『腐った林檎』


第3次安倍第3次改造内閣が発足した。
数日前からテレビでは、新閣僚となる人々(留任も含め)がどんな顔ぶれになるのか、
といった予想で持ちきり。政治記者、コメンテーター、司会者、ゲストなどが嬉々として
ああでもないこうでもないと、下馬評を展開していた。
こういうものを見ていると、なんだか、今回の内閣改造で、森友・加計問題、稲田氏の
自衛隊日報隠蔽への関与など、安倍政権の抱えていたどろどろの問題の数々がまるで
綺麗に払拭されて、新しい清らかな風が吹き始めでもしたかのような錯覚に、私のような
反安倍政権のものでさえつい陥ってしまいそうになるから剣呑である・・・・・・。
(無論、自虐的冗談だが。)

一般の国民は、果たして今回の内閣改造の結果をどういうふうに受け止めたのだろうか・・・
多少でもこれで安倍一強政権に風穴があいた、少しはましな政権になるんじゃないか、と思ったか。
それどころか、安倍氏は、真摯に反省しているようだ、と、好感を持って受け止めたか。
それとも、『なにも変わりはしない・・・』と、冷めた目で見つめていたか。

私は無論、なにも期待しない。
むしろ、一見、安倍氏が謙虚になったような印象を与えることで、逆に、その危険さが増した、
とさえ思って警戒を強めているところである・・・
自分の個人的悲願のためならいくらでも頭を下げる、政治姿勢が変わったのかと思わせるような
ポーズでも何でもしてみせる。そのことで、このひとの改憲への本気度を確認したように思うからである。
森友・加計問題や自衛隊日報問題に見るような、この政権の隠蔽体質や、異常なほどの
巨大『忖度』構図は、ちょっと内閣改造したくらいでは変わりはしないし、問題が明らかに
解明されたわけでも無論全然ない!

安倍氏だけではない。
自民の一強という点ではなにも変わりもしないし、改憲勢力三分の二越えという危険も
何ら去ってはいない。

国民は、ますますこの政権のありようを、しっかりと見つめていかないと。
国民の厳しい目こそが、政治の腐敗を防ぐのである。そのことに国民はもっと
自覚と確信を持つべきだ。

さて。
書きたいこと言いたいことは山のように溜まっているのだけれど、とりあえず、今回の
内閣改造について感じたことを書いてみよう。
この記事のタイトルを『腐った林檎』としたのには、痛烈な皮肉といたたまれないほどの危惧
をそこに込めているからだ・・・

『腐ったリンゴを樽に戻せば樽の中は全部腐る』
これは、実は、今回外務大臣に任命された河野太郎氏が、2009年の自民党総裁選に
立候補したときの弁の一部である。そのときの彼は、この『腐った林檎』という表現で、
森喜朗氏などの自民党の重鎮支配を皮肉っていた。
実は、この腐った林檎に関する表現には出所があって、英語のことわざの
One rotten apple spoils the barrel.


を、英語で演説が出来ると言うほどの英語力を持った河野太郎氏が引用したもの。
(rottenの代わりに bad、 the barrelの代わりに a hundred などさまざまに異なる表現あり。)

私は、もしかしてこれが安倍政権の内閣改造でなかったならば、河野太郎氏の外務大臣等の
起用を、歓迎していたかも知れない。河野太郎氏は、私が自民党の中で唯一支持するに足る
政治家であり、脱原発などその言動に賛同することも多く、また、党内にあって歯に衣着せぬ
正論を堂々と吐くひとなので、好きなのである。
もし私が、自民党支持であるならば、この人なら総理大臣にしてもいいと思う数少ない
政治家のひとりである。
私が、自民党内で評価している数少ない政治家としては、もうひとり茂木敏充氏がいて、
この人も今回、経済再生相として入閣した。
茂木氏の名を覚えたのは、あの2011年3月11日。東日本大震災で、福島第一原発事故が
起きて、原発の行く末についてNHKなどで盛んに与野党の代表の討論などが行われていたとき、
この人が、自民党代表として、しゃべっているのを聞いたときからだ。
彼は、非常に穏やかな議論の仕方をする。まず反対意見の相手の言も良く聞く。しかる後に
自分の意見・党の考えを、言葉を選びつつ、わかりやすく説明する。
無論、自民党であるから、原発推進派には違いないのだけれども、その論議の進め方、
言葉の選び方、そして何より議論への誠実な向かい合い方・・・で、私はこの人を非常に
信頼に足る立派な政治家だと思ったのであった。
非常に頭のいい人だ。
惜しむらく、河野氏か茂木氏が経産相だったら、もっとよかったのだが。(脱原発に希望が・・・)

というわけで、今回の安倍内閣改造には、2、3、評価出来なくもない点はあるにはあったのだが。

だが。
いみじくも、その河野氏が2009年に言った言葉、『腐ったリンゴを樽に戻せば樽の中は
全部腐る』、というのが、まさに、今回の安倍内閣改造人事で憂われるのである。

世評では、ひょっとすると、リベラル派と俗に言われる岸田氏までもが、安倍氏に今度は閣外から
『協力する』形になったこと。安倍氏に遠いとされていた野田聖子氏が総務大臣というポスト
を得て入閣したこと。また、国民の間で人気の高い、これまた安倍氏にはこれまで少し
一線を引いていた小泉進次郎氏までもが筆頭副幹事長という党のポストに就いたことなど、
これまで安倍政権のなにかと批判の的になっていた『おともだち人事』からの脱却が行われた
といって、今回の改造が好感を持ってみられるかも知れない。
『これで、安倍一強体制にも風穴があいた』『これで、安倍氏も、党内の反対意見にも
耳を貸すようになり、独善的でなくなるかも』・・・・・・などと期待されて。

しかし、私は、これらの人々が、閣内や、閣外ではあっても、重要ポストに就くことで、
逆に安倍内閣に取り込まれてしまい、その清新さ(仮にあるとすれば、だが。!!!)を
失ってしまうのではないか、ということを懸念する者である。

安倍氏は、二次政権として総理の座に戻ってきてから、非常にしたたかになった・・・
そして巧妙になった・・・
氏の政治家としてのおそらく原点であり悲願であるいわゆる『日本国憲法を自分の手で
変えて見せた』という実績作り。
その目的のためならば、多少の不愉快も我慢する。どんな手も使う・・・・・・
安倍首相は、今回の森友学園、加計学園、自衛隊の日報問題、その他自他を含む
多くの問題や失態に対して、国民の目が一挙に厳しくなったことを、痛烈に自覚して
いると思う。
自民党内部にも、『王様は裸だ』ということに気づいてしまった者たちがぶつぶつ不満や批判を
漏らし始めたことには、それ以上の危機感を持ったことだろう。
国民や党内部の支持を失うと言うことはイコール悲願の改憲に危険信号がついてしまう
と言うことだ。
今回の内閣人事は、従って、相当に考え抜かれた、いわば背水の陣とでも言うべき
覚悟の体制を組んできたように思える。

それだけに、誰がなに大臣になったの、誰が入閣しなかっただのといって、お祭り騒ぎに
これをしてしまってはならないのである。
今回の人事は、相当に巧妙に行われている・・・
安倍氏の反対勢力、ともまあ一応目されるべき人々が、入閣や閣外の重要ポストを
得たことで、安倍政権に取り込まれてしまって、せっかく少し芽生えた『安倍一強体制』
への疑問や不信、それから、安倍氏でないと今はだめなんだという思い込みへの疑い、
いわば、『王様は裸なんじゃない?』というつぶやきが、これでまた潜ってしまう、ということが
考えられるからである。
それは、国民の意識の問題としても同じだ。
これが、安倍政権のさまざまな不祥事や体質的不正への国民の不満のガス抜きに
なってしまうのでは、安倍氏の思惑にまんまと乗せられてしまうのも同然となる・・・

私は、安倍氏を嫌いだから、言っているのではない。
明らかに、こういう政治はおかしいと思うから、こうやって批判をしている・・・・・・

考えてもみよう。
・一国の代表たる政治家たちが、自分の友人や自分の思想に近い者ばかりを優遇する・・・
それも、どんなに客観的に見ようとしても異常な関係と目に映るほどに。
・一方で、自分にとって都合の悪い情報を流したりする者は、排斥し遠ざける。
・ときには、その人の個人的生活までもを引き合いに出して、それを自分に非常に近い大新聞に
すっぱ抜きさせる・・・
・自分たちに都合の悪い文書は『怪文書』などと決めつけて、その存在を無視し、その一方で
それに反論する材料となるような『正当な?』文書などは自分たちからは示せない。
・いよいよ出てしまった都合の悪い情報に対しては、問い詰められても『記憶にない』
『覚えていない』『記録がない』の一点張りで、どうにか逃げ切ってしまう・・・
・首相や内閣、政治家のためではない、国民のために動く清廉のひとを、よってたかって
潰してしまう。(前川氏のことだけを言っているのではない。)
・いよいよ自分たちに火の粉が及びそうになると、『とかげのしっぽ切り』でもって
部下にその責任を負わせてしまう!
・『平和』『活躍』『思いやり』などなど、本来いい意味の言葉も、彼らが多用悪用する
ことによって、イメージがどんどん汚れていき、言葉ばかりか、その言葉の持つ
価値や理念までが崩れていってしまう・・・
このことの恐ろしさを、みんなもっと考えた方がいい。言葉は理念なのだ。
『理念』の腐りきって崩壊した国家など、そんなおぞましいものがあろうか。
・国民のために、『公』のために働くべき人々が、あるいは上からの圧力のために、
あるいは自分自身の保身のために、上の意向ばかりを『忖度』するようになって、
官僚機構、政治機構が、土台から腐っていく・・・


このようなことが、今、国の上の方で、堂々とまかり通っているのだ。

こうしたことが、国中に広がっていってもいいのだろうか???
子供たちに、こういう生き方が得だから真似しなさいと、教えるのか???
『正直者は馬鹿を見る』『言ったもの勝ち』『やったもの勝ち』・・・そういう無責任が
国中に横行していいのか???

腐った林檎は、周りを腐らせていくのである・・・
『朱に交われば赤くなる』などというものではない。じわじわと・・・気づかれもせぬうちに・・・
国が、人心が・・・、腐っていくのだ。



森友、加計問題などについては思うこと多し。
また別に書こう。









『キャンドル・ナイト 76』


76回目のキャンドル・ナイトだ。


キャンドル・ナイト76③




実は、義姉が亡くなって、その葬儀に行っていた。
と言っても、家には介護の必要なつれあいがいる。
一人残していくのは心配だったが、食べるもの必要そうなもの、みな身近なところに用意しておいて
早朝4時台の始発に乗って新幹線に。
そして葬儀にだけ出てまた新幹線でトンボ帰りという慌ただしさだった・・・
家に帰り着いたのは、夜10時過ぎ。
ふ~ぅ・・・

しかし、義姉は、15年間病いと闘って、雄々しく美しく逝った・・・
若い頃、元ミス○○○というような経験もあったひと。病と闘った痕跡も、年齢の刻む
残酷なしるしも感じさせないような、ふくよかで美しいとさえ言える死に顔だった・・・

兄とも15年以上会っていなかったが、義姉と同じ歳の兄は、体つきも昔のまま、大きな声も
昔のまま、あまり年齢による衰えをきたしていないのを今回知ることが出来て、少し安心した。
お互いに年を考えれば、もしかすると兄と妹としてのこれが別れになるかも知れないと
覚悟して行ったのだが・・・

否応なしに迎える老いのこと・・・
無論。6年前の大震災と原発事故のこと・・・、九州の大雨被害・・・
命について いろいろ思ってしまう旅であった・・・

心楽しむ旅では無論なく、家に残してきた体の不自由なつれあいのことを案じつつの旅。
それでも家から離れて一応『旅人』の境遇に我が身を置いてみれば、家に居ては考えない
だろうこともあれこれの思念となって胸の内を通り過ぎていく・・・

と言っても、新幹線の行き帰り、と言うだけの景色しか見ていないのだが。
新幹線の車窓からだけ見る景色は、たいして面白いものでもないのだけれど、
なにかいつも好きだ・・・。
新幹線の窓と同じ高さにあるオフィスビルの一室の窓の内に働く人の姿・・・
向こうはもちろん新幹線の窓から私に見られているなどとは知りもしないわけだが、
今の今、眼下の交差点を渡っていく白いワイシャツ姿の青年の顔や仕草がはっきり
見えたりもする・・・
まあ、なんと工場群がいっぱいあることか・・・超一流企業のも、小さな工場も・・・あそこでは
やはりそれぞれに暮らしや日々の想いを抱えた人々が、今日も働いているのだ。

ずっと昔…
高校を卒業してわずか3か月の間だけ、会社勤めをしたことがある…
母校が探してくれた東京の株式一部上場会社の技術課勤務だったのだが、
大学にやはり行きたくて、学費のあても受験しても通るあても何もないまま、
若さの勢いで、3か月で退職してしまって、不安定なアルバイト生活に入ったのだった・・・
だが、その3か月の間のOL経験は、いつも妙に懐かしい。
お昼になって社員食堂に行くときのあの感じ、お昼を食べ終わってわずかの残り時間に
同じ課の人間たちが輪になってバレーのトスを楽しんでいたことなど・・・
新幹線から見えるあれらの工場の一つ一つに、若い頃の自分自身がいるような、
そんな気がすることがある・・・。
沿線に続く田んぼの光景。その青田の中に一軒だけぽつんと、民家とも倉庫とも
つかぬ建物が立っていたりする。
あそこにひとがもし住んでいるのなら、夜はさぞかし寂しいだろう…でも、なんていいのだろう!

決して美しいなどとはお世辞にも言えないそうした沿線の景色に、いつも私は、美しい
観光地に行った以上の旅情というか、旅の興趣を感じる・・・

東京駅を出てすぐの巨大なビル街で以外は、実はいつも新幹線沿線に人間の姿というものは
案外少ない。稲が青々と育っている田や耕作放棄された畑地や、人気の見えない工場群や、
東南側にぐるりと小山が重なってあって、なにかこう・・・見ていて寂しさと圧迫感を感じてしまう
ような土地に、ひっそりと立つ新しい建売住宅の数々・・・それらにも人の姿は見かけない。

だが。当然のことだが、車窓から姿は見えずとも、それらに人々は生きている・・・
新幹線と並行して走る農道を行く軽トラックにだって、当たり前だが誰かが乗っているわけだ。
そう思うことは、なにかふっと涙ぐんでしまいたくなるような感動というか、人々への共感を、
いつも私の胸に引き起こす。

いつ見ても同じように見えて変哲もない新幹線からの光景ではあるけれど、実は気をつけて
見ていれば、そこに今の日本の現状の、さまざまな姿が、様相を変えて現れていたりもする。
一年前に乗った時よりは明らかに増えているように見える沿線の太陽光発電施設の広がりは、
一種の異様さと非現実感を持っていきなり目に飛び込んでくる・・・
ああ・・・耕作放棄地が増えているようだなあ・・・
ああ・・・ニュースにもなった静岡の河川の異常渇水。今も解消されていないようだ・・・
それに比して、木曽川、長良川は豊かな水量を見せて流れていて、ほっとさせる・・・
東京は空梅雨で、我が家の裏の川も白い河床が見えてしまっている。 だが、
どこでだったかな、関東の少雨と晴天続きが嘘のような雨の光景もいきなり現れた。
それほど距離のない山々が見えなくなるほどの激しい雨の中に新幹線が突っ込んで、
私ののぞき込む窓にも雨が横殴りに吹き付けていたかと思うと、10分後くらいには、
乾いた道の光景が来たりもする・・・

それらの脈絡もない光景を通じてなぜかそれでも感じるのは、日本の『疲弊』である・・・
日本も老いたのだな、という想いである・・・
無論、新しく勃興してくるものもなくはないのだが、また、日本経済の土台骨を長く支えてきた
有名企業の広大な、美しく整備された工場敷地なども次々に窓外には現れてきて、日本経済の
底力というものは信じられるのだが、それでもそれらの力や勢い、というよりは、やはり
過去には新しく生き生きしていたであろうものらの否応無しの老朽化のほうが、どうしても
目についてしまう・・・。
さび付いていろいろなものが剥がれ落ちたままに、外装のメンテナンスもされていないような
建物や工場群のなんと目につくことか・・・

それらの光景から感じるのは、『あきらめ』にも似たある種の静けさ、だ。
その一方で、それでも生き抜いていこうという人間のたくましい意思だ。

新幹線沿線の景色を見つめ続けていると、いつでも私は、そこに確実に生きている
姿の見えない人々への共感に、胸がいっぱいになる・・・

そうして。また、政治のあるべき姿のことを思ってしまう・・・

支持政党とか思想信条とか、派閥論理とかそんなものを超えて、政治は、生きている現実の
人間を大事にしなくてどうする!と思ってしまうのである。
それは、つい頭でっかちに理想を語りがちな自分への痛い認識でもある・・・

新幹線に乗ると、いつも、一億三千万分の一の暮らしが、ほんの一部だが、見えてくる
ような気がしてしまう…  
その中に私も無論いる・・・東京郊外の、小さな我が家の窓の灯りもその中の一つだ・・・

そして。
ああ・・・!このあたりは、2年前、娘と共に乗っていて、うたた寝から覚めたら急に雪景色に
変わっていたあそこだな、などとも思う。娘が隣で、連日の仕事に泥のように疲れて眠っているのを
『雪だよ』と言って起こしたことなども・・・。

私のように、たった一度トンボ帰りしただけで疲れてしまう人間などお笑い種。
仕事で日常のように東京ー大阪間を一日のうちに往復する勤め人なども新幹線には
当然乗っている。そういう人種らしききちんとした背広姿の一団も整然と乗り込んできたり
するのだが、そういう人々の旅慣れした振る舞いは、いつも美しいなと思ってしまう私である。

いつも東京に帰り着くのは7時過ぎだ・・・横浜あたりからの大都会の夜景は、文句なしに
華やかで美しい。高層ビル群の窓窓には煌々と明かりが点り、まだ仕事をしている
男女の姿も新幹線の窓からは見えたりする。
これまた私には縁のない世界だったが、この華やかな姿も日本の一つの現実ならば、
わずか数時間の日本一部縦断で見た光景の一つ一つもまた現実の姿。 

難しいことを言おうとしているのじゃない。
生きていくというのは、なんと愛しいものか、と、新幹線に乗るたびに思う。
そのことだ。



















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心ひとつに キャンドルナイト








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『共謀罪法成立 この忖度の国ニッポンで!①』

ついに、『平成の治安維持法』、と呼ばれる共謀罪法案は、衆参の両院で強行採決
され、成立してしまった。もう6月21日には公布され7月11日は施行の運びという。
なんとおぞましいこった!
これほど国内外の多くの識者などから、そのテロ対策への効果への疑問と必然性への疑義、
そして一方で国民の自由権やプライバシー権などを奪うなどその重大な危険性を指摘
されていた法案を、かくも短く粗雑な国会論議ののちに自公維新らがこれほど急いで
採決成立させた本当の理由はなんなのか。
世論調査に拠れば、国民の70%近くがこの法案の意味がよくわからないと答え、その多くが
『成立を急ぐ必要はないのじゃないか』と感じているようだ。
だが、国民の中には、政権の『テロ対策やオリンピック・パラリンピックのためにこの法案は
必要なんだ』という説明に、まんまと欺かれている人々も多そうだ。
街頭インタビューなどで、そう答えている声も聞いた。  
政府と政府寄りの報道機関などが、繰り返し繰り返し『テロ対策とオリンピックのため』と
唱えることで、それが悲しいことに真実のようになっていってしまう・・・・・・
だが、何度でもいうが、この法案が必要な理由としてその二つをあげるのは、それこそ
『印象操作』の最たるものである。

本当の理由は何か。
私は前回の記事で、ざっと次のような理由を列挙してみている。
無論これがすべてではないだろうが。

①警察権(とりわけ公安警察)の拡大強化。
②市民運動など政権に反対する運動の萎縮とジャーナリズムの体制批判萎縮。
③森友学園・加計学園問題からの視線反らし。
④アメリカからの要望(スノーデンなどはそれを指摘している)
⑤やがてもくろんでいる改憲のために、改憲反対言論・集会などの力をそぐこと。



私の詳しい考えを述べる前に、ちょっと前置きしておきたいのだが、安倍政権および自民党が、
共謀罪法成立に固執するのには、〈短期的〉と、〈長期的〉と、大きく分けて二つの理由がある

のではないか。

〈短期的〉理由とは何か。
それは、なぜ安倍政権がかくもこの共謀罪法案の可決を急いだのか、という疑問に直結する。
よく挙げられている理由の一つに、都議選が近づいているために、自民党が同盟を組む
公明党に配慮して、国会の早期閉幕を急いだ、ということがある。自民党都議連そのものも、
小池知事の都民ファーストに押されまくっているので、都議選立候補予定者には、国会の
会期が延長され、共謀罪法や加計学園問題で、悪印象が広がるのは絶対に避けたい、という
ことがあっただろう。

だが、私は、安倍政権そのものには都議選への影響などということは二義的なものに
思えているのではないかと考えたので、敢えて、この5つの項目の中にはこれを入れなかった。
共謀罪法の今後の歴史に与える影響を見た場合のその重大性に比し、都議選、という
課題はあまりにも意味が小さいと思うからでもある。
何よりも私は、小池氏の『都民ファースト』などという政党だかなんだかに全く関心も共感も
ないし、小池氏の政治思想は安倍氏のそれとなんの違いもないので、都議選に
しらけきっている、ということもある。自公維新プラス都民ファーストの改憲勢力が、
都政であるにせよ、予想で7~8割の得票を得るという状況は、これまたおぞましい
のではあるが。

安倍政権が共謀罪法案にかくまで固執し、その成立を急いだ理由。
短期的理由は、ただ一つ。
無論、上記の中の③。あの、森友問題、加計学園問題への安倍総理自身の関与が疑われたので、
その火消しと目くらましのために、共謀罪法審議の方へ、野党と国民の目を反らそうとした

ことだった、と私は考えている。
しかし、これだけを安倍政権が共謀罪にこだわる理由だとしてしまうには、時系列的に行って
無理がある。なぜなら、森友、加計問題が浮上するよりも、共謀罪法案を次期国会(今国会)で
やろうと自公らが思ったことの方が先だからである。昨年からすでにその意図はあった。
森友、加計問題は、非常に重大で大きな問題を含んでいるテーマなので、これらについては
また、このあとで書いていくつもりだが、
私が、この記事で真剣に考えて書いていってみたいのは、むしろ①、②、④、⑤の〈長期的理由〉
の方である。
(②と⑤は同じじゃないかと見えるだろうが、②は言論の萎縮そのものがターゲット。⑤は
『改憲』が至上課題、という点で分けて書いた。まあ、一つにまとめてもいいのだが。)

安倍政権および自民党が共謀罪にこだわる〈長期的理由〉。
それはなにか。


ふ~う・・・これを語るのは長くなる・・・
まずわかりやすいところから行こうか。
⑤『やがてもくろんでいる改憲のために、改憲反対言論・集会などの力をそぐこと


安倍氏および自民党、日本会議の人々などを含む安倍氏周辺の人々の政治的悲願は何か。
それは、あの『GHQに押しつけられた』『醜い』憲法を、改憲することである。
安倍氏が自らいつも繰り返し言うように、それは『自民党結党以来の政治綱領』であり、
1955年(昭和30年)、自由党(1950~1955年)と日本民主党が『保守合同』して
新党『自由民主党』(現在の自民党)を結成したいわゆる『55年体制』の立役者の
ひとりが、安倍氏の祖父岸信介氏であり、岸氏は、その自由民主党の初代幹事長
であった。

党の政綱
昭和三十年十一月十五日

(中略)
六、独立体制の整備
平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正
をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。
世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、
国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える。


現行『日本国憲法』の改定は、自民党結党以来の悲願であり、それはなにも安倍氏に
限ったことではなく、何代もの歴代自民党政権が願ってきたことではある。
だが、その祖父の日本国憲法を自主改定する願いを引き継ぎ祖父の叶えられなかった願いを
自分の代で実現したいという改憲の想いの強さと因縁にかけて、安倍晋三氏の上を行く
政治家は少ないだろう。
その願いの叶えられる条件が、今ほど整ったことはかつてなかった。
私たち国民が、安倍政権下の与党およびその補完勢力に、衆参両院で改憲発議に必要な
三分の二以上の議席を与えてしまったから
である!!!

すべては、『改憲』に向かってまっしぐらに突き進んでいる。
安倍氏は、第一次政権の時から、着々とその環境を整えてきた・・・
まずは2007年。国民投票法を成立させ、改憲の第一段階をクリアした。
18歳から投票できるとした国民投票法と、現在の選挙権が20歳からということの不整合を
直すため、昨年2016年、公職選挙法をついに変えて、18歳以上に選挙権を与えることにした。
以上は、まず改憲のための法整備、ということである。

国家に従順な国民を育てるには何が一番手っ取り早いか。『教育』である。
2006年。教育基本法改定。

2007年。学校教育法・教育職員免許法及び教育公務員法・地方教育行政の組織及び運営
に関する法律、いわゆる『教育改革関連三法』改定



安倍政権の、教育への過干渉。それは、今回の森友学園問題や、加計学園問題
などとも密接に繋がってくる・・・
森友学園で行われていた幼児への『教育勅語』教育。それを安倍昭恵夫人は素晴らしいと
褒め称え、新設される予定だった小学校の名誉校長に就任。昭恵氏は15年6月から、
加計学園が神戸市で運営する認可外保育施設「御影インターナショナルこども園」でも
名誉園長を務めている。

安倍晋三氏自身も、森友学園問題が表面化して国会で追及されるようになって、
籠池氏との関係をまるでそれまでなかったかのように忌み嫌って(!)断ち切るまでは、
かの森友学園の教育方針を『森友学園の教育方針に私も妻も非常に感銘しており』、と
褒め称えていたのである

さらに言えば、安倍政権下で進む特定の歴史および公民の教科書採択。
たとえば、育鵬社のものだが、加計学園問題で注目されている加計孝太郎氏は、
第一次安倍政権で行った『教育基本法改定』、その改定教育基本法に基づいた
歴史教科書及び公民教科書を出版することを目的として設立された『教科書改善の会』
の賛同者であり、グループの岡山理科大付属中学では歴史・公民ともに育鵬社の教科書を
採択している。


育鵬社の教科書がどんなものか。たとえば公民の教科書に安倍首相の写真が15枚も
掲載されている、ということ一事をとってみれば、それがどのような性質のものか
わかろうというものだ。詳しくは、『育鵬社版の中学校社会科教科書を読んでみた』

話を戻そう。
特定の国家観に沿うような従順な国民を育てるのに有効なのは、『教育への介入』だと
書いた。もう一つある。
それは、国民の『知る権利』を奪うことである。ジャーナリズムを萎縮させること。

共謀罪法案の大きな目的の一つはそれだ。

それは、安倍政権および自民党のこれまでのいろんなやり口や考え方を総合してみれば
明らかなのである。
16年、衆院予算委員会で、放送局が政治的な公平性に欠ける放送を繰り返した場合の
電波停止の可能性に言及した高市早苗総務大臣。
15年。安部首相に近い自民党の若手議員約40人が作家の百田尚樹を講師として招き
開催した憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」の初会合においては、
『マスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働き掛けてほしい』
『悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい』などの発言が相次ぎ、
沖縄県の地元紙が政府に批判的だとして、『沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない』と
安倍首相とも非常に親しい作家百田尚樹氏が発言。
NHKの経営委員人事で、自分の思想に近い人物たちを送り込む。一方、自分に批判的な
テレビ局解説者などには、報道が偏向していると言ってクレームを入れる・・・

そうした日本政府の報道への姿勢と報道機関の独立性に対し、国連報告者の
デービッド・ケイ氏が懸念を示すと、共謀罪法に関して国民の自由権やプライバシー権
についての懸念を示した同じく国連報告者のジョゼフ・カナタチ氏に対してと同様に、
日本政府は異常なほどの猛反発を示した・・・
自分たちを批判するもの、苦言を呈してくれるものへのこの異常なほどの過敏な反応・・・。
一方で、読売新聞、日本テレビ系列などへの一部『親安倍』的メディアには、首相自ら
記事を寄せたり出演したりして、報道を私物化する傾向がある。ついには国会での
自らの改憲案に対する『丁寧な説明』はまるで無しに、『読売新聞に書いてあるから
それを読んでくださいと、説明放棄する始末。
このほかにも、この政権の中枢およびその周辺にいる人々がしてきた発言には、政権に
融和的なメディアや私企業には甘いが、国家権力の言うことを聞かない市民やマスコミは
懲らしめていい、というような考え方が充ち満ちている・・・

極めつけは、もうこのブログでも何度も記事にしているが、現行憲法が保障する国民の
諸権利に、自民党改憲草案では、第12条、13条、21条、29条などの条文で、
『公の秩序に反しない限り』という条件を付加していることである。

これは、軽く考えればたいした違いではないと思われる向きもあるかも知れないが、
現行憲法が、主権者たる国民に当然の権利としてさまざまな自由権や生存権に属する権利を
与えているのに対し、『公の秩序に反しない限り』それらの諸権利を認める、という自民党
改憲案の底を流れる根本思想は、国家がその権利を与えてやるよ、という、国家主権の
思想そのもの
であると言うことが、大きな大きな違いであると言うことを、私たち国民は
知っていなければならない。
それは、彼らが回帰したがっているようにしか思えないかつての大日本帝国憲法の、
第29条『日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス』
(現代語訳: 日本臣民は、法律の範囲内において、言論、著作、印行、集会及び結社の自由を有する。)
に戻るどころか、それよりもなお、強権的色彩を帯びている!

この、自民党改憲草案の『公の秩序に反しない限り』という文言が、
まさに、共謀罪法案の本質を為していると私は思っている。

安倍氏や金田法務大臣が、共謀罪法論議の最中に、『一般人は対象にならない』と何度も言っていたが、
『一般人』とは何か。政権に批判的な言論・運動をしない、すなわち『公の秩序に反しない』
『公の秩序に適合する』おとなしい国民のことを『一般人』と言っているのではないか

そのおとなしい『一般人』も、沖縄の基地闘争の人々のように、自分たちの生活権を守るために
座り込み運動などをすれば、『公の秩序に反した』として、『テロ集団』とみなされる危険性だって
大いにあり得るのである。それに近いことはすでに現に行われている・・・
共謀罪法には277も対象になる犯罪があるが、私がその中でも警察権の乱用の危険性が
あるととりわけ心配するのが、『内乱等幇助、騒乱、往来危険、組織的な威力妨害業務、組織的な
建造物損壊』など
である。こうした罪が対象になるということを後ろ盾に、デモ、集会、散らし配りなど
正当な国民の権利としての政治行動をしている市民団体などに対し、『往来危険』罪などを
適用する、などという極めて警察公安などの恣意的解釈による逮捕などが増えていく恐れは
十分にあり得る。やがて、そうした国民の政治参加は、萎縮して行くであろう・・・

共謀罪法案についての街頭インタビューで、『私はデモなどしないし(関係ない)』と答えていた
人がいたが、自分がデモなどの市民運動をするとかしないとかいう問題ではない。
『反政府的な』言動を取り締まろう取り締まろうとする・・・萎縮させる方向へ方向へと
動く傾向のある政府というものが、国民にとって望ましいかどうかと言う問題なのである。


安倍氏の第一の悲願は、先にも述べたように、祖父もなし得なかった改憲・・・
自民党政権の歴代総理の誰も出来なかった日本国憲法の改定を、自分の政権時において
成し遂げることである。
すべては、その一点に集約されていく・・・
そのために何よりも大きな障害となるものは何か。
世論である。
国民の反対が大きくなれば、改憲は無論なし得ない。
それでは、国民の考え方を変えるにはどうすればいいか。
改憲反対運動など、反政府的な運動を萎縮させることである。
そして、都合の悪い情報を与えないことである。

2013年。特定秘密保護法。
2015年。マイナンバー制度。
2016年。通信傍受法改定。盗聴対象拡大。


そして。
2017年。共謀罪法成立。







(この記事続く)



『共謀罪法案に反対する ③』

2017年6月14日。今晩中にも、平成の悪法、共謀罪法案は、自公維新らによって
参院法務委員会での採決をもすっ飛ばしたかたちで、異例の本会議強行採決が
実行されそうだ。

国会の内・外において、必死でこの悪法の成立に抵抗している議員諸氏、そして一般の
市民に強い連帯の思いを伝えたい。
本当なら、私も、国会前に行って抗議の声を上げていたい・・・

この共謀罪法案は、テロ防止、オリンピック・パラリンピックを無事行うためのものなどではない。
それらは口実である。

共謀罪法を、このように国民にもその趣旨説明不徹底のまま、かくも急いで採決成立させたい
安倍政権の意図を、国民はもっとしっかり考えてもらいたい。

私が考える、共謀罪法案の真の意図は、以下の通りだ。

①警察権(とりわけ公安警察)の拡大強化。
②市民運動など政権に反対する運動の萎縮とジャーナリズムの体制批判萎縮。
③森友学園・加計学園問題からの視線反らし。
④アメリカからの要望(スノーデンなどはそれを指摘している)
⑤やがてもくろんでいる改憲のために、改憲反対言論・集会などの力をそぐこと。

簡単に書いているが、そのそれぞれに深い説明が必要だ。
また続けて書いてみる。

一つ言っておきたいことは、今回の共謀罪法案は、それだけを見ていては、その本質的危険が
本当にはよくわからないだろうことだ。
共謀罪法を理解するためには、戦前戦中の治安維持法がどんなものだったかを知る
必要があるだろうし、
安倍政権および自民党の共謀罪へのこだわりを読み解くには、敗戦前後の日本の
政治史をやはり知ることが必要だろう。

・・・かくしたのちに、すべては、安倍氏およびそれを取り巻く人々の、『現行日本国憲法を
否定し去りたい』という執念にたどり着く。というか、そこからすべては出発する。
安倍氏が3年後の2020年にもくろんでいるらしい日本国憲法の破壊。
そこへすべてが集約されていく。

彼らは何がしたいのか。
『国民主権』のシステムを破壊し、戦前の『国家主権』の社会に回帰することだ。
全く時代錯誤でおぞましい、理性的に考えてあり得ない野望なのだが、彼らは大真面目である。
彼らにとって、おそらく、天皇さえ主ではない。
『既得権益の岩盤規制を破壊する』と口では言いつつ、実際は、内閣総理大臣を
中心とした『行政権』のますますの強化、権力集中が目的であろう。
そのためには、国民、ジャーナリズムの反抗の牙を抜き取っておく必要がある。

物言えぬ、おとなしい国民を作り上げること。
通信傍受法(盗聴法)改悪、秘密保護法、マイナンバー制度、共謀罪法・・・
そしてすでにとっくに為された教育三法改定など教育への過介入(森友・加計学園問題は
これと無関係ではありません)・・・。
これらはみんな、密接に結びついている。

そんな、一内閣による、国の姿そのものの破壊を、みんなは黙って許すのですか?




『キャンドル・ナイト 75』



あの日から6年と3ヶ月。75回目のキャンドル・ナイトだ。




CIMG7321.jpg



今夜も、小さな亀山ローソクを灯す。
小さな透明な冷酒グラスに入れてみたら、ガラス器の凹凸が思いがけない美しい模様を描き出した。
なんだか、清浄な白い蓮の花のよう・・・・・・

亡き人を静かに想うのにふさわしいかも知れない・・・





怒りは沈潜している。


こころがふっとやわらぐのは、草木や鳥たちなどをみているときだ・・・

今年も、庭のどくだみを切ってきて、花瓶に挿してある。
キャンドルを灯した小さなガラス器にも。





CIMG7326.jpg




・・・この灯りや花の清浄さを見ているだけで、ささくれだった心が多少洗われる気がする・・・


今年はまだホトトギスの声が聴けない・・・

もう、我が家のあたりにはいなくなってしまったのだろうか・・・寂しい・・・・・・









南亭さんバナー②




心ひとつに キャンドルナイト








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『共謀罪法案に反対する ②』

共謀罪法案は、60%もの国民がよくわからない、といっているにも関わらず、
衆院法務委員会で採決可決され、23日には衆院本会議で可決されるのであろう。
『テロ対策』『2020東京オリンピック・パラリンピック』のためだ、と言われれば、
国民は、そうかな、やっぱり必要なものなんだろうな、と思わされてしまう。

だが。今回上程された共謀罪法案は、テロ対策や、オリンピックの名を借りて、
国家権力が国民の思想信条・集会結社の自由など現行憲法が国民に保障する権利を奪う、
少なくともそうした活動や精神の自由を萎縮させてしまうものに化けかねない、
いわば、戦中の治安維持法にも似たとんでもない悪法である
ことは、前の記事でも書いた。

とは言えども、普通の(と言う言葉がこの頃私は大嫌いなのだが)暮らしをしている、
いわゆる『一般人』には、自分には関係ない、その恐ろしさも感じない、というもので
あろうことも事実であろう。

この法案が成立しても、『普通の人』の生活は何ら変わらないだろう。
『普通』、市井に慎ましく生きているひとは、テロ準備を疑われるような物騒なことは
考えもしないし、それに荷担・共謀を疑われるようなことはしない。
また、『物言えば唇寒し秋の風』と、昔から言うけれども、なにも権力にたてつくようなことを
物言うようなことをしさえしなければ別にこんな法案が通ろうが怖いことはないのである。

今回、この法案の審議中、政府側の人間の口から何度も、『一般の人にこの法律が
適用されることはない』という保障が語られたけれども、そう!まさに!この『一般の人』
と言うのが、こうした、慎ましくおとなしく生きている物言わぬ民のことなのであろう。

しかし、世の中はそれでいいのだろうか。
政治家や官僚、またその他いわゆる権力を行使できる立場にいる人々が、常に正しいことを
するとは限らない。ときに彼らもとんでもない間違いを犯すことだってあり得るだろう?

政治やその他権力者のしていることがおかしければ、それを『おかしい』、『間違っている』と、
勇気を持って言う人考える人がいなければならないだろう。
最悪、政治や権力があまりにもひどい場合には、立ち上がって戦うことも必要だろう?
この悪法が成立し、施行されていくということで問題なのは、そういう人々がこの法で萎縮して
いなくなっていく怖れがある、ということなのである。

それで萎縮する程度の正義感なら、もともとたいしたものではない、と思われるかも
知れないが、世の中の正義というものは、たとえ弾圧されようと屈しないそういう桁外れの
強い意志を持った一部の人だけが守っているのではない。
強い抵抗者ではあり得なくても・・・、なにも物言えずとも・・・、心の内に不正を憎み正しいことを
志向する多くの『一般の』人々が、『世論』というものを形成して初めて力を持つものなのである。
今度の法律は、悪用されれば、そういう人々が、あきらめ萎縮していく・・・。そのことが怖いのである。
あるいは、マスメディアなどジャーナリズム、教育界などが、急速に、あるいは徐々に
萎縮していって、権力にあらがうようなことはしなくなる、そのことが怖いのである。
ジャーナリズムや教育が、権力を忖度しその意向を察して動くようになると何が起こるか。
国民は、『知ること』が出来なくなる。
知らなければ、問題意識もおこらないから、ますますおとなしい物言わぬ民が、『一般人』が
増えていく・・・。

要するに、権力にチェックを入れるものがいなくなってしまうのである。


今回の『『組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案』、
いわゆるテロ等準備罪を含む組織犯罪処罰法改正案、要するに『共謀罪法案』の本質は、
そこにある。

5月20日付朝日新聞に、こんな小さな記事が載っていた。赤字強調は彼岸花。
『「共謀罪」法案、国連特別報告者が懸念 首相に書簡送る』

特定の国の人権状況などを調査・監視・公表する国連特別報告者で、「プライバシー権」担当のジョセフ・カナタチ氏(マルタ大教授)が、「プライバシーや表現の自由を制約するおそれがある」として懸念を表明する書簡を安倍晋三首相あてに送った。18日付。書簡は法案の成立を急いでいるために十分に公の議論がされておらず、人権に有害な影響を及ぼす危険性がある」と立法過程の問題にも言及している。

そして次のような懸念を示しているというのだ。
①法案の「計画」や「準備行為」が抽象的で恣意(しい)的な適用のおそれがある
②対象となる犯罪が幅広く、テロや組織犯罪と無関係のものを含んでいる
③どんな行為が処罰の対象となるのか不明確で、刑罰法規の明確性の原則に照らして問題がある
共謀罪を立証するためには監視を強めることが必要となるがプライバシーを守るための
 適切な仕組みを設けることが想定されていない




安倍政権は、国連の『国際組織犯罪防止条約』に入るために、国内法を整備しなければならない、
そのために今回の『組織犯罪処罰法改正案』いわゆる『共謀罪法』を新たに設けなければ
ならない、と言っているのだが、当の国連関係者から、その成立過程の杜撰さやその恣意的運用の
危険ひいては国民の人権侵害の恐れを指摘されているのである。

このジョセフ・カナタチ氏の懸念と共に、一つ前の記事で同じく私が引用した米ノースイースタン大
ニコス・パッサス教授の言葉を思い出してもらいたい。彼は国際刑法の専門家で、2000年に
国連総会で採択された同条約に関連し、各国が立法作業をするための指針を示した『立法ガイド』の
執筆で中心的役割を担った人である。

『「国際組織犯罪防止条約の目的はテロ対策ではない」と明言。
それぞれの国は、完全に条件を満たしていなくても条約を批准することは可能
と指摘。
国内法の整備においては)法の支配にのっとり公正でなくてはいけない。
日本国民の意向を反映させるべきだ
」と忠告
する。


国民の60%以上が、まだ法案の意味がよくわからないといっている中、あんな恥ずかしいレベルの
審議をわずかにしたのみで、このように海外の専門家からさえ危険を指摘されるような法案を
国会における数の力を利用して強行採決するこの政権のやり口が、果たして『法の支配に則って
公正に行われ日本国民の意向を反映したもの』と、言えるのであろうか???!!!

           ***


さて。実はここからが、私がこの記事で本当に言いたいことだ。
今、政府与党が遮二無二 この際通してしまおうとしているこの『共謀罪法案』。
前の記事でも引用したのだが、もう一度上記ニコス・バッサス氏の書いた当の
国際組織犯罪防止条約のための『立法ガイド』に戻ってみよう。
そこには、こんな一文がある。

43. 国内法の起草者は、単に条約文を翻訳したり、条約の文言を一字一句逐語的に
新しい法律案や法改正案に盛り込むよう企図するよりも、むしろ条約の意味と精神に
主眼を置くべきである
。法的な防御や他の法律の原則を含め、新しい犯罪の
創設および実施は、各締約国に委ねられている(第11条6項)。したがって、
国内法の起草者は、新しい法が国内の法的な伝統、原則、
および基本法と合致するものとなることを確保しなければならない。

これによって、新しい規定の解釈において裁判所や裁判官の違いにより対立や
不確定要素が生じる危険性を回避することができる。


ああ!私は、この一文を読むと、私たちの現日本国憲法の前文や、国民に侵すことの出来ない
永久の権利としての基本的人権を保障した第十一条や『すべて国民は、個人として尊重される』とし、
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利に最大の尊重を約束した第十三条や、
法の下の平等を明記した第十四条、また、私が、これを付け加えておいてくれたことを
一番GHQの人々に感謝する・・・そして自民党改憲案では見事に全削除されようとしている
第十章『最高法規』の条文を読んだときのように、涙が出てきそうにさえなる・・・・・・

第十章 最高法規

第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである

第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。




・・・なぜ、こんな堅苦しい憲法などの法律の条文を読んで涙が出てくるのか。


それは、そこに、人類の叡智が凝縮されているからである!




安倍政権の『共謀罪』法案成立過程とその中身に、人権侵害の危険を予感し、懸念の
書簡を安倍総理宛てに送った国連のジョセフ・カナタチ氏、同じく国連の『組織犯罪防止条約』
のための立法ガイドを執筆したニコス・パッサス氏。そして、71年前、日本国憲法草案に
『第十章 最高法規』の条文を滑り込ませておいてくれた、若きGHQの軍人たち・・・

彼らは皆、『法の理念』というものの大事さを知る人々であった、また今、ある、ように思う。
法律は、ときの権力者などによる恣意的な書き換えや運用を許すものであってはならない。
ましてや、一国の根本理念を書いた憲法においては。

ところが、私たちの国の今の政権の人々は、その、法や憲法の理念の大事さに対する『畏れ』がない。
彼らは、一国の法や憲法を、自分たちのものだとでも勘違いしているのではないか。
行政府の長である総理が、憲法を2020年までに変えると言う・・・

何が腹が立ち何が悲しいか情けないかと言って、私が、一番、腹立たしくもまた情けなく
思うのは、この国が今、『理』というものをどぶに捨て去ろうとでもしているように思えることだ・・・

『理』『理念』『理性』・・・『人類の叡智』と言ってもいい。
人類が、長い時間をかけて学んできたもの・・・
血と涙と汗と・・・ときに命をかけて獲得し守ってきたもの・・・

そこには、あらゆる尊いものが含まれている・・・
『平和』 『自由』 『平等』 『人権』
『人としての信義』・・・『真理やより高いものを希求するこころ』・・・『豊かな想像力』・・・
『人間の高潔さ』・・・『根本的優しさ』・・・
そうした情動的なものから、『人間の智の総和、とでも言えるような学問・知識の
分厚い蓄積』まで。
無論そこには、『法』とは何か。『民主主義』とは何か。『法治国家とは何か』
などといった概念やそれを獲得するまでの人類の長い戦いの記憶も含まれている・・・・・・・・・
『教育やジャーナリズムの不偏・独立性』という大事な原則もある・・・

そうしたものが、一部の政治家の恣意によって、蹂躙・破壊されていいのか?!

今、世界は、激動期に入っている。
それに振り回されてはいけない。
人類が長い長い時間をかけて築いてきたものがあるはずだ。
それは、この宇宙の大きな『理』にも合致する、極めて賢い理念のはずだ。


         ***


まだまだ、想いをうまくすべて書き表せないのだけれど、また、続けて書いていこう・・・





『共謀罪法案に反対する』

『共謀罪法案』。
政府が言うところの『組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する
法律等の一部を改正する法律案』が、いよいよ19日中にでも衆院法務委員会で採決可決され、
来週23日頃には、衆院を通過しそうである。

みんな、この法案のことをいったいどのくらい理解しているのだろう・・・
政府は、委員会で30時間審議した、もう十分だ、と言うつもりだろうが、このような曖昧な、
しかも、現在から将来にわたって大きな禍根を残すことになるかも知れない法案を、
わずか30時間の審議、それも、皆様ご存じのように法務大臣自体が法案を本当に
理解しているのかどうなのか、へろへろの答弁と、官僚の代弁ばかりでいたずらに
時間をつぶしてしまったそんなお粗末な審議で、通してしまおうとしている。

この法案を通したいと急いでいる人々は、この法が成立しないと、日本は
『国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約』(略称『国際組織犯罪防止条約』
パレルモ条約とも。)に入れない
、と言う。
『テロを含む組織犯罪を未然に防止し、これと戦うための国際協力を可能にするための
この条約を締結することが必要不可欠であります』(安倍首相の演説より)
そして、世界の百数十の国および地域がすでにこれを締結していて、まだ締結していないのは
日本とどこそこだけ、と言うような言い方をして国民を煽る。

だが。本当にこの共謀罪(テロ等準備罪を含む)法が成立しなければ、日本はテロ対策が
出来ないし、国際組織犯罪防止条約にも入れなくて、世界から取り残されていくのだろうか?
そもそも、共謀罪法を通したら、テロ対策はそれで成った、と言えるものなのだろうか?

私たち国民は、わかりやすいプロパガンダに概して弱い。
この共謀罪法を、『テロ対策』と2020年東京オリンピックのため、と言われると、
「ああ、そうか。それはひつようかも」と思い込んでしまいそうである。

だが待ってくださいよ。

5月5日の朝日新聞朝刊にこんな記事が載っていた。
米ノースイースタン大のニコス・パッサス教授は、国際刑法の専門家で、2000年に
国連総会で採択された同条約に関連し、各国が立法作業をするための指針を示した
『立法ガイド』の執筆で中心的役割を担った人であるが、その人自身が、
そもそも、『テロ対策は国際組織犯罪防止条約の目的ではない』と語ったというのだ。
また、条約に加わるために新規の立法が必要なのか、と言う問いに対しては、
『既存法で加盟の条件を満たすのであれば、新法の必要はない』と語ったと言う。

http://www.asahi.com/articles/DA3S12923852.html
朝日新聞の記事は、途中までしか読めない。
だが、5月18日のテレビ朝日系列「報道ステーション」で、この件について詳しくやっていたので
そちらを是非見てほしい。

https://www.asahi.co.jp/webnews/ann_g_000100921.html

こちらの説明から引用しよう。

『「国際組織犯罪防止条約の目的はテロ対策ではない」と明言。条約は、マフィアなどの経済犯罪を取り締まる目的で制定されたもので例外的にテロリストが対象になるのは、資金集めなど金銭的な利益を得る目的で犯罪を行った場合だけだという。パッサス教授は、過激派組織「イスラム国」などに対する制裁措置を定めた国連決議がテロ対策としてすでに機能していると指摘。日本は、国連の主要なテロ対策条約13本についてもすでに批准、法整備まで完了している。パッサス教授は「テロなどの犯罪に対して、現在の法体系で対応できないものは見当たらない」と話す。さらに、「それぞれの国は、完全に条件を満たしていなくても条約を批准することは可能と指摘。「どの国の政府も、国際条約を口実にして国内で優先したい犯罪対策を実現させることは可能。(国内法の整備においては)法の支配にのっとり公正でなくてはいけない。日本国民の意向を反映させるべきだ」と忠告する。


つまり簡単に言うと、今、日本政府が、『テロ防止やオリンピックの安全な開催のためには、
国際組織犯罪防止条約に入らなければならない。そのためには、新しい法を作る必要がある。
(つまり共謀罪法が必要だ)と言って、十分な中身の審議もないままに、国民への十二分な
衆知も図っていないままに、この法案をしゃにむに通そうとしているのは、おかしいと言うことだ。

私は、この共謀罪法案の本質は、テロ対策やオリンピックの名の下に、国家が
国民の言論や思想の自由、集会・結社の自由など、現行憲法で保障された権利を
制限しよう、萎縮させようとしている、というところにあると思っている。

大げさすぎ、恐れすぎじゃない?と思われるだろうか。
だが、それは、自民党の改憲案と比べてみるとよくわかるのだ。現行憲法では、主権者たる国民に、
生存権、自由権などさまざまな権利が保障されているが、それに対し、自民党改憲案では、
いたるところの条項に『公益及び公の秩序に反しない限り』という文言が付け加えられている。

『公の秩序に反しない限り』と言う文言にとりわけ注意してもらいたい。
今共謀罪審議で、何度も何度も『一般人は対象とならない』と法務大臣以下は答弁しているけれど、
『一般人』という言葉の定義は何か。
自分は一般人だから関係ないな、思っている人でも、捜査当局が『公の秩序に反した』と
判断したら、共謀罪の対象になりかねないのが今度の法案なのだ。
とりわけ、国民を縛る意図を秘めた共謀罪法案に関連して、自民党改憲案の中で象徴的なのが、
第二十一条の改憲案である。
現行憲法は、『第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。』
となっているだけだが、自民党改憲案では、
『2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、
並びにそれを目的として結社をすることは、認められない
。』
という条文が付け加えられているのである。

また、第一次安倍政権以来の、この政権の『教育への干渉』の強い意志や、秘密保護法など
を含む諸法・諸制度の改悪の方向を合わせて考えると、よりはっきり見えてくるものである。

私は、デモなどにも行かないし、一切の危ない政治活動などはしないから、共謀罪の
対象になどなり得ない、とお思いだろうか。
だが。本当は、今回の共謀罪法案の怖さは、自分が実際にその対象になるかならないか、
などという問題ではない、と私は考えている。
これは、国民の『知る権利』の問題である。国民が、国家のくびきから自立した存在で
いられるかどうか、というぎりぎりのところで、大きな禍根を残すことになる法案だ、と
考えているのである。

本当は、このことについてしっかりと書かねばならないだろう。次の記事でそれについて書く。

だが、この記事では、ニコス・パッサス氏の言葉に添えて、氏が起草した、当の
国際組織犯罪防止条約のための『立法ガイド』の中の、次の一文を、とりあえず
掲げておこう。

43. 国内法の起草者は、単に条約文を翻訳したり、条約の文言を一字一句逐語的に新しい法律案や法改正案に盛り込むよう企図するよりも、むしろ条約の意味と精神に主眼を置くべきである。法的な防御や他の法律の原則を含め、新しい犯罪の創設および実施は、各締約国に委ねられている(第11条6項)。したがって、国内法の起草者は、新しい法が国内の法的な伝統、原則、および基本法と合致するものとなることを確保しなければならない。これによって、新しい規定の解釈において裁判所や裁判官の違いにより対立や不確定要素が生じる危険性を回避することができる。


今度この政権が無理矢理通そうとしている『共謀罪法』は、犯罪実行前の幅広い摘発を、
それも捜査当局の恣意を許す恐れのある危ういものだ。本来、日本の刑法は、実行後の
処罰を原則としてきた(既遂処罰原則)のに、この共謀罪法案は、その日本の刑法の体系を
大きく変えるものになっている。
上記に引用した『立法ガイド』の、『国内法の起草者は、新しい法が
国内の法的な伝統、原則、および基本法と合致するものとなることを確保しなければならない』
とする、その『国内の法的な伝統』と合致しないどころか、国内法の体系を根本から
破壊する恐れさえある法
だと私は思う。
さらに。
同じく上記立法ガイドで、『基本法と合致するものとなることを確保しなければならない』とある
その基本法、すなわち、日本にとっては『日本国憲法』の保障する
国民の内心の自由までもを奪いかねない醜悪かつ稀代の悪法を、
私たちの国は今、通してしまおうとしているのだと
言うことを
しっかりとここで言っておきたい。


『立法ガイド』の訳文は、こちらのサイトからお借りしました。
『国連立法ガイド』を読んでみよう
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/8f36e10fcd09bb4e6962c52da297b697


(この記事続く)







『キャンドル・ナイト 74』

74回目のキャンドル・ナイトだ。


政治が、あまりにもひどい。

東日本大震災がおきたことが、『東北でまだよかった』、と言った前復興相、今村氏。
その言葉を思い出すと、今でも怒りで体が震えてくる・・・
彼の頭の中には、失われた一つ一つの命の重みの事や、残された人々の悲しみなどなく、
あの悲劇を、復興にかかる金銭の大小でしか捉えられないのであろう・・・

今年、3月11日の震災追悼の式典で、『福島第一原発事故』の文言を意図的に言わなかった、
この国の首相。
『福島第一原発事故』という事実そのものを、人々の記憶から消したがっているとしか
思えない。
同じく前復興相の今村氏が、福島第一原発事故で自主避難した人々の支援のことを記者に
質問されて、『勝手に逃げたのだから、自己責任だ』というような趣旨の発言をして、なおも
質問を続ける記者にぶち切れた、あの大臣にあるまじき言動と姿。
今村前復興相の度重なる暴言は、何もかの人物の個人的資質によるもののみではなく、
安倍政権というこの国の今の権力機構の、基本姿勢が表に出ただけなのだと私などは
考えている。

国民がまだまだその中身さえよく理解していない危険な『共謀罪』法案を、わずかに30時間
程度の国会審議で、採決に持ち込もうとしているこの政権。
改めて記事にしようと思っているけれども、自民党総裁という立場と一国の代表であり
責任の頂点にいる内閣総理大臣としての立場とを、自分の都合で姑息に使い分けて、
自らの個人的悲願である『改憲』について、国会の場で正々堂々と語ろうとせず、
詳しくは『読売新聞に書いてあるからそれを読め』と、恥ずかしげもなく言う、首相。

『読売新聞』は、国の機関誌ででもあるのか?????!!!!!
読売新聞をとっていない国民には、説明責任を放棄したも同然ではないか。
この政権の、政治の私物化は、本当にひどい!!!!!

しかし、そのひどい政治を『ひどい』と言える者が、いなくなっていきつつあるのだ・・・
この国に満ちていきつつある『無用の忖度』と『あきらめ』。






・・・・・・溜息つきつつ、今夜も、小さなろうそくを灯す。
そばに添えたのは、可愛らしいピンクのカンパニュラの花だ。




キャンドル・ナイト74 ③


キャンドル・ナイト 74 ②


まあ!なんと、完璧な愛らしさなんだろう!
なんと、完璧なフォルムなんだろう!と思って、しげしげと見入ってしまう・・・





最近の私は、ほぼ終日、主人のベッドのそばにいる。
細々とした用事があるからだ・・・
そして、ほぼ一日、一緒にテレビを見ている・・・
その中身について、ぼそぼそと語り合う。
クイズ番組などは一緒にやる・・・

でも、私は、ぼうっとテレビだけ見ていることの出来ない人間なので、この頃は、編み物を
持ち込んで、棒針をせっせと動かしながら、テレビ画面にも目をやる・・・
今は、自分のセーターを編んでいる。木綿糸で、梅雨の少し肌寒い頃にも着られるように。
と言っても、着て出かけるところもないので、ただ編むために編んでいる感じだ・・・

こう・・・惻々とした悲しみが、常に胸の奥のどこかにある感じ。
だから、主人といる部屋には綺麗な花を欠かさないようにしている・・・

キャンドル・ナイトのこのカンパニュラの花も、主人のベッド脇に飾った中から一輪だけ
取り分けたものだ。



キャンドル・ナイト74 ④




庭に今いっぱい咲いているムラサキツユクサも少し切ってきて一緒に挿してある。

カンパニュラ。二本で298円だった。
でも、こんなに花がいっぱい。

これまで、この花を買ってきたことあまりなかったし、しげしげとこの花を見たこともなかった
のだが、改めてよく見ていると、本当に愛らしい花である。
朝。カーテンを開けるとき、ここ数日は、この子たちに『可愛いね』と必ず声かけする。

狭い庭だが、もうすぐ、『キリ・テ・カナワ』という歌姫の名のクレマチスも咲くし、
素晴らしい強香性の白バラ、『ホワイト・クリスマス』のつぼみも大きくなっている・・・
今は、花たちを見ているときが一番楽しい・・・


3月頃は、お婿さんが作ってきて、娘と共に取り付けてくれた、小鳥の餌台にやってくる
シジュウカラなどを見ているときが、一番心が安まったし。



餌場にきたシジュウカラ


よく出来た餌台でしょう。
表札代わりに、小さな雀の絵の飾りまでつけてくれてあります・・・




チューリップ 74



玄関には、こんな花も飾ってある・・・

これは、今年、我が家で咲いたチューリップだ。
添えてあるヤツデの葉っぱは、庭中いたる所に自生してくるし。



ささやかに小鳥や花たち・・・を眺めて暮らす。

そういう自分の心が弱っているのを自覚はしているが、これはこれでいいような気もする。


やむにやまれぬ義憤と、愛らしいものたちをめでる気持ちは、同じところからきているからだ・・・
















南亭さんバナー②




心ひとつに キャンドルナイト








葉っぱさん、れんげちゃん。NANTEIさん。
今月もバナーお借りします。
 








『日本国憲法施行の日に』

一昨日5月3日は、日本国憲法が施行されて70年目の日だった。
昨年の5月3日。私は、江東区有明にある東京臨海広域防災公園で開かれた、
憲法を守る『5・3憲法集会』に行っていたんだった・・・
だが、今年は、そういうことも出来なくなってしまった・・・家を空けられなくなったからである。
今年も同じ場所で行われた憲法集会の様子をテレビなどの報道で見ながら、複雑さと
寂しさの入り混じった思いでいた・・・

集会やデモなどには出られなくても、私に出来る、改憲への動きに対する断固抗議の
表明は、やっぱりきちんとしておかなくては・・・。
言うべきときに物言わず、一生後悔するような愚は繰り返したくない。

今、衆参両院では、『静かな環境』のもと(国民の目に見えにくいということと同義だ)、
憲法審査会で、憲法のどこを改訂するのかなどということが話し合われている・・・
この3日には、安倍晋三首相は、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と表明。
改正項目として9条を挙げて『1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方
を示した。いよいよ。首相が、改憲に、具体的に、表だって、動き出してきた!!!
衆参両院における改憲発議のための要件である三分の二、という議席を獲得してからは、
もう、何も遠慮することはなくなっている。

私たち国民は、いつまで知らん顔を決め込んでいる???
憲法は、私たちの暮らしだけでなく、生き方そのものをがらりと変える力を持っているのですよ!


私は、昨年の11月3日。現日本国憲法が公布されて69年目の日に、こんな記事を書いている。
『日本国憲法公布の日に』
もう一度、いや、何度でも、再掲したい。
憲法が『改悪』されてからでは遅いのだから。


                     ***


         『日本国憲法公布の日に』
             (これは、2016年11月3日に書いた記事の再掲です)


こんな調査のデータがある。
ご覧になったことおありだろうか。


世界の憲法に謳われている権利ランキング


これは、今からちょうど4年半前、2012年5月3日付の朝日新聞に載っていた
記事中のデータである。
本文を、下の方に引用させていただくが、簡単に言うとこういうことだ。

                   ***  

2012年、ワシントン大学(米ミズーリ州)のデービッド・ロー教授と、バージニア大学の
ミラ・バースティーグ准教授が、成文化された世界のすべての憲法188カ国分を分析した。
第2次大戦後の1946年から2006年まで、各国憲法の改正や独立国の新憲法をチェックし、
国民の権利とその保障の仕組みを項目ごとにデータ化。国際的な変化が年代別に分かるように
した
のである。
上の表は、その結果のうち、日本とアメリカを比較したもの。

少し説明しよう。
ご存じのように、私たちの日本国憲法は、今からちょうど70年前の1946年11月3日に
公布され、翌年1947年の5月3日に施行された。
私たちの憲法は要するに今から70年前に作られたのだが、信教の自由、報道・表現の自由、
平等の保障、集会の権利、団結権、女性の権利、移動の自由の権利、労働権…などなど
以上にあげた国民の諸権利を、70年前にすでに憲法で国民に保障している、
極めて先見性に富んだものであって、それは今も、世界の憲法の最先端を行っている、
ということなのである。


アメリカの合衆国憲法と比べてみよう。
アメリカ合衆国憲法では、日本国憲法で保障されている『団結権』『女性の権利』
『移動の自由』『労働権』『教育の権利』『違憲立法審査権』『身体的権利』などが
2012年のこの時点でまだ成文化されていないのである!


横軸に、『1946年』『1976年』『2006年』とあるが、この下の数字列が何を意味するかというと、
たとえば、『女性の権利』でいえば、1946年の時点では、世界の憲法中、それを
明文化してある割合は35%しかなかった、ということである。ところが1976年には70%、
2006年には91%の国で、憲法に『女性の権利』が謳われることになった、ということである。
『身体的権利』については、いまだに79%の国でしか憲法で保障されていない。
日本ではどうか。

奴隷的拘束・苦役からの自由(18条)
適正手続を受ける権利(31条)
不法な身体拘束からの自由(33条)
理由の告知・弁護人依頼権を与えられなければ抑留・拘禁されない権利,正当な理由なく拘留されない権利(34条)
令状がなければ住居侵入・捜索・押収されない権利(35条)
拷問・残虐な刑を受けない権利(36条)
公平な裁判所の迅速な公開の刑事裁判を受ける権利,刑事被告人の証人審問権,弁護人依頼権(37条)
自己に不利益な供述を強制されない権利(38条


…こんなに多くの条項で、国民が不当に身体的拘束を受けないよう、憲法で守っているのである!
既に70年も前に。
『アメリカから押し付けられた恥ずかしい憲法である!』、と、今、一部の人々が
これを根本から変えてしまおうとしている私たちの現行憲法は。


最後の60番目に挙げられている『武装する権利』のところを見てみようか。
当然アメリカは、憲法でこれを保障している。だが日本では、ご存じのように、憲法第9条
で不戦の誓いをし、『戦力はこれを保持しない』と謳っているので、この項目は×印に
なっている。
今、自衛隊を今のあいまいな位置づけから『国防軍』と明確に位置づけ、内閣総理大臣を
その最高指揮官と位置付け、国民にも国とともに国土を守ることを義務付けした
憲法草案が、自民党によって出されている。
『軍隊を持つ普通の国』と、総理やその周辺の人々などは盛んに言うが、しかし、
この表を見ると、憲法で『武装する権利』を明文化などしている国は、世界の188カ国中、
わずかに2%しかないのである!
しかも、それは、1946年の10%から、2006年の2%へと、減ってきているのである!



               ***

この調査は、今日本を分断する『護憲か改憲か』、などという二項対立から全く離れたところで、
アメリカの大学教授たちが客観的に行った調査である。
『日本では、米国の「押しつけ」憲法を捨てて、自主憲法をつくるべきだという議論もあるが』
という問いに対して、デーヴィッド・ロー教授の言った言葉。
『奇妙なことだ。日本の憲法が変わらずにきた最大の理由は、国民の自主的な支持が強固
だったから。経済発展と平和の維持に貢献してきた成功モデル。それをあえて変更する
政争の道を選ばなかったのは、日本人の賢明さではないでしょうか』




この言葉を、改憲を目指す政府与党だけでなく、憲法のことをあまり考える機会の少ない
国民全員に、11月3日というこの日に、もう一度しっかり噛みしめてもらいたいと、私は思う。

確かに、ドイツ、カナダなど、憲法の条文を何回も変えて、時代や環境に合わせるように
改善してきた国はたくさんある。
だが。 これらの国々に見る通り、

憲法をもし変えるのであれば、前のものより優れた
ものになっていなければならないはずだ。

およそ先進国とも名乗る国で、憲法を改悪する国などどこにあろう。

世界にこうして誇れる私たちの日本国憲法が70年前に公布された
この日が、それを時代に逆行する悪法に変えようとしている勢力によって、
復古主義的な『明治の日』に変えられることなど、私は断固として反対する。



               ***


   『日本国憲法、今も最先端 米法学者ら、188カ国を分析』
                  2012年5月3日付「朝日新聞」          
世界に民主化を説く米国の憲法は、急速に時代遅れになっている。一方、日本の憲法は今でも先進モデル――。米国の法学者たちが世界の国々の憲法をデータ化して分析した結果だ。日本の憲法は3日、「65歳」になるが、世界の最新版と比べても遜色がない。
■最古の米国、時代遅れに
 分析したのは、ワシントン大学(米ミズーリ州)のデービッド・ロー教授と、バージニア大学のミラ・バースティーグ准教授。対象は成文化された世界のすべての憲法188カ国分。
 第2次大戦後の1946年から2006年まで、各国憲法の改正や独立国の新憲法をチェックし、国民の権利とその保障の仕組みを項目ごとにデータ化。国際的な変化が年代別に分かるようにした。
 それを見れば、時代とともに新しい人権の概念が生まれ、明文化された流れが読める。たとえば、女性の権利をうたった憲法は1946年は世界の35%だけだったのが06年は91%に、移動の自由も50%から88%に達した。最近では、お年寄りの権利も上昇中だ。
 国別に見ると、国際情勢の断面が浮かぶ。独立後間もない18世紀に定めた世界最古の成文憲法を抱える米国は、長らく民主憲法の代表モデルとされてきた。だが、この研究の結果、特に1980年代以降、世界の流れから取り残される「孤立」傾向が確認された。
 女性の権利や移動の自由のほか、教育や労働組合の権利など、今では世界の7割以上が盛る基本的な権利がいまだに明文化されていない。一方で、武装する権利という世界の2%しかない「絶滅」寸前の条文を大切に守り続けている。
 米連邦最高裁判所のギンズバーグ判事は、民衆革命を昨年春に遂げたエジプトを訪ねた際、地元テレビでこう語った。「今から憲法を創設する時、私なら米国の憲法は参考にしない」。憲法の番人である最高裁判事自らが時代遅れを認めた発言として注目された。
 米国に代わって最先端の規範として頻繁に引用されるのは、82年に権利章典を定めたカナダや、ドイツ、南アフリカ、インド。政治や人権の変化に伴い改廃を加えてきた国々だ。憲法の世界でも、米国の一極支配から、多極化へ移っている現実がうかがえる。
■不朽の先進性、実践次第
 一方、日本。すぐに思い浮かぶ特徴は戦力の不保持と戦争の放棄をうたった9条だが、シカゴ大学のトム・ギンズバーグ教授によると、一部でも似た条文をもった国は、ドイツのほか、コスタリカ、クウェート、アゼルバイジャン、バングラデシュ、ハンガリーなどけっこう例がある。
 世界から見ると、日本の最大の特徴は、改正されず手つかずで生き続けた長さだ。同教授によると、現存する憲法の中では「最高齢」だ。歴史的に見ても、19~20世紀前半のイタリアとウルグアイに次いで史上3番目だという。
130502kenpou  だからといって内容が古びているわけではない。むしろ逆で、世界でいま主流になった人権の上位19項目までをすべて満たす先進ぶり。人気項目を網羅的に備えた標準モデルとしては、カナダさえも上回る。バースティーグ氏は「65年も前に画期的な人権の先取りをした、とてもユニークな憲法といえる」と話す。
 ただ、憲法がその内容を現実の政治にどれほど反映しているかは別の問題だ。同氏らの分析では、皮肉なことに、独裁で知られるアフリカなどの一部の国々も、国際人権規約などと同様の文言を盛り込んでいるケースが増えている。
 「同じ条文であっても、どう実践するかは国ごとに違う。世界の憲法は時代とともに均一化の方向に動いているが、人権と民主化のばらつきは今も大きい」。確かに日本でも、女性の権利は65年前から保障されてはいても、実際の社会進出はほかの先進国と比べて鈍い。逆に9条をめぐっては、いわゆる「解釈改憲」を重ねることで、自衛隊の創設拡大や海外派遣などの政策を積み上げてきた。
 日本では、米国の「押しつけ」憲法を捨てて、自主憲法をつくるべきだという議論もある。それについてロー氏は「奇妙なことだ」と語る。「日本の憲法が変わらずにきた最大の理由は、国民の自主的な支持が強固だったから。経済発展と平和の維持に貢献してきた成功モデル。それをあえて変更する政争の道を選ばなかったのは、日本人の賢明さではないでしょうか」(ワシントン=立野純二)」



『あなたの明日を選ぶ』


『 (略)・・・ニュースピーク〈二重思考〉過去の可変性。彼は、自分自身も怪物になっている
奇怪な世界で道を失ったまま、海底の森のなかをさまよっているような気がした。一人ぼっち
だった。過去は死に、未来は想像の外今生きている人間がたとえ一人でも自分の味方に
なるという保証がどこにあるというのだ?
 そして、党の支配が決して永遠には続かないなどと
どうやったら知ることができるというのだ?
 そうした問いに答えるかのように、真理省の白い
壁面に掲げられた三つのスローガンが再び目に飛び込んできた。

 戦争は平和なり
 自由は隷属なり
 無知は力なり』
  



             ***


上の文は、今から68年前の1949年、第二次世界大戦が終わった2年後に、あるイギリスの作家が
出した小説の中の一節の引用である・・・。

なんという題名の本かなどということを明かす前に、引用文中の赤字部分の言葉の
説明をしておこう。なぜなら、これらの言葉は、このフィクションの中で創設された言葉
でありこの本が描く世界の中心概念だから、であって、これらを理解すれば、およそ
この本の概要も読まずともつかめ(読み通すにはあまりにも暗い本である!)、また
私のこの記事の主題もこの中にあるからである。

①『ニュースピーク』(new speak) : この小説の舞台となっている(架空の)国家『オセアニア』
    における公用語。この国家の掲げるイデオロギーにとって『異端』であり国家支配のために
    邪魔な思考を、ひとびとの思念そのものから排除するために改変された新語法。
    国家にとって好ましくない旧来の語彙はすべて削除されている。人々に科学的思考を
    もたらさないよう、science(科学)などという言葉自体が抹殺され、democracy(民主主義)などと
    いう語も、もはや存在しない。
    残された語彙でも、好ましくない意味は改変あるいは縮小されてしまっている。
    たとえば、『free』という言葉は、もはや『政治的に自由な』『知的に自由な』などという意味は
    抹消され、『この犬はシラミから自由である』というような使われ方しかしない。
    ニュースピークは、人々の思考を『縮小』させ愚民化して、国家による管理を
    さらにしやすくするために考案されたものである


②『二重思考』(doublethink): 矛盾した2つの概念も同時に受け入れる ことができるという
   オセアニア国民に要求される思考能力。たとえば、権力者が『2足す2は5である』、
   『これは黒だ!』と言えば、国民は、『これはどうしたって白だろう』と思う、その
   自分の本来正しいと思う現実認識さえも自己規制して、それを信じるようにならねば
   この国家で生きていくことが許されない。
   権力の求める思想に背くことは許されない。人々は、どこにいようが、その内面まで
   テレスクリーンという一種の双方向テレビや思想警察によって常時監視されている。

   反体制分子とされるものは過酷な尋問拷問にかけられる。そうして最終的に
   真に内面までも党を愛するようにならなければ、処刑抹殺される。この国では
   もはや、『思想・良心の自由』などと言うものは存在しない。『内面・思考の自由』すら
   監視・統制されている。
   その監視を行っているのが、『愛情省』である。

③『過去の可変性』:ニュースピークの元では、好ましくない旧来の語彙がめまぐるしく削除改変
   されていくので、過去の書物や記録も、常時上書きが行われている。これにより、権力にとって
   好ましくない過去は、記録からも、人々の記憶からも抹殺されて『そもそもなかった
』ことに
   されてしまう。その過去の改ざん、また現実の糊塗を、大々的組織的に担当しているのが
   『真理省』である。



              ***


どうだろうか。これは、70年近く前の近未来小説なのであるが、世界が今、向かっていこうと
している社会を創造させて、私にはそら恐ろしい。

この引用文は、イギリス、ジョージ・オーウェル作のディストピア(ユートピアの逆。暗黒境)
小説、『1984年』である。
(ハヤカワepi文庫、高橋和久訳による)
世界が大きな三つの全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描く。


CIMG7201.jpg
 (表紙についた白い埃のように見えるのものは、そういうデザインです。念のため。><)



正直に言えば、実はこのオーウェルの小説は、彼が1936年、スペイン内戦で
共和政府の義勇軍に参加したとき、共和制を守りファシズムと戦うという本義を
そっちのけに、派閥争い、主導権争いを繰り広げたスターリニズムの粛清の実態を
見て、ソ連型社会主義に対する憎悪と批判を抱くようになった、一種の『反共小説』
なのだと言われている。
だが、全体主義の恐怖は、何も共産主義社会に限らない。民主主義を標榜し、
自由主義社会と名乗る国家にだって、全体主義の思想はあっという間にはびこっていく
ものである・・・
オーウェルは、決して、単なる『反共主義』などという括りに入れられるようなそんなものを
目指して、この恐ろしい小説を書いたのではないと、私は思っている。
彼が描いたディストピア(暗黒世界)の萌芽は、至るところに現在も見られるものなのである。
オーウェルが設定した1984年はとっくに過ぎてしまったけれど、その30年後の今、
この空想小説が描く暗い世界に私たちは近づいているようで、この10行に満たない引用
の中にさえ、オーウェルがこんな世界を来させたくないと想像したディストピアと私たちの
選ぼうとしている世界のいやな近似が見られるのである。
白を黒と言い含められ、内心『白ではないのかな』と思いつつも、支配者が『これは黒だ!』
と言えば、『そうか。黒なのか・・・』と納得するしかない、『二重思考』の世界は、
ああ!トランプ政権の言い草ややりくちと、なんと酷似しているのであろう!
明らかにオバマ大統領の就任式よりは少ない会衆の数を、『史上最大の聴衆だった!』
と報道官に言わしめ、それを記者らに事実誤認ではないかと追及されると、トランプ新政権の
大統領顧問ケリーアン・コンウェイ氏はそれを『オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)』
だ』と言って、言い抜ける・・・。

『オルタナティブ・ファクト』という言葉と共に、アメリカでは、このオーウェルの『1984年』
が、元々学生たちの必読図書ではあったのだが、それを超えて、書店で大きな売り上げを
示しAmazonでは売り上げ一位になったという・・・。

アメリカなど海外の話だとばかり言って済ませてはいられない。
この小説が描くディストピア世界を、この日本が、先進国の中で一番早くしかも深刻に、
潜在的に招来しつつあるのではないかと、私は思っているのだ。

ニュー・スピーク。権力者に都合の悪い言語をとことん削っていって、言語そのものを
単純化、目的のための手段化してしまう、ということは、この日本で気がつかぬうちに
実は進められていることである。あるいは、私たち国民自身が自ら好んで進めていって
いることではないのか。
そんな馬鹿な!とお思いだろうか。
では。この政権下で文科省が強力に押し進めている、国立大学の人文・社会科学系
学部・学科の規模縮小化、という流れはどうであろうか。
小泉政権、第一次、第二次安倍政権・・・で進められている国立大学への『交付金』
という名の締め付けで、人文・社会科学系学部の哲学科や社会学科、史学科、宗教学科など、
また理系学部でも基礎数学、基礎工学などの、経済効果とすぐに結びつかない学問は、
この国では規模縮小どころか存廃の危機にさらされている・・・

『哲学科』などがなぜ大事なのか、と問う人もいるだろうか。
私自身も哲学という学問には全く弱い。古今の哲学者の著作も全く読んでいない。
だが。哲学、基礎数学など、そうした学問の重要性はとてもよく認識しているつもりである。
哲学は、あらゆる学問の女王である、とも言われているそうだ。
それはなぜか。
・・・今、『なぜか』と私は問うた。・・・まさにそこだ。
哲学は、『何故か』を問う。基礎数学もそうだ。
哲学や倫理学、宗教学、基礎数学などが大事なのは、それらが、人間の思考を鍛え上げる
学問だから、である。人間の認識そのものを問う学問だからだ。宇宙を含めた『存在』
そのものを問う学問、といってもいい。
史学や社会学も言ってみればそうだ。人間とは何か。人間はどう生きてきたのか・・・。
今どう生きているのか・・・。

日本でそのような学問の教育の場が縮小されていきつつあり、また学生自身も
そのような基礎的学問の重要性をあまり理解していないのではないかと思われ、
就職に有利な実利的学部学科を専攻する傾向があるのに対し、たとえばアメリカの
理工学部出身者は、大学院で専門科目を学んだのち、あるいはそれと同時に、
人文教養学系の学部に入り直して、哲学などを学ぶものが多いという。
それは、彼らの専門とする理工学をさらに極めていくためにも、科学系にこだわらない
幅広い視野や深い視点を身につけるのに、こうした人文教養系学問分野の重要性を
彼らが理解しているからである・・・
フランスでは、高校において哲学は必修科目であるという。(日本では『倫理』は
社会科選択科目の一つであり、文科省資料によれば、その履修率は、わずかに37%)

こんなドキュメンタリー映画がある。
フランスのセーヌ地方のZEP(教育優先地区)にあるジャック・プレヴェール幼稚園。
そこでは、3歳~5歳の子どもたちが哲学を学ぶという世界的に見ても画期的な取り組みが
行われていたのだが、これは、その様子を2年間にわたって密着取材したドキュメンタリー映画
なのである。
まずはなにも言わない。予告編だけでも十分である。是非見てほしい。





一方、ほぼ同じ年齢の子供たちの通う、日本の森友学園の幼稚園では、教育勅語を
子供たちに暗唱させる。いったん事あれば天皇のために臣民は命を投げ出せ、と言うものだ。
これを日本の安倍政権は、憲法や教育基本法に反しない範囲であれば、道徳など
教育の場で使っていいと、閣議決定までしてその復活を無理矢理認めてしまった。
そしてこの幼稚園では、子供たちに運動会の宣誓で、こんなことまで言わせている
のである。

大人の人たちは、日本がほかの国々に負けぬよう 尖閣諸島、竹島、北方領土を
守り 日本を悪者として扱っている中国 韓国が心改め 歴史教科書で嘘を教えないよう
お願いいたします

そして、子供たちはさらに、『安倍首相ガンバレ!安倍首相ガンバレ! 安保法制
国会通過よかったです!』
と、大きな声で叫ぶのである!




無論、子供たちに罪はない。大人が言えといって言わせているだけだ。
しかし・・・上のフランスの幼稚園と、なんという違いであろう!

ジャック・プレヴェール幼稚園の哲学の時間。
『みんなは頭の中で何かをする』と、先生が言う。すると、一人の小さな子が手を上げて、
『考える!』と答えるのである。先生は言う。『言葉を出して話すんだ』と。
これは、3~5歳の子が、すでに、『人間は「ことば」を使って思考する』という認識に
近づいていると言うことを示しているのだ。・・・すごいことじゃないか?

一人の子は、『貧しい人はどうやって貧しくなるの?』とつぶやく・・・

また。『愛』についてみんなで考えようとしているとき、一人の子が『結婚はよくない』と
つぶやくと、別の子が、揶揄するようにブーイングのような声を出すのだ。すると、
もう一人別な子が、『彼の話を聞けよ』と言ってたしなめるのである。
先生は別の場で言う。 『人と意見がちがうこともあるの』と。
子供たちはここで、人の考えにはいろいろあること。その多様性を認めることを
自然に学んでいく。と言うより、自分たちで考えて見つけていくのである・・・・・・

森友学園の教育方針がどうあろうが、それも多様な考えの一つであると言うことは
認めよう。だが、大人たちがまだ幼い子供たちに、教育勅語を丸暗記させ、特定の
国への排他的表現を、あろうことか幼稚園の運動会の子供たちの宣誓の代わりに
言わせる・・・
安倍総理ガンバレ!と、そんな場で言わせる・・・

あなたは、自分の子供たちを、どちらの幼稚園に入れたいと思うだろうか・・・
それも、選択は自由である。

(余談だが、『ジャック・プレヴェール』は、フランスの詩人で、あの有名なシャンソン
『枯葉』の詩を書いたひと。また、『天井桟敷』のシナリオを書いた人でもある。
フランスでは、国語教育が重視され、子供たちにヴィクトル・ユーゴーやラ・フォンテーヌの詩など、
古今の詩や小説の名作の暗唱をさせるそうだ。フランスの誇る詩人の名を冠する
幼稚園と・・・教育勅語を暗唱させ・・・あとは言うまい。)



だが。
一国の総理、およびその夫人が、このように特定の教育思想を持つ学園に共感し、
森友問題が報道で大きく取り上げられるようになるまでは、それを褒め称えるような言を
公に述べていたこと。
しかも、夫人が、この森友学園に新設される予定だった小学校の名誉校長に
なることを頼まれて、結局、問題が大きくなるまではそれを良しとしていたこと。
総理本人も、きっぱり断りはしたらしいが(それは信じたいが。)その小学校に
『安倍晋三記念小学校』と言う名前を籠池氏側がつけたのが、寄付金集めなどに
利用されたことなど、こういうことが、国民みんなの代表であって、国全体を預かる
総理大臣およびその夫人によって為されていったいいいのであろうか?!

国家公務員法』
第七節 服 務
(服務の根本基準)
第九六条 すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、
且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。

また、日本国憲法第三章
第十五条第二項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。



内閣総理大臣は、国家公務員法第二条第三項に掲げられている通り、立派に
国家公務員である。
国家公務員に『一般職』と『特別職』があるうちの『特別職』に
あたる。
つまり、内閣総理大臣も、すべての公務員同様、
『全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。』のである!

安倍総理およびその夫人が、特定の思想を持つ一学園に、過剰に見える肩入れを
していると国民に思わせるような言動は、厳に慎まねばならないのではなかろうか。
私は、森友学園問題の、問題の本質は、ここにこそあると思っている。

森友学園に対する国有地払い下げに関する一連の異常に見えるほどの優遇ぶりは、
そこから派生した問題に過ぎない。
この問題に関する安倍総理夫妻の罪はおそらく問えないであろう。
昨日、安倍氏は、東京・銀座の松坂屋銀座店跡地に完成した複合商業施設「GINZA SIX」
のオープニングセレモニーの挨拶で、そこに山口県の物産があるかどうかについて、
『おそらくあるんだろうと思います。よく私が申し上げたことを忖度していただきたい』
と、『忖度』という問題の語を逆手にとって冗談にして言った。それは大いに笑いを誘った・・・

『私が申し上げたことを忖度していただきたい』
なんという傲慢、なんという思い上がりであろう!今の今、こんな言葉、冗談になるものか。

『忖度』。
権力者の周りにいる者が、権力者の意を『忖度』して、つまりその意を汲んで、
権力者の暗に希望することを叶える・・・
今回、森友問題に関し、また、安倍昭恵氏の私的か公的かは知らぬが活動に関連し、
財務省、大阪府などの官僚、公務員を巻き込んで、おそらく数え切れないほどの
『忖度』が行われたのではないかと、疑われているこのときにこの冗談、である。

国家公務員としての安倍総理、また財務省などの官僚、大阪府の職員・・・

『すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない』
という日本国憲法、国家公務員法に、彼らは違反してはいないのだろうか?
『忖度』する罪。またその『忖度』を当たり前のことのように阿吽の呼吸で促し受ける罪・・・
これは罪になるであろうか。法律上の罪を問えるであろうか。
・・・おそらく問えまい。明確な証拠でもない限りは・・・
だが。倫理的、道義的罪は、明らかにそこに存在しうる、と私は思っている。
一国の代表などという権力者が、ある意向を持つ・・・当然周囲はそれを『忖度』するのである。
『忖度』は、明らかな命令などとは違い、法的拘束力も持たない、責任の所在もわからなく
なってしまう不明確なものである。
だが、『忖度』は、時に『命令』と同様に、一国の政治をも動かしてしまいかねない怖い力を
持つものである。
みんなが権力に『忖度』するように社会がなってしまったとしたら・・・それがまさに
オーウェルがここで描くディストピア・・・暗黒の世界である。

              ***


『倫理』『哲学』の問題と、ジョージ・オーウェル『1984年』の話に戻ろう。

日本では、国立大学の文系、社会科学系統の学部・学科が、政府の政策として
縮小化、ひどい場合には、存続の危機にまで至りそうな状況である一方で、フランスの
幼稚園では、『哲学』の問題を、3~5歳の子供たちに考えさせてみる・・・。
そしてそこでは子供たちが、『人間は、「ことば」でものを考えるのだ』という認識に
近いものを得る!
なんという違いであろうか。

『言葉』への深い興味と、厳密な『言葉の定義』への関心や畏れなくしては、これらの
学問は成り立たない。
なぜなら、人間の思考は、まさに、『言葉そのもの』によって行われているからである。
私たちは黙っていても、常に『言葉』を使ってものを考え感じている・・・

『言葉』をないがしろにする政治、言葉を扱う基礎的学問を軽視する政治は、
オーウェルの極端に描いた、ニュースピークの世界・・・支配者にとって都合のいい言語だけを
国民に使わせるようにし、国民に思考を促すような無駄な言葉は徹底的に抹殺する
ディストピアと、その醜悪さにおいてどこがいったい異なるだろう?

一方国民の側も、ニュースピークもどきの言語統制を、自ら進んで受け入れるという
素地が、ひょっとしてすでに身についてしまってはいないだろうか?
面倒くさい思考を避ける・・・自分に関係したことにしか興味がない・・・手っ取り早く
必要なだけの情報が得られればとりあえずそれでいい・・・

先日朝日新聞に、『大人は本を読め読めと言うが、何故本を読まなければならないのかわからない』
という若者の投書について、読書は必要、必ずしも必要ない、双方の意見が載せられていた。
確かに今は、スマホやその他便利な情報機器で、手っ取り早く必要な情報は簡単に得られる。
読書など必要ない、と言われれば確かにそうで、読書しなくても人間は生きていける。
読書はするが、難しいものは読みたくない、というのもわかる。

だが。私は、読書というものは、一つの、精神の格闘であると思うのだ。
ぱっと読んだだけではすぐには理解できない文を、ぐ~っと集中して読み込む・・・。
知らない語彙も多くあるだろうが、調べて意味を知る。あるいは文の前後関係から意味を
類推してみる・・・
すぐには承服しがたい意見や考え方も、拒否反応してしまうのでなく、といって、『わかるわかる!』
とすぐに同調することがいいというわけでもなく、論旨を追いながら様々な思考回路をたどって
いくことを不断に意識せず訓練することによって、その人の言語能力や思考能力は自然と
鍛えられていく。
なんと、フランスの幼稚園児が、『彼の話を聞けよ!』と諭した、あの知恵!

言語能力を鍛えると言うことは、その人の思考能力や、そして感性までもを研ぎ澄ませていく。
なぜなら、人は、言語によって思考し、言語によってものをより豊かに『感じ』もするからだ。
たとえば、美しい桜を見て、『まじ、やべえ!』と言うのが、言葉を尽くして文学的表現で
花の美しさを語るのに劣るとは決して思わない。それはそれでそのときの正直な感覚の発露だ。
だが、その花を見て美しいと思ったその経験を、自分の中に自分のこととして取り込むとき、
あまりに少ない語彙で、あまりに貧弱な語数でもって収めるしかない、というのは少々
残念ではなかろうか。そういう経験は、その場限りに浅く終わってしまうのではあるまいか。

先日、大岡信氏が亡くなられた。朝日新聞で過去に長らく『折々のうた』という
わずか200字ほどの小さなコラムを続けてこられた・・・。 自ら詩人でもある氏が、
日本の短歌、俳句、漢詩(読み下し)、川柳、近現代詩、歌謡などのなかから、
毎日1つをとりあげ、それに対する解説を行うというものであった・・・。
上で、『どうして読書など必要なのか』という若い人の疑問を取り上げたが、私は、
大岡氏のコラムに、その問いに関する一つの答えがあるのではないか、と思っている・・・
それは、『言葉による再体験の楽しさ』である。

人はどんなに頑張っても、一回きりの人生しか生きられない。
だが。読書は、その一回きりの人生を、二回も三回も・・・ある意味無限に近いほど
生きさせてくれるのである。
それは、過去に生きた人々・・・今を生きているが、遠くにいておそらく一生会うこともない
だろう人々・・・それらの人々の想いを、追体験あるいは再体験させてくれる。
『折々のうた』は、それを、これ以上ないほどに、ぐうっと鮮やかに凝縮して、味わわせて
くれるコラムであった。古今の・・・時空を超えた美しく素晴らしい言葉を、優れた詩人
でもある筆者が選び抜いて、そしてそれに短い解説をつけてくれるのである。
つまり私たち読者は、一つのコラムで、過去の素晴らしい詩などと大岡氏の思念との
両方に同時に出会うことが出来たのである・・・

無論、こうした経験は、読書のみによらずとも、映画や音楽、絵画、旅行、また人と話すこと・・・
あらゆる機会を通じてあらゆる方法で体験できるものではある。
だが、読書、ということは、人間の思考の道具である『言葉』を直接味わう、という点において、
どの手段よりもおそらく人間の感性を鍛え、また、なによりもその範囲が広く、居ながらにして
時空を超えて見知らぬ世界と会える、素晴らしい旅の手段でもあると言えよう。

閑話休題。

言語は、戦う能力でもある。
今、社会は、ニュースピークや、オルタナティブ・ファクトではないが、無法なことも無体なことも、
単純な言葉の繰り返しをとにかく重ねることによって、それが通用してしまう!という、
いわば、『言語の無力時代』に突入しているように私には思えて仕方がない・・・
『テロ対策法案』と繰り返し言えば、当初『テロ』という文言が一つも入っていなかった法案も
なんとなくいいもの必要なもののように国民に受け入れられてしまう時代である。
2020年東京オリンピック、を持ち出せば、なおさらそうかな必要かな、と思わせてしまう。
「テロ対策のために欠かせないと言いながら、『テロ』という文言は入っていないじゃ
ないですか!」と、社民党の福島瑞穂議員に指摘されて慌てて、『テロ』という文言を
文中に付け加えた『組織犯罪処罰法改正案』の本当の目的は、いったい何なのか。
私にはそれは、国民の言論や内心の自由を縛り、縛れないまでも『萎縮』させるという
効果を狙ったもの、国民を操作しやすくするための法案としか思えないのである。
『共謀罪法案』として自民党が何度も提出して、国民の反対を受けて引っ込めてきた
ものだ・・・
かつては、あのおぞましい『治安維持法』として、国民の自由を奪ってきたものと
同じ系列にある・・・

国民は、心して覚えておかなければならない。
言論を縛るような方向に持って行きたがる政権などというものはろくなものであるはずがない。
ましてや『共謀』の罪の範囲を広げてそれを明確に法制化し、国民の内心の自由や
集会結社の自由などという、現行憲法に保障された、人間にとって最も大切なものの
一つである『自由権』を縛る方向に持っていこうとする政権などは、決して選んでは
いけないのである。
同時に、自分たちの利益になるように法や憲法を変えてしまおう
とする政権の時に、彼らに法や憲法をいじらせては絶対にならない!!!


私たちは、内面の自由、考える自由は死守しなければならない。その潜在的力としての
『言語』も、わたしたちは、意識して鍛えておかなければ・・・。


いまの私たち日本人は、そのことにあまりにも無自覚である。
『言語による戦い』の力を放棄した者は、容易に権力の『巧言』によって、
権力によって意図された方向へ誘導されていってしまう危険を潜在的に擁する・・・
北朝鮮の脅威などが高まり日本人の暮らしの安全が致命的に脅かされる危険性の
予感に怯える今のようなときこそ、『テロ対策』などという『言葉』で、私たちは容易に
ある特定の方向へ誘導されていく危険がある。
外部からの危険を煽ることによって、国民の自由を奪う・・・そのような政治手法が
過去どれほど行われてきたことか・・・。
『ナチスの手法に学べ』と冗談のように言ってしまう政治家がこの国の財務大臣であり
副総理を務めているが、まさにナチスの手法がそれだった。
このたびのトルコの改憲の是非を問う国民投票もまた、すでにエルドアン氏によって
反対派が逮捕収監され反対言論も封じ込められた状態の中で行われて、
エルドアンというそれでなくともすでに大きな権力を握る人物に、ますます
大きな権力を一手に握らせることになる道を、国民が自ら選んでしまった・・・
『自分たちの利益になるように法や憲法を変えてしまおうとする政権の時に、
彼らに法や憲法をいじらせては絶対にならない!!!』
という、歴史が教える教訓に、
トルコの人々は耳を貸さなかったのか・・・残念である・・・


さて。『1984年』の描くディストピア。
『過去の可変性』。
『過去は死に、未来は想像の外』


そこでは、権力者が人民を支配していくのに都合の悪い過去は、容赦なく
書き換えられていく・・・
あらゆる文書、書物、あらゆる言動が監視チェックされ、都合の悪いものは『廃棄』
され、あるいは権力に都合のいいようなものに上書きされていく・・・。
過去が丸ごと抹殺され、あるいは書き換えられれば、国民はそもそも過去の事実の
存在さえ知ることがない。知ることがなければ、そもそも疑いも生じない。
真理省の掲げた三つのスローガンのうちの一つ。

『無知は力なり』 

というのはそのことだ。
『知らなければ』国民は迷いさえしない。疑念を抱くこともない。
その過去の情報の抹殺、書き換えを担当するのが、『真理省』
という名であるという強烈な皮肉!
国民を常時監視し、国家のイデオロギーに背くものは呵責なく粛正していく、それを
担当するのが『愛情省』であり、戦争を常時行って、国民の危機感を煽り、それにより
権力の正当化、国民の国家依存を深めていくのを担当するのが、『平和省』
であるのと同じ痛烈な皮肉だ。

ああ・・・・・・!
過去の事実が、時の政権によって恣意的に上書きなどされていいものだろうか??
現在の真実が、政権によって恣意的に国民に隠されていいのだろうか??
安倍政権のやっていることは、それに近い。
昨日の新聞に、こんな目立たぬ記事があった。
江戸時代以降の災害の教訓を将来に伝えるため、政府の中央防災会議の
専門調査会がまとめた報告書を、内閣府がホームページから削除していたと
いうのである。何故削除したのか。
一部に、関東大震災時の『朝鮮人虐殺』についての記述が含まれていて、「なぜこんな
内容が載っているんだ!」というクレームが寄せられたからだという。
そのために、安政の大地震や雲仙普賢岳噴火なども含めた報告書の記載を
すべて取りやめたのだという・・・
ああ!ここでも、何かの『忖度』だ!
(今日の報道で、件の内閣府ホームページが復活したというのが伝えられた。
批判を恐れたのであろう)

TPPの実際の内容を示す大事な文書がほぼ全面黒塗りされ、南スーダンに派遣された
自衛隊の記録もないと言い張られ、森友問題の肝要な記録が早々と官僚によって
すでに破棄されたとされるこの国の政治・・・・・・
国民が『知る権利』を有しているはずの、国政に関する大事な資料も国民に示されない。
・・・もう、『一強』だから何でもあり、だ。





主人公の内心の声。
『今生きている人間がたとえ一人でも自分の味方になるという保証がどこにあるというのだ? 
そして、党の支配が決して永遠には続かないなどとどうやったら知ることができるというのだ?』
という絶望。

共謀罪法案のようなものが可決成立して、この国で動き出せば、警察、検察などの
『国の意を汲む暴走』も起こりうるだろう。
すでに、昨年の参院選の直前に、大分県警別府署が、野党候補を応援する労働組合
「連合大分」などが入る施設の敷地内に入り込んで監視カメラを設置し、建物に
出入りする人々を隠し撮りしていたという事件があった。
共謀罪法案が通れば、こういうことも堂々と行われるようなことになりかねない。
国民自身もまた、常時何かによって監視されていると言うことが当たり前の社会に
なれば、隣人を自ら監視するようになる・・・
そんな、まるで先の戦中のような、国民総・相互監視社会というようなものに似た
心理状態に容易に追い込まれかねないのが、共謀罪法案というものである・・・。

ジョージ・オーウェルの描く暗黒世界に掲げられた三つのスローガン。その一つ。

『自由は隷属なり』

という言葉の怖さを、よく考えてみよう。
共謀罪法案の審議中、安倍総理らは、『一般の人々が対象となることはあり得ない』
と繰り返し言う。
だが、『一般の人々』とはどういう人々なのだろう?
それは、政権の批判など間違ってもしない、政権にとって都合のいい人々だけを
指すことにされてしまいはしないか?
沖縄で、辺野古移設に反対する住民たちはどうだろう?
国会前で、『安保法制反対!』『共謀罪法案反対!』と声を上げている人々はどうだろう?

自由でいるためには権力には逆らわないことだ。そうしていれば何も怖いことはない。
『権力には隷属していれば、私たちは自由だ。何も問題は起こらない』・・・
そういう意味での『一般人は対象とならない』ということなのではないだろうか??

こんな例をテレビの番組でやっていた。
『一般人は対象とならない』と政府は言うが、
『そうか。私は国会前で騒ぎなどしないから、関係ないな』と思う人がいるかもしれないが、
たとえばあなたの住む街で日照権を奪うようなマンション建設問題が起きたらどうか。
あなたは、これは自分の生活に直結した問題だから、『マンション建設反対』の
署名集めをしようと、知り合いなどに声をかける。
だが。中央の政治とは全く関係ない問題であるにもかかわらず、署名用紙を
持ってこられて、『ここにあなたの名前と住所をお願いします』といわれたとき、
『どんなテーマであろうが、自分の名前や住所を書くのは怖いな。誰が今後の
取り締まり強化などに利用するかわからない』と思って、署名をためらう人が
出てくるかもしれない・・・

要するに、国民がいろいろな場面で、『自粛』『忖度』するような、そういう気分になっていくのである。
・・・そうして、国民は、何かを畏れ、萎縮していく・・・

あなたは、そんな危険のある法案を、今、しかも、この政権下で通したいのか?

でもな、テロはやっぱり怖い。
北朝鮮のような恐ろしい国に攻撃されるのは怖い。
だから、やはり、そういうテロや核攻撃などに備える『テロ対策法』は必要なんじゃないの?
私だって、テロリズムや核攻撃は怖いしいやだ。
しかし。
『テロ対策法』なるものによって、本当にテロは防げるのか?
欧州の諸国でテロが起きているが、それらのテロは、それらの国が『テロ対策法』を
持っていなかったから起きたのか? 持っていても起きたのではなかったか。

『テロ対策法があるから、あの程度の頻度で収まっているのだ』
なるほど、そういう考え方も出来るだろう。

ちょうど来日していたアメリカのペンス副大統領は、『平和は力によってのみ初めて達成される』
いい、『(日本など)同盟国と力を通じての平和を達成するために連携したい』と
語った。

ジョージ・オーウェルの『1984年』の描くディストピア世界。そこの三つの
スローガンのまさに一番目は、このペンス氏の発言と同じ
『戦争は平和なり』

である。
安倍総理が、平和学の研究家、ヨハン・ガルトゥング博士が提唱した理念である
『戦争がなく、貧困や抑圧、環境破壊などの構造的暴力もない』世界を『積極的平和』
と名付けたそれを、『米国を始めとする関係国と連携しながら,地域及び国際社会の
平和と安定に積極的に寄与していく』、という国家安全保障の問題にすり替えた、
まさにその『積極的平和主義』こそも、『戦争は平和なり』の観点に立つものである。

自衛隊を海外に派遣して、『駆けつけ警護』までさせるというのが、世界の平和の
役に立つのか。
私はそうではないだろうと思う。
日本には、日本独自の『世界平和への貢献法』があっていい。
私はそれは、世界の問題地域の人々が自分の土地で暮らしていける、そのことを
第一義とした貢献であろうと考える。
そう。ちょうど、医師中村哲さんがアフガニスタンで続けているような活動だ。
だが、その中村さんが必死で現地の人々と共に運河をほぼ人力で切り開き、
不毛の砂漠を緑豊かな農地に変えて、その地に元元いた人々がそこで暮らして
行けるようになっている・・・難民さえも一部、中村さんらの緑の土地の周辺で、
商売など出来るようになっている・・・そのアフガニスタンの大地に、トランプの
アメリカは、核兵器を除けば最大の爆弾であり『すべての爆弾の母』とも呼ばれる
(なんというおぞましいネーミングだ!)MOABを落とし、一説には90人を超える
IS戦闘員が死んだという。
そんな兵器が『平和』をもたらすと、本当に言えるのだろうか??

『戦争は平和なり』という、相矛盾するスローガンには、『武力こそが平和状態をもたらす』
『相互に核武装した状態のように、これ以上お互いに進んでは危ない、という均衡状態をもたらす』
という上記のような意味と、もう一つ別の意味がある。
それは、『戦争状態が近い』『戦争が局地的に現実に行われている』という状態に
持って行くことによって、あるいはそう国民に信じさせることによって、国内の安定を保つ
という意味合いもあるのだ。
なぜなら、そうした状況にあると国民が思うと、あるいは思い込まされると、国民は
時の政府に頼らざるを得ない心理に否応なしになってしまうからである。
今のトルコしかり、そして、問題の北朝鮮しかり。かつての帝国日本しかり・・・。
すなわち、外国と戦争状態にある、その危険にある、と国民が思わされることによって、
国内的には政権が『安定』するのである。

『戦争は平和なり』という、考え方は、実はこの世界に充ち満ちている・・・

だが、威嚇と威嚇が互いにエスカレートしていき、そうした末についに力と力がぶつかり合う・・・
その先にあるものはなんだろう。

最後に、私が古今の名作の一つだと思う映画のラストシーンで流れる曲を載せておこう。
人類にとって、こんな悲しい淋しいうたはない・・・私はそう思う・・・

人類が、力と力の誇示を競ったあげく、偶発または個人の異常な情念などによって、
取り返しのつかぬ悲劇を招いたりすることなど決して起こらないことを祈りつつ。
あなたの・・・私たちの為した選択が、誤りでありませんように・・・







『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』
(1964年。スタンリー・キューブリック監督)より。















プロフィール

彼岸花さん

Author:彼岸花さん
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『しだかれて十薬忿怒の息吐けり』

『南亭雑記』の南亭師から頂戴した句。このブログになんともぴったりな句と思い、使わせていただきます。
十薬とはどくだみのこと。どくだみは踏みしだかれると
鮮烈な香りを発します。その青い香りは、さながら虐げられた若者の体から発する忿怒と抗議のエネルギーのよう。
暑い季節には、この強い歌を入口に掲げて、私も一民衆としての想いを熱く語りましょう。

そして季節は秋。
一足早いけれども、同じく南亭師からいただいた、この冬の句も掲げておきましょう。

『埋火に理不尽を焼べどくだみ荘』

埋火(うずみび)は、寝る前に囲炉裏や火鉢の燠火に灰をかぶせて火が消えてしまわぬようにしておいた炭火などのこと。翌朝またこの小さな火を掻き立てて新たな炭をくべ、朝餉の支度にかかるのです…

ペシャワール会
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国境なき医師団
http://www.msf.or.jp/donate/?grid=header02
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