にまみれた水筒を泥だらけの手で持ったので、水は泥といっしょに口の中に流れこんだ。
私は前後して堤防に辿りついた兵隊を見廻して、みんな居るか、番号、と云った。
みんな居た。顔見合わせると、皆血走った眼付をしていたが、誰も身体は上から下まで
鉄兜も、銃も、手も、顔も、泥だらけになっている。泥の中から眼をぎょろぎょろさせている。
皆息を切らして大きく肩を動かしている。私達は血走ったような眼付をしてお互の顔を
見合ったが、やがて私達はげらげらと笑いだしてしまった。無茶苦茶な緊張ぶりが、
お互が無事だったと思うと、顔を見合わせている中に、何かおかしくてたまらなくなったのだ。
すると、身内に暖いものでも湧いて来るように、私達の間に勇気が生まれた』


この作品が『土と兵隊』と題された所以である。
以降、火野伍長を含む日本軍上陸部隊は、杭州の泥と土に低くへばりついて
戦闘を続けることになるのである。
装備は重い。基本の軍装をしただけで8貫600匁(約33kg)。
『これに銃を持ったり、軽機関銃を担いだり、弾薬匣を下げたりして、舷側から
縄梯子を伝って舟艇に乗り移り』…堤防を攀じ登り、泥地に伏せ、突撃する。
あまりの重さに、ついに皆、背嚢の中から罐詰や、米など武器以外のものを
捨てていかざるを得なくなる始末。従って、糧食が不足気味となり、兵隊たちは
いわゆる『現地調達』で、中国人の民家や庭の農作物や鶏や豚を奪って進軍していくことに
結果としてなっていくのである。
『現地調達』と云えば聞こえはいいが、実際のところは、この小説でも見る通り、
『略奪』である。住民が逃げてしまったとの農家に入って宿となし、保塁とし、
庭に出てくる鶏を絞めて皆で食べる。芋を掘って茹でて食べる…
水牛や驢馬を『調達』し荷役馬の代わりに使う。その背についでに鶏も結びつける…

『我々は途中の家をことごとく焼き払った。敵兵が潜伏する怖れがあるからだ。
家は藁なのですぐ燃えた。(中略)彼方でも此方でも藁家が炎々と赤黒い煙をあげて
燃えだした。燃える家の前に殪れ(たおれ)ている支那兵があった』


『雨が土砂降りになって来た。身体中に泥と水が沁み透り、ぞくぞくと寒気が
襲って来たが、私は身体に力を入れ、なるべく動かないように鯱(しゃち)こばっていた。
動く度に新しい水気が身体を撫で、寒さが耐えがたくなってくるからだ。(中略)
なんと戦争というものは汚いもんだの、寒くはないか』


『雨が止むと、暫くして、虫がしきりに啼き始めた。』

勇ましい戦闘シーンもあるにはあるが、全体のトーンは、ひたすら戦場の兵隊の
肉体的実感…寒かったり、重かったり、眠れなかったり、クリークの濁った水を
浄水液を入れて飲んだり(のちにはだんだんそれさえしなくなってそのまま飲む)、
朝炊いて飯盒に詰めた冷たい硬い飯を戦闘のあいまに急いでかッこんだり…
と云った、兵士の生物的側面が淡々と描かれていく。
固い糧食を急いで食べた後で、11月の大陸の冷たいクリークの水に分け入ったり、
泥濘の中を匍匐前進したりとやっていれば、当然腹をこわすものが続出してくる…。
火野伍長も真っ赤な便をする。たいていの者がそうであるという。
血が出ているのだと思ったが、原因はわからない。腹をこわしたわけでもないという。
皆、クレオソート丸を飲んでいる。

私なら、すぐ死んじゃうな…。

読みながらそう思う。女だから虚弱だということではない。
神経の細い者は、この戦場では生きていけまい、と思ったのである。

今回たくさん本を読んだ中に、映画監督で『人情紙風船』などの名作を撮った、
山中貞雄 の『陣中日誌』があった。
彼は陸軍軍曹として、北支、火野と同じく杭州湾上陸。そして南京攻略戦にも、と
転戦しているが、昭和13年(1938年)河南省の野戦病院で28歳の若さで
亡くなっている。死因は赤痢。
彼の『陣中日記』は毎回の記載は短いが、ほとんどが、いずれ内地に無事帰れたら
撮りたい映画の構想が、戦いの毎日の中でもいやでも浮かぶのだろうか。
いや、そういう境遇だからこそ又さらに思うのだろうか。
ふと浮かんだ映画のワンカットがいくつもいくつも書きつけてあって、涙を誘う。

彼がもう死の直前に、親しい友人に送った手紙。

『いつかニュース映画で兵隊が褌一ツで川を渡るのがありましたね。婦人席なんか
大喜びで、あれは受けとッたよと当時のはなし。失礼な!! 罰があたります。
僕の病気の原因は洪水で、あの恰好を一月ばかり毎日続けたからです』


映画界の若き鬼才として将来を嘱望されていた山中監督は、映画を再び撮ることを夢見、
美味しいものを食べることにあこがれつつ、激しい下痢に苦しみながら中国の地に没した。

『土と兵隊』に戻ろう。
中国の行く先々に張り巡らされた灌漑用のクリーク。
それと雨に、兵士も兵站を運ぶ馬も戦車もが、進路をしばしばさまらげられて苦しめられる。

『我々より以上に車輌部隊が苦しんでいる。馬は喘ぎながら泥に噛みつかれた
車輛を曳き出そうと力をこめ、今度は自分の足を取られ、何回も転倒する。(中略)
馬が数十頭も倒れたという噂が伝わってくる。横倒しになった馬の死骸にも行きあう。
兵隊たちは、失った馬の代わりに、村から、水牛や驢馬を徴発して、荷をくくりつけてまた
進軍していく。

従軍作家火野葦平は、こう記述する。

『既に我々の軍馬の間に、殪れた馬の代りの水牛や驢馬が居る。本道上をそういう苦労を
しながら進んでいく車輛部隊と、歩いていく兵隊とが、見渡す限り蜿蜒と続き、進軍して行く。
そのどの兵隊も、足を痛め、胸苦しく、歯を食いしばって歩いているには違いないが、
ここから見ていると、寧ろそれはただ颯爽として、美しくさえ見える。(中略)
私の身内に歓びに似た勇気が湧いた。私は歩きだした』


この文章を、自分に課せられた戦意高揚のプロパガンダという使命…それに応じた
文章と見るか。
…私は、一兵士としての、いや、人間としての素直な感情を、ここに見た。
こういう記述は、侵略される側の中国の民に対する鈍感と言われても仕方があるまい。
しかし、苛酷な戦闘の最中にあっても、人間というものは、そこに何かの意義や、
時には『美』をさえ探そうとするものである。
そこのところの人間の思考経路の落とし穴のようなもの…。
火野葦平のこれらの作品は、私は倫理観とか善悪、というものを超えて、
一つの記録として、戦場における兵士の行動と心情の記録として、
やはり文学作品としての意味があると思っている。

激しい戦闘シーンも数々ある。
だが、私には、それがちっとも勇ましく感じられないのだった。
戦争は勇ましいものでなどない。火野葦平自身が従軍手帳に書きしるしているように、

『脳漿を地にすりつけるような戦だ』

…脳漿は、脳脊髄液、脳を満たしている液である。
頭を射ぬかれた兵士は、地にどう!と倒れる。脳漿が流れ出る……
これは自軍も敵軍もない。運が良くなければ、撃たれたらまず死ぬ。
至る所に死骸はごろごろしているのである。人の死体も馬の死骸も。
後方から、食料や水の支給など届かないので、兵隊たちはクリークの水を飲み、
それで米を洗って飯盒炊爨する。
束の間の休息に飯を炊き、食べ終わった後になって、さっき米を洗った同じ水たまりに
中国兵の死体があったのに後で気づく、というような記述もどこかにあった…。

火野葦平は、職業作家として、出来る限りの私的な感情を避けて、淡々と手紙体の文を
綴っていく。だが、その客観の中に、かえっていたましい戦場の実態というものが
生き生きとひしひしと描かれていくのである。
ここには、戦う当の相手、中国兵に対する憎しみすら感じられない。
ただひたすら、兵は泥や雨やクリークや、それから美しい晩秋の青空の下を行軍していく。
銃弾を必死に避け、夢中で撃ち、泥人形のように疲れて眠って、また起きて
急いで朝ごはんを仕込んで、野糞をして、また行軍して行く。

『この附近は日本の農村と殆ど変らない風景である。支那の少年が私達の所に駆けて来た。
見ると、息を切らし、土の素焼きの茶瓶と茶碗とを持っている。黙って我々の方に差し出す。
私達は茶をのんだ。銅貨を出して、やろう、と云ったが、不要不要(プヨープヨー)、
と云ってどうしても取らない』


このような、戦争中ではあっても、民衆と民衆の間に自然に湧き起こるであろう束の間の
中国人少年との交歓や、進軍の途中で見つけた民家の蜜柑の木、それに兵士が群がり、
その房を分け合って、この世のものとも思えぬ甘露に喉をうるおしたり、
野天風呂を工夫してたてたり、収穫期をとうに迎えた美しい稲穂の中や、
コスモス、野菊の咲き乱れる野を行軍する、のどかで美しい描写もある。

だが。戦争は戦争だ。
この束の間の少年との交流のようなものだって、『麦と兵隊』の中では、
日本軍が目の前にいる間は、日本軍に自ら進んで食べ物などの物資をにこにこしながら差し出すが、
日本軍の一隊が通り過ぎた後、国民党軍がそこを通りかかれば、同じようににこにこ
接する、したたかな農民の姿もまた描かれていた。
民衆というものはそういうものだろう。それでなければ生きていけない時代でもあったということだ。

『トーチカの上に三つ空気抜きがあった。私達はそこから手榴弾を入れることにした。
(中略)私は扉の前に立って扉を叩いた。銃把でごとごと叩いた。それから、
儞、来来(ニー、ライライ)、出て来いと云った。私の知っているたった一つの支那語だ。
(中略)次々に支那兵が出て来た。どれもひ弱そうな若い兵隊だった。それは、しかし、
歯がゆいことには、どれも日本人によく似ていた。彼等は手榴弾のためにやられたらしく、
気息奄々としているのや、真っ黒に顔が焦げたのや、顎が飛んで無くなっているのや、
左頬の千断れたのやが、次々に現れた。彼等はぺこぺこお辞儀をし、手を合わせて、
助けて貰いたいというような哀願の表情をした。最初出て来た四人の支那兵の一人が
逃げようとした。阪上上等兵がそれを打ち殪した』


『大隊本部のある先刻の部落まで帰ってくると、ずらりと捕虜が並んでいた。(中略)
少し寝た。寒さで眼がさめて、表に出た。すると、先刻まで、電線で数珠つなぎにされていた
捕虜の姿が見えない。どうしたのかと、そこに居た兵隊に訊ねると、皆殺しましたと云った。
 見ると、散兵壕のなかに、支那兵の屍骸が投げこまれてある。壕は狭いので重なり合い、
泥水の中に半分は浸かっていた。三十六人、皆殺したのだろうか。私は暗然とした思いで、
又も、胸の中に、怒りの感情の渦巻くのを覚えた。(後略)』





さて。
この記述からあと数ページで、『土と兵隊』は終わる。
火野伍長はずうっと足のマメに苦しまされている。
マメの痛さはみなさんもご存じでおいでだろう。
戦争中にたかが足のマメか!と思うのは認識不足である。
兵士たちは必ずしも、自分の足にあった靴を履くことは出来なかった。まして
戦争も末期になれば、死んだ戦友の靴を取って履き換えることさえした。
戦場の兵士の靴をめぐる話は、日本だけでなくいろいろ切実なものがあるが、まあここでは触れまい。
彼はマメをつぶして足の裏は平らになり、爪は黒くなって抜け落ちているが、
「それでも兄さんは自分の精神力を信じ、勇ましく前進していくつもりだ」と弟への
手紙に書き送って、そこでこの小説を閉じている。

だが実は、先日のNHKの『従軍作家たちの戦争』を見ると、火野葦平の、
戦争中に出版されたものには、上のシーンに続く記述のどこからかあとは、もともと
なかったのだという。
戦後、火野葦平は戦争協力作家として糾弾を受け、しかし逃げ隠れせずに、
自分の作品内で、戦中の自分の行為を厳しく見つめて行った。
実は、家族への手紙の中にも、自分がそうやって死に切れないで苦しんでいる
中国兵に頼まれて、銃でとどめを刺したことを書き送っている。そして、手紙の余白に
こう書いているのである。
「この手紙みんなに読んで聞かせてください」
従軍作家という役割上、作品には正直な戦争の実態は書けない。たとえ書いても
厳しい検閲に引っ掛かって削除させられ、自分も下手をすると安全でなくなる…
実際、当時出版された『土と兵隊』には、このとどめをさすシーンはない。
しかし、彼が残した従軍手帳には、このシーンと思われるメモの後に、火野伍長が
死にかけた中国兵のとどめをさしてやるシーンが実はあとから貼り付けてあったという。
彼はそのシーンを入れたものを、後にこの作品の決定稿と指示する。
私の読んだ、昭和28年発行、平成12年46刷の新潮文庫では、火野葦平の
指示通り、伍長が中国兵を撃つシーンが加えられている。

『嘔吐を感じ、気が滅入って来て、そこを立ち去ろうとすると、ふと、妙なものに気づいた。
屍骸が動いているのだった。そこへ行ってみると、重なりあった屍の下積みになって、
半死の支那兵が血塗れになって、蠢いていた。彼は靴音に気附いたか、不自由な姿勢で、
渾身の勇を揮うように、顔をあげて私を見た。その苦しげな表情に私はぞっとした。
彼は懇願するような眼附きで、私と自分の胸を交互に示した。射ってくれと云っていることに
微塵の疑いもない。私は躊躇しなかった。急いで、瀕死の支那兵の胸に照準を附けると、
引鉄を引いた。支那兵は動かなくなった。山崎小隊長が走って来て、どうして、敵中で
無意味な発砲をするかと云った。どうしてこんな無残なことをするのかと云いたかったが、
それは云えなかった。重い気持ちで、私はそこを離れた』


『土と兵隊』。
この作品が世に出されたのは、1938年(昭和13年)11月。南京攻略の
一年後くらいのことである。
日本が敗戦して、GHQによって、民主主義や、戦時の捕虜の扱いや、いわゆる
西欧の倫理観を我々は叩きこまれたわけだが、そういう意味で、火野葦平が
この作品を書いた時代は今の常識とは全くなにもかもが違っていた。
私達は今の時代に、彼を責めることが出来るだろうか。
沖仲仕の親方でありながら、港湾労働者のために労働組合を作ろうとしていた
若き日の火野葦平。
私は、人間というものは、本質においてそう変わるものではないと思っている。
戦地で野蛮に変わる人間は、やはりどこか、平時においても少しの残虐さを
持っていたのだと。逆に、平時に優しかった人は、戦時に、例え、上官の命によって
敵を殺すことを余儀なくされたとしても、その痛みは彼の胸に永遠に残るであろうと。
火野葦平を私は単純に戦争協力者、従軍作家の代表のような者として見ることが出来ないのである。
彼の内面はもっともっと複雑に思い乱れ、それをぐっと押さえて戦後を生きていたのではなかったろうか。

なぜ彼は、わざわざ、自分の戦争協力者としての罪の上に罪をさらに自ら塗り重ねるごとく、
この中国兵の苦しみに自ら手を下してとどめをさすシーンをつけ加えたろうか。
彼は戦後をどのように生きたろうか。それをもっと知りたいと思う。

大きな暗い空虚を抱えて、彼は自死するまでの日々を生きたのではなかったろうか。
亨年53歳。


『麦と兵隊』について次に書くが、こちらでは火野葦平という作家の
眼を、心を、もう少し突っ込んで覗いてみたい…






スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

Re: 鍵コメさんへ

鍵コメさ~~~ん!
ありがとうございます!
すごくうれしいです♪
昨日一昨日は、想像しただけでなんだかにこにこ。
不思議ですよね~~~!
あ~~~。嬉しいなあ……^^

Re: 愛希穂さんへ

愛希穂さん、こんばんは~♪

火野葦平。そうですよね~~~…お若い方はご存じないだろうと思います。
私の世代の者でも、実際読んだ人はどちらかというと少ないんじゃないかなあ。
私はやはり、同じ福岡出身ということと、兄のことなどもあって、シンパシーを
感じていました。
今でも覚えているのは、中学2年だったかな、夏休みに読書感想文の宿題があって、
うちは貧乏だったので、本など買ってもらえないし、と言って、公立の
図書館を利用するという知恵もなかったんです。というより当時、そういうの
あったのかなぁ…
もう、夏休みは終わっちゃうし、なんか読んで感想文書かなきゃならない。
そしたら、兄が、この火野葦平が芥川賞を獲った『糞尿譚』をちょうど家に
持ちかえってたんです。これ、各家庭の便所から汲み取りをする商売の男が
主人公の話なの。その頃は汲み取り便所で、それを集める仕事の人が居て、
それを農家などが買い取って畑とかに肥料として撒くのよ。^^

年頃の若い娘が読書感想文に『糞尿譚』かぁ…と恥ずかしかったけれど
他にないんじゃ仕方ない。読んで感想文書きました~~~!
そしたら、2学期始まって国語の授業の時、先生にとても褒められた!(笑)
いい出来のは皆の前で読まされるんだけれど、あんまり嬉しくなかったなあ!(爆)
何を書いたっけなあ。それはすっかり忘れたけれど、みんな、妙にし~んとして
聞いてたのだけ覚えています。(笑)
今の時代だったら、すぐ変なあだ名とかつけられちゃって、こそこそ言われてたかもね。

そんなこともあって、火野葦平は、私には懐かしい作家の一人です。

『革命前夜』。私も読みたいと思っています。
愛希穂さんに興味持ってもらって、それだけで嬉しいわ!
ありがとうございます♪

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

こんにちは。

火野葦平、初めて知りました。言葉では言い表せない葛藤を抱きながら、従軍作家として本を書かれていたのでしょうね。

どのような状況下であったにしろ、人をころした、ということを、戦争を煽るようなことを書いたことを、想像を絶する痛みとして心にずっと抱いていたのではないかと思います。

でも、戦時中、自分がしたことに対する罪意識から逃げずに、それを背負い続け、苦しみ続けることが、できるたった一つの償いと考えていたのでしょうか。

火野葦平さんのことを簡単に調べてみたら、『革命前後』という本を書かれていて、書評に「終戦前後の様々な混乱や作家としての戦争責任に向き合う苦悩が描かれている」とありました。そして、この本を書いた翌年に自死されたと。

「大きな暗い空虚を抱えて、彼は自死するまでの日々を生きたのではなかったろうか。」と彼岸花さんが書かれていることに、同じように思います。

まずは、『革命前後』を読んでみたいなって思います。




プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
リンク、トラックバックご自由に。

『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
最新記事
最新コメント
リンク
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QRコード