『大雪と原発 ②』

さて。続き。

前の記事で、大雪の日の連想から、山梨県北杜市と小河内ダムの関係を述べた。
大東京の水を確保するために山梨県の丹波山村・小菅村や東京都小河内村の合計945世帯
約6千人(そのほとんどが小河内村の647戸)が、この北杜市や東京都奥多摩町、青梅市、
福生市、昭島市、八王子市、さらに埼玉県豊岡町等に移転したのである。
(小河内村は氷川町、古里村と合併し、昭和30年、『奥多摩町』となっている。)

それでは、その小河内ダム建設はその後どのように進捗して行ったのだろうか。

小河内ダムは、石川達三が『生きてゐる兵隊』で、発禁処分を受けたあの昭和13年11月に着工している。
その後、日本は太平洋戦争へと突入。激化する戦局の中で昭和18年、工事を中止。
終戦後の昭和23年に工事が再開される。ダムが完成したのは昭和32年(1957年)11月26日の
ことであった。実に19年余りの歳月と約150億円の総工費をもって完成したのであった。

ダム工事は当時の技術不足や戦争遂行のための資材不足、労働力不足などから困難を極め、
建設中に東京都職員や建設会社社員、下請作業員ら、実に87名が殉職し、
昭和33年(1958年)湖畔にその慰霊碑が建てられている。

その慰霊碑の裏には、中国人、朝鮮半島の人とわかる殉難者の名前も刻みこまれているという。
日本では戦中多くの中国人や朝鮮半島の人々が強制連行、または徴用されて、
こうしたダムや、炭坑や、銅山などで苛酷な仕儀とに従事させられていた。
あるサイトで、小河内ダムの慰霊碑を見て来た人の記憶によると、半数近くが
それらしい名前だったという。
しかしまた別の資料では、韓国人犠牲者6名と書いてあるのもあって、中国および
朝鮮半島出身の人々の正確な殉難者の人数はわからない。
ダムや水道局広報課に電話したが、即答はしてもらえなかった。
いつか自分で行って自分の目で確かめて来られたらいいなあと考えている……

戦中の日本におけるダム建設で、多くの日本人技術者や労働者が事故で亡くなったことは
みなさんもご存じでいらっしゃるだろう。
同じくこれら中国・朝鮮半島から連れてこられた労働者のうちの殉難者も、小河内ダムに
限らなかった……。

私の住む街から、北杜市のある山梨方面に向かう中央本線の駅に相模湖駅というところがある。
相模湖は相模ダム建設によってできた人造湖である。
ここには、私の娘などが小さい頃には遠足で行き、また後年、私も娘と共に、周辺を
探索したこともある美しい景観の湖である。
夏には、いつも私がパソコンをする二階の部屋から、この相模湖で行われる花火大会の
音が聞こえてき、大きな打ち上げ花火なら、その上辺が遠く私の窓からも見える。

相模ダムは日本初の多目的人工湖で、1940年から47年までの間に建設され、いまでは
神奈川県民にとって不可欠の飲料水用ダム・発電所・観光地になっている。
相模ダムを建設するため、当時の日本は述べ360万人の労働者を動員した。

相模ダムについては以下のブログに詳しい。要約して引用させていただく。詳細は原文を。
http://blog.livedoor.jp/kanagawagaikiren/archives/73397.html

『在日者の足跡』
  「相模湖・ダム」神奈川外キ連(外国人住民基本法の制定を求める神奈川キリスト者連絡会)」


1931年に満州事変が勃発してから、日本の軍事費は大幅に膨張した。
川崎・鶴見・横浜を中心とした京浜工業地帯で軍需品を量産するための大量の電力と
工業用水の確保が急務となった。
1935年、神奈川県知事石田馨は、相模川上流域にダムを建設することを計画。
1938年、半井清知事によって県会に提出される。しかし、地域住民を中心とする
デモ隊2000人が県会議事堂をとりかこみ、地元では土地不売同盟が結成されるなど、
激しい抵抗運動が起こった。
しかし県当局は、陸軍大将の小磯国昭・杉山元・荒木貞夫らを迎えて一大デモンストレーションを行い、
住民は結局、軍事体制に協力せざるを得なくなる。
138戸の住民が転居させられ、1940年11月、相模湖・ダムは着工された。
工事の中断もあり、完成は、敗戦後の1947年。
この間のべ360万人がダム工事のために働いた。戦時中の労働者不足で、北陸や東北からの出稼ぎ、
学徒動員・・・そして建設工事に携わった6割の人が「朝鮮」出身労働者であった。

「日本・韓国朝鮮人の殉職者殉難者名簿」には52名の名前があるが、名前から推測して、
「韓国朝鮮人の殉職者殉難者」は17人前後。病死者(病死扱いにされた)の数は、はかりしれない。
逃亡者は多く、逃亡が見つかると死にいたるほどの暴行を受けが、「朝鮮」出身労働者の逃亡は
後を断たなかった。
一方、捕虜として強制連行され、相模ダム建設で働かされた中国人が287人いた。
「中国人の殉職者殉難者名簿」には28名の名前がある。その死因は、作業中の転落などの事故、
大腸炎・結核などの病気のほか、自殺・精神病・警察取調中・不明などが書いてある。


別のサイトには、この住民の激しい反対運動を抑え込むために、県当局が行った
上記、『陸軍大将の小磯国昭・杉山元・荒木貞夫らを迎えて一大デモンストレーション』
の詳しい内容が書いてあった。
国や県そして軍部のそのあこぎなまでのやり口…そして、その時代がどういう時代であったか、
とてもわかりやすいので、そのまま引用させていただく。


『文献にみる補償の精神【11】戦争という大義』(相模ダム)
            古賀邦雄 水・河川・湖沼関係文献研究会
http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=244

 結局、水没者の人々が同意をしたのは、時代への流れであり、戦争であったという。
この書に「それが端的に現れたのは陸海軍将星の相模川べりのデモである。
勝瀬の人々の間には、なお強い反対の空気が濃かったころである。与瀬町に集まった将軍たち
ーーー荒木貞夫、杉山元、小磯国昭といった飛ぶ鳥おとす陸軍の将星に加え、海軍も加わり、
勝瀬地区を中心に陸海合同の観兵式をあげたわけであるから人々のきもをつぶす示威であった
」とある。
このように水没者には、強権的ともいえる軍の圧力をひしひしと胸に堪えたことであろう。
それは「戦争のため、国家のため」という大義名分を自ずと醸成せざるを得なかった。

昭和初期の時代を振り返ってみると、昭和6年満州事変、7年上海事変、11年2・26事件、
12年盧溝橋事件、日中戦争、14年ノモハン事件、第2次世界大戦、そして昭和16年12月太平洋戦争
が始まった。
一方、戦時体制のなかで京浜地帯では、重化学工業が軍需の増大で飛躍的に発展し、
内陸部の相模原では軍都の建設が進み、大量の水と電力を必要とした。
このように戦争へ突入した非常時において、勝利のためにあらゆる犠牲が強いられ、
相模ダムの水没者にかかわる補償の精神は、「戦争という大義」によって貫かれていく。
とくに、昭和13年「国家総動員法」の成立、15年「大政翼賛会」の創立と、
戦争への挙国一致体制が整いダム建設における個人的な補償要求は一刻も早く解決せざるを得なくなった。
「大義とは、人の踏み行うべき重大な道義、特に主君や国に対して臣民のなすべき道」とあるが、
水没者は、「戦争という大義」に拠る「補償の精神」のもとに、止むなく契約同意せざるを得なかった。
戦争という時代の流れには逆らえなかった。


『おおゆきと原発 ①』で書いたが、
小河内村の人々などが、『帝都の御用水の爲めの池となることは、村民千載一遇の機會として、
犠牲奉公の實を全ふするにあつた』
『國内摩擦相剋を避けんとする國民總動員運動の折柄に、我等は此の衝突こそ事變下に許すべからずとして』
と、泣く泣く村を去ったのとまったく同じである。
本当に。『顧りみれば、若し、日支事變の問題が起らぬのであつたならば』!である……

また。
下記のサイトでは、1930年代から1940年代にかけて、軍需生産の拠点である
広島と呉へと電力を供給するために行われた電源開発工事における朝鮮人労働者の実態が見られる。
http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/kyosei/1206hiroshima.html
広島県の北方の山々を水源とする神野瀬川発電工事は、
高暮ダムにおける朝鮮人労働者強制連行と、その虐待とも言えるひどい労働実態から、
地元の人々の間で『白骨ダム』と呼ばれていた。過酷な労働や虐待に絶えかね逃亡者も多く、
今世紀に入ってからも周辺から複数の白骨が見つかっているのがその所以。
ダム本体の打設では、上からシュートで落とされるコンクリートに人が巻き込まれても、
そのまま救出する事もなく作業は続行され、堤体の中に埋められる者も居たと、
逃走して生き延びた方が証言しているという。

どんなところでしょうか。
高暮ダム

ああ…小河内といい相模ダムといい、この高暮といい、日本のダムには、なんと多くの
日本人技術者労働者の犠牲と共に、こうした、強制・半強制、徴用と言う名目で
中国・朝鮮半島から連れてこられた人々の悲しい歴史が埋もれていることだろう…!
この三か所だけではない。あなたの住んでいる近くのダムの歴史をちょっと調べてみて欲しい。
さらには、ダムだけでなく、日本全国の炭鉱、銅山、トンネル、橋脚その他の大規模事業においても、
こうした連行と強制労働の歴史が次々に出てくるはずだ…

1942年(昭和17)、東條内閣は戦中で人材不足していた日本産業界の要請で
「華人労務者内地移入二関スル件」を閣議決定する。1946年に外務省が東亜研究所に委託して、
戦時中の華人労務者等に関する現地調査を行った「外務省報告書」によると、
華人労務者は「自由募集」とともに、「行政供出」「特別供出」「訓練生供出」により集められ、
このうち「行政供出」については半強制的な面もあったことが記されている。

企業35社(135事業所)が厚生省に必要な華人労働者数を申請し、運輸省と軍需省が協議をして
各事業所へ割り当てて人数を確定し、大東亜省が現地の在中日本大使館、労務統制機関などと連絡取り、
汪兆銘政権(南京国民政府)は日本の要請から華北労工協会・日華労工協会・華北運輸公司・
福日華工会社などの中国側の労務統制機関を通じて労務者を集め、労務統制機関の職員の他に
武装した軍隊も協力して北京、保定、塘沽、大連、石門、済南、青島、徐州、呉淞、邯鄲にあった
「訓練所」と称する集結地に集めてから日本へ移送したとされる。
報告書によれば、訓練所では病人が続出し死者も出るとともに逃亡を防ぐために
厳しい警備が敷かれており、さらに日本への船中で564人が死亡したとされる。
外務省報告書の移入集団別素質によると、集められた華人労務者の75%が農民で
12歳の少年から78歳の老人まで及び、日本全国の135事業所に38,935人(15歳~60歳位)
が送られ、6,830人が死亡していることが記されている。(
以上、Wikipediaによる)

こうして強制連行された中国人らが虐待に耐えられず起こした反乱としては、花岡事件が有名である。
戦時下、秋田県花岡は年間3000トン以上の銅を産出し、最も将来性のある鉱山とみなされていた。
鉱山労働力が不足した戦争末期には、秋田県花岡川の改修工事などを請負った鹿島組により
1944年以降に現地移入された中国人は986人に上り、1945年までにうち137人が亡くなった。
彼らは過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜に、国民党将校耿諄の指揮のもと
800人が蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。
7月1日憲兵、警察、警防団の出動により獅子ヶ森に籠っていた多数の労働者も
拷問などを受け弾圧(殺害)され、総計419人が死亡した。
ここに連れて来られていたのは中国人だけではない。朝鮮人の連行は1942年から始まり
解放までに4000人以上が連行され、連合軍捕虜も約300人が連行されたという。

その他にも、ちょっとネットで検索しただけでも、どれほどの悲劇が日本各地で起きていたことか。
折しも、この2月26日。
戦時中に日本へ強制連行され過酷な労働を強いられたとして、中国人元労働者や遺族の
合計37人が26日、三菱マテリアル、日本コークス工業(旧三井鉱山)の2社を相手取り、
謝罪と損害賠償を求める訴状を北京市第1中級人民法院(地裁)に提出している。


日中国交正常化をうたった72年9月の共同声明は、
「中国政府は日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」と規定している。
中国人の強制連行訴訟は日本で数多く起こされたが、相次いで敗訴が確定している。
おそらく今回の訴えも、仮に北京市第1中級人民法院(地裁)が習近平指導部の意向を踏まえ、
訴えを受理したとしても、今の安倍政権下の日本企業は、相手にもすまい。

ただ……。
私たちは、戦争が終わって何もかもかたがついたのだと勘違いしていはすまいか。
しかし、私たち日本人が都合よく過去のことを綺麗さっぱり水に流して忘れることが出来ても、
日本の侵略の犠牲になった国々の人は、容易にそのことを忘れはしない。

中国、朝鮮半島の人は、いつまでも日本人を恨んでしつこい!と思うだろうか。

1月25日。NHK新会長の籾井勝人氏は、就任会見の際、慰安婦問題への個人的見解として、
「今のモラルでは悪いことだが、当時の戦争地域には大体つきものだったと思う。」
「日本だけがやっていたようなことを言われるのはおかしい。ヨーロッパはどこだってあったのではないか」
と主張してフランス、ドイツの名を挙げた。「なぜオランダにまだ飾り窓があるんですか」とも述べた。
韓国についても「日本だけが強制連行したみたいなことを言っているから話がややこしい。
お金をよこせ、補償しろと言っている。しかしすべて日韓条約で解決している。
なぜ蒸し返されるんですか。おかしいでしょう」と述べた。その後、発言を「全部取り消します」と
言ったが、籾井氏は、日本軍が韓国人女性だけでなく、オランダ人女性に対して犯した罪のことを
知らないのだろうか。いわゆるスマラン事件のことを。白馬事件

1944年、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所から
スマランにあった慰安所に強制連行し強制売春させ強姦した容疑で、戦後、国際軍事裁判において
(将官や兵站責任者の佐官などの高級将校を含む)当該軍人・軍属(請負業者)たちに
有罪が宣告された事件である。
日本軍が関与してそんなことがあったことを知っていたなら、どうしてぬけぬけと、
『オランダには飾窓の女が今も公然としているではないか』と言うような恥ずかしいことを、
一国を代表する公共放送の長として言えるのだろう?
この論理は、朝鮮人従軍慰安婦について語る人の中にも、時々見られる論理である。
曰く、『韓国兵だってベトナム戦争の時にベトナム女性を云々…』『韓国には妓生文化が云々…』
どこかの国が何かをやっているからそれで自分の国がなにをしてもいい、という論理は
全く成り立たない。
皆がやっていれば、どんな犯罪も悪事も許されると言うのか?
他の誰が何をやっていようとそれで自分たちの罪が許される、などと言うことはないのだ。

日本軍は外国の地へわざわざ大挙して出かけていってその地でそこの人々の財産や命までもを奪い
蹂躙したのみならず、どんな理屈をこねようと、こうやって他国の人を強制的に連れてきて、
苛酷な労働や虐待や栄養失調などで、日本で死なしめたのである!

太平洋戦争における戦勝国の中でも、オランダ、オーストラリアなどは
戦中に自国民が捕虜収容所等で日本軍から受けた虐待を、なかなか許せないでいる国の
代表である…
世界は、日本のしたことをまだ決して忘れてはいない。

同時に、日本人が日本でなしたことの遺跡もまた、今は美しいみどりに覆われているかも
しれないが、ダムのように、私たちの周りに、『日常』としてあり続けているのである…。

              ***


大雪被害のひどかった北杜市への想いから、思わずいろいろなことに連想が広がって行って
しまった…。(苦笑)
しかし、私がいつも繰り返して言う、『物事はその底辺で繋がっている』…と言うことを
ここでも述べてみたかったのである。

ちなみに、今回の大雪で、東京都奥多摩町はやはり孤立状態になっていた…。
東京都奥多摩町…。山梨県丹波山村、小菅村も……。
…それらの地名がこの記事の冒頭に出て来ていたのにお気づきだろうか。
ツイッターでの声。
「国道411号線の雪崩をどかして通過した直後に再び大規模雪崩…危ねぇ…」
「山梨県丹波山村が孤立状態かな? 西ルートの国道411号柳沢峠がダメ、
村から小菅へ向かう県道18号もストップ。大月から奥多摩経由の国道139号もストップ。
奥多摩の国道411号も雪崩が起きた写真来ているし・・・」


このあたりこそ、まさに…!
同じくツイッタ―での声が、私の言いかけたことのそのあとを呟く…。

『このあたりは小河内ダム建設道そのまんまだもんな』


                 ***

いろいろなことの構造は、なんと似ていることであろうか。
大東京や、横浜、広島など都会のために先祖以来守ってきた地がダムの湖底に沈んで
故郷を永遠に失ってしまった人々…
その横面を札束ではたいて言うことを聞かざるを得なくしたのは、ときの権力者…政治家や、
軍部や大企業である…
大都会のために電気を作り出す原発の関連施設…福島や青森県六ケ所もなんと事情が似ていることであろう…

そうしてまた、別の構造であるように見えるが、中国や朝鮮半島の人々に対し、私たちがしてきたこと…
それもまた、この、大都市への富や利便の一極集中と小村の過疎化、という問題と
底の方で、しっかり繋がっている!

最後にさらにもう一つ。
上に挙げた、中国人強制労働者の悲劇が起きた秋田県花岡鉱山跡地は今どうなっているか。

鉱山跡地の活用方法の一環として、首都圏のゴミ焼却灰の埋め立てをエコシステム秋田(廃棄物処理業者)など
関連会社が連携して行っていたが、2011年(平成23年)の福島第一原子力発電所事故により
飛散した放射性セシウムを含む焼却灰が千葉県流山市などから持ち込まれていたことが
判明した。
焼却灰は、JR貨物により秋田貨物駅を経由し大館駅に搬入され、すでに流山市から
エコシステム秋田に搬入された溶融飛灰207トンは、薬剤処理のあと2011年7月までに
エコシステム花岡(土壌浄化処理、資源リサイクル業者)と鹿角郡小坂町のグリーンフィル小坂
によりそれぞれ花岡鉱山跡地と小坂鉱山跡地に埋め立て処分された。

未処理の焼却灰はしばらく大館駅にコンテナのまま保管されていたが、7月14日に
コンテナ3本を流山市に送り返している。
(以上Wikipedia)


この記事続く。



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Re: 玄少子さんへ

玄少子さん。こんばんは♪

は~い。ちょっとした雪の日の想いが、際限もなくいろんな方向へ
広がって行き、自分でも苦笑。
しかし、一つのことを調べていくと、ほんとに芋蔓式に、あっちにもこっちにも
繋がっていて、それが連環となって、また元に戻ってくる。
このあともまだまだ膨らんで行きますよ~~~。^^

私は若い頃、あまり勉強して来なかったので、今回少しダムのこと調べ始めたら、
それこそそこに、これまでいろいろ書いてきたことが次々につながってきて、
いまさら恥ずかしながら、愕然としています。
一つのことが別のことに連関してそれがまた別のことと繋がって、ついに連環して
元に戻ってくる…
花岡事件のことなどは、日本人および日本軍によるアジアの人々の強制労働のこと
調べていると、しょっちゅうどこででも出てくるのですが、それが福島の事故とも
一筋の糸で繋がっていくんですよね~……
日本が明治の頃から進めてきた富国強兵政策は、日本を急速に世界の列強になんとか
伍する位置まで日本を大きくしてきたけれど、それは大きな矛盾と無理を重ねつつ
やってきた。
それはアジアの人々にとんでもない大きな犠牲と不幸を強いることになったのですが……
だがまた日本人自身も大きな犠牲を払っています。
何百万と言う人間が死にました。そしてまた、このダム建設などに象徴されるように
戦争遂行のために塗炭の苦しみを味わわねばならなかった人々がいた。
日本は敗戦後の焼け野原から雄々しく立ち上がったけれど、そのあと日本が
世界第二位の経済大国にのし上がるために、また日本は、大きな矛盾と無理を
どこかで重ねてきました…
原発などはその象徴と言えますよね。
考えてみれば、日本は敗戦で一時中断しはしたけれど、明治以降ずうっとこの
上り坂を、無理を重ねながら上って来たんじゃなかったでしょうか。

その無理や矛盾の痕跡があちこちにあるわけですね…。
私たちは普段そんなことは考えないし、見ようともしない。
でも、常に真っ先に犠牲になるのは、社会で弱い立場にいる人です。
原発事故が起きて一番犠牲になったのも、動けないご病人やお年寄り。
被曝の影響を一番受けるのは幼い子供たち。
国家戦略特区とやらでいい想いをするのは、戦争中の大企業と同じにやはり大企業で
真っ先にその冷たい構造の煽りをくらうのは、立場の弱い非正規労働者です。

このインドネシアにおける日本軍の慰安婦問題だって、おっしゃるように、
白人であるオランダ人女性に対するのと、インドネシアの女性に対するので
その謝罪のし方や、補償までが扱いが違うという、理不尽な事実がありますよね。
現地の女性たちはバタビア、マラン、ボルネオ、アンボン、セレベス、スマトラにまで
連れていかれて慰安婦にされている。日本が戦争に負けると、彼女たちの中には
故郷に帰れず、置き去りにされた者もいたそうですね。
オランダに関する戦後の裁判では、200~300人のオランダ人を主とした白人女性への
暴行については裁かれたけれど、インドネシアの女性に関しては一件だけというその差!
同じ日本兵の被害者でありながら、そんなところにさえも差が出てくる…

同じ被害者に対してさえ適応されるこの差別の構造と言うのは、しかし、
日本人に限ったことではないのかもしれません…

それは、中国の被害に対しては少しは裁判が行われたけれど、朝鮮半島の被害に対しては、
日本人の意識も、GHQの意識でさえ、関心度が薄い、と言うところにも見えるかもしれません。
また、略奪や処刑、捕虜の虐待問題などに比べ、慰安婦に対する関心がGHQにも薄かったということは、
アメリカでさえ、男女の平等意識がまだ真に根付いていなかった…女性の被害者に対する
問題が男目線で判断された…という側面があったかと思います。

世の中の悪や不正や不条理の構造は、本当にいつも、どこでも、似ていますね。
いつも弱いものが真っ先に被害者となり、そしてその被害補償の際にさえ、
差別を受けがちです…

もう一つのスマラン事件。
それは私、知りませんでした!
ざっと調べてみましたが、これもなんだか、複雑ですねえ…。
戦争が終わっても内地にすぐに戻れなくって死んで行った日本兵たちを
哀れとも思うけれど、日本が結局インドネシアに対してしたことを考えれば、
日本がインドネシアの独立を早めたんだ!などと胸を張る気には到底なりませんね。

郁達夫の生涯も、なんとも寂しいというか…見事というか……
本当に激動の時代でしたね……

ワヤンクリ、は漠然と知っていますが、実際に見たことはないです。^^
玄少子さんは、ほんとにいろんなこと知ってらっしゃるなァ!^^
ありがとうございます!







ワヤンクリってステキなんですヨ!^^

そうですか,うん,そうか~うんそうです,うんうんうん,とうなるばかり。ありとあらゆるところに20世紀の日本の悪い歴史の痕跡が残っていますねえ,何故一部の日本人はこんなにも過去の悪さにめをつぶっていられるのか不思議でなりません。内地のできごとなのに。

ジャワ島は東インドとしてオランダ統治が長かったのではじめは日本も解放者としての側面があるにはあったわけですがね。それを理由に今もずいぶん高慢ちきな擁護している人が結構いますね。
デヴィ夫人みたいなのもおるし。
何ヶ月かまえに朝日でインドネシアの慰安婦問題がすこうしクローズアップされてましたが・・・・。かなりの数のインドネシアの女性が徴用されてますが,オランダ女性には手厚い補償もあったようですがね・・・・。
稲作文化と火山国,同じ島国,日本とは非常に似たところのあるジャワ島。
日本がもたらした災厄もほんとうにすさまじいものがありましたね。

まあとにかく日本軍はやりたいほうだいでしたね,占領初めのころは軍はそれでも規律があったけど,日本人の民間人がほんとうにひどかった,というはなしもあります。
わたしがいつもいう例の“軍官民いったいとなって”というやつですねw
また彼岸花さんがいつもおっしゃる『物事はその底辺で繋がっている』,です。ジャワは戦後も日本人の武装解除にからんで2~3000人死者を出した事件もありました。
これもスマラン事件いわゆる五日間戦争というのですが,戦後焼け跡の日本はラクだったとは言いませんが,まあアジアはひどいめにあわされてますね

じつはわたしはワヤンクリというジャワの人形劇が大好きでジャワにはとても親近感を持っているのです。それと
郭沫若の盟友でもあった文人の郁達夫が,やはり当時スマトラにいて日本語もできるという事(東大出身)で,身をたてにしてインドネシア人や中国人を日本軍から守るために奔走し,結局憲兵にころされてしまいました
とかまあ,,そんな経緯などもあってインドネシアには思い入れがあり・・・・ついスマランとかオランダとかの文字を見ておもわずあつくなってかきばしりましたがががーーっつ。
こういう記事をめにするだけでも本当にうれしいです。

わたしなりの感激の表現でありまして・・・・,どうもしつれいしましたw^^;

Re: 鍵コメさんへ

鍵コメさん、こんにちは。
いまだに携帯が鳴ると、ぴょん!っとびっくりぎょっとして
5センチくらい飛び上がる彼岸花です。(笑)
スマホを手放さない、などと言う人の気持ちがわからないなあ…(笑)

了解。
とにかくお体が第一ですが、お急ぎの事情もわかりました。
いいのがあるといいなあ…。

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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
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