『生きてゐる兵隊 ②』

いつも不思議だなあと思うのは、何かを熱心にしていると、それに関係した出来ごとが
偶然、不思議なつながりを見せて次々に起こるシンクロニシティというべきもののことである。

今回、もう忘れられかけている戦争文学を掘り起こして、今の日本の抱えている問題を
その繰り返しの中で語ろうと決めて、その第一章を火野葦平にしよう、と決めたら、
ちょうど偶然、NHKで先に言及した『従軍作家たちの戦争』というドキュメンタリーをやった。
しかも、その中心に据えられていたのは、火野葦平であった!
次に書くのは石川達三だな、と準備していると、なんと今度は、またどんぴしゃりのタイミングで、
朝日新聞夕刊で、8月27日から9月6日まで、『筆禍をたどって』という、まさにこの石川達三の
『生きてゐる兵隊』の検閲をめぐる取材シリーズが始まったのである!
この朝日新聞の連載からも引用しながら書いていってみよう…。


盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が本格化した1937年。32歳の石川は、9月、
こんなことを読売新聞に書いている。

『戦争ルポルタージュにも野心が出るし、新しい人間性を発見する機会も多くなる。
何と云っても戦争は人間の魂の素晴らしい燃焼で、文学の対象として野心せざるを得ない』

『戦争は人間の魂の素晴らしい燃焼』かぁ……

この言葉の批評はともかくとりあえず置いておいて先に進もう。
石川は中央公論社に働き掛け、中央公論の特派員として、望み通り中国に渡る。

1938年1月5日上海着。8日、南京に入る。
上海を日本軍が占領したのが1937年11月。そして南京陥落が12月13日。
石川はそれらから一カ月とたたない上海、南京の様子を見ることになる。
石川は、火野のように自分で直接経験した戦闘の様子を書いたわけではない。
南京攻略に携わった第16師団33連隊に取材し、その結果著されたのがこの小説であり、
兵士や新聞記者たちを精力的に取材して、それらをもとに書いたのである。
ただ、その際、石川は将校連には取材しなかったという。戦果を鼓舞しがちなそうした軍の
上層部の話は排除して、下級の兵士たちや記者たちの目で見た戦場を掬いあげようとしたのであろう。
石川は、20日には上海を再び発ち、日本に帰って僅か11日間ほどで一気に
『生きてゐる兵隊』を書きあげた。

ところが、何回も社で検討を加え、危なそうな描写は伏字にしたりしたものの、この作品は
発売日の前日に発禁処分となってしまう。雑誌は石川の作品を削除して発売を余儀なくされた。

1909年に施行された新聞紙法は、
『第23条 安寧秩序を乱したり風俗を害すると認められる新聞の発売・頒布禁止 (第41条において
発行人・編集人の処罰も定められている)
第27条 陸軍・海軍・外務各大臣による、軍事外交に関する記事の禁止・制限権』などを謳い、
各新聞雑誌は発行時に内務省や検事局に納付するように定められていた。
内容が不適切とされるものを内務大臣は発売領布を禁止出来たのである。

警視庁特高部検閲課が、達三、中央公論編集長、発行人を尋問。
その結果、この作品は『日本軍の軍規弛緩、士気喪失、非戦闘員の殺戮などの『虚構』を
書き、『安寧秩序を紊乱』したとして、一審で石川と中央公論編集長は禁固4カ月執行猶予3年、
発行人は罰金100円の判決を言い渡される。今のお金で言うとおよそ30万円くらいというところか。
検事側は判決を不服として控訴したが、二審の判決も一審と同じだった。

                *

『生きてゐる兵隊』のどこが検閲に引っ掛かったのであったのだろうか。

物語は、1937年7月29日の北京陥落後、太沽[タ―ク―。天津市浜海新区(旧塘沽区)]に
主人公たちの部隊が上陸するところから始まる。大陸は残暑の頃であった。
そこから敵を追いながら南下すること2カ月。
季節は秋深い霜が哨兵の肩に白くなる頃。
次の命令を待って寧晋の部落で主人公たちは束の間の休養をとっている…。

連隊本部に充てられていた民家のすぐ裏から、突然火の手が上がる。
火をつけたのは22,3の、貧しげな身なりをした中国人の青年であった。
通訳が呼ばれて話を聞く。

「こいつ奴。自分の家に自分で火をつけたんだから俺の勝手だって言やがる!」

笠原伍長はそれを聞くと、青年を連行して一町も歩き、楊柳の並んだクリークに行く。

「あっち向け!……と言っても解らねえか。不便な奴じゃ」
 彼は已むなく自分で青年の後ろにまわり、ずるずると日本刀を鞘から引き抜いた。
それを見るとこの痩せた烏のような青年はがくりと泥の中に膝を突き何か早口に大きな声で
叫び出し、彼に向って手を合わせて拝みはじめた。然し拝まれることには笠原は馴れていた。
馴れてはいてもやはりいい気持ちではなかった。
「えい!」
 一瞬にして青年の叫びは止み、野づらはしんとした静かな夕景に返った。首は落ちなかったが
傷は十分に深かった。彼の体が倒れる前にがぶがぶと血が肩にあふれて来た。体は右に傾き、
土手の野菊の中に倒れて今一度転がった。だぶんと鈍い水音がして、馬の尻に並んで
半身はクリークに落ちた。泥だらけの跣足の足裏が二つ並んで空に向いていた。


小説は、このようにしていきなり火事のシーンと、その犯人として捕まり、自分の家に付け火をしたと
告白した中国人青年の首を、主人公の一人、笠原伍長が日本刀で刎ねるところから始まる…。

さて。先ほど『主人公たち』と書いたが、この小説も、筋立てらしい筋はなく、
従って主人公らしい主人公というものはいない。
数人の、入営前の経歴も性格も違う人物たちの、いわば戦場における群像劇である。
石川自身の描いた言葉も借りて主な登場人物を紹介すると…。

 平尾一等兵はかつてはある都会の新聞社で校正係をしていたロマンチックな青年であった。
感受性の強い繊細な彼の神経は戦場の荒々しい生活の中では耐えられない。その代わりに
彼が身につけたのは、一種捨て鉢な闘争心であった。戦線に出るようになってから彼は
急に大言壮語することを覚えた。
 小隊長倉田少尉は、勇敢な小隊長であるが、部下と対している時には、かつて小学校の先生
であった自分を思い出してしまう三十一の独身将校。
 笠原伍長は、冒頭のシーンで、中国人民間人の首をはねた人物である。
笠原伍長は農家の次男で学問はなかったが、それだけに理屈なしにこういう境遇に
腰を据えて揺るがない心を持っていた。
彼の殺戮は全く彼の感情を動かすことなしに行われた。ただ彼の感情を無慙にゆすぶるものは
戦友に対するほとんど本能的な愛情であった。彼は実に見事な兵士であり、兵士そのものであった。
 近藤一等兵。彼は入営前は医学生であった。戦場で人を殺す自分と、医者として人の命を
救う立場だったかつての自分とのおりあいがまだつきかねている。
 片山玄澄従軍僧。本来は戦死者を弔うことが彼の役目であるが、自ら戦闘に参加して、
シャベルといったあり合わせの得物で、すでに20人以上殺している。
 中橋通訳。
 そして彼等の上に立っているのが連隊長西沢大佐である。兵士たちが崇拝してる上官である。
豪胆な性格だが、普段は兵たちに対しても温厚な人物である。
兵たちが焚火を囲み、薩摩芋を焼いていると、西沢連隊長がやって来て、兵たちの輪に加わる。
そうして兵の差し出した焼き芋を食べてくれるこだわりのなさを、兵たちは有難いと思うのである。

 彼(西沢大佐)が行ってしまうと皆は肩をゆるめて饒舌りはじめ、火の中の芋を先を争って
取り出した。笠原伍長は右足の靴を脱ぎ靴下を脱いだ。垢が黒く塊まった大きな平たい足が
湯気を立てていた。
(中略)
「何をやるんだね」
『足の皮がお前、あんまり歩かすもんだから堅くなりやがって、痛くってお歩けになりませんのだよ。
弾丸があたったより痛いぞ」
 彼は足の裏の上に顔をかがめ洟水をすすりながら、刀で以てこわばった皮を削りはじめた。
充分に拭われていない刀には何個所も刃こぼれがあり多少の赤みさえも残っていて、
脂肪の濁りで刀身は鉛のように光がなくなっていた。


つい先ほど、中国人の民間人の青年の首を刎ねた刀で、…その血のりをよく拭いもしない刀で
自分の足の皮を削る…。
笠原伍長の神経の太さを、言ってみれば、自分が首を刎ねた中国人青年の死への鈍感を、
ひいてはそれは兵としての適合性を、作者は、こうした描写で表わしている。

翌朝出発。
石家荘から、北京、北京から天津、塘沽、奉天、大連へ…、隊は列車で移動していく。
大連から汽船に乗船。まだ自分たちの行き先さえ知らなかった兵たちは、ようやく自分たちが
上海から南京に向かうことを知る。近藤一等兵当番の連隊長室に、軍用機密地図の包みが
あるのを見つけたからである。

 それは上海から南京付近に至る長江筋一帯の精密極まる地図であって、網の目のように
入り組んだクリークの一筋ごとに、その幅、深さ、泥の深さ、徒渉し得る場所、道路の幅、
雨後は泥濘になる場所までも記入されてあった。これが彼等を待っている新しい戦場である。
(中略)兵たちは丸窓を開けて遠ざかり行く大連とその辺りの島々とを無言のうちに眺め、
(大連で)買って来た土産ものを波の上に投げ棄てた。そしてごろりと鉄格子のベッドに横になり、
みんな黙って眠った。


 日暮れ前に中橋通訳は歩兵砲隊の兵に頼まれて馬の徴発に部落を歩き回った。(中略)
砲を曳いていた馬がクリークに落ちて足を折ったから、明日の進軍に困るというのだ。
(中略)
「おい、婆さん」と彼は戸口に立って言った。「俺達は日本の軍人だが、お前の所の牛が入要だ。
気の毒だが貰って行くよ」
 老婆はきいきいと甲高い声で反抗した。(中略)
 この野郎めえ……と通訳は舌打ちして後ろから彼女の襟首をつかみ、力かぎりに引きたおした。
彼女はひとたまりもなく道傍の泥田の中にあお向けざまに落ちこんだ。
(中略)兵たちは良い気持であった。無限の富がこの大陸にある。そしてそれは取るがままだ。
このあたりの住民たちの所有権と私有財産とは野生の果物のように兵隊の欲するがままに
開放され始めたのである。

 
さて。ここにこうして、日本軍が行軍しながら近隣の現地の人々の食糧や馬、牛、鶏、
豚などを、食料として、あるいは運搬用として徴発していったことがこのように書いてある。
日本兵の略奪、ということに関して、いやそれは違う。ちゃんと日本軍は金や軍票で払っていた、
などと言う言論もあるようだが、それは原則。支払った例もあったろうが、なにしろ現地の
村は住民が逃げてしまっていて、交渉しようにも支払おうにもそもそも相手がいない。
そうしたこともあって、黙っていただいていくことが当たり前になり、食糧、水など現地調達しながら、
つまり略奪しながら行軍していくことが、暗黙の了解事項としてあったことが、
この『生きている兵隊』や『麦と兵隊』のような文学作品のみならず、元兵士たちの証言にも
数多く散見される。
広大な中国大陸の奥地へ奥地へ、しかもいくつもの部隊として散開しながら、長く延びて進む隊列に
後方からの食糧を迅速に届けることには最初から無理があったのだ。
太平洋戦争が始まって、南方に送られた兵士たちの食糧事情がもっと厳しいものであったことは、
次の大岡昇平作品でまたあらためて触れたい。
日本軍の兵たちへの糧食、弾薬、医薬品などの補給態勢は、ほんとうにひどいものだった。

この物語は、石川達三が聞き書きをもとに書いた創作である。
フィクションはフィクション。真実とは違う。確かにそれは言える。
では、ここに、第十六師団長、陸軍中将 中島今朝吾の日記から引用しよう。
南京陥落の数日後の、陸軍中将の日記である。

中島今朝吾日記

◇十二月十九日 薄曇り

一、戦勝後のかっぱらい心理

 我々が入るときは支那兵が既に速くより占領したる処である 彼等には遺棄書類によつて見れば
大体四、五月以降給料は払ふてない 其代りかつぱらい御免というので如何なる家屋も
徹底的に引かきまわしてあるから日本軍の入るときは何ものもなく整頓しては居らぬ

一、そこに日本軍が又我先にと侵入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して住く
 此は地方民家屋につきては真に徹底して居る 結局ずふずふしい奴が得といふのである

 其一番好適例としては
 我ら占領せる国民政府の中にある 既に第十六師団は十三日兵を入れて掃蕩を始め
十四日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て師団司令部と表札を掲げあるに係らず
中に入りて見れば政府主席の室から何からすつかり引かきまわして目星のつくものは
陳列古物だろうと何だろうと皆持つて往く

 予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあつたが駄目である 翌々日入て見れば
其内の是はは思ふものは皆無くなりて居る 金庫の中でも入れねば駄目といふことになる

一、日本人は物好きである 国民政府といふのでわざわざ見物に来る 唯見物丈ならば可なるも
何か目につけば直にかつぱらつて行く 兵卒の監督位では何にもならぬ 堂々たる将校様の盗人だから
真に驚いたことである

(中略)
一、最も悪質のものは貨幣略奪である 中央銀行の紙幣を目がけ到る処の銀行の金庫破り専問のものがある
そしてそれは弗に対して中央銀行のものが日本紙幣より高値なるが故に上海に送りて
日本紙幣に交換する 此仲介者は新聞記者と自動車の運転手に多い 
上海では又之が中買者がありて暴利をとりて居る者がある

 第九師団と内山旅団に此疾病が流行して張本人中には輜重特務兵が多い そして金が出来た為
逃亡するものが続出するといふことになる 内山旅団の兵隊で四口、計三、〇〇〇円送金したもの
其他三〇〇、四〇〇、五〇〇円宛送りたるものは四五十名もある 誠に不吉なことである

 (「南京戦史資料集」旧版P331~P333)


これもよく、『日本兵が略奪したのではない。支那兵が逃げる前にさんざん略奪し、放火していくのだ』
と言う人がいる。この、中島今朝吾日記にも確かに支那兵が略奪をしていった跡の様子が書いてある。
しかし、そのさらに後に、日本兵が、しかも将校や新聞記者までが何かめぼしいものがあれば
略奪していったことを、なんと陸軍中将自身がこうやって日記に、その風紀紊乱を嘆いて書いているのである。

詳しくはこのサイトを。ここには、ちゃんと払おうとしていたということも書いてあるが、また、いかに
実際はひどい徴発が上から下まで横行していたか、ということの例も、いやというほど載っている。

http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/chouhatu.html


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Re: 玄少子さんへ

玄少子さん、おはようございます。
リンク、ありがとうございます~~~♪
今、あの3人句集、読んでますよ~。
あとで、玄少子さんのお講義受けに伺いますね~~~♪(笑)

Re: 鍵コメさんへ

鍵コメさん、おはようございます。
お久しぶり~~~♪
お元気そうでなによりです。
パソコンなどに振り回されないで、着実に日々を大事に過ごしてらっしゃること、
それがなによりですよ~~。
そっちに伺いますね~~~♪

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さっそくリンクはりましたー
報告まで^^

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『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

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