『生きてゐる兵隊 ③』

11月14日。彼等は支塘鎮を占領。

 夜が明けて点呼を終り朝食をおわると、勤務のない兵隊たちはにこにことして
野営地から出て来た。勤務で出られない兵がどこへ行くんだと問うと彼等は、
野菜の徴発に行ってくるとか生肉の徴発だとか答えた。進軍の早いしかも奥地に向っている
軍に対しては兵糧は到底輸送しきれなかったしその費用も大変なものであったから、
前線部隊は多くは現地徴発主義で兵をやしなっていた。北支では戦後の宣撫工作のために
どんな小さな徴発でも一々金を払うことになっていたが、南方の戦線では自由な徴発に
よるより他に仕方がなかった。炊事当番の兵たちは畑を這いまわって野菜を車一ぱいに
積んで帰り、豚の首に縄をつけて尻を蹴とばしながら連れて帰るのであった。
 やがて徴発は彼等の口実になった。その次には隠語のようにも用いられた。殊に
生肉の徴発ということは姑娘(くーにゃ)を探しに行くという意味に用いられた。

町はずれの崩れ残った農家の中に若い女が居るのを近藤一等兵が眼ざとく見つけ出した

(中略)
近藤がのっそりと入っていくと、泥と垢で汚れた女はひと足退いて拳銃を向け引き金を引く。
だが不発であった。
「スパイかも知れん。何か持ってやせんか」
(中略)
 他の兵は彼女の下着をも引き裂いた。すると突然彼等の眼の前に白い女のあらわな全身が
晒された。(中略)近藤は何となく拳銃の引き金を引いた。やはり不発であった。
「畜生め、もう少しで俺はやられるところだった」(中略)
 近藤一等兵は拳銃を左手に持ちかえると腰の剣を抜いて裸の女の上にのっそりと跨った。
女は眼を閉じていた。彼は暫く上から見下ろしていたが、そうしている中に再び凶暴な感情が
わき上がって来た。それは憤激とも欲情とも区別のつかない、ただ腹の底が熱くなって来るような
衝動であった。
 彼は物も言わずに右手の短剣を力限りに女の乳房の上に突きたてた。白い肉体は
ほとんどはね上がるようにがくりと動いた。
(中略)
そのとき扉の外に靴音が乱れて、兵隊の顔が三つ四つ蔀窓からのぞいた。
「何をやったんだい」と言ったのは笠原伍長であった。
「確かにスパイと思われましたから、いま、自分が殺しました」
笠原は裸の女を眺めまわし、洟水をすすって笑った。
「ほう。勿体ないことをしたのう」


そのあと、近藤たち、兵は徴発してきた野菜や豚で昼食を準備するのだが、近藤一等兵は
奪った銃をいじりながら、先ほど殺した女のことと、自分が医学生であることを考えている。
女の死体を解剖することに慣れていた彼も、生きている女を殺ったのは初めてである。
スパイであれば当然の処置だったと思う。だが、生から死への転換がこうも易々と行われること。
たとえ敵であろうと味方であろうと、かくも生命が軽蔑されている戦場というもの…
自分も医学者でありながら、その医学を侮辱したのだ、…などと。
だが、彼の思索はそこまででストップする。

そうだ、戦場では一切の知性は要らないのだと彼は思った。(中略)彼はこれを以て
疑問をうち切り、煮え上がった飯盒の蓋をとりながら微笑して隣の兵に話しかけた。
「さっき俺が殺した姑娘は美人だったぞ。うむ。……生かしておけばよかったなあ……」


兵たちと離れた、中隊本部に宛てられている民家では、倉田少尉が、中隊長や他の将校連と
酒を飲んでいる。倉田少尉の軍服は、何人殺したかわからない敵兵の血で汚れている。
将校たちの食事は当番の兵が運んでくる。その調理は、半ば強制的に徴発されてきた
支那人の軍夫たちがやらされている。
彼等はおかしなほど従順に、日本兵たちの指図に従ってせっせと働く。

すると兵はこの儞(ニー。本来「あなた」という意味だが、日本兵たちは捕虜や徴発で
労役をやらせている中国人たちを、半ばからかいと軽蔑をこめて「儞」と呼んでいた)たちの
同胞を沢山殺して来たことをふと釈明したい気持ちになり、おいと肩をつついて煙草を一本
くれてやるのであった。
「謝々、謝々!」
 彼等はまるで餌を与えられた鶏のように純真に喜んで煙草を吸った。
(日支親善なんて簡単なことだ)と兵は思った。事実、こういう非常の場合にあって、
一人と一人との私的親善は、まことに簡単であった。お互いに生命の危険にさらされている場合、
しかもそれが個人的な意志から出たものでなくて国家的な作用であるだけに、一つ垣根を
とりはずして接近してみると、互いに相あわれむ同病の患者であった。兵も儞たちも人なつかしい
心の侘しさを抱いているのであった。


11月19日。
上海を失った支那軍は、昆山から敗走してきて、古里村で主人公たちとぶつかる。
戦闘は3時間ほどであっけなく終わり、支那軍は常熟に向かって退却。
主人公たちは、焚火を囲んで飯盒で飯を炊いている。

「片山さん今日は殺っとったじゃねえか」と通訳が言った。
「殺るさ君、わしじゃとて同じことじゃ」
「何人やったね」
「さあ、数えもせんが五、六人やったろうな」
 僧はこともなげに答えた。
 つい先ほど、ほんの三時間ばかり前であった。部落の残敵掃討の部隊と一緒に
古里村に入って来た片山玄澄は左の手に数珠を巻き右手には工兵の持つショベルを持っていた。
 そして皺枯れ声をふりあげながら路地から路地と逃げる敵兵を追って兵隊と一緒に駆け廻った。
(中略)
「貴様!……」とだみ声で叫ぶなり従軍僧はショベルを持って横殴りに叩きつけた。
刃もつけてないのにショベルはざくりと頭の中に半分ばかりも食い込み血しぶきを上げてぶっ倒れた。
(中略)北支の戦線で彼が殺した人数は二十人を下らなかった。
 北支に居たころ、西沢連隊長から問われたことがあった。
「従軍僧はなかなか勇敢に敵を殺すそうだね」
「はあ、そりゃあ、殺ります」と彼は兵のように姿勢を正して答えた。
「ふむ。敵の戦死者はやはり一応弔ってやるのかね」
「いや、やっている従軍僧もあるようですが、自分はやりません」
(中略)
「そうか、国境を越えた宗教というものは無いか」
それはむしろ憮然とした言葉であった。大佐は宗教というものまたは宗教家というものに
失望を感じたのであった。


連隊長西沢中佐は部下を愛する親のような心を持った軍人である。幾千の捕虜を
皆殺しにするだけの決断も持っていたが、敵を愛することを知らない軍人ではない。
彼は自分が抱えた心の空虚を慰めてくれうるものは宗教であろうと思っていた。
だが、この片山従軍僧の言葉に、暗い失望を感じる…

 戦場というところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまい、おなじ程度の
ことしか考えない、同じ要求しかもたないものにしてしまう不思議に強力な作用を
もっているもののようであった。医学士の近藤一等兵がそのインテリゼンスを失ったように、
片山玄澄もまたその宗教心を失ったもののようであった。
(中略)
 しかしそれは必ず氏も片山従軍僧の責任とは言えないものであった。平和な時には彼の宗教は
国境を越えるだけのひろさをもっていた。戦時にあってそれが出来なくなったのは、宗教が
無力になったというよりも、国境が超え難く高いものになって来たのであった。


さて。
このようにして、小説は実際の戦線の動きにほぼ沿いながら、このように、主要な人物たちの
内面も追っていく。
無論この小説は、作者も付記で、『これは実戦の忠実な記録ではなく、かなり自由に
創作を試みたものであり、部隊名、将兵の氏名なども多く仮想である』と書いてある通り、
フィクションである。
私が4月頃最初に読んだときはともかく、この記事を書くために8月末から再度この小説を
読み返して思ったことは、やや、人物造型が類型的だな、ということであった。
つまり…主要な登場人物たちの性格づけが、ある役割を背負わされているようにくっきりしすぎていて、
取り上げられるエピソードも、主人公たちにあるセリフを言わせるために設定された、というような
感じがして、主人公たちの内面の苦悩や、平時との性格の変わりようなどの大事な
人間的部分が、やや、こちらにそのままに伝わってこない憾みがあるように思った。

と言っても、こんな私の勝手なごたくは、今が曲がりなりにも何を言っても自由で、戦時の
言論統制下でもなく、もう過ぎたことに対してだから言える、お気楽な感想にすぎないのだが。
それは十二分にわかった上で、二度とこの『生きてゐる兵隊』のような時代が来ないことを願って
これを書いている……

面白いのは宮本百合子…と言っても、若い方々はご存じないかなあ。
旧姓中條百合子。宮本顕治の妻。宮本顕治は、日本共産党の戦前の非合法政党時代からの
日本共産党の活動家であり、戦後、1958年に党の書記長に就任してから40年間、日本共産党を指導した
大物中の大物政治家、作家。宮本百合子は戦中、多くの作家がこの記事でも何度も触れているように
官憲の迫害を恐れてだんまりを決め込むか或いは国威発揚の作品を書いていくかした中で、
何回も投獄されながら、ついにその志を曲げなかった作家であった。
その宮本百合子が、この『生きてゐる兵隊』を入手。
昭和15年8月、『昭和の十四年間』を『日本文学入門』(日本評論社)に発表。そこで次のように論評した。

「石川達三の小説が軍事的な意味から忌諱に触れたのもこの年の始めであった。
文学のこととしてみれば、その作品は、当時の文学精神を強く支配し始めていた所謂意欲的な
創作意図の一典型としてみられる性質の作品であった。「蒼氓」をもって現れたこの作者は、
その小説でまだ何人も試みなかった「生きている兵隊」を描き出そうとしたのであろうが、
作品の現実は、それとは逆に如何にも文壇的野望とでもいうようなものの横溢したものとなっていた。

作者はその一、二年来文学及び一般の文化人の間で論議されながら時代的の混迷に陥って
思想的成長の出口を見失っていた知性の問題、科学性の問題、人間性の問題などを
作品の意図的主題としてはっきりとした計画のもとに携帯して現地へ赴いた。
そこでの現実の見聞をもって作品の細部を埋め、そのことであるリアリティーを創り出しつつ、
こちらから携帯して行った諸問題を背負わせるにふさわしい人物を兵のなかに捉え、
全く観念の側から人間を動かして、結論的にはそれらの観念上の諸問題が
人間の動物的な生存力の深みに吸い込まれてしまうという過程を語っているのであった。

人間の問題を生活の現実の中から捉えず、観念の中にみて、それで人間を支配しようとする傾向は、
昭和初頭以後の文学に共通な一性格であるが、この作品には実に色濃くその特徴が滲み出していて、
作者が自身の内面的モティーブなしに意図の上でだけ作品の世界を支配してゆく創作態度が目立っている」


宮本百合子の指摘は図星だったので、石川達三は弁解しなかったそうである。
他の連中は近寄りもしない中で、まともな対応をしたのが百合子だったから。
朝日新聞の例の『筆禍をたどって』という夕刊のシリーズにはこう書いてある。
『生きている兵隊』の一審判決の前後のことであろう。

『友人たちは誰一人弁護してくれなかったと、達三は戦後の講演で話している。
「弁護することが出来なかったのであります」
そんな中で、理解を示した人が、少なくとも2人いた。』


記事によれば、一人は、尾崎秀実。中国問題の専門家。ゾルゲ事件で44年、絞首刑。
尾崎は二審の法廷で達三側の証人になった。
今一人は、鹿地亘。発禁処分になったが押収しきれなかった『生きてゐる兵隊』は、
海外に流れて翻訳されたのだが、中国語に翻訳されたものがいくつかあって、そのうち
夏衍の翻訳した『未死的兵』の序文を、このプロレタリア作家で、中国にわたって反戦活動をした
鹿地亘が書いているのである。

こうした一事から見ても、1938年(昭和13年)という時代が、既にどれほど言論の自由がもう
奪われてしまっているかということがわかるであろう。
友も皆、口を噤んでしまう時代…。
石川の孤立感もよくわかるし、また彼が、『生きてゐる兵隊』での一人の皇民作家としての失敗を
取り戻すべく、次は自らまた熱烈に志願していわゆるペン部隊の一員として従軍記を書いていったという
その心境もわからなくはないのだ。

さて。宮本百合子の評に戻るが、

『こちらから携帯して行った諸問題を背負わせるにふさわしい人物を兵のなかに捉え、
全く観念の側から人間を動かして、結論的にはそれらの観念上の諸問題が
人間の動物的な生存力の深みに吸い込まれてしまうという過程を語っているのであった。
人間の問題を生活の現実の中から捉えず、観念の中にみて、それで人間を支配しようとする傾向は、
昭和初頭以後の文学に共通な一性格であるが、この作品には実に色濃くその特徴が滲み出していて、
作者が自身の内面的モティーブなしに意図の上でだけ作品の世界を支配してゆく創作態度が目立っている』
という批評は、まったく、わたしがこの作品に感じていたのもそこだった。

この宮本の石川評。昭和初頭14年間の文学論としても非常に面白く思った。
私は常々、なぜ文学者たちや評論家たちなど、ペンを武器に出来る者らが、戦争に突き進む日本を
ペンの力で食い止められなかったのだろうか、という疑問を胸に抱いていたが、
いよいよ日中戦争がはじまり検閲がさらに厳しくなって文学の自由が奪われてしまうその前に、
日本の文壇というものが、ひょっとして、観念的なものに陥って内省的になりすぎ、
文学の力を失っていたのではないか。そんなことを考える。
この小説も、とかく、登場人物たちが理屈っぽいのである。

そうなのだ。何か外側から取ってつけたような人物の内面告白が、この小説に没入できない原因で
あるかもしれない。
だが。
さらに調べて行くと、この、従軍僧でありながら、敵兵をシャベルででもなんででも
殺していったという片山従軍僧。
「読売新聞」昭和21年5月9日付の石川達三のインタビュー記事がある。
そこで彼はこの人物についてこう語っているのである。
 
『戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合は
いくら何でも無茶だと思つた、三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで
殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、
にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は廿名を下らない、
彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、
支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に
永年培はれてきたのではあるまいか』


創作だとは言いつつも、石川は、南京攻略に携わった第16師団33連隊に取材してこの小説を書いている。
この時の33連隊は何人から構成されていたろうか。一つの連隊は500~5000名の
将兵から成っていたという。従軍僧が一つの連隊に何十人もいたわけではないだろうから、
モデルがいるならば、それはその性格や行為から言って、おのずと人物が特定できて来てしまう。
同じ33連隊にいた人物が戦後、この片山従軍僧のモデルとなった人物が、石川のこの小説が証拠と
されてGHQの取り調べを受けるのではないかと戦々恐々としていた…と語っている。
だが、それは聞き書きであるし、この本題から逸れるので、そんなこともあっただろうなあ、というのに
とどめておく。
余談だが、この第16師団歩兵第33連隊は、その後、転戦に転戦を重ねて徐州会戦や武漢作戦、
襄東会戦に参加。昭和16年一旦帰還した後、再び動員されて、ルソン島レガスピに上陸。
マニラの戦いなどに参加。その後、昭和19年、レイテ島に移駐。10月、アメリカ軍上陸開始。
軍旗奉焼ののち挺身切り込みし玉砕した者。ドラッグ防御の大隊がダガミ高原で玉砕。
昭和20年(1945年)5月。サマール島にいた第3中隊が玉砕している…嗚呼!!!……

ああ、もしかして…。
もしかして、石川は、そうやって兵たちの間に飛び込んで取材をして回った。
その間に、この小説の中で登場させた人物たちの原型となる兵士たちに、この従軍僧のモデルと
なった人物と同様直接出会って話を聞くか、間接的に噂を聞いていたとしたら…
なまじ生身の人間が実在し、その中には取材の間中世話になった関係者の顔も浮かぶゆえに、
そこに多少の遠慮やためらいが生じ、人物造型の筆が甘くなるということはなかっただろうか…。

いっそ戦後、それまで口を噤んでいた多くの作家たちがそうしたように、くびきを解かれて
自由に創作の筆を走らせることが出来るようになってから書いていたなら、この作品は、
文学作品としてはもっと優れたものになっていたかもしれないなあと、ふと思う。

私は、火野や石川の小説を読む前に、兵士たちの生活を描いた記録を何冊か読んでいるが、
そこにはどれにも、ひどい新兵いじめのようなものや、軍隊内での理不尽な階級差別の実態が
描かれていた。(当然これらも終戦になったから書けたものばかりである)
石川の小説にはそれが全くないのである。敵に対しては冷酷な殺戮をする彼等が、同じ
日本兵仲間同士では、非常に和気藹藹と描かれているのが読んで最初から気にはなっていた…。

無論。彼はそうした部隊内でのいじめを、短い同行中には目にすることが出来なかったのかもしれないし、
(外部の人間の前で陰湿ないじめはしないであろうから)、またたとえ目にしていたとしても、
書くことが出来なかったのだろう。
なにしろ既に、検閲は厳しくなっていて、軍内部の規律の緩みなど最初から書くわけには
行かなかったのだから。

戦争中に書かれた数少ない文学の中から、日本人が大陸でしてきたことを見つめ直そうと
いう試みを考えたとき、その最初の作品として、この石川の『生きてゐる兵隊』を選ぼうか、
それとも火野葦平の作品にしようか、と迷って、結局発表された時期としては後に来る
火野の軍隊シリーズの方を先に選んだのは、火野の『土と兵隊』『麦と兵隊』には、
淡々としたドキュメンタリータッチがより強く、それが戦場の有無を言わさぬ行軍行軍の日々を
かえって鮮烈に表わしているような印象を受けたせいもあったのだと今にして思う。
そういった意味で、同じ火野作品の中でも、私は流行歌にもなって人口に膾炙した『麦と兵隊』
よりも、『土と兵隊』の方に強い印象を受けたのは、前者は火野が従軍作家の命を国から受けて
いわば少し外部から軍の進行や戦闘を描いたものであり、後者の『土と兵隊』の方は、
火野自身が伍長として戦っている、つまり軍の内部に文句なしにいるその肉体的実感が
より生々しく、下手な理屈や観念論や生死観などというものが入りこむ隙なく、即物的に
描かれていた故の強さがあったからではなかったろうか、と思うのだ。


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Re: 鍵コメさんへ

鍵コメさん。今晩は~~~♪
見えました~~~~~~~~~!^^

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Re:鍵コメさんへ

ああっ!鍵コメさん。ありがとう!
ほんと、ほんとですね!
意味から考えてもそうなりますね。早速訂正しました~♪
ありがとうございま~す。
これからもお気づきのことあったら、教えてくださいね。^^

パソコンがこのところずっと思うように動いてくれず、今日も絶不調。
朝から苦闘していて、ようやく動いてくれるようになりました。
もし、しばらく更新とかなかったら、パソコンのせいで~す!(笑)

ありがとうございます♪

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Re: 玄少子さんへ

玄少子さん。今晩は~。

『これは極力言葉を選んで書かれた一文でしょうね。
実際にはもう少し強い気持,もっといえば不穏当なことをかんがえられたのではないかと,勝手に想像しておりますw。』

はい!その通りです!(笑)
私は日本の文学の歴史のことなどあまり詳しくはありませんが、何となく、石川達三の
この作品一つをとって見ても、何か実験的と言いますか、頭でっかちな気がするんですね。
20世紀初頭は文学の流れにしても美術にしても西洋から新しい実験的な試みが
どんどん伝わってくるでしょう。
それら自体が悪いというのではなく、受け手の日本側が、まだそういうものを消化しきれないまま、
旧来の写実主義とか自然主義とかにも美点はあったがそれを捨て去ろうとしていた、非常に
不安定な過渡期にあった気という気がするんです。大地にしっかり足をついた、いわば体の痛みを
五感でしっかり感じる時代ではなく、頭でっかちな理論やムーヴメントそのものが独り歩きしていたような。

『宮本百合子たち自身はプロレタリア文學運動,の流派の対立のなかで,この観念的なものをさらにもっとこまかくした,もっと無意味に思える観念的な文學の形式の論争,政治的なおもわくとセクト的な対立の中で文學の純粋からはより遠い内部鬪爭に終始していた,巻き込まれていた,ともいえるわけでしょうがw・・・,』

そうそう。そのことも、ここで書かずにでも心では強く思っていたことです。^^
私、プロレタリア文学の系譜にはさらに無知ですので下手なことは言えないので
書きませんでしたが。(笑)
ただ、外部から見ると、内部の事情をいちいち知らないだけに、その分裂と内部抗争で
肝心の敵に向かう力をそがれて行っているようなありさまが腹立たしく!(苦笑)
それは60,70年代の学生運動や社会党のありようをずっと見ていて感じる情けなさと同じですね。
ちっとも変わらない。
…まあそんなこんなのなんというのでしょうか、文学者や評論家はなにをしていたんだろう!
という歯がゆさが、このご指摘の箇所にはこめられていました。
さすが。すぐにお気づきになられますねっ!(笑)

『理屈や観念論や死生観などというものが入りこむ」からこそ文學にちからがある,ことも一面の真実ではありますが・・・・。』

そうですよね。ただ、この小説はいかにもその死生観などが、未消化のまま、むきつけに
語られてる感じがするんですよ…。ために書いていると言いますか、登場人物に死生観を
語らせるためにその前に殺戮シーンが用意されている、というような。

だから残酷なシーンが続き、主人公たちが内省するわりには、その苦悩が伝わってこない。
そう。ヒューマンドラマになっていないんです。

『しかしそうしたあざとさ,とはまったくちがった文壇的野望,と日中戰爭につきすすんだ日本人のあくなき欲望は同じ種類のものに見えてしまいます。』

はい。数少ない国威発揚文学でない作品、ということでこれを取り上げて今書いているんですが、
書けば書くほど、「むむ~っ?」と、石川氏に対して疑問な箇所がどんどん見えてきてしまいます。
今、どうまとめようか、それで苦労しています。(笑)

実は今、読売新聞の従軍記者だった小俣行男と言う人の、『侵掠』と言う本を読んでいるんですが、
このひと一九三八年一月から一九四二年八月までのほぼ五年間、日中戦争から太平洋戦争のビルマ戦
まで戦場を駆け廻った時の記録を、自分の膨大な従軍メモをもとに書いているんです。
冒頭に紹介されている写真などの中に、後に出所が怪しいとして、いわゆる自虐史観(!)の人々も
使わなくなった写真などもあって、本田勝一氏などと共に、反自虐史観の人々からは
いかがわしい人物と思われている人のようですが、そういう点で残念な個所もあるのですが、
でも、この戦場の記録が実に生き生きしてるんですよ。
そりゃそうですよね。弾のびゅんびゅん飛んでくる中、最前線で兵士たちとずっと5年間も行動を共にして
来た新聞記者の記録ですから。彼自身が目撃した日本兵の捕虜殺害のシーンなどもあります。
それを読むと、この『生きてゐる兵隊』が、とても生ぬるく思えてきて、今、困っているんです。(苦笑)
翼賛報道の裏側、と言うようなこともあからさまに書いてありますし、読み物としても
非常に面白い。
玄少子さんが、牟田口廉也のこと、書いてらしたでしょう。あのように、同じ人物が
結局、中国のあちこちの戦線を転戦し、やがてビルマなどまでその都度出世しながら
度々歴史の表舞台に登場するでしょう。それは勿論兵たちも同じなんですよね。南京攻略戦を
戦った兵たちがさらに中国で転戦転戦を重ねて最後には南方で玉砕する…
ただ彼等は名もなく死んで行っただけで……
その兵士たちの哀れさを、この本によってあらためて実感しました。
そして、玄少子さんが、中国からの視点を授けて下さったでしょう。^^
同じ戦場の戦いを、日本側からだけでなく、中国の複雑な事情も勘案しつつ見ると、
ほんとうに、あの戦争のとんでもない規模の大きさと、それを日本軍が無謀にも仕出かして
しまったんだと言う虚しさと怒りがあらためてふつふつと湧いてきます。
いわば、日中戦争、太平洋戦争の全体図をすこし実感として見れた。

それに比べると、この作品が急に弱く思えてきてしまって。

『後世私たちが手にとってみて,“反戰”,や,自由の希求という意思を,単純に力づよくうけとめられるものがあまりに少ないことに,ただただ,ぞっとします。いったいなんなんでしょうねw』

いやほんと。そのことに尽きます。
それなんですよ~~~! 今またあらためて感じさせられるのは。
あまりにも不作不毛の時代。
それがね。今も同じようになりつつある気がするんですよね~~~……
この、自由な時代に、ジャーナリズムが真実を追及する魂を失ってしまい、
文壇なるものも、3.11後の立ち上がりの遅かったことったら!(そもそも立ち上がったのか?)

さて。そういう方向で話を進めて行きたいのですが、ちょっとつっかかっています。(笑)
ありがとうございます。少し頭が整理できた、かなぁ?(爆)

No title

こんばんは!
興味深く読ませていただいてます。

「検閲がさらに厳しくなって文学の自由が奪われてしまうその前に、
日本の文壇というものが、ひょっとして、観念的なものに陥って内省的になりすぎ、
文学の力を失っていたのではないか。」

これは極力言葉を選んで書かれた一文でしょうね。
実際にはもう少し強い気持,もっといえば不穏当なことをかんがえられたのではないかと,勝手に想像しておりますw。

「理屈や観念論や生死観などというものが入りこむ」からこそ文學にちからがある,ことも一面の真実ではありますが・・・・。
戰爭を題材に小説を作る,こと,それ自体は読み物として面白くなければいけないわけでありますが・・・・。
でも,たとえば五味川純平の『人間の條件』とおなじような“ヒューマンドラマ”としでも,『生きてゐる兵隊』をうけとれませんし。わたしも「所謂意欲的な創作意図の一典型としてみられる性質の作品」といういいかた以上にもっと,“したごころ”をかんじてしまいます。

宮本百合子たち自身はプロレタリア文學運動,の流派の対立のなかで,この観念的なものをさらにもっとこまかくした,もっと無意味に思える観念的な文學の形式の論争,政治的なおもわくとセクト的な対立の中で文學の純粋からはより遠い内部鬪爭に終始していた,巻き込まれていた,ともいえるわけでしょうがw・・・,
しかしそうしたあざとさ,とはまったくちがった文壇的野望,と日中戰爭につきすすんだ日本人のあくなき欲望は同じ種類のものに見えてしまいます。

後世私たちが手にとってみて,“反戰”,や,自由の希求という意思を,単純に力づよくうけとめられるものがあまりに少ないことに,ただただ,ぞっとします。いったいなんなんでしょうねw
また。
プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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