『大雪と原発 ④』
私が、この一連の記事で取り上げたのは、小河内村、丹波山村、小菅村の一部の人々の
ことである。小河内ダム建設のためにそれらの村々を去ったのは、945世帯6000人である。
ここに書いたのはそのうちの28戸62人の人生にすぎない。
もっと本格的に調べられればいいが、今の私には、ネットの中で調べられることだけで精いっぱい。
しかし、私は、小河内ダムの水底に沈んだ村の人々のその後を調べながら、
ずうっと福島のことを考えていた。
東日本大震災からちょうど3年目の11日を前に、日本全国各地でデモや集会が行われたが、
3月9日、私は、日比谷野外音楽堂で行われる集会とそこから国会前や官邸前に出発するデモに
参加するため、日比谷公園の中にいた。
自分が遅れていったせいもあったのだが、時間前に満員で締め切ってしまった野外音楽堂の中には
入れず、同じように入れない多くの人々同様、デモ出発を待って外をぶらぶら歩きまわっていた。
その時、一人の男性の姿が目にとまった。
福島県双葉郡浪江町、『希望の牧場』の吉澤正巳代表である。
『希望の牧場』というのは正式名称ではない。もとは有限会社エム牧場の経営する浪江農場といった。
福島第一から約14キロの地点にその牧場はある。
2011年3月11日。大地震、大津波発生。
12日。福島第1原発1号機水素爆発、20キロ圏内の住民に避難指示が出た。
12日の浪江町の様子を吉澤さんが語ったものを文字起こししてくれているサイトがある。
『福島 フクシマ FUKUSHIMA 津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに』
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-60.html
牧場の写真や事故当時からの様子、吉澤さんの気もちがこの記事を読むと少しでもわかる。
ぜひ覗いてみてください。飢えて死んで行った牛たちの屍の残酷な写真もここにはある。
しかし、それから目を逸らさないでほしい…
これが日本の現実だということなのだから。
少し引用させていただこう。
12日の朝からテレビを見てたけど、国や東電からは何の情報もないまま。
浪江には2万人の町民がいた。
12日の段階で、町の判断で「逃げろ」と、逃げる場所は浪江町の山間部の津島〔※〕となった。
約半数の人たちが、津島に固まって逃げるんだね。いやー、みんな逃げたね、ダアーッと。
津島は、原発からだいたい25キロあるかな。1万人ぐらいの人が、そこで、夜通し
焚き火なんかをしながら避難生活をしていた。
そこに、14日の3号機の爆発があり、そのあと、南の風が吹いたんだね。
それが夜になって、急に冷えて、雨が雪になった。ものすごい放射能が津島に流れてくるわけだ。
だけどそんなことは何の連絡もなかった。
でも、やっぱり警察や自衛隊の動きでわかるんだよ。それで、「もうここにいちゃだめだ」
ってことになって、今度は、二本松の東和(とうわ)に、全部、ダアーって逃げるわけ。
〔※津島:浪江町津島地区。原発から北西に約25キロの山間部。
この地域の上空を、南東の風に乗って、大量の放射性物質を含んだ雲が通過、
この一帯でも、もっとも激しく汚染された。政府は、「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム
(SPEEDI)」の試算で津島地区への放射性物質飛散を予測していたが、
避難の住民には一切、知らされなかった。
3月14日。3号機。3月15日。2号機水素爆発。
4月25日。福島県は飼い主の承諾を得て20キロ圏内の家畜処分を決める。
20キロ圏内には376戸の畜産農家があり、牛4千頭、豚3万頭、ニワトリ63万羽、
馬100頭が飼養されていた(毎日新聞)。
5月12日。政府は警戒区域の家畜の殺処分を決める。
5月26日。「処分せず研究に活用を」と獣医師ら学識経験者が政府に要望書をだしたが、
政府は安楽死処分の方針を変えなかった。
吉澤代表らは、この政府方針に従わなかった。牛の面倒を見続けたのである。
自分の家で家族のように飼っていた家畜たちを殺処分など出来ず、畜産農家の中には
自分たちが避難する際、せめて家畜たちが自分たちで草を食べて生き残ってくれと願って、
家畜たちのくびきを外してやった人もいた。
皆さんの中には、報道番組などで、それら放たれた牛たちや豚たちが、誰もいなくなった
原発の町の草地に佇んでこちらを見ている映像などをご覧になられた方もいらっしゃるだろう。
また、家畜たちを放していけば、それらが迷惑をかけるかもしれないと、牛舎や豚舎に
つないだまま、泣く泣く避難していった農家もあった。
それら、繋がれたままの牛たちや豚たちの、ミイラ化、白骨化した死体の映像を
報道番組などで見た方もおいでだろう。
吉澤氏は、そのどちらの道も採らなかった。牛を生かし続ける道を選んだのである。
彼は避難先の住まいから、往復4時間かけて牧場に通い、自分のところの牛300頭と
近所の牛や放浪していた牛などを引き取って、計360頭に餌をやり続けている。
牛に餌をやって何になるものでもない。
線量の高い警戒区域の被曝牛たちは、無論、売り物にはならない。
それでも私財をつぎ込んで、自らもおそらく激しく被曝を続けながら牧場に通い続けるのは、
吉澤さんの牛への愛情と、『ベコ屋』(牛飼い)としての、怒りと意地からである。
300軒の畜産農家、60~70軒の酪農家が、もう牛飼いなどできないくらいの
精神的な挫折感の中にあるんだ。
国は、今日も、どっかで牛たちをとっ捕まえて、殺して、埋めて、という殺処分の作業をやっているよ。
臭いものにフタをして、見えないようにする。証拠隠滅だよ。
その一方で、原発を再稼働しようとしている。
浪江、双葉、大熊、富岡というのはチェルノブイリと同じような状態。そこに帰る意味もないよね。
そこでコメはつくれないだろうし、地震の被害もひどい、津波の破壊も半端でない。
浪江町は、原発立地ではない。福島でも発電所のないところ。そういうところが、今回、ひどい汚染をうけたわけ。
しかもスピーディの情報が隠されて、津島でみんな猛烈な被ばくをしている。
原発立地町じゃない、直接には、恩恵をうけない浪江町が、今回一番、ひどい目に合っている。
その人たちが、迷惑な厄介者として、いずれ捨てられようとしている。
避難した10万人の人も、捨てられようとしている。邪魔の者、厄介者、迷惑な土地、迷惑な人たち。
棄民政策だよ。間違いない。
それで、浪江町でも、5人も自殺している人が出ているわけだよ。先日の商店主の自殺が5人目だ。
商売もできない、コメも作れない、うちにも帰れない、帰る意味もないしね。
***
福島県の畜産農家、酪農家は、このようにして自分たちが手塩にかけて育ててきた
牛や豚や鶏などを、原発事故のために、このように棄てざるを得なかった…
皆さんは、この遺書をどこか映像ニュースでご覧になったであろう。
原発事故後間もない2011年6月。福島県相馬市の酪農家の男性(54)が自ら命を絶つ前に
自分のたい肥舎の壁に、チョークで書き残した遺書である。
「残った酪農家は原発に負けないで頑張ってください」。
男性は、東京電力福島第一原発から約60キロ離れた相馬市の山あいの小さな集落で、
約40頭の乳牛を飼っていた。なだらかな斜面の奥に母屋があり、手前に牛舎と堆肥舎が並ぶ。
真面目で仕事熱心――。午前3時から牧草を刈り、牛の世話をした。
前年には、堆肥をつくって売るために堆肥舎を新築し、農機具も少しずつ増やしながら、
父親から継いだ牧場を大きくしようと懸命に働いていたという。
『姉ちゃんには大変おせわになりました。
原発さえなければと思ます。
残った酪農家は原発にまけないで願張て下さい。仕事をする気力をなくしました。
(妻と子ども2人の名前)ごめんなさい。なにもできない父親でした。
仏様の両親にもうしわけございません。(一部省略、原文ママ)』
事故後まもない3月24日には、福島県須賀川市で、野菜農家の男性(64)が自宅の敷地内で首をつり、
自ら命を絶っている。23日にキャベツの摂取制限指示が出ると、男性はむせるようなしぐさを繰り返した。
「福島の野菜はもうだめだ」。
男性は30年以上前から有機栽培にこだわり、自作の腐葉土などで土壌改良を重ねてきた。
キャベツは10年近くかけて種のまき方などを工夫し、この地域では育てられなかった
高品質の種類の生産にも成功。農協でも人気が高く、地元の小学校の給食に使うキャベツも
一手に引き受けていた。「子どもたちが食べるものなのだから、気をつけて作らないと」。
そう言って、安全な野菜づくりを誇りにしていたという。(朝日新聞)
吉澤さんも、自殺した酪農家も、美しい福島の地で、牧畜畜産に夢をかけていた…
それは、小河内ダム建設で村を追われた人々の一部が、山梨県北巨摩郡(いまの北杜市)
『念場ヶ原』 (ああ!なんという地名なんだ!)の、雑木と熊笹ばかりの荒れ地を
鍬一丁与えられて開墾から始めていった気持ちとどこが違っていたであろう!
自殺した野菜農家同様、福島県飯館村の人々は、農業で生きていく道に希望をかけていた…。
平成の大合併の風が吹くなか、飯館村は安易な合併の道を取らず、自力で村を栄えさせる
道を模索した。
驚くほど多くの特産品が村人の創意工夫で生まれた。
お酒、漬け物、農産品、そして全国ブランドになった飯館牛…。
小さな規模の村でも、創意と村人の一致協力と努力で立派に今の時代でも
父祖の地で立派に農業で生きていける…
村の生き方は、全国の小さな農村のお手本となり、見学者も絶えなかったという…。
それは、開拓民から落伍者を出さぬよう共同で開拓農業を土作りから学び、
全国的にも有名なレタスなどの高原野菜で活路を切り開き、やがて美しい牧場風景を
観光の資源にして、今日軽井沢や日光と並ぶような名高い避暑地の町として発展している
あの北杜市清里高原と、どこが、なにがいったい違っていたのであろうか?
いみじくも、自殺した野菜農家の方が、チョークでたい肥舎に書き残した文言そのままに、
『原発さえなければ』……
原発さえなければ、福島の人々は、『うつくしま福島』と呼ばれていたような美しい自然に恵まれた
父祖の地で、今もこころ豊かに暮らせていたのではなかろうか…?
その違いが、『原子力発電所を生活の道として町が選んだか選ばなかったか』にあったのだとしたら、
何とせつないことであろうか!
しかも吉澤さんの浪江町や飯館村は、原発立地自治体でさえない!
『原発さえなければ…』
この福島県民の痛切きわまる想いは、小河内村村長小澤市平が、昭和13年に、
『千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。
けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである。
我々の考え方が單に土地や家屋の賣買にあつたのでは、先祖に對して申譯が無い。
帝都の御用水の爲めの池となることは、村民千載一遇の機會として、犠牲奉公の實を全ふするにあつたのである。
(中略)顧りみれば、若し、日支事變の問題が起らぬのであつたならば
我等と市との紛爭は容易に解決の機運に逹しなかつたらうと思ふ。(そして我々は父祖の地を
去ることになっていなかったかもしれぬ)』
という苦渋の想いと、なんと似ていることであろうか!
***
雪に覆われた北杜市と旧小河内、丹波山村、小菅村のことを2か月近くにもわたって
長々と私が書いてきたのは、そして今、福島県浪江町の『希望の牧場』や飯館村のことなどを書いているのは、
何度も言うようにそれらが皆、根底のどこかで繋がっているからである。
私たちは悲劇の後しばらくは、被災地のことを思う。
しかし、2年3年と時が経って行くうちに、それらの悲しみや怒りの共有感情は、徐々に
薄れていってしまいがちである。…私自身もそうだ……
しかし、この記事で今書いているようなことは、みんな、遠い、自分とは関係のない
世界のことなのだろうか?
いやいや…。
私はこれらの記事を書きながら、自分の体のどこかがきゅうっと痛むような錯覚に
ずうっととらわれ続けていた……
記録にないような大雪に覆われた町々……
日本の大陸への侵略戦争も、
日本のダムや橋梁やトンネル工事などのために強制的・半強制的に日本に連れて来られて
異郷の地で死んで行った朝鮮半島や中国の人々も、
大都市東京の水のために水底に沈んで行った村もそこから雄々しく力を合わせて立ち上がった人々も、
同じように東京の電気のため結果的に、故郷の地…住む家も仕事も、中には生きる目的まで
失ってしまった福島の人々も……
これらは皆、同じ一繋がりの物語なのではなかろうか?
そうして私自身もその一繋がりの物語の中のどこかに臍の緒のようなもので繋がれている
小さな登場人物なのではないのだろうか?
…そんな錯覚に捉われるのである。
政治や国家というものの本質は、今も昔とそう変わってはいない。
それに翻弄され続ける民の残念ながら愚かしさ無力さも、今も昔と変わっていない。
と言って、私はこの一連の記事で、国家の悪や民の愚かしさ弱さだけを書こうとしてきたのでは
ないのである。
人々がどんな厳しい環境にあっても、不屈の精神を発揮して、雑草のように立ち上がるのも
今も昔と変わらない。その時人々の心に自ずと組合的な相互協力の精神が芽生えるのも
変わらない。
そうして、人々がより豊かな暮らしを求めて、あたらしい技術や科学に希望を見出して
未来を託す気持ちも、よくよくわかるのだ…!
この写真をもう一度見て欲しい。
そしてこの映像もとばしながらでいいからいいからちょっと見て欲しい。
ここには、福島第一発電所建設の話が決まって、地質調査する頃の、今無残な姿を曝す
原子炉などなかった頃の、あの岸壁や低い松などの灌木に覆われた台地の姿や、そこをバイクで行く
地元民の姿、牛の世話をする農民の姿、真面目そうな技術者たちの姿が映像に収められている…
http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/blog/2012/03/7_e04d.html
ああ!
昭和生まれの私には、自分も人も同じように貧しかった時代の、しかしまだ誰にも穢されぬ
美しい大地が、こころに沁みるように美しい青空が、この白黒のぼけた写真や映像から
見えてきそうだ……
時代が移り変わっていくのは仕方がない。
人間の欲望も(向上欲とも言える)もとどまるところを知らぬ。
科学技術の発展を私は全く否定しさりはしない……人間は夢を見る動物でもあるからだ。
しかし、ある一線は、どこかにあるのではなかろうか……。
そのことを深く考えてみるとき、
どこで私たちが行く道を選んでいくよすがにするか。
それは、『個々の時代を個々の特異な事象として見てしまわぬこと』なのではなかろうか。
ある時代にある場所で起こったことは、別の時代に別の場所でも起こり得るのだということを
肝に銘じて忘れないようにすることだ。
ある人に起こったことは(たとえば思いがけない雪中での遭難など)、我が身にもいつか
起こりうることかもしれない、という危機意識を持つことだ。
福島に起こった悲劇が、いつか他の原発近くの街で起きないと、誰が一体保証してくれるのだ?
電力会社も県も国も、マスコミでお先棒を担いで宣伝していた学者・専門家とやらも、
見事におぞましくも責任逃ればかりしているこの実態をようく覚えておくことだ。
そうして。
平和というものは、人民が意識して守って行こうという強い意志を常に自覚して行使しなければ、
あれよあれよろいううちに、一見平和の内にあったように見える国や地域でも、
あっという間に内乱状態や戦争状態、民の自由のなくなる状態に陥り得るということを、
私たちはウクライナ・クリミア、トルコ、エジプトなど世界のニュースで、日々目に耳にしているではないか!
権力の本質は変わらない。
弱者にほど国家的不幸は重くのしかかるのだということを忘れてはならない。
私がいつも『物ごとは、本質的なところで繋がっている』と言い続けているのは実はこのことだ。
この記事で取り上げさせていただいた吉澤正巳氏は、上記サイトの記述をお借りすると、
千葉県四街道生まれ。58歳。
千葉の佐倉高校時代、近隣の三里塚で、成田空港建設のために土地収用法で農地を
取り上げるということが行われており、友人らと反対闘争に参加。
東京農大では自治会委員長も。40年前に父親が、広い土地で畜産をしようと、千葉から浪江町に移住。
大学を出てから父親の跡を継ぎ、生涯の仕事として、畜産に打ち込んできた〕
さらにここにもう少しつけ加えさせていただきたい。
この『40年前に父親が、広い土地で畜産をしようと、千葉から浪江町に移住』という氏の父君は、
新潟県小千谷出身であの戦争の時代満州開拓でソ連国境地帯に入殖し、敗戦と共にシベリアに
3年間抑留され、戦後、千葉県四街道に開拓入殖した人だという。
父君はそうやって、清里の人々同様、戦後やはり必死の想いで開拓入植してためた資金を元手に、
昭和45年、浪江町の満州開拓団時代の親友の紹介で浪江町立野に牧場移転したのである。
ところが同年。小高浪江原発計画(東北電力の)が起こる。
長い根強い原発反対運動があって、浪江町は、浜通りで唯一、発電所のない町、
というのを貫いてきていたのである!
しかし…福島第一原発事故は、その浪江町も、飯館村も同じようにいや、風向きの関係で
もっとも放射能汚染された地域になってしまい、人の住めない場所になってしまった……
国策として満州に開拓民をどんどん送り込んでおきながら、いよいよ戦況悪化すると
関東軍はそれらの人々を守り切れず、国は国民を見捨てたのである。
ああ!物事の構図は、いつもなんと似ていることであろう!
福島第一原発事故への国や電力会社の対応を『棄民』だと言いきって、
自らも牛たちと共に『被曝の生きた証人』となって生涯をそのことの告発と闘いに
すごす道を選んだ吉澤正巳氏。
彼の怒りは、彼の体一人(いちにん)の、彼一代の怒りではないのだということを今回初めて知って、
私は、あの3月9日、日比谷公園で見かけた彼のまわりに漂っていたただならぬ空気…
静かな押し殺した怒り…まるで奈良東大寺戒壇院の四天王立像たち、…とりわけ
あの広目天のような内面の激しい怒りを抑えた静かな佇まいの、その理由がわかったような気がしたのである。
希望の牧場のサイトがあります。
生まれた小牛の可愛い姿も、逆に、福島第一の前で車にはねられて死んだ母親の横で
瀕死の状態でいるのが通報され、この『希望の牧場』に連れてこられたものの、やはり
生きながらえることのできなかった『ふくちゃん』の記録なども読めます。
24時間カメラで牧場の牛たちの様子も写している。
希望の牧場は、吉澤氏らが私財を投じて、あとはボランティアや募金活動などで
まかなって行っている…ご支援も出来たらお願いいたします。
http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/blog/2012/03/7_e04d.html
40年間にわたって福島県が、東京・関東の電力供給で協力してきた。
水力・火力と全部、東京の方にいっているわけ。日本の経済の繁栄を福島県が支えながら、
いま僕らは、絶望的な状況。福島のわれわれは犠牲を被った。これから差別も受けるわけ。
「福島県はお断り」と。そこから逃げられないからね。そういう運命と、最終的には
たたかうしかないんだよね。俺はそう思う。
俺なんかは、余所に行って、畜産業なんてありえないし、自分の生涯の仕事としてやっている
畜産業を潰されたわけ。だから、これは、もう残りの人生をかけて、償いを求めて、
東電・国とたたかう。それしかないと思っているわけ。
こういう原発事故が起きたっていうことでね、これを人生のテーマにして、
原発のない日本を目指して考え行動するしかないと思うんだよね。
そして、もちろん放射能ともたたかう。農業でも、セシウム問題で、県内どころか、
それを飛びこした全国の問題に広がっている。魚だって取れない。
すべての環境、人生、財産が、みんな潰されたわけよ。汚染について、人間も土地も、
よく調査をする必要がある。単に逃げるんじゃなくて、この現場で汚染状態を正確によく調べるということだよ。
行動なきところに結果などあり得ないし、「少しでもみんなで行動しよう」と言いたい。
「東京に行って、みんなの気持ちを東京の人に、どんどん言って伝えようじゃないか」と。
「原発事故というのはこういうことなんだよ。他人事ではなくて、子ども・孫の世代のことまで考えて、
いま、再稼働をめぐってたたかうときが来ているよ」って。
東電とたたかう、国とたたかう、放射能とたたかう。そういうことを俺は言いたいのね。
ずっとこの1年間、大勢の人が生きる意味とか、哲学を考えてきた。行動までできる人はそう多くないし、
でもそういう人を少しずつ作りながら進んでいると思うよ。
「家も故郷も何もかも失った。最後に、みなさん、立ち上がって、いっしょにやろうよ。東京に行こうよ」。
そういう力が、福島県に必要なのだと思う。福島県がそういう中心にいかなければと思う。
やっぱり誰かがやってくれるだとか、金さえもらええればいいんだとか、そういうのもいるけど、
そういうのは、心にも体にもよくないと思うよね。
浪江の人が、みんな立ちあがって、東電前や首相官邸前に座り込んでということができるように
なるところまで、今年は持っていきたいなと。
そういうことに、残り20年の人生をかける値打ちがあるのだろうと思う。
この被ばくした牛たちとともにね。
ことである。小河内ダム建設のためにそれらの村々を去ったのは、945世帯6000人である。
ここに書いたのはそのうちの28戸62人の人生にすぎない。
もっと本格的に調べられればいいが、今の私には、ネットの中で調べられることだけで精いっぱい。
しかし、私は、小河内ダムの水底に沈んだ村の人々のその後を調べながら、
ずうっと福島のことを考えていた。
東日本大震災からちょうど3年目の11日を前に、日本全国各地でデモや集会が行われたが、
3月9日、私は、日比谷野外音楽堂で行われる集会とそこから国会前や官邸前に出発するデモに
参加するため、日比谷公園の中にいた。
自分が遅れていったせいもあったのだが、時間前に満員で締め切ってしまった野外音楽堂の中には
入れず、同じように入れない多くの人々同様、デモ出発を待って外をぶらぶら歩きまわっていた。
その時、一人の男性の姿が目にとまった。
福島県双葉郡浪江町、『希望の牧場』の吉澤正巳代表である。
『希望の牧場』というのは正式名称ではない。もとは有限会社エム牧場の経営する浪江農場といった。
福島第一から約14キロの地点にその牧場はある。
2011年3月11日。大地震、大津波発生。
12日。福島第1原発1号機水素爆発、20キロ圏内の住民に避難指示が出た。
12日の浪江町の様子を吉澤さんが語ったものを文字起こししてくれているサイトがある。
『福島 フクシマ FUKUSHIMA 津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに』
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-60.html
牧場の写真や事故当時からの様子、吉澤さんの気もちがこの記事を読むと少しでもわかる。
ぜひ覗いてみてください。飢えて死んで行った牛たちの屍の残酷な写真もここにはある。
しかし、それから目を逸らさないでほしい…
これが日本の現実だということなのだから。
少し引用させていただこう。
12日の朝からテレビを見てたけど、国や東電からは何の情報もないまま。
浪江には2万人の町民がいた。
12日の段階で、町の判断で「逃げろ」と、逃げる場所は浪江町の山間部の津島〔※〕となった。
約半数の人たちが、津島に固まって逃げるんだね。いやー、みんな逃げたね、ダアーッと。
津島は、原発からだいたい25キロあるかな。1万人ぐらいの人が、そこで、夜通し
焚き火なんかをしながら避難生活をしていた。
そこに、14日の3号機の爆発があり、そのあと、南の風が吹いたんだね。
それが夜になって、急に冷えて、雨が雪になった。ものすごい放射能が津島に流れてくるわけだ。
だけどそんなことは何の連絡もなかった。
でも、やっぱり警察や自衛隊の動きでわかるんだよ。それで、「もうここにいちゃだめだ」
ってことになって、今度は、二本松の東和(とうわ)に、全部、ダアーって逃げるわけ。
〔※津島:浪江町津島地区。原発から北西に約25キロの山間部。
この地域の上空を、南東の風に乗って、大量の放射性物質を含んだ雲が通過、
この一帯でも、もっとも激しく汚染された。政府は、「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム
(SPEEDI)」の試算で津島地区への放射性物質飛散を予測していたが、
避難の住民には一切、知らされなかった。
3月14日。3号機。3月15日。2号機水素爆発。
4月25日。福島県は飼い主の承諾を得て20キロ圏内の家畜処分を決める。
20キロ圏内には376戸の畜産農家があり、牛4千頭、豚3万頭、ニワトリ63万羽、
馬100頭が飼養されていた(毎日新聞)。
5月12日。政府は警戒区域の家畜の殺処分を決める。
5月26日。「処分せず研究に活用を」と獣医師ら学識経験者が政府に要望書をだしたが、
政府は安楽死処分の方針を変えなかった。
吉澤代表らは、この政府方針に従わなかった。牛の面倒を見続けたのである。
自分の家で家族のように飼っていた家畜たちを殺処分など出来ず、畜産農家の中には
自分たちが避難する際、せめて家畜たちが自分たちで草を食べて生き残ってくれと願って、
家畜たちのくびきを外してやった人もいた。
皆さんの中には、報道番組などで、それら放たれた牛たちや豚たちが、誰もいなくなった
原発の町の草地に佇んでこちらを見ている映像などをご覧になられた方もいらっしゃるだろう。
また、家畜たちを放していけば、それらが迷惑をかけるかもしれないと、牛舎や豚舎に
つないだまま、泣く泣く避難していった農家もあった。
それら、繋がれたままの牛たちや豚たちの、ミイラ化、白骨化した死体の映像を
報道番組などで見た方もおいでだろう。
吉澤氏は、そのどちらの道も採らなかった。牛を生かし続ける道を選んだのである。
彼は避難先の住まいから、往復4時間かけて牧場に通い、自分のところの牛300頭と
近所の牛や放浪していた牛などを引き取って、計360頭に餌をやり続けている。
牛に餌をやって何になるものでもない。
線量の高い警戒区域の被曝牛たちは、無論、売り物にはならない。
それでも私財をつぎ込んで、自らもおそらく激しく被曝を続けながら牧場に通い続けるのは、
吉澤さんの牛への愛情と、『ベコ屋』(牛飼い)としての、怒りと意地からである。
300軒の畜産農家、60~70軒の酪農家が、もう牛飼いなどできないくらいの
精神的な挫折感の中にあるんだ。
国は、今日も、どっかで牛たちをとっ捕まえて、殺して、埋めて、という殺処分の作業をやっているよ。
臭いものにフタをして、見えないようにする。証拠隠滅だよ。
その一方で、原発を再稼働しようとしている。
浪江、双葉、大熊、富岡というのはチェルノブイリと同じような状態。そこに帰る意味もないよね。
そこでコメはつくれないだろうし、地震の被害もひどい、津波の破壊も半端でない。
浪江町は、原発立地ではない。福島でも発電所のないところ。そういうところが、今回、ひどい汚染をうけたわけ。
しかもスピーディの情報が隠されて、津島でみんな猛烈な被ばくをしている。
原発立地町じゃない、直接には、恩恵をうけない浪江町が、今回一番、ひどい目に合っている。
その人たちが、迷惑な厄介者として、いずれ捨てられようとしている。
避難した10万人の人も、捨てられようとしている。邪魔の者、厄介者、迷惑な土地、迷惑な人たち。
棄民政策だよ。間違いない。
それで、浪江町でも、5人も自殺している人が出ているわけだよ。先日の商店主の自殺が5人目だ。
商売もできない、コメも作れない、うちにも帰れない、帰る意味もないしね。
***
福島県の畜産農家、酪農家は、このようにして自分たちが手塩にかけて育ててきた
牛や豚や鶏などを、原発事故のために、このように棄てざるを得なかった…
皆さんは、この遺書をどこか映像ニュースでご覧になったであろう。
原発事故後間もない2011年6月。福島県相馬市の酪農家の男性(54)が自ら命を絶つ前に
自分のたい肥舎の壁に、チョークで書き残した遺書である。
「残った酪農家は原発に負けないで頑張ってください」。
男性は、東京電力福島第一原発から約60キロ離れた相馬市の山あいの小さな集落で、
約40頭の乳牛を飼っていた。なだらかな斜面の奥に母屋があり、手前に牛舎と堆肥舎が並ぶ。
真面目で仕事熱心――。午前3時から牧草を刈り、牛の世話をした。
前年には、堆肥をつくって売るために堆肥舎を新築し、農機具も少しずつ増やしながら、
父親から継いだ牧場を大きくしようと懸命に働いていたという。
『姉ちゃんには大変おせわになりました。
原発さえなければと思ます。
残った酪農家は原発にまけないで願張て下さい。仕事をする気力をなくしました。
(妻と子ども2人の名前)ごめんなさい。なにもできない父親でした。
仏様の両親にもうしわけございません。(一部省略、原文ママ)』
事故後まもない3月24日には、福島県須賀川市で、野菜農家の男性(64)が自宅の敷地内で首をつり、
自ら命を絶っている。23日にキャベツの摂取制限指示が出ると、男性はむせるようなしぐさを繰り返した。
「福島の野菜はもうだめだ」。
男性は30年以上前から有機栽培にこだわり、自作の腐葉土などで土壌改良を重ねてきた。
キャベツは10年近くかけて種のまき方などを工夫し、この地域では育てられなかった
高品質の種類の生産にも成功。農協でも人気が高く、地元の小学校の給食に使うキャベツも
一手に引き受けていた。「子どもたちが食べるものなのだから、気をつけて作らないと」。
そう言って、安全な野菜づくりを誇りにしていたという。(朝日新聞)
吉澤さんも、自殺した酪農家も、美しい福島の地で、牧畜畜産に夢をかけていた…
それは、小河内ダム建設で村を追われた人々の一部が、山梨県北巨摩郡(いまの北杜市)
『念場ヶ原』 (ああ!なんという地名なんだ!)の、雑木と熊笹ばかりの荒れ地を
鍬一丁与えられて開墾から始めていった気持ちとどこが違っていたであろう!
自殺した野菜農家同様、福島県飯館村の人々は、農業で生きていく道に希望をかけていた…。
平成の大合併の風が吹くなか、飯館村は安易な合併の道を取らず、自力で村を栄えさせる
道を模索した。
驚くほど多くの特産品が村人の創意工夫で生まれた。
お酒、漬け物、農産品、そして全国ブランドになった飯館牛…。
小さな規模の村でも、創意と村人の一致協力と努力で立派に今の時代でも
父祖の地で立派に農業で生きていける…
村の生き方は、全国の小さな農村のお手本となり、見学者も絶えなかったという…。
それは、開拓民から落伍者を出さぬよう共同で開拓農業を土作りから学び、
全国的にも有名なレタスなどの高原野菜で活路を切り開き、やがて美しい牧場風景を
観光の資源にして、今日軽井沢や日光と並ぶような名高い避暑地の町として発展している
あの北杜市清里高原と、どこが、なにがいったい違っていたのであろうか?
いみじくも、自殺した野菜農家の方が、チョークでたい肥舎に書き残した文言そのままに、
『原発さえなければ』……
原発さえなければ、福島の人々は、『うつくしま福島』と呼ばれていたような美しい自然に恵まれた
父祖の地で、今もこころ豊かに暮らせていたのではなかろうか…?
その違いが、『原子力発電所を生活の道として町が選んだか選ばなかったか』にあったのだとしたら、
何とせつないことであろうか!
しかも吉澤さんの浪江町や飯館村は、原発立地自治体でさえない!
『原発さえなければ…』
この福島県民の痛切きわまる想いは、小河内村村長小澤市平が、昭和13年に、
『千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。
けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである。
我々の考え方が單に土地や家屋の賣買にあつたのでは、先祖に對して申譯が無い。
帝都の御用水の爲めの池となることは、村民千載一遇の機會として、犠牲奉公の實を全ふするにあつたのである。
(中略)顧りみれば、若し、日支事變の問題が起らぬのであつたならば
我等と市との紛爭は容易に解決の機運に逹しなかつたらうと思ふ。(そして我々は父祖の地を
去ることになっていなかったかもしれぬ)』
という苦渋の想いと、なんと似ていることであろうか!
***
雪に覆われた北杜市と旧小河内、丹波山村、小菅村のことを2か月近くにもわたって
長々と私が書いてきたのは、そして今、福島県浪江町の『希望の牧場』や飯館村のことなどを書いているのは、
何度も言うようにそれらが皆、根底のどこかで繋がっているからである。
私たちは悲劇の後しばらくは、被災地のことを思う。
しかし、2年3年と時が経って行くうちに、それらの悲しみや怒りの共有感情は、徐々に
薄れていってしまいがちである。…私自身もそうだ……
しかし、この記事で今書いているようなことは、みんな、遠い、自分とは関係のない
世界のことなのだろうか?
いやいや…。
私はこれらの記事を書きながら、自分の体のどこかがきゅうっと痛むような錯覚に
ずうっととらわれ続けていた……
記録にないような大雪に覆われた町々……
日本の大陸への侵略戦争も、
日本のダムや橋梁やトンネル工事などのために強制的・半強制的に日本に連れて来られて
異郷の地で死んで行った朝鮮半島や中国の人々も、
大都市東京の水のために水底に沈んで行った村もそこから雄々しく力を合わせて立ち上がった人々も、
同じように東京の電気のため結果的に、故郷の地…住む家も仕事も、中には生きる目的まで
失ってしまった福島の人々も……
これらは皆、同じ一繋がりの物語なのではなかろうか?
そうして私自身もその一繋がりの物語の中のどこかに臍の緒のようなもので繋がれている
小さな登場人物なのではないのだろうか?
…そんな錯覚に捉われるのである。
政治や国家というものの本質は、今も昔とそう変わってはいない。
それに翻弄され続ける民の残念ながら愚かしさ無力さも、今も昔と変わっていない。
と言って、私はこの一連の記事で、国家の悪や民の愚かしさ弱さだけを書こうとしてきたのでは
ないのである。
人々がどんな厳しい環境にあっても、不屈の精神を発揮して、雑草のように立ち上がるのも
今も昔と変わらない。その時人々の心に自ずと組合的な相互協力の精神が芽生えるのも
変わらない。
そうして、人々がより豊かな暮らしを求めて、あたらしい技術や科学に希望を見出して
未来を託す気持ちも、よくよくわかるのだ…!
この写真をもう一度見て欲しい。
そしてこの映像もとばしながらでいいからいいからちょっと見て欲しい。
ここには、福島第一発電所建設の話が決まって、地質調査する頃の、今無残な姿を曝す
原子炉などなかった頃の、あの岸壁や低い松などの灌木に覆われた台地の姿や、そこをバイクで行く
地元民の姿、牛の世話をする農民の姿、真面目そうな技術者たちの姿が映像に収められている…
http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/blog/2012/03/7_e04d.html
ああ!
昭和生まれの私には、自分も人も同じように貧しかった時代の、しかしまだ誰にも穢されぬ
美しい大地が、こころに沁みるように美しい青空が、この白黒のぼけた写真や映像から
見えてきそうだ……
時代が移り変わっていくのは仕方がない。
人間の欲望も(向上欲とも言える)もとどまるところを知らぬ。
科学技術の発展を私は全く否定しさりはしない……人間は夢を見る動物でもあるからだ。
しかし、ある一線は、どこかにあるのではなかろうか……。
そのことを深く考えてみるとき、
どこで私たちが行く道を選んでいくよすがにするか。
それは、『個々の時代を個々の特異な事象として見てしまわぬこと』なのではなかろうか。
ある時代にある場所で起こったことは、別の時代に別の場所でも起こり得るのだということを
肝に銘じて忘れないようにすることだ。
ある人に起こったことは(たとえば思いがけない雪中での遭難など)、我が身にもいつか
起こりうることかもしれない、という危機意識を持つことだ。
福島に起こった悲劇が、いつか他の原発近くの街で起きないと、誰が一体保証してくれるのだ?
電力会社も県も国も、マスコミでお先棒を担いで宣伝していた学者・専門家とやらも、
見事におぞましくも責任逃ればかりしているこの実態をようく覚えておくことだ。
そうして。
平和というものは、人民が意識して守って行こうという強い意志を常に自覚して行使しなければ、
あれよあれよろいううちに、一見平和の内にあったように見える国や地域でも、
あっという間に内乱状態や戦争状態、民の自由のなくなる状態に陥り得るということを、
私たちはウクライナ・クリミア、トルコ、エジプトなど世界のニュースで、日々目に耳にしているではないか!
権力の本質は変わらない。
弱者にほど国家的不幸は重くのしかかるのだということを忘れてはならない。
私がいつも『物ごとは、本質的なところで繋がっている』と言い続けているのは実はこのことだ。
この記事で取り上げさせていただいた吉澤正巳氏は、上記サイトの記述をお借りすると、
千葉県四街道生まれ。58歳。
千葉の佐倉高校時代、近隣の三里塚で、成田空港建設のために土地収用法で農地を
取り上げるということが行われており、友人らと反対闘争に参加。
東京農大では自治会委員長も。40年前に父親が、広い土地で畜産をしようと、千葉から浪江町に移住。
大学を出てから父親の跡を継ぎ、生涯の仕事として、畜産に打ち込んできた〕
さらにここにもう少しつけ加えさせていただきたい。
この『40年前に父親が、広い土地で畜産をしようと、千葉から浪江町に移住』という氏の父君は、
新潟県小千谷出身であの戦争の時代満州開拓でソ連国境地帯に入殖し、敗戦と共にシベリアに
3年間抑留され、戦後、千葉県四街道に開拓入殖した人だという。
父君はそうやって、清里の人々同様、戦後やはり必死の想いで開拓入植してためた資金を元手に、
昭和45年、浪江町の満州開拓団時代の親友の紹介で浪江町立野に牧場移転したのである。
ところが同年。小高浪江原発計画(東北電力の)が起こる。
長い根強い原発反対運動があって、浪江町は、浜通りで唯一、発電所のない町、
というのを貫いてきていたのである!
しかし…福島第一原発事故は、その浪江町も、飯館村も同じようにいや、風向きの関係で
もっとも放射能汚染された地域になってしまい、人の住めない場所になってしまった……
国策として満州に開拓民をどんどん送り込んでおきながら、いよいよ戦況悪化すると
関東軍はそれらの人々を守り切れず、国は国民を見捨てたのである。
ああ!物事の構図は、いつもなんと似ていることであろう!
福島第一原発事故への国や電力会社の対応を『棄民』だと言いきって、
自らも牛たちと共に『被曝の生きた証人』となって生涯をそのことの告発と闘いに
すごす道を選んだ吉澤正巳氏。
彼の怒りは、彼の体一人(いちにん)の、彼一代の怒りではないのだということを今回初めて知って、
私は、あの3月9日、日比谷公園で見かけた彼のまわりに漂っていたただならぬ空気…
静かな押し殺した怒り…まるで奈良東大寺戒壇院の四天王立像たち、…とりわけ
あの広目天のような内面の激しい怒りを抑えた静かな佇まいの、その理由がわかったような気がしたのである。
希望の牧場のサイトがあります。
生まれた小牛の可愛い姿も、逆に、福島第一の前で車にはねられて死んだ母親の横で
瀕死の状態でいるのが通報され、この『希望の牧場』に連れてこられたものの、やはり
生きながらえることのできなかった『ふくちゃん』の記録なども読めます。
24時間カメラで牧場の牛たちの様子も写している。
希望の牧場は、吉澤氏らが私財を投じて、あとはボランティアや募金活動などで
まかなって行っている…ご支援も出来たらお願いいたします。
http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/blog/2012/03/7_e04d.html
40年間にわたって福島県が、東京・関東の電力供給で協力してきた。
水力・火力と全部、東京の方にいっているわけ。日本の経済の繁栄を福島県が支えながら、
いま僕らは、絶望的な状況。福島のわれわれは犠牲を被った。これから差別も受けるわけ。
「福島県はお断り」と。そこから逃げられないからね。そういう運命と、最終的には
たたかうしかないんだよね。俺はそう思う。
俺なんかは、余所に行って、畜産業なんてありえないし、自分の生涯の仕事としてやっている
畜産業を潰されたわけ。だから、これは、もう残りの人生をかけて、償いを求めて、
東電・国とたたかう。それしかないと思っているわけ。
こういう原発事故が起きたっていうことでね、これを人生のテーマにして、
原発のない日本を目指して考え行動するしかないと思うんだよね。
そして、もちろん放射能ともたたかう。農業でも、セシウム問題で、県内どころか、
それを飛びこした全国の問題に広がっている。魚だって取れない。
すべての環境、人生、財産が、みんな潰されたわけよ。汚染について、人間も土地も、
よく調査をする必要がある。単に逃げるんじゃなくて、この現場で汚染状態を正確によく調べるということだよ。
行動なきところに結果などあり得ないし、「少しでもみんなで行動しよう」と言いたい。
「東京に行って、みんなの気持ちを東京の人に、どんどん言って伝えようじゃないか」と。
「原発事故というのはこういうことなんだよ。他人事ではなくて、子ども・孫の世代のことまで考えて、
いま、再稼働をめぐってたたかうときが来ているよ」って。
東電とたたかう、国とたたかう、放射能とたたかう。そういうことを俺は言いたいのね。
ずっとこの1年間、大勢の人が生きる意味とか、哲学を考えてきた。行動までできる人はそう多くないし、
でもそういう人を少しずつ作りながら進んでいると思うよ。
「家も故郷も何もかも失った。最後に、みなさん、立ち上がって、いっしょにやろうよ。東京に行こうよ」。
そういう力が、福島県に必要なのだと思う。福島県がそういう中心にいかなければと思う。
やっぱり誰かがやってくれるだとか、金さえもらええればいいんだとか、そういうのもいるけど、
そういうのは、心にも体にもよくないと思うよね。
浪江の人が、みんな立ちあがって、東電前や首相官邸前に座り込んでということができるように
なるところまで、今年は持っていきたいなと。
そういうことに、残り20年の人生をかける値打ちがあるのだろうと思う。
この被ばくした牛たちとともにね。