『大雪と原発 ③』

さて。だいぶ間が空いてしまったが、『大雪と原発』の記事のつづきを仕上げなければならない。

初めてこちらにお越しの方は、ブログ横の最新記事のところの『大雪と原発①、②』を
ご覧ください。

2月14日から降り続いて、首都圏を襲った記録的な大雪。
山梨県においてはとりわけ人的そして物的被害が大きく、
私はたまたまその山梨県の雪のニュースを見ているうちに、
東京都の水がめ小河内ダムを作るために湖底に沈んだ旧小河内村とその近隣の村、
それと山梨県北杜市の関係を知ることになり、そのことを詳しく調べることになったのである。
思いがけず、物事は深いところで繋がっていき、長い記事になりつつある。先を急ごう。


                  ***
   
旧小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人は、
ダム建設のために父祖の地を去って、山梨県北杜市や東京都奥多摩町、青梅市、福生市、
昭島市、八王子市、さらに埼玉県豊岡町等にそれぞれ移住していくことになった。
(もっとも奥多摩町は、旧小河内村などを併合して出来ているので、正確に言えば同じ町内、
ということになるが)

2月14日から降った歴史的なあの大雪は、これらの地を同じように、白く覆ったのである…
彼等が去った土地も、移り住んだ土地も、同じ雪が被いつくしたのであった……

昭和13年。彼等が去った地では、小河内ダム建設に着工。
日中戦争からさらに太平洋戦争へと突き進んだ当時の日本。物資不足や人手不足、
また技術不足などから、大変困難なダム建設が行われ、その時中国や朝鮮半島から多くの労働者が
連れて来られ、粗悪な労働環境や虐待や事故で亡くなった者がいた、
と言うことを『大雪と原発①②』で書いた。

それでは、一方、小河内ダムの水底に沈んだ村から北杜市などに移り住んだ人々のその後は
どうなって行ったのだろうか。
それを追って行くと…
こちらには、どこにあっても逞しく生きようとする村の人々の、個人と村の互助の、
その努力の結実の歴史があった…


              ***

まず北杜市とはどんなところであろうか。

北杜市(ほくとし)は、山梨県の北西部に位置する。山梨県内の自治体として最北端にあたる。
八ヶ岳や甲斐駒ヶ岳といった山々に囲まれ、市域のおよそ3分の1が八ヶ岳南麓の
冷涼な山岳高原地からなっているため、高原観光によって支えられている街である。
市内にはアウトレットモール、牧場といった観光スポットが存在し、夏場には観光客が多くみられる。
南アルプスからの湧水によるウイスキー製造、日本一長いといわれる日照時間や
映画にも登場したヒマワリ畑などでも知られている
。(Wikipediaによる)

中でも清里高原(きよさとこうげん)は、山梨県北杜市(旧北巨摩郡高根町)周辺に広がる高原。
八ヶ岳の南麓に広がる観光地として有名である。
アメリカから来日したキリスト教の宣教師で、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが設立した
キープ協会が運営する「清泉寮」や「キープ農場」、工芸家のギャラリーなどがある「萌木の村」などが
観光名所となっている。
清里高原は避暑地として有名。「八ヶ岳高原線」とも称されるJR小海線は鉄道最高地点を走る。

清里

写真は清里高原ペンションビレッジ宿泊組合さんのサイトからお借りしました。
>http://www.eps2.comlink.ne.jp/~kiyo-pv/kiyosato.htm

うわあ!いいところだなあ!

さて、今はこうして美しい自然そのものを観光資源にして、『清里』と言えば、
軽井沢や日光などと同じように、多くの人のある種の憧れの避暑地にまでなった町であるけれど、
ここがこうやって栄えるようになるまでには、人々の言うに言えない努力の歴史があったのである。
北杜市清里の発展の歴史を語るのに欠かせない恩人が二人いる。
ひとりは上にちょっと紹介したアメリカ人宣教師ポール・ラッシュ(1897~1979年)である。

明治30年(1897年)、アメリカ・ケンタッキ-州で生まれたポ-ル・ラッシュ博士は、
1925年28才の時、1923年の関東大震災後の日本のキリスト教青年会拠点を立て直すために
宣教師として来日。聖路加国際病院の建設資金の募金活動を行った。
アメリカン・フットボ-ルを日本に紹介したことでも知られている。
清里に活動拠点として「清泉寮(せいせんりょう)」を建てた。戦争中は、強制的にアメリカに帰されたが、
終戦後の昭和20年には、再び日本に来て、清里での計画を進める。
山間高冷地で米作に適さなかった清里高原に、ジャージー牛を紹介して
高原がそののち酪農王国となる礎を築き、また、西洋野菜の栽培促進による開拓支援を行ったのである。

ポール・ラッシュに関しては、彼が終戦後再来日してから、GHQの参謀第二部(G2)の
民間情報局(CIS)に属し文書の編集課長をしていたという、別のエピソードがある。
G2に残された石井ファイル(あの731部隊の創設者、石井四郎元中将の取調及び免罪工作に関与する文書)
に、ラッシュの名前が記された文書が多数あり、どうやらラッシュは石井の免罪工作に関わっていたと
考えられているというのである。
しかしまあ、そのことは、清里と関係ないので、興味のある方は、こちらをご覧ください。
http://www.npointelligence.com/studies_250713Katote_papers.pdf#search='%E5%A4%A2%E3%81%8B%E3%81%91%E3%82%8B%E9%AB%98%E5%8E%9F+%E6%B8%85%E9%87%8C%E3%81%AE%E7%88%B6+%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5'


さて。今一人の清里の恩人と言える人物…この人のことが今回書きたい主なことである。
その人物の名は、安池興男氏。

安池興男は、静岡県の素封家の生まれ。京都帝国大学農学部卒業。
昭和11年(1936年)夏。安池興男は、出来たばかりの清里の駅に降り立つ。
県経済部耕地課技官として山梨県営八ヶ岳開墾事務所長に任命された彼は、
まだ30を少し超えたばかりの青年農林技師であった。
今の清里周辺は、当時念場が原(ねんばがはら)と呼ばれる僻地であった。
標高1200メートルの高地にあって、水源に乏しく、火山灰による酸性度の強い荒れ地であった。

念場が原には、明治以降個人的に開墾に入った者もなくはなかったが、本格的に県が
未墾地開拓事業に乗り出すのは、昭和8年になってからである。
昭和初期の世界大恐慌を契機に、国は農村経済対策として全国に未墾地開拓事業を展開。
山梨県ではこの昭和8年、念場が原が事業拠点に決められたのであった。
その年、木材運搬を目的として小海線が開通し、清里駅が出来ている。

そして昭和11年。安池興男と、小河内ダム建設のため、故郷の村を追われた人々との
物語が始まるのだが、安池興男氏の孫である安池倫成氏のブログから一部引用させていただく。
引用部分は青字で記す。
http://yasuike.pr-blog.jp/%E5%AE%89%E6%B1%A0%E5%AE%B6/%E6%B8%85%E9%87%8C%E9%96%8B%E6%8B%9370%E5%91%A8%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%BC%8F%E5%85%B8%E3%81%AB%E5%87%BA%E5%B8%AD%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F


昭和12年6月。東京市は山梨県が、八ヶ岳開拓の計画があるのを調べ、
この清里の開墾計画を、視察に訪れた。祖父が開墾事務所長をしており、その案内をしたようだ。
それから、同年7月、小河内ダム水没の村である小河内村の人達が視察に訪れたが、
こんなところではとてもだめだと言って帰った。続いて9月に丹波山村と小菅村の人達が
視察に訪れたが、小河内村の人達とは違い、真剣に清里の地形、風向き、日照などの状況を視察した。


そうか…!小河内村の人々の多くは、山梨県の念場が原があまりの荒れ地なのを視察して失望。
それでそこへの移住はあきらめて、東京の奥多摩村や青梅市や八王子市などに移住していくんだな…。
安池興男は、その後9月に訪れた丹波山村、小菅村の人々を、熱意と誠意で持って説得したらしい…

昭和13年4月15日に安池興男開墾事務所長に1本の電話が入る。丹波山村の代表である。
「決めました。翌17日に入植します。」今度は祖父のほうが驚かされた。
余りに唐突で、迎える側としての準備の時間もないからだ。
「待ちなさい。入植をきめてから、しばらくの間時間をくれなければ。こちらの受け入れ態勢も整わない。」
「いえ、もう待てません。どうしても17日に行かせてください。」とのやり取りだ。
耕作を放棄し、わずかな補償料しか得られないと分かった貧しい人々たちは
もう一刻の猶予もない状況に追い込まれていたのだ


昭和13年4月17日。入植希望の各戸から1名ずつ(丹波山村から26名、小菅村から1名、
そして小河内村からも1名)の計28人が、入植の先遣隊として甲府駅で安池興男開墾事務所長に迎えられ、
清里に入植したのであった。
奇しくも、この昭和13年は、関東大震災で崩れ落ちた東京と横浜のYMCA(キリスト教青年会)会館の
再建の為に来日して以来、日本人の心の支えになろうとした聖徒アンデレ同胞会の伝道師ポ-ル・ラッシュが
清里にキャンプ(清泉寮)を建設した年でもあった。

28戸62人の人々の、念場が原でのその後の開拓暮らしはどんなものだったのか。

今は湖底に眠る丹波山村

当時の清里駅前通り

共同作業場

写真は清里観光振興会さんから、お借りしました。
http://www.kiyosato.gr.jp/rekishi/rekishi/yasuike.html

                 ***

ここに、『清里の開拓を語る』という、八ヶ岳南麓景観を考える会作成の資料がある。
https://mail.google.com/mail/u/0/?hl=ja#inbox/144f6e5ec83893e0?projector=1

長い資料なので、大事なところを少しづつまとめながら引用させていただく。

                 ***


小河内ダムに水没した村々からの移住者は、元来炭焼きや狭い斜面を耕す半農民であったことから、
広大な原野の開墾と農業には不慣れである。
入植地は赤松や雑木が茂る原野であった。予め県が伐採していた所もあったが、殆どは
開拓民が徒手で伐採抜根せねばならず、また岩や石ころそして熊笹の除去に大変苦労した。
畑になるまで10年もかかったという。開墾した土の色は黒いが酸性度が強く、
安池興男は、肥料の知識もあまりない開拓民のために、窒素、燐酸、加里の三要素の
知識を教え土壌改良に共に取り組む。

県は入植に当り各戸に鍬1丁を支給し、土地は当初県有地5反歩、最終的には3町歩を
割賦購入とした。(昭和19年に開拓民は割賦を全額を償還することにより、自作農になる
ことができた。)
住宅建設資金として各戸に 1.000円(東京市600円、国 300円、県100円支出)
支給されたが、安池興男はこのうち400円を、平等主義のためプールしておいて
貧富の差に応じて再配分する。苦しい開拓生活からの落伍者を防ぐためであった。
この平等主義は一部の開拓民から反対されたが、安池所長は平等主義を貫き通す。

安池所長は「一人二人の力では何も出来ないが、集団で力を合わせれば驚くべきことができる」と、
開拓民全員の力を結集するよう説いた。そうして、子供達の分校建設、共同墓地の造成、
神社の造営そして興民館の建設など次々に成し遂げたのである。

県による開拓事業予算は開墾に伴う土木工事費のみで、種苗や肥料の購入予算はなかった。
これらの費用は安池所長個人が負担したのだった。
昭和14年、彼は広島県への栄転を断って八ヶ岳地区に留まり開拓に奮闘。
昭和16年奈良県への転任後も、更には退官後も八ヶ岳開拓民の相談に乗るばかりか
金銭的援助も続けたのであった。

さて。話を元に戻すが、開拓民の各戸1名ずつの先遣隊は、まず当座の農具として
鍬一丁ずつを手渡される。その日から、開墾事務所の事務室と倉庫を借りの宿とし、
板敷の上でゴロ寝の生活が始まる。

住宅建設資金を使って建てられるはずの家は「1,000円の家」と呼ばれ、建坪25.5 坪、
コンクリート基礎、白壁瓦葺の農家造りであったが、それができるまでの仮住まいとして、
開拓民は、かつて炭焼きをしていた経験から、笹小屋と云われた粗末な小屋を自力で建てる。
この小屋は丸太組の杉皮葺き8畳間でむしろ戸の粗末なものであったが、これが出来ると家族を呼び寄せた。

入植当時は野菜や雑穀を蒔いたがそば以外は殆ど取れなかった。しかし安池所長の技術指導により
大根、キャベツ、じゃがいも、さつまいもなどの野菜類が、更にとうもろこし、大豆、小豆、陸稲、粟、ひえ、そばなど
の雑穀類も徐々に収穫できるようになった.特に大根やキャベツ、じゃがいもは品質が良く市場へ
出荷することもできた。
安池は農事組合を設立し、肥料の共同購入、農産物の共同出荷を図り、生活面では現金収入のため
野菜の行商を奨励したりしたのである。

念場が原の冬は寒かった。外気温-20度、屋内でも-12~3度にもなり、炭小屋のような
笹小屋での越冬は非常に厳しかった。いろりで松の根を燃やして暖をとるのだが、
松脂の煙で顔は真っ黒、目は赤く腫れ、体は臭くにおった。
呼び寄せられた家族は、学童13名が昭和13年9月清里尋常小学校に編入したが、
子供たちは八ヶ岳地区から峠を越え谷を渡る5~6kmの距離を通学はせねばならず、
八ヶ岳おろしの吹く頃、雪の降る時期は大変な苦労であった。
学校では開拓民の子供達は地元の子供達から「移住民の子、移住民の子」とはやし立てられ
石を投げられたり、あげくは「臭ぇ」、「汚ぇ」、「弁当見せろ」などと揶揄された。
開拓民の子供達は暖を取った松脂の匂いが身体に染みつき、身なりは貧しくボロをまとい、
そして弁当は麦やひえの混じったご飯であったからである。

大都会東京市の住民の水がめ小河内ダムを作るために故郷を追われた人々は、
皮肉なことに、水源の乏しい念場が原の開拓地で、水汲みに苦労することになる…
遠くの泉や小川から天秤棒に二つの桶をぶら下げて、熊笹が茂る石ころ山道を日に数回も運ぶのである。
雨が降れば家中のすべての容器を取り出して雨水を貯め、雪が降ればそれを溶かして水にした。
この地に町営の簡易水道施設が完成し、住民がようやく水の心配をしなくてよくなるのは、
移住から実に半世紀も経た昭和63年のことである!
東京の水のために故郷を失った人々が、かくも水のことで苦労を長く忍ばねばならなかったとは!!

食事は貧しくいつも飢えていた.挽いたライ麦と米を7:3に混ぜたご飯や、ライ麦に人参
や大根を刻んで炊いて食べた。蛇、兎、雉など犬猫以外は何でも食べた。
時には死んだ家畜を皆で分け合って食べた。これらは貴重な動物性蛋白源であった。
女達はセンブリ、ゲンノショウコ、オオバコそしてヨモギなどを使って漢方薬をこしらえたり、
灰を石鹸代わりとして使ったり、大根葉を風呂に入れて入浴剤にするなど生活の知恵を発揮した。

開拓者の楽しみは、一日の農作業を終え風呂に入り、もらい湯にきた人達との世間話する
ことで、何でも話し合ったので家族同然だった。お金の足りないときは「時借」といって融通
し合った. 貧しく辛い生活環境にありながらも、互に助け合い励まし合った。
このようにして培われた開拓者達の親密な関係は、やがて逞しい共同体意識に成長し、
住宅、分教場、神社、共同墓地そして興民館などの建設へと発展していくのである。

安池に指導されて開拓者の意識は高い。子供達の教育は地域づくり100年の計にあるとの自覚から、
分校の建設を考えるようになった。2教室で予算12,000円であったが、建設資金は
東京市からの8,000円の交付金だけで、国や県からの助成はなかった。
当時は日中戦争が激しくなり資材が高騰していた。工事計画は躓く。
一部の開拓民は八ヶ岳地区から離脱していった。

この事態にもめげず開拓民は再起を賭け金策に奔走。幸い母村の丹波山から2,000円
そして安池所長の実家から3,000円を借り入れることが出来た。この借入金で材料を購入し、
工事は開拓民の勤労奉仕とし、ようやく昭和15年7月に校舎が落成した。
開拓民の一致団結した共同作業により6ヶ月の工期が僅か20日で完成したという。

分教場は51名による複式2学級編成、職員2名で発足した。
開校に当り安池所長からオルガンと理科実験機材が寄贈された。
分校はいつも教材教具が不足していた。このことが後日東京都の公立小学校々長会の知るところとなり、
東京都の小河内ダム建設による水没移住民のこともあって、都内小学校の生徒の募金により
267万円が寄付され、分校の教材教具が充実されたというエピソードもあった。


清里千円の家 



千円の家。写真は『八ヶ岳検定』さんからお借りしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yatsu1182/24270893.html

その後の念場が原の開拓地(今の清里地区)の様子は、多くの人がおよそながら
推測出来るのではないだろうか。
開拓農民たちは、雑穀農家から酪農へ、景観をいかしてのペンション経営…観光の町へと、
発展的に産業と生き方を変えていくのである…


清里で本格的に開拓民が酪農を手がけるのは昭和25年になってから。
開拓の若者達数名が乳牛の購入から牛乳の処理加工まで事業化し、牛乳は高原牛乳として
甲府に出荷し、バター、チーズも造る。昭和29年には酪農振興法が制定され、
県は八ヶ岳南麓に粗飼料にも耐え脂肪率の高いジャージー種の牛を多量に輸入。
あの、ポール・ラッシュ牧師が紹介したジャージー種である…。
昭和30年。県は八ヶ岳南麓を集約酪農に指定。酪農に転換する開拓農家が増えてくる。
今までの雑穀農業とは全く異なり、農民の生活態度まで変わる新しい農法への転換であったが、
困難もあったが開拓農家のほぼ全員が酪農家になり、耕作地は牧草地となった。

緑の牧草地に赤い屋根の畜舎、とんがり屋根のサイロが建てられ、ここに新しい清里の
原風景が造られたのである。
昭和40年代に入り、酪農は多頭飼育と機械化の導入により量産と効率化が進んだが、
一方では借金酪農と後継者不足により必ずしも安定した生業とはならなかったという。

昭和20年代から画家や登山家が美し森からキープ牧場辺りに見え始めたが
昭和30年代に入ると夏季に学生や若い会社員らが多数訪れ、キャンプする人も見られるようになる。
酪農にかげりが見え出した昭和39年夏ごろ、ある入植者が酪農から民宿に転業し、
いわゆる牧場民宿が始まった。昭和40年に入ると高度経済成長に伴うレジャーブームが起きて
キープの清泉寮を中心として若い人達で賑わった。
昭和46年に入ると女性向け雑誌が一斉に八ヶ岳の牧場風景(緑の牧草にサイロと赤い屋根の畜舎)を
紹介したことから清里ブームが起こり、若い女性が急速に増えシーズン中清里は大変賑わった。
当初の民宿から昭和50年代に入ると若者の洋風指向によりペンションブームに移行し、
今日の美しい避暑地の町、清里のイメージと産業が定着していく……。


この清里におけるペンションブームの切っ掛けとなるペンション第一号を作ったのは、
興男が静岡へ帰ってから知り合った山田博幸氏。氏は第一勧業銀行の銀行員であったが、
安池興男と知り合い感銘を受け、この地に「ペンションハート」という清里ペンションの
第1号を建てその後の生涯をこの地にささげることになったひと。
大都会東京市の水をさせるために故郷を失った小河内村、丹波山村、小菅村の人々が
念場が原、つまり今の清里でいかに生き抜いたか、清里の歴史を後世に伝える使命感を持って
今も活動していらっしゃるようだ。



                 ***

安池興男は、そのように私心を棄て私財まで何度も投入して念場が原開拓民のために尽くしぬいて、
今は生地の静岡県に静かに眠っている。
開拓の人々は安池興男を今でも大切に想い、「恩渉の碑」と彫った墓を入植者の共同墓地の中心に
作り、そこに静岡から安池とその妻の骨が分骨されて納められているという。
また、「八ヶ岳興民館」は、「公民館」ではなく「興民館」と書く。安池興男の「興」の字を
使っているのである。八ヶ岳興民館にある安池興男を記念する碑には、興男の好きだった言葉
『感激の至情 楽土を拓く』

という碑文が刻まれている。


                 ***


開拓者の言葉
         (上記『清里の開拓を語る』より)

昭和13年丹波山村から念場原に移住し、鍬1丁と3町歩の土地を与えられ、半世紀にわ
たる苦難の開拓を成し遂げた開拓者達は、過去を振り返り次の言葉を残している.

・ 幾多の苦難を乗り越え、広大な荒地を緑の草原に変えたのはわしらだと誇りに思う.

・ 開拓人生は苦しかったが、自分なりに一生懸命働いて生きてきたと自信を持って云える。

・ 女手で畑を維持する事は大変な事で、何べんも手放してしまおうと思ったが、2町7反歩
  の土地を何とか持ちこたえる事が出来た.今は牧草地として息子に引き継ぐ財産ができたことを
  誇りに思っている.

・ 夫は戦争にとられ九死に一生を得て帰国できたが、戦争が終わっても供出の米造りに追われ
  過労がもとで病死してしまった.夫は働いて働いて働き尽くめの一生で本当にかわいそうだった.

・ 楽しい事は何もなかった.一生懸命に必死に働きつづけてこの歳まで生きてきた.

・ 振り返ってみると我慢ガマンの長い年月でした.当時はそれがあたり前の世の中で、
  今の人には分かって貰えない時代でした.しかしその頃はお互い我慢し合ったので皆親切で暖かでした.

・ 親の方が大変で子供はそれ程でもなかった.そのお陰で今は幸せである.苦労した両親に感謝している.

・ 現在華やかな観光地である清里は半世紀前に開拓の時代があり、開拓民の計り知れない苦闘の末に
  今の清里があるとことを理解して欲しい.
                  

                  ***

この記事続く。



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Re: 大門先生へ

先生。今回も出会いがありましたね~。
ほんとに、すごいです~。

少しゆっくりお休みくださ~い♪

No title

いつも応援ありがとう~~~~~

Re: 鍵コメさんへ

鍵コメさん。
嬉しいコメント、ありがとうございます。
お名前がわからなかったので、鍵コメさんのところへうかがって
お礼申し上げることもできません…ここでお礼申し上げさせてくださいね。

こんなひそやかなブログですが、少しでもなにかのお役にたてていればなあと、
細々発信を続けています。
私の世代は、いわゆる団塊世代と呼ばれ、戦争も直接は知らず、高度経済成長期に
若い時代を過ごし、そうして低成長期の痛みをあまり知らぬまま生き抜けて
生き抜けて行こうとしています。よく言われますが『いいとこ取りの世代』。i-230

しかし、ものごころついたころ、戦後の空気はまだ濃厚に残っていた。
爆撃を避けるために黒く壁を塗ったお金持ちの蔵…盛り場で佇む傷痍軍人…
よって軍歌を歌う人…どこの家の長押にも掲げてあった軍服姿の若者の遺影…
そして私たちは、学生運動が最後の火花を散らした時代の当事者や目撃者でもあります。
いわば、日本が『政治の時代』であった頃の最後の生き残り。
直接戦争や政治の季節を知る人々が今、どんどん少なくなってしまう中、
多少押しつけがましいかなとは常に反省しつつも(笑)、
今語っておかないでいつ語るの、と思って書き続けて行こうとしています。

たぶん鍵コメさんは、とてもお若い方でいらっしゃるのでしょう。
そういう方がお声かけてくださるの、とっても光栄でうれしいです。
こんなブログですが、どうぞまたお訪ねくださいね。
私自身のことはさておき、ここをお訪ねくださるすてきな先輩方がたくさんいらっしゃいます。^^
世代を越えた交流が出来るといいですね♪
ありがとうございま~~~す♪

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Re: スキップさんへ

スキップさん。おはようございます。
>これは良くぞ調べられましたね。資料を探すだけでも、大変ではなかったですか。

いえいえ。殆どがネット上の記事の引用とまとめみたいなものですから。^^
本当は自分で小河内ダム資料館や八ヶ岳資料館のようなところへ行って、直接この目で見、
写真も撮ってくる方がいいのでしょうが、なかなかそうもできません。
ただ…2月の、関東地方や山梨の2回の異例の大雪のニュースから、
たまたま小河内ダムとニュースで雪の被害が甚大とたびたびその名が挙がっていた北杜市との
関係を知りました。
ダム建設で故郷を追われた人々のその故郷のダムの水底になってしまった村も移転先も、
同じようにしんしんと降る深い雪に降りこめられてしまったことに、なにか
市井に生きる人々の必死の生の営みのいじらしさというか重い歴史を感じて、
思いがけず深く踏み込んで調べてみる結果になっただけです。^^

>無名の方々の偉業ですね。こんな人生が今を作っているんだと実感させられました。
>TPPはこういう、文字通り命を掛けた努力を無にしてしまう危険性がありますね。
効率だけが判断の基準にしてはいけない代表的な例です。

そうなんです♪ 私もまさに、そのことをこの記事で伝えたかった。
次の記事で、そのことを書きたいと思っていました。
それなんです!
黄門さまの印篭みたいにそのことばを振りかざせば弱者も政治家もへへ~っと
土下座するだろうというような『グローバル化』という大企業の巨大な力と
無情な経済の仕組みと愚かな政治が、こうした無名の人々の努力の積み重ねの歴史も
踏みにじってしまう…そのことが言いたかった。
実は、この記事は3月9日の日比谷公園~国会前デモの記事へのコメントで
スキップさんがお書き下さった、福島の畜産農家の方のこと、それへと繋がっていきます。
今日、また書くつもりですから、よろしければまたお読みくださいね。

千葉もそうですか…耕作放置地が多くなっているのですか……
TPPは、本当に恐ろしいですよ。もともとはアメリカ以外の中南米諸国の
互助と共生の仕組みだったのかもしれない…。でもアメリカがそこに加わって
TPPはまったくその性質が変わってしまいました…
私は、『TPPというのは、アメリカの巨大資本の集まりが近隣諸国に仕掛けている侵略戦争だ!』
とまで思っています。
巨大企業がさらにその肥大化を目指して、自国他国の民の富を骨の髄まで絞り取ろうと
仕掛けている侵略戦争だと。
政治家がその恐ろしさをちっともわかっていないところがまた情けなく怖いです。

八ヶ岳山麓。
本当に美しいところですね。
私は娘の展覧会を見るために軽井沢へ行った時、小海線に乗って通ったことが
あるだけです。晩秋の黄葉がとりわけ見事な年でした。沿線の美しい林の光景を
今も忘れることができません…

スキップさん。ありがとうございます!

No title

 これは良くぞ調べられましたね。資料を探すだけでも、大変ではなかったですか。無名の方々の偉業ですね。こんな人生が今を作っているんだと実感させられました。
 TPPはこういう、文字通り命を掛けた努力を無にしてしまう危険性がありますね。効率だけが判断の基準にしてはいけない代表的な例です。
 わが地方でも、台地では耕作放置地のほうが多いのではと思わされる惨状です。全国第三位の農業生産額を誇る千葉の中心的農業地帯がです。
 山梨県は魅力的です。私、今の土地を離れなければならないなら、京都の北山か八ヶ岳山ろくだと思うのです。ここは、水もいい、果物も生産、温泉もある。アルプスが見えて、登ることもできる。
プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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国境なき医師団
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