『火野葦平 「麦と兵隊」②』

私が日中戦争・太平洋戦争を描いた数多くの戦記物のフィクション、ノンフィクションの中で、
この火野葦平の『土と兵隊』『麦と兵隊』を最初に手に取ったのには理由があった。
いわゆる典型的な反戦文学ではないものを最初に読んでみたかったのである。
無論、国家の意を汲んだ戦争称揚の作品は読みたくない。
戦争賛美でも徹底した反戦でもなく、冷静に、いいことも悪いことも含め
当時の様子を活写したもの…。

しかし、それはなかなかない。
ご存じのように、日本は1893年の出版法、1887年の新聞紙条例、
1909年の新聞紙法等によって、出版・新聞等に対する国家による内容の厳しい検閲が行われていて、
日中戦争が勃発してからはさらに、作家も言論人も自由は封じられていた。
だから、純粋な意味で、戦前戦中における反戦文学というものは、本当に少ないのである。
私のように予備知識のない者は探すのに苦労するくらいである。
大抵の作家は、戦争の嵐がいつか吹きすぎるまで、頭を低くし口を閉じ、
筆を折ってじっと隠忍するか、あるいは国家の方針に従い、戦争遂行のプロパガンダの
作品を書くか…そのどちらかしかほとんどなかったと言ってもいいだろう。

戦後、そうした人々は、くびきから解放され、また作品を書きだすのであるが、
私には、戦中はそうやって積極的、消極的に戦争協力していながら、戦後になると
手のひらを返したように、戦中の自己を反省し、禊は済ませて新しく生まれ変わりました、とばかりに、
明るい作品や、戦争批判の作品を書いていった、変節の作家を、大変に苛酷な言葉だが
なんだか信用ならないと感じてしまっていたのである。
(だが、色々な、戦後に書かれた作品を読んで行くうち、ほんとにたくさんの作家が
戦中には書けなかった想いを吐露している…それらにも向き合ってみようと思うようになった。)

戦争称揚でもない、戦後になってからのご都合主義の戦争批判でもない…、
戦中の反戦文学はもともとほとんどない…
そういう乏しい選択肢の中で、どちらにも傾かず比較的、客観的に戦争を見つめた作品はないか…
そう思って必然的に辿りついたのが、火野葦平であったのである。

火野葦平の『土と兵隊』『麦と兵隊』。
どんな印象を受けられただろうか…。
彼は従軍記を書いたり講演をしたりすることによって、国民を戦地に向かわせた
ということで、戦後、公的にも私的にも随分厳しい糾弾の嵐の中に立つことを余儀なくされた。
しかし、私が最初にこれらを読み終わった時残った印象は、率直に言って、戦意高揚の
プロパガンダ性などほとんど感じなかった。
私に残った印象は、ただ、 広い中国の大地を、そこに張り巡らされたクリークの水や泥や
雨と戦いながら、ひたすら這いつくばって前進する日本軍兵士の姿。
そして何処までも続く広漠とした麦の畑の中を、
黙々と行進していく兵や馬や、トラックや戦車のシルエットである……

その雰囲気を、あれからおよそ70年、日中戦争・太平洋戦争などというものを知らない
若い方々に伝えたいと思って、こうやって当時書かれた文学に力を借りようとしているが、
言葉というものは、古くなっていく。引用しただけではその意味も雰囲気もわからない言葉が
続出してくるだろう。
例えば、両作品に『円匙』で土を掘る場面がしょっちゅう出てくる。
野営をするとき、円匙で穴を掘ってそこに寝る。行軍中には何度も敵の攻撃を俄かに受けるが
敵が掘ってうっちゃって逃げた塹壕や味方の先に行く隊が掘った塹壕があればいいが、
そういつも都合よく何処にでもあるわけではない。頭を低くさげて地面に這いつくばったまま、
少しでも敵の銃弾から身を守るために、自分の周りの地面をこの円匙で掘るのである。
少しでも、ほんの少しでも、自分の頭を低くして、弾にあたらないようにするために…。
私は古い人間なので、大抵の用語は分かるし、そのイメージも描けるけれど、この円匙は
実感が持てなかった。
丸い匙?…小さなスプーンで人間が隠れられるほどの穴を掘る?

検索してみると、あった!
『円匙』(えんび。正しくは、えんし)。
http://www.日本の武器兵器.jp/archives/2732
なるほど!円匙とは、いわゆるシャベル、スコップの類のことか!
そうだよなあ!お匙では土を掘るのは大変だよなあ…
このサイトでは、兵隊の必携品であったこの円匙を背嚢(はいのう。背負い鞄)に入れた兵士の姿が
見てとれる。これが正規の装備で30キロ以上あったという兵の持ち物の実際の姿だ。
背嚢の中には、およそこんなものが入っていた。

携行口糧甲4日分(米840g(精米640g、精麦200g)、牛肉缶詰、乾燥野菜、漬物、粉味噌等)
携行口糧乙1日分、(乾パン675g、金平糖10~20粒、缶詰肉150g、食塩12g)
缶詰3(上記と別)。
干魚1日分。空腹を紛らすため、鰹節をかじるシーンが何度か出てくる。
梅干1日分、被服(襦袢、袴下)
歯ブラシ、カミソリ、裁縫道具、包帯など日用品は、雑嚢に入れる。
被服はそうした下着のほかに、それから、小さく丸めた毛布一枚もある。
現地は水が悪いというので、ビール瓶に日本の水を詰めたのも『土と兵隊』では出てくる。

これらのほかにさらに、当然のことながら、銃や軽機関銃。弾薬盒を前に2、後に1、
弾薬実包120発、鉄帽(ヘルメット)、防毒面、件の円匙(スコップ)、飯盒、水筒、
地下足袋。
その他に携帯天幕や外套を持つこともあった。一体全体で、どのくらいの重さがあったことやら!

1945年、20歳の日本人男子の平均身長は165センチ(ちなみに女子は153センチ。
1995年には男子171センチ、女子158センチ)。
今より、5,6センチは小柄な体で、この重い装備を身につけ、兵隊は、
中国の広漠とした大地を、あるときはクリークを体どっぷり泥水につかりながら渡渉し、
窪地を跳び渡り、雨の中を濡れ鼠になって行き、また、地に這いずりしながら進軍して行くのである。

『土と兵隊』では13人の部下を持つ小隊長として。
『麦と兵隊』では、ともに行軍する従軍作家として。
火野葦平の視線は終始、作家の冷徹な眼を保ちつつ、いわば…、人情味はある。
それは、味方の日本軍兵士に対してだけでなく、捕虜になった中国軍兵士に対する眼も、
行く先々で束の間交渉を持つ中国の農民や女、子供に対する観察も同じである。
捕虜になった中国兵4人を囲んで、日本兵で支那語のできるのが話しかけてみたり、
あるいは、煙草に火をつけてやって、繋がれた彼等の口に銜えさせてやったりする光景は、
ああ、戦場にあっても、人間というものはこうだろうな、と思わせる説得力を持つ。
どこの戦争のどこの戦地でも見られた光景なのではなかろうか。
大岡昇平『野火』では、逆に飢えと乾きと病に半死になった日本兵捕虜が、アメリカ兵に
煙草を銜えさせてもらうシーンが出てくる…。
戦闘が終わり、国家というものを背景に背負っていない状態の兵士と兵士は、
温かい肉体と人懐っこい心を持った一人間と一人間でしかないものを…。

人に向けられる視線だけではない。
道々、見ながら通り過ぎていく中国の農村の風景にも、夜、浅い穴に身を横たえて仰ぐ
星の光にも、殺伐とした戦場であることなど関わりなくふっと飛んで消える蛍の光にも、
兵士と苦楽をいわば共にする馬たちにも、途中で挑発する鶏や豚やアヒルなどにも、
飛来する中国軍の弾に当たって死ぬ農家の驢馬たちにも(何で死ぬのかわかっていなかったろう…)
火野の素直な観察眼は向けられる…。

私は、他にも林芙美子等、数人の従軍記を読んだ。それらだって兵士たちの労苦を
描いていないわけではないのだが、この、火野の2作品は、兵士たちに対する、
そして、敵味方関係なく、およそ生きているものへの視線が、他とちょっと違うような気がするのだ。
『優しい』『温かい』などという単純な言葉では表しきれない…何か、根本的な、生きとし生けるものへの
シンパシーとでも言おうか…。
これは、そうあってほしいという、私の思いこみのせいなのかしれないが、
私はここに、自らは沖仲仕という港湾労働を仕切る組の親分でありながら、その労働者たちの
ために組合を作ろうとしていた、若き日の葦平の眼差しをなぜか感じるのである。
前の記事で、東電の例を引き合いに出したが、自分等の会社で一番危険でつらい仕事をする
4次、5次、6次…の派遣原発労働者…それらの人々に対する、経営者、また上級正社員の視点には、
こうした、同じ人間としてのシンパシーなど、感じられはしない…。
まさか組合を作ってやろうなどと、そんなことは思ってみもしないだろう…

人間の本質というものは、戦地でも根本的にそう変わりはしないと私は思っている。
戦場では、人間が変わると一般には言われている。
上官に命令されれば、心にどれほど抵抗を感じていても、ひとは捕虜を刺し殺したり、銃で殺したりする。
そうしなければ、自分が軍隊という厳しい場で生きていけないからである。
しかし、これを命令したり命令されて喜び勇んでやる人と、深い苦悩を感じつつ、戦争というものの残酷に
自分も従わねばならないことを呪いつつ、心のうちに手を合わせて捕虜を処刑する人との
間には、大きな大きな一線というものが画然としてあるように私は思うのだ。
前者はおそらく、概して、終戦後日本に帰った後も、心にあまり痛みは感じないで生きて行ったであろう。
後者は、その胸の内に深い傷を抱え、ある者は戦争に関して一切口を閉じて語らぬまま、
ある者は、贖罪の活動をしながら、一生重たい想いを抱えて生きて行ったのではなかろうか。

私は、火野葦平は、後者の人であったと思っている…

これは、いわゆる反戦文学ではない。
しかし、と言って、これが、戦争に深く加担した、国威高揚のための文学だとも思えない。
読んだ後の感じは、むしろ静かな作者の怒りである。そして兵や民への共感である。
これは、火野葦平が、自ら戦場に身を置いて、伍長として部下と共に戦った経験、
激しい戦闘の実態も、また、奪われる側の暮らしもつぶさに経験している、そのことが
自然にそうさせているのではないかと私は思う。
これは想像や聞き書きではない。作家自らが眼で見、経験したことなのだ。

『麦と兵隊』の冒頭シーンに近いところ…火野が従軍作家としての命を受け
上海から、戦場に近い基地・蚌埠まで十二時間軍用列車で行くシーンがある。
延々と続く麦畑、走り去る楊柳とアカシアの並木。望楼の上で見張りをしている兵士。
粗末なにわか作りの警備小屋から、ゆっくり進む列車の兵士に向かって帽子や手を振る日本軍兵士の
姿や、こちらの軍用列車の上からも、「煙草やろうか」と言って、『バット』(軍配給の煙草の名)を
投げて渡す姿などを彼は見ている。
煙草は、戦場の兵士たちにとってどれほど大事な有難いものだったことか…。
戦いが一息ついては煙草を吸い、つらくて吸い、疲れて吸い、捕虜にも差し出す…。
そういう現地の兵たちの労苦に思いをいたしながら、一方で彼は、
支那事変勃発直後こそは、さすがに内地日本の銃後の国民も緊張していたけれども、
それからしばらく経ったここに至っては、内地の空気は甚だしく弛緩しているという、
内地に一度帰った者の戦地での噂話を思う。
そして、これだけの大がかりな戦をしながら、内地はそんな戦のことなど思わぬげに
のんびりしているという国民の鷹揚さを許容する気持の一方で、
戦場の実態を知らない「『軽薄な国民に対する憤り』も胸の底から湧いてくるのを禁じ得なかった」
と書いているのである。

私は、このあたりに、火野葦平という作家の、本質的な部分が垣間見えているように
思えてしかたがない。
『土と兵隊』『麦と兵隊』は、
彼自身が他の作家の従軍物語を指して言ったように、『感動的な言葉を持って綴られた、
戦場に於ける、血沸き肉躍る壮烈な武勇伝や、忠勇鬼神を哭かしむる美談や、面白い物語や、
雄渾な構想を持った事変小説や』などではけっしてない。
と言って、明らかな反戦を意図したものではない。
しかしながら、その淡々とした戦場描写に、私は、なによりも強く、どの作品よりも強く、
『戦争はごめんだ!』という思いを抱いた。
おそらくそれは、これらがフィクション性を極力排した、正直な戦場の記録であるからだろうと思う。
無論、これは、一日本軍兵士、一作家の視点でしかない。中国側からの視線はないのだけれども、
それでも。


この作品は、反戦だの戦意高揚文学だのの範疇を超えて、何か、戦後の、
それこそ銃後にいた人々の『軽薄な』批判など許さぬような強さがあると私は思う。
そう言った意味で、これからも多くの人に読み継がれて欲しいと思う。

私は、火野葦平という作家が、このように戦場の経験をありのまま書きとめてくれておいた
ことを、ありがたいと思う。ほんとうは、どれほど口を噤んでいたかっただろう。
ほんとうは、どれほどもっと語りたかっただろう。
彼自身の言葉によれば、『ここに書いてあるだけのことを、私は戦場で見て来たわけではない』
『ここに表現されているのは、書きたいことの十分の一にすぎない』

でも、私は、この2作品で十分だと思うのだ。
戦争というものがどういうものか…
それは、なにも声を高くして激越に語らずとも、この淡々とした従軍記の、行間に、
まさに、行と行の間に、こんなに切実に読みとれるではないか!!


火野葦平。終戦の15年後、『革命前後』という自らをモデルにし自らの戦争責任について
記した作品を書きあげて後、どんな気持ちを抱いて53歳の誕生日の前日、自宅で睡眠薬自殺を
遂げたのだったろう。

彼はどんな想いで、自分の人生に区切りを付けたのだろうか。

                *

『はだしのゲン』が、松江市の各小中学校の学校図書館で、昨年12月以来閉架扱いになっていた
というニュース。
日本軍兵士が中国兵の首をはねるシーンや、女を襲うシーンが出てくるのを、子供に見せるのは
どうか、ということらしい。
きっかけは、ある男性から昨年8月に市議会に出された陳情書だった。
「ありもしない日本軍の蛮行が掲載され、子どもたちに悪影響を及ぼす」と、学校からの撤去を求めていた。
陳情は不採択となったが、一部市議から「不良図書」だとして市教委が適切な処置をすべき
だとの意見があり、閲覧制限の指示につながったのだという。
下村文科相も、この措置を『問題ない』と認識しているという…

『ありもしない日本軍の蛮行』と最初に投書した男性。その意見を結果的に取り上げて、
閲覧制限に至らせた一部の松江市議、市教委、そして各小中学校、さらに下村文科大臣は、
『はだしのゲン』のそうした日本軍の蛮行の描写を、『ありもしない』ことと、やはり
同じように思ったのだろうか。
…こういう大人にこそ、私はこの火野葦平の『麦と兵隊』『土と兵隊』や、
次に私が取り上げてみようとしている石川達三『生きている兵隊』などを読んでほしい。
これらは決して反戦、反動、反日の文学などではない。しかし、その中には、
日本軍の蛮行がくっきりと描き出されている。
『ありもしないこと』などでは決してないのだ!

日中戦争における日本人の死者は45万人とも。
一方の中国側の死者ははっきりしない。1985年、共産党発表では、軍隊の戦死者100万人、
民間人2000万人、計2100万人というが、この数字は不確かにしても、日中戦争の
戦場となった中国の側に、比べ物にならない多くの死者が出、多くの経済的損失があったことは
否定できないだろう。
語られぬ死、名前さえ知られぬ死が、どれほど中国側に多くあったことだろう……
これらのことを、私達は見ないように無視して、忘れて通り過ぎることは出来ないと
私は思うのだ。


なお、余談であるが、私が尊敬する、ペシャワール会医師、中村哲氏は、火野葦平の甥である。
半年ほど前、私はそのことを知った。
戦火のアフガニスタンで、医療、水源確保(灌漑用井戸掘削・水路建設)、農業支援などの
活動を行っているこのひとの肝の据わりかたというのか、なんという覚悟の出来た見事な人
だろう!といつも思っていたが、、火野葦平とのつながりを知ったときは、驚きもし、
なんだか嬉しかった。
中村哲氏については、いつか記事にしたいと思っている。




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Re: えめるさんへ

えめるちゃん、久しぶりにようこそ。^^

ほんとに、きな臭い風が吹きだしましたね。わずか2年ほどの間に、こんなに
変わるか、と思うくらい、この国が変になっていっている…

戦争関連の本…いつでも、そんなこと気にせずにいらしてください。
私もこれからもまた、自分が読んだ本なども紹介して行きます。

福島菊次郎さんのドキュメンタリー映画、ご覧になったのですね!
私、見損ねてしまいました。
福島菊次郎さんは、多分、デモの時、一度お見かけしたことが
あるように思います。道端に座り込んで、カメラの用意?してらしたのかな。
福島菊次郎さんのことも、一度記事にしたいなあと思いつつ、まだ書けないで
います。
えめるさん。いいのご覧になりましたね~。

そうなの。社会が偏向しないようにするには、ジャーナリズムと教育が
とても大事なのだけれども、今、この国は、その二つが怪しくなっていっている。
教育は、子供の白紙状態に近いこころに色を染めていくので本当に
心配です。どちらの考えを押しつけるというのでなく、歴史の見方を
知る子を育てていって欲しいです。

『しかも大人も子供もスマホにやられて、何だかアホ街道まっしぐらに見えます…… 』

あ、えめるさんも、スマホいじってる姿が好きじゃないのね!(笑)
私は、携帯を耳にあてて人が歩いてる姿さえ、どうも好きじゃなかったけれど、
大人までがスマホを夢中になっていじってる姿…なんかほんと、好きじゃない。
これ、すごく控え目に言ってるんだじょ(笑)。

『こ、こりゃクソ真面目に^・ω・^ニャんとかせんといかんな』

ほんと。ほんとだにぃ。ニャんとかせんと。^^




こっちの方からこそり失礼します
戦争が遠くなったはずの日本に、今また新たな(嫌な)風が吹き付けようとしていますね
私は戦争関連の本は海と毒薬、蛍の墓しか読んだことがないので
コメントするのもなんかスマン気がするのですけど^・ω・^来ちゃったw
でも、福島菊次郎さんのドキュメンタリー映画をみて
日本人がいかにだまされてきたかを知る機会を得ました
その時の感想は、言葉が悪くてすみませんが「チ、チクショーッ(泣)」だったんです

正しい歴史を知ることが大事ですけど
今の教育現場にはあまり期待できなさそう
しかも大人も子供もスマホにやられて、何だかアホ街道まっしぐらに見えます……
こ、こりゃクソ真面目に^・ω・^ニャんとかせんといかんな

Re: NANTEIさんへ

NANTEIさん。おはようございます。

いえいえ。ただの読書感想文。^^
ただ、今の若い方は、戦争の実態を体感覚で知ることができません。
私も戦後生まれで、戦争は知らない世代ではあるけれど、それでも小さい頃、
『尋ね人の時間』などを延々とラジオで聞き、傷痍軍人を間近に見、
軍歌も常にどこかで流れていて、幼いながら、戦争は、人の普通の生活を奪うもの
と言う実感はありましたものね。
自分で戦争体験は語れずとも、先達の書いた文学に力を借りて、戦争の実体を
少しでも伝え残しておけたらと思ってやっています。
古い昔のことでは決してない、歴史認識の問題は今の問題ですものね。

NANTEIさんは、歴史を系統的にお読みになってらっしゃるんですねぇ。
それ、絶対必要ですよね。ヨーロッパの戦史も7割もお読みとか。
私も世界史で受験したのですが、ほんとに、上っ面の知識だけ。
私も一応英文学科でしたので、イギリスの王朝の歴史などはざっとやりましたが、
非常に面白かったです。
でも、そこでストップ。他の地域はほとんど知らないに等しい。
とりわけ、中国・朝鮮のあたりは、弱いのです。
だから、一から勉強しなおし。^^

戦争文学、戦争もののノンフィクションは、南方でのものは結構読んでいましたが、
中国戦線のものはまったくと言っていいほど読んでなかった。
だから、自分でも驚きつつ読んで行っています。

司馬遼太郎さんの映像。見せていただきました。
ノモンハン事件の時に、戦車隊として従軍なさってるんですね。
兵隊は、戦争の実態を一番よく知っていますね。
この映像でも、司馬さんと同期で共に訓練受けたという方の証言は
生々しいですね。アメリカの戦車砲は2キロも飛ぶ。ところがこちらは600メートル。
しかも訓練中、一度も戦車を動かしたことがない。どうしても戦車が動かなかったのだと。
こんなお粗末。兵士が一番よく知っているんですよね。
飛行機の方もひどいですよね。
私は特攻のことをかつて調べていたことがあると前にお話ししましたが、
特攻機のお粗末さと言ったら。訓練中に機のせいで死ぬ若者が沢山いた。
それでも飛び立たないといけない。敵戦艦に届く前にはるか手前の島に
不時着したり、海に落っこちたり。それでも基地に戻っていくと、また特攻に行かされる。
無事飛びたてても、爆弾を積んで重くなった機はスピードが遅いから、アメリカの
精鋭機にかなうはずがない。かわいそうなものです……

司馬さんは、それほど大東亜戦争の資料をお集めになっていらして、どうして
『書けない…』とおっしゃって、書かないまま世をお去りになったですかね…

何となくですが、わかるような気もします…。
司馬さんがノモンハン事変を調べて、生き残りの人々などに会っていく過程で、
作戦課長だったという元陸軍中将に取材する話が出てきますね。その人物のいい加減さ…
「ああ。こういう人物が作戦を立てていたのかと…」と思う。
…そういう失望感の積み重ねが、昭和の戦争については書けない…とおっしゃった
そのことにつながってくるのじゃないでしょうか。
あまりにもひどい装備…あまりにもひどい上層部の実態…
そして、3/3の冒頭でおっしゃっていたように、日本は記録も杜撰だったのでしょう。
つい最近、終戦後すぐに宮内省が出した証拠書類の焼却処分の命令。その命令書が
見つかったという記事が朝日新聞に出ていましたね。

もともと司馬さんが指摘なさるように、正確な書類を残して置くことへの自覚が
乏しいところへ持ってきて、終戦後、GHQの追及を恐れて日本中で証拠書類の
隠滅が行われたわけですから、大事なところの記録が全く抜け落ちていてない、
などということにしょっちゅうぶつかったでしょう…
司馬さんがお怒りになる、その参謀本部などの、いわば軍の官僚などのいい加減さは、
今も直されずに引き継がれていますね。
原発関連の会議だって、議事録を取っていない、なんてしれっとして言うことがたびたび。
普通の会社でそんなこと考えられないですよね。いや、小学校の生徒会だって、議事録はとるでしょう。
意図的に記録を残さないのか、実はあったんだけれど、ない、と言い張って済まそうとしているのか…
官僚化した機構のそうした杜撰体質、隠ぺい体質は、今も昔も少しも変わっていないのでは。

それはでも、実は、上層部だけでなく、下部組織も同じことだったのかも。

今、盛んにいろいろ読んでいますが、当時も今も、ジャーナリズムはなにしてたんだろう!
という思いは強くなる一方です。まあ、ジャーナリズムは常にその大勢は、時代を迎える方向に
動くものだということは承知していますが、それでも、一部の気骨あるジャーナリストは
いただろうに。
それ以上に私が情けないと思うのは、言論人、…批評家や作家たちです。
原発事故のことも、早々からきっぱりと意志表明して動いてくれたのは、大江健三郎さんなど
ごく一部の作家、評論家でしたよね。
今、改憲の危機に対する言論も極めて弱いです…。
火野葦平の時代は、さらに官憲による言論統制が厳しかったわけで、反戦文学というものを
探すのにも苦労します。当代の一流の言論人たちが黙り込んじゃってるんですよね…
誰と名前は挙げませんが、そういう人々が戦後、どんなに立派なことを書いていても、
もう、なんだかしらじらしいなあ、と思ってしまいます…
そういった意味で、火野葦平は、いわば、正直です。
実際に兵として戦った感覚をそのまま書き残しておいてくれている。これは貴重です。

民衆の盲動も、自分のその一人ではあるけれど腹立たしいものですよね。
牧野伸顕(吉田茂の義父ですね)の回顧録からのエピソードも、さもあらんという感じです。
その英国人女性の目は確かでしたね。
その予言通りに、日本は、国力も考えず、愚かしい戦争に突っ走っていく。
精神論だけで戦争に勝てるはずもないのに、本当に戦争の最末期まで、
まだ精神論で戦え!と上層部は兵を無理やり戦闘に送り出します。
そういう連中に限って、戦後おめおめと生き残って、国の結構中枢にいて
この元中将のように戦争については口を拭って生き抜いていくんですよね…。
その陰でどれほど多くの無名の兵隊が、虚しく死んで行ったことか!
戦争のことを調べて行けばいくほど、無能な政治家、無定見な指導者のもとで
しかもジャーナリズム、言論人が社会の木鐸としての機能を果たさなくなったとき、
不幸になっていくのは無名の大衆なんだけれど、その大衆自身がそれに気付かず
むしろ不幸の方向へ雪崩打って突き進む…その怖さを思い、
今の時代が何となくそれに極めて近似しているのに危機感を抱く毎日です。

司馬さんが日中・太平洋戦争を描かなかった、というのは残念ですね…
どんなにつらくてもそこを正見して、日本人のそうした弱さも愚かさもあぶり出しにして
欲しかったなあと、NANTEIさんのこのコメントを読ませていただきながら、私も思いました。

コメントいただきありがとうございます。
私は今、まだまだ勉強中で~す!
何かちょっと読むたびに、眼を見開かれます…









こんにちは。

非常に重厚な大作。
まずはお疲れさまでした。
とともにその筆力に、心から敬意を表します。

私の読む書籍は歴史書が多いので、当然歴史を塗り替えるようなあまたの戦争の記述にも触れ、
そのため独立した「戦記」にも目を通すようになりました。
古くはカエサルの「ガリア戦記」から、フリードリヒ大王が記した「七年戦争」など、
ヨーロッパの大きな戦争史の7割は読んだつもりで、もちろんこの国の数々戦いの歴史もだいたい頭に入っていますが、
それはあくまでも戦争の経過を知るだけに留まっています。

日本の戦争文学といわれるものも児島襄、吉村昭などの、
即物的ともいえる「戦争」の経緯を記したものばかりで、
一兵卒、あるいは従軍記者の目で見た生々しい戦争の実態を描いた作品には触れてないので、
今回の彼岸花さんの記事には衝撃を受けました。

ただ私は火野葦平さんや五味川さんとは視点が全く違った作家に、大東亜戦争のことを書いてもらいたいと、
長い間渇望していました。

その作家とは司馬遼太郎氏です。
司馬遼太郎は戦車隊の幹部候補として満州に出征し、、
自分の連隊がノモンハン事件で壊滅的な敗北を喫した事を知ります。

後年、このことが契機となってノモンハンに関与した軍上層部への取材や、膨大な資料の収集にあたるのですが、
どういうわけか一行も書くことができなくなったと聞いています。

そのことは下記のドキュメンタリーで司馬さん自身が述べておられます。
http://www.youtube.com/watch?v=fm28fP-SsNo
「ノモンハンと昭和」を開いてご覧になってください。

一方、 NHK教育テレビで司馬遼太郎が昭和61年から語っていたことを、
本としてまとめた《「昭和」という国家》には、このようなことが書かれています。

参謀本部という組織が国家の中枢に居すわった。
この仕組みは、さかのぼれば、日露戦争の勝利が始まりのときであった。
ここから日本はいわゆる帝国主義の道を歩み始めたのだ。日本国民は日露戦争に完全に勝ったと思っていた。
だからロシアからたくさん金を取れ領地を取れといった。
日比谷公園に集まった群衆はほうぼうに火をつけたりした。
この群衆こそが日本を誤らせたのではないかと、司馬は言う。
日比谷公園の群衆は日本の近代を大きく曲げていくスタートになったと。

軍部および政府は日比谷公園で沸騰している群衆と同じように――
戦争の状況を全部知っているにもかかわらず――不正直に群衆のほうにピントを合わせる。
もしそのとき、勇気のあるジャーナリズムが日露戦争の実態を語っていればという。
満洲の戦場では、砲弾もなくなっていた。これ以上戦争が続けば自滅するだろうという、きわどさだったのだ、と。
正直に書けば、日本はその程度の国なんだということを、国民は認識しただろう。

牧野伸顕(大久保利通の子ども)の回顧録から、忘れられないエピソードが引かれている。
昭和2年ごろ、日本に長く住んでいた英国人女性が帰国することになり、横浜のホテルでささやかな送別会が開かれた。
その女性は評論家であり、列席した十数人の日本人は各界の重鎮。
誰かが彼女に「日本はどうなるでしょう、あなたの意見を聞かせてほしい」と聞いたそうだ。
すると彼女は「滅びるでしょう」と答えたという。

ヨーロッパの国々は生まれつき比較ということを知っている。
たとえば軍事であれば、フランスはナポレオンの昔から砲兵が得意と。歩兵はドイツのほうが上であると。
フランス人も知っていてドイツ人も知っている。
イギリス人は陸軍はさほどでないにしても、海軍は大変なものだと、どこの国でも知っている。
そうやってヨーロッパ人は比較して物事を考えるのが自然と基礎になっている。

やがて日本では軍人が政権をとるでしょう。
日本の軍人は、地方から出てきて幼年学校に入り、
士官学校、陸軍大学と閉鎖社会で育ち、日本陸軍が世界一だと思いこんでいる。
比較を知らない人たちが政権をとった場合、日本は滅ばざるを得ない。そう彼女は言った。

日本のジャーナリズムは、自国を解剖する勇気を持っていたか。
日本海海戦の勝ち方にしても、こういうデータがあったから勝ったのだということを、
冷静に客観視して、自分を絶対化せずに相対化するジャーナリズムがあったらなと思う。
そういうレベルの言論があれば、太平洋戦争は起こらなかっただろう。
日本軍は満州事変以後、自己を絶対化することによって国を誤っていったのだ。

まさに日露戦争以降の歪んだ日本の本質を、ずばり言い当てている気がします。
司馬史観には批判も多いのですが、こういう慧眼を備えた人にもっと大東亜戦争について書いてもらいたかった。
それが悔やまれますが、これも稀有な作家の懊悩の結果だと思うと止むを得ないことかもしれません。

彼岸花さんの大作への感想には全然なっていないこと、お許しください。

Re: 鍵コメさんへ

嬉しいですね!^^
なんだか、初心に戻れ、って私も言われているような、
新鮮な気分です。
お知らせ、ありがとうございま~す♪

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Re: 26日の長い鍵コメさんへ

鍵コメさん、こんにちは。
いえいえ、長いのはいくらでも平気です。(笑)

ここに書いてくださったこと、非常にわかりやすく、首をうんうんと
頷かせながら読ませていただきました。
とりわけ最後のところあたりは、私がなんとかして伝えたいと思うことの
核心を、ピンポイントで表現してくださっていて、本当にうれしく思いました。

そうなんです。調べて行くと、私のような浅学の者にも、ああ、ここが時代の分かれ目だったなあ、と
思うようなことはいくつもある。でも、また状況はめまぐるしく変わり、ほんとに
善悪などの本質が見えにくくなってきてしまいますね。
でも、どうしても譲れない一線というものがある。それは例えば、『人をころすな』
とか、『人の財産を奪うな』とか『女を暴力で犯すな』とかいったことです。
その視点から歴史を見て行けば、日本軍がただ悪いとか、中国や朝鮮半島の人々は善だとか、
逆に日本は悪くないとか、そういう議論の虚しさはよく見えてくる。
そんなことを言いたいわけじゃないんです。
悪いものは悪いんだ!ただそれだけ。時代も国も関係ないです。

そういった意味で、原発問題も、TPPも、皆、構造が似ているんですよね~~~。
今、TPP交渉が盛んに行われていますが、私ね、弱い小さな国が、不平等な
約束を負わされなければいいが、と思っています。
日本が単に損しなければいい、というふうには考えられない。

今日は、件の黴臭い古本を、思いきり、太陽に曝しています。(笑)

ありがとうございま~す。

Re: 玄少子さんへ

玄少子さん。こんばんは。^^
昨日、コメント入れさせていただきに伺ったのですが、なにかFC2コードに
ひっかかる言葉があるらしく、いくら●などで区切ったり、カタカナで書いても
送れない。じゅうぐんいあんふ、なんて引っかかりそうな言葉、書いて
ないんですけれどね~。何がいけないのかなあ。後でもう一度試してみます。^^

黒島傳治。つい一週間ほど前に、私ようやく知ったんです。
玄少子さまはとっくの昔にお読みになっておいでなのですねえ。さすがです。
これを読んでから、小豆島を訪れれば、また違った感慨があったろうかとも思いますが、
旅の記憶を蘇らせながら、読むのもまた興味深いです。
『武装せる市街』は、古本を買ったのですが、それが非常に黴臭いこともあり、
ちょっと読むのを中断しています。
カンカンに晴れた日に、陽干ししてから読みます。
ここに書かれたあまりにもひどい当時の状況と、あまりの黴臭さでまいっちゃって、
なんだか陰々滅々とした気分になっちゃいますんで。(笑)

私、本当に何も知らなかったんだなあと思います。
教科書などは上っ面をさあっと撫でて行くだけですものね。表の歴史の陰で
生きていた民衆の悲しみや苦しみや喜び…そういったものは、やはり文学によって
知るのが一番かなあと、あらためて思いました。
無論そこには、装飾や演出や切り捨ては施されていて、過剰や不足はあるのでしょうが、
それと、歴史を動かして行った人物たちの往来や行跡などを重ね合わせて行くと、
かなり正確な、その時代時代の空気が分かってくるように思います。

ただ、あまりにも激動の時代でありすぎて、まだ、私には、大きな流れが
掴めていません…。
今日ここに書いてくださったことをヒントにして、これからこつこつ勉強していかねば、
と思います。とりわけ弱いのが、中国や韓国側からの視点です。私にこの知識が抜けているために
どうも曖昧なことが沢山出てくる…
日本人が書いたものだけ読んでいても、どうも今一つかゆいところにずばりと
手が届かない…最初から勉強しないとダメみたいです。^^

後、もっと知りたいのが、欧米列強の罪です…
どうも根本を辿って行こうとすると、そこにどうしても辿りつく。
それは、今のエジプトのありさまなど見ていると、少しも変わっていないんですよね…
表面の戦争や、事変だけを見ていると、見えてこない、見落とすものがある気がします。

いくつも事変や事件と名のつくものがあって、そのたびごとに日中間、日韓間は
のっぴきならなくなっていくのだけれど、その一つ一つの事件や事変の真相も
まだほんとうには解明されていないものがほとんど…

でも。

『陸軍の軍人が,敵意と侵略の意をむき出しにしていったきっかけが「済南事件」である
という整理もできる,そのように思います。
これらの事変ごとに人物を見ると,たとえば「済南事件」でたたかった部隊と,中でもとくに痛めつけられた(ふくろだたきにされた)部隊の若い士官と「南京虐殺」の上官がおなじ人物であったりする,というようなことですが,“憎しみと復讐心が暴走した”,ことがあぶりだされてくるようにおもいます。』

と玄少子さまが、まさにお書き下さったように、日中戦争から太平洋戦争へとずうっと
視点を向けて行くと、確かに、同じ人物が、つまり同じ政治家や同じ軍人などが、
ある時は盧溝橋に居、その後偉くなってフィリピンに居たりする…

結局は、戦争というものは、国家などという無生物であるものが引き起こすわけではない。
一人一人の個人が起こすものなのだと、つくづく思います。
一人一人の人間の偏執的な憎しみや、怨みや、支配欲や、物欲や名誉欲や…
そういったものの集積が、巨大な戦争という不幸を引き起こすのだと。

『追記』の反戦ビラの話。すごいですね。
一体どれほど強い思いを抱いていたことか、と思います。
一方、火野葦平の『麦と兵隊』のは、この宣伝ビラ…『伝単』と言っていたらしいですが、
日本軍側からの中国民への宣伝ビラを、前線に運ぶのも、火野ら従軍作家のいる報道班の
役割だったらしく、この伝単が何度か出てくるんです。
後方の基地から列車や車で運ばれてくる伝単を、火野が仕分けしている。
どこそこに何を何枚、とかって仕分けしてたのでしょうね。
それで、配るときは、中国の村の長などを集めて、その配りかたの指示をするんですが、
それが全然要領を理解してくれなくて、ぬらりくらりしている。
ひどいのは、宣伝ビラを抱えて、外に出た途端にそれで鼻をかんだり。(笑)
これなども、日本側から、火野のようなちょっと温かい眼を持った人が描けば、
戦場におけるユーモラスな話になるけれど、実はそれらぬらりくらりと要領を得ず、
日本軍の宣伝ビラで鼻をかむような中国人の親爺が、実はしたたかな、強烈な
抗日の民だったかも知れませんよね。

戦争を起こす者も、遂行する者もそれによって命を奪われたりする者も、
皆生きている一人一人の人間。
ビラを書いたり、刷ったり、じっと読み入ったり、読まずに捨てたり…
原発でも憲法でもTPPでも秘密保全法でも、モンサントの食品を手に取るか置くか…
自分の行為が、実は大きな歴史を作っていっているのだ、ということに
私達は常日頃、あまりにも無頓着なような気がします。

色々、ほんとにありがとうございます。
はっきりしなかった部分が徐々に雲が晴れるように見えてくる嬉しさと興奮を覚えます。^^




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Re: その日暮らしさんへ

その日暮らしさん、こんばんは♪

太宰治の、芥川賞をめぐる面白いエピソード。
川端康成の太宰を評して言った言葉、のことでしょうか?^^
また、それに対する太宰の反論も。
…追い詰められていたんでしょうね…
私ね、川端康成はすごい作家だなあとは思うのですが、(特に掌編小説の
巧いこと!)、どうも、今一つ好きになれないのです…
特に理由はないのですが。
内田百閒は好きなんです(笑)
内田百閒は、芥川や、この川端康成との交友の様子も書いていますね。

彼は、日本文学報国会に入会しなかったんですか?
知りませんでした。さもあらん、という感じですね!^^
百閒は、芸術院会員推薦も「イヤダカラ、イヤダ」という理由で辞退していますしね。

このあたりは、無論百閒氏の性格でもあるのでしょうが、終生尊敬し続けた
師・夏目漱石の影響も多少はあったかもしれませんね。漱石も文部省がくれるという
『文学博士の学位』を固辞していますしね。漱石の理由はこうでした。
『(略)博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与したならば、
学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽くすに至ると共に、
選に洩れたる他は全く一般から閑却されるのを結果として厭うべき弊害の続出せん事を
余は切に憂うるものである』
でももっと砕けてこうも言っている。
『小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も
矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望をもっております。従って私は博士の学位を
頂きたくないのであります』

…こういうところが、私が漱石を大好きな理由なんです!^^
私ですね、この文学報国会のこと書いていて、もしこの時代、漱石が生きていたなら、
彼もたぶんそんなもの入らないだろうな、とふと思いました。
まあ、勝手な思い込みですが。^^

石川達三は、『蒼茫』を読んでいまして、今回の『生きている兵隊』は、
あまり知らないで手に取りました。『人間の壁』は読んでないです。
非常に骨太な作家、という感じを受けました。
そうだ!五味川純平がいましたね。でも、本は実は読んでないんです。
もう、40年くらいも昔かなあ。映画『人間の条件』を見に行きました。
長い長い映画で、途中で休憩に外に出てもいい、なんて言うのでした。
新珠三千代が綺麗でした。この映画見たときも、戦争はいやだなあ…とつくづく思いました。
今度しっかり読んでみようかなぁ。
大岡昇平『野火』は、『生きている兵隊』の後で取り上げたいです。
これについては、前から記事にしたいと思っていたことと関連して書きたいなと
思っています。

大岡昇平というと、中原中也、小林秀雄などとの交友は、私、中原中也のこと
調べていたとき、だいぶ読みました。大岡昇平はまだその頃、素直な若々しい大学生。
それが戦争に取られて、こういう作品描くようになったんですものね…

当時もすごい作家が沢山たくさんいました…
そういう人々は、戦争中、どうしていたんだろうと考えこんでしまいます。
自分の身に置き換えて見て、自分が官憲の目を忍びながら、反戦の作品を書けるという
自身は全くありません…
たぶん、黙り込んでしまうしかなかったでしょう…それさえ許されたかどうか…。
ですから、戦後の人間が、彼らを批判することなど出来ないと思うんです。
…思うんですが、もっと早く、ペンの力で何とか出来なかったの!!!とも思います。
しかし、考えてみれば、原子力発電に関しても、福島の事故後、いわゆる文壇、というものの
動きはなかなかみえてきませんでしたね~。今でも、くっきりと原発に疑問を呈する作家は、
全作家の数からすると、とても少ないのではないでしょうか。
ペンクラブが、一応表明は出していたようだけれど、私には、動きが緩慢に思えました。

小説家、詩人、作曲家、画家、映画人…案外動かないものだなあ、と東日本大震災の後、
思いました。結局ね、売れなければ商売にならない…
その首根っこを押さえられていると、ひとは弱いものですね。

検閲が厳しくなってからの日本の戦前戦中と、原発事故後の日本はほんとうに
似ているなあと、今回、記事を書きながら何度も思いました。
言論人が、言うべき時に、黙ってしまうんですね…なぜか、自粛してしまう…
マスコミのありようもほんとうに似ています。

危機感いっぱいで書いていっていますが、如何せん、知識不足と筆が遅いのとで、
なかなか先に進めません……(涙)
お勧めの作品がありましたら、教えてくださいね。

その日暮らしさん。ありがとうございます!



北伐の途上で

そうでしたか。
小豆島を旅して讀む黒島傳治,さぞ胸に迫るものあるでしょうね。
いわゆる“農民文学”というものの力づよさは,日本の風土と溶け合い見事に昇華されて現在にいたっている,という感覚は,まったくそれらを(農民文学だけでなく農業そのものも)知らない,わたしでも外からながめていて感じています。

黒島傳治は殆ど読んだことがなく,「武装せる市街」「パルチザンウォルコフ」を読んだくらいです。「武装せる市街」は,北伐の時代を調べていく中で,ぐうぜんみつけましたが,北伐時の日本側の軍人の回想録なら,山ほどある中のほんとうに數少ない貴重な,“兵隊”の側の第一級の“一次資料”だとおもいました。


『改造』,『文藝戦線』などの常連作家でロシア革命やシベリア出兵のことを書いた作家は多いです。この世代の気骨が生き残っていれば・・・・,と言う少々意地悪な見方もできましょうか。
というより20年代から30年代初頭までは,“でもくらしい”,がしっかり根づいていた,とみるのがただしいのかもしれません。

中国との文人の交流も1890年代後半からおおくなされ,
おおざっぱないいかたをすれば,この気骨は,孫文や魯迅(ほんとうにおおまかにあげればです)らに受け継がれ移植され抗日戰當時の中國の反戦文學に結實をみた,という一つの流れを,わたしなりにとらえています。

二つの時代を,つまり「武装せる市街」と「生きている兵隊」の間に時代を分ける一線が,くっきりとあります。
日本の転落とパラレルであることを感じざるを得ません。

陸軍の軍人が,敵意と侵略の意をむき出しにしていったきっかけが「済南事件」であるという整理もできる,そのように思います。

これらの事変ごとに人物を見ると,たとえば「済南事件」でたたかった部隊と,中でもとくに痛めつけられた(ふくろだたきにされた)部隊の若い士官と「南京虐殺」の上官がおなじ人物であったりする,というようなことですが,“憎しみと復讐心が暴走した”,ことがあぶりだされてくるようにおもいます。
「時代を分ける一線」をここで引くのはと言う視点は,わたしにとって非常に有益でした。

少々自分勝手を申しましたか・・・。ひきつづきたのしみにしています。
今日の雨は秋を感じさせますね!!

追記:そうそう,
確か途中に“反戦ビラ”のエピソードが出てくるとおもいますが,第一次国共合作時の工作で郭沫若ら國民黨総政治部がかいたものではなかったかとおもわれます。このあと,郭沫若は,蒋介石に絶縁状をたたきつけて中国にいられなくなり日本に亡命するのですが,ふたたび(盧溝橋事変勃発にいてもたってもいられず)祖国ににもどり,その後鹿地亘と合流するのです。そして,また,懲りずにビラをまく(笑)。
恥じも外聞もなく,ひたすら熱い男ですが
これが文人の正しいやり方だ,と信じて,です。

Re: 玄少子さんへ

玄少子さん。こんにちは。
私のブログの紹介、ありがとうございます。
お訪ねして驚き、、玄少子さまの力強いエールを感じ、じ~んとしてしまいました。

はい。火野葦平をトップに持ってくるのには、最初少しためらいがありました。
石川達三『生きている兵隊』と、どちらにしようかな、と。
火野葦平は、従軍作家の代表のような固定化した眼で見られていて、私が意図する『戦争はいやだ』
という主張を伝えるために、一番先に持ってくる作家かな、と。

しかし、もうほとんど戦争を実際に知る人々は少なくなってしまった今、生の声を
何とか、戦争のはるか後に生まれてきた人々に伝えたい。
それには、どんなによく出来た作品であっても、聞き書きやフィクション性の高いものは
避けたいという気持ちがありました。
そして、なにより、戦中に書かれた生々しい作品を選びたかった。
『はだしのゲン』を『ありもしない日本軍の蛮行』を描いたとして、告発する男性…
そのような人々が今、急速にこの日本には増えて行っています。
そして、その主張が結局は市議、教育委員会、各小中学校に通って行き、そしてこともあろうに
文科大臣までがそれを良しとする時代になってしまっています…。
こういう人々はおそらく、戦争の生き証人の言葉さえ信じないのだろう…
それならば、むしろ、戦争称揚文学と戦後批判されたものに、どういう記述がしてあるのか、
それを確かめたくなりました。
と言って、全くこてこての戦争賛美の文学には、こちらで用がない。
火野葦平は、ちょうどその微妙な位置に立っていると、最初私には思えたのです。
それで読み始めたのですが、読み終えた印象は、本文にも書いたとおり、「これがなぜ、
彼が戦争協力者と後に批判されるようになる作品なんだろう…」というものでした。
たぶん、あちこちで講演したり、その他の活動が、そう思われる理由にもなったのでしょう。
しかし、この2作品については、私に関して言えば、むしろ戦争の実態がよくわかって、
戦争のむごさ、兵の哀れさ、そして蹂躙されていく中国の民の悲しみとそれを、でも、
怒りに出すことも出来ぬこと…その怨嗟…
そういうものが心にずしりと深く残る作品だった…。
これは一陸軍伍長が、実際に戦地で経験した、見聞きした記録です。
そこには、捕虜の首を刎ねる場面などが、見たままに書いてある。
自分自身も、死にきれず苦しむ中国兵に銃でとどめをさしたことまで書いてある。

私は、『ありもしない日本軍の蛮行』などと言いきる人々に、この作品をこそ
ぶつけて見て貰いたいと思いました。
石川達三の『生きている兵隊』は、彼自身の経験ではなく、石川が南京攻略後
すぐに現地に入って、兵士たちに聞き取りをして書いた作品です。
私は、火野の作品に、一次資料としての強さを感じました。

『わたしも,日中戰爭期に日本内地で,外地であっても日本の軍隊の統制の中で,書かれた文學の大半を,
容赦なく切り捨てているひとりであります。』
とおっしゃる玄少子さまのお気持ち。私も痛いほどわかります。
私が、『戦争のさ中に書かれたものを』というのにこだわった理由もそこです。
皆が黙り込むか、逆に戦争を美化した作品を書いていた時代に、戦争の実態を描いたものが
探したかった…戦後に書いたものでなく。

でも、文学の素養もない者の悲しさ。なかなか、そうした作品を探し出せない。
『反戦文学』と検索しても、出てくるものは、戦中のものはほんとに少なかったです。
でもね、勉強していくと、ちゃんとあるものですねえ…
私、このほど、黒島傳治という作家をみつけました!
彼は、なんと、私のこの夏の旅の目的地であった小豆島出身の作家。
ロシア革命時に日本がシベリアに出兵したそのとき衛生兵として従軍した経験を書いた
『橇』は、昭和2年(1927年)の発表。そして何よりものすごいのは、
済南事件に取材した日本と中国との関係をえぐった長編『武装せる市街』。1930年の
書き下ろしで刊行するが、即座に発禁となっています。これ、今読んでいるところなのですが、
アヘン戦争後の中国の民の悲惨と、アヘン、ヘロインなどでなお、儲けようとする日本人の
あくどさを描いていて、さすがに私も20ページほど読んだ時点でもう、その暗さに
辟易してしまうほどです。こりゃあ、即座に発禁になるわね!と思います。
でも、結核を得て、文学者としての志半ばで郷里、小豆島に帰るのですが、
小豆島の農民の、醤油醸造会社などとの争いを描いた作品は、ついこの間、その舞台となった
地を見て来ただけに、なんとも言えないせつなさを感じつつ今、読んで行っています。
その海の色や、松の林や、段々畑などの情景の描写が、目の前に再び見えるようで。
嬉しかったのは、鹿地亘の名が出て来たことですよ~~~♪ ^^
私は、文学と政治活動の方針の違いなどから、いくつものグループに分かれて行った
プロレタリア作家活動の歴史を、まったく知りません…でも、これらの人々が同じ時期
共に活動していた、と知っただけで、いまさらなんですが、ちょっと嬉しい。(笑)

『いのちの初夜』。昔、読みましたよ~。

日本は今、『はだしのゲン』問題に象徴されるように、厭なことは見たくない、
臭いものに蓋をして、子供らにも世間の表層の小綺麗な部分だけを見せようとする、
そんな世になっていっていますね。
でも、立派な尊敬すべき(と思われていた)作家たちが、徐々に黙り込んで行く…
そしてついには、多くの者が戦争宣伝に積極的に関わっていくその過程を、
火野葦平を調べて行きつつ見て行っていると、福島の事故後の論壇や文学界の奇妙に思えるほどの
沈黙…(ごく一部の人々を覗き)それと全く似ていると思うにつけ、せめて、こんな小さな場でも
命と平和を脅かす者の怖さを伝えていかねばなあと、またあらためて思うのです~。^^

ありがとう!エール、ほんとにうれしいです!



No title

 太宰が第一回芥川賞をめぐって面白いエピソードを残していますが、最終的に「蒼氓」に決まったということで石川達三を知りました。そして、「人間の壁」を読んでからある種の親近感を抱くようになりました。

 「生きている兵隊」は、大岡昇平「俘虜記」「野火」、五味川純平「人間の條件」「戦争と人間」などとともに印象に残る作品として記憶しています。しかし度量の大きくない僕は、火野葦平と聞くだけで拒否反応を起こしてしまいがちになり、正直なところどれもいまだに手に取ったことがありません。
 国策としての戦争に、作家・詩人・画家などの多くがそれぞれの立場から協力したり協力させられたりしています。文学者・表現者の戦争責任については吉本隆明氏を通して考える機会を与えられたことがありますが、何事においても、もしも自分がその立場にあればどうしただろうと思い悩むことになります。
 今回のここまでの記事を拝見して火野葦平氏についてのイメージが少し変わりつつあります。
 そうそう、「日本文学報国会」に入会しなかったということで、そこから内田百閒にも興味が向かうことになりました。


中村哲氏・・・・そうでしたか。感動ですね。

彼岸花さん,こんばんは。殘暑もようやく,と書きたいところですが,あいもかわらぬ灼赫の太陽です。お元気でおすごしでしょうか。

彼岸花さんが火野葦平関して書かれておられること,に率直な感動を覺え,敬意を抱いております。
もしかしたら,評価さだまらぬ数数の毀誉褒貶を受けた作家について書くことの,逡巡も,おおきかったことだろう,そんな気持も垣間見えたように感じました。
とはいえ火野葦平を “原発ジプシー”の~~~とたとえてしまわれるところに,力づよさ,と,“プロ芸”というものの,本質的なところ,のみをまっすぐ評価しておられること,を感じとりました。

(以前,星狩人さんのところで,鹿地亘をおこがましくも照介させていただいた一連の會話のときも,正直,火野葦平について語りだす勇気はわたしはありませんでした・・・・)

ところで,當時書かれたもの,というくくり,をお借りして書くのですが,
おこがましいですが,わたしも,日中戰爭期に日本内地で,外地であっても日本の軍隊の統制の中で,書かれた文學の大半を,容赦なく切り捨てているひとりであります。
  日本文學ををすこしくかじっても,日中戰爭期の小説であまりじっくり読みたいと思うものに,であうことができなかったわけですが,鹿地らのプロ芸の流れを,いみじくも(プロ芸にかかわりあった,というわけではないが,という意味で)体現した作家として,ひとり,北条民雄 を愛しています。
 
  鹿地亘が中國にわたった年にかかれたものであり,いわば,日本の中の “異國”にあって書かれた “いのちの初夜”は,當時の日本の闇を抉り,さらけだし陳べた傑作のひとつだと思います。

ではでは,リンクのことご了承ください。わたしのところに貼っても,あまりアクセスには影響ないとの確信はありますがw当面トップに置かせていただきます。
わたしなりの敬意とエールの表現です!!・・・
心して書いてくださいよ~~(ぷれっしゃーではありません(♡ ◡ ♡) ホレボレ)

と,投稿してみればお返事ありました。ありがとうございました

Re: 玄少子さんへ

玄少子さん、こんばんは。
ご無沙汰しています。
私も何となくまだ落ち着かず。
中国、朝鮮半島のことは、私ほんとに一から勉強しなおさないと書けないので、
あっちこっちの本をひっくり返しつつ、こつこつやっていっています。
地名の漢字もね。探すのに苦労してます(笑)。
蚌埠(バンプー)などね。『埠』というのは、つくりが岐阜の『阜』と同じだし、
『埠頭』などという語も知っていたからから、『ふ』『ぷ』などと読むのだろうな、
と思って入力したら、どうにか出てきましたが、さて、『蚌』の音読みが、皆目
見当がつかない。仕方ないから、厚さ6センチくらいある古い漢和辞典を
えっちらおっちら引っ張り出してきて、虫扁で索引して、ようやく『ボウ』という
音と『どぶ貝、からす貝』という意味がわかりました。^^
そっか。今気づいたんですが、ネットの漢和辞典というものがありましたね。^^

私もまたゆっくり伺わせていただきます。玄少子さんもどうぞごゆっくり。
リンク、ありがとうございます♪


ヤボ用がたてこんでまして

読ませていただいてます。
リンクを貼らせていただきました
取り急ぎご報告まで。また
プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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国境なき医師団
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