『時を超えて、一人のひとの人生を深く想うということ ③ 』

パトリック・モディアノとジョルジュ・ペレック。
その二人が並べて語られているサイトがあるということから、なんとなく二人の間に
共通性というか、関連がありそうだということを知って、大いに喜んだ、というところまで書いた。

パトリック・モディアノ。1945年パリ郊外生まれ。
父はユダヤ系イタリア人の実業家。母はベルギー出身の女優だった。
モディアノ自身は、戦争を知らない世代だが、父親は第二次世界大戦中、
ドイツナチスの占領下にあったパリで、なぜか、強制されていたユダヤ人登録をしないで、
占領下を生き抜いている。一度ユダヤ人の一斉検挙で、ドランシーにあった
ユダヤ人収容所に送られたにもかかわらず、引受人が現れて収容所から
出ることができた…
なぜ、父は、ナチス占領下のパリにあって、ユダヤ人登録もせず、あの苛烈な時代の
ユダヤ人追及の網から逃れて生き延びることができたのか…
父はユダヤ人でありながら、人に語れないような仕事や人間関係やをひそかに
有していたのではないか… (…ユダヤ人でありながら対独協力者?…闇取引?……)
その疑問の影と、ナチス占領下でのユダヤ人の生への探索が、モディアノの多くの作品の
重要なモチーフとなっている。

そのモチーフがとりわけくっきりと出ているのが、『ドラ・ブリュデール』(1997年)という
作品だ。ドラ・ブリュデールというのは、一人のユダヤ人少女の名。
語り手である作家の『私』は、ほぼ作者モディアノ自身である。
その『私』は、1988 年の暮れに、40年以上前の1941 年 12 月31 日付の古新聞「フランス・スワール」紙に、
一人の家出少女の尋ね人広告が載っているのを見つける。
ドラ・ブリュデールという名で、少女の特徴がこまごまと記された広告の末尾には、
両親の連絡先が記されている。
『パリ、オルナノ大通り41 番地、ブリュデール夫妻宛情報提供されたし』

この『オルナノ大通り』は、『私』=モディアノの人生と深く結びついた地名であった。
幼い頃、母に手を引かれて行った蚤の市…、二十歳頃にはこの辺りに住んでもいた。
作家はドラに関する入念な調査を開始する。

作家は三十年ほどさかのぼる自らの過去を回想しはじめ、やがてドラと自分が何か
運命的な糸で結ばれていたような思いにとらわれていく。ドラのことを調査しその人生を
再構築していくことが、作家自身の父親と自分の少年時代との記憶、という
自伝的な要素と交錯していくのである。
作家はドラの誕生日を突き止めるまでに四年、生まれた場所を知るまでにさらに二年
時を費やす。
行政資料を読み込み、証人の話を聞き、ナチス・ドイツによるユダヤ人一斉検挙が
吹き荒れる時代にこのユダヤ人少女がたどった軌跡を再構成してゆく中で、
作家は自分自身の父への疑問をもまた追及していくことになっていくのである。
…ナチ占領下のパリでなぜか他のユダヤ人たちには強制されていたユダヤ人登録を免れ、
一度つかまって収容所に入れられたものの知人によって救い出される…
そうしてあの苛烈なナチのユダヤ人狩りをくぐりぬけてパリで生き抜くことができた父…
自分の父親とは一体何者で、パリで何をしていたのか…

そうして、ドラの一家と、父の人生はどこかで交錯していたのではないか?という
思いにとらわれるようになり、さらにドラの軌跡を探索し続けて行くのである…
作家の父親が逮捕されたのが 1942 年の 2 月であった。これはドイツ軍布告施行の日。
おそらくシャンゼリゼで一斉検挙に引っかかったのであったろう。
父は囚人護送車のなかで、十八歳くらいの若い娘がいることに気づいたが、途中で彼女の姿を見失う。
そのことを、作家は、20年後、逮捕現場近くのレストランで、父の口から聞いているのである。
もしかして、父が見たというその少女がドラなのではないか……

しかし、執拗な、と思えるほどの作家の資料調査によって、結局わかったのは、
二人が別人であること。ドラは、その他多勢の人々とともに、1942年9 月18 日、
アウシュヴィッツへ向かう移送列車の中に居た、ということだけだった…。


                         *

一方、ジョルジュ・ペレックは、1936年、ユダヤ系ポーランド移民の子として、パリに
生まれた。父親は第二次大戦中の1940年、外人部隊に参加して戦死。
母親はペレックを夫の兄一家に託して疎開させ、自身はアウシュヴィッツで亡くなっている。
幼くして孤児となったペレックは、その伯父夫妻に引き取られて養育された。

その間の事情について、ペレックの父方の従姉であるビアンカ・ランブランは
下記のように書いている。
ビアンカは、幼いペレックを引き取って養育した、当の伯父夫妻の娘である。
(ちなみにこのビアンカ・ランブランという女性は、あの実存主義の哲学者サルトルと
その生涯のパートナーで女性論の古典『第二の性』を著したボーヴォワールの両方の
愛人だったとして、『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』という告発本を
書いた人である。そういう女性の存在は噂で聞いたことがあったが、まさか、
ジョルジュ・ペレックの従姉であるとは思ってもみなかった…驚きである…)

そのビアンカ・ランブランのペレック一家についての証言。

『母はヴィラール・ド・ランスに腰を落ち着けると、義妹であるセシール叔母に、ジョルジュを
こちらに来させなさい、わたしが面倒を見てあげるから、と申し出た。<中略>
セシール叔母はしばらく迷っていた。夫は外人部隊に志願し、1940 年6 月22 日の休戦の
数日前に戦死した。ただでさえ悲しいのに、そのうえ息子と離れて暮らすなど彼女には
とても耐えられなかった。それでも最後には、息子の身の安全を考えて、母の申し出を
受け入れることにした。というのも、脅威がより具体的な形となって表れてきたからで、
彼女の住んでいるベルヴィル界隈は特にそうだったのである。
1941 年11 月のある晩、セシール叔母と私はリヨン駅までジョルジュを送りに行った。
ジョルジュはまだ五歳半で、事情がよく呑み込めていなかった。セシール叔母は息子に<
シャルロ>の雑誌を一冊かってやった。このことについては彼の著書『Wあるいは子供の
頃の思い出』のなかでも触れられている。ジョルジュは行き先を記した板を首にぶら下げ
ていた。』

(ビアンカ・ランブラン『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』阪田
由美子訳、草思社、1995、pp.125-126)

この、『ジョルジュは行き先を記した板を首にぶら下げていた』という記述は、あの名作
『禁じられた遊び』(1952年。フランス映画)で、やはりナチス・ドイツのフランス侵攻による
ドイツ軍の爆撃で両親を失った幼い少女ポーレットが、孤児たちを施設に振り分ける集会所で
首から名前を書いた札を吊るされてぽつんと待っている姿を思い出させる…。

…こうやって、ペレックは、リヨン駅で見送る母の姿を見たのを最後に、二度と彼女に会えなくなるのである。
母がアウシュビッツでどのようにして亡くなったのか、調べてもついにわからなかった。

①で紹介したような、超前衛的な実験的文学作品群の一方で、ペレックは、
少年の自分がそうやって伯父の家に疎開している間に、家があったベルヴィルの街で捕えられ
アウシュビッツで死んだ母の、そのいわば空白の年月を探るという、自伝的要素を色濃く持つ
作品群もまた書いているのである。

そのような作品の代表で最も自伝的色彩が濃いと言われているのが、
『Wあるいは子供の頃の想い出』(1975)である。
この小説も、ペレックらしく、実験的二重構造になっている。
世界の涯のオリンピック国家『W』。そこは、オリンピックの理想「より強く、より高く、より速く」
に基づいて、不可思議な教練機構が精緻に構築されている社会だ。そこでは人々は
スポーツに専念している。
そのまったくのフィクションの世界と、ユダヤ人という負の刻印を帯びた子供の頃の思い出を綴る
自伝的物語の世界とが、二枚合わせの鏡のようになって、交錯していく…
言うまでもなく、フィクション部分のオリンピック国家『W』というのは、ナチとあのヒトラー政権下の
1936年ベルリンオリンピックを 思わせ、『W』という国はアウシュビッツの寓意であろうと
いうことを読む者に感じさせる。しかし実は、『W』はユートピア的な『あるどこか』という
架空の場所にあったのではなく、南米チリ沖のチリ沖、ティエラ・デル・フエゴにあったという設定になっている。
なぜ、チリ沖、ティエラ・デル・フエゴなのか。
このペレックの『Wあるいは子供の頃の想い出』が出版されたのは、1975年。
その頃、チリはピノチェト将軍の軍事独裁政権下にあった。
ピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、多くの反体制派の市民が弾圧された。
人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が作戦によって殺害され、数十万人が
各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命したという。
なるほど。『W』は単にアウシュビッツの寓意であるだけでなく、この小説が書かれた
1975年ごろという『現在』にもつながっているのである…
その他にもこの作品には、ペレックらしいさまざまな仕掛けがしてある。
例えば、この作品は第一部、第二部の二部構成になっているのだが、そのそれぞれは、
フィクション部分と自伝部分の章が交互に来るように構成されている。
それぞれの章は95ページずつからなる。
けれども第一部は、11章のフィクション自伝部分があって、本来の順番からいけば、
その次にはやはり95ページからなる自伝部が来るはずなのだが、実際の作品では、
その自伝部にあたる箇所には、一枚の白紙と、紙の真ん中にあたる地点に『中断符』(・・・)
のみが書かれたページとまたもう一枚の白紙との3ページしかない。
そうして、第二部が第12章のフィクション部分からまた始まるわけだが、なぜ、第一部と
第二部の間は、中断符のページで繋がれ、実質的には第一部は11章で終わっているのか。
第一部の自伝部は、主人公がリヨン駅を出てヴィラール・ド・ランスに出発するまでの思い出を扱い、
第二部の自伝部は、疎開先での思い出とパリに帰るまでの出来事を扱う。
母と別れたリヨン駅から、伯父たちの住むヴィラール・ド・ランスに到着するまでの間が
ちょうど描かれていないのである。
この空白は、何を意味するのか…。
なぜ、第一章は、実質的に11章で終わっているのか…。
ちなみに、主人公の母は、1943年1 月ドランシーに捕らえられ、2 月11日にアウシュヴィッツに
向けて強制移送された、となっている。
この『11』日という日付…。

                        *

さて。パトリック・モディアノとジョルジュ・ペレック。
この二人の名が並べられて語られているサイトがあることで私は二人のことを知ったのだが、
二人の共通点は、年齢差は9歳ほどあるけれど共にユダヤ系のフランス人作家であり、
共に、自分は生まれていないか生まれていたとしても幼かったナチ占領下のパリにおける、
一人のユダヤ人の足跡を探っていくことを作品のモチーフにしていた、という
そのことだけなのだろうか?

この記事、シリーズ最後の、『時を超えて、一人のひとの人生を深く想うということ ④ 』に続きます。


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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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