『U先生のこと』 ②

さて。
当時の記憶を探ってみるのだが、なぜ私がU先生の授業を一回しか
受けた記憶がないのか、どうしてもわからない。
おそらく、初めの方は、私がさぼっていたのであろう。
そして、もしかすると、あとの方は先生ご自身の都合により、休講、というようなことも
あったかもしれない。
私が、もう少し真面目な生徒であって、先生たちに自分の方から教えを請いに行く、
といったタイプの人間であったなら、先生にもう少し近づいていたかもしれない。
だが私は、今でもそうだが、そういうことがどうも苦手である。
授業の前後などに、あるいは研究室に先生に質問に行くなどということは
U先生に対してだけでなく、他の先生にも考えてみもしなかった。

だから、私は、本来東大の先生である(あった、かな)という噂のU先生の、
いわばその他大勢の中の一人の女子学生に過ぎず、無論向こうは私の顔など
ご存じでらっしゃらない。一度も直接面と向かって話したこともない…。

それでは、『思い出』にもならないだろうと思われるかもしれないが、
もう少し、実はあった……。



それは、その、学期末のU先生の
「倉橋由美子『夢の浮橋』におけるセルフ・アイデンティティについて述べよ」
という課題に関してである。
私はもともと、こういう課題に一所懸命になるたちである。
英文科の勉強でも、ただテキストを読んで訳して、学年末、それの訳の復習の
テストをする、というような授業は熱心でなかったので、一向に英語力は
つかなかった劣等生であったが、何かについて調べて自分の考えを述べるとか
そういう課題には燃える方であった。そういう科目では割合高評価をいただいた方である。
まして、一回の授業で、その学問的な雰囲気にすっかり魅了されてしまった
U先生のレポートである。いいものが書きたかった。
あの、白皙の額、あの豊かな髪のあの先生に、うんうんとうなずいて欲しいと
いう願いをひそかに持ったのである。

ところが、私が授業に出ていなかったせいなのか、
それとも先生は、そんな言葉はあらためて教えずとも学生ならみんな当然、
知っているはずだと思いになったか、『セルフ・アイデンティティ』という
肝心の言葉の意味が、私にはわからなかったのである。
辞書を引くと『同一であること。身元、正体』などとある。
今でこそ、IDカード(Identity Card)などという言葉が
日常に使われ、セルフ・アイデンティティという概念も、
だいぶ一般的に知られるようになって来ていると思うが、40年以上前、
それはまだ、日本にそうは馴染みのなかった概念だったのではないだろうか。
エリク・エリクソンが、何年にこの概念を初めて世に問うて、それが
いつ一番最初に日本に紹介されたのか、私は知らない。でも、U先生は、かなり早い時期に
この概念を知り、私たちの課題として、とりあげて紹介してご覧になったのではなかったろうか。

今ならば、Wikipediaなどを使って、門外漢でもいろんな分野の語句や事項の、
簡単な輪郭は検索してあっという間に手に入れることが出来る。
しかし、40数年前の当時はそんな便利なものはなく、図書館で調べるしかなかった。
けれども図書館にある本は概して古く、ましてそういった新しい概念についての記述が
そうやすやすと見つかるものでもなかった。
今、Wikiで検索してみたら(笑)、セルフ・アイデンティティに関する本で、
モラトリアムという言葉を紹介して有名になった小此木啓吾さん等の訳した
『自我同一性 - アイデンティティとライフ・サイクル』(小此木啓吾・
小川捷之・岩田寿美子 邦訳 、誠信書房。)というのが,1973年に出ている。
U先生が私たちの大学での課題としてお出しになった1971年の時点では、
まだそれほど広く知られている概念ではなかったはずだ。
私はそのとき、図書館に行って調べたけれど、その言葉の意味はついにわからなかった。

おそらく、先生は授業中にひととおりは説明なさって、それでその課題を出されたはずだ。
しかし私は、授業に出ていない。誰かに教えてもらおうにも、私はその授業を
仲のいいグループから離れて一人で履修していたので知っている人は誰もいない。

そもそも、倉橋由美子の『夢の浮橋』という小説自体が、今調べてみると、
1971年出版。ああ!やっぱり!出たばかりである。
無論、その評価なども確定しておらず、書評なども手に入らない。
自分で考えるしかなかった。

…レポート提出期限は近づいてくる。良いレポートは書きたい!
困った私は、或る晩、先生に直接電話でお伺いしてみようと思った。
なぜ、電話などでなく研究室を訊ねなかったか、今となってはわからない。
そもそもが、いわば腰掛け的に私の大学で教えられていたのだろうから、
研究室があったかどうかさえ分からない。
でも、ある夜、私は、その当時住んでいたアパートの道路向かいにあった
煙草屋の公衆電話から、先生のお宅に電話をかけたのである。
時代の感じがわかります。煙草屋の公衆電話…!
電話番号をどうやって知ったか、それも今となっては思い出せない……
あまり個人情報がどうのこうのとうるさくはなかった、のんびりとした時代。
便覧にでも載っていたかな。

夜の8時頃であったか…寒い季節だった…
十円玉をたくさん用意して入れておく…。
ダイアルを回すと、しばらく向こうのベルがなる間合いがあった後、
先生が直接電話口に出られた。
私は少ししどろもどろしながら、自分が先生の授業をとっている…という者であること。
レポートを書こうとしているが、肝心の『セルフ・アイデンティティ』という
語句の概念がわからないので書けずにいると、正直に話した。

U先生は、電話の向こうで、一瞬絶句なさった。授業で聞いていないのか?
とお思いになったのか?
けれども、すぐに苦笑なさっているように、笑いをふくんだやわらかい声音で、
セルフ・アイデンティティについて、簡潔に説明してくださった。
私は突然自宅にまで電話した失礼を詫び、何度もお礼を言って受話器を置いた。
先生は、あきれながらもお怒りになどならず、ただ面白がっておいでのような
感じだった。
『間抜けな生徒がいるもんだ。どんな子だろうか』とでもお思いになったのかもしれない。

さて。私は何度も『夢の浮橋』を読みこみ、一所懸命関連しそうな文献を調べて
レポートを書いた。
倉橋由美子『夢の浮橋』とはどんな小説だったか。
もううろ覚えであるが、舞台は主に京都。主人公の女子大生は良家の令嬢である。
彼女には恋人がいるのであるが、二人の間はまだ口づけ程度である。
二人は実は兄と妹なのである!それは、彼女の母と彼の父が昔恋人同士であって、
主人公は実はその二人の間に生まれた娘。そして恋人は、彼女の
異母兄妹ということになるのである。彼女は無論そのことは知らない。
しかも、彼女らの両親たち二組は京都嵯峨野の奥深い宿で、夫婦交換をしていた…
…筋立ては最後まで書かないが、まあ、言ってしまえばハイソな人々の恋愛模様というか…
夫婦交換という禁忌。さらには、兄妹である二人が、一度は別れてそれぞれ別な
人と結ばれるが…おっと!これ以上書かないんだった!
まあ、美しい京都の風景の中で、犯してはいけない禁忌にどうしても魅かれゆく人々…
美と死のイメージとが交錯する、恋愛小説…とでもいいましょうか。
とにかく主人公の若い二人と、その両親たちの住む上流階級の世界。
それと、当時、真っ盛りであった学生運動の世界が、醜悪な世界として
対照的に時代背景を表すものとして使われている。

さてそんな中身のこの小説と『セルフ・アイデンティティ』というものを
24歳であった私がどういうふうに料理してレポートにまとめたか、今はもう覚えていない。
ただ、一所懸命考えて書いたなかなかの力作ではあったと思っている。
無論タイトルからして、源氏物語には当然触れ、フランスの貴族社会のサロンというもの
に言及したりして、我ながら、よくできた!という実感を持っていた。

ところが。である。レポートの仕上がりには自分で満足したが、
この小説自体はとても気にくわなかった。
私は、自分では活動に加わっていなかったけれど、大学の解体や安保改定反対、
ベトナム戦争反対、成田空港建設反対などを叫んで若い命の火花を
散らしていた同世代の学生たちに、心の奥底で熱い共感を抱いていた。
そんな私だったから、この小説の登場人物たちの住むような、この世と隔絶したような
上流階級の恋愛模様などに感情移入出来るわけがない。
学生運動している若者たちを、ものすごく汚く粗野な者たちとして書いてあったのである。
そこのところに凄く引っかかってしまった……。

レポートはレポートとして、一所懸命書いたが、読後感としては後味が悪いものがあり、
若かった私は、レポートの最後に、なんと!

『…それにしても、個人的感想を言わせてもらえば、なんとも胸糞の悪い小説である。』

という一行をつけ加えたのである…!
なんかもっと女子学生らしからぬ悪態を書いたような気もするが…(笑)
でも一方、礼儀正しくレポートの裏に、先日夜、電話した者である、ということも書き、
お礼とお詫びも書いた気がする。


U先生がさて。私のレポートをご覧になって、どういう反応をなさったか。
それはわからない。この小説を課題として選ばれたのだから、あの気品ある
佇まいの先生は、おそらく上流階級に属されるかたであって、この小説を
『好し』と思われていらしただろう。
それにそんな下品なコメントを入れる女子大生がいるとは!と不快に思われたかな。
いやいや。きっと先生は、最後の一行をお読みになって、爆笑なさったのではあるまいか。
レポート自体は大真面目にいろいろせいいっぱいの分析を書いていたから
その落差に一瞬びっくりなさり、そのあと爆笑されたのでは。

先生は、私のそんなレポートにどんな成績をつけてくださったか?
私の大学ではAからFまでの評価。E、Fは単位がもらえない。
Aには、さらにその上にAプラスというのがあったんじゃなかったっけ…
どんな成績をつけてくださったと、みなさん、お思いになられますか?




実は、卒業式の日、成績表を事務所に取りに行かねばならなかったのに、
女子大学というものに未練のなかった私は、4年次の成績表を受け取りに行かなかったのである!

他の科目の成績は別にいいが、U先生が、あれにどういう成績をつけてくださったかなあ…

…それだけは知りたかったかな、と、今も思う私である。


『U先生のこと』 ③に続く

 




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Re: lily姫さんへ

> ああ、早く続きが読みたい

ふふふ。これから書きま~す♪
花粉症になっちゃったんだか何だか、鼻や目がむずむずします。
風邪薬飲んでたんだけれど、もしかすると、花粉症デビュー?
やだなあ。そんなもの!(笑)

今ね、縫物もし始めたんですよ~。去年はほんとに、ミシン踏む気もしなかった。
以前の彼岸花姉ちゃんのペースも、取り戻したいで~す♪

お話の続き。待っててね♪
その前に、コーヒーでも飲むかナ。
ワインにしようかナ。^^

No title

ああ、早く続きが読みたい

Re: fukashiさんへ

fukashiさん。すぐおわかりになられたようですね。^^
『先生とわたし』、お読みになられてらしたんですね。
これからその本のことも書きたいと思います。^^
私にもあの本はとても衝撃的でした…。

ほんとに、学問の香り漂う、そういったひとや世界が少なくなっていっているような。
私は国立大学の独立行政法人化には大反対でした。
小泉さんのやった構造改革。ほんとにろくでもないことばかり。
でもまあ、世の流れはそうなっていたんでしょうか。
私は、学問の世界に、市場原理を持ち込むべきでないと思っています。
浮世離れした『象牙の塔』はあっていいと思っています。
何もかもが経済効率で測られ、短いスパンでの成果を求められるように
なってしまった世の中など、薄っぺらで寂しいものですよね。

実学ばかり重用されるようになって、本当は人間が人間たるに最も重要な、
想像力を涵養するゆったりした学問…文学、哲学、宗教学、史学、…
そういったいわば教養系の学問が大学から消えてしまったら!…
考えるだけでぞっとします。
でも、私が大学にいたはるかはるか昔…そのころでさえ、その兆候は
仄見えていた気がします。
それだけに、U先生の佇まいに心魅かれたのであったのでしょう。

続きもまた、読んでくださいね♪
fukashiさんにこのようなコメントいただき、嬉しいです!^^



あらっ!地震! 福島浜通りですって。…震度5弱。
なにごともないといいですけれど…
今も原発で働いてらっしゃる方のこと、思ってしまいます。
近くの楢葉町の人々など、どれほど神経がまいってしまうことでしょう…





No title

彼岸花さん、こんばんわ。
電話のくだりのところいいですねえ。
小説を読んでいるようでした。
新潮の四方田氏の書いた『先生とわたし』は衝撃的でした。
学問の薫り漂う人物にはほんとに憧れます。
それはたぶん、法学とか経済学とかの実学ではない学問の世界だからかもしれません。
今の時代、文学部はほんと無用な物となりつつあります。。
プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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