コメントくださったみなさまへ

ここのところ、めまいが続いていて、パソコンに向かえません。
すみません…もう少し、返事待ってくださいね。

『            』


日本で…世界で…

ひとの命がかくも軽く奪われてしまう。

私は今、『鳥越俊太郎氏を都知事に』の運動で毎日声をあげている・・・。

政治は何が出来るのか。
私ひとりに政治を変えられる力なんてない。

そう、深く思い沈みながら、それでも声を上げている…

世界で、いとも簡単に人が殺されていくことも、日本で起きた信じられないような個人の犯罪も…
でも、どこかできっとつながっている。

それは。政治と無関係でなどない。


社会を変えていくのは、私たちひとりひとりの意識である。
悪い方へ向かわせてしまうのも、いい方へ引き戻すのも、個々の人間の、
そのときどきの選択の総和なのである。


亡くなられた方々への深い悼みの想いを抱いて、これを記しておく…












『理不尽』


宇都宮健児さんが、都知事立候補を取り下げたという。
…理不尽だ。

この人こそ、都知事になってほしいと思っていたのに。

既存政党の支援などなくとも戦ってほしかった。が、革新陣営が二つに割れることを
考えて、自ら身をひかれたのだという。
そのお気持ちお察しすると、ほんとうになんともいえない気持ちになる。

鳥越俊太郎さんも個人的には好きな人ではある。だが…。
石田純一さん、古賀茂明さん。この二人も、大局?のために潔く身を引いた。

宇都宮さん…。都知事にしたかった……






『参院選は野党四党に ④』



時の一内閣が暴走しないための歯止めの6番目。

⑥教育が、時の一政府の『指導監督』などというものによって萎縮したりしていない。


Q18:『教育』が歯止めになるってどういうことですか?


 安倍政権は、その第一次第二次第三次政権を通じて、ずうっとこの『教育』に対する
 政府の権限を強め、その内容やシステムや目標などにまで、『国家』の干渉をしようと
 する特徴がとりわけ強い政権です。

 2006年(平成18年)12月教育基本法改訂
 2007年(平成19年)6月 学校教育法改正、教育職員免許法及び教育公務員法改正、地方教育行政の組織及び運営             に関する法律改正(教育改革関連三法)
 2012年(平成24年)自分と歴史認識を同じくする下村博文氏を文部科学大臣に起用。
 2013年(平成25年)1月。「教育再生実行会議」。日本の侵略戦争を肯定する
       「新しい歴史教科書をつくる会」元会長で、「ジェンダーフリー」や男女共同参画を攻撃してきた
       八木秀次高崎経済大教授、教育現場での「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱を主張し、沖縄戦での
       集団自決強要はなかったとする著書を出版した曽野綾子氏、改悪教育基本法に「愛国心」を
       盛り込むことを主張した全日本教職員連盟委員長の河野達信氏といった「つくる会」「靖国派」
       を人選。
 2015年(平成27年)6月。国立大学の人文科学系、社会科学系、教員養成系の学部・大学院について
        「組織見直し計画を策定。組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に
        取り組む」
ことを求めた文部科学大臣決定を通知。
 
人文科学・社会科学・教育関連学部・大学院の軽視と統廃合、転換は、まさに
人類が築き上げてきた『智』の否定にもつながりかねない、愚かな方針です!   


 私は、『教育』というものは、ジャーナリズムと同じに、国民が自分で考える、という
 ために、最も大切なものだと考えています。
 どちらも、『知る』ということです。 知って、『自分の頭で考える』こと。

 いつの時代のどこの国のどの政権であろうと変わらない、『国家』という実体のないものの
 名を借りて、時の権力者が、ジャーナリズムと教育、というこの二つのことに、盛んに
 触手を伸ばしてくるときは、国民は、敏感にそれを察知して、そういうことをさせないように
 しないといけないと考えています。

 私のこの想いを、極めて端的に表している、ある国会でのやり取りがあるのでご紹介します。
 2016年2月15日の衆院予算委員会での、民進党の山尾志桜里議員と安倍総理のやり取りです。
 そもそもの発端は、NHK「クローズアップ現代」におけるやらせ疑惑問題で、高市早苗総務相が
 NHKを文書で厳重注意(行政指導)したことに対し、放送界の自主組織であるBPO
 (放送倫理・番組向上機構)が2015年11月、「政府が個別番組の内容に介入することは許されない」
 と厳しく批判したことであったと思います。
 これに対し高市総務大臣は、2016年2月8日の衆院予算委員会で、放送局が「政治的に
 公平であること」と定めた放送法4条の違反を繰り返した場合、電波法に基づき電波停止を
 命じる可能性に言及。

 これが衆院予算委員会で議題として取り上げられ、山尾議員の質問に繋がっていったのだった
 と記憶しています。
 また、山尾議員は、高市総務相の『憲法9条改正について放送であからさまに反対論を
 繰り返し流した場合も電波停止になりうる』という発言など、その他の放送に関することについても、
 高市氏と総理の『表現の自由』に関する認識を問います。
 
 日本国憲法では、いろいろな国民の自由権が列挙されています。
 『信教の自由』『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由』『学問の自由』
 『居住、移転及び職業選択の自由』…
 守られるべき権利として『勤労者の団結権、団体交渉権』『財産権』『請願権』なども
 保障されています。

 
 放送局の報道の自由という表現の自由をもっとも制限するような行政処分の可能性を
 総務大臣が口にしたのです。安倍総理もそれを追認した。
 『安倍政権こそ、与党こそ言論の自由を大事にしている!』と豪語した安倍総理に、山尾議員が、
 『表現の自由の優越的地位とはどういう意味か知っているか』、
と追及したのです。
 上に書いたように、憲法で保障されたさまざまな『自由』の権利の中で、例えば『信教の自由』や
 『表現の自由』『学問の自由』などは、人間の言わば『心の自由』に関わることです。
 一方、『居住、移転、職業選択、財産』権、などは、『経済活動』に関わることといえましょうか。
 
 しかし、同じ『自由』でも、『表現の自由』など、人間の心の自由に関する項目は、
 経済上の自由などよりも優越的地位にある、ということ、そのことを知っているか、と、
 憲法21条に絡んで、山尾議員が安倍総理に訊ねたわけです。安倍総理はしどろもどろ。

 憲法21条『第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。』


 私は、この山尾志桜里議員の追及は、国会の歴史に残るような名追及だと思っています。
言っておきますが、安倍氏をやり込めたから素晴らしい、などと言っているのでは無論ありません。
 彼女の問いが、本質的部分でたいへんに大事だと思うからです。
 是非、あとで、動画で彼女の切れ味鋭い質問をお聴きください。
 問題の個所は、20:15くらいのところからです。

 



 私がここで言いたいことは、山尾議員の以下の発言が最も簡潔に要約してくれているので
 書き起こしを引用します。
 
 『なぜ、内心の自由や、それを発露する表現の自由が、経済的自由よりも、優越的地位に
 あるのか。 憲法の最初に習う、基本の「き」です。
 経済的自由は、たいへん重要な権利ですけれども、国がおかしいことをすれば、選挙を通じて、
 これは直すことができるんです。でも、精神的自由とくに表現の自由は、そもそも選挙の前提となる、
 国民の知る権利が阻害されるから、選挙で直すことができないから、優越的な地位にある。
 これが、憲法で最初に習うことです。』


 なお、この書き起こし及びおよその流れは、こちらのブログが紹介し、わかりやすい分析を
 してくれているので、こちらを是非全文お読みください。
 http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/755c0843633b7d1a9d901171fee94662 

 そちらから上記山尾議員の発言の追加説明を引用します。
 『報道機関が自由に取材や報道が出来て、国民が自由に情報を取得し、自分の意見も言える
 自由が表現の自由です。
 この表現の自由が保障されることによって、国民は自分の政治的な意見を持つことができ、
 自分たちの代表者である国会議員を選ぶことができます。
 逆に言うと、表現の自由が憲法違反の法律や行政処分で違憲状態にまで制限されると、
 国民の政治的意見が損なわれてしまい、国会議員の構成まで本来と違うメンバーが
 選ばれてしまうことになります。
 このような違憲状態で選ばれた国会議員は憲法違反の法律を改めようとは絶対にしないでしょう。
 なぜならそういう違憲な法律でこそ、自分は選ばれたんですから。』


 これもあって、裁判所は、経済的自由権の場合よりも、表現の自由という、いったん侵害されたら
 取り返しのつかない権利を強力に保護するのです。
 これが表現の自由が経済的自由権より優越的地位を持つと呼ばれる所以です。



 さて。私がなぜ、この山尾議員が総理にぶつけた質問を、ここで重大なものとして取り上げるのか。

 ⑤の『ジャーナリズムの権力からの独立』(報道の自由)、やこの⑥の『教育の独立』は、
 人間の心に関する問題だからです。『思想・良心の自由』『言論の自由』『表現の自由』
 など、これら、人間の精神活動に関する自由は、何物にも代えがたい価値を持つ。
 なぜなら、それは人間の『知る』『考える』行為に関する領域だからです。
 ここが権力によって過干渉、もしくはついに冒されてしまえば、それを取り戻すのは
 容易ではない。
 山尾議員が言うように、一つは、情報というものを時によりどころにして、私たちは
 ものを考えていきます。その情報自体が歪んでいたり、あるいは恣意的に誰かによって
 増幅、消去、など操作されていたらどうなるでしょうか。
 私たちはその与えられた情報によっていろいろなことを判断していくことになります。
 よく、『メディアリテラシー』が必要だ、などと言われるけれども、情報あっての
 メディアリテラシーです。極端な例で言えば、情報が一切与えられなければそれを
 読み解くこともできない。また意図的に操作された情報しか無かったら、やはり判断を
 誤ることも起きてきます。
 選挙などについてはどうでしょうか。山尾議員が言うように、国民の知る権利が
 阻害されていれば、私たちは自分の願うような方向への選択をすることもできません。
 与えられた情報で私たちは一般的に判断をして行きます。その与えられた情報が
 そもそも時の政権の都合のいいようにゆがめられ操作されているものだったら?
 都合の悪い情報が最初からカットされてしまっていたら?
 私たちはそうなれば、選挙で『知る権利の侵害』さえもを、糺していくことが出来ないのです。
 そうやって選ばれた議員たちが、また政治を続けていきます…
 
 報道によって、私たちは日々情報を得、その情報をもとにものを考えていく…
 教育によって、私たちは知識を得、その知識を総合しながら、自分の精神を形成し、
 考える力を養っていきます。
 ここが、時の権力によって侵されてしまうと、それを取り戻すためには膨大な時間が
 かかります。時に『洗脳』と呼ばれるものもあります。
 『洗脳』を解くのがどのくらい大変か、皆さんもいろんな事例でご存じでいらっしゃるでしょう。
 権力による思想・表現などの自由の制限、または禁止、またそこまで行かずとも
 国民自らが陥る『忖度』状態は、それが1年続いたら1年で回復する、というような、
 時間的量的に等価なものではありません。
 報道の自由の侵害、教育内容・教育制度・教育方法への国家による過干渉は、
 人間の精神形成に影響しますから、その影響は5年10年…ひどい場合には一生…
 と続いてしまうのです。

 ここに、ジャーナリズムや、教育が、国家を名乗る集団の価値観によって染められること
 制限を受けること、自由を失うことの怖さはあります。
 人間の思考そのものが侵される危険があるわけですから。
 逆に言えば、私たちは、この『思想・表現の自由』こそをとりわけ心して守らねばならない
 ということではないでしょうか。


⑦最後の砦=国民。国民が、自分の頭で考える。政治に無関心などではなく、
 憲法によって保障された自分たちの権利を守るためには声を上げ行動するという
 政治的『成熟』をしている。声の大きいもの力を持ったものにむやみに迎合しない。



国民ひとりひとりが、自分の頭で考えること。

そう。国民こそが、時の一政権による悪政や、自由の制限・
生きる権利の剥奪などに立ち向かう最後の砦なのです!


投票に行ってください。
憲法によって私たちに与えられている様々な権利を守りましょう。






日本国憲法第12条
『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、
これを保持しなければならない』



『日本国憲法をなぜ守りたいか その13 押しつけ憲法?⑧』


Q13:明治時代初期の『私擬憲法』ってどんなものだったの?

前の記事で、鈴木安蔵らが作った民間の憲法草案『憲法草案要綱』のことを
書いた。
そこで、鈴木安蔵が、『治安維持法』による2度の投獄、また『出版法』による著作の
出版停止など官憲による言論・出版の弾圧と、特高警察の監視の中で、
『自分たちをこういうふうに処分する日本の国家というものの本質を解明しよう』と、
日本の憲法史を研究し続けていたということも書いた。
鈴木は死の病床についた吉野作造に面会することが出来、吉野はこの若き学徒に
読んでもらいたい資料など自分の知識を分け与え、まるで鈴木に憲法史研究の後を託すように
亡くなったということも書いた。

その吉野の編纂した『明治文化全集』の中に、『日本国国憲案』という執筆者のわからない
憲法草案があった。これが植木枝盛の書いたものであることを鈴木安蔵が発見するのである。
このいきさつは面白いので少し詳しく書いてみよう。

1936年(昭和11年)。鈴木安蔵は、植木枝盛の資料を調査するため高知市を訪れた。
自由民権運動の発祥の地、高知には未発見の文献がたくさんあるのではないかと
思ったからである。鈴木は県立図書館や古書店で資料を探しまわった。
そして、東京では入手できなかった資料がこの地にたくさん埋もれていることを発見する。
鈴木はさらに、自由民権運動に参加したという土地の古老、池田永馬、島崎猪十馬らに
会って話を聴く。板垣退助の生誕の地高知市高野寺に、植木と同時代に活躍した
20人が集まった(!)。その多くは70歳過ぎの老人たちである。
だが、その老人たちの口から、「パトリック・ヘンリーの『我ニ自由ヲ與へヨ然ラズンバ死ヲ
與ヘヨ』などと我々も良く叫んだものだ」などという言葉が飛び出す。
「当時もっとも愛読されたものは、スペンサーの『社会平等論』、次いでルソーの『民約論』。
フランス革命史は、あるいは原書により、翻訳により、あるいは翻案小説により非常に
親しまれた』などという話題が次々に熱く語られるのであった。

鈴木はこの高知市訪問当時32歳。50年以上も前、植木枝盛と同じ時代に生きた古老たちの
話を聴いてどんな思いがしたことだろうか。
高知近代史研究会副会長の公文豪は、鈴木のその時の想いをこう推察する。
『古老たちの青年時代は、まだ日本の国には国会も憲法もない時代でした。時の藩閥政府に
対抗して、憲法を作れ、国会を開け、そして国民には言論・集会の自由を与えよと、果敢に
運動したということについては、非常な誇りを持っていました。
鈴木さんは、憲法学者として自由に物を書けない時代で、非常に息苦しい思いを
もっておられたと思います。かつて民権運動にかかわった人々と、ある意味では共感を
する部分が多かったと思います」


そうだったろうなあ…。私もそう思う。
それで思い出したが、鈴木が『憲法草案要綱』をまとめるきっかけを作ったのが高野岩三郎
であった、と書いた。メンバーの中で、一番歳をとった高野が『天皇制を廃し共和制にせよ』
と一番ラディカルであったのだが、それについて弟子の森戸辰男はこんなことを言っている。
『自由民権時代に長崎の町家に生育した先生にとっては、共和政は思想研究の産物で
あるよりも、生活そのものからにじみ出たものであり、
それにふさわしい一種の圧力を
もっていた。それが人に感銘を与えたのも不思議ではなかった』

植木枝盛1857年生まれ。高野岩三郎1871年(明治4年)生まれ。鈴木安蔵1904年生まれ。
植木枝盛が明治25年に36歳の若さで胃潰瘍で突然死した時、高野は21歳である。
高野は長崎出身ではあるが、一家で東京に出ている。
慶應義塾幼稚舎、共立学校(現・開成高校)、第一高等学校、東京帝国大学法科大学、
ミュンヘン大学留学そして東京帝国大学法科大学助教授と言わば学問のエリートコースを
歩いた高野と、正規の高等教育らしきものを経ず、自学そして経験則で思索を自ら
練り上げていった植木とは、年齢差もあり接点はないのではあるが、
植木らが活躍した、明治憲法(明治23年施行)が出来る前の自由な時代の空気を、
高野は10代の青年として吸っていたはずである。そしてまた、明治憲法体制ががっちりと
固められていく過程で天皇を中心とした皇国教育が行われ、厳しい言論統制が
敷かれて行くのも、また20代の青年として見ていたはずだ。

話がそれた。
結局、その時の高知への旅では、鈴木は植木枝盛の憲法草案を見つけることが
出来なかった。ところが、帰京後4カ月して、鈴木にある知らせが来る。
植木の遺族が高知県立図書館に寄贈した資料の中から、明治14年に植木が自ら
したためた『日本憲法』が見つかった、というのである。
この資料により、鈴木は、吉野作造編纂の『明治文化全集』に載っていた執筆者の
解らなかった『日本国国憲案』の起草者が植木枝盛であったことを知るのである。

                  ***



              植木枝盛
              植木枝盛。写真はWikipediaからお借りしました。


植木枝盛(うえき えもり、安政4年(1857年)1月20日 - 明治25年(1892年)1月23日)は、
土佐藩士の子弟。父直枝は、高知藩主山内豊範の祐筆を務めていた。
明治4年、15歳の夏、高知県から公費を受けて藩校致道館に学ぶ。漢籍を学ぶ傍ら、
洋学書に多く触れ世界の大勢を知る。翻訳書を通じ、西洋近代社会において獲得されてきた
人類進歩の成果を学ぶ事に励む。そして、欧米諸国で行なわれている諸制度の本質を知る。
明治6年上京し、山内豊範が開いた私学校に入るもののすぐに退学。それ以来、
学校には入らず、特定の師に従事する事も生涯なかった。
彼は、机上の学問ではなく、生きた社会の動きに身を投じて、経験的知識と、
西洋社会の思想書などで得た知識を組み合わせて、時代の思想を掴むのである。

18歳のとき高知に戻り板垣退助が創設した立志社の演説に感銘を受け、
政治の研究に興味を持ち、民選議院設立の必要性を痛感する。
19歳で再び上京し、福沢諭吉、中村敬宇、西周、津田眞道、西村茂樹、杉亨二などの
啓蒙思想家の講演に積極参加、各人を直接訪問し、多くの知識を自分のものにする。
だが、福沢諭吉の近代精神・啓蒙思想に影響を受けはしたが、藩閥政府の専制的開明政策に
協力する福沢ら啓蒙思想家には満足しなかった。
国力伸張のためには上からの改革が必要、民の多少の我慢や犠牲は仕方なしという
「官民調和」論の福沢は、明治政府を日本近代化の推進者とみていたが、植木枝盛は、

『今の政府は文明開化をはかっても、私利のためであり、国民のためにはなっていない、
人民を拘束するための細かい法令をつくりながら、政府の人民に対する圧制は依然として
続けられている。維新の改革は政府の変革であって、単に治者と治者の間だけの
できごとに過ぎず、被治者には何の関係もないことであった。
徳川政府は廃せられたけれど、これに代わったのは、やはり独裁の政府であって、
その政府はすなわち専制政府である。

明治維新は家を建てようとして牢屋を建てたようなものである。』
(1877年~81年・明治10~14年の論説の要旨)
と厳しく幕藩専制体制を批判。

明治10年。植木は『極論今政』の要旨に、こんなことを書く。
『世俗の人は、いたずらに政府を信じて一に文明革新主義と考え、わが国の現状を目して
開化進歩となし、目の前に見られる学校・兵舎・官庁等のりっぱなのを見、
鉄道・電線・レンガ・ガス燈等の設けられるのをながめて、ただちに文明がそなわった
かのように早合点し、慶祝するものが多い。
しかし、今の政府はけっして眞の文明開化主義者ではなく、文明開化をはかっても、
それは私利のためにはかるのであって国民のためにはかっているのではない。』
と、上からの改革を無批判に喜ぶ世の人々にも苦言を呈する。
そして彼はさらに言う。

「世に良政府なる者なきの説」(明治10年)
人民たるもの、一人一家の事にのみ心を配るのではすまないのであって、
つねに政治に対して関心を払わなければならないのである。政府がその本来の役目を忘れて
圧政を行なったりすることのないように、人民はいつも監視の目をゆるめてはならない。

『政府と人民とを親子の間と同じように説くものがあるが、それは大きなまちがいである。』

人民が政府を信用すれば、政府はこれに乗じ、信用することが厚ければますます
これにつけこむのが常である。それ故に、人民はなるべく政府を監督視察すべきであり、
なるべく政府に抵抗しなければならない。この努力をやめれば、けっしてりっぱな政治を
期待することができないであろう。

不断に監督抵抗をつづけるべきであり、あえて抵抗しないまでも、疑の一字を胸間に存し、
政府を無条件に信用しないのが肝要である。

お~っと!
この一連の枝盛の言葉。何かをすぐに思い浮かべませんか??!!
そうです!
日本国憲法第12条。私が大好きな条文だ。
『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力
によつて
、これを保持しなければならない。』

そして第99条。
『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。』



どうですか。今から139年前に、ひとりの青年民権運動家がこんな厳しい指摘をしていた!
為政者などというものを信用しきってはいけない。国の政治は、国民が常に見守って、
それが間違った方向へ流れていくのをとどめなければならないのである。
国民がその努力を忘れたとき、国民に(生まれながらにして)与えられた自由や権利は
いつかいつしか奪われても仕方がないぞ、と。

1946年。植木枝盛がこれを書いた79年後。
GHQ民政局の人々は、『憲法を守っていくということの困難さ』『それがいとも容易に
破壊されうることの怖さ』を知っていたからこそ、この2つの条文を、私たち日本人に
プレゼントしてくれたのではなかったろうか…。



せっかくの私たち国民の権利が、ときの一政府当局によって以下のように
おぞましきものに変えてしまわれないように。


自民党改憲草案
第102条(憲法尊重擁護義務)『全て国民は、この憲法を尊重しなければならない』





この記事続く。


『日本国憲法をなぜ守りたいか その12 押しつけ憲法?⑦』



Q12:日本の民間人が作った『憲法草案要綱』ってどんなものだったの?

近衛らの憲法案と、幣原・松本らの政府案と2つの流れを見てきた。
次に、民間人の学者らによって作られた『憲法草案要綱』について書こう。

1945年10月。マッカーサーは、近衛に憲法改正を『示唆』、また幣原内閣に対しては
『憲法の自由主義化』の必要を説いた。これにより、官・民、政党・個人…がそれぞれに
憲法改正案作成に取り組み始めた、ということも既に書いた。その数は、2つ前の記事に
一覧で示した通りである。

1945年10月29日、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を
目的として『憲法研究会』が結成された。
主なメンバーは、鈴木安蔵高野岩三郎杉森孝次郎、、森戸辰男岩淵辰雄、
馬場恒吾室伏高信等。
そのひとりひとりの経歴とその後の人生については、そのまま日本の戦中戦後史を
象徴しているようで、ほんとうはひとりひとりについて詳しく書きたいところだが、
長くなるので、およそのところは、上記Wikipediaの記述で見て欲しい。
中心メンバーは七人。まるで『七人の侍』のようだが、実はこの他にもタッチしていた人々は何人かいた。
また、これら七人の人々も、政治的には、必ずしも同じ方向を向いていたわけではなく、
例えば、読売新聞などの記者から政治評論家になった岩淵辰雄は、太平洋戦争前から、
近衛文麿や陸軍皇道動派のグループと親しく、1945年初頭、いわゆる『近衛上奏文』の
執筆にも加わっている。
岩淵の敗戦直前における主な立場は、近衛を中心として、粛軍和平を画すること。
岩淵は近衛と同じく共産主義革命を恐れていたので、ソ連が参戦する前に
早期にアメリカと和平を結ぼうとする考えであった。
だが、彼らの試みは東条英機らの知るところとなり、岩淵は吉田茂らとともに憲兵に
検挙され、一ヶ月半ほど監禁されている。
敗戦後、岩淵は、東久邇内閣の副首相になった近衛を中心とした憲法改正を企図。
岩淵の改憲案は、天皇の身分はそのまま、悪かったのは天皇の統帥権を悪用した
軍部であった、として、再び同じ間違いが起きないよう、『天皇の統帥大権をなくす』
ということが主眼であった。
近衛同様、共産主義を何より恐れ、国体護持のためには何でもすると考えていた岩淵は、
『マッカーサーと面会し、「今日の破局は軍閥と左翼勢力のせいである」と、日本の
置かれていた現状を説明してくるように』近衛を説く。
それで近衛は、10月4日、GHQにマッカーサーを訪ね、そこで憲法改正の示唆を
受けることになるのである。そこのところは、前の方の記事で書いた。
だが、そこでも書いたように、近衛の憲法改正案は、日の目を見ないまま、
近衛は1945年12月、戦犯の指定を受けて自死する。

実は岩淵は、近衛ルートでの憲法改正とは別に、民間での憲法改正にも
終戦直後の早い時期から動いていた。やはり新聞記者出身で『日本評論』の主筆などを
かつて務めていた室伏高信と、憲法改正を企図。
室伏は急進的デモクラットとして論壇にデビューしたが、満州事変後は、大東亜戦争を
賛美。岩淵と同じく近衛新体制運動に参加するも、後に軍部批判で『日本評論』を追われ、
特高にいつも監視されていた。
室伏は10月18日、雑誌『新生』を創刊。尾崎行雄や賀川豊彦らも執筆。


一方、この民間の『憲法研究会』で中心的役割を果たしたひとりであった鈴木安蔵は、
どういう考えの人物であって、どういうふうに民間憲法研究会を立ち上げるに至ったか。


                鈴木安蔵
                     写真は、こちらのサイトからお借りしました。
              
http://www.liveinpeace925.com/pamphlet/leaf_kenpo_daiji_app1.htm



鈴木安蔵は、1904年生まれ。1924年京都帝国大学哲学科入学。社会科学研究会
に入会する。河上肇の影響を受け本格的にマルクス主義研究するため経済学部に転じる。
1926年(大正15年)。京大社研の活動が治安維持法に違反するとして学生38人が
検挙されるといういわゆる『京都学連事件』が起き、鈴木も検挙されるのである。
この事件は、治安維持法が適用された最初の事件である。鈴木は豊多摩刑務所に
2年間服役した。
『自分たちを処分した日本の国家の本質を解明しよう』
鈴木は大学を自主退学。以降、憲法学、政治学の研究に腰を据えて取り組むことになるのである。
だが、『第二無産新聞』に記事を執筆したため、治安維持法の疑いで再び逮捕される。
2年8カ月に及ぶ獄中生活の間、彼は憲法学の本を読み漁った。
出獄後は、上野図書館、日比谷図書館、慶応義塾大学図書館などに日参して
憲法史、憲法学関係の文献を渉猟。自分の経済学の本を売って憲法学・憲法史の
文献を買うという学問漬けの暮しであった。

当時の日本では、憲法の成り立ちを体系的に分析した研究はほとんどなかった。
そんな時、鈴木は、縁あって、吉野作造と面会する機会を二度得る。吉野が結核で
亡くなるわずか前のことであった。
吉野は、読んでもらいたい資料を教え、鈴木の質問票をもとに憲法制定の経緯を語るなど
憲法制定史研究を志向する29歳の若き学徒を、苦しい息の下から激励。
吉野の死後3カ月、鈴木は『憲法の歴史的研究』を刊行。だが、それは『出版法第27条』
違反、『安寧秩序ヲ妨害』するということで、即日販売禁止となる。
鈴木は学界からは完全にパージされてしまった。
しかしこの事件をきっかけに、尾佐竹猛の知遇を受け、衆議院憲政史編纂委員に就任。
戦前期において実に20作以上に上る著作を発表し、また研究活動の過程で明治期の
民権運動家植木枝盛による私擬憲法(憲法案)を発掘した
ことは、戦後、憲法案作成
に密接につながることになっていく。

鈴木安蔵は、戦後も憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)結成に参加し、初代代表委員に
就任。護憲運動のリーダーとしても活躍したが、実は戦時中は、『八紘一宇の大理想を以て
皇道を全世界、全人類に宣布確立する』(『日本政治の基準』、1941年、東洋経済新報社出版部)
などという大東亜共栄圏を推奨する発言もしている…。
戦中戦後を生きた人々が、どれほど個人的にも公的にも迷いを持って生きていたか…
その懊悩の激しさは、戦後70年を生きる今の我々にはほんとうにはわからない…。
一見思想的には相反する岩淵らとこの鈴木らが一つの憲法案作成に携わった、というのも、
彼らが自由主義者、社会主義者…の違いはあれど、戦時中、同じように投獄されたり
特高の監視下に常時置かれたり、というような苛烈な時代を共に生きていたからではあるまいか。
岩淵は『明治憲法で規定された天皇の一切の政治上の権力を取ってしまおう』と提案したし、
室伏高信は、『主権在民』と、イギリス王室にならって天皇を儀礼的存在とする、という考えを
言い出したのは自分だ、と後に語る。下にも書くが、森戸辰男も、すでに11月7日、同じことを
GHQ政治顧問エマーソンに語っていた。
天皇を『国家的儀礼』の役割に限定する、すなわち『象徴天皇制』の発想は、この
研究会に既にあったのである


話を進めよう。
1945年10月29日。『日本文化人連盟』の創立準備会が開かれる。
これは、イデオロギーにとらわれず、幅広く文化人を糾合して日本の再建を図ろうと
した集まりであった。
『デモクラシーとヒューマニズムに基く新日本文化を創造し、平和的進歩的文化日本の
建設に努力す』というのが、この『日本文化人連盟』の綱領であった。
その会合の後、鈴木安蔵は、統計学者高野岩三郎から声をかけられる。
当時すでに74歳の高野は、民間自身から民主的な憲法を制定する運動を起こす
必要性
を説き、鈴木に、その中心となってくれるように頼んだのである。
前記室伏高信もこの会合に居合わせ、雑誌『新生』の編集部を会合の場所に
提供することを申し出た。
岩淵達雄、馬場常悟、杉森孝次郎、森戸辰男らも呼び寄せることとなる…

もう一人の『憲法研究会』の中心的人物が、この当時74歳であった高野岩三郎である。
高野岩三郎(1871- 1949)は、東京帝大卒業後、1899-1903年ミュンヘン大学に留学。
統計学を学ぶ。1903年に東京帝国大学法科大学助教授。
政治学者で後に東大総長となる小野塚喜平次らと社会政策学会を設立、学会内の最左派
として活動した。また日本文化人連盟を結成。東京帝大では法学部からの経済学部独立
に尽力。弟子には森戸辰男、大内兵衛、舞出長五郎など、のちに著名となる多くの
マルクス経済学者がいる。
1920年、請われて大原社会問題研究所の設立に参加。設立時から没年まで所長を務める。
大原社研では日本最初の労働者家計調査を実施、労働問題を研究。(以上Wikiより抜粋)
大雑把にまとめてあるが、この人も、その兄ともどもそれぞれについて本が数冊書けるほどの
経歴の人物である。例えば、『東京帝大では法学部からの経済学部独立に尽力。』という
短い記述一つとっても、そこには日本の学問史上の大きな意味が隠れている。
当時の東京帝大には『経済学部』というものが独立して存在しなかった。『法学部』の中に
置かれていたのである。『法学部』は、当時、『官』を象徴する学部であった…
「『経済学』を、『官』の学問から独立させなければ…」
高野やその直弟子森戸辰男らにとって、そのことがどれほどの重い意味を持っていたか…
そういうことも、今の人々にはなかなか分からないのではあるまいか。
だが、ここでは詳しく語ってもいられない。先に進もう。

高野は、他のメンバーと違って、天皇制そのものの弊害を指摘。天皇制を廃して、
日本を共和制の国にすることを考えていた。
高野自身が雑誌『新生』に寄せた論考『囚われたる民衆』で、彼はこのような
ことを言っている。

『五年十年の後連合軍の威圧力緩減した時、いつまた反動分子が天皇を担ぎ上げて
再挙を計るようなことが起こるかわからない。この際天皇制を廃止して、主権在民の
民主制を確立し、人心の一新をして国民の啓蒙に努力した方がいい』 


だが、その考えは時期尚早、として他のメンバーに受け入れられず、結局、この
民間『憲法研究会』の草案では、天皇はイギリスの王室のように『儀礼的代表』とする、
というものとなった。


とにかく。
民間人が(と言っても、当時すでに実績のある言論人や学者である)作った、この『憲法草案要綱』は、
研究会内での討議をもとに、鈴木が第一案から第三案(最終案)を作成して、
1945年12月26日に、内閣へ届けられ記者団に発表された。新聞各紙は
2日後の12月28日に、一斉に一面でこの憲法研究会の案を発表した。
また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。

実は、憲法研究会の動きは、11月7日に、既にGHQに報告されていたのである。
第一回会合の後、メンバーの一人森戸辰男がGHQ政治顧問事務所のエマーソンと
会談。その内容は報告書にまとめられ、11月13日にアチソンからワシントンの
国務長官バーンズに送られているのである。
アメリカの動きは、万事なんと速いのだろう!

さて。12月26日にGHQに届けられた草案は、どう処理されたか。
いくつかのルートですぐに英語に翻訳され分析された。
1つは、連合国翻訳通訳部(ATIS)。日本の新聞発表のわずか3日後には、翻訳が
『報道の翻訳』第574号に掲載されている。
もうひとつのルートは、GHQ政治部顧問事務所。アチソンの下で働いていたロバート・
フィアリーが翻訳分析し、年が明けた1月2日にはワシントンのバーンズ国務長官に
内容が伝えられたのであった。素早い!
もう一つ。民政局法規課長マイロ・E・ラウエル陸軍中佐が詳細な分析を行っている。
ラウエルのことは、ベアテの記事のところでざっと紹介したが、後にマッカーサーの
命を受けて9日間で憲法草案をつくるあの民政局メンバーの中心的存在の一人である。
マイロ・E・ラウエル陸軍中佐は、スタンフォード大学で学士号を取った後、ハーバード・ロー・
スクールで学び、さらにスタンフォードに戻って法学博士の学位取得。
多くの民間会社の顧問弁護士、政府機関の法律顧問、ロサンゼルスの連邦検事補を歴任。
入隊後は憲兵参謀学校、軍政学校、日本占領のための特殊教育機関だったシカゴ大学
民事要員訓練所へ。
このシカゴ大学の訓練所では、1年半にわたって明治憲法と日本の政治制度の
研究
を行って
おり、ホイットニー准将が民政局長に赴任する前から法規課長として、
日本の政党や民間の憲法学者と積極的に接触。鈴木安蔵の論文集など多くの文書に
目を通し、憲法改正の検討を始めていた
のである。
既に12月6日には『日本の憲法の準備的研究と勧告の報告』をまとめ、明治憲法の
弊害点を詳細に分析。また、鈴木の『日本独特の立憲政治』の英訳を同じ民政局の
スタッフに回覧して読ませていた
という。

ラウエルは、草案の分析にすぐに取り掛かった。ラウエル自身の証言が録音テープに
残されている。
ラウエルが上記ATISからコピーを受け取ったのは新聞発表の直後。
彼は正月休み返上で草案を分析、報告書にまとめた。報告書は1月11日、ホイットニー
准将の承認を経て、マッカーサー直属のサザーランド参謀長に提出された。

ラウエルは、憲法研究会の草案に感心し、民主的であると評価した。
『a.国民主権が認められていること』
『b.出生、身分、性、人種および国籍による差別待遇が禁止されている。
  貴族制度が廃止されていること』
など、特に自由主義的だと高く評価できる8項目の条文を列挙
し、またさらに、
この草案に欠けていると思われる条文についても、ラウエルは記している。
その中には、
『a.憲法は国の最高法規であることを、明確に宣明すること』
という、日本国憲法でも、とりわけ大事だと私が思う、
第98条『この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅
及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。』

に繋がる思想そのものが、ここで既に述べられているのである。

このラウエルの報告書について、『日本国憲法制定の系譜』という浩瀚な研究書を
書いている原秀成の指摘が興味深い。

ラウエルは弁護士ですから、法律をどうすれば実際に動くようになるか、ということを
良く考えています
。(中略)憲法をどうやって守らせるか、それがポイントだとラウエルは
言っています。つまり憲法が最高法規であって、それに基づいて法律が作られなければ
ならない、それに違反した法律は裁判所で違憲なものだ、無効なものだとされなければ
ならない、そういう規定が最も欠如している、それを入れさえすればこれは憲法として
十分に動く
とラウエルは報告しています』

なんと!ラウエルという人は、最高法規としての憲法について、またそれを守り実行する
ということの困難について熟知していたひとであろう!この原秀成の言葉も、良く噛みしめてほしい。
今、安倍政権は、二重三重四重の意味で、憲法を蹂躙している。

その一は、多くの法学者の『憲法違反』の指摘も無視し、時の一内閣による無理筋の
憲法解釈によって、憲法九条の『不戦の誓い』を改憲によらず事実上無効化
しようとしたこと。
またその二は、安保法制を、正当な国会運営によらず(議事録さえとれない混乱の中で
抜き打ち的に採決)可決成立させてしまったこと。これは、立法府の死
に等しい。
その三は、国会審議に諮る前に、すでに3月の安倍訪米で、アメリカに安保法の成立の
約束をしていること。これも立法権の軽視であり、日本の最高法規としての憲法を、
対米条約や協定というものの下に総理大臣自ら置く行為
である。
その四は、上記の一から三にわたるような安倍政権の手法が、日本国憲法第九十九条  
『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し
擁護する義務を負ふ。』という条項に違反している
ということである!



『憲法は国の最高法規である』。このことを根本的に理解していない人々が、
今、わたしたちの憲法を、低次元のものに作り替えようとしている!!!


1978年、ラウエルは、GHQ民政局による草案作りに関してインタビューに答え、
憲法研究会の草案に、『間違いなく影響を受けている』と言っている。

そして、この民間人による草案は、ハッシーやケーディス、その他行政に
関心のあるものは皆、それを目にしていたはずだ、とも答えている。
GHQの憲法案が、この鈴木らの民間『憲法草案要綱』に細部でとても似ていることは
早くから指摘されていたというが、当事者のラウエルが、『影響を受けた』ことをこうやって
証言しているのである。

『日本国憲法はGHQによる押しつけ憲法だったのか。』

ラウエルらが関わったGHQによる憲法草案が、この鈴木・高野らの『憲法草案要綱』
を参考にしていることは、一つ、上記の質問に対する答えとなるのではなかろうか。
このことは、よく『押しつけ論』を否定する根拠に用いられることで、別段目新しい情報
ではないが、一応私も、『否』という理由の一つとして、ここに書いておこう。

と同時に。
私は、GHQの調査の手回しよく周到にして徹底していること。そして迅速なことに
あらためて驚く。マッカーサーが、2月に急な思いつきで部下に民政局員に憲法草案を
作らせたのなどではないことを、しみじみと…そしていやというほどに…感じるのである。
占領とほぼ同時に、彼らは改憲のための調査と下準備をこうやって徹底して始めていた
のである。そうしつつ、彼らは、日本政府側から自発的に『民主的な』憲法改正案が
出てくることを辛抱強く待っていた。4か月近くも…。

また、日本側も、この鈴木らの他にも、自分たちの手で改憲草案を作ろうとした人々が、
1945年の秋にたくさんいたこと。そのことも忘れてはならないと思う。
問題は。肝心の政府側の人々に、敗戦の強い自覚と、自分たちが置かれた状況への
厳しい認識、自分たちが従わざるを得なくなったGHQの求めるものがなんであるか、ということの
認識が極めて甘い、というよりほとんど無かった、ということである…



            ***

それでは、『憲法草案要綱』の条文を実際に見ていこう。
全項にわたっては分析できないけれども、私の大事だと思った点をいくつか取り上げてみる。
下に、それにおよそ該当する現行憲法の条文を併記してみる。
現行憲法が『憲法草案要綱』に似ていると言われる所以の個所の一部である。
青い文字部分が鈴木らの『憲法草案要綱』、その下の黒字部分が、現日本国憲法である。


根本原則(統治権)
一、日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス

日本国憲法第一条『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。』

一、天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼ヲ司ル

日本国憲法第第四条『天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、
国政に関する権能を有しない。』

国民権利義務
●一、国民ハ法律ノ前ニ平等ニシテ出生又ハ身分ニ基ク一切ノ差別ハ之ヲ廃止ス

一、民族人種ニヨル差別ヲ禁ス

日本国憲法第十四条『すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、
社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。』

一、国民ノ言論学術芸術宗教ノ自由ニ妨ケル如何ナル法令ヲモ発布スルヲ得ス

第二十条『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。』
第二十一条『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。』

一、国民ハ拷問ヲ加へラルルコトナシ

第十八条『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、
その意に反する苦役に服させられない。』

一、国民ハ国民請願国民発案及国民表決ノ権利ヲ有ス

第十六条『何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は
改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたために
いかなる差別待遇も受けない。』

一、国民ハ労働ノ義務ヲ有ス
一、国民ハ労働ニ従事シ其ノ労働ニ対シテ報酬ヲ受クルノ権利ヲ有ス

第27条『1 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。』
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。 』

一、国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス

第25条『1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』

一、男女ハ公的並私的ニ完全ニ平等ノ権利ヲ享有ス

第24条『1 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する
ことを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関する
その他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、
制定されなければならない。』

一、労働者其ノ他一切ノ勤労者ノ労働条件改善ノ為ノ結社並運動ノ自由ハ保障セラルヘシ
之ヲ制限又ハ妨害スル法令契約及処置ハ総テ禁止ス


第21条『1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。』
第28条『勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。』


              ***

どうだろうか。

高野・鈴木らの作った民間の憲法草案は、1791年のフランス憲法、
アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法などとともに、
日本の自由民権運動で作られた植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』や土佐立志社の
『日本憲法見込案』など、明治初期に、弾圧に抵抗しつつ書かれた20余の私製憲法草案
いわゆる『私擬憲法』も参考資料にしていた…。

『憲法草案要綱』の全文は下の『続く』のところに載せてあるが、現行憲法と比べても
さほど遜色なく、ある点では、現行憲法より優れて先進的な条文さえあった。

一、国民ノ言論学術芸術宗教ノ自由ニ妨ケル如何ナル法令ヲモ発布スルヲ得ス
一、国民ハ休息ノ権利ヲ有ス国家ハ最高八時間労働ノ実施勤労者ニ対スル有給休暇制療養所社交教養機関ノ完備ヲナスヘシ
一、国民ハ老年疾病其ノ他ノ事情ニヨリ労働不能ニ陥リタル場合生活ヲ保証サル権利ヲ有ス

すなわち
・『芸術の自由』まで掲げてあること。
・『8時間労働』『有給休暇制や療養所、社交教養機関の完備など、労働条件改善の
 具体的整備項目を掲げてあること。
・老年・疾病などで働けなくなった場合の生活保障。
が謳ってある。
私たちは、今、70年前に学者たちによって書かれたこの私案の理想を実現できているだろうか?
芸術表現の自由の自粛…ブラックバイトの現実…育児休暇取得の事実上の自粛…
箱モノ行政で中身の充実を図らない文化・社会事業政策…生活保護を受けられないで
老老介護、あるいは母子家庭の生活困窮の果ての一家心中……
むしろ年年、ここに書かれた理想から遠ざかっていっているのではあるまいか?

愉快なのは、こんな条項もあること!
一、租税ノ賦課ハ公正ナルヘシ苟モ消費税ヲ偏重シテ国民ニ
過重ノ負担ヲ負ハシムルヲ禁ス


税金は公正に課すること。消費税にこだわって国民に重い負担をかけてはいけない、
書いてあるのである。(この頃既に『消費税』という用語が用いられていたのか!)
税と言えば『消費税』しか念頭になく、法人税や所得税のように豊かな者から多く徴収する
という当たり前のような累進課税の徴税法は考えない。それどころか
逆に法人税を減税して大企業や富裕層を優遇し、貧困層には否応なしに消費税を課する、
いつかのどこかの国の政治家たちに、聞かせてやりたい!



               ***


明治憲法すなわち大日本帝国憲法とも比較してみよう。
まず第一に、いうまでもなく、大日本帝国憲法では、『天皇主権』であって、天皇の下に
大権が全て集められている!

国民の権利が書かれていなくはないが、次に挙げるいくつかの例の通り、
皆、『法律ノ範囲内ニ於テ』などと国家による制限が加えられている。

第22条日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス
第23条日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ
第25条日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及捜索セラルヽコトナシ
第26条日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ
第27条日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ
2 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第28条日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
第29条日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス  


            ***

ちなみに、自民党改憲草案を見てみようか。
『公の秩序』の連発である!

第1条(天皇)『天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴
であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。』
第9条の2(国防軍)『1 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、
内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。』
第12条(国民の責務)『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の
努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、
自由及び権利には責任及び義務が伴う
ことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。』
第13条(人としての尊重等)『 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び
幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り
立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。 』
第19条(思想及び良心の自由)『 思想及び良心の自由は、保障する。』
第21条(表現の自由)『1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、
並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。』
第29条(財産権)『1 財産権は、保障する。
2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。
この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように
配慮しなければならない。』

第102条(憲法尊重擁護義務)『1 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。』


           ***


70年前に民間人が作った『憲法草案要綱』にも、今の日本国憲法にも、
大日本帝国憲法にもまた自民党改憲草案にも、共通して、『言論の自由』や『結社の自由』
『居住の自由』など様々な『自由権』は記されてはいる。
違うのは、前の二者には、それらにほぼ制限が記されていないこと。
ところが後の二者には、『法律ノ範囲ニ於テ』とか、『安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ
義務ニ背カサル限ニ於テ』とか、『公の秩序に反しない限り』とかの条件が付けられて
いることである。
そのくらいたいして違わないじゃないか、とお思いだろうか。
大違いなのである!
前ニ者は、『国民主権』の理想に立つから、国民の諸権利に制限を記さない。
『自由』ということの価値の重さを、骨身にしみて自覚しているからである…

そうして、民に与えられた生存権、自由権をはじめとする諸権利を、ひとりひとりが生来
持って生まれるとする『天賦人権論』の立場に立つ
からである!
鈴木、岩淵、室伏、…彼らは特高警察に常時見張られる暮しであった…
ところが後者の二者は、『国家主権』『天賦人権論の否定』の立場に立つ。つまり、
国民の諸々の権利は、『国が与えてやるものだ。だから大人しくしろ。
公の秩序など乱すなよ』という発想に立つもの
なのである。


ところで。『国』という生き物はいるだろうか?
…いない。

『国』という名のもとに、時の権力者が自分たちの思う通りに政治を動かす。
それが『国』というものの実体である。

その権力者たちが、『自由』というもの、その他、民の諸権利に、『法』の名の下に制限を
加える…

それはまずいのである!
権力者の『恣意』に、国民の権利を任せてはならないのである!
私たちは、『国家』というものの名の下に引き起こされてきた数多の
不幸な戦争や紛争や悲劇を経て、このことをいやというほど学んで
きたはずではなかったのか!
















全文を『続く』のところに載せておくので、ご覧ください。
 





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『日本国憲法をなぜ守りたいか その11 押しつけ憲法?⑥』


Q11: 近衛~佐々木、幣原~松本以外の、日本人による憲法案は無かったの? 

そんなことはない。
いくつか前の記事で書いたように、マッカーサーが近衛に憲法改正案作成を示唆したのが
1945年10月4日。幣原がマッカーサーに首相就任の挨拶に行き、憲法作成のことを
聞いたのが10月11日。それぞれが10月には憲法改正案もしくはその調査を開始
している。新聞なども、GHQの憲法改正指令とこれらの動きを報道している。
そこから、多くの官民両方の団体また個人が、独自に憲法改正案作りに着手したのであった。
後述するが、民間の学者などが集まる憲法研究会が作成した『憲法草案要綱』が
1945年12月26日に発表されているし、近衛、松本らのグループの氏案を試案を含め、
政府関係法曹関係および各政党など、さらには民間の団体及び個人などが
実に以下のごとくたくさん試案を作成したり修正したり意見を発表したりしていたのである。

たとえば以下のリストの冒頭。
マッカーサーが10月に指令を出すその前の9月に既に、内閣法制局、外務省政務局、
また個人としては宮沢俊義らが、ポツダム宣言を受けて憲法改正の要があるかもしれないと
先見し、既に調査検討を始めている
ことである。
だが、これらの動きは、改正の要さえ認識していない政府によって、結局立ち消え
なっている…



憲法改正案一覧(1) 政府等 I
●法制局関連の試案など
 入江俊郎・終戦ト憲法ほか 1945年9月18日~10月23日

●外務省関係
 宮沢俊義・ポツダム宣言ニ基ク憲法、同付属法令改正要点 1945年9月28日
 外務省政務局第一課・自主的即決的施策ノ緊急樹立ニ関スル件 (試案) 1945年10月9日
 田付景一・帝国憲法改正問題試案 1945年10月11日
 [外務省条約局]・憲法改正大綱案 1945年10月11日
 ●その他
 矢部貞治・憲法改正法案(中間報告) 1945年10月3日

憲法改正案一覧(2) 政府等 II
 ●内大臣府
 近衛文麿・帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱 1945年11月22日
 近衛公の憲法改正草案 『毎日新聞』記事 1945年12月21日
 佐々木惣一・帝国憲法改正ノ必要 1945年11月23日
 憲法問題調査委員会
 美濃部達吉・調査会資料 1945年11月14日
 憲法問題調査委員会第一回乃至第四回総会並びに第一回乃至第六回調査会に於て表明せられたる諸意見 1945年12月22日
 入江俊郎・大日本帝国憲法改正試案 1946年1月
 美濃部達吉・美濃部顧問私案 1945年12月22日
 宮沢俊義・大日本帝国憲法改正案 1945年12月22日
 清宮四郎・大日本帝国憲法改正試案 1945年12月22日
 河村又介・大日本帝国憲法改正試案 1946年1月
 小林次郎・大日本帝国憲法改正私案 1945年12月22日
 大池真・帝国憲法改正私案 1945年12月22日
 中村建城・帝国憲法中会計関係規定改正案 1945年12月17日
 古井喜実・憲法改正綱領(未完稿) 1945年12月22日
 奥野健一・憲法第61条改正案 1945年12月22日
 佐藤達夫・憲法改正試草及び追加一 1946年1月3日
 野村淳治・憲法改正に関する意見書 1945年12月26日
 宮沢俊義・甲案 1946年1月4日
 宮沢俊義・乙案 1946年1月4日
 松本烝治・憲法改正私案-原稿 1946年1月4日
 松本烝治・憲法改正私案-謄写版 1946年1月4日
 憲法問題調査委員会・憲法改正要綱(甲案) 1946年1月26日
 憲法問題調査委員会・憲法改正案(乙案) 1946年2月2日
 憲法問題調査委員会試案 『毎日新聞』記事 1946年2月1日
 憲法問題調査委員会・憲法改正要綱 1946年2月8日

憲法改正案一覧(3) 政党、民間グループ、個人 政党
●日本共産党・新憲法の骨子 1945年11月11日
 日本自由党・憲法改正要綱 1946年1月21日
 日本進歩党・憲法改正要綱 1946年2月14日文字色
 日本社会党・憲法改正要綱 1946年2月24日
 日本共産党・日本人民共和国憲法(草案 ) 1946年6月29日
●民間グループ
 憲法研究会・憲法草案要綱 1945年12月26日
 憲法懇談会・日本国憲法草案 1946年3月5日
 大日本弁護士会連合会憲法改正案 1946年1月21日
 東京帝国大学憲法研究委員会報告書 1946年[春]
●個人
 高野岩三郎・日本共和国憲法私案要綱 1945年11月~1945年12月
 高野岩三郎・改正憲法私案要綱 『新生』 1946年2月号
 清瀬一郎・憲法改正条項私見 『法律新報』 1945年12月号
 布施辰治・憲法改正(私案) 1945年12月
 稲田正次・憲法改正私案 1945年12月24日
 里見岸雄・大日本帝国憲法改正案私擬 1946年1月28日


これらのリストは、国立国会図書館のサイト、『日本国憲法の誕生』からお借りしました。
リストの該当ページはhttp://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/revision.html#s1

この国立国会図書館のサイトの『資料と解説』では、ほぼ全ての団体個人の草案、
意見書などの実際を読むことができます。
例えば、上記、『1-14 法制局内の憲法改正問題に関する検討では、マッカーサーの指令に
先立つこと一カ月、当時の法制局第一部長入江俊郎の考察を見てみましょう。


終戦ト憲法


入江稿では、
『終戦ニ伴ヒ憲法中研究ヲ要スル事項概ネ左ノ如シ』として、
第十一条(統帥大権)第十二条(編制大権)第十三条(外交大権)中「戦ヲ宣シ和ヲ講ジ及」
第十四条(戒厳大権)第二十条(兵役ノ義務)など、大日本帝国憲法の軍関係の条項が
削除を必要とされるであろうという認識を示している。

『第十一条 天皇ハ軍ヲ統帥ス』をそのままに残している
幣原~松本らの政府案より、はるかに、敗戦の認識、軍解体の認識、ひいては憲法改正の
必要を自覚しているものと言えよう。

それぞれの試案の実際の内容は、『テキストの表示』というボタンをクリックすると
読むことができます。


『日本国憲法をなぜ守りたいか その10 押しつけ憲法?⑤』


Q10:幣原~松本烝治らの政府案はどんなものだったの?


さて。これについては、前の方の記事でも書いている通り、どうにも褒めようがない。

敗戦の年の10月11日、東久邇宮に代わって政権を担当することになった幣原は
マッカーサーに挨拶にGHQを訪れる。マッカーサーは、日本側が自主的に憲法改正を
進めることを待つという基本的な考えのもとに、「憲法の自由主義化」を示唆。
日本の社会組織の根本改革を求めた。
幣原首相は、13日、臨時閣議で、政府として
憲法調査を実施することとし、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会
の発足を決定した。『調査』であって、『改正』ましてや『新設』など念頭にない。

そもそも彼らの出発点の誤りは、ポツダム宣言に関しアメリカ国務省から得た説明が
『日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される』と言う曖昧な
回答であったにもかかわらず、「おそらく『国民が望めば国体は護持される』という
意味だろう」という推測の下、GHQが命じた改憲についても、「『日本の政体は
日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される』と言っているのだから、
我々が主体的にやっていいだろう」、とたかをくくっていたことである。

だが、その『主体的に』ということの意味が違った。
幣原~松本の『主体的に』は、『我々が大日本帝国憲法を少し手直しすればそれで済む』
だろうという甘い見通しでしかないものであり、アメリカ政府とGHQの考える『主体的に』は、
天皇の地位剥奪・戦犯指定の可能性も含む長い多数回にわたる激論の下、とりあえず当面の間は
『日本政府の出方を注目していよう』という厳しいものであった点である。
当時のアメリカの世論は、天皇の地位をめぐり、天皇の戦争責任は免れないという
相変わらず厳しい認識を示しており、ワシントンの国務省・陸軍省・海軍省の三省調整委員会
では、下部の極東小委員会において、天皇の身柄・処分について、激しい論議を
積み重ねていたのである。
同じ10月、トルーマンは、
『アメリカ政府は、「裕仁天皇は戦争犯罪人としての逮捕、裁判、処罰から全く免責
されたわけではない」と考える』 そして。『裕仁天皇なしで、占領がうまくいくと判明したときは、
天皇の裁判問題は当然に提起される』という厳しい前提の下、天皇に国際法違反の
責任があるかどうかの極秘調査・証拠集めをマッカーサーに指示していたのである。
日本の幣原~松本らは、こうしたアメリカ側の厳しい認識も知らず、国体護持
という不文律から一歩も出ず、甘い期待の下、相変わらず小手先の解釈議論を
悠長に、しかもGHQの意向も聞こうとせず一切を秘密裏に、内輪だけでやっていた…

ここに、憲法改正に関しては、幣原~松本らの出発点からの誤謬がある。
その甘さは、よくいえば、アメリカなどなにするものぞ!という、敗戦国日本の
日本男子としての気慨であったかもしれないが、率直に言えば、敗戦の厳しい現実への、
恐ろしいほどの認識不足
、というものが、根本にあったように私などには見えてしまう。
敗戦の現実を厳しく認識しない、ということは、日本がアジアで犯してきたことの罪を
ほとんど認識していない、ということと同義
であったのではないか。


10月25日。松本烝治国務大臣を主任とする憲法問題調査委員会(松本委員会)設置。
以降、翌1946年2月2日の総会までに、7回の総会と15回の調査会・小委員会を開催。
憲法問題の検討を行った。これを多いと感心するか少ないと驚くか。

松本委員長は、10月27日に行われた第1回総会で、調査委員会の使命について
『憲法改正案を直ちに作成するということでは無く』と述べていが、11月10日の
第2回総会では『日本を廻る内外の情勢は誠に切実である。政治的に何事も無しには
済まし得ない様に思われる』、『憲法改正問題が極めて近き将来に於て具体化
せらるることも当然予想しなければならぬ』と述べ、委員会は調査・研究から改正案の提示へ
向けて方向転換しては行くのだが。それもすべて秘密裡に、であった・・・・・・

幣原~松本らの政府案、いや調査書が実際にどういうものであったか。
1946年1月4日。憲法改正担当国務大臣、『『憲法問題調査委員会』(いわゆる松本委員会)
委員長松本烝治が自ら憲法改正『私案』を執筆。その後委員会や閣議などの何度かの修正を
経て、民主主義的要素を少しずつ盛り込んでは行くのだが、前の記事にも書いた通り、
彼らが作った『試案』は、2月8日GHQに提出されるその前に、2月1日、毎日新聞に
よってスクープされ、その中身が暴露される。
ところがややこしいのは、その毎日新聞がスクープした委員会試案というのは、実は
委員会のメンバー、宮沢俊義がこれまた私案として書いた『宮沢甲案』にちかいものであった。
これは、松本らがGHQに実際提出したものよりかなり民主的色彩のあるものだったのだが、
それでも毎日新聞にそれがスクープされると、GHQの不信感を生み、
そしてついには、GHQ自身が草案をつくる、という事態に発展して行くのであるが、
松本委員会の原案となった松本烝治自身による私案と、そのスクープされた『憲法問題
調査委員会試案』を、追記のところに全文掲載しておくので、興味ある方はご覧ください。

松本私案の条文には、第一条、第二条、第四条、第五条など、随分抜けている
条項が多いが、これは要するに、大日本帝国憲法から変える必要なし、と彼が判断した
条文である。
ちなみに。その抜けている(つまり変える必要なしと思われた)大日本帝国憲法の部分の
一例をあげれば。
第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第4条天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第5条天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス

等である。スクープされた『憲法問題調査委員会試案』についても同様。

いずれにしても、これらの案は、
天皇主権の大日本帝国憲法の域を出ないものであり、
天皇の統帥権(天皇大権のひとつ。陸軍や海軍への統帥の権能)を認めているところ、
③国民の自由権などは明記してあるが、いずれも『安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ』
 『公益ノ為必要ナル制限ハ法律ノ定ムル所二依ル』などという但し書きが付いた上での
 自由
であること。
など、大日本帝国憲法とさほど違わないものであった。

無論、現在の日本国憲法には、『国民主権』の根本思想により、これらの但し書きは
一切ないか、あっても『公共の福祉に反しない限り』というやわらかい文言である。

ところが何度も言うように、自民党改憲案では、『公益及び公の秩序に反しない限り』、
と、『公の秩序』という文言がいたるところにつけ加えられていることに注意。

そして。
④いずれの案も、自民党の『緊急事態条項』に似た条項がある。

いつのことかはっきりしないが、おそらく1945年暮れか46年当初か、
先に記事にした近衛草案の作成に携わった政治学者でありアメリカの法に詳しかった
高木八尺が、松本に、『草案は却下されるだろう。GHQの意向を聴いてみるべきだ』
と忠告したらしいが、松本は、今後もGHQの意向を聴くつもりはないと突っぱねる。
松本らは、明治憲法を多少手直しすればそれで済むと考えていた。
そのころまでにはすでに鈴木安蔵ら民間の憲法研究会があちこちで、独自に
新憲法案について研究し、また各政党なども草案をそれぞれ作成していた時期である。
松本らは、これらを一切考慮しない。GHQの意向さえ聴いてみようとしないで、
秘密裡に検討を進めていたが、1946年2月1日、毎日新聞にスクープされ、
その旧態然とした憲法への姿勢が、広く国民にもまたGHQにも知られてしまうことに
なっていくのである…

GHQの意向も取り入れようとし、結果少しは民主的な色彩を持っていた近衛らの案
に比べても、幣原~松本らの政府案は、視線がまるで明治憲法だけにしか置かれて
いない。
今の自民党の改憲草案を詳しく検討していくにつれ、あちこちに、この
大日本帝国憲法への回帰を私は感じてならないのである。

まつもとじょうじ
松本烝治。写真はWikipediaからお借りしました






ちなみに、昨年7月、『自衛隊による集団的自衛権行使容認』、正式名称、『国の存立を全うし、
国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について』が閣議決定され、
衆参の短い、めちゃくちゃな議論を経て9月採決成立。ついにこの3月、安保法が施行された
わけだが、その議論において『憲法九条と集団的自衛権行使容認の整合性』が問われた時、
九条の下でも集団的自衛権を我が国が行使できる!とした政府の挙げた『法的根拠』を
覚えておいでだろうか。
彼らは56年も前の1959年12月16日の『最高裁砂川判決』を持ち出し、
『最高裁も、集団的自衛権行使を否定していない!』という論を展開したのである。

そもそも、この砂川裁判というものの最大の争点は、
『在日米軍が憲法第9条2項でいうところの「戦力」に該当する違憲の存在であるかどうか』
であって、集団的自衛権は全く議論もされていない。
それなのに、自民党高村正彦副総裁が昨年、この最高裁判決を引っ張り出してきたのである。
弁護士資格を持つ高村氏は、判決理由の中に
『わが国が、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置を
とり得ることは、国家固有の権能の行使として当然のこと』と述べている点に着目し、
次のように曲解する。
 この最高裁判決がいう『自衛のための措置』とは、個別的自衛権とか集団的自衛権を区別せずに、
わが国の保有する自衛権を一般的・包括的に表示しているので、ここでは集団的自衛権の
行使も含意されている。少なくとも否定はされていないと読むことができる』と。

『集団的自衛権の行使出来る法的根拠』はどこかにないか。それを探していた自民党が
これを見つけて、無理やり「これはつかえそうだ」とこじつけたのである。

この、最高裁砂川判決を出したのが、当時の最高裁長官、田中耕太郎である。
私は、この判決を、希代の悪判決、と思っている。
後に、アメリカの公文書から明らかになったことだが、『米軍駐留は憲法違反』との伊達判決
を受けて当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世が、同判決の破棄を狙って
外務大臣藤山愛一郎に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけていたこと。
さらには、最高裁長官・田中自身が、こともあろうに、マッカーサー大使と面会した際に、
「伊達判決は全くの誤り」と一審判決破棄・差し戻しを示唆していたこと、上告審日程や
この結論方針をアメリカ側に漏らしていた、というとんでもない事実があった。
つまり、日本の『司法の要』である最高裁長官が、自らの判決の前に裁判の情報を
当事者アメリカに漏らしていたのである!
これだけでも許せないことだが、私が一番腹が立つのは、この判決で田中は、
『日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に
違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことは
できない』、という、いわゆる『統治行為論』を採用し、日米安保条約についての司法判断
を下すことから逃げたことである!
『統治行為論』とは、“国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為
については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、
これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論のことをいう。
(Wikipediaより)

この判決が先例となって、国の根幹に関わるような大きな問題について、司法が判断を
下すことに腰が引けてしまう構造が日本ではある意味定着してしまった……
1969年。北海道夕張郡長沼町の航空自衛隊の「ナイキ地対空ミサイル基地」建設
反対する住民の起こした訴訟、いわゆる『長沼ナイキ基地訴訟』でも、この『統治行為論』
が持ちだされている…
まあ、司法がとりわけ行政権に対し腰が引けるのは、なにもこの最高裁砂川判決の
『統治行為論』のせいばかりではないのだが。
『一票の格差』に関する最高裁判決は、『違憲状態』というやや玉虫色の判決。
今、今回の集団的自衛権行使容認を含む安保法の違憲性を問う訴訟が、日本の
あちこちで計画されているが、さて、司法はどういう判断を下すのか。
東電社長らの福島第一原発事故の当事者としての責任を問う裁判はどうなるか。
沖縄辺野古訴訟は、一応和解が成立しているが、それは結論を先送りしたにすぎない。

いずれにしても、司法が行政府や立法府に対し、何か『忖度』する傾向はまずい。
それは言わば。三権分立の一つの要である『司法の死』である!

この砂川事件最高裁判決を下したのが、当時の最高裁長官田中耕太郎であって、
この田中耕太郎は、松本烝治の弟子であり、後に娘婿となっている……

日本が中国への覇権をむさぼったその象徴のようなあの満鉄の、理事そして副社長
であった松本烝治。砂川判決で日本に駐留する米軍を憲法違反、とした伊達判決を
ひっくり返し、国家の重大事に関しては司法判断を避けるという悪しき判例を
作ってしまった田中耕太郎…。
その砂川判決を、明らかな憲法違反である集団的自衛権の法的根拠に無理無理
こじつける安倍政権・・・。

ちょっと後半脱線してしまったが。姻戚関係だからってどうのこうの言えないのだが。
そんなこたわかっているのだが。
なんだかいやなんだよなあ・・・・・・理屈でなしに・・・




以下に、松本烝治自身による私案と、毎日新聞にスクープされた『憲法問題
調査委員会試案』を、全文掲載してあります。




続きを読む

『日本国憲法をなぜ守りたいか その9 押しつけ憲法?④』


Q9:近衛文麿が佐々木惣一らと作った『帝国憲法改正要綱』
からさえも学べることって?



私が、近衛、佐々木惣一、高木八尺らのこの案で、注目しておきたいのは、
以下の、『臣民権利義務』に関する箇所の、下線部の部分である。
文末に(i)(ii)(iii)と、振ってあるのは、私が便宜上つけた。

第二章 臣民権利義務
 一、現行憲法に規定されてゐる臣民の行動上の自由は法律によつて初めて
  与へられてゐるやうな感があるが、この印象を払拭し国民の自由は法律に先行する
  ものであることを明らかにする (i)
 一、外国人は自由に対し種々の制限を受けてゐるが外国人も本則として日本臣民と
  同様の取扱ひを受けることを明らかにする。(ii)
 一、非常の場合、国民の権利を停止する所謂非常大権はこれを撤廃する (iii)


(i )『国民の自由は法律に先行する』
  これは、まさに、今の日本国憲法の『国民主権』そして『自由権』の思想である。
  憲法は国民を縛るのではない。現行憲法は、国民のため、為政者(国会議員、国務大臣、
  裁判官その他の公務員)にこの憲法を擁護する義務を負うようにと言っている。

  ところが、自民党の改憲案では、その考えが全く逆転してしまって、
  国民に憲法を守ることを義務付けている
のである。

現日本国憲法第99条
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を
 尊重し擁護する義務を負ふ。

自民党改憲案第102条(憲法尊重擁護義務)
1 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。

2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。


しかも、見る通り、国の側の義務は、 『尊重し』という文言を消して『擁護する義務』
という表現だけにして軽くし、国民には憲法を尊重しなければならないと言う。
これでは、近衛案が『国民の自由は法律(≒国家)に先行する』と言っていること以下だ。
自民党の草案は、まったく、近衛~佐々木案以前の大日本帝国憲法へ逆行しているのである!


近衛の出した憲法改正案は、当時も今も、取るに足らぬものとして、書庫の奥ふかく
人々の記憶の奥深くにしまいこまれてしまった。
だが。ある部分においては、この言わば笑い物にされてしまった改憲案の方が、
その思想において、現代の、自民党改憲案より優れて先進的なのはどうしたわけだ?!
『国民の自由は法律に先行する』・・・この条文は重い。
つまり、ここには、国民の自由が、『法律』よりも優位にある、ということを明記している
のである。ところが自民党改憲案では、国民の『自由』や『権利』を謳った
条項でも、あちこちに現行憲法にはない『公益および公の秩序に反しない限り』
という文言が挿入されている。

現行憲法第12条
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを
 保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に
 公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。


自民党改憲草案第12条(国民の責務)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持され
 なければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び
 義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。


現行憲法第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。


自民党改憲草案第21条(表現の自由)
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、
 並びにそれを目的として結社をすることは、認められない


この自民党案第21条の第二項!
こんなものを憲法として認めてしまったら、
将来にわたって禍根を残すとんでもない悪法になりうる。

「『公益』『公の秩序』を害することを目的としている」と判断し訴追するのはだれか。
およそ国の側であろう。
例えば、国民が今、集団的自衛権行使を認める安保法制を含む安倍政権の
強硬的やり方に反対して、国会前で何万人が集まる。その集会が『公の秩序を害する・乱す』と
当局によって恣意的に判断されかねないことになってしまうのである!!!


現に、3年前の2013年、当時の自民党幹事長石破茂氏が、秘密保護法反対を
訴えて国会前に集まった人々を、『単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質において
あまり変わらない手法に思います』
とブログに書き、当然国民から猛反発を受けて
撤回したことがある。また、一年前、強力な安倍氏シンパである作家百田尚樹氏が
自民党の若手勉強会に出席して、本人は冗談だったと言うが、『沖縄の二紙は
厄介だから、つぶれたらいいのに』
と言ったことは記憶に新しい。

これらの自民党議員及びそのシンパの発言は、この現行憲法21条が国民に保障した
『表現の自由』の概念を根本から否定するものであって、そういう考えをもった人々が
この21条を、自民党改憲案のようなものに変えようとしているのである。

石破大臣の発言は、『デモ』『集会』と言う、国民がわずかに直接政治に意思表示できる
機会である、憲法に保障された行為を、『テロ』という犯罪行為と同等視するものであって、
戦前の『治安維持法』の発想と近いものであることを自覚していない。

また。百田氏の発言は、彼のみならず、その場にいた自民党若手議員らの『報道の自由』
に対する認識がその程度か、と言うことを示すもので、ほんとうに情けない。

安倍政権になって、事ごとに、テレビ新聞などの報道に政権側の人々からクレーム
等が入れられるということが多く目につくようになった。
彼らの言い分はこうだ。
『報道は偏向せず中立であるべきだ』『政府側にだって発言の自由はあるはずだ』
確かに。
だが。
同じ表現の自由ではあるが、国民の側が権力に対して自由にものをいう権利を
持つということ
と、権力側にある者がジャーナリズムに対し『報道に中立であれ』と言う
ことでは、その重みや意味するところが全く違う。

前者は、国家が暴走しないようにするためにいくつかの歯止めがある(三権分立などもそうだ)
その大事なしかも、言って見れば究極的な、最後の砦であるのに対し、
後者は、その権力の座にある者からの『圧力』と取られかねない発言であり、
それは国民に与えられた『言論の自由』『報道の自由』を含む『表現の自由』への介入に
一歩間違えば陥りかねないものである。


その要請?自体は、その時は何の拘束力も持たない無害なものに見えるであろう。だが、
権力の側から『中立であれ』と言われることは、報道する側・国民の側には圧力となり、
それは自然、妙な『忖度』の空気を社会に生んでいく。
やがてそれは、別に誰がなにも直接命じていなくとも、『また、トラブルになると面倒だから、
何も言わないでおこう』『深く追及しないでおこう』『余分なことは言うまい、すまい』…という
『自粛の空気』を、社会に蔓延させてしまう。
そうして。そうやって、ジャーナリズムが黙り込む…、国民がものを言いにくくなる…面倒なことを
考えるのはやめる…と言うことの果てに、一体どんな社会が来るであろうか。



話を、近衛らの憲法改正要綱に戻そう。
佐々木惣一らが作ったこの要綱に、
『一、現行憲法(註:大帝国日本憲法)に規定されてゐる臣民の行動上の自由は
法律によつて初めて与へられてゐるやうな感があるが
、この印象を払拭し
国民の自由は法律に先行するものであることを明らかにする』 
とある。その、
私が下線を引いた箇所は、重要である。
つまり、近衛らは、国民の自由は法律(≒国家)によって与えられるものとする、
すなわち国家が許す範囲において自由を認めるとする大日本帝国憲法の考え方
を否定し、『国民の自由が国家に先行するのだ』、という民主主義の根本を認識している

ということがここでわかるのである。
国家が作る法律が許す範囲に置いてのみ自由があるのではない、すなわち『人間は
生まれながらにしてさまざまな権利を持っているのだ』とするいわゆる『天賦人権論』
の立場に近いものを、ここで取った、ということになる。

ここで、大日本帝国憲法の条文の一部を掲げてみようか。
近衛が言うところの『現行憲法(註:大帝国日本憲法)に規定されてゐる臣民の行動上の
自由は法律によつて初めて与へられてゐるやうな感がある』に該当する条文である。

第22条日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス
第25条日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及捜索セラルヽコトナシ
第26条日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ
第27条日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ
2 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第28条日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
第29条日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス
第30条日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得



どうだろう。皆さんも、あまり、大日本帝国憲法などご覧になる機会は多くはなかった
のではないだろうか。どうお思いになりますか。
この憲法にも、自由権はなかったわけではない。だが、ことごとく、『法律ノ範囲内ニ於テ』
という制限が付き、また『法律ニ定メタル場合』は、当局による住居の捜索も信書開封も
我慢せねばならず、所有権さえ、公益のためと当局が法の下判断すれば、侵されて
しまうのである!


皆さん、このことよく覚えておいてくださいね。
とりわけ、この条文の第二項。
第27条『日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ
2 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル


自民党安倍政権が、東日本大震災や熊本・大分大震災を例に挙げて必要性を説き、
また、中国や北朝鮮からの侵略の危険性をしきりに煽って国民に危機感を抱かせれば
納得させやすいと考えているのか、改憲でまず手をつけようとしている『緊急事態条項』は、
まさにこれに近いもの
ですからね!!

自民党憲法改正草案第99条(緊急事態の宣言の効果)
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、
当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置
に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。



ここで、もう一度近衛~佐々木惣一、高木八尺らの憲法案にもどってみよう。

(iii)一、非常の場合、国民の権利を停止する所謂非常大権はこれを撤廃する

『非常大権』をやめる、と言っている!
『非常大権』とは、大日本帝国憲法第31条によって天皇に認められた、非常時における
天皇大権の1つである。
『「戦時または国家事変時」において(主権者である天皇の)天皇大権によって
大日本帝国憲法が定めた臣民の権利・義務の全てあるいは一部を停止しうる

とするもの。大日本帝国憲法第二章第31条にあった。
近衛案も、そして幣原らの松本私案もこれを撤廃する、と言っている。
(ただし、これにより天皇に与えられていた大権がすべてなくなったわけではなく、近衛案では、
『天皇の憲法上の大権を制限する主旨の下に、緊急命令は、憲法事項審議会に諮ること
とし、天皇のその他の憲法上の大権事項も帝国議会の協賛を経て行い得ることとす』
と、している。)

ところが、それから70年も経て、歴史に学んで少しは賢くなったはずの現代のわれわれは、
またぞろ、この『非常大権』に似た『緊急事態条項』を、憲法に復活されようとしている
のである。
緊急事態条項については近いうちまた別個に書く。

順序が逆になったが、近衛らの『帝国憲法改正要綱』では、
(ii )一、外国人は自由に対し種々の制限を受けてゐるが外国人も本則として日本臣民と
  同様の取扱ひを受けることを明らかにする。

と言う極めて先見的な条項も付け加えられている。
これはしかし、近衛がGHQの意を汲むのに敏、と言うより生き残りに必死であった
ところから生まれた文言かもしれない。ここでいう『外国人』のイメージに、果たして
日本兵士と同じように亡くなったリ傷病兵となった朝鮮半島などの兵士たち、そして
慰安婦たち、中国・半島からの強制労働者たちなどに対するものが入っていたか
ということは疑問だ・・・
外国人の権利は、現行日本国憲法にさえも文言としては盛り込まれていない。
ただ、憲法が保障する諸権利は、概ね、日本に住む外国人に対しても守られる。
(ことに一応はなっているが、実際はどうだろうか。そうはなっていないことは、
朝鮮半島の人々に対するこれまでの処遇のありようや、例えば、アジアからの
研修生に対する処遇などを見れば、決して日本人同様に保護されているとは言い難い。)

ここで一応断っておくが、私は近衛を評価しているというわけではない。彼が総理として
決断したことが、どれほどの悲劇を国内外にもたらしたか・・・。
ただ、近衛が佐々木惣一らと作ったこの『帝国憲法改正要綱』が、大日本帝国憲法を
振り返るにも、幣原内閣が出した『松本委員会試案』と比べるにも、またマッカーサー・ノート
を語るにも、現行憲法を語るにも、現在の自民党改憲草案を語るにも、そのいずれからも
ちょうど等距離と言うかいい位置にあるので、これをたたき台として憲法を語っている、
だけのことである。

話を戻して。その他の部分の自民党改憲草案はどうなっているだろうか。
先述したように、自民党案では、前文、第3条(国旗及び国歌)、第9条の3(領土等の保全等)
第12条(国民の責務)、第13条(人としての尊重等)、第21条(表現の自由)、
第24条(家族、婚姻等に関する基本原則)、第25条の2(環境保全の責務)、第28条(勤労者の団結権等)、
第29条(財産権)、第92条(地方自治の本旨)、第98条(緊急事態の宣言)、
現行憲法第97条(最高法規)の丸ごと削除、
極めつけは、第102条(憲法尊重擁護義務)の新設
など、いたるところで現行『日本国憲法』で保障された国民の諸権利を、
『公益および公の秩序に反しない限り』と言う文言を加えて制限し、
また新たに『義務』として課す条項を増やすという、とんでもない改悪

が行われようとしているのである。


つまり、この自民党改憲草案に満ち満ちている思想は、『国民の自由、諸権利は、国家の
許す範囲で認められる』という、まるで、大日本帝国憲法に大きく逆戻りするもの
である。
近衛案さえもが、『国民の自由は法律に先行するものである』と明記しているその
1945年の草案よりも、自民党案ははるかに前時代的なものと
なっている
ことを、皆さんに覚えておいて欲しい。

一般に、改憲論をかまびすしく言いたてる人々が『国家』『美しい国』などと
いう言葉で盛んに言い表すものは、無論のこと、実態のある生き物ではない。
要は、『国家権力』を行使しうる立場にある者、つまり政治家、高級官僚、財界人その他
政官経学…一部宗教界もそうか…など社会の中枢の座にある者が、自分の権力を
さらに持続させるために、その価値観や利益に関わる判断を、『国家』という美名で
押しつけているのに過ぎない。

今の政治のあらゆる状況を見ていれば、そのことは明白に見えてくるではないか。




そんな人々のために
今の憲法を、自民党案のような劣悪なものにしたいですか?




美しい国


上下二枚の写真は、琉球新報さん、河北新報さんからそれぞれお借りしました。

これが、権力者のいうところの『美しい国』、の実際である・・・・・・。





美しい国② 




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『日本国憲法をなぜ守りたいか その8 押しつけ憲法?③』

Q8:近衛文麿が佐々木惣一らと作った『帝国憲法改正要綱』
ってどんなものだったの?


3つ前の記事で書いたように、東久邇宮内閣の国務大臣近衛文麿は、マッカーサーに
憲法改正の示唆を受け、憲法学者佐々木惣一、高木八尺らと憲法草案を作ることに着手。
しかし、幣原内閣に変わって、近衛は大臣職を失い、彼自身が戦犯として訴追される
恐れが出て来て、そういう人物に憲法草案を作らせることを回避しようとしたか、
GHQに突如はしごを外された。
それでも近衛は、一応草案を完成させ、1945年11月22日、天皇に奏答している。
だが、近衛は、12月6日に、やはりGHQからの逮捕命令を出され、A級戦犯として
極東国際軍事裁判で裁かれることが決定。12月16日に、青酸カリを服毒して自殺した。




The_3rd_Konoe_Cabinet.jpg
1941年7月18日。近衛第三次内閣。写真はWikipediaよりお借りしました。
海軍の軍服三名、陸軍二名の姿が見える。第三列に陸軍中将・陸軍大臣東条英機の姿も。
この内閣の与党・支持基盤は、『大政翼賛会』であった。すでに第二次近衛内閣の時の、
40年7月26日に近衛内閣は『基本国策要綱』を閣議決定。大東亜共栄圏の確立構想を発表。
全政党を自主的に解散させ、8月、日本に政党が存在しなくなり、これをもって日本の
議会制政治は死を迎えていた。




公爵近衛文麿は、一人の人間としては興味深い人物である。
だが。間を置いて3期務めた内閣総理大臣時代に、1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに
日中戦争(支那事変)勃発第二次上海事件。中国との全面戦争に突き進んでいく…。
大本営設置。12月南京攻略。翌1938年5月国家総動員法施行。
1940年9月日独伊三国軍事同盟締結。10月大政翼賛会の発足。
1941年7月。関東軍特種演習を発動。中国戦線も泥沼化した中で日本軍は、
対ソビエトの北方作戦、同時に南部仏印への進駐と、両面作戦を強いられることになる。
南部仏印進駐はアメリカの対日石油全面輸出禁止等の制裁強化を生み、
これにより日米開戦はさらに近づく…
9月、近衞はようやく日米首脳会談による解決を決意し駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと
極秘会談するも、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示す。
開戦の決断を迫られた近衛は、10月、政権を投げ出し内閣総辞職東條が次期首相となる。

近衛の内閣の時に、ざっと挙げただけでもこれだけのことが起きている。まさに日本が
アジア侵略に突き進み、アメリカを中心とした連合軍との全面戦争にいよいよ入っていく
時代の、日本の首相、まさに一番の当事者であった。
太平洋戦争末期、近衛は早期停戦に向けて動き、自分の内閣下で戦役が拡大していったことを
軍部のせいにしようとしたが、それは通らない。総理である彼の決定の下で、どれほど多くの
他国自国の民が命を失ったことか・・・・・・・・・。
近衛は結局戦犯の指定を受けて、その前に自死するのである。

それでは、その近衛が作成した憲法草案『帝国憲法改正要綱』はどういうものであったか。
若き日、マルクス経済学に接し河上肇に師事して社会主義思想を学んだこともあった
青年華族は、後に、ゾルゲ事件などもあって強烈な共産主義恐怖者となり、ソ連侵攻と
日本の赤化を恐れるゆえに、アジア・太平洋戦争の早期終結を望むことになる。
戦争が長引けば、ソ連が参戦してその発言力影響力が増し、同時に疲弊した民衆の間に
共産主義思想が入り込みやすくなっていくのではないかということ、日本の赤化を
異常なほどに恐れたのである。



その近衛が、GHQの望むような民主化を素早く行っていけば、日本占領にソ連が加わることを
阻止でき、国体も護持できると考えて、GHQの望むような憲法草案を早く作ろうと
熱心になったのは、自然な流れであった。
『国体護持』と言いつつ、異様なほどの共産主義恐怖から来る自己保身の想いもあったか
近衛という国家責任者の罪と人格と動機はともかく、近衛が佐々木惣一や高木八尺の
助けを借りて作った『帝国憲法改正要綱』は、結果的には幣原~松本ら政府側の
対応よりもはるかにGHQの意を汲んだものになっていた。
ただし、当然のこととして『国体護持』『天皇主権』の考えは、大日本帝国憲法から
一歩も出てはいなかった。もとより『軍』の解体なども頭には無い。


既に公人の立場を喪失し戦犯容疑のかかっていた近衛の改正案は、GHQに
取り上げられることもなく、天皇から幣原内閣に下賜されたが幣原・松本烝治らによって
参考にされることもなく終わった。この案が、国民に知らされたのは、近衛の自死の
5日後の12月21日毎日新聞の記事によってであった。

だが。この近衛、佐々木惣一や高木八尺たちによる『帝国憲法改正要綱』には、見るべき
点もあったように思う。その全体はこちら『帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱』
で見ていただくことにして、その中の注目すべき項目をいくつか挙げておこう。

『今囘の敗戦に鑑み帝国将来の進運を図るため帝国憲法を改正する必要あり、
 解釈、運用のみに俟つは不可なり
と認む』
との根本方針を掲げていたこと。
 この点で、明治憲法の小手先の小さな改正で済むと考えていた幣原内閣よりも、
 GHQの意向をより正確に理解
していた。
『天皇は統治権の総攬者であり同時に行使者であるが、その行使は万民の翼賛
 によることを特に明記する(新条文)

 『天皇の統治権行使は万民の翼賛による』という文言も、ポツダム宣言以降アメリカ政府、
 GHQが再三にわたって『対日基本方針』として日本側に指示を出していた、
 『日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される』という文言の意図を、
 幣原~松本ら当時の内閣の面々よりもよく理解していた
ことを示すものである。
 ただし、この日の毎日新聞の社説が言う通り、そもそもこの『天皇の統治権』が存在する
 こと自体が、この案の根本的欠陥である。『これがある限り、将来疑義の因となり、或は
 再びまた反動的分子の悪用するところとなる惧れがある』

 さらに毎日新聞は、高野岩三郎、鈴木安蔵ら民間人の憲法研究会の「憲法草案要綱」
 を例に挙げ、天皇は単に『栄誉の淵源として国家最高の地位にあり、国家的儀礼を司る』
 また『天皇は内外に対し国を代表す』というように、天皇の職務の限界を憲法で明確にしておく
 ことの必要
も言って、近衛案をなまぬるい、と批判している。

③ その他、近衛案では、天皇の権限をできるだけ制限し、一方議会の権限を強化する
  条項
が数多く見られる。
  この点に関しても、上記毎日新聞の社説では、
  民主主義政治の実現のためには、議会の権能を強化することが前提要件であると
  考えるのはよい。しかし、現に、わが国の軍閥は今日まで如何に議会に対して
  憲法違反的抑圧を加へてきたことか。議会の法文上与へられた権能も、軍閥が
  国家国民に強制した誤れる思想の前には、事実上無効に帰した。

  議会というものは民主主義政治思想が国民の間に完成した上で
 なければ脆いものである。

 と、正論を吐いている。

これなど、今の日本の、投票率の低さや行きはしても人気投票的な投票行動など
国民の政治に対する意識が希薄であること、また政治家自身の「自分たちは政治を
一時的に任されているにすぎない」という『代議員』としての厳しい自覚のなさ、
などによって、『民主主義制度』そのものが脆弱さを見せているとき、非常に耳の痛い
言葉ではなかろうか。


何を偉そうに!朝日も毎日も…新聞は、その少し前までは、戦争翼賛体制のお先棒を
率先して担いでいたのじゃなかったか!…確かに。
だが、その新聞をその方向に押し出したのは、当時の『世論』というもの。つまりは
国民自身であったのである。
私たち今の人間は、これらいやというほど戦争の惨禍をわが身で経験してきた
先人たちの行動や言葉をもう一度見直して噛み砕き、それらの痛切な経験に十分に
学んでいるとは言えない今の状況を深く顧みてみることこそが必要なのではないかと、
私は思うのだ。

そうやって学ぶことに、『右』だの『左』だの関係あろうか。

すぐに続けて、近衛らの改憲案そのものに学ぶべきことはないかどうか、書いていく。





『日本国憲法をなぜ守りたいか その7 押しつけ憲法?②』


前の記事で、極めて大雑把ではあるが、ポツダム宣言から日本国憲法施行までの
流れを書いた。
今度は少し、詳しく書いていこう。

Q7:アメリカ側の対日政策はおよそどういうものだったの?

二つ前の記事で、2月4日から12日までの間に憲法草案を書きあげたGHQ民政局の
主な人々の経歴をざっと紹介した。
それをご覧になって、なにかお気づきになられたことはないだろうか。
多くの人々は軍人であり、どの人物も若くはあるが、軍人になる前にすでにかなりの
民間での経歴の持ち主だということは共通しているようだ。
だが。…私が注目したいのは、
彼らの多くが、軍に入って後、『シカゴ大学民間要員訓練所』『ハーバード大学民間要員訓練所』
というような、『民間要員訓練所』というところで一定期間勉強しているという記述である。

『民間要員訓練所』とは何であったろうか。
アメリカでは第二次世界大戦に参戦することが決まって以来、敵国ドイツ、イタリアなどの
あらゆる面の戦略的研究がおこなわれていた。日本についても無論例外ではなく、
多くの日本研究者がOWI(Office of War Information:戦時情報局)やその他の政府機関に
動員されて、日本の軍事面だけでなく、社会のあらゆる側面における文化人類学的
研究を行っていた。
これは、敵国である日本の社会機構や国民性を深く研究することによって、戦場における
日本兵たちや司令部の行動心理や作戦パターンを知り、日本兵の気力を挫くための
プロパガンダや、彼らの抵抗の激しさと限界を知り作戦に応用すること、また
アメリカが戦争に勝った後の日本における占領政策を立案する時の手引とするために、
周到に研究がおこなわれていたのである。
OWI(戦時情報局)の命を受けてなされたこうした日本研究の成果の一つに、
かの、ルース・べネデイクトによる日本研究(後に『菊と刀』と題され、日本でもベストセラーと
なった)があることは有名な話だ。

『Civil Affairs Training Schools:CATS(民事要員訓練所)』も、そのような組織の一つであって、
民事行政に特別な技能を持つ民間人2500名を予備役将校に任命し、民間の大学で
軍政に関する特別講座を履修せしめるというものであった。
1944年には、陸軍は、3ヵ月間の講座を教える民事訓練所を、シカゴ、ハーバード、ミシガン、
ノースウエスタン、スタンフォード、イェール大学などと協力して設置し極東プログラムを
進めていったのである。
GHQには、優秀なスタッフが、戦時最盛期の1948年には、4739名もいたという。
民事行政を専門とする文官の多くは、アメリカの一流の大学から選抜されて,
陸軍や海軍の軍政学校や、この民事要員訓練所(Civil Affairs Training School
:CATS)の短期養成コースに入学して、語学や日本研究以外に、国際法、心理学、
民事行政、政治学について集中的に学んだ。それからさらに,カリフォルニア州に
置かれたCASA(Civil Affairs Staging Area:民事要員駐屯所)で2ヶ月,最終訓練を受けていた。

それらの中でも、マッカーサーの意を受けた腹心ホイットニー准将のもとで
始められた日本国憲法の草案作成に選抜された人々が、どれほど優秀な人員であったか
推して知るべし。

彼らの思想面での志向はどういうものであったか。
ホイットニー准将は、共和党支持の保守主義者であった。しかし、憲法作成の実質的
責任者ケーディス大佐は、ルーズベルトのニューディール政策信奉者であって、
マッカーサーと共に、敗戦国日本で、理想的民主的国家建設の夢を抱いていた。
彼はその10年前にアメリカでとられた社会主義的改革ニューディール政策を
日本にも当てはめられると確信していた。ルーズベルト政権下で、公共事業局、
財務省顧問、臨時国家経済委員会委員を歴任した人物である。
そのケーディスの下、ベアテを含む民政局のスタッフは、若々しい情熱をもって、
当時の世界における最高レベルの憲法を作成しようと立ち働いたのである。
自分たちの手で、当時の世界における最高峰の最先端の憲法が作れることに
純粋に意気込んでいた。思想はさまざまであったが、違いは問題にならなかった。
若いといえども、彼らは日本にとって、結果的に、最良の知性、最良の人選であった、
ということが言えるのではなかろうか。

だから、今の日本国憲法を批判する者が、草案を作ったこれら民政局のメンバーを
『素人集団』と揶揄し、そのことをもって、憲法の内容そのものを軽んじるのは了見の
狭い話である。要するに、出来上がったものが優れているか否か、それが問題なのである。

私は、今回この記事を書くために、いろいろな本などを読みかえしていて、残念なことでは
あるが、『世界を見る目』また『情報戦』という意味ででも、当時の日米政府の、力と意志の
大きな大きな差を感じないわけにはいかない。
軍事面の情報戦、ということに関して、日米間に大きな差があったことは、皆さんも
御承知の通り。日本軍の艦船などの兵力から兵士の糧食そしてその行動パターンに
至るまで、細かく調べ上げていた米軍に比べ、日本は、敵性言語として英語などを
使うことを民間にまで禁止し、天気予報さえ民間に知らせるのは終戦まで原則禁じていた。
このため、昭和17年8月27日に長崎県に上陸した台風により山口県を中心に
1158名が死亡するという悲劇などもあった。台風の予測が出来なかったため
被害が広がったのである。
軍に対しては天気予報は暗号で送られていたし、気象担当士官もいて、命がけで
気象観測をしていたが、それも日本軍の撤退や通信の不良などから、天気図で
観測データが記入されていない範囲がどんどん広がっていく。
一方終戦直前のアメリカ軍は、日本付近の制空権を完全に握っていたため、
飛行機による気象観測結果を暗号を使わずに平文で送信していたので、
日本側は、この送信を傍受し、天気図に記入して利用していた、という情けないような
悲しいような話がある。
自国民を自然の猛威にさらしてまで実施している日本の気象報道管制は
終戦末期には完全に意味をなさなくなっていたのである。

余談だが、太平洋戦争初期の昭和17年3月1日、破竹の進撃を続ける日本軍の前に、
アメリカの南西太平洋方面司令官のダクラス・マッカーサーは、「私は必ず帰ってくる」と
言ってフィリピンを去っている。
その2年半後の昭和19年10月20日、アメリカ軍の主力がレイテ島へ上陸を開始し、
マッカーサーは「私は帰ってきた」と自由の声放送局より第一声を放送。
12月16日、アメリカ軍はルソン島決戦を期して日本軍の虚をついてミンドロ島へ
主力をもって上陸開始をする。レイテ島では米軍残留部隊が日本の敗残兵約1万3千人
と激戦が行われていた。
このとき、台風がアメリカ軍を襲う。この嵐で、アメリカは3隻の駆逐艦が転覆・沈没、
700名以上が死亡した。
徹底した補給が行われ、アメリカ軍の反攻のスケジュールが少し遅れただけで、大勢に
変化はなかった。
ちなみに、当時の日本の天気図には、フィリピンの東海上には低圧部があるだけで、
台風は解析されていない。
台風によって、大きな被害を受けたアメリカ国防省は大きな衝撃を受け、それで
台風情報の重要性を実感。翌年から太平洋の台風についての観測や予報を
行う組織、空軍と海軍合同の組織ができ、それが発展したのが「合同台風警報
センター(JTWC)」であった。戦争が終わり、合同台風警報センター(JTWC)は、
太平洋地域の台風防災に大きな貢献をする。
特に、飛行機を用いた台風の観測は、台風情報の飛躍的な向上をもたらし、台風防災に
果たした役割は大きかった。
これに使われたのが、あの爆撃機B-29を改造した台風観測用のWB-29である。
B-29は、丈夫な機体と長い航続距離、観測機器を積める広いスペースを持っており、
台風観測に適した飛行機であった。
こちらのサイトから引用しました。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nyomurayo/20151218-00052479/


話を元に戻し。
『戦争の終わらせ方』についても、日本は全く考えていなかったのに比し、アメリカ当局は
ルース・べネディクトの研究にも見るように、いずれアメリカが勝利することを
確信したうえで、その終わらせ方、敗戦国日本の処理の仕方までを、周到に
研究・計画していたのである。

●1943年(昭和18年)12月29日。
戦前の駐日大使を経て大戦末期に国務長官特別補佐官を務めたジョセフ・グルーは、
シカゴで演説。日本の軍国主義は徹底的に罰しなければならないが、戦後改革の際には、
偏見を捨て日本の再建と国際復帰を助けるべきだと主張。日本人の天皇崇拝という面は
平和国家再建のために利用できると主張している。さらに、天皇主権の明治憲法は改正され、
日本に議会制度を再建し政党制度を確立する必要性を論じている。

●1942年(昭和17年)。
国務省では、戦後政策を検討する特別調査部領土小委員会に1942(昭和17)年8月極東班を編成。
翌1943年7月には極東班での研究を踏まえ、米国の基本方針をまとめた
「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」を作成。
1944年3月。「米国の対日戦後目的」を作成。それは、2月に陸軍省と海軍省が国務省に対して
行った極東地域の占領統治に関する質問に対する回答であった。対日宥和的であった。
第一段階では海外領土の剥奪や武装解除などの厳格な占領、第二段階では緊密な監視下での
軍国主義の一掃と民主化、そして第三段階では日本の国際社会への復帰が想定されていた。
対日占領政策の「原型」ともいうべきこの文書をもとに、のちの「初期対日方針」が作成された。
同年12月。国務省・陸軍・海軍の三省調整委員会、通称「スウィンク(SWNCC)」が設置され、
ここでの決定が占領軍の政策となった。

十分かつ綿密な日本研究と、激しい議論の後にまとめられたこうした対日占領政策。
それは、マッカーサー個人の占領政策に対する考えとも一致し、アメリカの意思は
ポツダム宣言を経、その後も頻繁に発せられた対日方針によって、日本側に繰り返し
繰り返し伝えられていた。
すなわち、徹底した武装解除と軍国主義思想の排除。民主主義思想の普及と文民政府の樹立、
そして日本の国際社会への復帰という計画である。
天皇の処遇については、戦争中の詳細な日本研究の結果からも、日本人民の天皇崇拝を
利用して、戦後日本の占領政策を進めた方がいいという考え方がGHQの大方の意志であった。
昭和18年のジョゼフ・グル―の演説に見る通り、まだ日本の戦争中のかなり早い時点で、
アメリカは、日本占領統治のために天皇を利用するという考えをもっていたことを
ここで一応確認しておきたい。



浅間丸

これは、1944年(昭和19年)にアメリカ海軍が作成した、"Japanese Merchant Ships Recognitional Manual"
日本の商船の船体などの認識マニュアルである。
http://archive.hnsa.org/doc/id/oni208j-japan-merchant-ships/index.htm

何の目的で作られたかは言わずとも明らかであろう。
開戦に至るまでの期間、米国は日本側のあらゆる情報を収集していた。
パナマ運河やチェサピーク湾を通過する日本商船を右舷・左舷・平面と三方向から、
有事の際に役立たせる目的に撮影していたのである。戦争が始まると撮影した写真を
基に攻撃対象の船舶であることを認識する情報として陸海軍の航空部隊や各種艦艇に
提供していた。

いつか別の記事にしたいが、これも見てほしい。
太平洋戦争中に沈没した日本の民間船舶の名前と位置である。

日本船舶
http://www.nyk.com/yusen/kouseki/200812/








調べていて、しみじみ思う。
アメリカという国は、大変に寛大で民主的な国ではあるが、またその一方で、
底知れず恐ろしい国でもある。
敗戦国日本の指導者たちは、『自分たちが完膚なきまでに戦争で打ち負かされたこと』
その『敗戦国としての自分たちの立場』『アメリカが要求していること』に対する、しっかりとした
認識が果たしてあったのであろうか…

今なお、一部の人ではあるが、
『日本はアメリカに負けたのであって、中国や朝鮮に負けたわけではない』などと
強がりを言う者がいる。
だが、なぜ、日本はアメリカと、あの無謀な戦争を戦うことになったのか。
日本が、『自衛のため』と、アジアに侵略の手を伸ばして行かなかったならば、
アメリカと戦うこともなく、原爆を落とされることもなかった…沖縄も…

ほとほと戦争は嫌である。
軍備によるのではない、戦争を避けるための知恵を、世界の国々と共に駆使すること。
日本国憲法が高らかに歌いあげた人類の理想は、まだ達成には程遠いばかりか
逆に遠ざかって、再びきな臭い風が吹いている…。
いましも、三重県志摩でG7サミットが開かれているが、会議を成功させて選挙に
役立て改憲に必要な議席数を衆参両院で手にしたいとたいと思う安倍氏の
引っ張っていきたい方向と、他の国々の思惑は微妙に異なっているようである。
テロとどう向き合うか。難民問題をどうするのか…、
アメリカ以外はあまり関心を示さないであろうが、アジアの安定をどう守るのか…
テロ問題や国際紛争は、武力では解決しない。武器によっては、世界の不幸は絶対に解決しない。
そのことは歴史が示しているではないか!

安倍政権の下、防衛省は、2016年1月29日。民間船員を予備自衛官とし、有事の際に
活用することを計画。これに対し、全国の船員で作る労組の全日本海員組合が29日、
東京都内で記者会見し、「事実上の徴用で断じて許されない」とする声明を発表した。
防衛省は「強制はしない」としているが、現場の声を代弁する組合が「見えない圧力が
かかる」と批判の声を上げた。
 防衛省は、日本の南西地域での有事を想定し九州・沖縄の防衛を強化する「南西シフト」
を進める。だが、武器や隊員を危険地域に運ぶ船も操船者も足りない。同省は今年度中にも
民間フェリー2隻を選定し、平時はフェリーだが有事の際には防衛省が使う仕組みを作る。
今年10月にも民間船の有事運航が可能となる。
一方、操船者が足りないため、民間船員21人を海上自衛隊の予備自衛官とする費用を
来年度政府予算案に盛り込み、有事で操船させる方針。


http://mainichi.jp/articles/20160130/k00/00m/040/091000c










『日本国憲法をなぜ守りたいか その6 押しつけ憲法?①』



Q5:日本国憲法って、日本人が作ったんじゃないの?GHQの押しつけなの?

改憲を叫ぶ人々の持ちだす大きな論点の一つが、
「現日本国憲法は、日本人が作ったものじゃない。GHQに押し付けられた『みっともない』憲法だ」、
ということである。
公平に言って、『GHQの押しつけ』の要素は否めない、と私も思う・・・。
だが。なぜそうなった?
皆さんとっくにご存じのこととは思うが、日本国憲法が生まれるまでの動きを復習してみよう。

実は、この記事は、あまりに煩雑なので、書いてはみたもののボツにしようかと考えていたものである。
だが、この後の記事を書いていくのに、やはり、日米の憲法に関連した動きは、抑えて
おかないと、理解が浅くなるかなとも思ったので、一応載せておく。
憲法改正を巡る、日米の人々の激動の1年余の記録である。
ここに取り上げたのは、実はほんの一部にすぎない。マッカーサーのGHQと
アメリカ本国の間には、頻繁な指令のやり取りがあったが、ここでは取り上げていないし、
GHQが、日本政府に出した指令も全部は書いていない。
それでも、これをざっと見ただけで、ポツダム宣言受諾から日本国憲法制定までの
慌ただしい動きがおよそわかっていただけるだろう…
とりわけ、1945年9月、マッカーサーが日本側に憲法改正の示唆を出してから、
翌年2月、部下のベアテなどを含む民政局スタッフに急遽、憲法草案を作成するように
命じた5ヶ月間の間の日本側の反応や動きを中心に取り上げてみたい。
当初日本側の自発的な改憲の動きを期待して、ほとんど静観を続けていたGHQが
なぜ、急に自分たちで草案作成に至ることになったのか。


                  ***


日本は戦争に負けた。
1945年8月14日  ポツダム宣言受諾。
 ポツダム宣言は、日本の無条件降伏と日本軍の完全な武装解除軍国主義の駆逐
 戦争犯罪人の処罰民主主義的傾向の復活強化と、これを妨げるあらゆる障碍の排除
 言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重の確立、など13の項目からなっていた。
 これに対し、日本側が出したぎりぎりの条件は、国体護持、すなわち、明治憲法と変わらぬ
 天皇の地位身分の保証である。だが、米国務省からの返事は、
 『日本国の最終的の政治形態は、ポツダム宣言に遵い(したがい)日本国民の
 自由に表明する意思により決定せらるべきものとす
』という、極めて含みのあるもので、
 国体護持は保障されたとも否定されたとも言えないものであった。日本側では、これを、
 国民がそれを望めば国体は護持される、と解釈して、その後の改憲などもろもろの事案の
 考え方に甘い見通しや対応を残す原因となっていく…


8月15日  玉音放送。
8月17日   東久邇宮稔彦内閣成立(副総理格に近衛国務相)。
8月28日  東久邇宮首相、記者会見で国体護持全国民総懺悔を呼びかけ。
8月30日  連合国最高司令官マッカーサーが厚木に到着。
9月2日  東京湾の米戦艦ミズーリ上で降伏文書に調印。
9月6日   トルーマン、「初期対日方針」(SWNCC150/4)を承認し、マッカーサーに指令。
        これは、占領の究極目的として、平和的で責任ある政府の樹立と自由な国民の意思
        による政治形態の確立
をうたっていた。
9月9日   マッカーサーは、日本管理方針を発表。
        『天皇陛下及び日本政府は、マッカーサー元帥の指令を強制されることなく
        実施するためのあらゆる機会を提供される
。日本の軍国主義及び軍国的
        国家主義の根絶は、戦後の第一の目的であるが、占領軍の一の目的は、
        自由主義的傾向を奨励することである。』

9月18日  外国人記者会見で、東久邇首相は、『憲法改正の用意はあるか』
        尋ねられた時、『内閣はGHQの矢継ぎ早な要求の対応に追われて、内政面
        においてどんな改革を行うべきか、そんなことを考えている余裕はない』と
        答えている。つまり、この時点で、日本側に憲法改正の必要性の認識や、
        ましてや国体の変更可能性への認識はおそらくなかったらしい。
9月21日  朝日新聞が『終戦政治の基本的動向』という記事を書き、憲法改正問題に触れた。
        陸海軍の解体で、大元帥陛下の軍隊指揮権に関する大日本帝国憲法第11条、
        第12条は空文化した。このことは、国家基本法(憲法)の再検討にまで発展
        していくだろう、と、指摘
したのである。
同日     これを見たか、内大臣木戸幸一は松平秘書官長に憲法改正問題につき、
        調査を依頼。
        だが、大方の要人や識者は憲法改正の要については、根本的変革などは
        もとより考えても見ず、解釈変更や追加的法整備で間にあうだろうと考えていた
ようである。
        ポツダム宣言にある『(日本の)民主主義的傾向の復活強化』の文言を、
        「GHQは、明治憲法下においても大正デモクラシーの時代など日本にも
        民主主義の時代はあった』と考えているのだと解釈
し、大きく変える必要はあるまい、と。
       ●国務大臣小畑敏四郎元陸軍中将の言葉。『憲法より急を要するl問題がある。
        GHQが日本の内情を全然知らずに占領政策をやるとなると間違いが起こる。
        すべては、占領政策の基本方針が何か、それを確かめてからでいい。こっちから
        急いで憲法改正などをいうよりは、そっちの方が大事だと思う』

しかし。
10月3日。 東久邇宮内閣の山崎巌内相が『思想取締の秘密警察は現在なお活動」中であり、
        共産党員は拘禁を続けると公言。そして『政府形体の変革とくに天皇制廃止を
        主張するものはすべて共産主義者』
だと語る。これは明らかにポツダム宣言の
        趣旨に反する発言であり、GHQの、日本民主化の方針に背く発言
である。

10月4日  これに反応してか偶然にか。GHQが『自由の指令』を発令。
        『政治的民事的及宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書』である。
        ①政治犯の10月10日までの釈放 ②思想警察など一切の類似機関の廃止。
        ③内務大臣及び警察関係の首脳部、弾圧活動に関係のある官吏の罷免
        ④市民の自由を弾圧する一切の法規の停止。などである。

 同日。   マッカーサーが近衛文麿に憲法改正を示唆(と近衛はとった)。
        近衛は実は、●印で引用した、友人国務大臣小畑敏四郎元陸軍中将の、
        『GHQの意向を確かめた方がいい』という言もあって、この日、GHQを訪ね、
        マッカーサーに面会したのである。
        この日のマッカーサーの発言は、近衛に同行していた通訳奥村勝蔵によって
        記録に残されている。マッカーサーはこう発言した。
        『第一に、憲法は改正を要する。改正して自由主義的要素を十分に取り入れ
        ねばならぬ。第二に議会は反動的である。しかし、解散しても、現行選挙法
        の下では顔ぶれは変わっても、同じタイプの議員が出てくるだろう。それを
        避けるためには選挙権を拡大し、婦人参政権と労働者の権利を認めることが
        大事である』

        『日本政府が合理的な手続きで、必要な処置を講ずることを希望する。しかも
        できるだけ早くしなければならない。でないと、摩擦を覚悟しても、われわれが
        これをやらねばならなくなる』

         だが実はこのマッカーサーの発言は、H・E・ワイルズ『東京旋風』によれば、
          近衛が『政府の構成について何か意見があるか』と問うたのを、通訳が
          『構成』という語をconstitutionと訳し、それをマッカーサーが『憲法』の意と
          とった、という話もあるという。ワイルズは、後に民政局において、あの憲法案
          起草にもかかわっている人物である。

         近衛はマッカーサーが、憲法改正草案を作成することを自分に示唆したととり
         動き出す。
    
10月5日  前日のマッカーサー『自由の指令』に反発した東久邇宮内閣は総辞職。
10月8日  近衛は、法学者高木八尺を同行して、GHQ政治顧問アチソンを訪問。憲法改正
        について助言と示唆を求める。そして木戸内大臣を訪ねて、早くこちらから
        憲法改正を行わないとGHQから改正案を突きつけられる恐れがあると警告する。

10月10日 近衛は内大臣御用掛に任じられ、天皇から、憲法改正について研究調査を
        命じられる。これを受け、近衛文麿は、元京都帝国大学教授佐々木惣一に
        改正案の起草を依頼
する。

10月11日 幣原は、近衛のことを聞き驚愕。大日本帝国憲法を改正するなどとんでもない
        と怒る。国務大臣で商法の権威松本烝治は、「近衛ら宮内省や内大臣府が
        憲法改正問題を扱うなどとんでもない。改正の発議は内閣の輔弼において
        なされるべき問題である」と反発。厚生大臣芦田均も速やかに内閣の手で
        憲法改正の調査を行うべきと発言。
10月12日 政府は憲法問題の調査にあたることを決定。松本烝治が専任相に任命さる。

以降、幣原~松本烝治の内閣主導の憲法改正の要否研究の動きと、近衛~佐々木惣一の
内大臣府主導の憲法草案作成の動きとが、競い合う形となる。

10月21日 近衛は外国人記者団との会見で、天皇退位の可能性を示唆。だがすぐに撤回。
10月25日 幣原内閣は松本烝治を委員長とする『憲法問題調査委員会』を設置。
        ただ、松本らに本気で明治憲法を改正する意図など無かった。
        近衛らの動きに対抗したのに過ぎない。
        松本委員長は「直ちに改正案の起草に当たることは考えていない」と談話。       
        『憲法問題調査委員会』という名称にしても、『改正』などという語を使っていないのは
        『ただちに改正を意図するものではなく、改正する必要があるか否かを調査する
        ものである』という彼らの認識のありようを示していた。
        松本は『たっぷり時間をかけた方がいい、早くやろうとすると行き過ぎのような
        ことが起こる』と、発足時からすでに消極的であった。
11月1日  GHQが声明発表。連合軍当局は近衛の憲法改正を支持していない。
        近衛は、東久邇内閣総辞職によって、副大臣職を解かれているので、
        今はその任にない、と。
        この近衛に対する梯子はずしの裏には、ワシントンから送られてきた戦犯
        リストに近衛の名が入っていたことがあったという。
        それでも、近衛~佐々木惣一は大綱を完成させている。それは、GHQの
        意向も理解してとりいれたものであったという。天皇の統治権については、
        GHQの意をくんで、万民の翼賛による旨を明らかにしていた・・・・・・

幣原~松本のいわゆる松本委員会の審議は、基本、明治憲法の手直しでなんとか
切り抜けられるであろうという、甘い見通しに立った議論
であった。しかも、極秘のうちに
行われていて、近衛らのようにGHQの意向を確かめつつ、などということも一切なかった。

また、当時活発に作成されていた民間などの憲法草案を参考にすることもなかった。
彼らは、ポツダム宣言の際の国務省からの回答『日本は国民の自由に表明せる意志によって
政府の形態を決定することが出来る』という文言を拡大解釈して、憲法も明治憲法の
手直しで済むと考えたのである。 

11月22日 近衛が、佐々木惣一と作成した『帝国憲法改正要綱』を天皇に奉答。
11月24日 憲法問題調査委、第4回総会で各委員が改正試案を起草することを申合せ。
12月8日  松本烝治、衆議院予算委で『憲法改正四原則』表明。
        これは、第一原則として『天皇が統治権を総攬せらるる原則に変更がない』
        としてあって、明治憲法を相変わらず手直ししただけのものであった。

        例えば、明治憲法の天皇条項の、天皇は『神聖ニシテ冒スべカラズ』という
        文言を、『至尊ニシテ冒スべカラズ』と、わずか一語を変えるというような。

だが、憲法問題調査会が、GHQの意向を探ろうとも真剣に汲もうともせず小手先の
解釈で終始しようとしている間も、実は、アメリカ本国の世論は、天皇の地位をめぐり、
天皇の戦争責任は免れないという相変わらず厳しい認識を示しており、
ワシントンの国務省・陸軍省・海軍省の三省調整委員会では、下部の極東小委員会
において、天皇の身柄・処分について、激しい論議を積み重ねていたのである。
トルーマンは、10月、
アメリカ政府は、「裕仁天皇は戦争犯罪人としての逮捕、裁判、処罰から全く免責
されたわけではない」と考える』『裕仁天皇なしで、占領がうまくいくと判明したときは、
天皇の裁判問題は当然に提起される
』という厳しい前提の下、天皇に国際法違反の
責任があるかどうかの極秘調査・証拠集めをマッカーサーに指示し、最終判断を
マッカーサーに委ねることにするのである。
日本の幣原~松本らは、こうしたアメリカ側の厳しい認識も知らず、国体護持
という不文律から一歩も出ず、甘い期待の下、相変わらず小手先の解釈議論を
悠長にやっていた…

12月16日  戦犯指定を受けた近衛、服毒自殺。
12月26日  憲法研究会が「憲法草案要綱」を発表。
        これは、民間の憲法研究会で出されたいくつもの試案を、戦前から左派の立場で
        憲法史研究を続けていた鈴木安蔵がまとめるかたちで作られた、民間人発の
        憲法草案
であった。 
1946年1月1日 昭和天皇が「人間宣言」を行う。

2月1日  毎日新聞が「松本委員会試案」をスクープ。
        これをもって、マッカーサーと民政局の側近は、日本にはポツダム宣言の要求を
        満たすような草案を作るような意志も能力もないと判断。
GHQが作って日本側にたたき台として
        示すことを決定するに至るのである。



毎日スクープ


 
2月3日  マッカーサーが3原則を提示、民政局にGHQ草案の作成を指示。

2月8日  日本政府がGHQに「憲法改正要綱」を提出。
2月13日  GHQは要綱を拒否、日本側にGHQ草案を手渡す。
        ホイットニー准将と側近の三人が外務大臣公邸を訪れ、松本烝治と吉田茂に
        GHQ草案を差し出す。日本側は、ホイットニーらが、2月8日日本側が出した
        『憲法改正要綱』について話し合いに来たものだとばかり思っていたので驚愕
        するのである。GHQ側は、基本のところは変更できないが、全く日本側の修正を
        許さないというものではないといい、一両日中に日本政府の回答がない場合は、
        GHQ案は、新聞で広く発表する、と、日本側を強く牽制。
        また、この受け入れにより、天皇の身分も保証されるということを強く念押し。
        すぐに日本側は閣議を開き審議を開始するだろうと思っていたGHQだったが、
        内閣はなんと19日までそのことを知らされなかった。松本らの驚愕と狼狽が
        想われる。

3月4日。  日本側は『日本政府草案』(実際上はGHQ案の日本語訳に近い)をGHQに提出。
        ただ、日本側は、GHQの意向を和らげようと必死で細かい点で修正を試みている。
        このことについては、続く記事で詳しく書く。

さて。ここから先は、前の方のベアテなどの記事で書いたので、繰り返しは避けよう。
アメリカ側と日本側が一緒になって、憲法草案の逐語訳の突き合わせ作業が30時間
ぶっ続けで行われることになるのである。ベアテもその席に通訳としていた。

3月6日  日本政府、GHQとの協議に基づいた改正要綱を発表。
5月22日  第1次吉田茂内閣が成立。
6月20日  第90回帝国議会に改正案を提出。
11月3日  日本国憲法を公布。
12月1日   「憲法普及会」が組織される。
1947年
5月3日  日本国憲法を施行。

その間の細かい修正論議は、以下のとおりである。

4月17日  日本政府がひらがな口語体の「憲法改正草案」を発表。
4月22日  枢密院で審議開始。
6月8日   枢密院で可決。第90帝国議会に提案される。
8月24日  衆議院で一部修正を経て、可決。貴族院に送られる。
10月6日  貴族院で再び一部修正を行なった後、可決。
        修正があったため再び衆議院に戻される。
10月7日  衆議院で修正部分を含め、可決。再び枢密院に送られる。
10月26日 枢密院において修正部分について審議された後、可決。
1946年11月3日、日本国憲法として、公布。


『『日本国憲法をなぜ守りたいか その5 素人が作った憲法? 』


Q4:日本国憲法はGHQの法律には素人の人たちが作った憲法なの?

憲法を自分たちの手でつくり替えなければ、と主張する人々が、よく挙げる
日本国憲法の問題点として、このことがよく言われる。

すなわち、マッカーサーは、遅々として進まぬ、日本政府による憲法草案作りに
業を煮やし、部下の民政局の人々に、憲法草案を作るよう命令する。期間は、2月4日から
1週間とされていた。
確かに、彼らは、憲法学の専門家集団ではなかった。

それでは、幣原喜重郎首相の下、担当相松本烝治をトップにして組織された
『憲法問題調査委員会』(いわゆる松本委員会)の委員は、どういう人々だったのだろうか。

●委員長で担当国務大臣松本松本烝治は、商法学者。東京帝国大学卒業。
東京帝国大学教授。満鉄に移り、副社長となる。第二次山本内閣で法制局長官。
貴族院議員。斎藤内閣商工大臣。その他、多数の会社の役員や日銀参与・理事等
を務める。この間、商法改正やその他の立法に貢献した。
[顧問]
●清水澄(枢密院副議長・学士院会員)
●美濃部達吉(学士院会員、東大名誉教授)
●野村淳治(東大名誉教授)
[委員]
●宮沢俊義(東大教授)
●清宮四郎(東北大教授)
●河村又介(九大教授)
●石黒武重(枢密院書記官長のち法制局長官)
●楢橋渡(法制局長官のち内閣書記官長)
●入江俊郎(法制局第一部長のち法制局次長)
●佐藤達夫(法制局第二部長のち第一部長)
その他にも委員、補助員、嘱託として、錚々たる学者・官僚たちが、これに携わっていた。
法制局長官経験者も多いということは、言わば憲法のプロ集団であると言って
よかろう。いずれも日本を牽引する知性たちである。


一方、民政局側の人々はどんな人々であったのだろうか。
この仕事にあたった民政局メンバーは、25人。それが8つの委員会に分けられた。

●民政局局長コートニー・ホイットニー准将。マッカーサ-の分身とも呼ばれ、その懐刀
 ともなった人物。当時49歳。陸軍航空隊の中尉時代、ワシントン駐留中、コロンビア・
 ナショナル・ロー・スクールの夜間部に通って、法学博士の学位をとっている努力のひと。

●運営委員会の責任者はチャールズ・L・ケーディス大佐。コーネル大学及び
 ハーバード・ロー・スクール卒業。ニューヨークで法律事務所の所属弁護士をしていた。
 連邦公共事業局副法律顧問、第二次大戦ではヨーロッパ戦線の激戦地で戦ってきた。



                  Charles_Kades.jpg
             チャールズ・L・ケーディス。Wikipedeiaからお借りしました。

●マイロ・E・ラウエル陸軍中佐は、スタンフォード大学で学士号を取った後、ハーバード・ロー・
 スクールで学び、さらにスタンフォードに戻って法学博士の学位取得。
 多くの民間会社の顧問弁護士、政府機関の法律顧問、ロサンゼルスの連邦検事補。
 入隊後は憲兵参謀学校、軍政学校、日本占領のための特殊教育機関だった
 シカゴ大学民事要員訓練所。
 ホイットニー准将が民政局長に赴任する前から法規課長として、日本の政党や
 民間の憲法学者と積極的に接触。
 彼は、高野岩三郎、森戸辰男、鈴木安蔵らの民間の憲法研究会の草案を
 精査。すぐに翻訳して上に通して検討を仰いでいる。彼ら民政局のメンバーが
 作った日本国憲法草案の中身には、この鈴木らの民間、憲法研究会の
 書いたものとの類似点が多く見かけられるという。
 このことについては、また詳しく書く。

●アルフレッド・R・ハッシー海軍中佐は、弁護士。ハーバード大学卒業後、バージニア
 大学で法学博士の学位取得。ケーディス、ラウエル、そしてこのハッシーが運営委員会の
 中心人物。弁護士業の傍ら、マサチューセッツ州で公職。州最高裁判所
 会計検査官特別顧問。海軍共同訓練司令部勤務の後、プリンストン大学軍政学校、
 ハーバード大学民事要員訓練所を経て日本へ。

[立法権に関する委員会] 
 民主主義の根っこにあたる議会制度を決める委員会。民政局内でエース格の
 人物が選ばれた。
●フランク・E・ヘイズ陸軍中将。弁護士。当時40歳。ケーディス大佐の右腕。
 シカゴ大学で民間要員訓練所で日本の占領政策の基礎を教育されてGHQに赴任。

●ガイ・J・スゥオープ海軍中佐は、小学校卒業という。たくさんの職を渡り歩いたのち、
 ペンシルバニア州政府の予算局長、プエルトリコ総督、内務省準州担当局長、
 ハリスバーグ選出民主党下院議員などを歴任した経歴の持ち主。
 海軍に入った後は、コロンビア大学海軍軍政学校卒業、サイパンを経て東京に。
 ルーズベルトのニューディール政策の信奉者であった。

●オズボーン・ハウギ海軍中尉
 31歳。セイント・オーラフ大学卒業後、週刊誌記者。海軍プリンストン大学軍政学校
 及びスタンフォード民事要員訓練所を経て日本占領のスタッフに選ばれた。

[行政権に関する委員会]
●責任者サイラス・ピーク博士は民間人。コロンビア大学で博士号取得。コロンビア大学助教授。
 中国を専門とする歴史家。戦前に2年間、日本の大学で教鞭をとっている。
 民政局内での知日派。

●ミルトン・J・エスマン中尉は、コーネル大学政治学科を卒業、プリンストン大学で
 政治学と行政学の博士号取得。合衆国人事院勤務の後、バージニア大学軍政学校、
 ハーバード民事要員訓練所を経てGHQに。
 専門はヨーロッパ近代政治。

[地方行政に関する委員会]
●セシル・ティルトン陸軍少佐は、ハワイ大学、コネテイカット大学の教授。連邦政府
 物価局の特別行政官。保守的。日本の地方自治体の完全な改革を目指す。
 都道府県知事、また町村長も、公選制に改革。

[財政に関する委員会]
●フランク・リゾー陸軍大尉は、コーネル大学で、経済学、財政学、国際関係論を学び、
 ケーディス大佐が最も信頼する人物の一人だった。ケーディスが日本を去った後、
 民政局次長を引き継ぎ、後、民政局長。戦後も日本にとどまり、日米経済に貢献。
 後に勲一等瑞宝章を日本政府から受けている。

主な人物たちの経歴であるが、どうだろうか。彼らは確かに『憲法学』の専門家
ではない。だが、経歴を見てもわかる通り、軍人としても民間人としても、一流の人々
であったと思われる。博士号取得者も多い。
これらの人々が、本国アメリカでさえ実現できていない民主主義の理想を、この
敗戦国日本で実現しようと、名誉心や欲得など抜きにして、ほんとうに若々しい
熱意と好奇心と情熱を持って、憲法草案作成という任務に携わったのである。
その様子は、先に紹介したベアテ・シロタ・ゴードンの『1945年のクリスマス』という
本に生き生きと描き出されている。

                  ***

さて。この日本の側の憲法作成関係者たちと、GHQ民政局の人々との経歴を
ひき比べて、日本側はプロ集団だったの、アメリカ側は素人集団だったのと、戦後70年
にもなる今の憲法論議であれこれ言っても虚しいことである。
要するに大事なのは、どちらがより真剣であって、生まれたもののどちらがより優れて
いると後世の人々が判断してきたか、ではあるまいか。
ただ。アメリカ民政局の草案作成者たちが、ただの憲法の素人の軍人たちであった、
そのことがイコール、彼らの作った草案が、『恥ずかしい』ような内容のものであった、
という論法には反論しておきたい。
学歴がどうのこうのといいたいわけでもない。ただ資料として挙げておく。
彼らは、民間人として軍人としておそらく一流の優れた人々であったろう、ということは
出来上がったものの質の高さがそのまま示しているのではなかろうか。
どれほど経歴的に優れていると思われる人々が携わったことでも、その『志向するもの』が
そもそも狭い低いものであるならば、生まれてくるものの質は推して知るべし。

そのことだけ、ここでは書いて、次には、幣原内閣が松本烝治を担当相として、日本の
一流の憲法学者や官僚を集めて作った『憲法改正要綱』と、GHQ案の中身の比較に行く。











  

『日本国憲法をなぜ守りたいか その4 みっともない憲法?② 』


一つ前の記事で、安倍首相が、日本国憲法を「『みっともない』ので変えたい」と
言っている、ということを書いた。
安倍氏がそう思うその理由は以下の1~3のようなものである(らしい)。
これに、改憲を叫ぶ人々が改憲の必要があると思う理由としてよく挙げるものを
3つほど付け加えよう。赤字部分4~6がそれである。

1.『自分たちの安全を他国に任せますよ、と言っている』
2.『自分たちが専制と隷従、圧迫と偏狭を無くそうと考えているんじゃないのですよ。
 国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと、いじましい』
3.『これは日本人が作ったんじゃないんですからね』
4.憲法を急遽書いたGHQの面々は、法律の素人集団である。そんな素人の書いた
 憲法案を、国家の憲法として戴いているのかと思うと、みっともなくて恥ずかしい。
5.この前文でも、日本は自分の国さえ安全で無事であればいいと内向きであっては
 ならないと、ちゃんと言っている。日本は九条を変えて、国際的な安全と平和に
 もっと積極的に関与貢献 して行くべき
だろう。
6.GHQ案を、そのまま大急ぎで直訳したので、憲法の条文が翻訳調で日本語として
 よくない。意味が通じない。


それでは、みっともないと安倍氏などが言う日本国憲法前文を、ここで載せてみよう。
批判の該当部分に下線を引いておく。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらと
われらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて
自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることの
ないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を
確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は
国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が
これを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基く
ものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を
深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの
安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と
偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を
占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない
のであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、
自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する
ことを誓ふ。



さらに。比較のために、自民党改憲草案の前文も載せておこう。


日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家
であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会
において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、
世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、
和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を
振興し、活力ある経済活動を通じてを成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を
制定する。




これら1~6の批判についての、私の考えを書いてみる。
順番は、不同である。

Q3:日本国憲法前文は、GHQ草案の直訳で、みっともない文章なの?

確かに、一文が長く主語述語の関係の読み取りにくい文はあるように思う。
だが、私自身は、この前文を読んで、一度もこれをわかりにくいとかみっともないと思った
ことはない。文章としていいかどうか、という判断は、きわめて主観に負うところが多く、
それでは自民党案の文章が素晴らしいかというと、第二小段落『わが国は』以下の文は、
過去と現在とこれから行うことの文がいっしょくたにされている、変な文章である。
しかし、それも私の主観である。どっちの文章が優れている、などとは比べられない。

要するに、大事な問題は中身なのだと私は思う。
現行憲法と、自民党草案とこの二つを比べてみて私が一番に目につくと思うのは、
前者は『国民』主権を強く打ち出し、後者は、短い文章の中にやたら『国』とか『国家』
『郷土』という文言を使っているな、という、その際立った違いである。


現行憲法の翻訳調の欠点をあげつらう者は、ベアテさんの記事のところで書いたように
この憲法案がGHQによって日本側に提示され、民政局スタッフと日本側スタッフが徹夜で
一緒に逐語訳した1946年3月4日から、同年11月3日に公布されるまで、8か月も
あり、その間、以下のような審議が行われていることを見ようとしていないのではないか。


枢密院
1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」(日本国憲法案)を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。
Wikipediaからお借りしました。



1946年3月4日。GHQ草案を、日米双方協力して逐語訳。
3月6日。マッカーサー、天皇の了承を得た後、『憲法改正草案要綱』として発表。
4月22日。枢密院で審議開始。
6月8日。枢密院で可決。第90帝国議会に提案される。
8月24日。衆議院で一部修正を経て、可決。貴族院に送られる。
10月6日。貴族院で再び一部修正を行なった後、可決。
       修正があったため再び衆議院に戻される。
10月7日。衆議院で修正部分を含め、可決。再び枢密院に送られる。
10月26日。枢密院において修正部分について審議された後、可決。
1946年11月3日、日本国憲法として、公布。

現憲法の前文も含め、GHQの押しつけで急遽作られたので、文章が英語からの
直訳調でみっともない、改憲すべきと言うべき人々は、上記のこれだけの審議の
間、なぜ、関係者たちはもっとこなれた文章にしなかったのだろう?と、そちらを
問題にした方がいいだろう。これだけの期間があれば、こと文章そのものに
関しては、修正の機会はあったはず。 その文のこなれていないことまでもをGHQの
押しつけのせいにして、今ごろぐずぐず言うのはどうだろう。



次に。小さなことなので、ことさらに取り上げる必要もないのであるが。
現日本国憲法の前文で、首相が
『自分たちが専制と隷従、圧迫と偏狭を無くそうと考えているんじゃないのですよ。
 国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと、(いじましい云々と続く)』
と批判している下線部の箇所は、明らかに、首相の読解ミスじゃないかと私は思う。
ここだ。
『われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に
除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。』

この文章のどこにも、日本は自分たちではそれらの努力をしないで国際社会に
委ねてしまうとか、少しできたからと言って国際社会に褒めてもらおうとか、
そんな、それこそ『いじましい』ことなど書いていない。

『名誉ある地位を占めたいと思ふ』という表現は、むしろそれとは真逆で、日本が
『平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去』することにおいて、
国際社会に率先してこれを努める、という、強い決意の表明である!と私は解する。

日本国憲法前文の素晴らしいところは、敗戦国日本が、戦争の惨禍を引き起こした
ことの深い反省の上に立ち再び同じ過ちを繰り返さないこと、また、国民主権という
新しい理想の下、今度は、国際社会と協調して、国内においてもこの世界からも
不幸をなくしていくことに自ら貢献していくという強い決意と希望を語っているところだ
と私は思うのである。


以上。改憲すべきという人々の主な主張1~6の、2と6について書いた。
1、3、4、5については、続けて書く。
この前文には、さらにもっと深い意味が込められていると私は思うが、それも次の記事にしよう。







『日本国憲法をなぜ守りたいか その3 みっともない憲法? 』


Q2:日本国憲法って、『みっともない』の? 


安倍首相は、民主党から政権を奪還したばかりの2012年12月、あるネット番組で、
『今後どのようなことを目指すつもりか』という質問を受け、現日本国憲法を「『みっともない
憲法』だから変えたい」と明言している。

その時の書き起こしがあるので載せてみる。
 『あの、日本国憲法の前文にはですね、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
 われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書いてあるんですね。つまり、自分たちの
 安全を世界に任せますよと、言っている。
そして、えぇ~「専制と隷従、圧迫と偏狭を
 この地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」。
 自分たちが専制と隷従、圧迫と偏狭を無くそうと考えているんじゃないのですよ。
 国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと、
いじましいんですけどね、
 みっともない憲法ですよ、はっきり言って。これは日本人が作ったんじゃないんですからね。
 こんな憲法を持っている以上ですね、えぇ~外務省も自分たちが発言すると言うのは、
 憲法上、義務づけられていないんだから、それは国際社会に任せるんですからね。
 精神がそうなってしまっているんですね。まぁ、そっから変えていくと言うのが私は大切だと
 思います』



憲法前文はまたあらためて取り上げたいと思っているが、ここではこの安倍総理の
言うところの『みっともない』理由、というものを検討してみよう。安倍氏の言葉から
項目あげしてみる。
1.『自分たちの安全を他国に任せますよ、と言っている
2.『自分たちが専制と隷従、圧迫と偏狭を無くそうと考えているんじゃないのですよ。
 国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと、いじましい
3.『これは日本人が作ったんじゃないんですからね』


まず。この発言の中身を分析する前に、首相には憲法を尊重する義務がある
ということを、安倍総理は失念しているらしい。

日本国憲法第99条『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


現日本国憲法には、はっきりとこう謳ってある。
なぜ、このような条項があるのか。それは、先の侵略・戦争のように日本が
天皇の名のもとに権力者たちが暴走し二度と同じ過ちを繰り返すことなどないよう、
天皇自身、そして国政や裁判、その他行政に携わる者たちを戒めるために
ここに明記してあるのである。
そうして、この国の主権は、国民にある。ここに挙げられたような地位および職務
にある者は、そのことを忘れて職権乱用、地位を利用しての越権行為を犯しては
ならないと固く戒めているのである。
そう言った意味で、この条項は、とてもとても重い意味を持つ。

総理大臣も、広義の意味では国務大臣である。その総理大臣が、自国の憲法を
公然と『みっともない』という。これは、憲法尊重義務の違反ではないのか?
この憲法の条項に関し、とても大事なことがあるから示しておくが、それでは、現憲法を
『みっともない』『いじましい』とまで言う、安倍総理の所属する自民党が、2012年に示した
自民党改憲案はどうなのか。比べてみよう。
そこでは、この99条は、以下のように書きかえられている!

第102条(憲法尊重擁護義務)
『1 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う』


①まず、第二項で、この憲法を尊重し擁護する義務を負う者として現行憲法には
明記されているリストから、『天皇』の名が削除されている

②第二項からは『尊重する』の文言も消えて、ただ『擁護する』という言葉だけになり、
言わば、国会議員等為政者の守るべき義務の要諦が、軽くなってしまっている
③さらには。極めつけはここだ!自民党案では、第一項として、現行憲法には無い
『全て国民は、この憲法を尊重しなければならない』という条項を新たに
入れていることである!
このことを皆さんしっかり認識してください。

今の憲法の三大要素は、『国民主権』『平和主義』『基本的人権の尊重』ということ
である。今の憲法では、国民が主権者であり、その国民を守るために、憲法は
国の政治をつかさどる者、上に立つ者に憲法を守ることを義務付けている
のである。
自民党改憲案では、これを全く理解していないかのように、
国民にも憲法を尊重せよ!と義務付けている
のである!!!しかもこれを
第一項に置くということは、こちらの方が比重がかかっていると解されても仕方ないであろう。

ここだけではない。自民党の改憲案では他にも、国民に『~しなければならない』と
謳っている条項が、数限りなくある。言わば、
自民党憲法案では、『国民主権』の概念が大幅に後退し、
『国民は国のいうことにおとなしく従い、秩序を乱さないようにしなさい』
という、『国家第一』の憲法観、国家観が色濃く滲み出ている。

このこともまたしっかり頭に入れておいてください。


安倍首相が『みっともない』という今の日本国憲法。それと
その安倍氏の所属する自民党の作った改憲案。この二つを比べてみて、
皆さんは、どちらが国の基本理念として優れているとお思いでしょうか?



『日本国憲法をなぜ守りたいか その2 憲法と私たちの暮らし 』

               

Q1:憲法って、私たちの暮らしとどう関わってるの?あまり実感がないんだけど。

こう感じる人は多いのではないでしょうか。
だが、憲法というものは、その国の根幹をなすものです。
憲法は、私たちの実生活と関わりがないどころか、私たちの『生』を決定づける
重大きわまりないものなのです。

いい例が、一昨日5月16日の衆院予算委員会の論議の中にありました。
まずはこの新聞記事を読んでください。その日の産経ニュースです。

『安倍首相が民進・山尾志桜里政調会長に「議会の運営を少し勉強してほしい」 
キレた山尾氏は「男尊女卑政権だ!」』

   16日の衆院予算委員会で、安倍晋三首相が、質問に立った民進党の山尾志桜里
  政調会長に「勉強した方がいい」と“忠告”する一幕があった。
   山尾氏は今年1月の衆院本会議で首相が「政策を国民に提案することから逃げて、
  逃げて、逃げ回っているようでは、国民の負託に応えることはできない」と民進党を皮肉った
  ことに対し、(民進党は:彼岸花註)保育士の処遇改善など議員立法による対案を
  示してきたことを説明し「なぜ私たちの提案から逃げて、逃げて、逃げまくっているのか」
  と述べ、首相が審議を拒否しているとの反論を展開した。
   首相が「国会で議論してほしい」と述べると、山尾氏は、首相の意向で環太平洋戦略的
  経済連携協定(TPP)を巡る質疑が優先的に行われたと主張し、首相が主導して対案を
  審議するよう求めた。
   これに対し、首相は「山尾委員は議会の運営を少し勉強してほしい。(法案を)国会に
  一度付託したら委員会で決めることだ」と国会運営のイロハを説明した。
   興奮冷めやらぬ山尾氏は、首相の姿勢を「女性活躍政権ではなく、男尊女卑政権だ」と批判。
  首相は「誹謗中傷だ。議論をすり替えている。だから議論が軽薄になる」と非難した。


これだけ読むと、山尾志桜里議員は、国会のイロハも知らぬただの感情的な女性野党議員、
というふうな印象にうつらないでしょうか。なぜ、『男尊女卑政権』などという言葉がここで
山尾氏の口から出てきたのか全く分からない。
いかにもともと偏った新聞といえども、これでは、『報道』の体をなしていません。

私はこの日の予算委員会審議をテレビで見ていましたが、山尾議員が『男尊女卑政権』
と口にしたいきさつの実際はこうでした。産経記事では以下の部分がすっぽり意図的に
カットされてしまっています。

政府側の、あれは、塩崎厚生労働大臣だったかな、
『保育士の給与が今はまだ低いから、これを働く女性の平均賃金のレベルにまでは
持っていく』、という発言に、彼女が噛みついたのです。
厚労大臣だけでなくそれを安倍総理までもが追認したので総理にも噛みついた。

『なぜ、働く女性の平均賃金を基準にするのか。男女合わせた全労働者の
平均賃金と比べるのでなければおかしいではないか』
『それは男女間に賃金格差があることを最初から容認している考え方だ』
『しかも、なぜ、保育士の仕事を、「女性の仕事」と決めてかかるのか。
それは、男女の役割を固定化して考える偏見ではないか』と。

そもそも保育や介護の賃金が全産業に比べてとても安いのは、保育や介護を
家でやるのは女性の務めだという認識、あるいはその仕事が仮に社会化されても
女性が担う仕事だ、というような暗黙の先入観が社会に今なおあるからではないか。
その本質的なことに気づかず、そのような答弁をするとは、女性活躍政権どころか
男尊女卑政権だ、というようなことを厳しく批判したのです。
私は、この山尾氏の意見を尤もだと思います。
とりわけ、保育士の仕事とそれに携わる人々が置かれた労働条件の悪さについての
政府の無理解への批判は、まったく本質をついていると思います。
『全ての家事、保育育児、介護は、女がもともと家でやるべき無償の労働である』という
暗黙の了解は、私たち国民の中にもありはしないでしょうか。その偏見が、
『保育』『介護』という職業の賃金の低さに関係してはいないか、というようなことを、
この山尾議員はずっと指摘し続けて来ているのです。


さて。ここからが憲法の話になります。
『家族』に関連する憲法の条文を見てみましょう。
まずは、現行憲法であります。


(家族、婚姻等に関する基本原則)
第二十四条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、
相互の協力により、維持されなければならない。
②配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関する
その他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、
制定されなければならない。

自民党改憲草案では、この現行憲法の条文の上に、新たな項を付け加え、
『家族』というものを規定しています。それを第一項にしているのです。

家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。
家族は、互いに助け合わなければならない。


これは一見麗しい美徳をうたった条文のように聞こえるけれども、
家族の助け合い、などということは、心の問題であって、憲法で規定されるべき
ものではないのではないでしょうか。これは『道徳』の問題であって、『法規範』として
国民を縛るべき性質のものではないように私は思うのです。
これを憲法に規定することによって、裏を返せば、家族の問題は家族間で解決せよ、
ということになって、国が負うべき責任を回避することに結び付きかねないとも思います。

それでは、実際問題として家庭の中で現実に、育児、家事、介護、を担っているのは、
男性でしょうか女性でしょうか。・・・・・・数の上では圧倒的に女性が多いと思います。
つまり、自民党の改憲案は、暗に女性の負担をますます重くするものです。しかもそれを
憲法の条文にして『義務化』してしまうとは。

その上、この政権は、『女性活躍社会』などということを、選挙向けのうたい文句に
していますよね。
保育所が不足しているから女性が思うように働けない←保育士の待遇が悪いから
なり手が少なく辞めていく人が多い←『保育士は女の仕事』という社会(政府を含め)の思いこみ
がある←そもそも、家事、育児、介護は女が家にいてしっかり行うべきという社会(政府を含め)の
暗黙の先入観←さらに、憲法で、家庭の自助努力を義務化する


この悪循環を、山尾議員は厳しく突いたのではなかったでしょうか。これでは女性が
活躍できるはずがない。『女性活躍社会』をうたい文句にする政府自身の認識の内に、
それと真逆の、男女の役割についての固定観念があるのではないか、そのことを指して
『男尊女卑』という言葉を使ったんだったろうと私は思います。

ところが、産経新聞などは、その山尾議員の真情を全くカットしてしまって、
国会審議の取り上げ方に関する論議から、いきなり『男尊女卑政権』発言に飛躍して
伝えています。『国会運営のイロハを知らない興奮した女』という印象付けです。
これは意図的に山尾議員を貶める情報操作です。
さらには、その日の午後の審議で、おおさか維新の馬場伸幸幹事長が、この山尾氏の
『男尊女卑政権』という発言を、『ヒステリック』『懲罰ものだ』と批判している。
(これも産経報道)

私が委員会審議をテレビで見ていた限り、山尾議員が『ヒステリック』になっていたなどという
印象は全くない。ただ、的を射た厳しい追及だなと思っただけでした。

さらに言えば。
山尾氏の質問の前半部分に関したことですが、安倍政権が、行政府として
『行政権』行使をその責任下に置いて執り行うことに何の問題もないわけですが、
国会という『立法府』の役割を軽視しているようなところは、これまでも散見されたように
私には思えます。山尾氏も指摘していたことですが、議会における総理自身の品のない
野次(それも、野党女性議員に対して目立つ)などは、行政府の長として立法府の尊厳
を汚すもの、と言われても仕方ないのではないですか。
2015年5月28日のの衆院平和安全法制特別委員会において、辻元清美氏に対し
『早く質問しろよ』などという野次を飛ばした感覚などは、
『総理、あなたこそ、国会運営のイロハ、国会の尊厳を知らないのではないですか』
と言いたいくらいです。
さらに、ここにはそれこそ、安倍氏の意識下での女性議員に対する蔑視を、私などは
感じたものです。相手が弱い立場の者だと居丈高になる態度。あるいは小馬鹿にした態度。
例えば、年配の共産党男性議員に対し、安倍氏は同じ野次を飛ばせたでしょうか?

日本国憲法では、『三権分立』をくっきりと謳っています。
世界的な流れかもしれないけれど、とりわけ今の自民党政権は、『行政権』を振り回し過ぎ
というように私には危惧されてなりません。自衛隊の集団的自衛権行使容認を含む
安保法制の採決がどさくさまぎれに議事録もとられない中で強行されたことなど
立法府の危機とでもいうべき事態に関しては、追及されると今回と同じように、
『議会がやることですから』と逃げ、国会で政府としてしっかり答弁するべき時には、
『私が総理大臣なんですから』と、行政府の長であることを黄門さまの印籠ででも
あるかのように振りかざして、誠実な答弁をしない。

こうしたことをひっくるめて山尾議員は、批判したんだと思います。
彼女のこれまでの議論を聴いていると、それはよくわかります。
しかし、産経の報道でしか、この一連の山尾氏の質疑を知らないで判断すると、
三権分立や憲法24条などこれらの憲法の理念にもかかわる根本的な問題点は、
一切伝わってこないです。山尾氏という女性野党議員を貶めているだけ。

もう一度、憲法に戻りますが、
今の日本国憲法を、自民党は『GHQによる押しつけ憲法』と言って、ずうっと変えたがって
きました……
確かに『押しつけ』的ではあった。私もそれは認めます。
だが、出来上がったものを見れば、私はこの急ごしらえの憲法が、奇跡的に優れた
ものであったと思わざるを得ないのです。
『個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚』した、この憲法24条の条文は、
どうやって生まれたか皆さんご存じでいらっしゃるでしょうか?

『個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚』
…これ、たったこれだけの短い文言ですが、ここにどれほどの人類の長い歴史から
学んだ叡智と願いが籠められていることか!
この願いは、まだ、世界で蹂躙され続けています!


確かに現日本国憲法の草案は、GHQ、マッカーサーの指令により、『法律のほぼ素人』
たちによって、1946年2月4日から12日までのわずか9日間でまとめ上げられたものです。
その素人たちの中に、まさに法律の全く素人、ベアテ・シロタ・ゴードンさんという
若い女性がいました。
彼女については詳しくいつか描くけれど、シロタ。と言っても日系ではありません。
両親はロシア、キエフ生まれのユダヤ人。父はレオ・シロタ。『リストの再来』とも言われる有名な
ピアニストでした。ベアテは、その両親と共に1929年から1939年まで、5歳から15歳までの
少女時代の10年間を日本で過ごしているのです。第一次大戦後の欧州の不況の中、父のような
芸術家の活躍の場が狭められていたからです…
ベアテは、ロシア語、ドイツ語、フランス語、英語、ラテン語、そして日本語を話しました。



ベアテ
    写真は、映画『ベアテの贈りもの』から拝借しました。




1945年、アメリカで大学を終えたベアテは、GHQ民間人要員の一人として採用され、
再び日本の土を踏みます。GHQ民政局政党課に配属。政党課は、日本の政党の調査と
民政局が全力を挙げて推進していた公職追放の調査なども分担してはいましたが、
基本的には『人権』に関する部署でした。

ベアテは、その民政局で、マッカーサーの命により、憲法草案の『国民の基本権』に関する条文
の草案作りを担当
することになります…

『個人の尊厳と両性の本質的平等』を、明確に謳った日本国憲法第24条は、実はこの
わずか22歳のベアテが書いたものです。
ベアテは日本で暮らした多感な少女時代の十年間に、戦中の日本の女性の地位の
極めて低いこと、貧しさの故に身売りする少女たちのことなどを見聞きしていました。
また、レディ・ファーストの国と俗に言われるアメリカでさえ、女性に対する差別はまるで
解消されてはいないことを学んでいました。
実は、アメリカ憲法には男女平等を明確に謳った条項が当時のベアテの頃も今でもありません。
ERA(Equal Rights Amendment、男女平等憲法修正条項)が、1923年に起草され、
1972年に合衆国議会で可決されましたが、1982年までに成立に必要な数(全州の4分の3。
50州のうち38州。)の州議会の批准を得られず、不成立となったままです。

ベアテは、この24条に該当する部分のみでなく、日本国憲法に、その他に、『教育の無料化』
『児童の医療費無料化』
『児童の労働搾取の禁止』『私生児の差別禁止』…そして、
『妊婦と乳児の保育にあたっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。
彼女たちが必要とする公的援助が受けられるものとする』

などという、当時としてずば抜けて先進的な、条文も書きいれようとしていました。
が、民政局の決定によって、彼女の必死の訴えにもかかわらずこうした条文は削られました。
だが、
第14条『すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分
又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。』

にも、ベアテの考えは残っているのです。

1946年3月4日、GHQ本部となっていた第一生命ビルで、民政局が作った憲法草案を、
日本側とアメリカ側が逐語訳していくという会議が行われました。
GHQの突きつけた憲法草案に仰天した日本側の翻訳が遅々として進めれらなかったため、
業を煮やした民政局が、それでは一緒に逐語訳して行こうということになったのです。
日本側からは、 松本烝治国務大臣、佐藤達夫法制局第一部長、白洲次郎終戦連絡事務局
次長、外務省の小畑薫良、長谷川元吉が出席していました。
語学に堪能なベアテは、通訳の一員としてその場にたまたま出席させられていました。

逐語訳は進んでいき、ベアテの担当した現24条のところに来た時、ベアテはこういう
日本側の発言に驚きます。
『女性の権利の問題だが、日本には、女性が男性と同じ
権利を持つ土壌は無い。日本女性には適さない条文が目立つ』


しかし、アメリカ側のケーディス大佐は、マッカーサーが、婦人参政権をなすべき真っ先の
項目に挙げていること、女性の解放を望んでいること、を伝え、さらに、その条文が、
ここに同席しているミス・シロタが、日本女性の解放を願って一心不乱になって
書いた条文であることを伝えます。
佐藤法制局第一部長や白洲次郎氏はびっくりしたらしい。ただ親日的な一通訳の女性と
みなしていたからでしょう。しかし、それで24条は通って、今も憲法にあるのです!

さて。山尾志桜里議員の、保育士の給与に関する国会質問から、話が1946年
日本国憲法が生まれた年にまで遡りました…
これを読まれて、皆さんは、「なあんだ!やっぱり、日本国憲法は、ただの素人の
アメリカ人が作ったんだなぁ。そんなものを我々は今もありがたがっているのか!」
と否定的に思われたでしょうか…
私はそうは思いません。
憲法の成立の事情や過程はこれからも詳しく書いていきますが、この24条が生まれた
過程だけを見ても、ここには、日本人だからアメリカ人だから、法の専門家だから
素人だから、などという違いの言いたてを超越した、人の智と理想が凝縮して込められて
いるのだと感じます。
ベアテが、さらに通そうとしていた、妊婦と育児中の女性に対する国による手厚い支援は、
今、この日本で実現しているでしょうか?
妊娠を告げると職を失う、ということはまだ当たり前のように横行していませんか?
育児中の女性は、十分に環境や待遇を保証されているでしょうか?
山尾議員が問題にしていることは、まさにそのことだったのではないでしょうか?


『日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌は無い。』と言ったのが、当時の
日本側出席者の誰かは知りませんが、この男性の意識は、今もそのまま、今回の
厚生労働大臣や首相の発言の中に、『無意識』に、今も厳然としてあるのではないでしょうか。
ベアテは、男女間の同一労働同一賃金、ということも憲法に盛り込もうとしていた……
上にも書いたように、当時のアメリカには(そして今もまだなお)、『男女の平等』と
いう憲法上の条項がない時代に、そうして、アメリカ・日本を問わず、一般的に言って
知性的な男性たちの意識の中にさえ、まだ男女の平等という明確な概念への理解が
乏しかった時代に、一人の無名の若い素人の女性が、第24条を日本国憲法の中に
必死でそっと忍び込ませてくれたのです!
その24条を、自民党は、再び古臭い『家庭観』『国家観』の中に閉じ込めようとしている
のです。


私は、『世界の憲法集』という本を買って、折があるごとにちらちら読んでいます。

私は、現日本国憲法の各条項が、今なお極めて先進的に
優れていると思う故に日本国憲法を守ることを決意します。






『日本国憲法をなぜ守りたいか その1 「改憲」ということ 』

国会議事堂
               写真は,Wikipediaからお借りしました。



参院選が近づいてくる・・・

今度の参院選の争点は何であろうか。
投票する国民の側の関心は、いつも、『景気を何とか良くしてくれ』ということであろう。
『安保法制』『憲法九条』が争点か。・・・・・・
沖縄の普天間移設問題、原発再稼働問題、格差拡大の問題、少子化問題、TPP、
…争点となるべき問題は山ほどある。 

私は、それらの問題をひっくるめて、こんどの参院選(もしくはダブル選挙)を、
この国の大きな変わり目となる選挙だと考えている。
それは私が今を、『民主主義の危機』、と捉えているからである。
現日本国憲法に謳われた『国民主権』『三権分立』『平和主義』を
この政権は根本から覆そうとしている
と。
上記、少子化、原発、沖縄…のような諸問題は、ばらばらの案件であるように見えて、
実は『憲法』というひとつところに集約されていく。
『憲法』というものは、その国のありようというものを根本のところで定義付けするもの
だからである…
現安倍政権が、憲法改定を明確に政権の課題として打ち出している今、
参院選を約2カ月後に控えた今、『日本国憲法』について、大きな危機感を持って
書いていってみたい。


                   ***


私は、自民党による改憲に反対である。
正確に言えば、私は、『改憲』そのものを否定してはいない。
憲法の条文が、激しく変わっていく時代に合わなくなるということも、確かにありうるだろう。
現に、世界では、必要に応じ、自国の憲法をちょこちょこと手直ししている国は多数ある。
日本国憲法は、そうした中で、一度も『改憲』をされてこなかった稀有な憲法である
ともいえるだろう。

だが。
『改憲そのものは全面的に否定するものではない』と言いつつ、私がこれだけは
伝えたいという大事な大事なことが一つある。
それは。
『改憲は、いつ、誰が、どのような意図で、どのように改定しようとしているか』
が問題なのである、と。




自民党は、結党以来長い間、「憲法の自主的改正」を「党の使命」に掲げてきた。
占領体制から脱却し、日本を主権国家にふさわしい国にするため、自民党は、
これまでも憲法改正に向けた多くの提言を発表してきました。』
と、広報にもある。
だが。歴代政権の中で、この今の安倍政権ほど、改憲に前のめりな政権は
無かったのではなかろうか。
私は、自民党政権下、とりわけ、安倍政権下での日本国憲法改定には、断じて
反対する。
もっと正確に言えば、私は、あからさまな国主導の改憲には、それがどの政党政権のもと
であっても、極めて用心もしくは反対する、
であろう。

なぜならば、憲法というものは、国家が国民を規定するものではなく、
国家が暴走しないよう、国民が国家権力を縛るためにあるものだからである。
その国家が『憲法改正』を声高に叫ぶ時には、極めて用心する必要がある

からである。

安倍政権は、その『憲法改定』を、明確に政権の目標として掲げている。
このシリーズでは、安倍政権による改憲がいかに危ないものであり、私たちの暮らしを…
この国のかたちを、根本から変えてしまうものであるか、を、Q&A形式でまとめていこうと思う。
ただし、問いを発するのも、それに答えるのも、私である。すなわち、これは私にとっての
改憲反対論である。願うべく、これをひとつのたたき台にして、一人でも多くの方に、
憲法というものをわが身にひきつけて考える、その機会と参考と
していただければ、と思う。




『5月3日に ②』


さて。
有明の防災公園での憲法集会が終わって、豊洲からどこへ向かったか。



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有楽町、東京国際フォーラムにおけるフランス発の音楽祭『ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン』。
昨年、その前の前の年と…ここ毎年5月の三連休は、一日をこのコンサートに過ごしてきました…
ただ、今年は、3月、ぼんやりしていて、チケットを購入し損じてしまった…
慌てて気づいてチェックした時には、聴きたい演目はどれもこれもチケット売りきれ。
仕方ない…今年はチケット購入は諦めて、とにかく顔出すだけは出してみました。

というのは、この大規模なコンサートは、広い国際フォーラムだけでではなく、丸の内エリアに
至るまであちこちの会場で無料コンサートなどが行われているからです。

国際フォーラムでは、ガラス棟とA~Dホールの間の地上ひろばにたくさんの屋台が出ていて、
そこで食べ物買って、屋外特設ステージで演奏される音楽聴きながら休むことができます。
まずここで簡単に腹ごしらえ。
私が休んでいた時は、『東京セルパン・トリオ』がグリーグなどの『蛇』を主題にした
音楽を演奏していました。
『セルパン』という、あまり聴いたことのない楽器は、17世紀~19世紀に教会や軍楽隊で
広く使われたフランスの古楽器なのだそうです。その名セルパンも「蛇」の意。
日本初のセルパンのトリオということで、なにかすごく不思議な音色でした。
異国情緒たっぷり。




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次に向かったのがここ。
丸の内「一号館広場」。
目的は、そこ一号館美術館で行われている展覧会なのだけれど、ブリックスクエアなど
ビルとビルの間に設けられたこの気持ちのいい一号館広場でも、無料コンサートが
行われていました。




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こんなふうに、多くの人が思い思いに場所をとって、奥で演奏されているサックス四重奏に
聴き入っていました。




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私は展覧会場に入ります。
三菱一号館は、1894年竣工の、丸の内初のオフィスビル「三菱一号館」を、
赤レンガづくりや当時の内装まで忠実に再現した素晴らしい建物です。
 


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展覧会は、『PARIS オートクチュール 世界に一つだけの服』。
この展覧会の予告、以前、新聞で見て、行ってみたいなあ、と思っていたのですが、
ラ・フォル・ジュルネ~などと連携して、ちょうどこの時期にやっているという絶好のタイミング。




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この『『PARIS オートクチュール 世界に一つだけの服』展は、フランス、ガリエラ宮
パリ市立モード美術館から来た、オートクチュール(高級仕立て服)の歴史を物語る
約70着のデイ・ドレスとイブニングドレス、そしてバッグ、手袋、帽子など服飾品や
デザイン画などによって構成されています。
かつて貴族や豪商の夫人・子女たち、パリの高級娼婦などを顧客として、一点ものの
『美術品』とも言えるような服を作り続けてきたクチュリエ(オートクチュールのデザイナー)
たちとそのメゾン(店)またお針子たちの技が伺える展覧会なのです。

真珠、ビーズ、スパンコール、ラインストーン、刺繍、ブレード、毛皮、鳥の羽、鋲、レース、……
ありとあらゆる装飾素材を、技の限りを尽くして縫い上げたドレスの数々…
その技(と根気)は圧倒的でした。

おそらく服飾関係のひとと思われる若い女性たちや男性たちが結構たくさん
見に来ていて、なかなかドレスの近くに近づけない…
この部屋だけは、撮影が許されているので、みんな写真撮っていましたっけ。




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ジェローム、による、1925年ごろのイブニング・ドレス。
アール・デコ様式というのかな。ローウエストで直線的なシルエット。
このドレスは、アメリカの鉄道事業の大物、ジェイ・グールドの娘アンナが着たものだと言う。


ふ~ん…むむむ…
あまり高級すぎて、高級品には縁なき衆生の私には、古き良き時代のドレス類は、
溜め息が出るだけで、なにかドレスそのものへの感動は少なく、むしろこれらのドレスを
かつて着た女性(ひと)たちの肉体と、その心を想像して、生々しい悩ましさを感じました。
みんな、すっごくウエストが細い!!!
どんなことを想って、これらのドレスに身を通したのでしょうか…
歓喜、憧れ、…倦怠、…嫉妬、…憂愁…





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ここら辺になると、私などにも少し親しみが感じられるようになるかな。
左は、ヘンリー・クラークとクリスチャン・ディオールの、1956年春夏コレクションの
ファッション写真。
私は、女性服のラインとしては、この1950年代くらいのものが一番好きです。
右の服などは、帽子はともかく、今でも着たいくらい。






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う~ふ…
すっかりなんだか気分的に満腹になって、外に出ます。
この日の丸の内は、風が強くて、街路樹が揺れ、吹きちぎられた葉っぱが石畳に落ちていた…




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旧丸ビルの面影を残す丸ビル。



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ここでも、『ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン』の一環である無料コンサートが
行われていた。東京藝大学生による金管十重奏。
本当は、ゆっくり音楽も聴いて食事もどこかでして帰りたかったのですが、盛りだくさんな一日で
時間がなくなってしまいました…
仕方ない。帰ろう…



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いつもの東京駅。



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三菱一号館美術館のミュージアムショップで買ってきたおみやげ。
ミントチョコと、いい香りの石鹸2種と、薄い生地のハンカチ。

ここのカフェに寄りたかったのだけれど。



『憲法記念の日に』


2016年5月3日。69年目の憲法記念日。

江東区有明にある東京臨海広域防災公園で開かれた、憲法を守る『5・3憲法集会』
に行ってきた。
こういう都心での集会に出るのは、あの自衛隊の集団的自衛権行使容認を含む
安保法制が可決されてしまった昨年9月以来だ。


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新宿から山手線で大崎まで。そこからりんかい線で有明防災公園に着く。
駅では多くの団体の人々が、旗印を目印に待ち合わせをしていた。
駅ですでに、『ああ、今日は参加者が多いな』とわかる……




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続々と会場に向かう人々…



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有明防災公園は、13,2ヘクタール。東京ドームのおよそ3倍くらいの広さか。
といってもピンと来られない方は多いと思うが。(私も東京ドームの中には入ったこと
ないのでピンとこない。)そうだな。あの東京オリンピックの行われた今は無き旧国立競技場。
あれの建築面積のおよそ4倍というと、大体の広さがわかるのではなかろうか。

この日の集まりは、『5・3憲法集会実行委員会』主催。
一昨年までそれぞれ別々に憲法記念日に集会を開いていた旧総評系や共産党系団体
市民団体などが、安倍政権による改憲を阻止するために『5・3憲法集会実行委員会』を結成。
同実行委が主催する1回目の共同集会であった昨年の横浜での集会は参加者3万人。
しかし、今年は、ここ有明に、5万人が集まった(主催者発表)。




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う~ん。私の写真では、会場の広さと参加者の多さがとてもつかめないな。
毎日新聞の映像をお借りしますので、そちらでご覧ください。動画になっています。
http://mainichi.jp/movie/?id=4876002571001

この毎日ヘリからの空撮動画の中のどこかに私もいます。^^

さまざまな団体の幟旗が林立し、多くの人が、集団で参加しているようだったが、
私のように全くの個人で、あるいは親子連れで、友だちと…という個人参加者もすごく多い。
今までのこうした団体所属の人々中心の憲法集会と違って、全くの個人もが
安倍政権という一内閣による『恣意的』な改憲に、切実な危機感を持って集まって
きているということがわかる集会だったと思う。

民進、共産、社民、生活の4野党党首がそろって演説。今までばらばらに憲法集会も
行ってきたこれらの野党党首がそろい踏みをする…これも初めてのことだ。
会場の人々はこれを拍手と声援を以て迎えていた。

今年101歳のジャーナリスト、むのたけじ氏も、車いすで登場。
むの氏は、報知新聞記者を経て、1940年(昭和15年)朝日新聞社に入社。
中国、東南アジア特派員となるが、敗戦を機に、1945年(昭和20年)8月15日、
太平洋戦争の戦意高揚に関与した責任をとり朝日を退社した。以降フリーの
ジャーナリストとなって、自ら体験した戦前・戦中の表現の自由・言論の統制について、
告発し続けている反骨の人である。
『必ずしも軍部が強制したわけじゃない。新聞社自らが委縮していったのだ。
2人なら本当のことをしゃべっていても、そこに一人加わって三人になると、もう
誰が信じられるかわからないという…そういう空気だった』
と、新聞記者としての自らの責任もぎりぎりと見つめてきた人である。
今のジャーナリズムの委縮・自己規制の空気もそれと似ている、と。

SEALDsの奥田愛基氏も登壇。

私が署名集めに参加していた、安保法制に反対する『戦争法の廃止を求める2000万人統一署名』
は1200万筆に達したと、中間発表がこの日あった。
一方、改憲勢力の動きもこの日は活発で、彼らが集める『改憲署名』は、『日本会議』と
日本各地の神社の氏子なども総動員されて800万筆を集めているという。
これについてはまた別記事で詳しく書こう。




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だが。そうしたキナ臭さとは裏腹に、この日は、晴れて風も吹く気持ちのいい日。
参加者の多くは、クローバーなどの柔らかい草原の上でまったり。^^
私も、サンダルを脱いではだしになり、草のひんやりした感触を楽しんだ。
スキップさんの『匝瑳9条の会』の『戦争をさせないぞ』バッジも、いつも通りつけています。




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この日着て行ったのは、しほさんにいただいた、サンダース応援のTシャツ。
背中?いえ、胸ですっ!!(爆)




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いつものように、福島県から、『希望の牧場』の吉澤正巳氏のトラックも来ていらした。
警戒区域内に 取り残された被ばく牛の保護・飼育を、自身の被ばくも顧みず
続ける、この人も『筋金入りの反骨のひと』である。
吉澤正巳氏についての私の記事はこちらを。
http://clusteramaryllis45.blog61.fc2.com/blog-entry-1399.html

恥ずかしいほどわずかながらカンパさせていただいて、許可を得て写真撮らせてもらった。
手は、吉澤氏の手。
氏の周りには、今でも怒りの熱気がたぎっているような感じを受けて、安易に近づけない。
そうなのだ。
あの!あの福島第一原発事故を経験して、怒りを容易に失うことの方が、
私には理解できないのである…あれほどの。『国策の理不尽』というものを…。










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集会が終わり、参加者はデモに移ったが、私は足が痛いので(外反母趾?)、
長く歩けないので今回は参加しない。
これは、豊洲へ向かうモノレール『ゆりかもめ』から見た景色。レインボーブリッジも見える。
有明の界隈は、2020年東京オリンピックに向けて、急ピッチでまた開発が進んでいる。
東雲運河のあたりはモノレールの両側で、建設中の工事現場が目立った。
確かこのあたりのどこかには、体操競技用の施設が出来るはず。
ふ~ぅ…
オリンピック誘致する余裕など、この日本にあったのだろうか。
『聖火台』のことを、誰も考えていなかった!などという信じられないような
いい加減さが象徴するような杜撰な計画の下、ザルに水を無駄に注ぐように
国民の金がずぶずぶと注ぎ込まれて行く…他に急を要する問題は山ほどあるというのに…。






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大都会東京…。
日本の歪みを見えなくさせる虚飾の街。


この記事続きます…
が。





『友情。そして』


しばらく政治の記事を書いていなかったけれど、
なんと大変なことが矢継ぎ早にいろいろ起こることだろう…

なんと言っても、熊本・大分の大きな地震は、2週間たった今も、まだ余震が続き、
避難生活をしておいでのかたが3万3千人ともいう。
大分の私の姉達は無事で、家の中はほとんど被害はなかったようだが(塀が崩れ
墓石が倒れた!)、やはり、家で寝るのは怖く、一時自発的に、宿泊施設で
難を避けたりしていたそうだ。歳をとった姉(88歳)が、避難所暮らしに耐えられるか
不安、ということで。
熊本にお住まいのブログ上の友のところはもっと大変で、時折ブログの更新を
してくれるので、ご家族ペットたち含め、ご無事ということはわかっているけれど、
家屋の方は……大変らしい…。
生活再建にこれからどれほどのエネルギーが必要なことか…

ほんとうに…お亡くなりになられた方々…まだ行方の知れない方…
避難所暮らしの続く方々…言葉がなにほどの役に立つかとは思うけれども、
心からのお悔やみとお見舞いを申し上げます。


               ***

政治の記事を書かずにいる間も、ささやかに活動だけはしていた…
安保関連法の撤回を求める2000万人署名である。
一応、私ひとりの目標として300筆くらいは集められればいいがなあ、と思っていたが、
グループで動く日というのは期日が決まっているので、なかなか数が増えて行かない。
それで、署名締め切り(4月25日)の迫ったこの4月下旬は、毎日駅前に一人で立って
署名集めをしていた。
結局、300人分までは届かなかったものの、281筆、集めることが出来た。

『署名にご協力くださ~い!』と声を上げていると、一人の初老の男性が近づいて来て、
『つい先日、ここで署名集めをグループでしていた女性が、いきなり知らない人から足を
蹴られて怪我をしたらしい。あなたもできたら一人で立たないで、2人以上で
おやりなさい』と、親身な忠告をしてくれた。

確かに、雑踏の中にひとりで身をさらすというのは、実は怖いことである。
私も常に不安はある。だから、なるべく背中は無防備にさらしておかないよう、
立つ位置や方向などは、一応気をつけていた…
それでも、身構えるときはある。
署名をしてくれるために近づいてくるのか、他の意図をもって近づいてくるのか
わからないこともあるからである。

いろんな人はいる。身の危険を感じる、というほどの経験は幸いしていないけれど、
睨みつけて行く人、『ニッキョーソ!』『キョーサントー!』『ハンニチ!』『バイコク!』
『ザイニチ』などという言葉を投げつけて足早に去っていく人などは、毎回、1、2名はいた。
どうやら、そういう人たちは、そういう言葉を投げつけると、こちらが恐れ入るとでも
思っているようなのだ。年齢男女にかかわりなく、そういう言葉を投げてくる人はいる。
それがどうしたのよ。『ザイニチ』がなにが悪い!『クミアイ』のなにが悪い!
『キョーサントー』の何を知っている?

こんな男の人もいた。
すうっとむこうから近づいて来たので、『署名してくれるのかな』と思っていると、
『熊本であんなことが起こってるときに、戦争法反対の署名?!いい加減にしろよ!
被災地の人に役立つことしろ!』と強い調子で。
…それはそう。
だが。それとこれとは別の問題である。
被災地を想うからと言って、例えばろくでもない政府の目論見がどさくさまぎれに
進行していくことを黙って見過ごしにしていなければならないのか!

私が、身の危険を感じつつ街頭に立つのは、ただ安保法制に反対しているからじゃないんだ。
憲法をないがしろにするような政府が、被災者に優しい政府であるはずがないのである。
署名の直接の趣旨は『安保法撤回』ではあっても、私の怒りは、無論、被災地への対応にも、
東日本大震災・福島第一原発事故への対応にも、改憲にも、TPPにも、沖縄にも、
弱者切り捨ての社会政策にも、…同じく向けられているのだぞ。
やむにやまれぬ想いで立っているのだ。我慢できないから立っているのだ。


3月。挫けそうになっていた時はあった…。
あれほど多くの人が反対している安保法は、3月、施行されてしまった…
今さら、撤回を叫んで何になる?と、私自身も思わないでいられなかった…

だが。
そんなとき、友が、『署名集めますよ』、とごく当たり前な調子で言ってくれたのである!
『署名用紙送ってくれれば、集めてまた送り返しますよ』と。
言葉通り、友はまたたく間に、ご友人・知人の方々などに声かけて、署名用紙を
送り返してきてくれたのである。
知っている人にこういうことを頼むというのは、実はとても気分が重いものである。
私などは、自分の生き方が、人との縁を大事にしない…学校が終われば、
仕事をやめれば、子供が大きくなれば…それまで結んだ縁も終わりにする、という
生き方をずうっとしてきたので、こうした時に声をかける人さえいないのである。
親戚づきあいも、地域の縁も薄い…

そんな私に、この友の一言が、実はどれほど嬉しかったことか……!

友が、声かけをしてくれているのに、私自身が諦めてしまうわけにはいかないよ…。
そう思って、また署名に出るようになったのである。

友が送り返してくれた署名用紙。
手紙と。そして、お茶のパックのようなものも…


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なんだろう…


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おお!なんと、香木『白檀』だったのです!

私が、梅、松、楠など、いい香りの樹木が好きなの知ってらして。


…それで……。



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これ、なんだとお思いになりますか。ドラム缶形のもの…
長さ12センチほど。


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立ててみたところ。


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覗きこむと、雀が一羽。外にも一羽。



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友がくれた、『白檀』を、和紙で



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お薬包みにして。



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中に入れる。
そして、上部の六角形の部分を、120度分ひねって、下の六角形の中箱部分に
かぶせると下のような形態になる。





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これ。『布香合』という。
茶道や香道で使う香木や練り香は、くべる前に、『香合』という、漆器や陶器などで
できた小さな器に入れておくことがある。
私は、お茶も聴香も一向に不調法だけれど、『香合』という小さな器の可愛らしさには
魅かれて、今までブログで、いくつか紹介してきたことがある。
『青柿』のとか、『青い松ぼっくり』のとか、『カワセミ』のとか。どれも安物だけれど。

それを布地で作ってみた。
『白檀』の木は、くべないでそのままでもいい香り。
これから暑くなる季節に、すうっとした香木の香りが部屋にするのはいいものでしょう?
香りが徐々に変わって行くのを楽しめるように、『絽』という夏の透ける着物地の、
『雀柄』の布で、作ってみた。私は雀が好きなのだ。
裏地は冴え冴えとした水色の縮緬地。






友の。心意気が。どんなに嬉しかったことか。
その感謝の想いをこめて。
別の友は、直接会った時に署名してくれた。ご子息様と。

友情に感謝、だ!









プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pekai/signup.html
国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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