『火野葦平 「麦と兵隊」①』

『麦と兵隊』は、芥川賞作家で陸軍伍長であった火野葦平が陸軍報道部に引き抜かれて、
その命を受けて徐州作戦に従軍作家として同行した時の記録である。

徐州作戦は、日中戦争中の1938年(昭和13年)4月7日から6月7日まで、
江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本陸軍と中国軍(国民革命軍)
による戦いである。
徐州作戦の構想は、まず台児荘の北と北東にいる第10師団・第5師団が、
蒋介石の率いる約50万ともいう中国軍の大兵力を徐州付近に引きつける。
一方、第14師団と第16師団が微山湖西側から南下して徐州を目指し、
南から中支那派遣軍(第9師団・第13師団)が北上して中国軍を包囲するという計画である。
日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、中国軍主力を包囲撃滅することはできなかった。
(以降、日中戦争は否応なく泥沼化していく…。)

火野葦平は、この中支那派遣軍第9師団 吉住良輔中将の率いる吉住部隊と共に、
どうやら行動したようだ。軍報道部の主力や各新聞の従軍記者も全機能をあげてこの
部隊と行動を共にする、と書いてある。日記は、5月4日、火野が上海の、
この前の記事で出て来た、報道部馬渕中佐の部屋に行くところから始まる。
そこで火野は、第9師団高橋少佐宛ての書面を渡され、いよいよ前線に赴いて、
報道部高橋少佐のもと、従軍して記事を書いていくことになる。

季節は麦の実る頃である。広い中国の野は一面の麦、麦、麦…。
付近の部落の住民は逃げてしまっているので、刈り取る者もいないのである。
その海のような麦畑の間の道を日本軍兵士たちはひたすら行軍していく。
火野の乗った報道部の自動車は、行軍するそれらの兵士たちを時に追い抜き、
また、別の一隊と共に、徴発した部落内の仮の宿舎で寝泊まりなどしながら、
前線へ前線へと進んでいく。

蒋介石の軍は日本軍の進軍に連れて後退。戦闘で捕虜になった中国軍兵士を火野は
多数目にする。

『捕虜が入口の門の木の下に四人座っている。いずれも正規兵で、どれも慓悍で
頑丈な体格である。日本の兵隊が周囲に集って、中に少し支那語を操るのがいて、
色々と話しかけ、大声で笑ったり、又、煙草に火をつけて捕虜に銜えさせてやったりしている。
何時でもそう感じるのだが、私が、支那の兵隊や、土民を見て、変な気の起るのは
彼等があまりにも日本人に似ているということだ。(中略)これは、つまらない感傷に
過ぎぬかも知れぬが、これは、大きな意味で、我々と彼等とは同文同種であるとか、
同じ血を受けた亜細亜民族であるとかいうような、高遠な思想とは全く離れて、
眼前に仇敵として殺戮し合っている敵の兵隊が、どうも我々とよく似ていて、隣人のような
感がある、ということは、一寸厭な気持である。それは勿論充分憎むべき理由があると
思いながら、この困ったような厭な気持を私は常に味わって来たのである』


その少し前、火野は、別な衛兵所に繋がれている捕虜を一人見ていた。
その32歳、雷国東という名の捕虜は、火野の知人のAにそっくりだった。

生まれは湖南省。安い俸給で従軍して、戦闘中、気がついたら自分一人になっており、
日本軍の捕虜になってしまったのだという。財布には一厘銭と手紙が一通。
恋文であった。

『雷国東、我的親愛的哥哥、来手書十六号接得、心裏是娯楽的本意』
『我為儞肝腸想、我想為儞結為夫婦、我為総想百年偕老』
『情長紙短、千祈千祈回音、劉玉珍上言』 


『らいこくとう、わがしんあいなおにいさま、おてがみはじゅうろくにちににつきました、
こころはうれしさでいっぱい』
『わたしはあなたをしんからあいします、わたしはあなたとふうふになりたい、わたしはどうしても
ひゃくねんのちぎりをしたい』)
『じょうはながくかみはみじかし、きっときっとおへんじを、りゅうぎょくちんより』 


敵の日本兵に、恋人から来た手紙を奪われ読まれるのを、繋がれたまま、感情を押し殺した
無表情な顔で見ていたこの、慓悍な顔つきをした兵士は、生きて恋人のもとに
帰ることが出来たのだろうか…。

夜の行軍もある。

『前進していくうちに、曇っていた空は次第に晴れてきて、朧月がぼんやりした顔を見せ、
尚も、進んで行くと、次第に月ははっきりした面貌を表わして、晈々たる月明となった。
満月である。月光の中を何処までも続いた部隊が、何処までも続いて進軍していく』


想像してみるだけで、戦争中にもかかわらず、何やらもの悲しく美しい情景である。

5月17日。孫圩という城のある村落で戦闘はにわかに激しくなる。
城壁まで30メートル。敵は城壁の内に立て籠もって、城壁の上から銃眼から盛んに撃ってくる。
火野達は部落の家の陰に身をひそめるが、曳光弾があたりを照らしだし機関銃が家の壁や
屋根を撃ってくる。すぐに落ちると思った城はなかなか落ちない。こちらの攻撃は
城壁に阻まれ、向うからはこちらは丸見えである。兵は壕から出られない。
そのうち迫撃砲がどんどん撃ちこまれるようになる。最初は遠くを狙っていたが、
だんだん照準は定まって来て、火野達のいる廟のところまで届くようになる。
そこでもここでも死者や負傷者が出る…
火野は、ここでは兵士ではなく、報道班の記者なのだが、そんなことは見境なく
砲弾は襲いかかってくる。彼は死を覚悟。しかしその中でも、隙を見つけるようにして
従軍記録を書きつけ続ける。

『次第に廟に這いよって来た敵の迫撃砲弾はいよいよ正確な照準が定まったようである。
廟を繞(めぐ)って、続けさまに落下する。私は何回となく土煙を被った。私の周囲では
一発の砲弾の落ちる度に何人も死傷者が出た。(中略)
この穴には下士官は居なくて兵隊ばかりだ。(中略)私は、突撃が始まったら私に続いて
突撃するのだ、と兵隊に云った。私は分隊長のような気持ちになって来た』
『私は、既に、一日終るまで私の命があるかどうか判らなくなった』



しかし、さしも必死の中国軍が立てこもった城郭も、日本の増援部隊が続々と到着、
包囲網を狭めていき、戦車隊も着いて攻撃を激しくした結果、5月18日。ついに一角が破れる。
この、火野が居た孫圩城での戦いはしかし、徐州作戦におけるほんのほんの一部分にしか過ぎない。
同じような戦闘が、あちこちで繰り広げられていたのである。
報道部の高橋少佐は、人間味のある人物。新聞などには華々しく書きたてて貰えないこうした幾多の
小さなしかし命がけの戦闘の小さな記事を、いつも複雑な想いで見るのだ、というようなことを
火野ら従軍の新聞記者らに述懐する。

5月19日。徐州がついに荻須師団によって占領される。敵はいち早く逃げ去ったのである。
それより日本軍は、敗残兵の掃討、殲滅作戦にかかる。

火野報道班は、また進軍を続ける。まだどこまでも麦畑が続く中を、歩兵や車両や馬は
黙々と進軍していく。

『二十五里舗の城壁の前に掘られた壕の中に、支那兵の屍骸が山のように積まれてあった。
(中略)堆積された屍骸もまだ新しく、まだ血が乾いていない。屍体の間に挟まって
蠢いているのもある。私はこれを見ていたが、ふと、私が、この人間の惨状に対して、
暫く痛ましいという気持ちを全く感ぜずに眺めていたことに気づいた。私は愕然とした。
(中略)百に近い屍体で埋められている壕の続きに、沢山の土民が居た。女子供ばかりである。
何人かよぼよぼの爺も居る。まっ裸の子供を両手に抱えたり、乳を銜えさせたりしている女が多い。
痛ましい眺めである。彼等の不安の表情は正視に堪えないものがある。兵隊が子供に
熱量食の菓子をやっている。煙草をやる者もある。彼等は猜疑深い表情をし、なかなか
受け取らない。兵隊は大喝して銃剣を突きつけた。ようやく子を抱いた女は煙草を手に取った。
一口二口吸って、はじめて笑った。すると今度は外の者も笑顔を見せて、皆、煙草をくれと
云いだした』


よく、日本軍が戦地では悪いことをしなかった、兵は現地人に礼儀正しく慈しみ深かった、
という証拠として、日本軍の兵隊の周りに子供たちなどが群がり、ものを貰って
笑顔でいる写真などが掲載される。火野の描いたこういう場面を読むと、被占領民の
日本軍に対する感情が、そう単純なものでないということを知ることが出来るのではなかろうか。
日本軍兵士の前で子を抱いて煙草を吸って笑っている女の写真だけを見れば、彼女が
日本軍兵士と寛いで談笑しているように単純に見えるだろうが。

実は一方で、敵兵の中に土民が加わっていて、弾薬を運んだり壕を掘るのを手伝ったり、
兵といっしょに手榴弾を投げているのを目撃した者の話もここには載っている。
抗日思想は一般の民衆の間にも普及し始めている頃であった。

『我々の部隊は部落に残って土民を全部集めて避難させた。城壁の外側にある小集団部落には
百に近い正規兵の軍服が脱ぎ棄てられてあった。廟は避難民でいっぱいになった。老人や子供が
茶を沸かして我々のところにやって来た。(中略)廟に村長というのが居った。(中略)
通訳が色々と話をしている。(中略)この辺には蒋介石は来たことはない。李宋仁や外の
偉い奴は軍隊と一緒に来たことがある、茶なんぞ出してサービスがよいではないかと云えば、
いや、我々は日本人にばかりサービスをする訳ではない、支那軍が来れば支那軍にもサービスするのだ、
と云う。それでは両方来たらどうすると訊けば、逃げ出しますよ、と云って笑った。
なるほど仲々正直で食えない親爺だと思った。私は度々麦畑の逞しさに圧倒されたが、
その麦畑の主人こそかかる農民たちなのであろう。(中略)』

『しかしそれは支那軍が好きだからでもなければ、もとより日本軍が好きだからでも
なんでもないのだ』


5月21日。
『出発。廟に居た避難民が何時の間にか日の丸の旗を作って持っている。不格好な旗である。
縦に長い白布に四角い赤い布を縫いつけたのもある。煮しめたような白地である。
我々が行くとその旗をさし出すのである。(中略)部落の家の軒にも旗が翻っている。
「歓迎大日本」「歓迎親華勝利大日本」などと書いた赤紙が至るところに貼ってある。
(中略)纏足をしている老婆や、乳呑児を抱えている女や、等も皆旗を持っている。
(中略)一個所に女子供や老人が集まって避難しているところには、ぐるりと垣を作るように
旗を持ったのが取り巻いている。道路にずらりと旗を持って出迎えるのもある。
籠に卵を入れてきたり、鶏を何羽も括って来て、進上します、と云う』


火野葦平の書くこの光景。
中国の民が日本の旗を打ち振っていたからと云って、それが日本兵に対する親愛の情
であった、とはなかなか言えまい。日の丸の旗は、日本軍から自分たちの身を守る唯一の護符の
ようなもの。ズラリとそれを並べれば、女子供を守る結界のようなものになるとでも信じて
いたかったのだろう。
私たち日本人は、中国や朝鮮半島、また南方アジアの人々が、日の丸に対し抱く
特殊な憎悪感情を、彼等の執念深さや偏狭さのせいと考えがちである。
「一体いつまで、日の丸や旭日旗を怨みに思うんだ?いい加減にしろよ!」などと。
しかし、そこには、まだ、かつてこれらの地を侵略していった国民の、身勝手な視線しか
ないのではなかろうか…。
侵略された側の恐怖、怒り、諦め、怨み、…そういったものは、民族の血の中に
いわば体質的なもののようになって受け継がれ生き続けるのではなかろうか。

5月22日。
火野らの居る日本軍の一隊は、朔里店という城壁のある一寸した街で束の間の休息をしている。
城門には「歓迎大日本」「恭賀大日本」などとまた貼りだしてある。

その数日間で各所で日本軍に捕えられた中国軍の敗残兵は毎日千五、六百を下らないという。
5人10人とくる場合もあるし何百と固まってくる場合もある。
おかしいのは、深夜の行軍中、一人の疲れ切った日本兵が隣を歩く兵に声をかけたが返事をしない。
もう一度声をかけると支那語の返事が返って来た。日本兵は『敗残兵が紛れこんどるぞ』と
怒鳴る。すると列の外のところからも逃げ出す者がいる。彼等は当然全員捕虜となる…
飲まず食わずでひょろひょろに疲れ切った中国兵は暗闇の中、友軍の列だと勘違いして
喜んで加わったのだという。日本兵も中国兵ももうくたびれきっているので、
しばらく一緒に歩いていてもほとんど口を利かない。それでお互いに気がつかなかったのである…

なんとせつない話ではないか。暗闇の中ならば…、
旗や徽章や軍服などという、互いの違いを明らかにすることのない暗闇の中ならば、
友軍も敵もない…、人間は仲間という温かみを求めて、こうやって共に歩くのであるものを……。

火野ら報道班員は、報道部の上官・高橋少佐から、彼等の舞台は徐州作戦の任務を終えて
一応基地・蚌埠(バンプー)へ帰る、ということを告げられる。
『徐州に入城は出来なかったが、タンネンベルヒの大殲滅に匹敵する徐州作戦の
効果を大ならしめるに尠からぬ功績があった』と褒賞の言葉を得て。
タンネンベルヒの戦いとは、第一次世界大戦中の1914年、ドイツ軍が鉄道網などを
利用した素早い作戦で戦力2倍のロシア軍を包囲し、撤退させた戦い。
日本陸軍の戦いを世界に向けて宣伝する、という軍報道部の役割を十分に果たした、という
お誉めの言葉である。

一行は、居残ってなお中国兵の殲滅を続ける部隊の人々との別れを惜しむ。

『歩兵衛兵所に敗残兵が沢山来ていると云う。(中略)私は衛兵所に行ってみた。(中略)
奥の煉瓦塀に数珠繋ぎにされていた三人の支那兵を、四五人の日本の兵隊が衛兵所の表に
連れ出した。敗残兵は一人は四十位とも見える兵隊であったが、後の二人はまだ二十歳に
満たないと思われる若い兵隊だった。聞くと、飽くまで抗日を頑張るばかりでなく
こちらの問いに対して何も答えず、肩をいからし、足をあげて蹴ろうとしたりする。
甚しい者は此方の兵隊に唾を吐きかける。それで処分するのだということだった。
従いて行ってみると、町外れの広い麦畑に出た。ここらは何処に行っても麦ばかりだ。
前から準備してあったらしく、麦を刈り取って少し広場になったところに、横長い
深い壕が掘ってあった。縛られた三人の支那兵はその壕を前にして坐らされた。
後に廻った一人の曹長が軍刀を抜いた。掛け声と共に打ち降すと、首は毬のように飛び、
血が簓(ささら)のように噴き出して、次々に三人の支那兵は死んだ。
 私は眼を反らした。私は悪魔になってはいなかった。私はそれを知り、深く安堵した』



さて。こういう、後の我々から見れば、かなり内向きの感懐で、
火野葦平の『麦と兵隊』は終わる。






スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

Re:小西誠さまへ

小西誠さま。ありがとうございます。
先ほどfacebookもtwitterも御社のホームページも見せていただきました。
思いがけないことでびっくりしております。
私はfacebookをやっておりませんので、こちらでお礼申し上げさせていただきますね。

『書評』と言いますよりは、つたない感想文にすぎないものです。
まだまだ自分でも納得がいくものではありません。
火野葦平について、戦争について…もっと掘り下げたいところでした!^^
偶然ですが、『土と兵隊』『麦と兵隊』の書評では、『のたる』さまのを9月に読ませていただき、
深い素晴らしい書評だなあと思っていました。いつか引用させていただきたいと
保存してあるくらいでした。^^

こういう時代ですから、一人でも多くのかたに戦争の実態を知ってもらいたい…
多くのかたが火野作品を読んでくださり、それをきっかけにして、戦争について、
また昨今の世相についてちょっと立ち止まってお考えくださる…そうなればいいなと思います。
ささやかなブログですが、そのお役にたてるならこんな嬉しいことはありません。
ご紹介いただき大変光栄です。

このほど社会批評社さまは、火野作品「兵隊三部作」の集大成『密林と兵隊―青春と泥濘』復刻版、
新たにお出しになられたのですね。
私も早速読ませていただきたいと思います。また読後感などこちらで書いて
紹介させていただきたいと思います。

末筆ではございますが、
『見捨てられた命を救え』『フクシマ・ゴーストタウン』『復興支援ボランティア、もう終わりですか?』の
東日本大災関連本3冊が、第28回「梓会出版文化賞特別賞」を受賞。素晴らしいですね。
これらもぜひ読ませていただきたいと思います。^^

ほんとうにありがとうございました。


No title

すばらしい書評です。
勝手に紹介いたしました。どうぞよろしくお願いします。
https://www.facebook.com/

Re: 鍵コメさんへ。

鍵コメさん。お久しぶりですぅ~~~♪
お元気でいらっしゃいますか?
おうちの方は大丈夫と伺って安心しました。^^
わたしもぼちぼちやっています~。
参院選で再度がっくり来て、もうだめ~~~とかへろへろになってたけど、
何とか極暑の夏もしのいで生きてま~す!

毎日午後になると眠くって。(笑)なんだか仕事になりません。
鍵コメさんは、頑張りやさんだから、ついつい、無理しちゃっちゃ
だめですよ~。
コメントありがとう~~~♪


管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
リンク、トラックバックご自由に。

『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
最新記事
最新コメント
リンク
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QRコード