『神の劫火』 ②

いつも長い文の私ですが、今回はさらに長いです。
でも、私の普段考えていることの本質が、ある新聞記事に書かれていたので、
それを引用しながら、原発問題の根幹を考えてみたいと思います。
どうか、どうか、いやいや覚悟して、じっくりお読みください(笑)。
読んでくださった方には、彼岸花のサイン入りブロマイドを差し上げます、なんちゃって。
いらないですよね?(笑)冗談ですよ…。


私は、3.11以来、この国の作家とか評論家とか、いわゆる文化人、知識人は
何をしているのだろう…と思い続けていた。
これほどの大きな悲劇。
ひとのそれまでの価値観がひっくり返ってしまうほどのカタストロフィ。

そのようなときこそ語るのが作家や評論家や哲学者や映画人その他の芸術家なのではないかと思っていた。
無論、『世界』とか『文藝春秋』とか、左右硬軟の雑誌にそれらしい記事は数多くあった。
しかしなにか、『大震災特集』というそれぞれの雑誌の中に収まってしまっていて
見る人が見れば、ああ、ここでこういうひとが発言を、とは思うが、
それが繋がって、大きな動きになるというような熱さは感じられない気がするのである。

こんな時こそ、右左とか保守革新とか与野党とか、そういったものを超えて、
大きな歴史的視点に立った論評が求められているのに…。
なにかそれが大きなうねりとなって感じられず、非常に個人的で単発的なものが多い
気がするのである。
メディアが死んだ、と言われて久しいが、それだけではなく、日本の論壇というもの、
日本の良心を形成していく、といった職業にある人々自体が、もう熱さを失い、
精神的に若さを失ってしまったのであろうか?
私が単にアンテナの張り方が悪く、勉強不足なだけだろうか?


そんな中、5月26日、朝日新聞朝刊の第15面(多摩版だが)。論壇時評のページは
そんな私の不満をちょっと払拭してくれた。
筆者は作家の高橋源一郎氏。
いろいろ、引用して個別に語ってみたいことをたくさん含んだ記事だった。
高橋氏による論壇時評なので、私がまたそれを引用すると、引用の引用となって
煩瑣である。原文は、『続く』のところに載せておく。

タイトルは『非正規の思考 原発もテロも広く遠く』。高橋源一郎

震災と原発事故のニュースを、カリフォルニアで聞いた加藤典洋は、
『自責の気持ちも混じった悲哀の感情』を抱いた、と、『一冊の本』5月号で語る。
高橋源一郎自身も、同じような想いを抱いたそうである。
私が、東北を襲った想像もつかないような地震と、それに続く福島第一原発の
事故のことを知った時も、同じであった。遠い安全なところにいて、
評論など世に向けて言を発する仕事についているわけでもない私。
それなのに、しばらく胃腸の調子を悪くするほど、嘆き悲しんでいた。
それは私が、母である、ということからも来ていたと思うが、それは、
「このような悲劇を、この日本で起こさせてしまった!」と言うのに近い、
しーんとしてしまうような『すまなさ』の感情であった。
誰に対して感じていたか、と言うと、それは、若い人々に対してであったような気がする。

自分の娘やその恋人、彼らの子供(はおそらく実現しまいが)、とにかくその子供たちの世代、
そうしてさらにその先の世代、それから、人間以外の鳥や虫や花などに対しても、
なぜか『すまない』と言う気持ちを私も抱いたのである。
原発に関してその危険を知っていながら、止めるための動きに加わっていなかった自分を悔いた。

それに関連し、私が『ほほう!』と思ったのは、引用されている河野太郎氏の言葉である。
河野太郎はネット上の対談『BLOGOS対談』で、『反原発』に批判的な池田信夫の質問に
答えている。池田の質問はこうだった。
廃棄物は日本海溝の下に埋めるか、シベリアやモンゴルに金で引き取ってもらえば?」

この質問が期せずして、原子力発電を推進する側に立っている人々の、基本認識を
端的に表してはいないだろうか。
放射性廃棄物を、ひとのいない(=自分の近くでない)遠隔地に
捨てればいい、とする認識。それが世界の海に繋がる日本海溝であろうが、シベリア、モンゴルで
あろうが、自分のところでなければいい、とする認識。しかもそれを金の力で
やろうとする認識。これが、まさに福島浜通り、六ヶ所村などに、つまり産業の乏しい地域に
金をばらまいて原子力関連施設を作る、という構図に繋がってくる…。

この挑発に対し、河野はこう答えたと言うのである。

「ずっと先の世代を縛るわけにはいかない。それは経済的合理性の問題ではなく、
「文化論」に近い問題なのだ、と。

これを読んで、私は、ハタ!と自分の手で膝を打ちたいような気がした。
河野太郎氏。もしかすると、ハンス・ヨナスの『責任という原理』を読んでいらっしゃる
のではなかろうか。

思いだすことがある。2年前の『故郷の廃家』と言う私の前のブログのコメントで、
私はその哲学者と著書のことを、ある青年から教えてもらったのである。
彼のハンドルネームは、evgene さん。
私が原発のことを懸命に調べて記事を書いていたとき、私が、「原発と言うものは、
その廃棄物の問題や、また一旦事故を起こしてしまえば、何十年何百年と、
監視しなければならないと言うことや健康被害など、未来の世代に
大きな禍根を残すものである」と発言。
すると、別のある青年から、それは偽善だ!とツッコミを受けたのである。
自分の孫子に対してならともかく、全く知らない未来の人間にまで、責任を感じるなんて
情緒的すぎる、それは貴女の偽善だ、と。
私は、それは想像力の問題なのだ!と結構激しく反論した。
未来の世代と顔見知りかどうかなんてそんなこと関係ない。地上の草や木や
生き物に、人間のような感情や知性がないから、なんてそんなの関係ない。
それは想像力の問題である、と。
かっかする私に、evgene 氏が、その本を紹介してくれたのである。

ハンス・ヨナス。1979年『責任という原理 ――科学技術文明のための倫理学の試み』
(加藤尚武訳・監修。東信堂、2000年)

ハンス・ヨナスについてのあらましはここを。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%8A%E3%82%B9

さて。この本のあらましを紹介するのは難しい。なにしろ図書館で借りてきて見たら
厚さ4センチくらいあるんじゃない?と思うようなずっしりしたハードカバーの本。
450ページくらいある。新装品は5千円だけれど私が見たのはもっと高かったんじゃないかなあ。
すみません、evgene さん。拾い読みしました(笑)。
斜め読みしながら、大事そうなところに紙片を挟んでいった。
あとでじっくり読もうと思って。でも結局読みかえしはしなかった。
返却するとき、挟んだ紙片を外すのが大変だった(笑)。

そんな読み方だったが、およそのことはつかんだ。
現代は科学技術が驚異的に進んで、それは自己増殖しながら、とどまるところを知らぬ
発展を我々人類にもたらした。しかしながら、その行く先は、地球環境破壊や資源の枯渇など
にやがて行きつき、それは我々の後の人類や他の生物、地球環境に限りなく大きな
厄災を持たらすかもしれない。
今生きる我々は、未来の人類に対し、また地球に対し、責任を負うのではないか?

…そういう問いから、この書物は書かれている。

従来の倫理学というものには、この、『未来に対する責任』という視点は欠けていたか
あっても弱かったのである。そもそも倫理というものは、今を生きる我々、というものを
対象にし、それは基本的に時代が変わろうと変化しない性質のもの、と考えられていたから。

しかしながら、自分の孫子ならともかく、会ったこともない、会うこともありえない
未来の人々や、動植物にまで、我々は責任を負う必要があるのか?
そうしてそれは可能なのか?
我々が、未来の人々のために現在の生活をたとえば切り詰めて我慢する…しかし
それが未来のひとのためになったということさえ、我々は確かめることさえできない。
『倫理』というもの、『責任』というものは、同時代の、しかも相互方向的な働きを
意味のうちに内在している。
それの成り立たない、未来の人々や動植物などに、我々はそもそも責任を
感じられるのか?…

まあ、こういったことを書いた本である。
哲学的な素養のない私などには、とても難しくて、簡単にまとめるなんてできない。
あれこれ検索してみた結果、この方の文がとてもわかりやすかったので、
拝借させていただこうと思う。ハンス・ヨナスに興味のおありの方は是非どうぞ。

http://www.geocities.jp/kawasakisoichi2004/hansjonas.html

ここではその方の一節だけを引用してみよう。ハンス・ヨナスがどういう認識を持っていた人か、
この一言でわかり、そうしてとりわけ今は、多くの方が、「ああ!」とお思いになると思う。

ヨナスは、未来の世代に与える影響に関する予測が楽観的なものであってはならないことを、
くりかえし強調している。「救いの予言よりも、不吉な予言にこそ耳を傾けよ。」(56頁)
未来の予測はつねに外れる可能性があり、当たる確率よりも外れる確率のほうが
圧倒的に大きいのであるから、「未来倫理」は未来における最悪の可能性を
考慮するのでなければならない。言い換えれば、未来に対するユートピア的な観点を
とってはならない。それゆえ、未来の世代に対する責任とは、宗教的な来世における
救済のイメージや、ある種のマルクス主義に見られる未来におけるユートピア主義とは
正反対のものでなければならない。
(途中略)
未来の不可知性にのっとって、少なくとも未来に対して負の遺産を残さないよう
努めなければならない。
「未来倫理」とは、「遠く隔たったものへの責任の倫理学」(49頁)でなければならないのである



さて。脱線したが、この、未来に我々が責任を負う、ということは、原発を考えるときに
避けて通れない問題である。
河野太郎氏は、そういう目線を持っている人なのだったか!と、彼の言動を高く
評価している私は、あらためて感心したのである。
河野太郎氏については、また別に書きたい。

高橋源一郎氏は、我々が議論の外に置いてきた、この、「これから生まれ出る人々」
を、原発問題の関係者として召喚すること、これも今までの「正規の思想」にはなかったことだ、
と書く。  

そうしてさらに、
テーマが切迫したものであればあるほど、逆に、広く、遠く、枠を広げて論じる姿を
わたしは見たい
。』とも書く。
これこれ!
これは、私の前のブログの、大きなテーマだった。
老いてもう先が見え始めた私が、若い世代の方に書き残しておきたいと思って
始めた前の『故郷の廃家』というブログ。

その大きな通奏低音は『悲しみ』であり、テーマの3本柱は、

「人間だけが、この地球で認識をし、想像することが出来る生きものである。
それならば、人間に与えられた役割、というのは、この地球の、奇跡のような
美しさ豊かさを認識し、それを守って後世に残すこと。
そのためには『想像力』というものが何よりも求められる」ということ。

「そのためには、『遠い視線』が必要である。自分や自分のまわりの『今』
だけでなく、地球の他の地域にすむ人々や動植物のこと、そして時空を超えて
過去や未来の人々にも向ける視線を持つこと。無論、遠くばかりを見ていては、
足元の不幸に気づかない。近くのものに対してはやさしい『眼差し』がいる。
つまり、『遠い視線と近くへの眼差し』の両方が必要。」

「上記2つを人間が獲得するためには、まず『知る』ことが必要である。
知識と経験のないところに、想像力も理解も生まれない。学校の勉強が優秀であれ、
ということではない。テレビ、本、ひとの話、旅行、労働などの実体験…、
あらゆる方法で、『知る』ということ。この世の仕組みとからくりを
知るということ。知ることはひとに、ときに『悲しみ』をもたらす。それでも、人間ならば、
その悲しみを、あえてその身に引き受けること。『知る』ことはまた、大きな大きな
『歓び』でもあるのだから。」

私がずうっと一貫して、若い人々に訴えたかったのはこのことであった。

ああ…。
この新聞記事の中に、それらがみな書いてあるではないか!

さらにもう一つ。
高橋氏の文は続く。

たとえば、目の前にある危機である「原発事故」を、「文明論」の中で考えようとする
関廣野や中沢新一のように。
関は、原子力は本来ニュートン物理学の枠外に位置しているとする。それは、
日常の感覚では理解できない種類の存在であり、それ故、人びとを不安に陥れ続けるのだ。
一方、中沢は、「生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核反応の過程を、
『無媒介』のままに持ち込んだ」原子力発電は、他のエネルギー利用とは本質的に異なり、
我々の生態系の安定を破壊する、とした上で、さらに踏み込んで、本来そこに所属しない
「外部」を、我々の生態圏に持ち込む有り様は、一神教と同じとする
。   
「原子力技術は一神教的な技術」であり、「文明の大転換」を試みなければならない、
という中沢の主張は、いま、奇異には聞こえない。

  

備考
 ⑤関 廣野氏の『廣』という字は本当は日ヘンがついているが、パソコンに出てこない。
  お許しください。出典:「ヒロシマからフクシマへ」(現代思想5月号)
 ⑥中沢新一「日本の大転換(上)」(スバル6月号)


おお~!なんと!私がテレビの旅番組で、町角の小さな祠を見てぼんやり考えた
原子力発電の火は、一神教の神の燃え盛る劫火みたいだな、という漠然とした想い。
それが、ここにも書いてあるではないか。
とすると、その後にわたしが続けて考えた、自然エネルギーは、日本のさまざまな
小さな神たちのよう、ということも、まんざら的外れで突飛でもないだろうか。

日本人の中に根強くある、こうした大らかな宗教観、それは、日本人が
山や川や海や、森や木々や風や草や花や鳥獣や、雨や雪や波や火山噴火…
そうして変化に富んだ自然の中に生活してきたところから来る大らかさと
内ふところの深さから来ているものであろう。
そうした日本人に、強大ではあるけれど、厳しく過酷な、原子力の火は
本当は似合わないのではなかろうか。
日本人はきっと、自然エネルギーの先進国になれる資質を豊かに潜在的に
持っているはずである。

私は、未来の人々に禍根を残すことをしたくなく、
また、今、この日本の人々が、そして大地が…見えない放射線などによって
冒されていく理不尽に、我慢がならないのである…。憤怒するのである。

物事を遠い大きな目線で見ることが出来る者…
哲学者、文学者、評論家、芸術家、科学者…そうした人々はもっと声をあげないか!
これだけ多くの一般の人々が、一所懸命考えているものを!


いや、そうじゃないな。
高橋源一郎氏の、この文のタイトルにあるように、一般の私たちの、新鮮な『非正規の思考』こそが
大事なのかもしれない。大きく国を動かす力を持っているのかもしれない。
評論家などという人々に方向を指し示してもらえることを、つまり、
なにか「こうしろ」と言われることが与えられるのを、待っていてはいけないのかもしれない。
自分で、自分の頭で一所懸命考えること、過去を調べてみること、
そうしてそこから未来への、遠くへのまなざしを自ら得ることが大事なのであろう…

そう。それから。高橋源一郎氏の記事には書いてないけれど、
私もまた、「知らなければ想像力も生まれない」と書いたけれど、
人間には後天的な『知』の他に、本能として、醜悪なもの、危険なものを
避けようとする知恵が本来ありはしないだろうか。
とりわけ、日本の様な豊かなやさしい自然の中に育った我々には。
それは、なにも、誰かから学ばなくとも、我々のうちに眠っている知恵である。
言わば、直感的な知恵である。

反原発、脱原発の声の中。これまで原発推進政策を積極的に言ってきた人々の
強弁を目にするとき、この人たちにはその、人間の生物としての本能的、直感的知恵が
欠落しているか、あるいは欲のために鈍ってしまったのではなかろうか、
また、日本人の素朴な信仰心、自然に対する畏れ、などという美質を、
どこかに置き忘れてきてしまった人々なのではなかろうか…、と、
ある種、傷ましいような想いを持って、その顔をしみじみを眺めてしまうことがある。

福島の子供たちに20ミリシーベルトなどという年間被ばく許容量を設定した
専門家、そしてその言を取り入れた為政者。
彼らにも、その人間の、動物としての本然的知恵が足りないのではないか…。
そう怒りを覚えてしまう。
科学的知識などない一般庶民だって、その残酷が容易に見抜けるものを…。

『非正規』だってなんだっていい。
私たち一人一人の持つ知恵と良心の声を、何とか大きなうねりにしたいものである…。



…長くなりました。
でも、ここに、私の言いたいことのすべてがあるような気がしています。







高橋源一郎氏の論壇批評は以下に、その原文の前半部を載せておきます。
また、後半部には、国際情勢などについて書かれたものに対する論評が
本来はありましたが、それについてもいつか私も触れてみたいので、ここでは載せず、
また、あらためてご紹介したいと思います。




『非正規の思考 原発もテロも広く遠く』 高橋源一郎

    震災と原発事故のニュースを、カリフルニアで聞いた加藤典洋(①)は
   「これまでに経験したことのない、未知の」「自責の気持ちも混じった」
   「悲哀の感情」を抱いた。その理由は「大鎌を肩にかけた死神がお前は
   関係ない、退け、とばかり私を突きのけ、若い人々、生まれたばかりの幼児、
   これから生まれ出る人々を追いかけ、走り去っていく。その姿を、もう先の
   長くない人間個体として、茫然と見送る思いがあった」からだ。
    同じような、強い自責に似た思いと感情が、私にもある。たとえば原発問題を、
   心の中では気にかけていたのに、結局なにもしなかった。そして、そのツケは
   もっと若い誰かに回されるのだ。

    加藤は、今回の件を受け、自分の場所で全てを根底的に考えることを責務としたい、
   として、最後にこう書いた。
   「すべて自分の頭で考える。アマチュアの、下手の横好きに似たやり方だが、
   いわゆる正規の思想、専門家のやり方をチェックするには、こうしたアマチュアの関心、
   非正規の思考態度以外にはない。」


    「世界」6月号に驚いた読者も多かったのではないだろうか。「反原発」派の拠点と
   みなされる同誌に、およそ毛色の合わない、資本主義の権化のような孫正義(②)や
   自民党議員の河野太郎(③)が登場していたからだ。二人は共に、「原子力村」を
   中心に運営されてきた、秘密と隠蔽に満ちた原子力政策を批判し、それに
   対抗するものとして自然(再生可能)エネルギーの採用を主張している。それは、
   原子力発電が危険であるからであるというより、そのコストが決して安くはなく、
   未来のない産業であるからだ。河野は、さらにネット上の生中継(④)で、「反原発」
   に批判的な池田信夫の質問にも答えている。どんな場所へも出向き、諄々と
   わかりやすく語り続ける河野の、この軽やかさこそが、彼の主張にも増して、
   新しさを感じさせる。
    先のネット対談で、「廃棄物は日本海溝の下に埋めるか、シベリアやモンゴルに
   金で引き取ってもらえば?」という挑発的な質問に対して、河野は、
   ずっと先の世代を縛るわけにはいかない、それは、経済的合理性の問題ではなく、
   「文明論」に近い問題なのだ、と答える。ずっと先の世代」とは、加藤のいう
   「これから生まれ出る人々」のことだ。
   わたしたちが議論の外に置いてきた、まだ存在せぬ人びとを、この問題の大切な
   関係者として召喚すること。これもまた、「正規の思想」にはなかったことだ、と
   わたしは感じるのである。  

    テーマが切迫したものであればあるほど、逆に、広く、遠く、枠を広げて論じる姿を
   わたしは見たい。たとえば、目の前にある危機である「減発事故」を、
   「文明論」の中で考えようとする、関廣野(⑤)や中沢新一(⑥)のように。
    関は、原子力は本来ニュートン物理学の枠外に位置しているとする。それは、
   日常の感覚では理解できない種類の存在であり、それ故、人びとを不安に陥れ続けるのだ。
    一方、中沢は、「生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核反応の過程を、
   『無媒介』のままに持ち込んだ」原子力発電は、他のエネルギー利用とは本質的に異なり、
   我々の生態系の安定を破壊する、とした上で、さらに踏み込んで、本来そこに所属しない
   「外部」を、我々の生態圏に持ち込む有り様は、一神教と同じとする。   
   「原子力技術は一神教的な技術」であり、「文明の大転換」を試みなければならない、
   という中沢の主張は、いま、奇異には聞こえない。
   …略… 

備考
 ①「死神に突き飛ばされる」(一冊の本5月号)  
 ②「東日本にソーラーベルト地帯を』(世界6月号)
 ③「エネルギー政策は転換するしかない』(同)
 ④「BLOGOS対談」(http://www.ustream.tv/channel/ld-blogs)
 ⑤関 廣野氏の『廣』という字は本当は日ヘンがついているが、パソコンに出てこない。
  お許しください。出典:「ヒロシマからフクシマへ」(現代思想5月号)
 ⑥「日本の大転換(上)」(スバル6月号)


なお、高橋氏の論評は、この後も、世界情勢、たとえば、ビン・ラディン殺害などに
触れた評論などについてここから続いていくが、(私もそれについても書いてみたいが、)
煩雑になるので、ここには載せないでおく。



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Re: MATZ-TSさんへ

MATZ-TSさん、おはようございます♪

『ただ、神様が人間の繁栄を許してくださった期間、それは100万年か200万年もないかもしれませんが、その期間は、人間を繁栄させてくれた大自然に恩返しをして(少なくとも悪事は働かないで)、そして滅亡していけば、人間という種は、本望だと思うのではないかな~と考えています。それが、大自然の法則に則った生き方だと思うのです。』

ほんとですねえ…
ほんとにこの感謝を忘れてはいけないと思うのです。
先日もBS放送でだったかな、火星探査機キュリオシティのことやっていた。
火星の地層の土を採取して分析すると、もしかすると、火星から地球へ
生命体が運ばれてきたことがわかるかもしれない、というような話…
こういうのを見ると、地球に生命というものが最初に宿され、それが
進化して現在のわれわれがこうして今、生きていること…それって
ほんとうに偶然の、いわば奇跡に近いようなことなんだなあ!、って
いつも思うんですよ。そうして、『私』という人間が、今ここに存在して
こうやってものを考えていることもね。
…やがて遠からず、それも一切無に帰します…

そんなことを考えるとね。人間だけでなく、この地球というものを
粗末に扱うことが信じられないの!まして人が人の命を奪う戦争や、
核汚染なんてことをしでかす人間が信じられないんですよ…
やられないようにするために先制攻撃するとか、それに備えて
核配備するとか…
核のゴミをどんどん生みだして、何処か余所に持っていけばいいとか、
陸が無理なら海に捨てるとか、大気圏外にロケットで打ち上げればいいとか…
池田信夫なんていう人物は、大真面目で福島事故後も、廃棄物は海に捨てれば、
なんて言ってますからね…。
そういう人には、生物としての、『生命への畏れ』という感覚が欠落してるとしか
思えません。

コメントありがとうございました。
だんだん寒くなります。お風邪など召しませんよう、お仕事頑張ってくださいね♪


こんばんは

彼岸花さん、こんばんは。 再びMATZ-TSです。 お気持ちがビンビン伝わってきましたね~。 今晩は、2つだけコメントさせてください。

====
私ね。この地球が、…何億年後、何百億年後…小さな冷えたかたまりになるかもしれない…
いや、その前に、巨大な隕石などが衝突して、あっという間に地球上の生命など
滅びてしまうかもしれない…
そんなことを考えると、途方もなく悲しく寂しくなってしまうことがあるんですよ。
====
 そうですか。。。。でも私にとってはちょっと未来すぎますね(笑)

地球の46億年の歴史を考えると、人間の歴史って、たかが100万年もない(北京原人で20万年前位)短い期間の出来事だとと思うのですよ。

ただ、神様が人間の繁栄を許してくださった期間、それは100万年か200万年もないかもしれませんが、その期間は、人間を繁栄させてくれた大自然に恩返しをして(少なくとも悪事は働かないで)、そして滅亡していけば、人間という種は、本望だと思うのではないかな~と考えています。それが、大自然の法則に則った生き方だと思うのです。

それと

彼岸花さんの素直な母としてのお気持ち、

「人間という種を、この世に健康な状態で残したい、という、母としての本能、
…そんなものに近いかな。^^ 。。。。。」 

これって、本来人間が持つもの、大切にすべきものではないかな、って思います。人間は、長い間、これを無視して物欲・権力欲に走りすぎてきた、そのつけが回ってきたのだと思います。

 では、明朝早いので、この辺で。。。 また考えがまとまってきたらコメントさせて下さい。 

Re: MATZ-TSさんへ

MATZ-TSさん。こんにちは~。
お久しぶりです。^^
前の方の記事をお読みくださってありがとうございます。

ハンス・ヨナス。
そうですね。彼について書いた昨年の記事に対する想いは、
今も変わっていません。いや、ますます、彼の言ってることの、今の日本になんと
ぴたりと当てはまるのだろう、という想いを強くしています。

現代のわれわれがなしていることの未来に対する影響を考えるのに、
厳しく考えれば考えるほど、現世の人間は自分たちを厳しく律しなければならない。
楽観的に考えれば、その縛りは楽になります。
人間以外の他の生物たちは、未来への自分たちの責任感など考えないで生きている。
それが自然界の摂理というもの、地球の天変地異なども含め、未来のことなど
誰もわからないのですからね、他の生物たちのように、今を懸命に生きて行けばいい…

そうも考えられますね。

ただ…人間が他の生物と根本的に違うことは、…それは、基本的に、他の生物は甚だしく
地球環境を侵したり、汚染することは少ないけれど、人間という生きものはそれをする、
ということじゃないかと私思うんです。
まあ、生物界において、ある特定種が、急に増えて、他の生物を駆逐するなどということも
あるかもしれないけれど、それにしても、人間が、海に核の廃棄物を捨てたり、
大気を汚染したり、この地球が何億年もかけて生成した資源を使い尽くそうとしたり、
あるいは、地下水を汲みつくしたりするようなことは、他の生物においては
ほとんどないでしょう…
人間の強欲さ、貪欲さは、とどまるところを知りません。
そういう人間が、今さえよければいい、と思って生きてきた結果が今の世界です。
とりわけ、日本は…悲しいことに私たちの日本が!、人類が漠然と恐れていた
原発の過酷事故を引き起こしてしまいました!
今でも私、信じられないくらいです。
日本の大地の一部は、取り返しのつかないほど汚れてしまいました…。
人の住めない場所になってしまいました…

こんなことがなぜ起きたのか。
それは日本人の、『未来の世代に与える影響に関する予測が楽観的』過ぎたからでは
なかったでしょうか。まさかこの、科学の進んだ、とりわけ技術力の高い日本で
チェルノブイリのようなことは起こるまい。日本ではあのような過酷事故は起こらない。
だから対策はそう神経質になることはない…対策にお金とエネルギーをかけることはない…

そう、甘い予測で自分たちを甘やかしてしまったのです。

それでは人間は、いつも最悪のことを予測して、小さくなって生きていかねばならないのか。
生活のレベルを急激に落とし、委縮して生きていかねばならないのか。
…そういうことではないと思うのです。
人間の欲望の過ぎたところを削る…それで足りると私は思っています。
例えば、日本やアメリカのような、食べものを膨大な量捨てるような消費が
本当に必要でしょうか。トイレに人が入ると便座の蓋が自動的に開く…
そんなことに電気を使う必要があるでしょうか。一晩中コンビニが開いていて、
一晩中、テレビが何かをやっている…そんなことが必要でしょうか。
必要のないもののために、日本は原発を54基も、この狭い地震国に作ってきたのでは
ないかしら… 現に日本は原発なしでやっていっています。

自分たちの世代さえよければいい、経済は常に右肩上がりで走り続けないと
いけない、儲けられるだけ儲けなければ損…
その陰で苦しむ人がいようが、そんなものは、見なければいいのだ。見なければ気にはならない…

そんな我欲が、今の日本の窮状を作ってしまったのではないでしょうか。
とどまるところを知らぬ経済活動は、世界のあちこちで矛盾を引き起こしています。
強者がより富んで行き、弱い者はますます搾取されるという構造…
未来の人々に対する配慮どころか、同時代の人間に対する配慮も謙虚さも足りないですよね。

確かに、科学が人間の未来を救うのかもしれません。
これから地球の人口は全体としては増え続けて行くのでしょう。少なくとも激減はしない。
地球の気候など、環境は厳しくなっていく。その人間を養って行くには、モンサント社のように
収穫量の多い、病気や気候不順に強い作物を人工的に作っていこうとするのも肯えます。
どんどん需要が増えるであろう電気も、原子力で、しかも、もんじゅのように、
うまくいけば半永久的にウランを活用できるものを、と考えるのもわからないではない。
でも、そうした技術が、人間を、地球を侵していくものであるならば、
そこはやはりちょっとよく考えて踏みとどまらねばならないと思います。

どこで踏みとどまるのか…その判断が分かれるところでしょうね。

私ね。この地球が、…何億年後、何百億年後…小さな冷えたかたまりになるかもしれない…
いや、その前に、巨大な隕石などが衝突して、あっという間に地球上の生命など
滅びてしまうかもしれない…
そんなことを考えると、途方もなく悲しく寂しくなってしまうことがあるんですよ。
人間の素晴らしい文化…ベートーヴェンも、ミケランジェロも、トルストイも…
ありとあらゆる人間の素晴らしい業績も、…すべて無に帰すときがいつか必ず訪れる…
それを想う悲しみったらありません。
そうするとね、刹那主義で生きて行こうという気持ちもわからなくはないんですよ。
先のことなんて考えたってしようがない。
今さえよければいいじゃないか。
生きているうちに、自分はこの世の極楽を享受したい…。
そう考えるのもわからなくはない。
でも、その人間の、自分は豊かに暮らしたい!という刹那的な欲望が、
他の人間の、いや他の生物の、この地球の、生きる権利を奪っているとしたら、
それは認めることが出来るでしょうか…

もうこうなってくると、最後は、想像力とその人の生きる哲学の問題に
なってきてしまうんですよね…

MATZ-TSさんの逡巡というか、深い疑問…とても共感します。
私は、やはり、ハンス・ヨナスの言うように、現世に生きる人間は、
未来の人類、未来の地球に対し、責任があると思うのです。

…これを偽善という人もいました…でもそうじゃない。これは私の、生命体としての
本能に近いです。自分自身の種のことではなく(我が家は娘たちの代で終わりです)、
人間という種を、この世に健康な状態で残したい、という、母としての本能、
…そんなものに近いかな。^^


世代間倫理

MATZ-TSです.お久しぶり.

しばらく,仕事で休めない日が続いています.今日は久しぶりに,彼岸花さんのBLOGを訪問させて頂いて,この記事にたどり着きました.でも1年前のご意見ですから,新たな展開があるかも知れませんね.そうであればごめんなさい.中途半端ですが,コメントさせてください.

ハンナ・ヨナスの著作は,是非読んでみたいです.ただ
「ヨナスは、未来の世代に与える影響に関する予測が楽観的なものであってはならないことを、くりかえし強調している.」 これは,人間に対しては難しい問いかけです.

 人間以外の生物は,大自然の循環とバランスの中で,次の世代のことを考え,子供を残し,死んで行きます.おそらく遠い未来は考えないでしょう. 
 彼らは,自然のなかで,神の摂理(大自然の循環とバランス)を信じ(考えられないかも知れませんが),次の世代を残すことが,別の生物の栄養にもなり,自然の循環とバランスに寄与することが本能的にわかっているからではないかと思います.もちろん,長い年月の間には,様々な自然の変動(氷河期の到来,太陽活動の変動など..)や隕石衝突などもあるでしょうが,そのようなものに遭遇し,絶滅の道をたどるのも,自然に受け入れていくのでしょう.

 人間だけが,欲望のままに,科学技術を進歩させてきました.(これは言いすぎですが,結果として経済的に儲かるものが優先されてきたことは事実です.) 自然の中で,これだけ「強大な力」を持った生物は他にありません.「強大な力」は「それに見合った責任」をとらないとバランスが保てないわけです.それが,人間が自分の子供だけではなく,現世代では地球全体,時の流れのなかでは,次世代,次々世代,・・・未来まで考えなくてはならない理由ではないか,と考えます.
 ただ,遠い未来を予測するのは非常に難しい問題です.例えば100年後の地球の気温を予測するのも,最新の科学技術を使っても大きなばらつきがあります.最悪ケースを考えると,現世代に過大な負担を強いることになるでしょう.これは実際,現世代に受け入れられないと思います.地球温暖化の問題が,なかなかコンセンサスを得られない問題はここにあります.

 私は,科学技術がもたらした様々な環境問題への対処は「科学技術」に頼らなければならないと考えます.しかし,その基礎に「世代間倫理」あるいは,現世代の人間に課せられた「贖罪」の認識が必要,と思います.この認識がないと,未来世代への責任など,「偽善」としか考えられないのではないでしょうか.

放射性廃棄物は? 脱原発を果たしたとしても解決しなければならない問題です.これも「最悪ケース」を考えると,実際,処分の方法は見つけられないでしょう.確率モデル計算をして,最悪ではなく,例えば99%の確率で大丈夫という処置をすることで,神様に謝るしかないように思います.もし「最悪ケース」「モデルの想定外」が未来に起きたら......難しいです.もっと書きたいような...でも考えがまとまりません.今日はこの辺でご勘弁下さい.

Re: その日暮らしさんへ

その日暮らしさん、こんばんは。
ハンス・ヨナスは拾い読みです(笑)。もっとちゃんと読んどけばよかった。
今日、NHKオンディマンドで『地下深く 永遠(とわ)に ~核廃棄物 10万年の危険~』を
見てました。口コミで評判になって、今全国各地の映画館で上映されている
『100,000年後の安全』というのと同じものです。
地下500メートルも掘り下げられた地中奥深くに今も建設されているフィンランドの
高レベル放射性廃棄物処分場『オンカロ』。
なにかし~んとしてしまうほどの寂しさを感じました。そして、ハンス・ヨナスを
また想いました。
原子力発電所…。そんなに長く、人類が管理し続けなければならないものを、
現代のわれわれは自分たちの快適な暮らしのために作ってしまった。

この恐ろしさは、そう言ってはなんですが、日本のものではないな、と思いました。
というより、その日暮らしさんがおっしゃる通りに、農耕民族の発想ではないな、と。
なにか根本的な異物感を、典型的な農家の娘である私などは原発に対して感じてしまう。
日本人の感性は、この豊かな自然、ときにやさしく美しく、ときに荒々しい、
四季折々の変化に富んだ、この豊かな自然の中で培われてきたんですよね。
我々は自分も自然の一部である、という『分在』を知っていたと思います。
そこから、良寛さまのこの言葉のような、大らかで達観した死生観も生まれて
来ました。ちょっとにっこりしてしまいますね。

原発を導入し、どんどん建設して、そこに大きな利権と癒着が生まれて。
これもやはりNHKの番組で、私が4月8日の記事でご紹介した
『原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略』という映像にある通り、
原子力発電は、アメリカによって、経済的、軍事的、政治的な深い思惑の
もとに、日本に持ち込まれました。
その日暮らしさんのおっしゃる通り、それは『なにもかも科学的合理主義でもって
片づけようとする国によって持ち込まれた』んですね。

そうしてそれらは、気がついたら巨大な怪物に育ちあがってしまっていました。
一度暴発すると手に負えないものに。

なんとか原発を無くしたい。その想いでいっぱいです。
でもね、福島菊次郎さんや小出裕章さんたちのような強さがないものですから
一つ記事を書いては、へろへろに(笑)。応援いただいてちょっと元気になって
また一つ書いて、またへろへろ。
書きたいことは次から次から山ほどあるんですけれど。その日暮らしさんのところで
いただいてきたことがたくさん。それらをちゃんと書きたいんです。
自分でちゃんと咀嚼して書きたいと思っています。

ブロマイドですね(笑)。
なんですか、いまの彼岸花の写真はもう婆さんだから、いらないですって?(笑)
若かりし頃のものですね。了解!なんちゃって(笑)。

その日暮らしさん。いつもありがとうございます。
勇気をいただきいただき、これからも書いていきたいと思っています。


いつもありがとうございます。

彼岸花さんへ

 こんばんは! 

 「神の劫火」② 増補版になったのですね。うんうん、ハンス・ヨナスが取り上げられています。それにしても凄い。圧倒されるような情熱を感じます。改めてもう一度読み返してみる必要があると思わせます。
 
 「…災難に逢う時節には逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこの災難からのがるゝ妙法にて候。…」(良寛/1828年(文政11年)「三条の大震」に際して)

 農耕民族として長い歴史を生きてきた我々の先人たちは、自然と調和し、自然によって生かされ、時には自然の容赦ない営みによって全てを失うほどに脅かされながら日々を過ごしてきました。自然に寄り添う暮らしを通して徳や美意識や死生観といったものを涵養し、この国の独自の文化を築き上げてきたのでしょう。
 それは、科学の力で自然が支配できると考えるようなものとは相容れない。先人たちが培い脈々と受け継がれてきた我々の文化の底流をなすものが、なにもかも科学的合理主義でもって片づけようとする国によって持ち込まれた「原子力」というものに、易々と蹂躙されてしまった。今度の原発事故については、そのようなぼんやりとした印象を持ちます。
 ああそれから、ブロマイド贈呈の呼びかけに応募します。ただし、若かりし頃のもの限定でお願いします(笑)。

Re: れんげちゃんへ

ごゆっくりどうぞ~(笑)。

こんなの読む気になってくれて、それだけで嬉しいよ。
ありがとう、れんげちゃん。

No title

ちょっと、待った。1回休憩入りますっ!(笑)

Re: NANTEI さんへ 

NANTEI さん。こんばんは。
wow、そんなにお褒めいただくとなにやら恥ずかしいです。
でも、考え考え、一所懸命書きましたので、その書いたところの意図を、
NANTEI さんのようにがっちりと受け止めていただけると、素直にすごく嬉しいです。

話をして、自分の投げたボールを、相手の方がミットのど真ん中でがっちりと
受け止めてくださり、そうして、いい球がまた自分のミットにずばりと収まる
心地よさ、みたいなものを感じてしまいます(笑)。

よく書けているとすれば、それは元の高橋源一郎さんの記事が触発的であったこと、
ハンス・ヨナスのまとめを引用させていただいた方の文がよかったことに与るところ、大です。
そうそう。私、本のタイトルさえうろ覚えで、最初のところで『責任の論理』なんて、書いていました。
正しくは下の方で書いた 『責任という原理-科学技術文明のための倫理学の試み』。
あとで直そうと思ってたら、そのままにしてしまって。
お詫びと訂正を。

昨日のコメントにも書きましたが、NANTEI さんにいただいたコメント、
『人間は食物循環から外れた唯一のいびつな生命体になったということです』
『宇宙の摂理が赦す筈ないでしょう。将来人類は滅びる前に別の進化を
選ばざるを得なくなると考えています。人類が摂理から赦される行為は
農耕のみではないだろうかと(気候、風土という問題はありますが)、
偏ったことを考えてしまいます。』
というところにも、この記事を書く勇気をいただいたんですよ。
多くの方から、私は今、教えていただいています。お一人お一人の記事や
コメントからインスピレーションや知恵をいただいています。全部のトラックバック
記事を書きたいんですけれど、なんせ、タイピングが遅く(笑)、また考え考え書くので、
異常に時間を食います(笑)。lily姫さんもおっしゃってたけれど、書きたいことは
胸の内にいっぱいあるのに、なかなか書ききれません。

今、めまぐるしく状況が変わっていくので、昨日書こうとしていたことが、翌日には
元の状況自体が180度変わっていたり。注水の55分間中断、なんて、
あれをまともに記事にしてたら、どれほど訂正訂正しなきゃいけないか知れなかった!(笑)
ほんとに激動の時代ですねえ…。
2年前、ハンス・ヨナスを読んだころは、原発のことは心配しつつも、
自分の老後は、このまま穏やかに来るのだろうな、となんとなく思っていたのですが。

NANTEI さん。素晴らしいお言葉。ありがとうございます。
ほんとに素直に嬉しいです。
私こそ、大切にいたします。

そうそう。ブロマイド!(爆笑)
見ぬが花。(笑)




こんにちは。

先ず・・・
彼岸花さんのブロマイドをください!(大笑い)。
今、たどたどしくも読み終わり、これはと思うところを書きぬきました。
そこで・・・大きな深呼吸をしてから、コメント欄に相対したのです。
一言で感動の一文です!理と情が見事な織物となって心を打ちました。
その深さ、その広さ、とても私が及ぶものではありません。
中でもハンス・ヨナス氏の「未来倫理」。このように少ない文字で纏められるという力にはほんとうに驚嘆です。
読後のこのような感動は、いつ以来のことだろうかと・・・。
まさに入魂の「神の劫火」です。
大切にします。
プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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国境なき医師団
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