『匂いボタン』 私の「もの」がたり 其の二

「匂いボタンって知らない?」と訊ねても、誰も知らない。
今ではあれは私の勘違いかなあと思うようにさえなっている。

今から五十年近くも前。私が中学生の時のことだ。
朝、学校に行って、始業前のざわついた教室でのことだった。
女友達の一人が、「ねえねえ、これ見て。」と言って、直径2センチほどの
ボタンを皆の前に差し出した。
ごくごく淡いピンク色を帯びたそのボタンは、貝ボタンのようにわずかな
光沢を帯びて、半透明で、美しいと言えば美しいかもしれないが、
何の飾りもなく、まあ、当たり前の目立たないボタン、という感じであった。
「これがどうしたの?」という感じで皆が見返す。
「まあ、ちょっと見てて。」
彼女はそういうと、ボタンを机の上に無造作に置き、そこで、ボタンに指の腹を当てて、
机にこすりつけ始めたのである。

その当時の学校の机は、みな木製で、長い間歴代の生徒に使い込まれて、
木目が浮き出たようになっていたり、いたずら者が自分の名前や稚拙な絵などの
落書きを刀で刻みこんでいたりして、どれもかなり表面がでこぼこになっていた。
その凹凸のある机に、彼女はボタンを2.30回も往復してこすりつけただろうか。
「ちょっと、これ嗅いでみて」
近くにいた者が、ボタンの匂いを不審そうに嗅ぐ。
「あっ!いい匂い!」

「どれどれ」
まわりにいた者は順番にボタンを取りっこして、匂いを嗅ぐ。
匂いが薄れたと見てとると、持ち主がまた机にこすりつける。
私もボタンを手に取ったが、摩擦熱で少し温かみを帯びたそれは、
今でいう匂いのする消しゴムのような、ガムの香料のような、
かすかな甘い匂いをさせていた。
「ほんとだ!いい匂いがする!」
女生徒達は、交代でくんくん匂いを嗅いだ。
男子も何人かやってきて、「ほんとだ」と言ったり、「全然匂わない」と言ったり。
それは本当に、あるかなしかくらいの淡い淡い匂いだった。

「私のもやってみよう」
そう言って、各自が自分の制服のシャツのボタンを机の上で擦り始めた。
と言っても、着たままだから、シャツの裾を無理やり引き出したり、袖のボタンを
腕ごと机でゴシゴシしたり。
その頃のうちの中学校は、一応夏冬合服の形は決まっていたが、学校で一括して注文ということではなく、
それぞれの親が、標準に近いものを勝手に誂えて着せているという具合だったので、
生地も素材もばらばらだった。
勿論ボタンも、合服の白シャツということで、ほとんどが小さな貝ボタンが付いていたが、
人によって微妙に違っていたのである。
私も、袖のボタンを必死になって擦りつけてみたが、何の香りもしなかった。
殆どの人のボタンが匂わなかったように思う。
匂う、という者のそれも、首をかしげるような淡さ。

今から20年ほど前。NHKで唐十郎脚本、仙道敦子、大鶴義丹主演で
『匂いガラス』という秀作ドラマがあった。
話の詳しい内容は私自身は忘れていたが、「匂いガラス」というものに
心魅かれる人は多かったらしく、ネットで検索すると、多くの人がこの
ドラマのことを鮮やかに記憶しているようだ。
You Tube動画もアップされている。

その話の匂いガラス、というのは、半透明なガラスのかけらで、
それはどうも、ドラマの中では、墜落した零戦の風防ガラスのかけららしいというのである。
ガラス、と言ってもそれはガラスではなく、今でいうアクリルガラスのこと。
どうやら、このアクリルガラスが、硬いものに擦りつけると甘い匂いがするのは
本当であるようで、当時はまだ、アクリル樹脂に不純物が多く混じっていたので、
いろいろな甘い香りがしたというのである。
日本軍の零戦ではなく、アメリカ軍のB29戦闘爆撃機が撃墜された、その風防ガラスであった、
という説もあるらしい。
樹脂ガラス。特に、ポリメタクリル酸メチル樹脂は、こすると確かに甘い香りを発するので
匂いガラスと呼ばれることもあるという。

匂いガラスの正体がわかってみれば、なあんだ!という感じだが、
それにしても、『匂いガラス』のドラマを記憶している人はいても、
匂いボタン、について反応する人はいない。
貝ボタンの代わりに、樹脂ガラスで作られたボタンであれはあったのだろうか。

ドラマを見てから、中学の頃の、その匂いボタンのことを思い出し、
家中のそれらしいボタンをクンクンしてみた。
長い間に、私の裁縫箱にはたくさん半端なボタンが集まっている。
他にまだ使っていないボタンの箱も数個ある。
これは匂いボタンかな、と思えるものたち。
何の変哲もないものばかり。どれも勿論匂わない。
中学校のあの、でこぼこ机でないとだめなのかな(笑)。 
2009_1215_133810-CIMG1057_convert_20091216130833.jpg

我が家の別のボタン箱。
これらのボタンは、10年ほど前の、娘からのクリスマスプレゼント。
下北沢のボタンやさんが店じまいするということで、彼女が気に入ったものを大人買い。
これはコートやジャケット用の大きいボタンの箱で、他にまだ、小さめボタンの箱がある。
なに、「プレゼント」というのは口実で、私に自分の服をたくさん縫わせたいからで(笑)。
これでも、もう三分の一は使いました。
2009_1215_134516-CIMG1059_convert_20091216143233.jpg

ビニール袋が光って何が何だかわからないわね。
ちょっと並べて遊んでみようかな。

2009_1201_130243-CIMG1000_convert_20091216143956.jpg

もう洋服に使って、余ったものであるのもあれば、これから使うというものもある。

先日、ある女性歌人が、小さい頃、父君の白い碁石を口によく含んでみた、
という話をラジオでしていた。
ああ、わかるわかる。いい感覚だなあ、と思って聞いていたが、
ボタン、というものにも、そういう、魔力がありはしないだろうか。
そっと撫でてみて、掌で遊んでみて。
かさっと掻き集めてみて、おはじきのように指で弾いてみる。
頬にあててみて、唇に触れてみて、
そうして最後に、ぱふっと口に含んでみたくなるような。
(小さいお子さんの前では絶対に出来ないですが。笑)
そうしてそれが、私の記憶の中の匂いボタンのように、
かすかに甘く香るなら、なお最高なのだが。
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ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: neroneko さんへ

大人買いしたのは娘ですけどね。私にはその根性ありません(笑)。

でも、ボタン道は深そうですよ。
コレクションしてる方も実際いらっしゃいますしね。
ボタンには、独特の魅力があると思います。
私の思い出の匂いボタンのようなものもありますし、それぞれの人が
それぞれのお母さんの裁縫箱のボタンのことを印象的に覚えている。
制服の第二ボタン、というのも、せつない習慣ですしね。

本当に、ボタンって誰が考え出したんでしょう。
漢字で釦と書きますが、当て字なんでしょうね。
この漢字を考えた人の気持ちがとってもわかります(笑)。

少年少女関係なく、一度は心魅かれるものですよね。
ボタンも、「白い」碁石と同じに、口に含んでみたくなるものです。

店じまいするボタン屋で大人買い

ボタンって確かにコレクション性がありますね。
子供のころに集めたかったような、そんなかすかな思いもあったような気がします。
何となく母親がコレクションして楽しんでいるような素振りがあったからですね。
絶対使わないだろうというというボタンも捨てないんです。
うちの「ボタン箱」のようなもの(小さい三段小箱のいちばん上の引き出し)をひっくり返して眺めた記憶が蘇りました。

Re: ららさんへ

ああ。ららさんのお母様もお洋服をお作りになる方でいらしたんですね。
ららさんはお母さまの手作りのお洋服を着てらしたんですね。
なんとなくそんな感じがしていました。
大事に育てられたお嬢さんi-185

ボタンって本当に綺麗なもの、面白いものがたくさん。
きっとおかあさまのボタン箱にも、美しい外国のボタンや
小さくて可愛いもの珍しいものなど入っているのでしょう。
幼い少女なら、きっと魅かれるはず。
そうして、ちょっとおくちに入れてみたくなる(笑)。
遊び疲れてお母さまの横でうたた寝。ボタンを小さな手に一個
握りしめてね。
お母さまとの幸せな思い出ですね。
ボタン箱。大事になさってくださいね。
そこにはお母様とららさんの夢と思い出がぎっしり。

そう。ボタンにはなぜかこころがこもるの。

懐かしいです

たくさんのボタン、大きさ、色、形まちまちのボタンたちが一つの入れ物に入っている・・・・
母は洋裁が上手くて、小さい頃ららはその脇でいつもボタンで遊んでいました。
お口に入れちゃだめよ!といつも言われていたような気がする・・・
たぶん幼稚園はいる前。
一つ一つが宝石のようで遊びながらいつのまにか畳みに頬をつけて眠っていたり・・・
母はボタンをとても大切にした人でした。
母の引き出しには今もたくさんのボタンたちが静かに眠っています。、もう誰も使わないのが分かっていても、捨てられないものの一つです。

Re: morinofさんへ

morinof さん。もう驚きです。
匂いボタンに反応してくださる方がいらしたなんて。

そうなんです。私の見たのも、ほんのり僅かな赤味を帯びて、本当に、薄桜色、というのが
ぴったりの色をしていました。
なんだか不思議です。どうしてmorinofさんはそんなことまで、と。

ああ、綿ギャバの学生服、なんていう言葉も懐かしいです。
ちょっとざらざらした質感があったので、擦るのに適していたんですね。
そう。『昇気』という言葉がふさわしいかもしれませんね。
特にmorinofさんは、身にまとっていらっしゃるものだったので、
余計に香りが立ち昇る、という感じがしたのかもしれません。

アクリルのこと。正確な知識を教えてくださり、ありがとうございます。
なんだかとってもよく理解できました。
林檎やバナナの香り。まさにそうでした。
「芳香族」という言葉もいいですね。
私は化学が大の苦手だったんですが、こうやってお聞きすると、
有機も無機も、化学の世界はほんとは素晴らしい色や香りに満ちた
もっと真剣に勉強すべき驚異の世界だったんだな、と思えてきます。
なんだか宮沢賢治の文章を読んでいるようにわくわくしました。
中学生の頃から、なんとなく魅かれていた香りの正体が、今ここではっきりして、
本当にすっきりしました。
そうですか。今でも、アクリル板などを切ったりすると、あの匂いがするんですね。
今度、やってみます。家にありますもので(笑)。
そんな近くにあるとは思いませんでした。

morinof さん。ほんとに不思議・・・・・。

ありがとうございました。

Re: れんげちゃんへ

れんげちゃん、お久しぶりです。
なんとなんと、れんげちゃんのコメントのところから、彼岸花さんのレス復活で~す。
(と、いうことにしたの。笑)
いろいろ考えた末、意地はって内にこもってても仕方ないよなあ、と思って、ふっきることにしました。
そっかあ。morinofune さんのところで彼岸花、咲いてるとこ見られたのね(笑)。
あ、ここにいた!っておかしかったでしょ。

学生服の第二ボタンなんて、私が高校生のころはそんなのまだ流行ってなかったの。
流行ってても、そんなこと言えない子でしたでしょう、たぶん。
娘は女子高だったし、うちは第二ボタンは収蔵しておりません(笑)。

れんげちゃんは貰ったんだ。いいなあ。
そのボタンは今いずこ?

ありがとう。れんげちゃんもお風邪気をつけてね。
無沙汰の限りを尽くしておりましたが、また皆さんにも会いに伺います。
すっかり敷居が高くなっちゃった。
でも、れんげちゃんは、いつもこんな風に変わらずわけへだてしないでいてくれて
とても嬉しいです。

No title

え?匂いボタン? あ、ご無沙汰でぇ~す(笑)
morinofuneさんの所へ飛んだら、彼岸花さん居た!あはははは♪

学生服の第二ボタンは無さそうだねぇ~。(笑)
お気に入りのボタンは、ヘアピンとかにして遊んでまぁ~す♪
え?まさかぁ~!(笑) 第二ボタンはヘアピンにはしてないよ。
もらった覚えはあるけど、どっかいったぁ~~~。

んじゃ、またぁ~♪寒いけど、風邪ひくなよ~~~~~!!!

薄桜のにおい釦

 におい釦覚えています。薄桜色の釦を持っていました。
私は綿ギャバの学生服に擦りつけて一人密かに楽しんでいました。
香りを嗅ぐというより一瞬間、昇気に包まれる幸福感を思い出しました。
 アクリルはエステルの重合体で、特にメタクリル酸メチル樹脂は有機ガラスと呼ばれ
大戦中に航空機の風防に使われていたようです。
本来エステルは林檎やバナナなどの香りの主成分で、酸とアルコールの化合物です。
そこからエステルやメチル系は芳香族と言う名称で分類されています。
 アクリル板やポリカーボネートなどを鋸で切る時やドリルで孔を開ける時にも良い香りがします。
 ・・・・・・でも本当に、あのにおい釦どこに行ったんでしょうね。
プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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