『沈黙…意見を呑み込むということ忖度するということ ③』 

さて。ここからがこの記事の本題だ。

④『何かに遠慮して…何かを斟酌・忖度して、自ら黙り込む、という状態』

シャルリー・エブド襲撃の悲劇に明けた2015年。湯川さん、後藤さんの『イスラム国』
による拘束・殺害という、無慚ともなんとも言いようのない事件に、私たち日本人の多くが
言葉を飲みこんでしまった……
過激派テロ集団によって、彼等の命が身代金交渉や政治的取引の道具にされ、
その命の期限が刻々と迫っていくのを、息を詰めるようにして見守っていたあの日々…
『①事態の深刻さの前に…うなだれて言葉など出なくなる、という状態。』
に挙げたごとく、人々が言葉を飲みこみ、沈黙してしまうのは、自然の人間の情だろうと思う。
その人の身に起きたことをわが身に起きたことのように思い、利害損得を超えて深く共に悲しむ
いわば『惻隠の情』とも言うべき心性は、人間がおのずから持っているものと思う。
そう信ずる。

しかし…。
その、圧倒的悲劇を前にしておのずと黙り込んでしまう、という人間の自然の情から
ではなく、それが、他者への遠慮から、あるいは何かを恐れて自らの保身のこころから
自ら黙り込んでしまうとなると、それは問題だ。
湯川さん、後藤さんの生死がかかっていた最中とその後も今に至るまで…、日本に溢れかえった
無用な『忖度』の空気と、『沈黙』を強いる同調圧力の激しさはいったい何なのであろうか。

湯川さん後藤さんの救出が急がれている間…その命が政府の返事一つにかかっていた頃…
今対応に奔走している政権の足を引っ張るような批判は一時やめておこう、という空気が
政界をもマスコミをも、また言論空間をも過剰に覆っていたことは記憶に新しいだろう。

他人のことは言えない。
かく言う私自身もまた、何かに遠慮して、何かを慮って、政権批判を抑えていたからである。
それを正直に認めるのはすごく自分でも恥なのだが、私もまた、多くの言論機関と
同じように、『今は、政権批判は控えておこう…』と考えたからなのである。
私の安倍政権嫌いは徹底している。そのことはみなさんもご承知の通り。
後藤さん、湯川さんのことでの対応についても、どれほど言いたいことがあったか!
だが、今言っても仕方がない…批判はあとででもできる…という、よけいな忖度というか…
斟酌もしてしまったのである。
それは、東日本大震災の時に、津波で家族や家を失って恐怖と悲嘆の頂点にいる人々…
いつ原発の原子炉が壊滅的メルトダウンに至るか(当時はまだ)わからなかった
地震と津波と原発事故による被曝と3重の恐怖の中にいた人々…
そうしてそのようなあり得ない想像もし得なかった二重の大災害の対応にてんてこ舞いしていた
民主党政権に…斟酌したのと同じと言っていいかもしれない。
あのときも私は、2週間近く、書きたいことも書けないでいた…東電や、原発導入・推進した人々に
どれほど怒りを滾らせていたか知れなかったのだが。

『斟酌(しんしゃく)』と、意識せず書いたが、『忖度』と『斟酌』はどう違うのだろうか。
『忖度』『斟酌』を、中国語辞書『漢典』などでひいてみると、『忖度』は要するに程度を推し量る、
というのに対し、『斟酌』は『反复考虑以后决定取舍』などとあるから、何度も考慮した後、
決定して取捨するということ。つまり相手の考えを推し量る『忖度』よりも、
『斟酌』は相手の考えを推測してそこに何らかの手心を加える、というような行動を伴う
より強い意味が出てくるだろうか。(詳しい方、教えてください。)

要するに私もまた、政府に後藤・湯川さん救出に全力を注いでほしいがゆえに、
政権批判、とりわけ、安倍氏がカイロで『ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、
支援をお約束します』と演説したことが、湯川・後藤さんの2億ドルの身代金要求のきっかけと
口実を『イスラム国』に与えてしまったのではないか、という批判の言葉をも、あの時
ぐっと飲み込んでしまっていたのである。
そして今一つ。
言い訳めいて聞こえるかもしれないが、例えこのような無名のブログであろうと、
どこからふと何気なく拡散していくかわからないネットの世界の中で、余計なことを言って、
後藤さん、湯川さんの救出の邪魔をしてはいけない、という想いがあったということもある。
ISILのように、ネットを使いこなして自分にいいように利用する勢力は、どの情報から
次の標的を決めるかわからない。
私が、この混迷した世界にあって、途上国支援の一つのありようとして中村哲さんの
活動を紹介しつつも、彼の動画がもしもそんな標的選びに利用されてはいいけないからと
途中からURLだけの表示にしたのも、そういうことを気遣ってのことである…

私ごとき小さな声はどこにも聞こえはすまい。
それなのに、私ごとき小さな者もまた、そういう余計な忖度や斟酌をしてしまったのである。
ああ…なんという無用の忖度や斟酌が、この世界に必要となってしまったことだろう!

政界においては野党がこぞって…、維新や民主党は無論、共産党…なんとあの共産党までが
政権批判を一時手控えていた。
自分の党の若手議員が過激な政権批判をしたことを党幹部がたしなめるなど。
新聞、テレビなどの論調も、こぞって抑制的であったように思う……。

誰がそうしろと言ったわけでもないのに、何かの、誰かの意を汲んで・・・
まあ、その、何か・誰か、というのは時の権力の志向するところ、というくらいの曖昧なものに
すぎない、そのくらいの段階でさえ、人が(時に団体が)その『あるもの』の意を汲んで
発言や行動を差し控えたりする…つまり忖度や斟酌をすることが、この国にはなんと
多いことだろう。
それは何も、湯川さん・後藤さんの件に限らず、そのずっとずっと前から、日本に顕著な
心性傾向なのではあるまいか。
『同調圧力』というものがかかる以前から、何かを忖度して発言や行動を差し控えるのである。
どこの公民館、とは言わないが、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」、という程度の俳句が
特定の思想を帯びているからと言って、その句が句会の皆の互選によって選ばれたもので
あったにもかかわらず月報への掲載を拒否する…
これまたどこの市とは言わないが、平和集会の後援申請を市が拒否したり、
どこの大学とは言わないが、平和と原発をテーマにした集会の会場利用を大学が拒否したり
というようなことが日本のあちこちで起こっているようだ。
また、自分自身の深い反省をこめて再度書くのだが、人とつるむのが嫌いで、
同調圧力というものが大嫌いで、時代の空気など読みたくもないこの私もまた、
時に何かを忖度してしまう…
それはなにも大きな政治的なことばかりではなく、単純に、ブログ上で特定・不特定の人を
傷つけまいとして、あちらにもこちらにも気を遣って書く、などというのも、
軽度な『忖度』や『斟酌』と言えよう。
そんな自分の性癖がとてもいやに思えて、その自分への嫌悪感から筆を止めてしまう、
などということも私にはある。

さて。
誰から強制されたわけでもないのに、人または集団が、この過剰な『忖度』『斟酌』
『自己規制』をすることが、言論や批評や政治の世界で行われていくと、社会は
どうなっていくのだろう…。
3.11後の、とりわけ福島第一原発事故に関してのマスコミ報道の遠慮自粛ぶりや、
憲法を閣議決定などというものによっていくらでも拡大解釈してなし崩しにしようとし
いずれ自分たち報道や議会の自由を奪うものになるであろう秘密保護法を通してしまった
報道・野党の安倍政権への真っ当な批判もできない弱腰ぶりや、
昨年の朝日新聞バッシング騒ぎにおいて、そのような叩き方はいずれ自分たちの
首を絞めるものになるかもしれないのに、朝日を弁護するもののほとんど皆無だった
報道各社の沈黙と知らん顔ぶりは、『忖度』『斟酌』『自己規制』であったのか、
権力への明らかな追従か?
それとも何らかの圧力がかかっていたのか?

⑤なんらかの圧力を感じて、黙らざるを得ない、という状態。
⑥強烈な外力によって沈黙させられる、という状態。


に続けて書いていこう。







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Re: MATZ-TSさんへ

MATZ-TSさん、こんばんは。
この記事、まだ最後まで書いてなくって。i-229
さっさと書きなさいよ!と自分で自分に言っていますが、なかなか書くことが
多すぎてそれをすっきりまとめられません。

日本人が相手のこころを察して、無言のうちにその気持ちを感じとれるところ…
それはある意味で日本人の優しさや遠慮深さと言った美質から来ているものだと
思います。
その場の空気を読む…相手のこころを忖度する…そういうものが社会での
対人関係における一種の潤滑油のように働いている…
私自身は、実生活では、自分の思ったことをあまり正直に言わない、
何か感じてもそれを表に出さない方の性格なので、むしろ
『忖度する』とか『斟酌する』という態度は、自分に近しいものなのです。
でも、それが、言論の自由に関することとか国の防衛に関することとか
原発事故とかのように、人間の健康で安全に生きる権利のようなことに関する
問題に関して、言論機関や政治家や知識人やといった本来それらについて考え
議論し伝える役割を担う人々までもが、時の権力というようなものや
何かの強い圧力に対して『忖度』をして、言いたいことも言わない、書きたいことも
書けない、といったようになってしまう時代というものは大変に危険ですよね。
言論の専門家だけではない、私のような一般人だって、実は小さな世界の中で
何か政治的なことを言うのにいろいろ忖度するようになっていってしまっています。

それが、おっしゃるように、今の政権になってから、急速に進んで行っている気が
します。今実際にどうということではない。だけれども、時代は不自由な時代に
なっていくぞという予感がひしひしとしてくるのですね。
その『予感』というものがまた、『無用な忖度』を生むものでもあるような気がします。

新聞は、なんだかだ言って読者の思考に大きな影響を与えると思っています。
本当は、そうですよね~、違う傾向を持つ社のものを2紙3紙と読み比べれば、
全体図に近いものが汲み取れていいのでしょうが、経済的にも時間的にも
普通の人にはなかなかそうできませんよね~。
私など最近1紙だけであっぷあっぷしています。
でも、止めようとはこれぽっちも思わない。
新聞を細かく読みこんで行くと本当に面白いですし、興味深い記事もまだまだ
あります。朝日のこの論壇時評欄などは、私は毎月楽しみにしているのです。
新聞のいいところは、いろいろな記事や考え方を提供してくれることです。
私が新聞でよく読みこむのは、記者が書いたものより外部の人間から貰った記事…
例えばこの高橋源一郎氏の毎月の連載のような…の方が多いかな。
残念ながら、記者さんの書いたものは通り一遍の内容が多いような…
何かそこに忖度が働いているのかなぁ、などと感じるときがあります。
それでも新聞は、まだ大きな役割を負っていると私は思う。
ネットでは自分に必要な記事しか読まない。どうしても視点が狭くなります。
新聞で広い紙面に印刷された文章を全体的にとらえつつ読むことによって、
思考自体も大きな捉え方ができるようなそんな気がするのです。
小さな携帯端末の画面でそれができるのかなあ。
まして、ヘッドラインのところだけ拾い読みしたのでは、実は大事なことを
読み違えるということも起きてしまいますよね。
昨年の朝日報道問題が象徴的だったように、今は特定の新聞やテレビ局に対する
風当たりが非常に強いです。
驚くのは、そして情けないのは、同じ業界人がそれを一緒になって叩く
或いは弁護しないこと。
読者や視聴者の側も、おっしゃるように、特定の少ない情報をそのまま信じて
それを拡散コピペしていく…といった短絡的な傾向が強まっていますね。
なんだかわ~っと、蟻がたかるように一つのものを集中的にバッシングしたり。
考え方の相違はあってもいい。しかし叩き方が異常です。
叩くことそれ自体が目的化して問題の核心をぎりぎりと追及することや
それについての肝心の議論はなされないまま、不毛なバッシングの記憶だけが
残って、新聞離れや報道離れだけが全体として進んで行っている。
一例が、朝日も部数を減らしたけれど読売もまた部数を減らす結果になっているとか。
NHK叩きも、政府だけでなく国民も必要以上にやりすぎてないかなあ。
いい番組も作ってきてるんですよ…
なんだか、必要以上に『忖度』するところと、必要以上に『叩く』ことが
同時に行われているように思います。
まあ、はっきり言っちゃえば、強いものには忖度し、こいつは弱っている、と
思うものを寄ってたかって叩きつぶそうとするような。

ほんとですね。建設的な議論というものがもう殆どなされていない。
瑣末な違いばかりが叩き出されて、肝心の重要な問題については殆ど突っ込んだ議論が
なされないまま、いつのまにかなし崩しに大事な問題がスル―されて消えてしまっていたり
逆に拙速に決定されて行ったりしている。

私は、それが根本的原因であるとは無論言わないけれども、一つの要因として、
人間の思考の言葉がやせ細っていっているということがあるような気がしています。
長い息でものが考えられない。重い言葉に耐えられない。

…いろいろ書きだすときりがありませんね。^^
また、記事の続きで、もう少しつきつめて考えてみたいと思います。
いつもありがとうございます♪



No title

彼岸花さん こんにちは^ ^ MATZ-TSです。

ずいぶん前記事を今頃読ませて頂いています。重要な問題ですね,これは。

以下,自分の感想を乱雑に書いてしまいました。お許し下さい。


この政権になって,特定機密保護法,朝日の問題,集団的自衛権,・・・何かシナリオでもあるように,この国の言論が謙虚さと率直さを失ってきている気がします。

そのなかでいくつかのコラムがまだ輝きを放っていると思いますが,多くの人が目を奪われる一面トップには決して出てこない。

自分の意見を躊躇することなく言える言論の自由。それが「自己規制」なのか不特定多数の「圧力」のようなものか,重苦しい空気を感じるのか, あるいは人を傷つけまいとする思いやりの心か? 「思いやり」,これは大切であるのですが,完全な人間はいないわけで,かつ広い世界を見渡して情勢を分析して無難な意見を述べることもできない,また自分で「これは違う」と思うことが,その意見にとってある人を不快にさせることもある。それは仕方ない。

大事なのは,そのように不完全な人間が率直に意見を述べ合いながら,誤解があったときあ率直に訂正謝罪し,そして時には自分に不快なコメントを出される人がいても,それが単なる非難中傷ではなく,間違いの指摘,よりよい解決策への模索である限り,一時の不快さは,建設的な意見に昇華されていくはず。

理想論ですが,民主主義とはそういう機能をある程度でも維持できないと必ず失敗するように思います。

それは国内だけではなく,一部の極端な集団を除いては国際関係にも言えるはずだ,と考えています。でないと,このグローバル化した世界で,また環境に大きな影響を与えうる力を持った人間社会が持続していくことは不可能なのです。

そのような建設的な議論ができる力を持つ国民で構成される国にしていくことが必要であり,国の「質」を上げ,ひいては「力」をつけることになる。

お互いのセクトのなかで気勢を上げていても仕方ない。全く意見の異なる人(あるいは団体)同士が,公開の場で建設的な議論ができるか? 例えば,原発問題において,防衛問題について,TPPについて。異なる政党間,異なる業界間,異なるメディア間の公開討論がどうなるか?

今の世の中,大変複雑な問題について,我々は,自分の意見として何か言えても,それは特定のメディアや情報源の受け売りではないか?
しかし当事者でない限り,また特定秘密などの場合,やむを得ないともいえるのです。

従って,メディアが時の権力に影響されず,幅広い情報をきちんとわかりやすく伝えたうえで,自分たちの見解を述べる,という態度が絶対に必要です。

しかし,今の報道機関は自分たちに,あるいは時の権力に都合の悪い情報を流さない。これは報道機関が進んで日本の民主主義を破壊する行為に出ているとしか思えないのです。

読売,朝日,毎日,産経,それぞれ自分たちの主張があってしかるべき。しかし反対意見を偏見なしに伝えることは義務,といっていいのではないでしょうか?

多くの国民は,複数の新聞を購読する金も時間もないのですから・・・
紙面が足りない?今の紙面構成をみているとそんなはずはない,という気がするのですが。。。

私も技術屋として,ある技術の開発を目指すという狭い分野特定の分野では大変建設的な議論ができます。しかし,国家の問題,国際的問題についてはどうか?若かったころに比べても率直な議論の場が少なくなっている,政治の場でもそんな議論は少ない。明らかにおかしいと素人でも感じることを言い訳のように答弁して,一時的に問題になってもすぐ忘れられてしまう。

どうしてでしょうね? 科学技術が高度に発達しすぎたのか?人間が自然のなかで生きている実感を失っていて,バーチャルの世界に生きるようになったためか? 暗記教育のためか? 保守系の人が主張されるように権利ばかり主張する教育のせいか?  私はなんとなく人間が自然のなかで苦労して,また喜びを感じながら創意工夫をして生きることを忘れてきた,そして科学技術,特に玉石混合の情報の過多で消化不良を起こしていることが大きいように思います・・自分の考えの変遷をたどった根拠のない直観なのですが。

Re:二度目の鍵コメさんへ

鍵コメさん、ありがとう。
書いていただいたこと、じっくりまた考える課題にさせていただきます。
考えることがいっぱいあるなあ…

なんだかほんと言うと私も絶望していてですね。
なにもほんとは言いたくなくなっています。
でも最後まで頑張って書くだ~~~。

そう言えば、今、ふっと気がついたのですが、タイトルの『忖度』と『ソンタグ』。
全くの偶然ですが。
くだらないこと見つけて喜んでるなあ。(爆)

明日はまた、キャンドルナイトです。




Re: 鍵コメさんへ

早速助けに駆けつけてくださってありがとう~~~!
おかげさまで、忖度と斟酌の違い、よくわかりました。
中国から伝わってきて日本で使われていくうちに、随分意味が変質していくのですねぇ。
ソンターグ(ソンダクでなく。笑)のこともありがとう。
とりあえず今持っている本を読みあげてみようと思います。
やれやれ。勉強することばかりだ。^^

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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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