『この国の行方 ⑧』



11.本当に、あの道しかなかったのか?



ここに一人の青年の写真を掲げる。


朝河貫一




この写真を見て、「ああ、あのひとだ!」と、すぐにおわかりになる方はおそらく少ないだろう。
私も3年前までは、少しも知らなかった…
いや、正確に言えば、この人のことを知らず、その逸話だけほんの断片的に知っていた…。

朝河貫一。
1873年(明治6年) - 1948年(昭和23年)
日本の歴史学者。日本人初のイェール大学教授。1942年同大学名誉教授。
古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の第一人者として
欧米で評価された。特に「入来文書」(鹿児島県薩摩川内市(旧入来町)の入来院家に伝わり
鎌倉時代から江戸時代にわたる古文書群)の研究が有名。
イェール大学には、彼の業績を記念して、朝河貫一記念ガーデンがある。
それほどの評価をアメリカで受けながら、彼の名も業績も、日本ではあまり知られてこなかったのは、
彼が22歳で渡米して後、その生涯を殆どアメリカで過ごしたからである。

写真は、福島県立図書館所蔵。『朝河貫一資料』よりお借りしました。


                     *

私が、朝河貫一という人の存在を知ったのは、2012年、福島第一原発事故の
『国会事故調報告書』の『はじめに』という序文の中でである。
医学博士黒川清氏を委員長とする、この『国会事故調報告書』を私は高く評価しているのだが、
ここではその、朝河貫一に関する部分だけを引用しよう。

『100 年ほど前に、ある警告が福島が生んだ偉人、朝河貫一によってなされていた。
朝河は、日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書『日本の禍機』
を著し、日露戦争以後に「変われなかった」日本が進んで行くであろう道を、正確に
予測していた。

「変われなかった」ことで、起きてしまった今回の大事故に、日本は今後どう対応し、
どう変わっていくのか。これを、世界は厳しく注視している。この経験を私たちは無駄に
してはならない。国民の生活を守れなかった政府をはじめ、原子力関係諸機関、社会構造
や日本人の「思いこみ(マインドセット)」を抜本的に改革し、この国の信頼を立て直す機会は
今しかない。この報告書が、日本のこれからの在り方について私たち自身を検証し、
変わり始める第一歩となることを期待している』



                      *


私はこの序文に、なぜか心惹かれ、朝河貫一ってどういう人だったのだろう、
どんな警告をしたのだろう、と思って、『日本の禍機』というその本を買ったのである。
少し驚いた。そして、小さな偶然に、ちょっぴりじんとした…
その本の校訂・解説を、私がかつて大学で一度だけ授業に出て、そのたった一度の授業で、
先生がその身の周りに漂わせていた学問の世界の豊穣さや香りに魅せられ打ちのめされて
しまった、あの、U先生が書いておいでだということを知ったからである…


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さて。朝河貫一とはどんな人で、その『日本の禍機』という本の中でどんなことを言って
いるのであろうか。

安倍談話で首相は
『日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました』
と、言った。まるで日露戦争の美化だ。
朝河は、その日露戦争の時代を、青年として、アメリカに生きていた人である。
彼はアメリカで何をしていたのか。
ダートマス大学を卒業、イェール大学大学院歴史学科を優秀な成績で修了した後、
母校ダートマス大学の講師に迎えられ、東洋史と東洋文明、東西交渉史などを
教えていた。
1904年2月8日。日露戦争ぼっ発。朝河30歳。
彼は同年、英文で『日露紛争 その諸原因とその諸争点』という340頁にも及ぶ本を上梓。
アメリカとイギリスで出版された。
それは二百三高地で乃木将軍が苦戦中の折であり、ロシアは、バルト海艦隊の
主力、第二・第三太平洋艦隊(いわゆる『バルチック艦隊』)を極東方面に増派。
このバルチック艦隊が日本海目指して北アフリカを通過、というような時であった。

朝河は、この本を明治期における東洋経済史とも言える部分から書き起こして行く。
日本の産業構造が農業から工業へ変質発展、中国大陸に市場を求めるようになったこと。
ロシアの満州に対する植民地的占拠に対する日満韓の共通の利害を論じ、日露衝突の
背景を分析。また、清国を舞台とした西欧諸国の植民地的外交や利権争奪の
歴史経過についても論じている。
朝河は本だけでなく、アメリカ各地で数十回にも及ぶ日本擁護の演説を行った。

当時アメリカの一部には、日清戦争に勝利した日本を指して言う『黄禍論』が
勢いを得ていた。また、日本がキリスト教国でなくロシアがキリスト教国であったことから、
ロシアに対する同情が日本への親しみよりは強い傾向があった。
朝河は、『戦争の結果がどうであろうと、日本は満洲に領土的野心はない』と
日本が正式に宣言したことを、代弁して世界に訴えた。
歴史学者として、クリスチャンとして、世界を広い目で見ていた朝河は、
アジアが19世紀の欧州列強による植民地支配を向後も同じように受けるのでなく、
独立した国家と国家間の正当な貿易がそこで行われ共に繁栄していくことを、
東洋に民主主義的新しい秩序と平和が築かれていくことを、
そして祖国日本がその主導的役割を果たして行けたら、ということ(それは決して
武力を持って他国に介入し植民地化することなどではない)を夢見ていた…

中国における列国の機会均等を同じように求めていたアメリカでは、朝河のこの演説は
好意を持って受け止められた。
そのアメリカの仲介もあって日露戦争は、かろうじて日本の勝利で終わった。
1905年のポーツマスにおける日露の講和会議には、朝河もオブザーバーとして
参加した。

しかし。
朝河は日本を弁護する講演をアメリカで行いながらも、心の底では、
日本が『中国の独立と領土保全』や『機会均等』を守らないのではないか、という
怖れを
抱いていた。
日本が上記の二大法則を宣言したのは、日本の国是としてこれを守るという強い意志
から出たものというよりは、単にロシアに反対し世界の同情を得て、満韓における利権を
ロシアより奪うための『私曲』(不正な手段で自身だけの利益をはかること)そのもの
から来ているのではないか…
、と深く思い悩むのである。

その恐れが現実になった。
ロシアの膨張主義を批判して、清の領土と独立を保全する、清と韓国への列国の
貿易等の機会均等を世界に向けて訴えた、その当の日本が、ロシアと同じ膨張主義と
排他政策をとっていったのである


朝河は、日本がいずれ遠からず、世界で孤立していくであろうことを予感した。そうして
それは必然的にアメリカとの衝突をいずれ引き起こすことを予感した。
1909年。朝河は『日本の禍機』を、日本人に向けて書く。

『危難の何たるかは今に及びて問うまでもあらざるべし。東洋の平和と進歩とを担保して、
人類の文明に貢献し、正当の優勢を持して永く世の畏敬を受くべき日本国が、かえって
東洋の平和を撹乱し、世界憎悪の府となり、国勢頓(とみ)に逆運に陥るべきことこれなり。
清国と相信じ相助けて列強をして侵略の余地なからしめ、また諸協約のために今なお
蝕せられつつある主権の一部分をも、完全に清国に恢復するの時到らしめ、かつ厳に
機会均等の原則を遵(まも)りて、満韓においてこれを破らんとする他の諸国を警(いまし)む
べきの地位にある日本が、かえって自らこれらの原則を犯して世界史の命令に逆らい、
ついに清国をして我に敵抗せしめ、米国等をして東洋の正理擁護者たらしむべきことこれなり。
日本もし不幸にして清国と戦い、また米国と争うに至らば、その戦争は三十七、八年
(日露戦争のこと)のごとく世の文明と自己の利害との合わせる点にて戦うにあらず、
実に、世に孤立せる私曲の国、文明の敵として戦うものならざるべからず。日英同盟
といえどもまたその時まで継続すべきものにあらざるべし。

欧米人の中には東洋に右のごとき大難の起らんこと、今後数年を出でじと断言するもの
少なからず。しからざるまでも、日本は行く行くは必ず韓国を併せ、南満州を呑み、
清帝国の運命を支配し、かつ手を伸べてインドを動かし、フィリピンおよび豪州を嚇かし、
兼ねてあまねく東洋を威服せんと志せるものなりと信ずるもの比々(どれもこれも)
然らざるはなきもののごとし。
ただに欧米の人士が多くこれを信ずるのみならず、
フィリピン、インドおよび豪州の民もまたこれを懼(おそ)るるのはなはだしきは間接に
これを知りうべきのみならず、余はしばしば直接にこれを証したり。』
(朝河貫一『日本の禍機』 講談社学術文庫 より)

朝河は言う。(以下、文語体の原文を、彼岸花が意訳してまとめる。)

満州問題にしても、南満鉄道を幹線とし大連を主港とする方針が根本的な日本の
『病患』
である。いくら一方で法理上の機会均等を謳っても、他方で移住民や当局者が
これに反するような精神を持ってこれに反するような行為をしていたのでは
中国はますます日本への怒りを溜めて行き、世界の理解からは遠ざかり、いつか
日本は『不正の側に立つもの』となるだろう。
「清国の独立と領土保全」「機会均等」の二大原則は動かせないものであり、
これを無視して私曲の政策に及べば、今は味方してくれている英国も敵に回し、
またこの二大原則を重視するアメリカをも将来大きな敵としてしまうだろう。
日本が最も恐れるべきところは、清国でもない欧米諸国でもない。自らを不正の地
に陥れ清国および欧米をして正義の側に立たしめるのにある。
自分は、
『清に行く行くは完全な主権が行われて、居留地、専管地、鉄道地帯などの外国行政権の
まったく消滅するに至る時が来ることを望む』
『真に国を愛する者ならば、日本がこのように正義に対する賊、国際的平和・進歩の
破壊者の地位に陥ってしまうのをどうして黙って見ていられようか』
と、朝河は書くのである。

『日本の禍機』は、1909年、『実業之日本社』から出版された。
早稲田出身の増田義一が社長を務める『実業之日本社』で出されることに
なったのである。採算など度外視しての引き受けであった。朝河もまた原稿料など
求めず、代わりに、各有力者や青年・学生に広く読まれるよう取り計らって欲しいと
頼んだ。本の『禍機』という邦題は、かの坪内逍遥が、今を日本の最大の危機と
思ってこの書を急ぎ書いた朝河の意を汲み取って、『危機』よりももっと強い広い
意味で、ということで『禍機』という言葉を選んだ。再校と三校も逍遥自身が行なった。

時は前後するが、
1907年。『軍令』第一号発令。
『軍令』というものによって、軍部が立法権を得ることとなった。しかもそれは、帝国議会は
もとより閣議を経る必要もなかった!
これがのちの軍部暴走に繋がっていくことを、
朝河は予見していた。後述するが、彼は、1941年『日本改革の提言』をして、そこで
『法改正して軍務と政務を分けること』ということも、悲痛をもって警告している…。

1914年。第一次世界大戦勃発。日本はこれに参戦して、ドイツに宣戦布告。
連合国の勝利に貢献した功績により、パリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約により
ドイツの山東省権益、パラオやマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島を
委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。

1915年、大日本帝国は中華民国袁世凱政権に14か条の要求と7か条の
希望条項、いわゆる『対華21ヶ条要求』を提示。
山東省権益継承、関東州の租借期限延長、南満州鉄道の権益期限延長、
沿岸部を外国に割譲しないこと
、などを突きつけた。中国人の反日感情が高まり、
五四運動などが起こる。
朝河は大隈重信に手紙を送り、膠州を返還するように説く。膠州を長く日本が持てば、
世界の信用を失い、米国の中国への同情と逆に日本への反感は強まる。
日本の前途と世界の平和に新たな危害が発生する、と厳しく諫言するのである。


1917年。「ロシア革命」が勃発すると、1919年、アメリカと共同歩調を取り
シベリア出兵。だが、他国が兵を戻す中でもシベリア出兵を継続したことで各国の
猜疑を招き、国際的立場を厳しいものにしていく。日本がロシアや中国において
アメリカの利権を侵すのではないかという疑いを持たれるようになって行く。

1931年。満州事変勃発。その後十五年にわたる中国との戦争の始まりである。
朝河は、ここでもできうる限りの動きを取る。高木八尺、徳富蘇峰ら多くの日本の
指導者層の人々と手紙を交わして、日本の危機を説く。朝河は、実に多くの
当時の日本の有力者に対して、憂慮の手紙を書いている。大隈重信、渋沢栄一、
鳩山一郎、岩波茂雄、……

徳富蘇峰は朝河にとっては早稲田の先輩であり、留学の際、資金に苦しむ
朝河に援助してくれた恩人でもある。
徳富蘇峰は、その出発点においては、若くして熊本バンド(札幌バンド、横浜バンドと
並ぶ日本の明治のプロテスタント派の3つの源流の1つ)結成に携わり、新島襄の開いた
同志社英学校に入って洗礼を受けるなどキリスト教の影響を強く受けている。

当初は、国権主義や軍備拡張主義を批判し、自由主義、平等主義、平和主義を
標榜していたのだが、徐々にナショナリストの側面を強めて行き、とりわけ三国干渉に
衝撃を受けて以降は、強硬な国権論・国家膨脹主義へと変節を遂げていく。
1931年(昭和6年)満州事変が起きると、蘇峰はその皇室中心主義的思想をもって
軍部と結び、『興亜の大義』『挙国一致』を喧伝。
1942年(昭和17年)には日本文学報国会を設立して会長に就任。後の大日本言論報国会
においても会長に選ばれ、日本が全体主義、軍国主義に前のめりになり、太平洋戦争に
雪崩打っていく、その言論のリードをした中心人物の一人とも言われている。
自分の発行している『国民新聞』や『毎日新聞』で強硬論を煽って行ったのである。
大変に思想の振れ幅の大きい人物で一言でくくれないところもある。
だが、太平洋戦争中の言論統制の苛烈な時代、もの書きたちが委縮して日記さえ
官憲の目に触れるのを恐れて書かなかった時代、克明な政治批判、ジャーナリズム
批判や生活記録を綴り続けた清沢 洌(きよし)は、後に『暗黒日誌』として刊行された
その日記の中で、この徳富蘆花を糞味噌に批判している。
開戦の責任は徳富蘇峰と本田熊太郎(元駐華、駐独大使)の二人にある、とまで
言いきっているのである。

閑話休題。
さて、朝河貫一もまた、恩人であり、旧来の友人でもあるこの徳富蘇峰に、アメリカから
丁重ではあるが率直にして厳しい意見
を書き送っている。
1933年。日本は国際連盟脱退。ドイツではヒトラーが独裁権力を確立。
日本軍は熱河省も『満洲国』の領土だと称して、華北に侵入開始、北京や天津を
攻撃。
そんな時局に朝河は徳富蘇峰に書くのである。

『日本軍部のやり口はドイツの亜流であり、それを皇国の精神などと称するのは
僭越偽善である。軍部は暴力を行使して防衛力が乏しいものたちまで撃破するという
無謀な国策を立て、蛮力をふるって武器のない人々を殺害しているではないか。
これはまさしく日本の武士道に反する卑劣な行為である。』

1937年。盧溝橋事件。日中は全面戦争に至る。
こんななか、63歳になった朝河は、エール大学正教授になっている。
1938年。国家総動員法。戦線不拡大を謳いながら、
徐州、武漢、広東の三方面の攻略に大兵力を向けて行く。
1940年。第二次近衛内閣は八紘一宇の実現と大東亜新秩序の建設を基本政策に
決定。日独伊三国軍事同盟締結。
1941年。日本軍は仏印に侵攻。日米の対立は深まり、アメリカは石油など
軍事物資の対日輸出を禁止。東条内閣成立。


朝河はほとんど絶叫に等しいほどの悲痛をもって、日本改革の提言を行った。

・日本軍を中国から撤退させて征服した土地を返すこと。
・日独伊三国同盟を破棄すること
・法改正して軍務と政務を分けること
・ドイツに対戦する諸国に為し得るだけの援助を行うこと
・民心と教育とを開放すること
・自由に世界と知見と物資を交換できるようにすること


朝河の憂慮の想いから出た行動は休むことなく続けられる。
30年来の親友であるハーバード大学フォッグ美術館東洋部長ラングドン・ウォーナー
と組んで、ルーズベルト大統領から天皇へ親書を出して貰い、天皇から戦争回避の
勅令を出すよう働きかけてもらうようにするという、計画を練るのである。
1941年11月23日。朝河は天皇にあてるルーズベルト大統領の親書草案
書き上げた。
11月27,28日。ウォーナーは、親書懇請運動のため、ワシントンの官庁街を
タクシーを飛ばしてかけずり回った。大統領やハル国務長官には会えなかったが、
各省庁で最高の要人たちに会って草案と朝河の手紙を見せたと報告してきた。

ルーズベルト大統領の親書は天皇に送られた。だが、実際のところ、親書は
まず12月7日午前中にグルー駐日大使に打電され、7日正午には東京の電報局に
着いたが、グルー大使の元に配達されたのは午後10時過ぎであり、大使が
すぐさま東郷茂徳外務大臣に会いに行って親電を天皇に見てもらうよう依頼した
のは12月8日午前零時30分ごろであった。
8日午前3時前、天皇は、東郷外相から親電の内容と外交交渉の顛末を聞いた上、
親電に対する回答案を許可している。
だが、8日午前3時25分には、真珠湾攻撃が開始されてしまっているのであった。
8日午前11時40分。宣戦の詔勅。
なぜ、親電が7日に東京の電報局に着いていながら、10時間も遅れてグルー大使の
ところに届いたのか。
理由は、参謀本部の軍人の命令で故意に「遅らせるよう」中央電信局の係官に
指示
していたことが極東軍事裁判で明らかにされている。
『昭和天皇独白録』の解説によると、参謀本部通信課の戸村中佐の話として、
「・・・作戦課の瀬島少佐から・・・『いまさら米国大統領から親電がきてもどうなる
ものではない。かえって混乱の因になると思って、右親電をおさえる措置をとった』」

朝河のぎりぎりの願いは叶わなかった…
しかも、その親書の内容は、朝河が草案を書いた日本の事情に配慮したもの
とは違い、日本軍が仏印から兵を引くよう求める直截的な内容のものであった。
実は、朝河たちは知らなかったが、ルーズベルトは1941年10月に既に、天皇に
親書を送ることを考えて検討に入っていたのである。

日米が戦争に入ってからの朝河の生活は、敵国人であるにもかかわらず、
長年の彼のアメリカにおける学究生活と業績が高く評価されるゆえに、
不自由ないものであった。
1943年には心臓の不調のため病院で静養。69歳。
1945年。太平洋戦争終結。
彼は朝6時から夜8時まで机に向かうという静かにして厳しい研究生活を続けた。
研究の合間には昔、妻ミリアムと散歩した公園などを散歩したり妻や友人の墓に
詣でたりして思い出に浸ることが多かったという…
1948年8月11日早暁。心臓麻痺でひとり保養先のホテルで永眠。74歳であった。
AP電もUIP電も『現代日本がもった最も高名な世界的学者朝河貫一博士が』と、
その死去を報じた。日本占領のアメリカ軍の新聞『スターズ&ストライプス』は
弔意の記事を掲載して、横須賀基地では反旗を掲げた、という…。
対して日本の新聞は訃報電文を新聞の隅に3,4行載せたものの、朝河貫一
という名の綴り方さえ知らなかったという…。


朝河貫一は、日本人、アメリカ人、中国人、ドイツ人…それぞれの国民性や
その行く末を深い知識によって歴史・文化比較の観点から分析している。
後年のヒットラーの自殺などは、1945年4月のその死の6年も前、1939年に
友、村田勤への手紙で予言しているのである。

日本について書かれたものの一部を紹介しよう。
『無争の迎合』の習性について。

『日本の場合は、たやすく妥協する根深い習性を形成することとなる。そこにあるのは、
ちがった意見が討議と譲歩によって中道を見つけ出したものではなく、目上の人への
文句なしの尊敬の慣習が、まわりの者の感情に感染しあった結果生まれた
沈黙の妥協
であるか、それとも一方の意向の廃棄による迎合でしかない。
これは家庭や社会で、また宗教によって、自分の権利を主張するのは、利己的であり、
恥ずべきことだと教えられてきたからであり、そこから日本人は、他人の意志に従うことは
自己否定であり名誉なことだとしてきたのである。』


ああ!……今、自民党のありさまを見よ。一部ジャーナリストのありようを見よ…。
福島第一原発事故後の当事者たちの責任の取り方を見よ…
朝河の表現は柔らかいが、ここに書かれている日本人の習性は、今も少しも
変わらない。津波による全電源喪失の危険が早くから指摘されていたにもかかわらず、
東電はぐずぐずとそれを真剣に検討することなく終わって福島第一原発事故は起きた…
後藤さん・湯川さんの救出が急がれていたにもかかわらず、政府は動かず、彼等の
死後も、安倍政権を批判することを差し控える忖度が日本中を覆ってしまった…
安保法制の論理に無理があることは、内閣法制局長官が一番わかっているで
あろうのに、彼は法制局の伝統を無にしてまでも安倍政権のいいなりの答弁を
続けている…
安倍政権の憲法違反とまで言われる強引なやり口を国民が批判しているを
知っていながら、自民党公明党の議員で、政権に対し正論を説くものは村上氏
一人しかいない…
党内に安倍首相の独裁的手法を苦々しく思う者はいても、その再選を
阻もうと立ち上がる者はいない。いても首相取り巻きたちの切り崩し工作によって潰されてしまう!


『国のためならば、正義に反してもよい、正しい個人の名誉を傷つけてもいいという考え方は、
旧式な日本の遺物である。こうした思想は、一時的な国利を重んずるあまり、永久の
国害を論ずる人をさえ、『非愛国者』として遇してしまう
ことがある。そのため識者は、
世の憎悪を恐れる結果、国の大事についても公言することが出来なくなるか、もしくは
識者自身が世の習性に感染し、独立の思考を立てられなくなってしまう
ようになる』
とも彼は書く。

朝河はまた、自由主義政体こそは、人類が到達した最高度のものであると同時に、
最も困難な政体でもあると考えていた。それは、この政体の地盤となる個々人の
責任感が、すこぶるゆるみやすい
からであると説明し、民主政体は根本的に
常に道義的であることが正しく、個々人にあっては、絶えず自分は道義的であるか、
公民的であるかを自省する必要があると強調する。
朝河はさらに、『自由憲法を造ればそれですべてがすむというものではない。
自由は毎日個人の責任犠牲をもってのみ
買い得べき最高価の貨物なり』とも
言っている。

ああ…! これなど日本国憲法12条の精神そのものではなかろうか

『第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、
これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、
常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ』


朝河貫一が100年ほど前に祖国日本に警告したこと…
私たちはそれから少しは賢くなっているのだろうか…?




                    *


今からおよそ140年前の、1874年(明治7年)8月7日。
一組の親子連れが、住み慣れた福島県の二本松を後にした。父は娘の手を引き、
母は男の赤ん坊を背に負っていた。
一家は由井から渋川へ、下川崎まで行って阿武隈川を舟で渡った。
西飯野からは、青木のつづら折りの山坂を上り下りして、夜になってようやく
伊達郡立子山村(たつごやまむら)の、天正寺に辿り着いた。
あるじの朝河正澄は、元は二本松藩宗形治太夫の二男。
九歳で小野派一刀流を学び、免許皆伝となった。先意流薙刀、宝蔵院流槍術、
柔術、砲術、水練、乗馬と武芸百般に秀でており、学問も漢学、国学等も究めた。
十三歳の時以来、定府(じょうふ)として江戸に住み、京都、浜松、鎌倉、江ノ島等を訪れた。
全国各地の人々と交流し、時代の空気を肌で感じ広い視野を持っていた人物といえよう。
戊辰戦争では、白河、棚倉、郡山、安子ヶ島、二本松の深堀と転戦した後、
十六~十七歳の少年、隠居老人、戦い方を知らない役人などと共に二本松で
西軍に応戦するが、力及ばず落城。
妻ウタは、元は信州田野口藩の藩士松浦竹之進の長女として生まれ、二本松藩
砲術指南役の朝河家に嫁いできた人であった。
だが、先夫照成は天狗党討伐の際戦死。先夫の父も戊辰の役のとき戦死。
未亡人となったウタは、二人の娘と姑ヤソを抱えることになった。
だが、屋敷は二本松城炎上の際焼失してしまい、生きるのに困ったウタは
世話する者があって、この正澄を朝河家の婿として迎えることになったのである。


夫婦は傘張り、手習い師匠、洗濯仕事、針仕事などやったが生活は苦しかった。
正澄は内職の傍ら、小学校三等授業生の教員資格を目指して勉強。
1873年(明治6年)。長男貫一が生まれた。
教員資格を取った正澄は、伊達郡立子山村立小学校の校長格の教員として
迎えられることになり、それで一家は二本松を去ったのであった。



立子山天正寺

立子山小学校があった、福島県伊達郡立子山村、天正寺遠景。
写真は、こちらのサイトからお借りしました。

http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10011.103.nihonmatsu/html/00002.html



校舎は天正寺の客殿と続きの2間、校長の住居は庫裡だった。
立子山は阿武隈山塊に抱かれ、冬は寒さが厳しいところであった。

長男貫一は、生まれつき虚弱で発育が遅く、誕生日が過ぎても歩けるどころか
片言も発することさえなかった。
貫一が2歳になった翌月、ウタは貫一のことを心配しながら死んでしまう。
正澄は後妻ヱヒを迎える。
このヱヒが、また、慈愛に充ちた賢い女性であった。彼女は幼い貫一を見るなり、
貫一の言語機能がひどく遅れていることに気づく。彼女は正澄とともに、
熱心に単語図や連語表を使って、貫一に発音の練習を繰り返しさせた。

4歳になる頃には貫一は体も言語も、年齢相応になるまでになった。
正澄は幼い息子に近古史談、日本外史、四書五経などを教え始めた。




立子山小学校

天正寺内にあるかつての立子山小学校。一度建て替えたその建物か?
写真はこちらのサイトからお借りしました。
https://kacco.kahoku.co.jp/blog/mingei/18448




貫一は立子山小学校初等科に入学。7,8歳のときにはもう11、2歳の
力を見せ『神童』とか『朝河天神』などと近在のひとに言われるほどだった。
伊達郡内の学力比較試験の際には、いつも彼が立子山小学校を代表して
出席。最優秀の成績を上げたという。

川俣高等小学校を経て、福島尋常中学校に二里半の道を歩いて通うようになる。
貫一の、上級の学校で勉強したいという願いを父が聞きとどけたのである。
福島尋常中学校は後に安積郡に移転。安積中学校(後の安積高校)と
呼ばれることになった。

1892年。貫一は安積中学校を首席で卒業。卒業生総代として彼は答辞を
読むことになっていた。貫一の口から出たのは見事な英語の演説であった。
英人教師ハリファックスは、『やがて世界はこの人を知るであろう』と語ったという。
こんな逸話もある。
貫一は、英和辞書を毎日2ページずつ暗記した。そして暗誦したものは、一枚ずつ
食べるか破り捨てるかしていき、カバーだけになった時、それを校庭の西隅の
桜の樹の根元に埋めたというのである…。
作家久米正雄はこの安積中学校の18年後輩であった。久米は貫一のまねを
して、覚えてもいない辞書のページを食べて桜の根方に埋めたという。^^

中学を出た貫一は、アメリカ留学の第一歩としてまずは東京専門学校(後の
早稲田大学)に進むことを決意。英語教師や翻訳などをして資金を貯めた。
上京した貫一は、友人に紹介されて本郷教会の牧師横井時雄に会う。
横井によって洗礼を受けた。
貫一の文才に感服した横井は、友人でダートマス大学の学長をしていた
ウイリアム・J・タッカーに朝河のことを話した。タッカーは、朝河の才能と経済的
苦境を知って、彼に学費・舎費免除の留学の機会を与えることにした。

だが貫一には渡航費がない。友人知人にお金を借り、彼の貧しさと才能を
見込んで当時早稲田で教えていた坪内逍遥が翻訳の仕事を回してくれなどしたが
なかなか資金はたまらなかった。
これを解決してくれたのが、徳富蘇峰や大隈重信、勝海舟の三人であった。

1895年(明治28年)。貫一は東京専門学校を首席で卒業。
同年12月。貫一は横浜からサンフランシスコへ向かって旅発った…。
入学したのは、ニューハンプシャー州ダートマス大学。
そこでの朝河はいつも最優秀の成績を上げた。英語・ドイツ語の学力では
学部学生の水準をはるかに抜きん出、ドイツ語教授をはじめ、諸教授は、朝河の
卒業に際し、その学力と共にその人格と人を引き付ける個性にも讃辞を
惜しまなかったという…。



                   *

さて。朝河貫一の生まれてからのエピソードを後回しにしたのは、少し
個人的な思い入れがあるからである…ささやかきわまりないものだが。

貫一の父正澄が婿養子に入った朝河家は、二本松藩の砲術指南の家柄で
あった。
『八重の桜』のあの新島八重も、会津藩砲術師範であった山本権八の娘であった。
二本松藩と会津藩は共に、1868年(慶応4年・明治元年)、戊辰戦争で新政府軍を
相手に戦い、まずは二本松城が、そして会津若松城が、落城。
二本松少年隊と白虎隊の少年たちがそれぞれ戦死あるいは自刃したのは
皆さんご存じの通り。

私は、朝河貫一という稀有の才能に魅かれるとともに、戊辰戦争で二本松城で
少年たちと共に戦い敗れ、男子の絶えた朝河家に婿養子として入り、教員資格を取って
福島の辺鄙な村の小学校長となった貫一の父正澄の生涯に、いたく心惹かれるのである。
なぜなら、正澄が小学校校長扱いとして二本松を去って赴任した立子山、という
土地は、私のつれあいの、年のずいぶん離れた次姉が嫁いだ村であったから。
私の義理の姉の一人になったそのひとは、昔看護婦をしていて、弟である
私の連れ合いに、いろいろな本などを買い与えて当時としては新しいことをいろいろ
教えてくれた人であったという。
その義姉さんの夫は、盲目であった。体の大きな立派な押し出しのひとで、まだ目が
見えていた若い時分はたいへんな働き手で、皆に一目おかれる男であったという。
私が初めて連れ合いの故郷の福島市に連れていかれたとき、次姉夫婦に
会うこともあったが、既に二人はかなりの年で、親戚の集まりに少し顔出すだけで
すぐに山の家に帰ってしまい、私はあまり話をしたことがない。
立子山に行ったこともない。
昭和の後年になっても、そこは辺鄙な場所であるということだった。
しかし、『立子山の姉さん』『立子山の義兄さん』と夫が言うとき、私はなにか
なんというのだろうなあ…俗塵から自ら離れて生きる杣人のような孤高の印象を
受けて、遠くから微かな共感を持って聞いていたものだ。
それは、私の父が晩年一人で山で生きていたからでもあったし、父の父という人が、
義兄と同じように若い頃山で作業中、事故で失明した人だったからかも知れない…

朝河貫一は、その立子山の出身であるという…
そしてもう一つ。実は私は、もうずっと以前に、辞書を暗記して食べそのカバーを
校庭の桜の根方に埋めたという福島の偉人の話を夫から聞いたことがあったのである。
しかしその時私は、辞書の紙って不味いだろうなあ…と思っただけで、『ふうん』と
気のない返事をして、それっきり『辞書喰い』のその人のことを忘れてしまっていたのである。
無論その名も。

2012年、朝河貫一のことを知って『日本の禍機』という本を買った時、私は
その人こそ、あの辞書を食べてカバーを桜に下に埋めたひとか!と驚いたのである。
もっとも夫は勘違いしていて、貫一を母校の先輩、県立福島高校の卒業生だと
思っていたらしい。貫一はそうでなく、安積高校の人であり、『朝河桜』と呼ばれる
その桜の樹も、安積高校にあるのだが。

さらなる偶然は。
記事冒頭部分にも書いたが、78年後に再版された『日本の禍機』の、
校訂・解説を、私がかつて大学で一度だけ授業に出て、そのたった一度の授業で、
先生がその身の周りに漂わせていた学問の世界の豊穣さや香りに魅せられて
しまった、あの、U先生が書いておいでだということを知ったということもあった…
古今の古典や、心理学や、象徴学や、…といっためくるめくような学問の世界
への扉を開いて見せてくれたあの授業!
…若い心にどれほどそれが眩しかったことか!
自分はなしえなかったけれど、学問の世界への淡い憧れ、というものは、
その後も私の中に消えずに残って、なにがしかの影響をきっと及ぼしている。

一言で言えば、『世界は多様で、驚きに満ちているものだよ』ということだろうか。
たった一回受けた授業で、先生が、その身で私に教えてくれたことは、そういうことだった。

だが。そんな小さな私事の偶然はともかく。
私は、戊辰戦争に敗れ、新しい暮らしを求めて二本松を去り、当時は今よりさらに
寂しいところであったろう立子山の地に向かう親子の姿を想像すると、なんだか
涙が出そうになるのである。とりわけ父正澄の想いに。正澄自身、進取の気性に富む
学問好きの人であったろう。息子のアメリカへ留学したいという夢を文句ひとつ言わずに
許した父のこころ…。

朝河貫一が、遠い遠いアメリカの地から、祖国を想い、戦争の禍を招くようなことは
するなと警告する出来得る限りの動きをしたということのその底には、父正澄が知る
戦争の敗者の悲惨というもの、戦の悪を、幼い頃から聞いて知っていたからではなかろうか、と
そんな想像をしてみるのである。
いわば、貫一の体に戊辰戦争の敗者のその血が流れていたからではなかろうか、と。
彼が徳富蘇峰に、日本軍が武器もろくに持たぬ民を武力でもって制し、蛮力をふるって
武器のない人々を殺害していること。これはまさしく日本の武士道に反する
卑劣な行為である、と強い言葉で書き送った心の底に、そんな、父から受け継ぐ
日本の武士道のあるべき姿への想いがあったからなのではなかったろうか。

彼は戦後も思考を止めず、戦後の日本のあるべき姿についても書き残している。
『日本人の特色は妥協の一事にあり』と手厳しい。
すぐ悔悟反省するのは、その『妥協』的性格のいい面であるかもしれないが、一方、
「強力野心にして他を控制するものに雷同することあるを免れず。軍部の行動を憎みながら、
之に反抗せずして、之に駆逐さるゝを劫けなかった如きは其例でありませう
」とも書き、
日本人は、
無私の反省と、無事の迎合とを、種々のかたちにおいて将来も繰り返すのであろう
と、戦後の日本をまったく見事に予感して、敗戦の3年後の1948年8月、日本の将来を
憂慮しつつ亡くなったのである。
素直に反省するのはいいのだが、今後も『無事(面倒なことが起きない)であればいいと…
余計な波風を立たせないように大勢に迎合する』ということを繰り返して行くのだろう
、と。
なんと耳の痛い諫言ではないか…。

彼は、占領下にある祖国日本を遠くから見て、アメリカにいつまでもすがっていてはいけないと
言っている。
二院制の必要を説いている。
教科書の中身などに国家が介入すべきでないということも書いている。
実は私は、朝河の思想に全面的に賛成するものではない。
彼は日本は自衛力を持つべきだと言っている。
彼においては天皇制は自明の理なのであったろうし、共産主義を(おそらく)恐れ、
その経歴上、視点がアメリカ寄りになってしまうところはどうしてもあった。

だが、彼の残してくれた日本への数々の警告は、残念ながら今も生きている。

その誠実な、筋を曲げぬ生き方と広い視点は、それ自体が一つの大きな啓示
であるように私には思える。
何よりも、こういうひとが過去にいた…と言うそのこと自体が、心にしみるのである…


なお、ここに書いたことは、主に以下の本を参考にして書いた。

『日本の禍機』 朝河貫一 (講談社学術文庫)
『最後の「日本人」 朝河貫一の生涯』 阿部善雄 (岩波現代文庫)





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Re:玄さんへ

玄さん。こんにちは。

朝河貫一。興味深い人物ですよね。
現代のわれわれの目から見れば、あれれ~っ?と思うようなところもあります。
『武士道』に関するところなど、そうですね。
ただ、私が読んだ二冊は、日露戦争後の日本のあり方について主に政治的な
観点から朝河が語り、また彼を論じている本なので、朝河の思想の根本的な
ところは、彼の内面的なところは、あまりこの二冊からは窺い知れないのです。
ただ、彼が日本の禍機に際し、一人のひととしてどう動いたか、ということしか。

おそらくものすごく禁欲的、自制的な人だったろうと思います。
無駄な遊びなどしているひまもないほど時間を惜しんでひたすら学問研究に没頭した。
といって、温かみがないというわけではない。友人知人がものすごく多いですしね~。
たくさんの恩人の力を借りて彼はアメリカで学業をなすわけですが、彼はその恩義を
生涯忘れない。後進の者たちの面倒見もものすごくよさそうです。
一つ私にとって印象的だったのは、エール大学の後輩でもある松本重治を
とりわけ可愛がっていて、夜、松本が朝河の部屋を訪ねると、『資料カードなど
の整理の手を休めて、好きなパイプをくゆらしながら、あれこれの話題に興じた』
というところでした。
これね。私がここでちょっと触れた、U先生が、この通りの人だったようなのです。
といっても、U先生の授業に私は一回きり出ていないので、そのひととなりなど
全然知らないんですけれどね。 

『日本の禍機』を買って、その校訂・解説をU先生がしてらっしゃると知った時、
ちょっと意外な気がしました。U先生から政治的なものを感じなかったから…
でも、読んでいくうちに、U先生が朝河貫一の解説をするに至ったのがなんとなく
まったくの私の勝手な想像だけどわかるような、そんな気が少ししました。
そして、U先生は、朝河貫一にとても共感を感じていらしたのではなかったろうか、と
思いました。

おっと。いただいたコメントと関係ないですね。
とにかく私は、朝河貫一という人を、この2冊の本に書かれている以外に
知らないのです。
ただ。武士道についての彼自身の考えに関してはこんな記述がありました。

『余ひそかにおもえらく、いかに欠点はありとも、武士道は日本国民が
父祖より伝えたる至宝にして、他国民の得んと欲して得難く、(略)』
『日本の武士道が単に武勇のみにあらざることはいうまでもなく、(略)』

と言って、武士道の元素として次のようなものを『思いつくままにだが』と断って
列挙しています。

『①義に勇むこと ②堅固の意志 ③自重、公平、抑制、礼譲、同情などの諸徳
④静寂、思慮、反省』

朝河貫一というひとのひととなりそのまま、という感じですね。
この人としての精神のありように、知行制度を含む武家社会という仕組みを合わせて考えると、
朝河というひとの国家統治のありようについての考え方が、およそおよそですが
見えてくる気がするかなあ、とも思いますです。

朝河の場合、そこに世界市民としての教養や広い視点が加わっていますから。
さらにキリスト教の教えも。

私が、日本国憲法第12条と同じだ、と言って引用した、この、
『民主政体は根本的に常に道義的であることが正しく、
個々人にあっては、絶えず自分は道義的であるか、公民的であるかを自省する
必要がある』

というところなどは、朝河が二本松藩士の末裔として背負っていた背景や、
上記の諸々の要素が、よくあらわれている部分かな…と思いました。

彼は、国家がまず公平の地位に立ち、天下の正路を歩み、困難と戦って
技倆と性格とを練磨しつつ、堂々として進歩すれば、国民に無量の実物的教育を
与えられるだろう、と言っているのですね。

彼が最も嫌いな言葉だったのか、『私曲』という語がすごくよく出てきます。
国家が世界の正道を歩まず、率先して私曲の限りを尽くしたのでは…!、と嘆きます。

朝河の生涯を見ていると、個々の時局への反応ではあれれ?と私自身は思うようなことも
あるのです。例えば、ロシアに対する態度ですね。
彼は共産主義を恐れていたようで、戦後も、『赤徒』によって日本が襲われたり、
国内に赤徒が跋扈することを危険視しています。
これだけ世界を広く見ていたひとが、ロシア~ソ連の国としてのありようはともかく
共産主義そのものの本質を見なかったかなぁ、という不思議は感じる。
ただ、ボルシェビキズムが勃興してくるのは自然のこと、というような認識も示しています。

また、彼のような人にしてもどこかに、中国より日本の方が上、というような
感覚が、あちこちに仄見えてしまうことが時折あります。
中国と日本とが対等に共に歩むのが理想とは何度も言っているけれども、心の底が
つい出ちゃうのかなあ…あの時代の特性ですかね。
ただ、中国人留学生の優秀さを褒め称えている記述もあります。
もしかしたら、胡適のことなどもそのうちに入っていたかどうか、この記述と
胡適と知り合った時の時の前後関係がわからないので何とも言えませんが、
とにかく中国人留学生の真面目さと優秀さを褒めて、日本人が中国人を自分より
下の民族だなどと思いあがっていると、いつか驚かされることになるだろう、とも
語っています。

とにかく、とても古風なひとですね。^^
同時代の政治家などの名前がたくさん出てくるのですが、とても同時代人と
思えない。際立って、『明治時代』、というよりは、武家社会の頃の日本人の
気風と佇まいを残している人、という感じがしました。

天皇制に関する考え方も、軍部が利用したありようとは全然違うでしょうね。

伝記を見ていると、ときに朝河という人が揺らいでいるように思えることが
ありますが、きっと彼自体は、世界に通ずる大きな倫理観でもって、その時々を
処していたのだろうと思います。
彼はアメリカにいたのだからきっとソローやホイットマンは基礎教養として
学んでいるでしょうから、そのあたりに関する記述もあれば読んでみたいものですね。^^

私自身が、朝河貫一に関して情報不足で理解が足りないので、いただいたコメントとは
ピントがずれた答えになっているでしょうが、どうかお許しくださいね。

またいろいろご教示くだされば、と思います♪
ありがとう~~~♪

返事はいりません,閑な時間に読んでくださいね

わかりづらいところを一部直しました,
朝河寛一がソ連をおそれたのは,たぶんですね,,,朝河寛一を知らないのでまちがってるかもしれませんが。
帝政ロシアの佳き部分をたかく評価してたからではないかと,文學との交わりが深ければ深いほどそういう人は多いとおもいます,

つまり・・・帝政ロシアの大きな意味での最初の“革命”といえる反ボナパルテイズムやトルストイ的無政府主義を評価した結果だと。
「しかしながら「ロシアの革命」が完全となるには労農ソヴェト政権をたててはじめて可能だ」
ということが受け止められなかった世代ということではないでしょうか

この最初のロシアの農民運動的“革命”は,アメリカではソローの市民的不服従,さらにアジアに反響してガンジーの“非暴力”的抵抗につながる。
ソローの思想は次の世代のホイットマンを通じて米系の胡適のような中國文人をつくります,が
胡適とちがって魯迅や郭沫若や瞿秋白(このひとはちょっとわかいですが),はその旧ロシアの模擬的革命と新ロシアの,新しい一次大戦後の変動(被支配民族の自決)や十月革命の両方をよく理解して動くことができたひとたち,ということです。(ま,これはわたしの文學を通じた世界理解ですが)

しかしながら
中国の場合,その次の世代。つまりトルストイを知らない世代がでてきて根幹となって始めて革命が成り立った。

次の世代は特徴としては,すでに生まれたときから日本に,経済的に支配される経済ブロックブロック経済のしくみががっちりできあがっていた,その中で生きてみれば,思想の實踐だけでは到底搾取に抵抗できなかった。ガンジーやソローの“生ぬるい”やり方は現実的でなかった。

このブロック經濟にかんして今の日本人は,なにか対等の國同士がおこなう排他的貿易の枠組みとかんちがいしているひとがおおいですね。いってみれば“ブロック”をなにか防壁のようなものだとかん違いしている,
結果的には他国を排除できるので必ずしもまちがいではないけれども,

當時の“ブロック”の意味は,植民地と一体化(つまり完全な支配下)してブロック(ひとかたまり)とみなして利益を吸い上げるシステム,ですね。韓国併合から,日本の經濟のブロック化は始まっているわけです。

林語堂の世界市民にしても,朝河寛一にしても,日本の植民地支配の現実,日本以外のアジアを植民地とみなし,対等とみなしていなかったこと,はおっしゃるとおりですね,
民族のアイデンテティも社会のしくみ全体も搾取の構造にとりいれた,経済ブロックではなく “日滿支經濟ブロック化”の悪質,日本のやり口の官軍民によってつくられたオールラウンドなしくみの搾取,(ブロック経済化,とはつまり好き勝手な関税廃止,輸出禁止とかは,まだしもです,強制連行などブロック経済のなかでこそおこなうことができた侵略です)
このことを身にしみてわかっていなかった,それにつきます,
みもふたもないことをいえば朝河も所詮,外国それもアメリカという世界のリーダーの國に住む人です。植民地の現實を無視しているという点では日本の内地人の考え方つまり斉藤隆夫の侵略肯定的反軍演説などとおなじです,これは先に記事にも書きましたが。

植民地経済学の學者は植民地の現實を知れ。國際政治学の学者も,もっと社會のなかにはいって汗を流せ,もっと民衆の中に入っていけ,これが,これが當時サヨクのあるべきもっともたっとい主張だったのではないでしょうか?
文と學のみやびなひとでさえ,ある意味,知性はあるけど封印して反知性に堕しても,文學を改造しようとした當時の左翼の文人。ということでしょう

今の,知性もないし,何もか考えるのがキライな人たちが反知性のヤンキー化するのとはちがいますが

No title

『U先生』は出てきませんでした。
でもわかります。K・U先生ですよね
ホイットマンはわたしの父も大好きで,ちなみに彼岸花さんの大學の恩師女教授の夫君の名著も家にあります^^。

五・四運動當時中國の進歩的な文人や学生はホイットマンはだいすきでしたねえ,
とりわけ郭沫若驛は経典(大ヒット)でした。いろいろ偶然がかさなってほんとおもしろいです

No title

ついでに。五四文化運動では惠特曼(ホイットマン)などを譯していたのが胡適です^^b

No title

彼岸花さんが書かれた朝河寛一が言う
「民主政体は根本的に
常に道義的であることが正しく、個々人にあっては、絶えず自分は道義的であるか、
公民的であるかを自省する必要があると強調する。」

この部分がちょっと気になってあれこれかんがえてみました。
このことばは,アメリカ留学した中国知識人たちが1930年代にいってたことと非常に共通するんです,
胡適の留学日記の中に出てくるのですが,朝河寛一に,日本の封建制度とは何か?ということを聞いたというんです,
というのは,中國語と日本語の「封建制度」の意味はまったくちがっているので,胡適にはよくわからなかったのです,朝河は知行制度のことだ,と答えるんです。
つまり“武士道”が國家の統治をになう制度だと。説明するわけです。
それはとりもなおさず,朝河はもともとの日本の道義とは何かをいいあらわしているように思えてきます,なるほどなあとおもいます,
それは,どこか朝河が会津出身,ということに濃厚にかかわってくるのだとおもいますが,つまり,彼の言う天皇制擁護は,軍部がこしらえた靖國史観ではないし,もっと彼の言う天皇観は,違うところにあるのだろうなということも思いました,偏見は排除して日本の禍機や関連を読んでみようと思いました

それとはべつに
當時アメリカに留学した中國人はよく,世界市民ということをいうのです,たとえば戦時中の日本人のことを,同時代にアメリカで小説を書いてた,林語堂は道徳的不感症だ,というんです。それでは世界市民になれない,と。

やはりそれぞれの國にある“道義”は,もっとおおきな世界に普遍的に共通する道義
とむすびあえるものだ,というがあって,それはプロテスタント的な道義でもなく,西欧的でもなく・・・・
彼らがいうのが “公民” なんですが,
ある時期のアメリカ,それはソローに代表されるような倫理観と,もしかしたらいえるかもしれません,くわえて若かりしころの彼岸花さんのw「文学部女子のころの学び」をおもうと,ちょっと朝河寛一の武士道的道義はちがってみえますね。大変興味を感じました,


中國では,ごぞんじのとおり國家を武力で統一したものが,そのつど皇帝になるわけですが,万世一系の日本は天皇はかわらない。
つまり武家の政治の精神的支柱は武士道だから,中國のように“王道”というものは意識されない,しかし統治のための道義は日本にはある,と,朝河は矜持をもってこたえたんだろうな,と。
そんなことをもおもいました。
ちょっと取り留めないことを書いてしまいましたが。
よみすててください

Re:鍵コメさんへ

鍵コメさん、心から嬉しく思います。^^
一人でがんばって記事書いていようと思っていましたが、思うほどたくさんは
書けませんでした~。

朝河貫一。
そうなんですよね。
私も記事の最後の方で書いていますが、全くその考えに同意できるというわけでも
ないんです。
まず彼にあっては、自国防衛の力を持つということ、天皇制維持、ということは
疑いをさしはさむ余地のない自明のことと思われていたようですし、
それから、あれだけ広く世界を見ようとしていたひとにしては、対ロ恐怖、
というものから一歩も出ていないんですね。
まあ、アメリカでほぼその生涯を終えたひとですし、アメリカから受けた恩義
への想いははかりしれないほど大きかったでしょうし、どうしてもその思考が
英米寄りになるのは仕方なかったかもしれません…
彼は日露戦争までは、日本に義がある、と考えているようなのですね。
そこからは脱しきれていない。
ここに挙げたわずかな彼の言説からも、それが伺えます。
そしておっしゃるように、この人の中にも、列強の植民地主義感覚から完全に
脱しきれていない感じ方がある気がしますね。『中国の領土保全』『機会均等』
という言葉が何度も出てきますが、現代のわれわれから見れば、そこにはまだ
中国や朝鮮半島を自分たちと対等な存在…一つの独立した存在として見ず、
これを『教導する』とか『門戸を開かせる』とかいう上から目線というものと、
学者である朝河自身にそんな想いはないでしょうが、『利権獲得で先を争う』
といった感覚がどうしても見えてしまう。
この朝河自身にしても、日本を優等民族と見るところから来る上から視線
というものが拭いがたくある気がします。
その時代の世界の激動を過去の歴史として俯瞰することのできる現代の
われわれの感覚からすれば、ここはおかしいよなあ、と思うところは
たくさんあるんですよね…。

でも、国民皆が怒涛のように一方向に雪崩うっていったあの当時を
自分の時として生きて来た人の中で、これだけ誠実になんとか戦を
止めようと必死の努力を続けた人は数少ないです…

それから。
私がこの人を取り上げた一つの理由は、良くも悪くも、この一人の人の中に、
幕末明治維新から日中太平洋戦争の敗戦、そして戦後に至るまでの、日本人の
思想というものが全部象徴的に詰まっている気がしたからなんです。
いや。現代までそれはつながっているな。
そう。つながっているんですよ~~~…

だから、もう一度その人生・思想を見直して研究してみるのにまことに興味深い
ひとだと思いました。
そういう意味で、この記事はまだまだ書き足りない部分がたくさんあります。
もうちょっと深く考えて見てみたいひとです。またいずれ、別の記事で登場して
いただくことになると思います。^^

続けてもう一人、これは朝河貫一よりもっとはっきりした思想の人ですが、
取り上げたい人がいてその人のこと書きたいのですが、安保法制審議が大詰めだし、
あと2,3個先の記事になるかもしれません…

お帰りがほんとに嬉しいです!
くれぐれもご無理をなさいませんよう。

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Re: NANTEIさんへ

NANTEIさん、こんばんは。

…ひどいですね…。

1時間50ミリの雨は一度だけ経験したことがありますが、それは…もう
怖かったです。
でも、数年前まで、そういう雨は『特異』な気象だったと思います。
竜巻も、ここ10年ほどでしょうか。それ以前は、アメリカに起こることだと
思ってた…

それがね…どこといわず、普通に起こる現象になってしまった…

発電所だからと言って避けて通ってはくれませんものね。
なんだか、気象も、この人間世界の混とんと同じように、絶句してしまうような
荒々しいものに年々なって行っているような…。

廃棄物処分場。
大きな難しい問題ですねぇ…
戦争を始めるなら戦争の終らせ方を考えておかないといけない、と同じように、
人間が作り出すものは、それを処分する時のことを絶対考えておかないと
駄目ですよね。
いつか、誰かが、どこかでやってくれるだろう、じゃ駄目なんですよ。
これからますます増え続ける放射性廃棄物。比較的低レベルのものでさえ処分が
大変なのにこれから高レベル放射性廃棄物がどんどん出てくる。
この狭い日本のどこで処分しようと思っていたのでしょうか…

国内の問題だけではない…
難民の問題なども、テロ組織のことも、…本当に考えていると
どうしていいのかわからなくなってしまいますね。考えたってそもそも
いい考えなどあるはずもないのですが。

私も、どうどうめぐりするばかりです!(苦笑)





こんばんは。

先日は、ご心配いただきありがとうございました。

彼岸花さんのところこそ、如何でしたでしょうか。

しかし・・・
なぜ東北ばかり、これでもかの大災害が襲うのでしょうか。
ダムに水没してゆくような町や村の映像は、直視することができません。

腹が立つのは東京都区内だけが、蚊に刺された程度の表情をしていること!
(そんなことを言ってはいけません!ですが・・・)

ところで、先日千葉市で起こった突風のことですが。
ここは、2012年10月20日に投稿した拙記事「寒川地区」。
このすぐ傍を通り抜けて行ったのです。

で、ここから少し南に下った臨海部に、指定廃棄物処理場として指定された、
東電の火力発電所があるわけで、突風があった9月6日は、
その処理場反対のデモがあった日ですから、
何の符号かと不思議に思ったものでした。

それもあり、これもあり、またまた・・・
落ち着きのない子ですが、もう頭の許容量をとうに越してしまいました(苦笑!

Re: 鍵コメさんへ

鍵コメさん、こんにちは。

はい、おかげさまで、こちらの方はだいじょうぶです。
でも、栃木や茨城はひどいですね……言葉を無くしてしまいます。
どんなに不安でいらっしゃるでしょう…

福島の方も大雨みたいだし、これから雨雲が北に向かうのでしょうか。
どうか、これ以上被害が広がりませんように祈るばかりです…

ほんとに、気候が荒々しくなってしまいましたね。
これからもこういうことが繰り返し起こるのだろうか、と思うと、
本当に心配です。

ご心配くださってありがとう~~~♪
鍵コメさんもどうか、お気をつけて。

Re: やっちゃんさんへ

やっちゃんさん、こんばんは♪

おからだの方はいかがかなあ?
まだ、無理な動きしちゃいけませんよ~。

はい、どうやら台風はこちらの方は通過したみたい。
でも、昨日の夜は眠れなかったです。
我が家のあたりは、道路の作りが下手で、なんかね、他のところの
雨が、うちの前の排水溝に流れ込んでくるの~。
その排水溝が詰まったり排水容量を超えたら、うちの庭にそれが流れ込んでくる。
かつて一度だけ、もうギリギリのところまで水が来たことありました。
あんときは不安だったなあ!

ほんとに黒島はたいへんだったようですね。
まだ家の補修できてないでしょうし、台風がしばらく来ませんよう祈ります。
今は台風じゃなくてもゲリラ豪雨で人が亡くなるような大被害がどこでも起きちゃう。
余所事だなんて思ってられない時代ですね。

やっちゃんさんもお気をお付けくださいね。

おやすみなさ~い♪

No title

彼岸花さんこんばんわ。
今日ニュースでそちらの様子やってて、
ちょっと心配したんですが、何事もなかったですか!?

こっちも前回の台風の時は夜中一睡もできず、
やっちゃんは怖くて震えてました~(これ、ホント。)

幸いウチの村は木が数本倒れたのみ、
ウチも納屋の屋根が1部ちょこっとめくれただけで
大きな被害はなかったですが、、、
黒島がすごいひどい。
もう、お気の毒で、、、。
まだまだ台風シーズンだからイヤですね。

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Re:んさんへ

んさん、こんばんは。

ええ。ほんとですね。
安倍政権のいいとこなんてあるのかなあ?
経済が一応株価が上がって回復しているように見えますが、
それは国民年金としてのお金まで運用資金につぎ込んで、株価操作している。
株価があがれば、利益を売るのでしょうが、もし株価が暴落したら…
その損失はだれが埋めてくれるのでしょうね。
来年の予算も、もう引き締めようともしてません…
いや。国民から搾れるところはちゃんと搾り取る。消費増税がそうですね。
そして一方では、防衛費などは放漫財政になって行きます。

一体、今の日本に、自衛隊を海外まで派遣し、アメリカの肩代わりなどする
余裕があるんだろうか。人的資源にも経済的にもそんな余裕ないと思います。
国民のおよそ3人に一人が高齢者、という2030年問題は、もうわずかに
15年先に迫っています。
原発も次々老朽化して廃炉には膨大な金がかかるだろう。

中国や北朝鮮の脅威を煽って集団的自衛権行使に持ち込もうとしている
けれど、アメリカを中国や北朝鮮が攻撃するなんて、そんなことありえますか?
そんなことしたら、お終いです…それこそ全面戦争だ。
脅威を煽って国民を誘導するのは、どこの国でもいつの時代でも
『国家』を名乗る者たちの手口ですね。

来年の参院選では、自公に国民のNO!を突き付けないと、ですね。^^

んさん。ありがとうございます。


だよなぁ・・・

もう、何かもひっくるめて安倍自民党政権には「NO」を突きつけてやるべきでしょう。

「国民はお前らの財布でも私兵でもないぞっ!なめるなっ!」と。

Re: 鍵コメさんへ

鍵コメさん、こんにちは。
昨日の雨はすごかったですぅ…

返事はメールに書かせていただきました。^^

Re:stanislowskiさんへ

stanisloskiさん、こんにちは♪

福島の地名がいっぱい出てきますでしょ。^^
でも、もし朝河貫一が生きていたら、そのふるさとがあのようなことで
人の住めない場所にされてしまったら、どれほど怒り悲しんだことでしょうね…
国会の事故調書。まあ、他の事故調報告書よりは良かったかな、という
意味でですが。
それでも抜けてるところはぼろぼろあると思います。
ただ、黒川さんらの静かな怒りが伝わってきました…。
そして、どの事故調書にしても、せっかく出たのに、それらを活かす政治回路は
作られてないんですよね…出しっぱなし。
とりわけ国会事故調報告書などは、国会であの後徹底的に利用して欲しかったです。

『ヒントは戊辰戦争にありと』

そうなんですよね~~~。
私も、事故後、いろんなことを調べていて、何回もその想いは抱きました。
会津~斗南藩~六ヶ所村、という流れですね~。
もしよかったら、こちらお読みください。六ヶ所村のこと書いてます。
http://clusteramaryllis45.blog61.fc2.com/blog-entry-509.html

でも、これ書いたときは、まだ会津藩との関連は知らなかったですね。

後になって、戊辰戦争→斗南藩→六ヶ所村→原発
                   ↘満蒙開拓団→六ヶ所村→原発事故

という構図が、私にもはっきりと見えてきたのです。
そうすると、『希望の牧場』の、吉澤正巳さん一家の歴史などがほんとうに
くっきりとわかるようになった…

いろんなことが単独にあるのでなく、連関の中にあるということ…

吉澤さんの場合、斗南藩とは関係ありませんが、満蒙開拓団→成田闘争→原発事故
と繋がっていく。

同じく戊辰戦争で会津藩と同じように奥羽列藩同盟に加わり敗れた越後長岡藩も
結局は廃藩となっていて、そこに後に柏崎刈羽原発が建つのを考えると、
原発と直接の因果関係はなくとも、貧しい藩の運命というようなものを考えて、
しんとした気持ちになりますね…。
福島第一原発事故でなく、柏崎刈羽原発事故であったかもしれないですからね…
これからだってありうるわけですし…。

日本の、自然の特徴から来る『無常観』。
それは、日本人の気質に大きく関係していると私も思います。
諦めの早さや、切り替えの早さはそういうところからきているでしょうね。
しかし。
戦争で負けるということ…そのことの意味をあまり認識していない指導層の
責任は大きいですね。
戦争を始めるのは簡単だが、それを終わらせるのは難しい。
まして、自分たちが負けるということを一切想像していない軍上層部に
政治が引っ張られるということが本当に怖いです。
ここで書くのを省略したのですが、1907年に『軍令』という仕組みが成立し
その第一号が出されているんですね。軍令、とは、軍が立法権を持つ、と
いうことです。それは帝国議会はもとより閣議を経る必要もなかった。
それがどんなに恐ろしいことかは、後の日本軍の暴走振りを見ればわかりますね。
朝河貫一は、この『軍令』をもやめろ!と警告しています。

民主主義と市民の自覚は、本当にまだまだ発展途中ですね。
それとも、愚かな生き物である人間には、それ自体が辿りつけえない『幻想』なのか…。
ISやシリア難民などのことを考えていると…そんなため息も出てきてしまいます。
日本はまだいい。
言論の自由も憲法下の平等も、まだまだ一応機能していますからね。
でも、それらが失われるのは一瞬です。
 

ここに書いたこと、自分でも読みかえしながら、日本の政治はちっとも
変わっていない…とため息をついてしまいました。
今度の安倍再選などもそうですね。
まさに、『強いものに忖度して誰も何も言えなくなってしまう』
みんながイエスマンばかりになってしまう、というのが、これほどあからさまな
政権って、戦後初めてなんじゃないですか。

日本になにが出来るのか…
少なくともそれは、武力によって問題を解決しようとすることでは絶対ない!
と思います。
考えるべきことがほんっとに多いですね。

stanislowskiさん、ありがとうございます♪

Re: んさんへ

んさん、こんにちは♪

うう…ほんとに、骨のある議員は、もう自民党にはいなくなっちゃった
ようですね。村上誠一郎氏ただ一人かなあ。野田聖子氏もまあまあですが。
それにしても、中枢から圧力をかけるとは、もうこれは独裁政治ですね。
誰も安倍さんにもの言えない…こんな政権、戦後なかったですよね。

マイナンバーカードと消費税増税分還元を抱き合わせにするなんてのも
姑息ですよね。
私なんか、じゃ、いらないよ、そんなもん!と考えちゃうけど、
そうすると政府にとっちゃ都合がいいわけですよね。その分金払わなくて
すむから(苦笑)。
実際問題として、この案は実効性がないと思いますよ。
マイナンバーは、極めて重要な個人情報なのに、それを日常の買い物に
もって歩けってんですから。
アメリカじゃ、カードは持ち歩くな、って指導してるらしいですよ。
誰かも書いてたけど、『マイナンバーカードとお店のポイントカードと
クレジットカード3枚出せってか~い!』って、ほんと、笑っちゃいます。

ほんと。むしり取る方は、否応なしにもってっちゃうのに、給付する方は
あれこれ手続き煩雑にして条件も厳しくして。おばあさんの一人暮らしが
夏、エアコン使ってたからって生活保護なしにするなんて、考えられない
悪政です。

みんな、どうして怒らないのかなあ。

んさん。ありがとうございます♪

 

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No title

福島の地名や学校名、身近で全て知っているところです。
立子山と言えば凍み豆腐。あれ以来、注意していて遺憾ながら食しておりません。
事故調書は読んでおらず、朝河貫一も知りませんでした。
記事に挙げてくださってありがとうございます。読んでみます。

ヒントは戊辰戦争にありと会津を訪ねました。
長州は埋葬もさせなかった、下北においやった、陵辱もした。

ふるさとのひとが、地域の事をよく知り、誇りを持って、政府の事故処理に、いや、それだけでなく、立ち上がることが出来たら!と思うのです。独り善がりかな・・・

「沈黙の妥協」、これが国民性だとしたら、その原因を作るものは風土でしょうか。
自然には抗えない、自然災害から無常観が発達し情緒的になってしまうのでしょうか。
鎖国していない今日、西側のルールが世界を覆っている現在、日本的なものだけでは動けないし、それでは負けてしまいますね。
民主主義、市民性は、不公平に勝とうとした、西洋の価値観でしょうか。
それまでの、殿様と城下民で慎ましく暮らしていたころの方が幸せだったかも。

民主主義と市民性は発展途上。私は、あの事故以来、やっと目が覚めたのです。

情緒と論理、藤原正彦著、国家の品格を読みながら、日本人は、私は、どうあるべきなのか?いろいろ考えます。

気概ある

自民党議員はほとんど居なかった様ですね・・・ははっ(^0^)笑っちゃうね(笑い事じゃないけど)国民の怒りの叫びに目を向けられず、長いものには巻かれましょうと日和見るへタレ議員どもめ!

で?何なのマイナンバーカードをいちいち食料品買うために持ち歩けって!
あと「手続きしなけりゃ減税分は還元はしねぇ!」っていう麻生のドヤ顔には怒りしか沸いてこないです。

今まで、いろんな情報をまともに管理できてない政府には到底無理でしょ。
最小限の情報(年金番号と身分証明程度でも不安だね)に抑えてて欲しいです。
あと、小さな町の小さい商店までカード読み取り機の設置も無理そうな気もするしね。

とにかく、税金取ることには物凄い細かいところまで気が回るのに還元や返還する事には物凄く手続を複雑で面倒くさくする姑息さにはウンザリしそうです。

ううっ、心もとなく拙くても民主政権(鳩は絶対ダメだ)の方が・・・これが後悔ってやつか?(でも、やはり頼りないわブレまくるわですぐ後悔しちゃうかも?)
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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