『沈黙…意見を呑み込むということ忖度するということ ① 』

2015年という年も、その4分の1が過ぎた。

1月7日(現地時間)のシャルリー・エブド等襲撃事件、そうして湯川さん、後藤さんの
過激集団『イスラム国』による拘束・殺害というショッキングな悲劇によって幕を開けた2015年は、
その後もチュニジアの博物館におけるテロ、ボコ・ハラムの凶行、ケニアにおける大学襲撃など、
過激テロ集団によっていとも簡単に人の命が奪われるという悲劇が次々に続いている…。
昨日もまた、エジプトの首都カイロのザマレク地区で、イスラム過激派組織によると思われる
仕掛け爆弾テロが行われ、警官1人が死亡、市民2人が負傷した。
エジプトでは2月26日にも、3月1日にも4月1日にもテロ事件が起こっているという。

国内においては、一時的に政権を国民から預かっているにすぎない一内閣によって、
日本の最高法規である憲法の第9条『戦争放棄』の条項が拡大解釈により実質大きく
骨抜きにされようとしている。
憲法を恣意的に拡大解釈してその根本理念まで骨抜きにしようとする現政権の手法は
行政権の範囲の逸脱であり、これを許して行けば、憲法に謳われているその他の
国民の諸権利も、いや、国の根幹の仕組みさえもが侵されていくのを許すのと同じになる。
いわば、私たち日本人は戦後最大の危機にあると言っていいと思うのだが、ジャーナリズムも
国民も、大きな声を上げ得ないという摩訶不思議な状況が続いている…。

言論がおかしい。
言論が力を失っている。
本来あるべき本質についての深い議論はなぜかなりをひそめ、瑣末な
違和、異見へのバッシング騒ぎだけが世に溢れている。


いろんなことに批判的な記事を書いてきた私彼岸花だが、その私もまた、シャルリー・エブド襲撃以来
湯川さん、後藤さんのことに関しても同様にぴたりと黙りこくっている…。

ひとことで言えば、…語る気を無くしてしまっていたのである。

黙っている場合などではないとわかっているのだが、語るのが気が重い…何かに囚われて語れない…。
1月29日付け朝日新聞『論壇時評』において、作家高橋源一郎氏が
『「表現の自由」を叫ぶ前に』という記事を書いている。
この記事は、1月29日の時点での私の心境に、最も寄り添ってくれるものであった。

この記事の書かれた時点から、既に2カ月余。もろもろの事態は大きく動いてすでに
あらゆる意味で変質していっている。
だが、この間の私の複雑な心情を一度冷静に振り返って語ることは、これから先の
この国や世界を思うために不可欠なように思う。この記事がその思考の糸口を提供して
くれているように思うので、一部引用しつつ書いて行ってみる…。
本来シャルリー・エブド等の海外におけるテロ事件と、後藤・湯川さんの悲劇とは別個に
記事にしたかったのだが、いつかまた私にエネルギーがあれば書くことにして、ここでは
一つのテーマとして同時に触れていくので、多少視点が移動して読みにくいかも
しれないけれどもお許し願いたいと思う…。


                ***


「表現の自由」を叫ぶ前に
                              高橋源一郎 

 イスラム過激派組織「イスラム国」に、ふたりの日本人が人質として捕らえられた。
いまわたしがこの文章を書いている火曜(註:1月27日)深夜、事態は流動的だ。
 爆笑問題の太田光はこの事件に関し、報道の問題として「黙ることが必要なときも
あるんじゃないか」とテレビで語った。太田光が沈黙を求めたほんとうの理由はわからない。
けれど、いまのわたしは同じことを感じている。
 テロにどう対処するのか、政府や国家、「国民」と名指しされたわたしたちは、
こんな時どうすべきなのか。わたしにも「意見」はある。だが、書く気にはなれない。
もっと別のことが頭をよぎる。
 動画を見た。オレンジの「拘束衣」を着せられ、跪(ひざまず)かされ、自分の死について
語る男の声をすぐ横で聞かされながら、ふたりはなにを考えていたのだろうか。
その思いが初めにある。「意見」はその後だ。
 同時代の誰よりも鋭く、考え抜かれた意見の持ち主であったにもかかわらず、
スーザン・ソンタグは、「意見」を持つことに慎重だった。
 「意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である……
何ごとであれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」
 そこにはつねに、それ以上のことがある。目に見えるそれ、とりあえずの知識で知っているそれ。
それ以上のことが、そこにはある。そのことを覚えておきたい。なにか「意見」があるとしても。


爆笑問題の太田光氏が、湯川さん・後藤さんの拘束の件について、『報道の問題として
「黙ることが必要なときもあるんじゃないか」とテレビで語った』というその真意はどこにあったのか。
それをまた、高橋源一郎氏が、『けれど、いまのわたしは同じことを感じている』、
『わたしにも「意見」はある。だが、書く気にはなれない』と、ここで書いたその含む意味は
いったいどんなことだったのだろうか。

私は毎月一度の、この高橋源一郎氏の『論壇時評』がとても好きで、毎月この欄を読むのを
楽しみにしている。
世の中のことについて思いまどう時、氏のこの欄は、いつも易しい語り口で、真実に
辿りつくヒントを与えてくれるからである。或いは静かな共感を呼んで、
「ああ、やはりそう考えてよかったんだ!」という、自分の思考経路のある程度の正しさへの
確認を私のような思考の素人にも与えてくれるからである。
私が氏の作品を読んでいないにもかかわらず氏を好きなのは、高橋氏が発言をする作家
だからである。 3.11のような悲劇のあとにも黙り込んでしまわぬ作家だからである。
だが、この回の氏の記事には、どこか奥歯にもののはさまったような曖昧さと、
さみしい躊躇いがあるように思った。
(『さみしい』と感じたのは、一読者である私自身の勝手な思いこみであろうけれど。)

この記事が出た3日後の2月1日早朝には、後藤さん殺害の知らせが日本人を襲った…
なんとか生きていて欲しい…生きて帰って欲しい…その願いは叶わなかった。

二人が拘束されているとわかってから、後藤さんもついに殺害されたと知るまで、
日本を覆っていた重い沈黙……。
だが、その後も、私たちはふたりの悲劇のことを、その原因を、政府の対応の良し悪しを
含め徹底的に調べ、語ることはないままに、いつのまにか二人の死は早くも忘れ去られようと
してはいないだろうか。
二人の悲劇が残したものは、『イスラム国』のような暗黒の集団を生むこの世界に対する
徹底的な検証や反省ではなく、またなぜ救出できなかったのか、という徹底的な調査でもなく、
なぜか逆に、さらなる沈黙と忘却、言論空間の委縮、また、自衛隊の海外での軍事行為への
容認化への政治の急速な傾斜だけであるように思えるのはなぜなのだろう!
シャルリー・エブド等への襲撃に対する欧州を中心とした世界への反応もまた、
その後に(似たような)複数のテロ事件が続いたことによって、重大な悲劇でさえ慣れを生み、
急速に関心と興味は薄れていって、残ったものはやはり同じく言論の単純化と委縮、
であるように察せられる。

自分自身の3カ月近い沈黙の理由も含め、『言論が黙り込んでしまうとき』について
考えていってみたいと思う。


                    *****


【続きを読む】のところに、高橋源一郎氏の1月29日付け朝日新聞論壇時評
『熱狂の陰の孤独 「表現の自由」を叫ぶ前に』の全文を引用させていただいておきます。 



(論壇時評)
『熱狂の陰の孤独 「表現の自由」を叫ぶ前に』 
                                作家・高橋源一郎

 イスラム過激派組織「イスラム国」に、ふたりの日本人が人質として捕らえられた。いまわたしがこの文章を書いている火曜深夜、事態は流動的だ。
 爆笑問題の太田光はこの事件に関し、報道の問題として「黙ることが必要なときもあるんじゃないか」とテレビで語った1〉。太田光が沈黙を求めたほんとうの理由はわからない。けれど、いまのわたしは同じことを感じている。
 テロにどう対処するのか、政府や国家、「国民」と名指しされたわたしたちは、こんな時どうすべきなのか。わたしにも「意見」はある。だが、書く気にはなれない。もっと別のことが頭をよぎる。
 動画を見た。オレンジの「拘束衣」を着せられ、跪(ひざまず)かされ、自分の死について語る男の声をすぐ横で聞かされながら、ふたりはなにを考えていたのだろうか。その思いが初めにある。「意見」はその後だ。
 同時代の誰よりも鋭く、考え抜かれた意見の持ち主であったにもかかわらず、スーザン・ソンタグは、「意見」を持つことに慎重だった〈2〉。

 「意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である……何ごとであれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」

 そこにはつねに、それ以上のことがある。目に見えるそれ、とりあえずの知識で知っているそれ。それ以上のことが、そこにはある。そのことを覚えておきたい。なにか「意見」があるとしても。

    *

 やはりイスラム過激派によるテロがフランスで起こった。「預言者ムハンマド」の風刺画を出した週刊紙「シャルリー・エブド」編集部が襲撃され、十数人が亡くなった。「表現の自由」が侵害されたとしてフランス中が愛国の感情に沸き立つ中で、フランスを代表する知の人、エマニュエル・トッドは、インタビューにこう答えた〈3〉。

 「私も言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄(ぐろう)し続ける『シャルリー・エブド』のあり方は、不信の時代では、有効ではないと思う。移民の若者がかろうじて手にしたささやかなものに唾(つば)を吐きかけるような行為だ。ところがフランスは今、『私はシャルリーだ』と名乗り、犠牲者たちと共にある。私は感情に流されて、理性を失いたくない。今、フランスで発言すれば、『テロリストにくみする』と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だからフランスでは取材に応じていない。独りぼっちの気分だ」

 トッドを「独りぼっちの気分」にさせたその国ではなにが起こっているのか。「移民2世や3世のイスラム教徒の若者は権利を奪われ、チャンスも未来もないと感じている。殺伐とした高層住宅が並ぶパリ郊外の貧困地区には、多くのイスラム系住民が暮らす。よほどの幸運か意志がなければ、そこを抜け出すのは不可能に近い」とジャニーン・ディジョバンニは書いた〈4〉。
 ヨーロッパは多元的な文化の融和を目指してきた。だが、それは困難に直面している。「イスラム国」に象徴される、イスラム過激派を表立って支持する者はいない。だが、竹下誠二郎によれば、ある調査は「フランスでのISIS(イスラム国)への支持率は16%に達するが、移民のルーツを持ち、社会的に隔離されているか失業している若者に至っては27%にもなる」と伝えている〈5〉。
 ヨーロッパの移民社会の若者たちは貧困と差別の中で、行き場を失いつつある。明るい希望がないなら、せめての希望は、自分を受け入れない豊かな社会が壊れる情景を見ること、となるだろう。
 この、社会の深刻な分裂を糧にして、移民を排斥する極右は不気味に支持を伸ばしている。だが、これらすべては、わたしたち日本人にとって「対岸の火事」ではない。この国でも、貧困と差別は確実に拡大しつづけているのだから。

    *

 襲撃事件から数日後、「二十世紀のもっとも偉大な風刺漫画家」ともいうべきアメリカ人ロバート・クラムのインタビューが掲載された〈6〉。彼は四半世紀にわたってフランスに住んでいたのだ。
 クラムは、ことばを慎重に選びながら、「表現の自由」を守れと熱狂するフランスへの静かな違和を語った。

 「9・11の同時多発テロの時と同じだ。国の安全保障が最優先され、それに反するものは押しつぶされるのだ」
 「それで、あなたは何をしているのですか?」と記者は重ねて訊(たず)ねた。
 「わたしは(風刺)漫画を描いた。ひとりの臆病な(風刺)漫画家としてね」

 クラムは「意見」を述べるのではなく、漫画を描くことを選んだ。
 クラムが描いたのは、クラムらしき人物が申し訳なさそうに「ムハンマドの尻」と題された風刺画を抱えている画(え)だった。「シャルリー・エブド」の漫画家たちがムハンマドの顔を描いてイスラム教徒を挑発したことを逆手にとった画だった。しかも、その尻の持ち主ムハンマドはクラムの友人の名前だった。
 そこで風刺されているのは、クラム自身、あるいは、この状況の下で右往左往する人びとすべてであるように思えた。
 周りの熱狂から取り残されて、クラムの画は「独りぼっち」に見えた。だが、風刺とは、自分自身さえ例外にせず、あらゆる熱狂を冷たく笑うことだということをクラムは知っていたのだ。

    *


 〈1〉太田光(爆笑問題)、テレビ番組「サンデー・ジャポン」での発言(1月25日)
 〈2〉スーザン・ソンタグ、2001年のエルサレム賞受賞スピーチ「言葉たちの良心」から(『同じ時のなかで』〈09年刊〉所収)
 〈3〉エマニュエル・トッド、インタビュー「パリ銃撃テロ 移民の子、追い込む風潮」(読売新聞1月12日付)
 〈4〉ジャニーン・ディジョバンニ「フランスの衝撃、フランスの不屈」(ニューズウィーク日本版1月20日号)
 〈5〉竹下誠二郎「移民家庭出身の若者がイスラム国の戦闘員に 欧州に迫る新たな脅威」(週刊ダイヤモンド1月17日号)
 〈6〉ロバート・クラム、インタビュー「Legendary Cartoonist Robert Crumb on the Massacre in Paris」(ニューヨーク・オブザーバーのサイト、1月10日、英文、http://observer.com/2015/01/legendary-cartoonist-robert-crumb-on-the-massacre-in-paris/)

    ◇

 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。近刊は評論集『「あの戦争」から「この戦争」へ』。

































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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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